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邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2017/01/01(日) 00:47:06.37
けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
0520日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 10:28:28.16
>>517の続き
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
上の文では十寸を尺と為すとある ここに及びその字は、下で周の制度では八寸を尺と為すという

別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
別の周の制度は古と異なるなり 王制曰く、古は周尺を以って八尺を歩と為す
今、周尺を以って六尺四寸を歩と為す

鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の長さ(数)はいまだにはっきりとしない 礼制から考えるに、周はなお十寸を以って尺としたようだ

 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
 けだし、六国時(春秋時代)には、多くの変乱した法度が用いられていた
 あるいは周尺は八寸という 歩を以ってさらに八と為す(八尺が歩) 八八、六十四寸となる(今以周尺六尺四寸爲步と一致する)
  
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭(のいうこと)は八寸を尺と為す、という意味になる
周末の頃に、この測り方が始まった 異説ももちろんありうる 諸侯の力政のためということもまたありうる

分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
七国に分かれた時代(戦国時代)である 田の大きさ、車の車輪の幅、律令の法も、国ごとに異なっていた
すなわち、その説くところもまたいまだかつて合わないのもしょうがない

左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
佐伝(左氏春秋伝) 天威不違顏咫尺 天子の威光、咫尺に顔を違らざる
咫尺を並べていう 二尺とは言わざるなり(咫と尺は同じ長さ(=八尺)ではない)

國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外伝)では、列子皆その長さを「尺有咫」という
またその長さを二尺とは言わざるなり
これ、周はいまだかつて八寸を尺と為さざる証というべきや
0521日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 12:02:23.29
>>520の補遺
《王制》 出自《礼记》是指古代君主治理天下的规章制度,
内容涉及封国、职官、爵禄、祭祀、葬丧、刑罚、建立成邑、选拨官吏以及学校教育等方面的制度。

禮制,漢語詞彙,漢語拼音為lǐ zhì,
是コ治夢想的具體化,指的是通過禮儀定式與禮制規範塑造人們的行為與思想;
通過法律的懲罰維護禮法的絕對權威。

據史實而論,西周王朝的禮制和官制顯然受先周禮制文明的影響,尤其.
對夏、商二代之禮制及官制有其沿襲的軌跡。
究其遠源,姬周王朝官制與禮制之形. 成,實際上應追溯到堯舜時代。

鄭注
後漢の鄭玄(じょうげん)による経書の注釈
0522日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:25:32.56
纏向遺跡と出雲、吉備の間は、双方向の土器の移動が確認できる
吉備甕は、北部九州から畿内まで出土している

北部九州の土器は、畿内ではあまり出ないが、北部九州では畿内様式土器が
畿内第V様式から順に、畿内の土器形式の変遷に合わせて出土している
この部分については、ソースをつけておくから確認してくれ
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
0523日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:36:14.40
地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/
honkawa/7240.html  
地域別人口規模の順位の変遷
http://www2.ttcn.ne.jp/
honkawa/7242.html  
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて
 畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃ってシェアを拡大し、
 そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、
 やはり揃って地位を低下させている。
 ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を
 養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」
0524日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:42:38.60
奈文研の遺跡データベースで検索した時のヒット数のことだろ?
でも、そのデータベースの説明で
「データベースの情報源は大きく 3 つに分けることができる。
 1 遺跡地図
 2 遺跡地名表
 3 発掘調査報告書(報告書抄録)
 遺跡地図は都道府県教育委員会、市町村教育委員会が発行する遺跡に関する包括的な情報源として
 最も大切なものである。『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』する。
 地図が付加されていて位置情報の取得も可能な資料である。」

と書いてある

『地域によって精度、更新頻度が異なり、近接自治体との情報格差が存在』
九州説はこのデータベースのヒット数で、福岡県の方が多いと「言える」と
思っているようだけれど、そんなことはないんだよ
0525日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:43:13.16
実際に検索してみると
0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件 「弥生時代の集落遺跡」
2. [福岡県] 1703件
3. [調査 (除外検索)] 723件   「調査を除外」
福岡県の「弥生時代集落」のデータのうち、980件が調査報告の件数で遺跡数ではない

0. [遺跡データベース] 482701件
1. [3001など複合条件] 15436件
2. [奈良県] 229件
3. [調査 (除外検索)] 47件
奈良県だと、「弥生時代集落」のデータのうち、182件が調査報告の件数で遺跡数ではない

また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵

それに対して、糸島の三雲遺跡群は5件のデータとして、データベースに登録している
341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2

結局、何を以って遺跡数とするかは、その地方自治体の考え方次第ってことで、
奈文件のデータベースは、それをそのまま記載しているってことだ

これで、福岡の方が奈良より遺跡が多いとか、言ってもしょうがないだろ?
0526日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:43:36.78
福岡県の弥生墳墓遺跡だと
調査を除いて757件がヒットするけど、そのうち
「204件」が宮若市沼口字汐井掛の汐井掛遺跡で
「汐井掛第90号木棺墓」とかの個別の墓一つ一つが数えられてる

そりゃぁ、数が多くなるのが当然だわ
0527日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:44:02.63
ごめん、三雲遺跡群、もっとたくさんあった
三雲・井原遺跡で地区登録が15件 その他個別登録で9件
合わせて24件だった

341072 地区 40230 三雲・井原遺跡 456-1・458-1番地 福岡県糸島市三雲456-1/458-1
403739 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ2582・2583地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ2582・2583
403734 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ428・429地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ428・429
403738 地区 40230 三雲・井原遺跡 ヤリミゾ434地区 福岡県糸島市三雲字ヤリミゾ434
403726 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西526-1地区 福岡県糸島市三雲字下西526-1
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403727 地区 40230 三雲・井原遺跡 下西533地区 福岡県糸島市三雲字下西533
403733 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷426地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷426
403731 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷471・482-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷471・482-1
403728 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷478-1ほか地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷478-1・479-1・537-2
403729 地区 40230 三雲・井原遺跡 中川屋敷480-1地区 福岡県糸島市三雲字中川屋敷480-1
403725 地区 40230 三雲・井原遺跡 井の川529-2地区 福岡県糸島市三雲字井の川529-2
0528日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:44:19.97
153426 個別 40230 三雲・加賀石支石墓 福岡県糸島市三雲加賀石 333236.3 1301440.0
348190 個別 40230 三雲井ノ川遺跡 福岡県糸島市三雲
153421 個別 40230 三雲原際所在7-729墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際 333223.5 1301400.3
153432 個別 40230 三雲原際所在7-740墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲原際
153430 個別 40230 三雲屋敷所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲屋敷
153431 個別 40230 三雲所在墳墓(仮称) 福岡県糸島市三雲
153428 個別 40230 三雲柿木所在7-736包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
153429 個別 40230 三雲柿木所在7-737包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲柿木
445195 個別 40230 三雲郡所在包含地(仮称) 福岡県糸島市三雲郡
0529日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:45:25.87
例えば、桃の種2000個が見つかったのは、祭祀土坑のあとで、供献土器も同時に出ている
3世紀当時の直接的な祭祀・宗教行事の直接的な考古学的遺構としては、ほぼ唯一の発掘成果だ

纒向遺跡の一番の重要性は、前方後円墳祭祀が統合・完成された、宗教的な中心都市だった点にある

箸中山古墳に先行する纒向型前方後円墳時代の纒向古墳群の時点で当時の列島最大の墳丘墓であり、
埋葬部分、墳墓そのものが最重要の遺跡なんだよ
0530日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:47:24.45
>>527
時代とかが違う遺跡が含まれているから、たまたま三雲地区にあるというだけで、別々に数えることは不適切ではない。
0531日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:48:35.91
魏志倭人伝には
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
と書かれている
つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ

大きな墓を作らない地域は倭王の所在地としては除外してよい

そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる
纒向石塚古墳から箸中山古墳まで累代的に築造されたと考えられている纒向古墳群の
5つの墳墓はいずれも列島最大であり、編年によってそのうちのどれに当たるかは前後しても
纒向古墳群のいずれかが卑弥呼の墓の第1候補となることには変わりがない

編年が今後より古い方にスライドすれば、箸中山古墳が卑弥呼の墓の確率が高くなる
0532日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:49:57.61
>>531
>そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる

論理の飛躍。
0533日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:50:36.93
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね

畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ
0534日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 17:51:37.05
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ

平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ

そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない

本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然
0535日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:03:46.46
「歩」は文字の成り立ちからいっても複歩

https://f.jigen.net/img/fn/k/1/70/27497o1.png
#1歩(あゆ)む。足をふみ出してゆく。
#2歩(ある)く。歩行する。
#3止は左足の足あと、𣥂は右足のあしあと。左右の足あとを連ねて歩行の意とする。武は半歩、歩は六尺、合わせて「歩武堂々」のようにいう。足を地に接して歩くことは、その地の地霊に接する方法で、重要な儀礼に赴くときには歩するのが常法であった。(字通)
#4右の足+左の足。左と右の足をふみ出すことを示す。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/27497

説文解字
步,行也。从止𣥂相背。凡步之屬皆从步。
行くなり、止と𣥂の相背に従ふ、凡そ步の屬は皆な步に従ふ。
0536日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:06:05.46
実際の大陸の度量衡でもすべて複歩の長さ

長さとしての歩は、古代中国の周代に制定された。
右足を踏み出し、次に左足を踏み出した時の、起点から踏み出した左足までの長さ
(現代日本語でいう「2歩」)を「1歩」とする身体尺

周歩=約 1.35 m
秦漢歩=約 1.38 m(始皇帝の度量衡の統一)
魏晋歩=約 1.45 m
隋歩=約 1.77 m
唐歩=約 1.56 m(1歩=6尺から1歩=5尺に変更)
0537日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:06:20.61
伊能忠敬の歩測では、複歩で約138センチで秦漢代の一歩とほぼ等しい
単歩で69センチだな
現代では、歩測は複歩で150センチになるように調節する訓練をするそうだ
この場合は単歩で75センチ
ソースも付けておこうか
http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/kodomo/taiken/hosoku/hosoku.htm

さらに、年齢別の単歩の集計結果も見つけたので、貼っておく
男性は、15歳から49歳の範囲で、70センチを超えてるよ
https://pt-matsu.com/wp/wp-content/uploads/2017/11/a94943a9de0a8cbd0c25e72e0ba1dd7b-1.png
0538日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:08:01.71
説文解字では、
中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。从尺只聲。
となっているね

単に、周代の尺を、咫という文字でも表したっていうだけだ
円周とかそんな意味は一切ない

そして、周代の尺がどうなっているかについて説文解字は清代の注釈
清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、それに拠ると以下のとおり

周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
0539日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:10:34.08
周尺也。  
周尺である
夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
上の文では、10寸を尺とするとあるが、ここに及びその字を周の制度では8寸を尺とするという
0540日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:12:38.64
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
別の周の制では、いにしえと異なるという 王制では昔は周尺の8尺で歩とするとあるが
今は周尺の6尺4寸が歩である
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺が何寸かはよく分からないが、礼制から考えて、周でも10寸で尺としていたようだ
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
 それでいて六国時代は法や制度が乱れ、多くの変法があった
 あるものでは、周尺は8寸で歩は8尺、つまり、八八(はっぱ)64寸となる
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭が意味するのは、8寸で尺だったというもので、周末にこれが始まったとする
異なる説明もありうるが、諸侯がそれぞれに政治を行っていたというのも事実だ
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
7国に分かれ、田の広さも、車の車輪の幅も、律令も異なるようになり、
その説くところもいまだかつて合わない状態だった

左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
左伝(左氏春秋伝) 天威は咫尺に顔を違えず
咫尺を並べて言う 二尺とは言わない
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
国語(春秋外傳國語) 列子はみなその長さを「尺有咫」という
また、その長さを2尺だとは言わない
これは周がいまだかつて8寸を尺としなかった証としてよいだろう
0541日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:13:53.98
>>531
>卑彌呼以死大作冢徑百餘歩

300歩が1里だから1里が80mなら1歩27pくらい
100歩なら27mだからそんなに大きな墓じゃない。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:15:47.30
畿内説は三種の神器を貶めないと成り立たない。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:16:21.04
日本書紀の雄略紀には、
「遣身狹村主・檜隈民使博コ、使於吳國。」と、遣呉使の記録はある
遣宋使の記録はないけれどね

宋は南北朝時代の南朝の王朝なので、大雑把には呉の地域だ

雄略天皇の前代あたりで、日本書紀の暦が元嘉暦から儀鳳暦に変わるため、
允恭天皇以前の儀鳳暦部分は書紀編纂時に計算されたものと考えられ、
その部分のもとの記録が春秋年(二倍年暦)だったのでは、と想定する人も多い

そのため、雄略天皇以前の対応は見出しにくくなるが、大陸との往来が仁徳〜安康紀にも
記されており、倭の五王が大和朝廷の大王であることは、定説となっている
0544日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:22:01.08
和歌山の日前神宮・國懸神宮のご神体は、日像鏡と日矛鏡で、
八咫鏡の前に作った試作品の鏡とされている
こういう八咫鏡に連なる鏡が、近畿にある
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/4/8/48c9c1d9-s.jpg

そして、>>881
>伊勢の八咫の鏡の箱を入れるオケの大きさが平原の鏡と一致するんだよね。

などと書いているが、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に
「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、
蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、
明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、
その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、
円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:31:27.33
>>530
>時代とかが違う遺跡が含まれているから、たまたま三雲地区にあるというだけで、別々に数えることは不適切ではない。

>>525
「また、奈良県だと唐子鍵遺跡で1件としている
 182075 個別 29363 唐古・鍵遺跡 奈良県磯城郡田原本町大字唐古および鍵 」
って書いてあるだろ?
唐子・鍵遺跡は、唐子と鍵にまたがる大遺跡で、かつ、弥生時代前期から古墳時代に至るまで
拠点集落として存続した、異なる時代の遺物もてんこ盛りに出る遺跡だけれど、

奈良県の(というか田原本町のかな?)の、データベースへの登録方針だと「1件」になる

唐子鍵遺跡と、三雲遺跡群では、唐子鍵の方が遺跡の範囲、存続期間ともに長いけれど、
それが、24倍の件数の差で登録されている

データベースの検索件数で福岡が多いっていうのは意味がないだろ?
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:34:19.11
>>532
>>そして卑弥呼の墓の候補は、その当時の最大の墓がまず第1候補となる

>論理の飛躍。

九州説お得意の、一言書き逃げコメントだなw

>>531に書いてあるだろ?
「魏志倭人伝には
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
 と書かれている
 つまり、倭国は王が死んだら大きな冢を作る国だ、と書いてある訳だ 」

これが、後の古墳時代につながる様相をそのまま記したものなのは、異論ないだろ?
大きな古墳を作れないところは、無視してOKだよ
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:40:12.09
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする

伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態、という大きさがある

平原遺跡の案内看板の解説文では、1号墓の墳丘サイズは長さ約13メートル幅8メートルの方形周溝墓
0548日本@名無史さん
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2018/04/24(火) 18:41:18.60
>>546
で、卑弥呼時代の大きな古墳ってどれ?

まさかまさか
領地に鉄器ゼロのホケノ山なんて持ち出さないよな?
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:42:32.19
耳璫・耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf

これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の気泡を含むガラス層、
 その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる「金層」ガラスである。
 金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、
 その外層には褐色透明なガラスが用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」

これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる
またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
 これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
 しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる

古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている

現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になっているのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:43:10.70
平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない

耳飾りからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない

平原一号墓はもう少し、検討が必要だと思う
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:52:38.43
>>541
>300歩が1里だから1里が80mなら1歩27pくらい
>100歩なら27mだからそんなに大きな墓じゃない。

歩は複歩って話がさんざん書いてあるだろ?
>>535、〜>>537

歩は、本来身体の大きさで決まる身体尺だから、大きく変わることはできない

そして、径百歩を報告したと思われる張政は塞曹掾史=掌辺塞之職。
国境の要塞の職を司る政治職員。掾史=副官。
ということで、軍政、補給や兵站に関わる魏の役人

そういう立場の人が、魏の度量衡の体系から離れた『歩』で記録したと考えるのは、
ある意味常軌を逸している

そもそも東夷伝里などというものは、一部の九州説の人の心の中にしかない
それに合わせた「東夷歩」を想定しても、無意味

そして、27メートルでも、平原1号墓はその半分以下
どうやっても、平原1号墓は卑弥呼の墓にはならないし、
平原1号墓を除けば、北部九州に3世紀の王墓候補すらない状況になる
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:57:37.30
>>542
>畿内説は三種の神器を貶めないと成り立たない。

どこが貶めているって?
きちんと説明してみそ?

もともと、日本の皇室、大王、天皇は、日本の豪族の総本家という位置づけで、
三種の神器の組合せは、広く豪族の古墳の副葬品として共有されているし、
日本書紀にも皇統とは無関係な「八咫鏡」「八尺瓊勾玉」の記事がある
>>518>>519を参照

平原1号墓の内向花文鏡を皇室の神鏡の起源だという方が、よほど貶める意図を感じる
皇室の神鏡は破壊されて埋められたものの同類と言っていることになるからな
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 18:58:31.36
ここ、今、メモ帳代わりの備忘録として、使っているだけだから、
あまり議論はできないよ
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 19:02:35.46
>>550
卑弥呼は長寿。

同年代の王族女性の平均年齢が40歳くらいなのだから、
40歳頃には女王の墓域を選定して
基礎工事(周濠+土盛の基礎)をすませておく。

よって、卑弥呼が70歳で死去したとすれば、
周濠は30年分埋まっており、それを掘り返して
殉葬墓が作られることになる。

平原1号+2号+殉葬土壙墓群こそが、卑弥呼の墓の条件を満たしているわけだ。

これは何度も出ている話であり、
それに反論することなく、
主張のみを繰り返すキナイコシのいつもの惨めな論法。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:00:00.87
>>554
>平原1号+2号+殉葬土壙墓群

これを「まとめて径百歩」と呼ぶ理由がない

はい、おしまい
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 20:52:30.06
寿墓を30年ほっといたっていうのが、そもそも頭悪過ぎなんだよ

寿墓を用意したとして、周溝が埋まるに任せてたというのがまずおかしい
王のために用意したものを管理もせずに埋もれるに任せるというのはありえない

それに、30年かかって周溝が埋まっていたとしても、墓として使うのであれば、
新たに周溝を掘り直すのが当たり前で、そこに土坑墓を掘るなどというのは
ありえない

そもそも、想定(寿墓を30年放置して、埋まった周溝をそのままにして埋葬する)が
最初から最後まで、徹頭徹尾おかしいんだよ

そんなのに、付き合うだけ馬鹿みたいだろ?

だから、そういう「設定」はガン無視で、「まとめて径百歩」とかいう、
それ以前からおかしいことを指摘して終わりで十分なんだよ

平原1号墓は、どうやっても無理
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:58:07.39
>>552
>皇室の神鏡は破壊されて埋められたものの同類と言っていることになるからな

破鏡という日本の古来からの文化を知らないのだな。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 21:59:31.28
>>557
>平原1号墓は、どうやっても無理

結論が先にあるんだろ。
その前の行は読む価値ないなあ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:05:56.16
>>557
周溝に意味はないからだよ。
遠くから土を運んでくるのは大変だから、
周囲の土を掘って、墓の土盛にしただけ。

卑弥呼が40歳の頃に場所決めしておいた。
周溝なんて埋まろうがどうなろうが関係ない。
図らずも、卑弥呼は70歳80歳まで長生きしたから、
平原遺跡のようになっただけ。

これはこれで理論として完結しているから、
君には否定のしようもない。
よって、土壙墓と周溝の関係から否定することは出来ない。

以上。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:14:41.63
現代人は平均年齢の70歳頃には墓場など終活をします。

弥生女王も平均年齢の40歳頃には国家事業として墓域の選定をします。

卑弥呼も40歳頃に墓域を決めて、周溝を掘って土盛の基礎固めをしておきました。

卑弥呼は70歳まで生きました。

殉葬の土壙墓は30年分埋まった周溝に作られました。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:37:28.19
>>564
根拠は?
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:42:06.96
>>565
根拠は、>>563に根拠が書かれていない事実
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:44:15.66
>>566
反論できないんだね。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 22:59:33.28
>>561
>周溝に意味はないからだよ。

561の言い分を認めたとして、周溝を埋める土はどこから来たんだい?
結局、盛り上げた土が溝に戻ってるってことだろ?

30年も墳丘墓を放置して、墳丘が低くなり溝が埋まるのを放置するなんてことは、
ご都合主義で妄想する人の心の中以外ではあり得ないんだよ

魏志倭人伝は、字数が少ないから確定的なことは言えないけれど、
「卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩」という書き方は、卑弥呼が死んで大いに塚を作ると読める

死んだときに寿墓が用意されていたようには読めない

まあ、それ以前に、墳丘の長辺が13メートルではどうやっても径百歩には足りないから
卑弥呼の墓の候補としては最初から問題外の外だけどな
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:03:03.30
>>559
>結論が先にあるんだろ。
>その前の行は読む価値ないなあ。

結論はちゃんと「最後に」書いてあるだろ
そしてその前にはきちんと「根拠」が書いてある

自説に都合の悪いことは読みたくないだー、かい?ww

どうせ反論一つすらできないなら、読んでないって言い張った方が傷が浅いってか?
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:08:55.28
>>569
>30年も墳丘墓を放置して、墳丘が低くなり溝が埋まるのを放置するなんてことは、
>ご都合主義で妄想する人の心の中以外ではあり得ないんだよ

なんで?
墓域を決めておけばそれでいいでしょ?
跡形もなくなるならともかく
多少埋まっても、どうせ女王の死去時に仕上げるんだから
あとはほっとけばいいだけ。

>どうやっても径百歩には足りない

東夷伝里が存在するから
否定になっていない。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:09:41.34
盗掘されて悪用されるから破鏡にしたんだろ。
王家が保管する鏡なら破鏡にする必要が無い。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:21:14.68
>>572
>墓域を決めておけばそれでいいでしょ?

周溝が埋もれたままで墳丘を作るの?
何それ
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:27:50.01
>卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 殉葬者奴婢百余人

30年が経過して目立たなくなった周溝については一言も書かれていないね。
あるのはあっただろうけど。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:31:13.84
現代人は平均年齢の70歳頃には墓場など終活をします。

弥生女王も平均年齢の40歳頃には国家事業として墓域の選定をします。

卑弥呼も40歳頃に墓域を決めて、周溝を掘って土盛の基礎固めをしておきました。

卑弥呼は70歳まで生きました。

殉葬の土壙墓は30年分埋まった周溝に作られました。


張政が見たのは、
平原1号墓+殉死重臣2号墓+殉葬奴婢百人土壙墓+鳥居

卑弥呼女王墓の賑やかな墓域全域の、長径=東夷伝里で径百余歩

それらを取り囲む周溝は30年余を経てあまり目立たなかった。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:33:44.73
>>577
反論できないんだね。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:35:50.43
張政は卑弥呼の次の男王のさらに次の台与が戦争をしたさらにその後に帰国しているからね。
卑弥呼の墓域の完成形を見ているわけだ。

完成形、ね。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:46:16.96
>>580
議論もできないんだねえ。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/24(火) 23:46:33.57
興味深いな。
中国朝鮮の王墓に周溝ってあったのかな?
周溝墓というのが日本に特有の者であれば、
大きさはともかくなみなみと水を湛えた周溝があれば、
そちらのほうが魏使にとっては衝撃的な光景だったろうな。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 07:22:36.39
弥生時代の周溝って、別に水を溜めていたわけではないだろう。
後世に水が溜まることはあったかもしれないが。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 07:48:15.82
「殉葬者奴碑百餘人」が見つからないと卑弥呼の墓じゃないな。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 07:49:52.13
少なくとも纒向にはないな。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 08:45:58.61
>>586
「大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」
と倭人伝に書いてあるから。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 09:13:57.24
>>587
「殉葬者」がちゃんと墓に葬られたとか
どこにも書いてないけど?
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 09:21:58.72
>>544
しかし、口伝等の情報をまとめた文献には黄金鑵の記載がない

神宮遷宮記文永三年の情報でしかないことがネックだな

後から黄金鑵が作成された、とも考えられるからね
しかも火災の噂もあったり祭祀用は別とする話もあるわけで、鏡が元の形かどうか?もなぁ

つまり、真実は誰もわからん、だね
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 09:55:39.78
>>587
「狥葬者」
徇(狥)=従う,添い従う.
葬=(死体を墓地に)葬る,埋葬する.

意味からして別の所に埋葬されたとは考えられないだろ。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 10:16:30.63
>>588
「大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」
「大いに塚を作る、径100歩に100人の奴婢を殉葬する。」
お墓の周囲の径100歩の所に奴婢100人を取り囲む様に埋めたのかな?
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 10:25:29.05
>>572
>なんで?
>墓域を決めておけばそれでいいでしょ?

周溝がきっちり掘ってあるんだが?
そのきっちり掘った周溝が埋まった土に、土坑が掘られてるんだよ

適当なことを言うから、すぐに矛盾する

>跡形もなくなるならともかく
>多少埋まっても、どうせ女王の死去時に仕上げるんだから

仕上げるんだったら、そのときに周溝を掘りなおすだろ?
墳丘も低くなってるんだから
その周溝が埋まったのをそのままに、土坑墓を作るってのが
ありえないって言ってるだけ

適当なことを言うから、すぐに矛盾する

>あとはほっとけばいいだけ。

そんな寿墓はない
普通は、寿墓の場合、治世が続く間造営を続けるから、どんどん大きくなるんだよ
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 10:32:47.99
また『ここに いたこと』『死んだ遺作』の話をしてるの?

しんだ いさく→しん だいさく→かみ だいさく→。


あと関係あるか、無いのか、よくわからないんだけど
『平家物語 死』『平家の落人 池田氏』あのオズボーンの曲とか
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 11:26:34.70
>>550
>>591
「大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人」
「大いに塚を作る、径100歩に100人の奴婢を殉葬する。」
やはり、お墓の周囲の径100歩の所に奴婢100人を取り囲む様に埋めたって意味だったのか。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 11:32:09.31
>>594
ここは、畿内を批判しようとして恥をかくスレか?
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 11:56:23.51
>>595
じゃあ「狥葬者奴碑百餘人」は何処に行ったんだ?
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 12:54:08.13
>>572
>東夷伝里が存在するから
>否定になっていない。

短里、東夷伝里が出てきたら、その時点でトンデモ

魏の官職の塞曹掾史の張政が、自分の見聞をどうして魏晋里の度量衡以外で
書くなんていう想定ができるんだ?

根拠がないんだよ
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 12:57:29.98
>>575
>30年が経過して目立たなくなった周溝については一言も書かれていないね。
>あるのはあっただろうけど。

墳丘が径百歩もあれば、そっちの方が大事な情報だろ
平原1号墓は、遺跡の案内看板の説明では13×8メートルの墳丘サイズ

径百歩に満たないどころか、十分の1サイズ
東夷伝里とかバカなこと言っているやつがいるが、その東夷伝里(仮想)でも
径百歩は27メートルくらいになる

どっちにしろ大きさが足りません アキラメロンww
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 13:05:12.35
>>584
>「殉葬者奴碑百餘人」が見つからないと卑弥呼の墓じゃないな。

日本では、確実な殉葬が確認できた墳墓は一つもないよ

ちゃんとした学会で検討された内容ではないけれど、
吉武高木遺跡や吉野ヶ里遺跡で見られる庶民の集団墓である甕棺墓列を見て
殉葬墓とかんちがいした可能性がある

あるいは、弥生時代のある時期までは、方形周溝墓にしても特定家族墓にしても、
一つの墓域、墳丘に、順次追葬しているので、それを殉葬とみなした可能性もある
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓には、14の埋葬主体がある

そういう記録が光武帝への朝貢や、帥升等の朝貢の時の記録として残っていて、
倭王の墓なら当然殉葬者があるはず、と考えられたんじゃないか、
くらいまでしかいえない

考古学的状況としては、確実な大規模殉葬例は、日本にはない
それが現実
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 13:20:21.21
>>589
>しかし、口伝等の情報をまとめた文献には黄金鑵の記載がない

言いたいのはこれのことかな?
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html

御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分 
      径2尺   内一尺六寸三分

『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html

樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。

これは、式年遷宮のときに「新調する御道具」の記録だから、もちろん
八咫鏡そのものも書いてないし、それを入れる黄金鑵も書いてない

文献の読み方が間違っているんだと思うよ
伊勢の神鏡が火事にあったかも知れないというのも、原田大六氏が
そういっている程度のことだし、通説では古代の鏡が伝世されていると
考えられている

神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文(1267年)と、飯田武郷氏による
明治四年(1872年)の遷宮時の記録の両方に、同じ大きさの黄金鑵が
記録されているから、その存在は認めてよいだろう
0602日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 13:23:30.90
今どき、短里、東夷伝里を論証の基礎においている人間は、恥さらしだよ

魏志倭人伝の方位、旅程は、あてにならないとするしかない

末慮国から、伊都国は、どうやっても南東にはならない
0604日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 13:49:05.04
>>603
つまり九州説は生まれず、畿内説だけが存在していたのだな
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 16:06:14.39
>>601

その当時の情報でしかないんだよね
つまり、1267年以降は黄金鑵はあったという情報なんだよ

それ以前は断定はできない

鏡を祀った当時に黄金鑵があったかどうか?でさえさだかじゃない

伊勢に祀られた後の何百年後の様子でしかないから、断定はできんよ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 16:11:15.29
>>594
その可能性はあるよ
"大いに"は作るを修飾しているからね
大塚ではないから、文献的にはあり
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 16:27:11.53
>>597
>短里、東夷伝里が出てきたら、その時点でトンデモ

根拠は?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 16:28:06.56
>>598
>平原1号墓は、遺跡の案内看板の説明では13×8メートルの墳丘サイズ

2号墓を含めた周溝の大きさは?
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 16:33:43.41
「魏志倭人伝に記録された方角は信用できません(でないと困ります)」
「魏志倭人伝に記録された里程は誇張表現で信用できません(でないと困ります)」
「平原の大鏡の円周は八咫ではない(でないと困ります)」
「咫は、文飾的文言で、数詞ではない(でないと困ります)」
「平原の内向花文鏡は、欲しがる人がいなかったんだよ(でないと困ります)」
「周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州 (でないと困ります)」
「倣製鏡は、いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで(ないと困ります)」
「平原の大鏡は、当然「王権の象徴」としては不適当(でないと困ります)」
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 18:25:53.57
>>606
>伊勢に祀られた後の何百年後の様子でしかないから、断定はできんよ

ただ、伊勢の神鏡は火事で燃えたとか、紛失したとか破鏡したとかいう
話は伝わっていないから、鏡自体は当時のものだろう

そして、その鏡が黄金鑵に入っているのだから、大きさとしては九寸程度以下
ということになる
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 18:28:15.25
>>608
根拠は、「ある」と主張するほうが出すものだぞ

逆質問に逃げている時点で、「ない」と認めているに等しい

ない根拠は、これで十分だよ

魏志倭人伝
(末慮国から) 東南陸行五百里、到伊都國
現実
千々賀遺跡   北東30キロ   三雲遺跡群
        1里=60メートル
魏志倭人伝
(伊都国から) 東南百里    至奴國  ちょっと語順入れ替え
現実
三雲遺跡群   東北東18キロ  比恵・那珂遺跡群
        1里=180メートル

方角も、距離もメタメタじゃないか?
現実に合っていないよ?

3倍違うものが、一つの単位だというのは通らない
誤差とは認められないだろ
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 18:33:59.34
>>612
>そして、その鏡が黄金鑵に入っているのだから、大きさとしては九寸程度以下
>ということになる

他の畿内の鏡と比べても小さすぎる。
八咫の鏡は数字ではなく単に大きいことを意味すると言っていたのに、それさえも撤回する?
そもそも金属を金属の容器に入れることはない。
普通は布に包んで木の容器に入れる。
金の容器に入っているのは、すでに灰になっているからだろう。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 18:45:30.38
>>610
>「魏志倭人伝に記録された方角は信用できません(でないと困ります)」

>>609を参照 現実の地理に合わないのは事実

>「魏志倭人伝に記録された里程は誇張表現で信用できません(でないと困ります)」

魏晋里で測った距離よりも長い里程が記されている、つまり誇張されているということだ
淮南子等に見られる大陸世界での世界観、「東方之極萬二千里」に合わせたと見るのが妥当

>「平原の大鏡の円周は八咫ではない(でないと困ります)」

「咫」は周尺の単位であり、漢尺の八寸で一致するといっても意味はない
ただの偶然

>「咫は、文飾的文言で、数詞ではない(でないと困ります)」

「咫」は単位であって、数詞ではない 日本語でも漢語でも同じ
史記が書かれた前漢の時代で既にほぼ「咫尺」という熟語にしか使われなくなっている
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 18:46:10.71
>>610
>「平原の内向花文鏡は、欲しがる人がいなかったんだよ(でないと困ります)」

他で平原1号墓出土鏡と同汎鏡とされるものは出ていない(事実)

>「周りに対する影響が皆無なのが、3世紀の北部九州 (でないと困ります)」

3世紀になって、地域首長墓として小さな方形周溝墓を作っているところはない
要するに時代遅れ
土器様式も、他からの流入はあっても、周囲への影響は皆無

>「倣製鏡は、いくらでも作れるんだから、威信材として格落ちで(ないと困ります)」

仿製鏡暗い、正しい字で書けるといいね
平原1号墓出土の方格規矩鏡とか見れば明らかだろ?
舶載の方格規矩鏡と比べて、内区の配置が裏返っているし、鋳上がりも不鮮明なのが
32枚もあってもそれで王墓だということにはならないだろ?

>「平原の大鏡は、当然「王権の象徴」としては不適当(でないと困ります)」

平原1号墓出土の大鏡は、伊勢の本物の八咫鏡を入れる御樋代の大きさと近いから
「八咫鏡」という論理で、「八咫鏡」なら「王権の象徴」だろうという話だったんだよ

でも、御樋代の中にさらに黄金鑵があって、「八咫鏡」はさらにその中
平原1号墓出土鏡は、大きさが全然違う

まあ、もともと御樋代の大きさもぎりぎり過ぎて、平原1号墓出土鏡を入れるには
不適当な大きさなんだけどね

ということで、こちらは「困るから」ではなく、「事実ベースの根拠」を挙げて
九州説側の主張が成り立たないことを論証している
反論したかったら「困るから」とかいう主観的表現ではなく「根拠』を挙げてどうぞ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 18:50:33.33
>>614
>他の畿内の鏡と比べても小さすぎる。

どれと比べているんだい?
三角縁神獣鏡で、面径23センチ程度
本来の、実用鏡は10センチ内外だ

>八咫の鏡は数字ではなく単に大きいことを意味すると言っていたのに、それさえも撤回する?

鏡面最大で27センチは、十分に大きいよ

>そもそも金属を金属の容器に入れることはない。
>普通は布に包んで木の容器に入れる。

現在の式年遷宮でも、布に包んで奉祭されており、実見されることはないとされているね
金属に金属が直接入れてあるなんて誰も言ってないよ

>金の容器に入っているのは、すでに灰になっているからだろう。

ただの憶測だね
事実ベースまたは典拠となる原典を示して論じてくれ

火事にあったっていうのは、宮中の鏡の方だ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 19:23:09.52
>>613
それらが倭人伝の行程における座標点である根拠がない。
よって、3倍も違うという根拠が無い。
だから、その文章では東夷伝里の存在を論じることができない。

朝鮮半島の横幅や、
帯方郡から狗邪韓国までの距離、
対馬海峡における、半島〜壱岐、壱岐〜対馬、の距離など、
「確定部分」で論じないと、東夷伝里の正確性に関する議論にならないでしょ。

意味がわかるかな?

わからないから、馬鹿な長文を延々と繰り返すのか、
わかっているから、馬鹿な長文で延々とごまかすのか。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/04/25(水) 19:36:57.13
>>613
君が合わないようにわざと起点を決めているだけだよ
名護屋浦の奥に上陸して唐津方面に向かいって糸島市に向う
500里(40km)に達した所が伊都国の入り口
そこから県道56号線を福岡市方面に向かい100里(8km)の場所が奴国の入り口
更に100里(8km)進んだ所が不彌国の入り口

記述に合うように進めば場所も特定できる。
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