武士の成立って [無断転載禁止]©2ch.net
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貴族武官か富裕武装農民かのどっちなん?
最近は双方の融合とかばっかりじゃん
"どっちもあり"じゃなくて、はっきりして欲しい 武士が何かなら
公家とは何か農民とは何か卒とは何かも、合わせて考えないといけない 平安の前期までは、官人と農民がいたのではないか?
その後、官人と上層農民の一部が武士になり、官人を続けた
人が公家になったのではないか? そもそも武士とか貴族は中国から来た語。
だから日・中で意味の齟齬が生じるのは仕方ないとも言えて(例:天皇は古代中国の神の名)
あまり神経質になっても詮無しとも言える。
貴賤というけど、中国では物価が高いを貴、安いを賤ともいう。
だから原義は貴族=金持ちだろう。
これが時代により意味範囲が狭められても、さほど神経質になることもない。
公家もまた中国から来た語で、小学館『中日辞典』(中国語では日本を略して日とすることが多い)では、
(←→私人)政府。公(おおやけ)。国家・政府機関・企業・公共団体などをさす。
けっこう昔からある熟語で、水滸伝にも登場する。
貴族を定義すると、「世襲特権を持つ社会的エリート、または一代限りでもそれと同等の権利を付与された人」だろう。
そう考えたら、武士もまた貴族の一種と言える。 武士を小学館『中日辞典』で調べると
1.昔、宮廷を守衛する兵士。衛士。
2.勇士。武人。
とある。2.はやや広義で、実際には武官、特に武芸に抜きんでた人ぐらいの意味かと思う。
三国演義にも武士は登場するが、ここでは貴人を警護する武官ほどの意味だろう。
日本では武士が身分・階級になったので、中国と比べてずいぶん意味が広がったとも、武から遠ざかったとも言える。
鎌倉幕府の御家人には文士と呼ばれた人もいて、これは特に文を以て鎌倉殿に仕えた人と思われる。
この時点でも、その文士は武士も兼ねていた可能性がある。
たとえば大江広元は武勇で知られた人でもなく、むしろ文官の側面があったのでないかと思われるが(大江氏自体がもともと学者なんかの氏族)、
広元の子で毛利氏の元祖となった毛利季光は武勇の人だったという(また別の毛利氏もいる)。
だから、必ずしも文の家が文を以て仕えたでもなく、文官武官の境界はあいまいだった。
問注所で重きをなした三善氏はより文官的性格が強かったと思われるが、彼らも武士と見なされている(武士ではなく文士だと言った学者はいないだろう)。
北畠や上杉ももとをたどると京都朝廷の貴族だが、室町時代は武士と言っていいようになってくる。
ちなみに、中国語でも「武家」というが、これは武士なんかではなく、
単に姓が武の一族や、姓が武の人をリーダーとする集団をいう(武家班)。 知っている人は知っているんだよ
日本の天皇?
なかの人は中国の人ではないから、悪く言うと模倣のような話
正真正銘の本物、本家というのは、渡来系の官人 キュウリの葉 葱の華などの写っている写真
凄い話でしょ、家の先祖なのに
テンノウ(天王??)だと言っている人がいたり 鎌倉時代、幕府将軍を武家と呼ぶようになり、そこから意味が拡張して武士全般もいうようになった。
公家も、>>47のような意味では知らず、今いう特定の貴族集団をさすようになったのは室町時代という。
鎌倉幕府の御家人は「鎌倉殿の家人」の原義が示すように、将軍家=武家に仕える人との考え・意識は強かったと思われるので、
武家の意味拡張もけっして変だとは言えまいし、江戸時代や今の用法は踏襲してよかろう。
公家は逆に、意味の狭隘化が起きたと言える。
武家でも朝廷の高位高官はいたので(足利尊氏が大納言とか、源実朝・織田信長・豊臣秀頼が右大臣とか)、
狭い意味、つまり今いう公家は、特定の官職に任じられてた人から武士などを除外したものだろう(完全に除外する必要があるかは別として)。
鎌倉時代以降の武士は何より幕府との関係が重要だから(公家や寺社に仕え、幕府には仕えてなかった武士もいたが)
公家は天皇を中心とする秩序がメインの支配階級としていいかも知れないね。 wikiだけ見てみると
スサノオ、天王(天皇)ということになるけど >>42
武「士」と言っちゃうと、帝王に仕える(仕って字自体がそんな語感だ)人という感が強くなってしまい、
古代の皇族を「武士」というのはちょっと抵抗がある(個人的な意見とは断っておく)。
まあ、幕府首長が武士としても、とても天皇に仕えていた…とは言えない気もするが。
武士という非常に広大な階級の頂点だから、武士っぽくない気もするが、武士に含めていいやっていう気は。
勇士・勇者は帝王ご自身でもいいかーと個人的には思えるので、神武天皇も勇士であり、周の武王も勇士と呼んでいいのかも知れんが、
士はやっぱ社会の頂点にいる帝王よりは、それに仕えるエリートの語感が強いか。
>>43
そこが重要なんだろうな。
中国や朝鮮では武士は特に階級ってこともなく、少なくとも日本みたいに馬鹿でかい社会集団をいうことはなかった。
いわゆる公家が残存したから、武士は武士たり得たのかも。 出家したか、行き別れたりでもした、
親戚か何なのかな、遠い親戚
アニメ ドラゴンクエストの曲を観てみて >>44
まあ昔は近代よりは民族的出自におおらかだったし、あまり血統を重視するのもね。
ジンギスカンに仕えた耶律楚材は遠くさかのぼれば契丹(遼王朝)の貴族。
金王朝に仕えた詩人元好問は北魏貴族の末裔というから先祖は鮮卑人?
Nation-Stateと前近代国家は分けて考えるほうが適切だろう。
その意味で、よく中国史でいう「異民族国家」(王朝が漢族でない)はどうかと思う。
>>45
社会の一身分である以上、ほかの階級と比べないと意味ないもんな。
>>46
武士は朝廷の官職を持つことも多かったんだよな>大臣・納言・国司・衛門尉・兵衛尉。
だから官職だけじゃ公家と武家を截然と分けられない。
武士の出自に関しては、あんたの見解が当たってると思うけど。 歴史スレを読んだはず
スサノヲ自身、テンノウなんだよ
という書き込みばかり
当時の朝鮮半島の辺りに滞在していたか、
住んでいて〜という話 >>49-50
>>54
日本の天皇の語源が中国の天王の可能性もあると思うんだな。
通説では、天皇は古代中国の神で、そこから借用したというんだが。
五胡十六国のころ、北の王朝の君主が「天王」を称したことがある。
これが日本の天皇の直接の語源の可能性もある。
天皇と書いて、中国の神はテンコー、日本の帝王はテンノーと読むのが通例だが、
もともと天王だったなら発音の疑問は氷解する。
日本書紀などの「皇」の字は原資料で「王」だったのを置き換えた可能性が常に存在する。
まあ音だけだったら、大河ドラマ『平清盛』で話題になったオーケだって、
王家の可能性も皇家の可能性もあると思うのだが。
皇子と王子は同じ発音なのだ。 >>56
スサノオ伝承の舞台が朝鮮じゃねーのって説はある。
まあ神話なんで、そっちから借用・変遷した可能性は常にあるわけで、神経質になる必要はなかろうが。
日本書紀でたいへん興味深いのは、朝鮮の記述はけっこう多いくせに、東日本はおとぎ話レベルの断片的な記載しかない。
書記当時の大和朝廷の国家観が反映されてるのかもね。
おそらく、半島より東日本を見下してたろうねw 気づいている人は気づいている
wiki参照 天皇 大元帥法
悪く言うとカルトという感じがする、
どこかで、そういう方向になってしまったとか ウマヤド、トヨトミミという人物がいたでしょ
ほとんど同じだと思う
トヨトミミの生きていた時代、
その当時の考えとは違う
いろいろと、後から結び付け、話を付け加えたり >>59
日本書紀はとても正直で、百済記・百済本記などから引用と細かく書いている。
原資料自体は散逸したが、おそらく百済などにまとまった資料はあったとの証左になってる。
ただまあ、百済の飲尿に偏ってるので、果たしてどこまで信頼できるかの問題はある。
書紀と朝鮮の史書とで、百済王は高句麗王家から分かれたとの記述が一致するのは、百済王家の主張と思われ、
その意味で信頼していいかの疑問は常に残る。
書紀、続日本紀、三国史記などが全部正しいなら、天皇は高句麗王・百済王の子孫になるんだけどね。 俺の推理だが 武官と武士は別物であるかのような誤解が生まれた原因は
「皇族は武力によってではなく 徳行によって日本を統一した」
という神話が平安時代中期に完成したことにあるんじゃないか
もちろん現実にはヤマトタケルのような武官を使って武力で先住民族を支配していったわけであり
徳行による日本支配など成立しないのだが
神話を護持することが大事になると同時に武官は差別され
他の公家たちに「我々とあいつらを一緒にするな」「連中は゛官゛にあらず あれは゛士゛だ」
などといった価値観がぼんやりながら形成されていった
これが「武士誕生」の謎だったんだと思う 以上 貴族が武士化した 農民が武士化した
では元の身分と武士の違いは何か?を考えないといかん
俺の考えでは朝廷の官兵と対を為す存在、つまり武士とは私兵なり
その後は朝廷に採用された武士も出てくるが 根本は私兵だと思われる
>>63
例えば北畠顕家は武官ではあるが武士ではない おかしな話があるんだけど
なぜ列島の先住民が天皇、皇族になるんだろう
ネットなどを見ていると
「雨降って 地固まる」列島が出来上がり、
その後に日本人の誕生、天皇・・・皇族・・・? 誰が作ったのか、わからない、謎のチェーンソーのゲーム
主人公の台詞
「勘違いヤロー」「既に死んでいる」北斗 南斗 北斗の拳?
敵の台詞「渡来人どもめ〜」 どう考えても
大陸 中国 朝鮮コンプレックスとしか思えない ヤマトタケルの年代比定すると卑弥呼より昔になっちゃうから論外だろう。
神武然りで、複数の人が長い時間をかけてやったこと?を一人に大便させてるということだろう(真偽の問題はさておき)。
日本書紀ではえんえん逃げ回ってたように描かれるがw
>>65
北畠顕家は好例かもな。
鎮守府将軍だから武官で、実態としてやったことは武士と違わない…というか並みの武将より強かったのだが(大河ドラマでは弓の名手と描かれた)
やはり公家・公卿・文官の性格が色濃い人でもあった。
武士と公家の境界なんてあってなかったようなものかと思わせる北畠一族。 >>66
天皇に関してはややスレチになるけど、彼らがもともとどこにいた人たちかは永遠の謎。
ただ、古代中国の高貴な人の末裔ではないんだろう。
天皇その人、及び天皇に比較的近くに位置づけられていた皇族または王族・王氏と呼ばれた人は、
武人・武官とはいえても、武士とは言いにくいのではないかと思う。
後醍醐天皇の皇子数名は武官またはそれ相当の仕事をしていたが、武士とは呼べまい。
天皇から分かれた同族は非常に多いけど、源・平氏などは武士も多い。
どこまでが王族と見なされるかは非常にめんどくさい問題だが、それでも基本的に天皇に近い人は武士ではなかろう。
その意味で、三島由紀夫の武士観は外れたものでしかない。 >>69
公家一統政治を目指す武官貴族の北畠
武家政治を目指す武家の棟梁足利
公家と武士の争いだ >>71
そこだけ取り上げても、南朝に属した武士もいたし。
北畠父子と後醍醐とで政治観・武士観が違ったろうけど。 三国志のほうが武官・武士の違いがはっきりしてるな
黄巾の乱・董卓討伐のとき 曹操や袁紹らは武官
劉備・関羽・張飛らは武士(私兵) と位置づけられる
それに対して平安時代の日本の武士のほうが武官との区別が曖昧だ
やっぱり武士という概念そのものが実体のない虚構だと思う >>65 武士は私兵って論説に大いに異論あるな 武士は最初から官軍だったよ
将門・純友の乱、前九年・後三年の役、保元・天治の乱って
朝廷と何ら関係も命令も無い地方のイザコザだったわけか?
だいたい朝廷の禁裏を警護する武士が私兵っておかしいだろ
あっという間に公家たちはは殺されて
金品かっさらわれてドロンされるわ 曹操の父親のときみたいに そこは朝廷を滅ぼせなかった日本の武士の特徴にもつながるが
武士が最初から官軍なら平将門はどうなる?というのは置いても
武士が武官貴族と異なる所は、
例えば源義朝や為朝や平清盛が坂上田村麻呂と異なるところは、
前者の配下の兵たちは朝廷の命令で与えられた兵ではなく
個人的な主従関係を結んだ私兵ということだ 私兵はなかなか難しいな。
武士が一定の私兵を擁していたのは事実だろう(官庫だけで兵力を維持できたか)。
また、その私兵を擁する人を「武士」と呼ぶのはいいとしても(※そういう人全員が武士と言ってるのではない)、
その私兵自体を武士の一環と見なしてよいか、武士とは見なさないかの問題はある。
田村麻呂はさすがに昔過ぎるので除外するが、前九年・後三年合戦(1051〜86だから平安時代中期以降)の
1)源頼義・義家・義光
2)三浦為通、鎌村景正(権五郎)、頼義・義家に従った佐伯氏・陸奥金氏(コンと読む)など
3)安倍一族、清原氏
たぶん1〜2)はわりと武士と見なされてて、3)はあまり武士と呼ばれないと思う。
平安時代の朝廷尺度で「侍」とは、国司にはならないで、そのやや下で貴人を警護する人のこととか。
となると、1)頼義・義家は国司なので「侍」と呼べず、「最も武士らしい」と言えるのは2)となる。
出羽清原氏は鎮守府将軍などやってるので、武士と見なすならば、武士としては上層に属する人たちと言える。
安倍・清原・奥州藤原氏はいずれも姻戚から見てもけっして下郎ではない。
1〜3)は後の時代尺度だと、大名とかその配下の有力家来ぐらいだろう。
となると、武士としてはけっこう上の方になるので、彼らを武士と呼ぶのはいいとしても、
その下に属した郎党などを武士と見なしてよいかが問題になる。 >>73
虚構…はさすがに言い過ぎじゃないかな。
これこそ日本史の特異性「公家の残存」がなかったら、武士は高僧と並ぶ日本国の頂点だったろう。
つまり、天皇とか摂政・関白・大臣…がいなければ(あるいは完全に取って代わったら)、
自動的に幕府が中央政府だから、首長=将軍=日本国主で、その他の武士は幕府か大きい寺社に属したろうから。 >>76
武士は下郎であってはならないともいえないだろう
一領具足は普段は農作業していたが戦の時は甲冑を着てはせ参じた
江戸時代は郷士となったが武士の一部である >>78
まあ姻戚・養子の関係から、奥六郡の安倍氏(国司の下の郡司ぐらいと)、
出羽清原氏(平貞盛流と)、平泉の藤原氏(中央の藤原氏と)は、そんなに卑賤ではないとね。
真偽は永遠に謎だが、どれも中央貴族の末裔を称してた(少なくとも平泉藤原氏は東夷の子孫ではないと俺は思う)。
武士は、上限より下限が難しいと思う。
たとえば、江戸時代でもけっこう武士の身分を持つ農家はいた。
新選組の土方歳三の実家がそれで、同組の小林の源さんの家もそうだったかな?
そういう家は、まあどっちかというと農家なのだろうけど、武士とも言える。
彼らは武士としては軽輩なのだろうけど、では最下層だったかは何ともで、
実際の合戦ではもっと下にも兵員はいたと思われる(戊申の戦いで土方は大将格だったよね)。
ちょっとスレ住人に質問だが、雑兵は武士とは見なさないって総意? 安倍氏は蝦夷の阿弖流為の子孫と自称
さらにその子孫は森友問題でおなじみの現首相になるがww
だから蝦夷を武士と呼ぶかどうかは別次元の問題
江戸時代は兵農分離が徹底されていて
八王子千人同心ですら幕臣にもかかわらず公務以外で帯刀を許されず
公的な人別帖でも百姓待遇だった
しかし織田信長以前は兵農未分離で中央政府が武士と農民の線引きを明確に制度化しなかった
だから武士であり農民であるあいまい層が多く誕生したことは当たり前だ
江戸時代は武士は城下町に集住したが信長以前は農村に土着して田畑を耕す武士が多かった >>80
アテルイの子孫とはいえなかったか 失礼
ただ安倍氏が俘囚とされている史料はあったようだが 甲冑と刀で戦したことのある人間はすべて武士でいいだろう
アレキサンダー大王はマケドニアの武士 カエサルはローマの武士
曹操は三国志の武士 ジンギスカーンはモンゴルの武士
真田弘行は芸能界の武士 トム・クルーズはハリウッドの武士 >>80-81
安倍ちゃんは安倍宗任(頼時の息子で貞任の弟)の末裔だっていうんだよなあ。
皇国史観だと逆賊なのかね?(すごいイヤミ)
秋田安東氏は安倍貞任の末裔←神武天皇に敗れたナガスネヒコの兄(こういうのからして疑わしいw)の末裔を自称…
「当家は皇室より古いのです」とすごい自負をしてたとか。
余談はさておき、奥六郡の安倍氏の先祖は今も諸説紛々で、
遠い昔に奥羽遠征やった安倍氏(当然、畿内から来た)の末裔か、安倍の氏姓をもらった先住者か謎。
出羽清原氏も似たようなもんだが、こっちはよりハッキリと西国豪族の末裔ということになってて、
『陸奥話記』では「清原真人某」と書かれてる。
真人(まひと)は古代のカバネの1つで、天皇から分かれた氏族に与えられた。
天皇から分かれたとする氏族は蘇我・紀・安倍など非常に多いけど、全てが真人じゃないので、特に血統の近さを強調してると言える。
可能性としては安倍氏も清原氏も天皇の同族なので、としたら「独立国家」なんかほど遠い、いわば朝廷の内紛と言うべきものとなる。
坂上田村麻呂は桓武天皇の時代の人なんで、前九年合戦まで250年もあることとなり、アテルイとの血縁は特に考えなくてよいと思う。
平将門はわりと抵抗も異論もなく武士と思われてるけど、これは後の関東武士と将門が同類とどこか暗黙の了解になってるせいだろう。 ほとんどの日本人は、
神武よりも古い家、続いている家だよ 平清盛は太政大臣 重盛や宗盛の内大臣となって
大半の公家よりも高位高官になった
しかしそれでも公家社会では平家は「公家」として認められず
平家は「武士」のままだった
桓武天皇の子孫で、安徳天皇の外祖父の家であっても公家として認められなかった モモタロウだか何だか知らないけど、
お供のサル?のほうが凄い家だという伝説もあったような これも時空設定のようなものだよ
女帝?天皇?がいて・・・トヨトミミ 謎のwikiを読んでみるとわかる
青文字をクリックすると、
とある時代から一気に明治時代、
現代まで飛んだりすることがあるでしょ
超時空 いちいち読んだりしないけどトヨトミミもそう
ググってみるとわかる「平安時」という文字が見えたり 捏造、偽造、作り話なので
「お前の事なんて知らないよ」となるんだよ、会ったこともないとか トヨトミミ
中国から学んだという解説があるでしょ
「叶真道」の話だよ
『聖化 日神 日霊 津』『伊達の桃太郎』 叶真道
最初に現れた存在、造化なので
日本でいうと縄文?先住民(原住民)でなければならないはず 『仙宸』
アイヌのような衣装を着ている、
イラストが出てきたり。
本当に凄い話になってくる。 今の世の中に、
位や上下は関係ないとしても
とある時代になり、または入ってから、
一番下のほうに落とされたのかな
アイヌ? >>75
貴族でない氏族が武士だと思ふ
源平藤橘の流れを汲む貴種が貴族
浮浪の代を挟んだり,はたまた,系図が自称・あやふやだったりするのは貴族ではない武士
清盛や頼朝は貴族だろう。庶流というか本流ではないが
それ以外は都と縁が切れすぎ 実際に「神殺し」のようなことが起きたんだろう
某スレ参照
金の元、金のなる木という書き込みがあったり >>84
安東家は「由緒がある」と言いたいのだと思う。
もっともアンドウって藤原とか安房と関係あるんじゃないの…安西は安房三浦氏だよね(^^A
俺の祖先は昔どこにいたかわからんもの。
>>85
まあ天皇を1つの氏族と見なして、その家が日本国の帝王を占めてるという話だよね。
足利義教のころともなると、皇族が幕府将軍にへーこら媚びていたようにしか思えんが。
擁護しとくと、後小松・後花園は気骨のある天皇だったとはいう。
もっとも、南朝断絶策に後花園天皇の父後崇光院は「恐るべし」と他人事のように書いてて、
皇族がもはや幕政に逆らえなかった現実を語ってる。
更に擁護しとくと、後崇光院はノータッチだったかも知れんが、北朝派の皇族や公家が提言した可能性はあると思う。
でも、決めるのは幕府だから、日本の国主がどなただったかますます浮き彫りになるだけだが。 >>86
そりゃまあ公家の意味にもよるわなあ。
清盛自身は最後まで武を以て任じてた人だろうし、
武士・武家・武門と自己認識してたろうけど(侍は、当時の意味的にちょっとわからん)。
>>96
頼朝ぐらいになると貴族だったというのは同意だが、
そもそも貴族の概念や現在の用法(どんな人を貴族と見なすか)が国によりバラバラすぎる。
ヨーロッパ貴族の尺度なら、足軽大将ぐらいで貴族なんじゃないかあ?
中国の郷紳、朝鮮の両班(これは朝鮮社会全体ではカナーリ高位の人なんで、そのさらに下ぐらいでも貴族だろう)、
旧日本の豪農・豪商、イングランドのジェントリーは貴族と言えなくもなかろう。
太宰治は田舎貴族を自負していた(彼の父は貴族院議員なんで、確かに貴族なんだろうが、実態は田舎の豪農だろう)。
中国史で貴族と言ったら、帝王のおそば近くにおられたような方々のイメージ(郷紳・士大夫は除外してる?)。
だがまあ、北宋ぐらい?〜清代の中国で社会の本当の実力者は郷紳だったというのもあまり疑問視されることでもなく、
皇帝陛下さまですら郷紳を無視して政治はできなかった。
ヨーロッパだと、スペインのCABALLERO(騎士・紳士)は貴族と見なされるか?
なかなかに貴族の定義は難しい。 朝廷はョ朝に武士の乱暴狼藉の停止を催促している
公武と言う言葉にも現れるように
公家と武家は別個の存在だった
足利将軍は意識的に公家様と武家様で
花押を別々に作った >>96 新田義貞も貴族になるね。無位無官だけど。まあ、平氏の祖の高見王も無位無官だからいいか。
だけど、高見王なにして食うてたんやろ? 無位無官で貴族はねぇわ!!
高見王はよう分からんけど,こんな素性のものを祖にしているから清盛も貴族扱いされんとちゃうか? >>102 清和源氏は貞純親王も源経基も官位あったしな。
話はもとに戻すが、義貞が無位無官で正成が官位官職持っていたの? >>101
うーん血統だけでは実は何ともなんだよな(天皇その他古代豪族の末裔を称した連中が多すぎて)
無官(無職w)でも王族は朝廷からいくらか支給はされたという
>>103
鎌倉末の時点で、正成は多聞兵衛を称してたというね。
兵衛尉は幕府御家人がわりと名乗ってたので、楠木氏が御家人ならさほど奇異ではなかろう。
楠木が御家人かはまだ確定してはいないんだろうが、吾妻鏡(頼朝時代)に楠木四郎が登場すること、
高野山の記録で正成?が幕命で湯浅氏と戦ったこと、静岡市に楠木村?郷?があったことなど、可能性はある。
義貞が無位無官といわれるのは、増鏡だとかで単に新田小太郎と書かれたからで、
たとえば幕府の役職を何も持ってなかったかは何ともわからない。
守護(代)・評定衆など偉い役職にはいなかったろうけど。
楠木・新田も、熊谷などより劣位の御家人だったなら、無位無官でもおかしくはなかろう。 王族(皇族よりは広くとらえたいと思う)ゆえに
無位(位階に叙せられない)・無官(誰にも仕えない)だった可能性もないではないと思う。
宇多天皇は源姓をもらって源定省となった時期があったが、
彼が天皇になれたのは生涯を通じて宮仕えしたことがほとんどなかった=ほとんど誰にも仕えてないから、
天皇になるのに好都合だったのかもと岡野友彦は説く(講談社新書『源氏と日本国王』)。
王族には特に何も仕事してない人がけっこういたらしい。
後嵯峨天皇も、天皇になるちょっと前までは親王(宣下を受けないとなれない)ですらなく、公職には就いてなかったと思われ。
高見・高望ぐらいだと、まだ天皇になる可能性がゼロではなかったから無位無官だったのかも
(桓武天皇なんか、親父が天皇になるまで天皇になる見込みゼロだった)。
その子の代には、鎮守府将軍、常陸大掾、上総介などになったというんで、天皇になる可能性が父の代よりずいぶん下がったんだろう。
平将門の新皇もその辺があったのかもね。
天皇制ってそんぐらいおおざっぱじゃないと続かないんじゃなかろうかとも思う。 武士の成立って、やっぱり職能論が一番妥当じゃないのかなぁ
平安末からの朝廷の機能を個々の貴族の家にアウトソーシングしていく流れの中で、
軍事を担うようになった家(=源平等の軍事貴族)と、
その家の軍事力として編成された各地の連中が最初期の「武士」だっていうやつ
実際ただ武装したり武芸に優れているだけでは「武士」では無いという考え方があったというのは史料に残っているし >>105 じゃ、橘諸兄や源高明は働いていたから天皇になる可能性なかったのね?
文屋浄三・大市兄弟とか。 >>106
武士は原点・原初に近づくほど文字どおり武勇にぬきんでたる人と思えなくはない。
でも、某鈴木のいうように弓馬の人だったかまでは何とも。
武士の源流として名のあげられる
平良文(将門の叔父。秩父平氏、三浦・鎌倉氏、千葉氏)
平貞盛(将門の従兄弟。平清盛など伊勢平氏、鹿島平氏)
源頼光(源頼政など摂津源氏)
源頼義(頼光の弟。河内源氏:源頼朝・義経、足利、新田、佐竹、武田、小笠原、加賀美、南部)
源宛・渡辺綱(渡辺・松浦党)
藤原秀郷(小山、結城、佐野、波多野・大友、糟屋)
藤原利仁(斎藤、加藤、富樫)
藤原隆家(御堂関白道長の甥。菊池氏の祖とされる)
などは、武士は発生時点ですでに血統(中央貴族に連なること)が重視されていたことを示している。
後に世に出る楠木(橘氏)、赤松(村上源氏)、周防大内氏(百済の王)も出自は重視していたと言えるだろう。
平安時代の中頃はまだ「武勇の人が武士となっていた」と言えるかも知れないけど、
武士の家が確立され、職権が拡張して以降は「先祖が武士だった人」と堂々めぐりになってしまう。
また鎌倉時代以降の公家にも武芸・武略に秀でた人は出るが(太平記の北畠顕家、千種忠顕など)、彼らはまず武士とは呼ばれない。
公家にも甲冑で足利将軍の陣に従う人はいた。
室町時代の伊勢・陸奥浪岡の北畠なんかも武士と呼んでいいか微妙な所か。 >>107
岡野友彦は前掲書に『大鏡』の以下を引用してる。
陽成天皇が廃位された後の、源融と藤原基経のやりとり
融のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位につかせ給はむ御心ふかくて、
「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」
と言ひ出で給へるを、このおとどこそ、
「皇胤なれど、姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」
と申し出で給へれ。
まあ、↑やりとりが本当にあったかはわからんから、大鏡著者はそう考えたってだけかも知れんが、
新規に氏姓をもらってしまった人は天皇になりにくかったのは本当じゃなかろうかって気はする。
岡野は「源氏は特に天皇に近い」王族のようなもんとまで言うが…そこまで言っていいか俺は疑問。
源高明は実に絶妙な所だなー。
彼の兄弟兼明は源氏になった後で親王になってるもんね。
あ、王家に関するイヤミでは、百済王家は王号を許されたんで、何も白川伯だけが王家ではない。 諸王、王氏という既存の用語があるのに、紛らわしい王族などという言葉を使うな。
それから、前近代には、皇親はあっても、皇族はない。
岡野のあの新書は全体的に眉唾。
融と基経のやりとりは実際には無かったというのが通説。
陽成院は自分に仕候していた定省の践祚を冷ややかに見ていた。
百済王の王は、諸王の王ではない。
伯家は当主が神祇伯在任中のみ王を称していいだけの源氏であって王氏ではない。 土地支配の視点から見れば
荘園領主が公家
荘園を横領しようとするのが武士
という事象が多くみられる
だから荘園領主は鎌倉に「武士」の乱暴狼藉を止めるように催促した
逆の場合はまずない(武士が荘園領主で、公家が荘園を横領すること)
だから武士の本質は脱朝廷なんだよ 武士はただ武官の呼び名が変わっただけなんだよ その張本人たちが平安中期の公家(文官)
当時の中国・宋王朝が徳知主義をとってしばらく間栄えていたので日本の貴族はそれをパクッただけ
「朝廷は武力ではなく徳によって日本を統一したのだ」という伝説を捏造したわけだが
それには武官が邪魔な存在になった 「あいつらは官じゃなく士だ」とな
実際には武官なくしては日本の統一も維持も不可能であり
禁裏の公家たちの生命財産も武官なしでは維持できない
私兵なんかじゃ何時寝首をかかれるか分からないからな
禁裏を警護していた者たちは確実に武官だった
そのジレンマが「武士」というあたかも「武官とは別物の身分の集団が生まれた」
かのような錯覚を後世へ与える結果となった
ちなみに俺は井沢ファンだけど彼の起源説については矛盾が多すぎる 完全に誤り >>112 武士の本質は脱朝廷←それもどうかと思うな
だったら室町幕府が京都に都を置くはずがない
それどころか鎌倉幕府にしたって目上に朝廷を立てていたし
源氏が絶えた後釜の将軍には代々皇族を任命してるじゃないか
本音は「脱朝廷」のつもりでいる組織がこんなことしてたら矛盾もいいところだろ 岡野友彦の講談社新書『源氏と日本国王』はあくまで彼個人の所説
・多々ある賜姓氏族でも源氏は特に天皇に近い(と思われていたのだろう)
・源氏長者が日本国王だった
を説明するため諸々引用・記述してるだけであって、
今谷明先生の「足利義満の皇位簒奪」と同じ個人の私説。
ついでに書くと、岡野の姓と苗字の説明は雑だと思う(苦笑)。
大鏡、増鏡、平家物語、太平記などは「物語」に過ぎず、個々の発言の真偽はさほど問題ではなく、あくまで参考と考えるべきもの。
まあ実録である、朝廷の六国史も似たようなもんで、太古の発言なんかむしろ後世人の所思と考えるべきものなのと同じ。
「こんな語は(使われてい)なかった」論を言い出すと、中世に「皇室」とか「陛下」なんか誰も言ってなかったろうし、
そもそも論で言えば、日本の「天皇」「皇帝」「天子」、日本で使ってた「王」は全部【僭称】であって、
日本の天皇なんか最も高く見積もってもせいぜい「日本国王」止まりなのは中国通なら常識だろう。
前近代に「大日本帝国」とか「日本国皇帝」と書いた外交文書を中国に送ってた証拠がないなら、全く以て僭称であって、ベトナムと変わらん。
まあ百済「王」家は、天皇を皇帝と見なして特別に王号を許すってことだから、その文脈では正当性を持つものだろう。
神祇伯の白川王も、天皇が宗教性を帯びる性質を考えたら、わりと自然なものだったのだろうと思う。 朝廷と幕府の関係はなかなか難しいなー。
黒田俊雄先生の権門体制論の正否はともかく、
幕朝の職務が重複してる所もあって(守護が国司を代行とか。建武期の楠木正成や足利尊氏兄弟は同じ国で国司と守護を兼ねていたか)、
室町幕府なんか朝廷と混ざっちゃってたような所もあったと思われ。
鎌倉時代の有力御家人はけっこう国司をやってたようだ。
幕府の現役執権が相模国司、北条氏が陸奥・越後国司になってたことはよく知られているが、
島津氏が常陸介、大江広元が安芸国司やってたことあるとか、系図レベルでは何とかの国の前司とか多い。
それだけじゃなく、衛門尉になってた御家人は本当に多かったようで、
大江広元嫡流の長井氏(毛利は庶流)は幕末まで朝廷官人であり続けたらしい。
京都を守護する大番役もあったし(鎌倉警固は鎌倉番役なので、京都が先にあったともわかる)。
並び立つ権力とは言えても、脱朝廷とは言えないと思う。
幕府できる前、だから平安時代の武士なんか体制の下で生きてただろう…奥州藤原氏独立国家論も説得力に欠けるよな。 それと、やたらとマイナスイメージの強い平安時代の公家たちだが
連中には連中なりの「平安貴族版ノブリス・オブリージェ」があった
たとえば「俺たちは高貴だからこそ 食べ物で快楽を得てはいかん、
そのために可愛い動物たちを殺して肉を食ってはいかん」という価値観を
本気で堅守し努力していた 動物性たんぱくは魚介類に頼るしかなかった
その「高貴な文化」をそのまま受け継いだのが戦国大名→江戸幕府→町人
日本が獣の肉を食わなくなったのはこのためだろう
ちなみに藤原道長の大好物に蜂蜜で味付けしたチーズケーキのようなものがあったが
これは作るのに手間がかかりすぎて後世にまでは普及しなかった >>116 鎌倉幕府は朝廷から独立したいなんて気は毛頭無かったと見るべきだろう
源頼朝しかり承久の乱での政子しかり 彼らが反発してたのはあくまで上皇であり
「院政」であり天皇に逆らったことなど一度もない
ちなみに弟の義経が官位を授かったのは天皇からではなくて後白河上皇からだった
なまじ天皇を大切にする頼朝だったからこれに腹を立てたんじゃないか
頼朝「オメーっ、隠居した身の分際でいつまで勝手なことやってんだよ!!」てな
つまり本当に嫌いだったのは義経じゃなくて後白河のほうだった
文献にも頼朝は後白河のことを「アイツは朝廷を操る大天狗だ」
とののしったという記録が残ってるらしいし
しかし政治にうとい義経は自分は嫌われてると誤解し「そんな官位すぐに返上してこい」
という頼朝の命令に従わなかった ここから兄弟の亀裂が深まっていったのではないか? 頼朝は後白河法皇が死ぬほど嫌いだったんだろう
祖父が父の手で処刑されたときも命令したのは天皇時代の後白河だったし
父を追い詰め破滅させ 自分が二十年間も島流しの刑になったのも後白河のせい
あれだけ清盛びいきだったくせに 平家が滅んだとたん源氏になびき
義経を取り込もうと隠居の身にもかかわらず天皇を無視して官位を授けた 公家がマイナスイメージ持たされたとしたら(いや、今でも公家化=ダメ人間だから確実にあったろう)
・新しい支配者たる武士に敗れた(中国でいうと夏・殷のイメージ?)
・日本人の美意識が変わったのに、旧態をとどめた(お歯黒…は別に公家だけじゃないんだが)
武士と対比されて負け犬、のくせにプライドは高いということで、
庶民からもやっかみを持たれたということかも知れない。
でも、これこそ右翼が大喜びしそうだが、完全に武士に屈服していたであろう鎌倉時代の御門も治者道徳は強く持っていた。
天下が巧く治まらねば自分に徳が欠けていると考えた花園院(いや他の公家もそうだったかも知れんが、天皇はよく知られてる)。
後醍醐も意外とまじめな政治姿勢だったことは勅撰和歌集で察せられる。
まあ、今川義元の母は公家、武田信玄の三条夫人も公家(所生の義信は優秀だったという)、
足利将軍家は公家との婚姻が多かったのに武芸に秀でていたり、
何より武勇に秀でた足利一門をすら脅かした北畠顕家(彼が教養人だったことも有名)、
公家を見下した所で別に武士を持ち上げることにならないんだが。 >>114
武士は朝廷の言いなりにならないとして幕府ができた
じゃあ天皇を滅ぼせばいいじゃないかというかもしれないが
それはできなかった
天皇の権威を全否定は出来なかった
この辺りが矛盾だな
あの高師直でさえ、天皇は金か木で作れと放言はしていたが
ちゃんと朝廷の官位を受領し、天皇が任命した征夷大将軍の権威を認めていた 高師直の「生きた天皇など流刑にしてしまえ」も太平記の発言に過ぎず
おそらく彼の立場上実際にはそんなこと言えなかったろうと思うけどね。
高一族自体も、天武天皇・長屋王の末裔の高階氏、または足利の支族すなわち清和源氏だ。
天皇たち公家の政治権威が最も低迷してた江戸時代でも、
天皇は2万石(のち3万石→10万石と加増)、摂関家は各家が数千石、その下でも数百石をもらってて(無論、実収入と支出の問題はあれど)、
武士でも、小藩の家老渡辺崋山は300石、会津藩筆頭家老西郷家でも1,500石、吉良上野介が3,000石(加増で+1,000石)、小栗上野介忠順だって旗本3,000石…
だから、公家は支配階級であり続けた。
庶民とは比較にならない。
公武と言っても、支配階級の内部で栄枯盛衰があっただけ。
平安時代の武士がまだまだ天皇たち最上位の支配階級に及ばなかったとしても、
国司だったり、社会の上層の人たちではあった。 >>122 なんで会津23万石の筆頭家老西郷家で1500石なのに播州赤穂5万3000石の城代家老大石内蔵助が同額なの? 武士=呼び名の変わった武官、なんだからあくまで朝廷を支える柱であり
独立だのといった話とは何の関係もない ましてや朝廷を滅ぼすだなんてありえない
すべての元凶は後白河法皇にあった だだそれだけ
この男の都合に親子三代に渡って運命を翻弄された頼朝は
後白河個人が許せなかったのであって朝廷そのものへの叛意は微塵もない >>123
その辺は藩の成り立ちによるんじゃねえの?
前田藩なんかけっこう大身の家来がいた。
浅野家はもともと濃尾の武士で(浅野が武士なら、姻戚の豊臣秀吉も武士出身の可能性が高いと思うのだが)
大石内蔵助義雄は鎌倉幕府御家人下野大掾小山氏(鎌倉時代に播磨守護だった時がある)の末裔という。
大石家がもともと名門なら、藩総石高のわりに大石が大身でも不思議じゃなかろう。
会津松平家はもともと小藩だったから、1,000石ももらえば大出世だったとは思われ。 >>124
武士は公家を領主とする荘園を横領していったという社会構造がある
ただの武官貴族=武士ではない >>122
清和源氏の土岐頼遠が光厳上皇の牛車に出くわし
「院というか。犬というか。犬ならば射ておけ」
と上皇の乗った牛車を射る狼藉を冒してるし
当時の武家たちに天皇=崇高な主君という意識はなかったと思うがね
土岐頼遠だって足利尊氏には間違ってもそんなことしないわけだから 南北朝のころは特に公家に反発する武士が目立ったんでないかと思う >>125 まあ、上杉景勝の会津は120万石だから直江兼続が30万石貰ってもおかしくないね。
それこそ直江の家臣で1万石もらってるようなのがいてもおかしくないね。 日本は魏晋南北朝のパクリ
魏晋南北朝の律令社会にあった皇帝、名門貴族、下級武官の三竦みが日本の政治 藩主の家が土豪クラスからの成り上がりで周辺の土豪クラスがその家臣団だったような藩は大抵大身の家老家がいくつかあるね
守護代やそのしたの郡奉行クラスだと譜代の手下ばかりなんで大身の家臣はほとんどいない >>127
出自が高貴な連中だと、近世近代のウヨのようには天皇を神聖視してなかったかもね。
源氏というのは平安時代以降に天王から分かれた同族だし。
平将門だって桓武天皇四代の孫だから、天皇になってもおかしくない程度には近い。
継体天皇は応神天皇五代の孫と称した。 ちなみにお相撲さんの貴景勝は貴乃花親方(貴花田)が上杉景勝のファンだから
これ豆な(*^▽^*) 元前頭11枚目の景虎は1969年1月よりNHKにて放送された大河ドラマ『天と地と』の主人公であった上杉謙信の出家(改姓)前の名・長尾景虎に因んでいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E8%99%8E%E5%92%8C%E5%BD%A6 >>132 平将門が天皇で藤原秀郷が関白。関八州国。 軍師 「北朝鮮軍のミサイルが全弾発射されたら
推定韓国人156万人が死亡すると「軍事専門家たち」が予測している!」
「ノドン・ミサイル」が「300発」が配備!「射程距離1300km!」
「ノドンミサイル」は、同時に50発発射できる!!
日本全域がねらわれている!!
「大陸間弾道ミサイルKNー09」 射程距離300km!!
韓国全土がねらわれている!!韓国全土が射程圏内!!
「専門家の予測」では、北朝鮮の「砲撃」と「ミサイル攻撃」で、
「韓国人156万人」が死亡すると予測している!
安倍総理
「北朝鮮のミサイルは、「サリン」を弾頭につけて、
着弾させる能力をすでに保有している!!」(総理の発言!!)
◎原子力発電所を今すぐ停止して下さい!(センダイ・ゲンカイ原発)
◎「ケイタイ」や「スマート・フォン」が、日本で、なにかおこった場合、
けたたましく鳴るでしょう(アラート・システム)!!
「テレビの情報」を確認して、安全な場所に避難しましょう!!
◎「ケイタイ」や「スマートフォン」は、ベッドの近くに置きましょう!!
〇食料を「3日分」リュックに備蓄しておいて下さい!!
◎ガラスの近くには寝ないで下さい!(ガラスの破片はキケン!)
軍師 >>81
>ただ安倍氏が俘囚とされている史料・・・・・・・・・・
安倍頼良の出自を蝦夷で俘囚としているのは、何という史料なのですか? 将門から武士と呼ばれるようになったのは この時代から武官が差別され始めたからだろう
朝廷を帝国から皇国へと変質させていくために必要なことだったかも知れない >>140 そのへんで活躍した 藤原忠文 小野好古 秀郷 貞盛 みんな昇進しているよ。
橘遠保は除く。 >>141 そうらしいね 歴史テレビ番組で見た ところで
なぜ日本の歴代武士政権は朝廷を滅ぼして自分が名実ともにトップの地位に就かなかったのか?
<↑というよくありがちな疑問を海外に置き換えてみた↓>
なぜ中性〜近世のヨーロッパ諸王国はローマ教皇を滅ぼして自分たちがその地位に就かなかったのか?
こう考えると分かりやすくなると思うのが、どうだろう 確かに天皇とローマ教皇を同列に置く論が散見されるが
ローマ教皇はキリスト教カトリックの宗教指導者が本質だが、
天皇はそもそも日本を統治していた政治家であり軍人という本質がメインであった
中国の皇帝からは古代の天皇は安東大将軍 倭国王に任命されるぐらいだ
むしろローマ教皇に近いのは日本史では
寺社の旧家が近いかもしれない 古代エジプトのファラオも宗教的性格と政治的性格の両方を持っていた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています