武士の成立って [無断転載禁止]©2ch.net
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貴族武官か富裕武装農民かのどっちなん?
最近は双方の融合とかばっかりじゃん
"どっちもあり"じゃなくて、はっきりして欲しい >>96 新田義貞も貴族になるね。無位無官だけど。まあ、平氏の祖の高見王も無位無官だからいいか。
だけど、高見王なにして食うてたんやろ? 無位無官で貴族はねぇわ!!
高見王はよう分からんけど,こんな素性のものを祖にしているから清盛も貴族扱いされんとちゃうか? >>102 清和源氏は貞純親王も源経基も官位あったしな。
話はもとに戻すが、義貞が無位無官で正成が官位官職持っていたの? >>101
うーん血統だけでは実は何ともなんだよな(天皇その他古代豪族の末裔を称した連中が多すぎて)
無官(無職w)でも王族は朝廷からいくらか支給はされたという
>>103
鎌倉末の時点で、正成は多聞兵衛を称してたというね。
兵衛尉は幕府御家人がわりと名乗ってたので、楠木氏が御家人ならさほど奇異ではなかろう。
楠木が御家人かはまだ確定してはいないんだろうが、吾妻鏡(頼朝時代)に楠木四郎が登場すること、
高野山の記録で正成?が幕命で湯浅氏と戦ったこと、静岡市に楠木村?郷?があったことなど、可能性はある。
義貞が無位無官といわれるのは、増鏡だとかで単に新田小太郎と書かれたからで、
たとえば幕府の役職を何も持ってなかったかは何ともわからない。
守護(代)・評定衆など偉い役職にはいなかったろうけど。
楠木・新田も、熊谷などより劣位の御家人だったなら、無位無官でもおかしくはなかろう。 王族(皇族よりは広くとらえたいと思う)ゆえに
無位(位階に叙せられない)・無官(誰にも仕えない)だった可能性もないではないと思う。
宇多天皇は源姓をもらって源定省となった時期があったが、
彼が天皇になれたのは生涯を通じて宮仕えしたことがほとんどなかった=ほとんど誰にも仕えてないから、
天皇になるのに好都合だったのかもと岡野友彦は説く(講談社新書『源氏と日本国王』)。
王族には特に何も仕事してない人がけっこういたらしい。
後嵯峨天皇も、天皇になるちょっと前までは親王(宣下を受けないとなれない)ですらなく、公職には就いてなかったと思われ。
高見・高望ぐらいだと、まだ天皇になる可能性がゼロではなかったから無位無官だったのかも
(桓武天皇なんか、親父が天皇になるまで天皇になる見込みゼロだった)。
その子の代には、鎮守府将軍、常陸大掾、上総介などになったというんで、天皇になる可能性が父の代よりずいぶん下がったんだろう。
平将門の新皇もその辺があったのかもね。
天皇制ってそんぐらいおおざっぱじゃないと続かないんじゃなかろうかとも思う。 武士の成立って、やっぱり職能論が一番妥当じゃないのかなぁ
平安末からの朝廷の機能を個々の貴族の家にアウトソーシングしていく流れの中で、
軍事を担うようになった家(=源平等の軍事貴族)と、
その家の軍事力として編成された各地の連中が最初期の「武士」だっていうやつ
実際ただ武装したり武芸に優れているだけでは「武士」では無いという考え方があったというのは史料に残っているし >>105 じゃ、橘諸兄や源高明は働いていたから天皇になる可能性なかったのね?
文屋浄三・大市兄弟とか。 >>106
武士は原点・原初に近づくほど文字どおり武勇にぬきんでたる人と思えなくはない。
でも、某鈴木のいうように弓馬の人だったかまでは何とも。
武士の源流として名のあげられる
平良文(将門の叔父。秩父平氏、三浦・鎌倉氏、千葉氏)
平貞盛(将門の従兄弟。平清盛など伊勢平氏、鹿島平氏)
源頼光(源頼政など摂津源氏)
源頼義(頼光の弟。河内源氏:源頼朝・義経、足利、新田、佐竹、武田、小笠原、加賀美、南部)
源宛・渡辺綱(渡辺・松浦党)
藤原秀郷(小山、結城、佐野、波多野・大友、糟屋)
藤原利仁(斎藤、加藤、富樫)
藤原隆家(御堂関白道長の甥。菊池氏の祖とされる)
などは、武士は発生時点ですでに血統(中央貴族に連なること)が重視されていたことを示している。
後に世に出る楠木(橘氏)、赤松(村上源氏)、周防大内氏(百済の王)も出自は重視していたと言えるだろう。
平安時代の中頃はまだ「武勇の人が武士となっていた」と言えるかも知れないけど、
武士の家が確立され、職権が拡張して以降は「先祖が武士だった人」と堂々めぐりになってしまう。
また鎌倉時代以降の公家にも武芸・武略に秀でた人は出るが(太平記の北畠顕家、千種忠顕など)、彼らはまず武士とは呼ばれない。
公家にも甲冑で足利将軍の陣に従う人はいた。
室町時代の伊勢・陸奥浪岡の北畠なんかも武士と呼んでいいか微妙な所か。 >>107
岡野友彦は前掲書に『大鏡』の以下を引用してる。
陽成天皇が廃位された後の、源融と藤原基経のやりとり
融のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位につかせ給はむ御心ふかくて、
「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」
と言ひ出で給へるを、このおとどこそ、
「皇胤なれど、姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」
と申し出で給へれ。
まあ、↑やりとりが本当にあったかはわからんから、大鏡著者はそう考えたってだけかも知れんが、
新規に氏姓をもらってしまった人は天皇になりにくかったのは本当じゃなかろうかって気はする。
岡野は「源氏は特に天皇に近い」王族のようなもんとまで言うが…そこまで言っていいか俺は疑問。
源高明は実に絶妙な所だなー。
彼の兄弟兼明は源氏になった後で親王になってるもんね。
あ、王家に関するイヤミでは、百済王家は王号を許されたんで、何も白川伯だけが王家ではない。 諸王、王氏という既存の用語があるのに、紛らわしい王族などという言葉を使うな。
それから、前近代には、皇親はあっても、皇族はない。
岡野のあの新書は全体的に眉唾。
融と基経のやりとりは実際には無かったというのが通説。
陽成院は自分に仕候していた定省の践祚を冷ややかに見ていた。
百済王の王は、諸王の王ではない。
伯家は当主が神祇伯在任中のみ王を称していいだけの源氏であって王氏ではない。 土地支配の視点から見れば
荘園領主が公家
荘園を横領しようとするのが武士
という事象が多くみられる
だから荘園領主は鎌倉に「武士」の乱暴狼藉を止めるように催促した
逆の場合はまずない(武士が荘園領主で、公家が荘園を横領すること)
だから武士の本質は脱朝廷なんだよ 武士はただ武官の呼び名が変わっただけなんだよ その張本人たちが平安中期の公家(文官)
当時の中国・宋王朝が徳知主義をとってしばらく間栄えていたので日本の貴族はそれをパクッただけ
「朝廷は武力ではなく徳によって日本を統一したのだ」という伝説を捏造したわけだが
それには武官が邪魔な存在になった 「あいつらは官じゃなく士だ」とな
実際には武官なくしては日本の統一も維持も不可能であり
禁裏の公家たちの生命財産も武官なしでは維持できない
私兵なんかじゃ何時寝首をかかれるか分からないからな
禁裏を警護していた者たちは確実に武官だった
そのジレンマが「武士」というあたかも「武官とは別物の身分の集団が生まれた」
かのような錯覚を後世へ与える結果となった
ちなみに俺は井沢ファンだけど彼の起源説については矛盾が多すぎる 完全に誤り >>112 武士の本質は脱朝廷←それもどうかと思うな
だったら室町幕府が京都に都を置くはずがない
それどころか鎌倉幕府にしたって目上に朝廷を立てていたし
源氏が絶えた後釜の将軍には代々皇族を任命してるじゃないか
本音は「脱朝廷」のつもりでいる組織がこんなことしてたら矛盾もいいところだろ 岡野友彦の講談社新書『源氏と日本国王』はあくまで彼個人の所説
・多々ある賜姓氏族でも源氏は特に天皇に近い(と思われていたのだろう)
・源氏長者が日本国王だった
を説明するため諸々引用・記述してるだけであって、
今谷明先生の「足利義満の皇位簒奪」と同じ個人の私説。
ついでに書くと、岡野の姓と苗字の説明は雑だと思う(苦笑)。
大鏡、増鏡、平家物語、太平記などは「物語」に過ぎず、個々の発言の真偽はさほど問題ではなく、あくまで参考と考えるべきもの。
まあ実録である、朝廷の六国史も似たようなもんで、太古の発言なんかむしろ後世人の所思と考えるべきものなのと同じ。
「こんな語は(使われてい)なかった」論を言い出すと、中世に「皇室」とか「陛下」なんか誰も言ってなかったろうし、
そもそも論で言えば、日本の「天皇」「皇帝」「天子」、日本で使ってた「王」は全部【僭称】であって、
日本の天皇なんか最も高く見積もってもせいぜい「日本国王」止まりなのは中国通なら常識だろう。
前近代に「大日本帝国」とか「日本国皇帝」と書いた外交文書を中国に送ってた証拠がないなら、全く以て僭称であって、ベトナムと変わらん。
まあ百済「王」家は、天皇を皇帝と見なして特別に王号を許すってことだから、その文脈では正当性を持つものだろう。
神祇伯の白川王も、天皇が宗教性を帯びる性質を考えたら、わりと自然なものだったのだろうと思う。 朝廷と幕府の関係はなかなか難しいなー。
黒田俊雄先生の権門体制論の正否はともかく、
幕朝の職務が重複してる所もあって(守護が国司を代行とか。建武期の楠木正成や足利尊氏兄弟は同じ国で国司と守護を兼ねていたか)、
室町幕府なんか朝廷と混ざっちゃってたような所もあったと思われ。
鎌倉時代の有力御家人はけっこう国司をやってたようだ。
幕府の現役執権が相模国司、北条氏が陸奥・越後国司になってたことはよく知られているが、
島津氏が常陸介、大江広元が安芸国司やってたことあるとか、系図レベルでは何とかの国の前司とか多い。
それだけじゃなく、衛門尉になってた御家人は本当に多かったようで、
大江広元嫡流の長井氏(毛利は庶流)は幕末まで朝廷官人であり続けたらしい。
京都を守護する大番役もあったし(鎌倉警固は鎌倉番役なので、京都が先にあったともわかる)。
並び立つ権力とは言えても、脱朝廷とは言えないと思う。
幕府できる前、だから平安時代の武士なんか体制の下で生きてただろう…奥州藤原氏独立国家論も説得力に欠けるよな。 それと、やたらとマイナスイメージの強い平安時代の公家たちだが
連中には連中なりの「平安貴族版ノブリス・オブリージェ」があった
たとえば「俺たちは高貴だからこそ 食べ物で快楽を得てはいかん、
そのために可愛い動物たちを殺して肉を食ってはいかん」という価値観を
本気で堅守し努力していた 動物性たんぱくは魚介類に頼るしかなかった
その「高貴な文化」をそのまま受け継いだのが戦国大名→江戸幕府→町人
日本が獣の肉を食わなくなったのはこのためだろう
ちなみに藤原道長の大好物に蜂蜜で味付けしたチーズケーキのようなものがあったが
これは作るのに手間がかかりすぎて後世にまでは普及しなかった >>116 鎌倉幕府は朝廷から独立したいなんて気は毛頭無かったと見るべきだろう
源頼朝しかり承久の乱での政子しかり 彼らが反発してたのはあくまで上皇であり
「院政」であり天皇に逆らったことなど一度もない
ちなみに弟の義経が官位を授かったのは天皇からではなくて後白河上皇からだった
なまじ天皇を大切にする頼朝だったからこれに腹を立てたんじゃないか
頼朝「オメーっ、隠居した身の分際でいつまで勝手なことやってんだよ!!」てな
つまり本当に嫌いだったのは義経じゃなくて後白河のほうだった
文献にも頼朝は後白河のことを「アイツは朝廷を操る大天狗だ」
とののしったという記録が残ってるらしいし
しかし政治にうとい義経は自分は嫌われてると誤解し「そんな官位すぐに返上してこい」
という頼朝の命令に従わなかった ここから兄弟の亀裂が深まっていったのではないか? 頼朝は後白河法皇が死ぬほど嫌いだったんだろう
祖父が父の手で処刑されたときも命令したのは天皇時代の後白河だったし
父を追い詰め破滅させ 自分が二十年間も島流しの刑になったのも後白河のせい
あれだけ清盛びいきだったくせに 平家が滅んだとたん源氏になびき
義経を取り込もうと隠居の身にもかかわらず天皇を無視して官位を授けた 公家がマイナスイメージ持たされたとしたら(いや、今でも公家化=ダメ人間だから確実にあったろう)
・新しい支配者たる武士に敗れた(中国でいうと夏・殷のイメージ?)
・日本人の美意識が変わったのに、旧態をとどめた(お歯黒…は別に公家だけじゃないんだが)
武士と対比されて負け犬、のくせにプライドは高いということで、
庶民からもやっかみを持たれたということかも知れない。
でも、これこそ右翼が大喜びしそうだが、完全に武士に屈服していたであろう鎌倉時代の御門も治者道徳は強く持っていた。
天下が巧く治まらねば自分に徳が欠けていると考えた花園院(いや他の公家もそうだったかも知れんが、天皇はよく知られてる)。
後醍醐も意外とまじめな政治姿勢だったことは勅撰和歌集で察せられる。
まあ、今川義元の母は公家、武田信玄の三条夫人も公家(所生の義信は優秀だったという)、
足利将軍家は公家との婚姻が多かったのに武芸に秀でていたり、
何より武勇に秀でた足利一門をすら脅かした北畠顕家(彼が教養人だったことも有名)、
公家を見下した所で別に武士を持ち上げることにならないんだが。 >>114
武士は朝廷の言いなりにならないとして幕府ができた
じゃあ天皇を滅ぼせばいいじゃないかというかもしれないが
それはできなかった
天皇の権威を全否定は出来なかった
この辺りが矛盾だな
あの高師直でさえ、天皇は金か木で作れと放言はしていたが
ちゃんと朝廷の官位を受領し、天皇が任命した征夷大将軍の権威を認めていた 高師直の「生きた天皇など流刑にしてしまえ」も太平記の発言に過ぎず
おそらく彼の立場上実際にはそんなこと言えなかったろうと思うけどね。
高一族自体も、天武天皇・長屋王の末裔の高階氏、または足利の支族すなわち清和源氏だ。
天皇たち公家の政治権威が最も低迷してた江戸時代でも、
天皇は2万石(のち3万石→10万石と加増)、摂関家は各家が数千石、その下でも数百石をもらってて(無論、実収入と支出の問題はあれど)、
武士でも、小藩の家老渡辺崋山は300石、会津藩筆頭家老西郷家でも1,500石、吉良上野介が3,000石(加増で+1,000石)、小栗上野介忠順だって旗本3,000石…
だから、公家は支配階級であり続けた。
庶民とは比較にならない。
公武と言っても、支配階級の内部で栄枯盛衰があっただけ。
平安時代の武士がまだまだ天皇たち最上位の支配階級に及ばなかったとしても、
国司だったり、社会の上層の人たちではあった。 >>122 なんで会津23万石の筆頭家老西郷家で1500石なのに播州赤穂5万3000石の城代家老大石内蔵助が同額なの? 武士=呼び名の変わった武官、なんだからあくまで朝廷を支える柱であり
独立だのといった話とは何の関係もない ましてや朝廷を滅ぼすだなんてありえない
すべての元凶は後白河法皇にあった だだそれだけ
この男の都合に親子三代に渡って運命を翻弄された頼朝は
後白河個人が許せなかったのであって朝廷そのものへの叛意は微塵もない >>123
その辺は藩の成り立ちによるんじゃねえの?
前田藩なんかけっこう大身の家来がいた。
浅野家はもともと濃尾の武士で(浅野が武士なら、姻戚の豊臣秀吉も武士出身の可能性が高いと思うのだが)
大石内蔵助義雄は鎌倉幕府御家人下野大掾小山氏(鎌倉時代に播磨守護だった時がある)の末裔という。
大石家がもともと名門なら、藩総石高のわりに大石が大身でも不思議じゃなかろう。
会津松平家はもともと小藩だったから、1,000石ももらえば大出世だったとは思われ。 >>124
武士は公家を領主とする荘園を横領していったという社会構造がある
ただの武官貴族=武士ではない >>122
清和源氏の土岐頼遠が光厳上皇の牛車に出くわし
「院というか。犬というか。犬ならば射ておけ」
と上皇の乗った牛車を射る狼藉を冒してるし
当時の武家たちに天皇=崇高な主君という意識はなかったと思うがね
土岐頼遠だって足利尊氏には間違ってもそんなことしないわけだから 南北朝のころは特に公家に反発する武士が目立ったんでないかと思う >>125 まあ、上杉景勝の会津は120万石だから直江兼続が30万石貰ってもおかしくないね。
それこそ直江の家臣で1万石もらってるようなのがいてもおかしくないね。 日本は魏晋南北朝のパクリ
魏晋南北朝の律令社会にあった皇帝、名門貴族、下級武官の三竦みが日本の政治 藩主の家が土豪クラスからの成り上がりで周辺の土豪クラスがその家臣団だったような藩は大抵大身の家老家がいくつかあるね
守護代やそのしたの郡奉行クラスだと譜代の手下ばかりなんで大身の家臣はほとんどいない >>127
出自が高貴な連中だと、近世近代のウヨのようには天皇を神聖視してなかったかもね。
源氏というのは平安時代以降に天王から分かれた同族だし。
平将門だって桓武天皇四代の孫だから、天皇になってもおかしくない程度には近い。
継体天皇は応神天皇五代の孫と称した。 ちなみにお相撲さんの貴景勝は貴乃花親方(貴花田)が上杉景勝のファンだから
これ豆な(*^▽^*) 元前頭11枚目の景虎は1969年1月よりNHKにて放送された大河ドラマ『天と地と』の主人公であった上杉謙信の出家(改姓)前の名・長尾景虎に因んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E8%99%8E%E5%92%8C%E5%BD%A6 >>132 平将門が天皇で藤原秀郷が関白。関八州国。 軍師 「北朝鮮軍のミサイルが全弾発射されたら
推定韓国人156万人が死亡すると「軍事専門家たち」が予測している!」
「ノドン・ミサイル」が「300発」が配備!「射程距離1300km!」
「ノドンミサイル」は、同時に50発発射できる!!
日本全域がねらわれている!!
「大陸間弾道ミサイルKNー09」 射程距離300km!!
韓国全土がねらわれている!!韓国全土が射程圏内!!
「専門家の予測」では、北朝鮮の「砲撃」と「ミサイル攻撃」で、
「韓国人156万人」が死亡すると予測している!
安倍総理
「北朝鮮のミサイルは、「サリン」を弾頭につけて、
着弾させる能力をすでに保有している!!」(総理の発言!!)
◎原子力発電所を今すぐ停止して下さい!(センダイ・ゲンカイ原発)
◎「ケイタイ」や「スマート・フォン」が、日本で、なにかおこった場合、
けたたましく鳴るでしょう(アラート・システム)!!
「テレビの情報」を確認して、安全な場所に避難しましょう!!
◎「ケイタイ」や「スマートフォン」は、ベッドの近くに置きましょう!!
〇食料を「3日分」リュックに備蓄しておいて下さい!!
◎ガラスの近くには寝ないで下さい!(ガラスの破片はキケン!)
軍師 >>81
>ただ安倍氏が俘囚とされている史料・・・・・・・・・・
安倍頼良の出自を蝦夷で俘囚としているのは、何という史料なのですか? 将門から武士と呼ばれるようになったのは この時代から武官が差別され始めたからだろう
朝廷を帝国から皇国へと変質させていくために必要なことだったかも知れない >>140 そのへんで活躍した 藤原忠文 小野好古 秀郷 貞盛 みんな昇進しているよ。
橘遠保は除く。 >>141 そうらしいね 歴史テレビ番組で見た ところで
なぜ日本の歴代武士政権は朝廷を滅ぼして自分が名実ともにトップの地位に就かなかったのか?
<↑というよくありがちな疑問を海外に置き換えてみた↓>
なぜ中性〜近世のヨーロッパ諸王国はローマ教皇を滅ぼして自分たちがその地位に就かなかったのか?
こう考えると分かりやすくなると思うのが、どうだろう 確かに天皇とローマ教皇を同列に置く論が散見されるが
ローマ教皇はキリスト教カトリックの宗教指導者が本質だが、
天皇はそもそも日本を統治していた政治家であり軍人という本質がメインであった
中国の皇帝からは古代の天皇は安東大将軍 倭国王に任命されるぐらいだ
むしろローマ教皇に近いのは日本史では
寺社の旧家が近いかもしれない 古代エジプトのファラオも宗教的性格と政治的性格の両方を持っていた 武士政権も欧州の諸王国も「権力の正当性」が必要であることに違いはない
まして武士政権の「武士」たちはもともとは「武官」であり朝廷の重鎮
なおさら欧州諸王国よりも簒奪の意志は抱かないだろう
ただ「俺たちも官なんだから、それにふさわしい待遇を保障してもらわないと困る」
という武士たちの願いが 鎌倉幕府という文官たちとの権力の住み分けをする手段に至った
ということだったのだろう 模倣は模倣だよ
悪く言うと、世間ではパクリというらしい お前の家と結婚していないだろ
という話
むか〜し、古代にあった家の話だと思う、
氏姓? >>148
キリスト教はキリストそのものを拝む
だけど日本の神道はもともと山を拝んだり川を拝んだりアミニズムに近い
明治時代に天皇=神道の親玉になって天皇を拝むようになったけど
もともと天皇も江戸時代までは仏教に帰依して釈迦を拝んでたりしたし
天皇を拝むのが神道でもないしね 朝廷がオオキミ(大王)だった時代は軍事力による支配 それが平安時代に
帝王の座を捨てて教皇となったことで軍事力が邪魔になり当然武官も遠ざけることとなった
律令制度が衰退し荘園が生まれた理由も中央の権限が縮小したためだろう
ただ武官も兵も飯を食っていかなきゃならないからな
こうして官であって官でない「武士」が誕生した >>150 武官とはいえ近衛大中少将とか衛門・兵衛督とか兵部卿とかは影響力を保持しただろう。 帝国が軍事力支配から徳治支配へとシフトし皇国化する現象は何も日本の朝廷に限ったことじゃない
ローマ帝国はローマ教国へ変化し軍事力はヨーロッパ諸侯へ払い下げたし
後漢中華帝国も皇帝は天子と呼び名が変わり、同じく各地の太守が軍閥として独立したし
そして日本では朝廷が教会化し軍事・政治は武官(武士)政権が担うが将軍の任命権は朝廷に委ねる
皇国の財政はわずかな直轄領のほかは各国からの寄進に頼るようになり禁裏の警護も委託する というか、天皇と比較すべきはまず中華の帝王、
あと無論、王が神とされた、一神教がメインになってない国々…だから朝鮮やベトナム・タイなどの王だと思うのだが、
何か知らんがヨーロッパと比較したがる人が多いよな。
どうしても日本ではヨーロッパ・北米・中国・朝鮮に歴史的関心が偏るのだろうが、ヨーロッパなんか日本とすごく遠い≒似てない社会だと思うんだが。
一神教では帝王とて人に過ぎないから、日本がキリシタンに制圧されてたら、天皇の神性も削ぎ落されておったろうな。
もっとも、ヨーロッパの王や、イスラム圏のスルタンは神さまっぽさも引きずっているが。
あと、「カノッサの屈辱」で知られるように、ヨーロッパの皇帝はそんなにはすごくもない感じ。
皇帝と言っても王とあまり違わず、オーストリアの皇帝はボヘミアやハンガリーの王も兼ねていた。
いや、「天皇はエンペラーだからローマ法王より偉い」なんて馬鹿げたこと書くねらーが散見するもんでね。
屁理屈レベルの話になるが、ヨーロッパの文脈で皇帝とはローマ帝国の元首なんで、
東ローマ帝国の皇帝が一番正当で、次点でオーストリアとロシアの皇帝も正当ということになって、
考えようによってはオスマントルコのスルタンこそ最も正当な皇帝とも。
ナポレオンはまだしも、プロイセンの皇帝はさすがに正当性に疑問が。
あと、言語的理由もあって、ブルガリア王を皇帝、国を帝国と呼ぶことも(帝国も王国も同じ語なので)。
もっとも、ヨーロッパで皇帝が王より偉いって感があったのは古代だけじゃなかろうか(それも多分に名目的で)。 埴輪の兵士が装備してるような甲冑から武者鎧へと急激に変化したのは不思議だな
戦乱の時代に入ったから武具が発展・進化した、のではなくてむしろ平和な時代になってからだものな
しかもあの形のまま江戸時代中期まで継承され今でも五月人形や催し物として残されてる >>153
ヨーロッパ史に詳しくないので突っ込んでほしくはないのだが、欧州と日本は社会発展史からみて類似性・共時性があると思うけどね。
上辺だけかもしれんが荘園制とか近世の絶対王政とか、職業的価値観とか。もちろん全く異質なところもある。
中国・朝鮮は漢字文化圏という以外は日本社会とは全く別の異質社会だと思うけどね。 156補足
>>153
言い忘れたけど天皇と比べるのはローマ教皇ではなく中華皇帝というのは同意。
小林ばちのりが「天皇は祭祀王」とかアホ桜満開させているがそれは大間違い。天皇の本質は政治王だ。
誰かも書いているがローマ教皇に比肩するのは宗教貴族、たとえば千家家や大谷家なんだろうね。格は落ちるけど。
>>145
武家の在りようが変わったのは寿永のの宣旨だろうね。あそこで武家(政権)は朝廷を廃止するのではなく、共存路線を選択した。
将門や上総広常の政治路線はこれで消滅。逆に言うと天皇は武家から「ローマ教皇待遇」としてその存在を許されることになった。
後鳥羽院や後醍醐天皇のように「ローマ皇帝」を目指す奴は武家にとっては島流しの対象となる。
こういう理解を俺はしているのだがどうだろうか? 古代文明の世界では、王がもちろん政治やるのだが、祭祀もやってたことが多い。
エジプト、中国は有名だが、アメリカ大陸の帝王もそんなことやってた。
そう考えたら、チベットのラマ政治とか我が日本の道鏡も、けっして変ではない。
むしろ、ローマ法王に擬せられるのはダライラマとか比叡山延暦寺・奈良興福寺じゃなかろうか。
世襲王家と宗教貴族の差とも(ただし、日本の大寺院の最高責任者はわりと貴族の子だったりしたが)。
昔からよく日欧の封建制が比較されるのは、権力の地方への分散を重視してのことだろうと思う。
ただし、帝王の性質を見たら、天皇は明らかにアジア的な君主(いや、アジアだって西半分はイスラムだけど)。
また、天皇…どころか武士も宗教家的性格を持ってたと言っても(鎌倉幕府の将軍が鶴岡八幡宮で行事をやってたのも、藩祖が神社で祭られていたりも、それだろう)、
キリスト・イスラム国家と比較できるもんではないと思う。
天皇にせよ中華帝王にせよ、別に彼らが突出した存在ではなく、古代豪族はたいてい祖先や氏神を拝んでて、多神教の文脈で「帝王は神だ」って話なので。
だからやっぱり日欧は異質な点が目立つ社会かなーとは。 日本にせよ中国にせよ朝鮮にせよ、おそらくは複雑=雑多なルーツで形成されてった国であり文化で、
だから似たような所と似てない所があるのだろう。
たとえば、高句麗と百済は北方ルーツを主張し(というか百済王家が高句麗王家から分かれたと言ってるのだが―高句麗サイドはどう思っていたやら>広開土王碑文)
おそらく両王家は父系が強かったろうと思うが、新羅には女王がいた。
この点だけ見ると、新羅はやや日本寄りと言える。
これなんか、おそらく半島の人・文化のルーツが一元的ではなかったことを示すんだろう。
中国は古くから父系が強かったらしく、周・殷の王は皆父系でつながってるとされている。
中国(式)の氏姓(中国ではこの両者は似たようなもんで、日本の古代史でいうカバネみたいなもんではない)が父系相承なのは周王朝に由来すると思われる。
↑で新羅王家の男女双系の可能性に触れたが、一方で新羅の王位は金・朴・昔の三氏が交代でついていたといい、
これなんかは中国の影響で父系が強くなってから制度化された可能性も示してる(そもそも百済も新羅も、建国神話から数百年は歴史がわからない)。
天皇は父系で継ぐものとされているが、持統天皇などは夫婦間相続の可能性も無くはない。
邪馬台国の王位は卑弥呼→姪と継がれたが、もし「邪馬台国=大和朝廷」ならば、この点で矛盾が生じる(天皇は父系とされるから)。
邪馬台国が大和朝廷と別の政権・国なら別にいいんだけど(手塚治虫の火の鳥は、天皇=騎馬民族説を取り、邪馬台国は天皇に滅ぼされたとする)。
そもそも天皇が父系相続になってったのも中国の影響が考えられる(※一般日本人レベルではそこまで父系偏重ではない。父系尊重の度は武士>庶民か?ならば天皇の影響の可能性)。
だから「日本は大陸と異質の文明だー」ってのも慎重な検証を要すると思うがね。 >>159
源為義は摂関家に仕えていた。
平将門も若いころは藤原忠平に仕えていたという。
お寺に仕える寺侍というのもいた。
奈良興福寺=春日大社(昔は一体化してた)に仕えていた武士も多い。
筒井・越智なんかがそれで、柳生氏ももともとは興福寺か春日大社に仕えてた可能性が高い。
だから、寺社の軍事力=僧兵だったわけでもなく、そこに仕える武士がいた。
侍とは、平安時代に貴人の警護をした六位ぐらいの人を指したというから、もともとけっこう偉い人だった。
武士、武家、侍、もののふは、どれも語源、使われ始めたころの意味が異なる。
武士…日本での初出は続日本紀だが、意味は文官・文士に対置されるものと思われ。
武家…鎌倉幕府将軍家
侍…上述。ただ、文字どおり侍う人のことだから、↑のように意味が狭隘化するのは使用開始後しばらく時間がたってからだろう。
もののふ…古代の物部氏が転じたというんだが、むしろ逆に軍事を司るから物部と呼ばれたのかも。
いずれにせよ、あらゆる意味で野球選手ごときをサムライと呼んでは過去の武士たちに失礼だと思う。
敗戦後に自害してくれるならともかく( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ スレ主旨に戻って、軍事としては、
1、律令時代の軍団
2、平安初期の国府・国衙における軍兵、指揮者は国司・受領
3、平将門や藤原秀郷、郡司・殷富の百姓などの私兵
4、下向井先生理論の傭兵集団=俘囚(エゾ、エミシ)
5、軍事貴族(?)の阿倍比羅夫、坂上田村麻呂、大伴氏や紀氏(エゾ征討時代)
こんなんが、時系列無視で挙げられるが、ガラガラポンやって、源義家時代をみると、
武士の家系やら軍事組織やらが固まってきてピラミッド型の仕組みになってきた。
武士=開発領主だとか、貴種下向、摂関家への勤務等々複雑に重層的に相まって
日本独自の武士が生まれてきた。僧兵や都の警察=検非違使の関係もあるだろう。
定説はこれからだね。楽しみにしている。 >>150
それ、全然理解が違うだろw
ちゃんと高校出てるのか? >>163 藤原純友の武力はどうなの? それと藤原利仁も関東土着の武人と趣が変わる。
関東の国司を歴任したくせに関東に土着せず越前を本拠としている。 平安時代に律令制度が崩壊した、というのは誤りで、実は朝廷自らが放棄しただけ
民に負担を強いる律令制度はに覇王時代の朝廷が日本を統一するためには止むを得なかったが
民の怨嗟の声・アテルイを騙し討ちにした件など統一と引き換えに手を穢しすぎた朝廷が
次に取るべき道は「朝廷の教会化・ローマ教皇化」しかなかった
当時文治政策をとって繁栄していた宋(中国)もお手本となっただろう
平安中期以降の朝廷・公家たちに美食を禁じ質素な食事を潔しとする
「平安貴族版・ノブリス・オブリージェ」が誕生した
事実、衣装・平仮名・文学などは今でも日本の伝統文化として重要だが
料理に関しては ほとんど残っていない 彼らは彼らなりに努力はしていた
収入はわずかな自治領と有力貴族からの寄進に頼るようになり この形式が現代まで続くこととなる
これが日本の朝廷・皇室のスタイル 貴族も天皇家もガンガン荘園を作ってるんですが、それは… >>166
君は一体 どこの惑星の歴史を語っているのかね? ケプラー第3惑星の歴史か? 藤原道長が美食と暴飲のため糖尿病にかかっていたことも知らんようだ >>167
荘園を作ると荘園を横取りする奴から守らなきゃいかんし、
荘園のアガリは傭兵雇うには十分の収入になる
こうして私兵ができてサムライ化したと考えるのが普通だよなw
上皇や法皇にも私兵がいて、そいつらの収入源も荘園からのアガリ >>165
藤原純友は土着だろう?
藤原北家の出自は多分詐称
船を使ってたのが特殊だが、瀬戸内は交易路なので、
勢力作るほどの収入は見込める >>169 美食は大してやっていない むしろそのほうが長生きしただろう
藤原道長は食を楽しめないストレスの反動からか
糖度の高い酒の飲みすぎとチーズケーキの食べすぎで早死にした 藤原保忠(890〜936) 上級貴族
近衛大将だったときの話。馬に不馴れなため落馬し冠を落とし恥をかいた。
(古事談)
清原元輔(908〜990) 中級貴族、三十六歌仙の一人
賀茂祭りの行列では落馬し、冠が飛んで禿頭をさらけ出した。
しかし泰然自若として、「笑ってはいけない」と説いてまわったので、見物人たちは爆笑した。
(今昔物語集、宇治拾遺物語)
藤原信頼(1133〜1160) 上級貴族
乗馬に不慣れで 落馬し、配下の義朝に「日本一の不覚人」と罵られた。
(愚管抄、平治物語) >>172
藤原道長の兄たちは30〜40代で亡くなっているし
(だから五男坊だった道長に政権が回ってきた)
62歳まで生きて孫が天皇になるのを見れた道長は当時としてはまあまあ長生き 1300年前、新羅から天皇がやってきて身分制度を作った
天皇、お寺、神社、武士、農奴
日本の土着民は当然、農奴なわけで
従って日本の歴史に日本の土着民は登場しない
時代劇に出てくる、こ汚い農民が日本の土着民だ
侍に首をスパスパ切られて
家畜やペットのように品種改良されて土着民は従順な性格になった
それを民度が高いんだぜと自慢しているバカ
70年前のGHQの農地改革でようやく自分の田畑を持ててよかった
この身分制度は見えなくなっただけで未だにある
その一端が露呈したのが森友問題だ
あれは同和優遇であり、同和とは天皇種族のことだ
官僚や政治家は同和だらけ
そして気になるのは、彼ら渡来人である上級国民が日本を作った日本人であって
我々を日本人と思ってない感じだな
昔は我々を民草と呼んでいたようだが、日本会議あたりではジャップと呼んでるぽい >>171 でも配下の藤原三辰は山城掾だったんだろう。 オレは単なる歴史好きで専門家じゃないから学説を述べるだけに過ぎないが、
まあ聞いてくれ。
何十年も前、石母田正氏著「中世的世界の形成」を読んだ。理解できたとは思わないが、
(武士になれなかったが故に没落した)長者伝説に武士の成立の鍵をぼんやり感じていた。
少し前、図書館で借りた高橋昌明氏の著書「武士の成立武士像の創出」を読んだが、
なんとなく武芸と理解しただけだった。
最近、下向井龍彦氏著の日本の歴史07「武士の成長と院政」を読んで、ピンときた。
国衙の軍事組織だと。私兵でもあり官兵にもなる軍事訓練を受けた農民とそれを丸抱えする
地元有力者の集合体だと。
wikiを見ると3つの学説があるじゃないか。
どんぴしゃの1)古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)
2)職能に由来するという説(職能論)
3)律令制下での国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)
上記3冊を読んでみてくれ。イメージが大きくわきあがり強固なものに感じると思う。
地方在住だが近くの国府跡、無名ではあるが○△党という武士団の存在で一層そう感じた。
本の紹介しかできないが、いい刺激になる。ここでは常識で何言ってんだとなるだろうが。気にしない。
以上だ。 >>175
いったいどんな勉強をしたら そんな捻じ曲がった歴史観になるんだい?
それを言ったらスターリン独裁にビビって逆らえなかった2億人のロシア人のほうがよほどチキンだろうが
逆らっても従ってもどうせ死刑なら俺だったら逆らうぜ それができなかったのがチキンロシア人
統一までに落とした民心を回復させようと必死になったから朝廷は帝国を捨て教国になったんだよ
ただその過程で文官だけが残り武官への処遇が不十分で曖昧なものとなってしまった
あぶれ者となった武官はやがて武士となやった そういうこと 逆らいまくったから赤軍大粛清で佐官以上の8割が処刑なんて滅茶苦茶な事態に陥ったんだが
むしろゲシュタポやGPUが目を光らして数百万の人々が収容所に送られるなんてこともなかったのに
大戦中やGHQ占領中一回もストすら起こらなかった日本のほうが異常
マッカーサー元帥も日本人は支配者に対しては奴隷のようにへつらうと称している >>180
そんなの大戦中やGHQ占領中の日本にスターリン級の独裁者が居なかったからだろ
何も自国の歴史に誇りを持て、なんて言うつもりはさらさら無い
むしろたとえ自国史でも事実なら どんなに恥ずべきことでもどんどん暴け、
と言いたい 嘘捏造が許せないだけ 大戦中に反戦派やGHQ占領中に反米派による暴動やストが何で起こらなかったの?
ドイツでは全部起きてるけどね 日本人はアメリカからいっぱい配給してもらったからだろ
ドイツ人はソ連から何もしてもらってない <古代〜中世ヨーロッパ> ローマ帝国⇒ローマ教皇+諸侯騎士政権
<古代〜中世日本> 大和政権⇒朝廷+統一武士政権
結局原理的には一緒 >>183
ドイツもアメリカから物資援助や借款を多数受けてるわけだがそんなことも知らんのか
違いはマッカーサーの元には「マッカーサー陛下を新しい天皇」という手紙や「妾になりたい」と希望する便りが数百通も届いたのに対し
ドイツ人はドワイト・D・アイゼンハワーに決し付和雷同するようなものは送らなかったという事だ >>175 >>185 ドイツ人だってナチスヒトラーのすべてをを完全否定する態度を続けてたじゃないか
なぜ日本人だけをチャンバラサムライが暴れまわるだけの誇りの無い愚劣な人種にしたがる? >>181
日本は忖度の文化だからw
今風に言うと「空気読む」ってやち 滝口、北面の武士を務めた源平は律令で保護された名門貴族から転落して、地方で力を手に入れた律令のあぶれ者。 @在地領主的武士論提唱者:石母田正
A国衙軍政論提唱者:石井進
B職能的武士論提唱者:佐藤進一
東大で教鞭をとっていた年代(石母田→佐藤→石井)からいうと、
職能的武士論の方が、国衙軍政論よりも提唱されたの早いんだな。
@ABの順だと思っていたから、これは意外だわ。 東北の狩猟異民族・エミシが武士の母体という有力な論説がこちら↓
一、エミシ消滅と入れ替わるようなタイミングで武士が現れた
一、戦術が武士とエミシは全く同じ(弓騎馬戦術で盾を使わない)
一、どちらも野戦は得意だが築城も攻城も苦手
一、初期の日本刀は俘囚(エミシ)刀と呼ばれた
一、平安初期の官軍武装と武者鎧との間に連続性が見られない
一、農民との差異とは比べ物にならないほどに言葉が公家たちと大きく違う
一、戦国武将たちの多くがエミシ顔(信玄、謙信、信長、家康)
一、後醍醐天皇から「東夷(異民族への蔑称)」と呼ばれた
武士化しなかった残りのエミシが俘囚長だった安部・清原氏で、
これらは前九年・後三年の役で完全に滅ぼされてる
そのほかにも、万葉仮名といわれた奈良時代のしゃべり方が現代とはまるで外国語のように異質だったのが
平安後期以後は格段に現代の日本語に近づいたのもこの論説の正しさを裏付けてると思う
鎌倉初期の「吾妻鏡」「徒然草」原文なんか、 もう半分以上現代日本語だしな 清原は武士化『完了』しているだろう。
桓武平氏から成衡を次期当主に迎えているし、その前代からすでに当主は桓武平氏からの招婿だったという説もある。
一方、安倍氏にしても、まさに桓武平氏、秀郷流藤原氏の両氏から婿を迎えている最中だった。
前九年役が無ければ、このまま両氏とも「源平藤橘」に父系での「表札」の掛け替えをしていったのだろう。
逆にいえば、
前九年役があったおかげで、その一世代前に関東で行われていった「表札」の掛け替えも、このようなものであったのだろう、という想像がつく。
その意味で前九年役(陸奥話記)は貴重と言える。 >>178
下示国衙軍制由来説に賛成ということですか?
385 :日本@名無史さん:2011/06/02(木) 06:24:45.42
・・・・・・・多くは国造などに系譜を持つ郡司・富豪層が健児制のもと世襲軍人化。
王朝期に国衙への大幅な権限移譲がなされ、その両者が結びついたもの(国衙軍制)それが武士。
【つはもの】武士の起源と成立について【もののふ】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292733807/385- >>192
>安倍氏にしても、まさに桓武平氏、秀郷流藤原氏の両氏から婿を迎えて・・・・・・・・・・・・・
>「源平藤橘」に父系での「表札」の掛け替えをしていった・・・・・・・・・・・・・・・
父祖伝来の土地・郎党を女婿に譲って「表札」の掛け替えをしたら、
父祖の資産を継承できぬ息子の貞任や宗任系統は如何なる
扱いになるのですか? 悪源太スレでは、自動的に郎党に降下、と、ある有名なコテさんが言っていたような。 武官の坂上田村麻呂
坂上氏は代々鎮守府将軍や検非違使を歴任する家系になったけど
田村麻呂から七代孫になる坂上頼次も検非違使だったが、源満仲が摂津守になったときに頼次を摂津介にして多田政所の警備をさせた
その時に全国に散らばってた坂上氏をめとめあげて坂上党武家団を組織して、その棟梁となった
武官ではなく源満仲の私兵の武家団だから、この辺りから武士の流れが出来たのかと
清和源氏の裏に坂上氏の武力があった 秦氏を匂わすレスが過去スレや関連スレでは頻発していたが、
東漢氏(坂上氏)もかー! 東漢氏は新羅征討で武器の製造をしてたように、製鉄から軍事まで当時の日本にない最先端の武力を持ってきた氏族
この渡来系氏族の武力に目を付けたのが蘇我氏。武力を持つ物部氏に対抗するために、東漢氏を蘇我氏の下に置いた
宮廷や蘇我氏邸宅の警衛を坂上氏が担っていた中で崇峻天皇暗殺事件が起きる。その実行犯が東漢駒だった
暗殺後に崇峻天皇后で蘇我馬子の娘を拐ったとして、馬子に殺される。これは命令の口封じの可能性が極めて高いとされてる
それでも東漢氏の地位があるのは蘇我氏あってのものだから、乙巳の変では他の渡来系が離れるなか、蘇我蝦夷の邸宅を最後まで守ってたのが東漢氏
最後は巨勢徳陀の説得で武装解除したことで、最後の砦の東漢氏まで離れた蘇我蘇我は自殺する
蘇我氏と距離を置くことになった東漢氏は、壬申の乱で大海人皇子側に味方して、その武力を発揮する
天武天皇から直々に七つの不可(天皇に対する罪)があると言われた上で何故か許される
平城京遷都で、坂上氏の本拠地が宮中から藤原不比等邸宅になってしまうため転居せざるを得なかった
どうやら不比等とはそりが合わなかったらしく、渡来系は外へと追いやら不遇の時代に
ところが聖武天皇の時代に坂上犬養が重用されて運が開ける
犬養の子の坂上苅田麻呂は東漢氏らしくその武力で、鎮守府将軍などをそつなくこなして信任を得る
そして貴族社会に入った犬養の代からたった三代で、大納言まで上り詰める坂上田村麻呂が登場する
これは渡来系史上初の快挙で秀吉並みの出世力
とまあ、間違いも多々あるけど東漢氏という武力を持った渡来系氏族は古代史で重要なのは間違いない
坂上田村麻呂まで表に出ないけど、常に裏にいる この坂上田村麻呂はいかにも武官っぽいけど、実は文官としてもかなり優秀だったりする
文官として優秀すぎたために、子孫が鎮守府将軍なんかになるも明法博士の系統が平安京に残ったりして、軍事貴族から離れた結果、フェードアウトしていく
理由はいくつかあるけど、一番は清和源氏に取り込まれたから
>>196にあるように坂上田村麻呂以後の坂上氏で武力を持った系統はみんな全国に散らばるのよ
戦国時代に伊達政宗の正室を出す田村氏が有名だけど、全国の坂上氏をまとめたのが清和源氏の私兵の山本坂上家
この山本坂上家は清和源氏に武門を継承してしまってる
清和源氏に軍事技術を教授した結果、清和源氏が武力で台頭して来た
その後は、まあご存じの通り清和源氏、とくに河内源氏が大活躍しはじめる
武士の成立はおそらくこの辺りの流れからじゃないかなと思う
坂上田村麻呂が武官らしい武官の最後で、その後は清和源氏で武門に移り変わる
後の軍記物なんかを読むと「坂上田村麻呂、藤原利仁など武門の誉れはいた。今はこの人だ」みたいなのが多いけど
坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と書かれていて遡れない、遡るには古事記やら日本書紀を引っ張り出してこないといけないからね >>198
>製鉄から軍事まで当時の日本にない最先端の武力を・・・・・・・・・・・・・・・・
何という最尖端武器なり軍事技術を持っていたのですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています