邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 274の>>590
>ヒミコが誰でどこにいたのか言わない時点で「説」ではない。
したがって、 九州「説」なんて存在しない。<
この男も、
卑弥呼は松野氏姫氏系図には「刀良」と言う名前で、「大野」付近にいた、
という説明をしてある事を、知らん振りして、
同じことを繰り返す・・・・のようであるから、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説のサギシ仲間なんだろうなあ。 >>191
安全保障もなにもその中華が滅亡しちゃうんですけど で、その防人(失笑とやらが防衛する対象ってどの勢力よ?
三国志東夷伝のどの勢力よ?
それが説明できなければホラッチョ畿内説滅亡w >>191
>倭国王帥升の朝貢失敗は中華との安全保障を得られなかったという事。
倭国王の称号を手に入れたから、むしろ外交は成功した。 >>193
>この男も、
>卑弥呼は松野氏姫氏系図には「刀良」と言う名前で、「大野」付近にいた、
>という説明をしてある事を
おい加古川のハゲじじい。
この男って俺なんだが、そうすると大野付近にいた刀良という、
小汚いおばはんがヒミコであるというのは九州説の総意なのか?
笑わせるなwww 朝貢失敗なのは疑われた旧唐書の遣唐使だね。
態度が悪くて、
元小国で倭国を併合したのを吐かせられちゃった。 >>201
隋の時も失敗したね。
無礼だから以後は取り継ぐなと言われて国交断絶しちゃったね。
あれに比べれば、倭国王の称号を手に入れた帥升の外交は大成功だよ。
他の倭国の自称王の上に立つ立場を手に入れたわけだからね。 >>203
>倭国王の称号
いやそれは自分で名乗ったからでしょ。
倭国王帥升というのが生口160人連れて謁見に来たというだけでしょ。
安帝が倭国王という称号を与えたわけではない。 国定歴史書に倭国王と明記されているね。
生口160人を連れてきたということは
数百人単位の輸送能力を持っていたんだね。
だったら街道のない3世紀だと
一方的に海兵隊を輸送して攻めまくりだね。
迎撃手段なし。 皆が王を称すると書かれた時は、漢としてはしれを全部承認するわけにはいかなかった。
だが、帥升については漢もそれを承認したからこそ、そのように記録した。 >>207
承認したのなら何かしら印綬が行われるだろう。
しかしなかったよね。 金印ではない格下の印綬だったんじゃない?
だから記録しなかった。 >>208
なかった根拠がない。
倭国王に指名したから、あったと考えるべき。
わざわざ書くほどでもなかっただけ。
冊封と印綬はセットだから、当たり前すぎて書くまでもない。 倭国王帥升は建武中元二年(57)に入朝した倭奴国の大夫
漢によって漢委奴国王とされた者
安帝永初元年(107)ですから当人ではないかもしれませんが、本人かその後継者
だから金印は既に貰っており再度の印綬はない
漢に入朝すれば倭国王として扱われる
冊封も印綬の記事もないのは当然
既に倭国王を任命してるのに
違う系統の人物を漢が倭国王として扱うことはできない。 >>211
>>212
ないものから何であった事になるのか。
倭国王に指名した野ではなく帥升自身が名乗ったのだろ。
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
倭国王帥升とはスサノオである。 後漢書を読んで建武中元二年(57)の倭奴国と安帝永初元年(107)の倭国王を別物と考える人は頭が変
別物とした場合、突然に倭国王が出て来るのは変だし(冊封と印綬は何時の間に?)
連続した記事だから当然、同じ人物かその系統の人物だ。 >>215
帥升自身が倭国王を勝ってに名乗てたらそう書かれてるよ
自稱倭国王とか。 安帝は帥升に印鑑は別としても何も持たさず返してるよね。
何か与えたという記録もないからね。
という事は朝貢失敗でしょ。 朝貢失敗なら、それらしいことが書いてあるはずだが
そんな記事無いし、倭国王帥升と正式な倭国王と記されてるからね
倭奴国と倭国を同一と考える方が合理的でそれ以外ないですね。 >>219
ただ謁見要請に来ただけで、手ぶらで返してるのに何で朝貢が成功したことになるのだ? ヒミコやトヨの場合でも何を贈ってきたか、
何を返したか、細かく書いてあるではないか。
帥升の場合は何も書いてない。
それが何で朝貢成功になるのだか。 倭奴国とは別系統の倭国王が来たのだろう。
中国側からすれば、57年に既に印綬してるし、
この別系統の倭国王を認めることが出来なかったのだろう。 >>221
建武中元二年の記事も簡単に「光武賜以印綬」だけで他に何を貰ったか何を献上したか無いですね
安帝永初元年で「獻生口百六十人願請見」だけでも変じゃない
この辺の記事は凄く簡単にしか書かれてない
これだけで朝貢成功や失敗は判断できませんね。 >>222
別系統なら倭国王とは記されませんよ
倭国王と描いてある以上は
同一系統の人物ですね。 >>224
どうして?
どう見ても倭奴国王とは別系統でしょ?
名前が違う 建武中元二年に倭奴国に印綬した
安帝永初元年に倭国王帥升が朝貢してきた
これだけの記事
倭奴国と倭国王帥升が繋がっている。 >>225
奴は蔑称だから
2度目の朝貢で格上げになったんでしょう。 >>220
単に朝貢があったというだけで下賜品とか印綬とか触れられていない記事は一杯ありますよ 銀印か銅印でしょう。
それ以前の記事と比較すると、明確に王として冊封されたので、所領安泰されて外交的には成功でしょう。 建武中元二年に倭奴国に印綬してますから安帝永初元年には再度の印綬はないですね
建武中元二年に倭奴国の大夫が柵封されて倭国王となった
安帝永初元年に倭国王が再度入朝した
それだけの記事。 なるほど。
言わずとも同じ国であることは明らかで、印綬はそのまま継承していると。
その倭国をさらに継承したのが卑弥呼ですね。
その都の場所も言わずもがなですね。 印綬を拝領した倭奴国は、考古学的には伊都国になるので、伊都国は倭奴国の言い換えです。
伊都国最初の王墓である三雲南小路遺跡の祭殿である細石神社に漢委奴国王印が保管されていたという口伝にも根拠があることになります。 >>232
漢王朝が続いている間は漢委奴国王は有効なんだから
最後の所有者は新たに親魏倭王の金印を貰った卑弥呼だった可能性が高いんだよな。 魏への最初の朝貢には漢委奴国王印を御璽として用いたでしょう。
卑弥呼がどこにいたか、明白ですね。 >>235
>卑弥呼がどこにいたか、明白ですね。
明白ですね。畿内です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬、北部九州、瀬戸内のモノノフさんたちが畿内の都を守ってます。 >漢委奴国王印を御璽として用いた
あの金印が本物かどうかw
発見場所が志賀島ってw
何処から見つかったことにするか悩んだであろうな、江戸幕府もw >>232
>言わずとも同じ国であることは明らかで、印綬はそのまま継承していると。
その倭国をさらに継承したのが卑弥呼ですね。
同じ国であるなら倭国王帥升でなく倭奴国王帥升と書くはず。
倭奴国と倭国は違う系統。 なんで名前の違う国を平気で
同じ国だと言い張れるんだろう
神経がわからん 倭奴国が倭国の中にあることは確実だからだよ。
ただ、奴国から伊都国に微妙に意味をずらしているね。
遷都を巧く誤魔化しているかも。
後に筑紫倭国から畿内大和への政権交代をうまく隠しているのと同じだな。
いろいろ言いくるめていくのは日本人の得意技なのかな。 >>239
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
倭奴國は倭國の極南界に在り、印綬を賜ってる
倭奴國の大夫が印綬を賜って倭國の王になったって文章だな
違うと言い張れる神経がわからん。 >>241
これを
倭奴國の大夫が印綬を賜って倭國の王になった
って読んじゃう人の脳が
正常だと思う気持ちがわからん。 >>241
そんなふうに読んだ人が
アナタ以外に、いる? 倭国の極南界に在る倭奴国の大夫が来て金の印綬を賜りました
さて何処の王に封ぜられたでしょう?
@倭奴国・・・・・・×
A倭国・・・・・・〇 もらったのが金印だったからでしょ。
倭国王でなければもらえない。
実際に金印がある以上、どうしようもない。 糸クズは俺様偉い教の教祖様だからな
やってるのは学問じゃなく宗教そのもの >>245
>実際に金印がある以上、どうしようもない。
満州事変の年に軍部が強引に国宝にしてしまった金印ねwww 「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」
大夫が倭奴國王になったとしたら、突然に倭國王が出てくるの変でしょ?
倭奴國王は何処に行ったんですか?
倭國王は何処から湧いてでたの?
倭奴國王なんて後漢書には無いんですよ。 >>246
実在する金印を妄想とか言い出したよ。
畿内説も末期だな。 消えた倭奴國王、突然出現する倭國王を想定するより
倭奴國の大夫が倭國王になったが自然だろ。 >>252
金印を妄想だと誰が言った?
岡上は捏造が、好きだな。 それより
57年当時は倭奴国が倭連合の対外交渉代表くらいだったんだろうけど、
107年の頃は倭奴国が倭連合の盟主国になっていたので倭国王と呼んであげたんじゃないかな 倭奴國の大夫が倭國王でないなら
後漢書に倭奴國王と倭國王の関係が記されてるはず
突然に倭國王だけを書くなんてないな
倭國王の出くらい書くな。 歴史書なんだから
消えた倭奴國王、突然出現する倭國王
なんて書かない
歴史の流れ繋がりを記すのが歴史書。 勝手に前提条件を決めて、それへの当否で自説の可否を主張するのはトンデモの常套手段 日本側は一貫して倭奴国(伊都国)と称してたんでしょ
中国側からは倭国王と呼んだり親魏倭王と呼んだり 旧唐書にあるよ
日本側は一貫してるよね
「倭國者,古倭奴國也」 >>272
偽スレ立てrとナリスマシ常習の変質者だろ 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文を誤読したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッキナー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 漢文読めるのなら畿内説なんて馬鹿しい説直ぐに間違いだと気付くよね。 倭奴國の大夫が印綬を賜り倭國王になった
に異論は無いですね。 >>279が漢文読めない岡上w
倭奴國の大夫が印綬を賜り倭國王になった
に異論は無いですね。 >>284
使者が自らを大夫と称したんじゃなくて
自ら大夫と称するの使者だな
使者が大夫なら倭奴国から来たとあるだけで誰の使者か書いてない事になる。 白村江の時代、畿内に王都があったのと同じく、
弥生時代にすでに畿内に王都がある。
https://goo.gl/m2KfqU
これを見てもまだ防人の土地・北部九州に都があったとするやつはどうかしている。
面白いのはこの九州〜瀬戸内集団がニギハヤヒとともに大和入りしたことが天神本紀に書かれている。
そして纏向遺跡は寺沢によれば筑紫、吉備、播磨、讃岐の強い要素だそうだ。
ピタリ合うではないか。
防人集団、モノノフ(物部)と合うではないか。 青銅器文化でも銅剣など武具が出る北部九州と、
銅鐸が出る畿内とでは違う文化だと言われてきた。
ところが荒神谷遺跡では銅剣と銅鐸が一緒に出た。
つまり別文化ではなかったのだ。
同じ文化でありながら北九州には武力、畿内には祭祀。
これは畿内にあった都を九州が防衛してる姿なのだ。
対馬に大量の武具が出る状況には反論できないだろう。
邪馬台国の都は畿内にあった。 なぜ何も根拠になってないことが理解できないんだろう ではこの銅剣も銅鐸も含めた西日本全体の青銅器文化の王は誰だ?
弥生時代だから青銅器文化の王=天皇ではない。
神武はもちろんBC660年ではない、平均在位から計算しても3世紀前後。
この大きな国の王とは「大国主(大物主)」だ。
そしてヒミコは大国主の系譜にいるのだ。
事代主神の娘、ヒメ踏鞴五十鈴媛しかいないのだ。
邪馬台国とは葛城である。 >>291
>ではこの銅剣も銅鐸も含めた西日本全体の青銅器文化の王は誰だ?
少なくとも卑弥呼ではない、中国の目に止まらなかった豪族だよ。
魏の使いが外交を行った九州北部とは違う文化圏なら、邪馬台国とは関係ない土地ということだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています