平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない

耳飾りからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない

平原一号墓はもう少し、検討が必要だと思う