邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 >>787
はい
「ぴったりだから八咫だ」説が死亡 落ち着けよ。
魏から下賜されたはずの卑弥呼の鏡はたった100枚しかない。
卑弥呼の死後に副葬品として埋葬されたのか、権威の象徴して後世まで伝来したのかさえわからない。
魏晋の消滅によって象徴的な意味は失われ、ゴミ扱いになったかも知れない。
逆に倭側の政情変化によって陳腐化した可能性もある。
永続的に大事にされたかどうかなど、誰にもわからない。
半世紀前に300台余り生産された2000GTですら、現存は約100台と言われてる。
わずか半世紀で3分の1だぞ。
2000年前の100枚なんか、1枚も残ってない可能性の方がずっと高い。
三角縁神獣鏡は出土枚数の多さから考えてイコール卑弥呼の鏡では無いだろう。
ただ、三角縁神獣鏡・その他の形式の鏡に見られる景初、正始などの紀年銘は無視してはならない。
型取り・模造コピー品であれ、国産オリジナル鏡に記銘したものであれ
「景初・正始年間の紀年銘鏡に権威があると考えた国内勢力の作」
であることは間違いない。
結論をいうと、邪馬台国だな。
真贋問わず景初・正始の紀年銘鏡が出土されれば、その場所は少なくとも邪馬台国の支配地域だった可能性が高い。
2000年後ぐらいに現代の遺跡が発掘され、「ガルダン」や「ザ・アニメージ」のプラモが発掘されたら、そこは1980〜90年代の日本である可能性が高いだろう?
本物のガンプラじゃない!パチモノだから日本じゃない!って事にはなるまい。 >>793
>魏晋の消滅によって象徴的な意味は失われ、ゴミ扱いになったかも知れない。
これは後漢鏡の話がそのまま当てはまる。
邪馬台国においてはすでに後漢鏡に漢の皇帝の権威はなく、国産の鏡の方が重要だったのである。
その中で最高峰が平原の鏡だ。
>「景初・正始年間の紀年銘鏡に権威があると考えた国内勢力の作」
>であることは間違いない。
>結論をいうと、邪馬台国だな。
飛躍している。
本来の持ち主以外が、権威づけのために複製したのだろう。
邪馬台国であれば、本物を配るだけで良い。
複製したのは、コピーブランドの構造そのものだ。
畿内は邪馬台国ではない。 >>793
邪馬台国時代の倭国には文字がないんだよ
卑弥呼が倭王になったことを諸国に知らしめるにはどうすればいい?
使者が口頭で伝えるにしても、諸国の豪族らは疑うだろうし、
あまりピンと来ないだろう
詔書の写しを作って配っても、諸国の豪族らほぼ読めない
だから魏の精巧な鏡を配れば、諸国の豪族も実感しやすい
おそらく邪馬台国は複製品を大量に作って、
傘下の国々だけでなく、中立国や敵国、遠国にも配りまくって、
卑弥呼が倭王になったことを宣伝して知らしめたと思われる >>796
そもそもそんな広域国家じゃないんだって。
鏡を持ってこられても、その意味すらわからないよ。 >>797
邪馬台国の使者が口頭で「わが邪馬台国女王殿下が、大魏の天子より倭王に任ぜられ
ましてございます その際に鏡を下賜されまして、貴国にも1枚差し上げますので、
大切になされよ」と言えば、遠い国の豪族でも驚いて邪馬台国の威光にひれ伏すだろう
戦国時代に豊臣秀吉が「余は天子様より関白に任ぜられた。遠国の大小名は戦を停止して上洛せよ」と命じたことと似ているかもしれん
戦国時代は文字があったし古代よりも情報網は発達していたから、モノを配る必要はないとは思うが >>786
>全数破砕したって、何でわかるんだ?www
破砕してないのは、「どこ」にあるんだい?ww
空想でものを言っても、無・意・味!w >>798
>邪馬台国の使者が口頭で「わが邪馬台国女王殿下が、大魏の天子より倭王に任ぜられ
>ましてございます その際に鏡を下賜されまして、貴国にも1枚差し上げますので、
>大切になされよ」と言えば、遠い国の豪族でも驚いて邪馬台国の威光にひれ伏すだろう
田舎豪族はそんなの知るか!と追い返すだろうね。
実際問題、当時ののろまな補給路では遠征は困難であり、本州の豪族が筑紫倭王家に従う理由は必ずしもない。
例外は筑紫と出雲であり、半島大陸への交易路をかけて覇を争ったかもしれない。
筑紫から出雲へは海流を利用すれば数日で着けるので、列島の代表権をかけた争いがあったのだろう。 >>784
>昭和になって発掘されて、復元されるまでは「計れない」んだってば!
>誰が計って、誰が八咫だって、判断するんだ?
副葬されるまでの間に何年間も卑弥呼が祭祀で用いていたわけだから、誰の目にも巨大でおよそ八咫の鏡であることがわかっただろうよ。 うーん、鏡ね、お前に、あげた覚えはない
これで終わりだろう 青谷上寺地遺跡は、高天原が出雲への見せしめのために滅ぼしたんだろうなあ。
だからこそ、稲佐の浜での恫喝が効いたんだよ。
大国主は自分の命を差し出す代わりに民の命を救い、社に隠れた(亡くなって祀られた)のだろう。
そして筑紫の日向の伊都国に天孫族の倭国王権が確立された。 >>797
>そもそもそんな広域国家じゃないんだって。
>鏡を持ってこられても、その意味すらわからないよ。
例えば、壱岐国の原の辻遺跡でも、畿内第V様式の影響受けた土器が出ているし、
縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
https://www.city.iki.nagasaki.jp/material/files/group/27/1222c2c16dd1ab975c162c72c821f1b4.pdf
四隅突出型墳丘墓の範囲も広域だし、大型銅鐸の出る範囲も広域だよ
古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
九州説の連中だけ、倭国を小さくしたがるのは何なんだ? >>800
当時の倭国なんて統一もされていない
少し後の倭の中の大国たるヤマト出雲吉備熊襲にせよ、
魏の大兵力数十万には遠く及ばない圧倒的な兵力差がある
だから当時の倭国内の国々はかなり魏に恐れをなしていたと思われる
もし本気で魏が遠征してきたら、兵力差が段違いどころか次元違いで防げないからだ
(実際は魏の水軍は対呉方面が主で、日本を遠征することはないと思うが、
当時の倭国で、そこまで楽観してわかっていたとは思えん)
だから邪馬台国のバックに魏がいるという衝撃は、現代の想像以上に大きかったと思われる >>801
>誰の目にも巨大でおよそ八咫の鏡
誰の目にも、「デカい鏡」なのは分かるだろうが、「八咫」ってのはどこから来るんだ?
>>782で「それを後世、倭人がアタで測ると」って言ってたのは、矛楯を指摘されたらもう撤回するのかい
本当にその場の思いつきだけだな!
それに、八咫ちょうどだから八咫鏡、ってのは完全に撤回するんだな?
自分でも「およそ八咫の」って書いてるぐらいだから
それより、九州説は「魏晋里が伝わってないから短里」って主張してるのに
平原1号墓出土鏡は「漢魏尺」で二尺でいいのか?
尺が正しい長さで伝わっていたら、6尺=歩で、300歩=里なんだから、魏晋里が
使えないっていうのと矛盾するんだぞ?
まあ、九州説がまともに考えてるとは思ってないけどさ >>805
>だから邪馬台国のバックに魏がいるという衝撃は、現代の想像以上に大きかったと思われる
これは九州が倭国だから成り立つ話だ。
魏の使いも伊都に滞在したからな。
卑弥呼が畿内にいたら、九州勢力がブロックしてしまうだろう。
九州からの畿内まで水行陸行が続くなら、とてもじゃないが九州など支配できず、魏は九州と手を結んだだろう。
いやむしろ実際に九州が魏と結んでいたのだろうね。 >>804
>縄文時代から広域の交流・流通があったんだよ
>古来そういう広域交流の中で、倭人の領域=倭国がまとまりを持って存在している
交易をするのと、国としてまとまるのは、ワケが違う。
交易だけなら縄文時代から列島全体で交易していたが、その時代には倭国を想定しないんだろう?
完全に矛盾している。 大陸への朝貢というのは当時としては一大事業のはずで、朝貢団を派遣した事実が知らしめられていて、初めて成果物としての紀年銘鏡が説得力を持つ。
景初・正始紀年鏡は「それを持っていておかしくないバックグラウンドがある者」が配布することに意味がある。
因果関係なしにいきなり鏡だけ出してもそれは「出自不明の謎鏡」でしかなく、権威付けにはならない。
真正の下賜鏡は数量限定のレア品なんだから、そう簡単にバラ撒けない。
真正は真の所有者がストック、配布用には模造品ということだろう。
八咫鏡に着目する人も居るが、邪馬台国関連の史料に出てくるような話ではないので邪馬台国スレ的にはあまり意味はないかな。
畿内勢力が北九州勢力を征服した際の「戦利品」なのかも知れないし、北九州勢力から畿内勢力への「献上品」かもしれないし。
高天原=九州と比定して、神器を九州由来と考えてもいいけど、神話レベルの話になってしまう。
平原遺跡時代(弥生後〜古墳前)にはすでに畿内にヤマト王権(あるいはその母体)が存在したわけで、それが九州から分派であったとしても別れたのは時代的に邪馬台国期のずっと前だろう。 >>810
>交易をするのと、国としてまとまるのは、ワケが違う。
>交易だけなら縄文時代から列島全体で交易していたが、その時代には倭国を想定しないんだろう?
>完全に矛盾している。
例えば、同じ言語を使うとか、同じものを食べるとか、そういったことが民族・倭人としてのまとまり
国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく
九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
交易・交流も否定しないと通用しない
3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
より強い王が存在している
その状態で、各地からの交易で各地の人が北部九州にも来ていたら、北部九州の首長が
倭国王と認められるのは無理だよ >>811
>平原遺跡時代(弥生後〜古墳前)にはすでに畿内にヤマト王権(あるいはその母体)が存在したわけで、それが九州から分派であったとしても別れたのは時代的に邪馬台国期のずっと前だろう。
ここが疑問。
ヤマト王権の分派は卑弥呼とそれほど変わらぬ時代であり、まだ強勢力ではなかったのではないか? >>812
>国としてのまとまりは、首長層の卓越から王の台頭を経て、国になっていく
畿内説はどうしても力で抑える話になってしまう。
しかしそのような考古学的根拠はない。
>九州説のいう「九州のみの倭国」は、列島内の他国の情報が大陸に伝わらないことが必要条件だから
魏志倭人伝にも東の海の先にも倭人がいると書いてあり、情報そのものは伝わっている。
しかし本州の中でも筑紫に近いところである出雲を倒した後であれば、直ちに筑紫の代わりに大陸との交渉を目指す勢力はいなかっただだろう。 >>814
阿波を避けて、いくら九州と畿内と言い争っても無駄。 @阿波 >>814みたいに歴史はおろか
批判したい相手の説の内容も知らない人間が蠢いているんだから
邪馬台国畿内説を批判するなんて
夢の夢だよなぁ >3世紀当時、北部九州より、吉備、出雲、丹波、大和の方が、王権の発達が進んでいて、
>より強い王が存在している
ここ、完全に妄想だなwwww特に大和ところ。
鉄器もないのに王権とな? 銅鐸祭祀の王権かな??? なんかまた画文帯云々言っているみたいですが、それが底辺の量産品よりも一段高いというだけで、内行花文鏡の上にあるとは全然関係ない話です。
小石室で絹に包まれた画文帯が出てきたら、それが畿内最大の大きさだったら、
内行花文鏡の上にあると考えてもいいですが。現状では畿内でも内行花文鏡が階層の頂点です。
役割が違うからというのは、逃げもいいところです。
役割の差はもちろんあったでしょうが、サッカーはフォワード、野球は4番、
やっぱり階層は厳然としてあるんですよ(笑)
内行花文は王権の象徴、三角は量産の贈呈品。 wikiなどを読んでみるとわかる
>宮内庁所蔵
と書いてあったりするでしょ、
古代の宮内庁の偉い人というのが・・・三貴子 なんかまた内行花文云々言っているみたいですが、それが一段大きいというだけで、王権とは全然関係ない話です。 (笑) >>821
寺澤先生が泣いてますよ
面倒ですので、ご自分で再読ください。
王権誕生 p249
「平原一号墓の鏡は、(中略)比類ない倭製の大鏡が内行花文鏡で、後の前期古墳にも引き続き特別扱いされていることは、その可能性を強く示している。」 そんな一文を盾に王権の象徴と言われたら寺澤先生泣くよ >>818岡上
阿波を避けて、いくら九州と畿内と言い争っても無駄。 @阿波 魏志倭人伝から推測される地理関係だが、短理説を採っても実距離との乖離が大きすぎるのは周知の通り。
末廬国・伊都を定説通り松浦・糸に比定すると距離はもちろん方角も全然合わない。
1000里、100里など「キリのいい数字」の羅列から考えて「長距離=千里」「中距離=500里」「短距離=100里」ぐらいの大雑把な感覚的"表現"で、里を"単位"の概念では扱っていないんだろう。
超長距離だけど1万里ってほどじゃないかな?=7000里、超長距離よりさらに上=12000里、中距離よりちょっと少ない=400里。って感じで。
現代人でも「小一時間」なんて言ったりするだろ。この場合の「時間」は24時間制における単位時間ではない。
倭人伝を正しく読み解くには、里程の概念から脱却せねばならない。 倭人伝を正しく読み解くには、里程の概念から脱却せねばならない(でないと困ります) 狗邪韓国-1000里-対馬-1000里-一大(壱岐)国-1000里-末盧国-500里-伊都国
とあるが、
朝鮮半島-対馬間
対馬-壱岐
壱岐-松浦半島
の実際距離は実際には等距離には程遠い。
松浦半島から糸島半島の距離は、壱岐-松浦の半分でもない(むしろ同距離に近い)
上に、東南を東北に読み替える必要がある。
これは短里説だろうが、九州説だろうが畿内説だろうが、比整合してないんだから仕方ない。
逆に聞きたいんだが、魏志倭人伝の距離方位が「正確」だと思ってる奴は、一大国や末盧国、伊都国をどこに比定してんの? >>831
>逆に聞きたいんだが、魏志倭人伝の距離方位が「正確」だと思ってる奴は、一大国や末盧国、伊都国をどこに比定してんの?
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) @阿波 洋上の距離は歩測や縄で実測出来ないから、海峡の幅の1000里が実際と誤差が大きいから不正確だとの主張は不当ですね、陸上の距離で判断すべきでしょう。 短里説だと伊都国-奴国100里=7〜9kmということになるけど、有力比定地である糸島平原一帯から福岡の那珂遺跡群まで、どうやったって10km以下には収まらないよ。
直線距離でも20km近くあるんだから。
長里説に立つと、今度は距離が足らなさすぎる。
陸上距離なら正確なはず!という思い込みに囚われると、距離に適合する場所を必死に探して、>>831みたいにほとんど賛同する者のないヘンテコリンな比定地を持ち出すことになるんじゃないの。 >>814
>畿内説はどうしても力で抑える話になってしまう。
これを畿内説側が言っているのを見たことがないんだが?
九州説側が「支配ー被支配の関係」って言いたがっているだけだと思う
畿内説側は全員とは言わないが、共立による祭祀の統一を基盤にした各地の首長の
統治はそのままの緩やかな連合体と見てるよ >>814
>東の海の先にも倭人がいると書いてあり
九州説はいつもこうやってごまかすよな?
原文は「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」
渡海「千余里」だよ
どんなにがんばっても、これを本州に当てるのは無理な話
漢書地理志に見える魏略逸文では
「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」と冒頭の文に続けて
「度海千里復有国」とあり、千里渡ったところにも倭種に国がある、というだけの文になっている
千里渡って倭人の国がある、というのは、
半島から対馬、壱岐と千里渡ったところの島も倭種の国、というのを表していると見て矛盾がない >>832
>伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
根拠なしで無意味 >>838
>根拠なしで無意味
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸市周辺)
伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 邪馬台国畿内説が批判できないことを
思いしらすスレだな、ここは >>832は末盧国を福津にしてるとこですでに無理があるわけ。
初手から見誤ってるから、伊都国の位置もおかしくなる。
中国の古代船がある程度天文航法ができたとしても地乗りが最も安全なのは間違いない。
壱岐から目と鼻の先に松浦半島あるのに、あえて航行距離を延ばす必要はない。
動力船じゃないんだから補給や乗員の体力の問題もあるし、松浦なら手漕ぎ船でも壱岐から日のあるうちに着ける。
可能な限り会場で夜を迎えたくはないからな。 直方には海がないから臨「津」搜露できないだろ?
万津浦なんていう、信頼度も測れない情報に飛びついて、無理なでっち上げをしているだけじゃないか >>841
対馬海流に流されて、末羅國(呼子、唐津)は有り得ない。 対馬海流に無理なく乗って、末羅國は世界遺産の宗像方面だろう。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし。
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
>>843
>対馬海流に流されて、
これは事実、だが
>末羅國(呼子、唐津)は有り得ない。
これがご都合主義の憶測
対馬海流の流速は流軸付近で毎秒50cm程度
流軸からそれればもっと遅い
手こぎで十分に修正の効く程度の流れでしかない
>元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし。
これは目的地が端から異なってるんだから意味ないだろ?
東京を目指してくる人たちが鎌倉には来ないから
鎌倉には幕府はなかったってのと同程度のいい加減さ 下池山古墳自体が最上層の古墳でもないし、内行花文鏡がそれほど好んで副葬されているようにも見えないんだよな
あまり欲しがる人がいなかったように見える >>842
>直方には海がないから臨「津」搜露できないだろ?
一大率(筑紫忌部)の下っ端役人が福間海岸辺りへ出向いたんだろう。 @阿波 >>844
>これは目的地が端から異なってるんだから意味ないだろ?
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
海流を利用する説は、確かに一理ある。
壱岐-松浦半島でも進角を調整すれば海流はさほど問題にはならないが。
しかし、宗像地域に末盧国を採ると、後の比定地がグダグダになる。倭人伝に末盧以降に西行する表現は無いから平原や那珂の遺跡をガン無視ということになる。
何度か挙がってる大型内行花文鏡からも推察できるように、平原に重要集落があった事は確かなわけで、魏史がそれに触れないのはあまりに不自然。
末盧=宗像地域説でもいいが、倭人伝の距離方位描写がデタラメだというのを補強することになる。 >>848
>しかし、宗像地域に末盧国を採ると、後の比定地がグダグダになる。
いや、魏志倭人伝にあるとおりの距離・方向で比定地を示せる。 @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) うん、だからその比定地がすでにグダグダなのがわからないかな? >>848
>倭人伝に末盧以降に西行する表現は無いから平原や那珂の遺跡をガン無視ということになる。
はやく、「平原や那珂の遺跡・大型内行花文鏡」の呪縛から解き放されることを祈念する。 @阿波 >>843
蒙古襲来の文永の役では対馬壱岐を落とした蒙古軍は、
次は肥前国沿岸の松浦郡を襲撃し、応戦した松浦党は壊滅しているよ
まさに対馬国→一支国→末蘆国と来た魏志倭人伝のように
そして博多湾に最後に上陸した >>850
>うん、だからその比定地がすでにグダグダなのがわからないかな?
グダグダというなら、↓にどう答えるの?
↓
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波
>>852
>次は肥前国沿岸の松浦郡を襲撃し、応戦した松浦党は壊滅しているよ
それはね、宗像方面に着いてから、博多湾を西進して、出航地の平戸方面へ集結移動途中の襲撃なのよ。
いきなり、松浦郡に到着して襲撃したんじゃないのよ。 @阿波 宗像が中継点として重視されたと確認されてるのは遣隋使以降だよ。確実に畿内が日本の中心地で、すでに帆船時代ね。
邪馬台国とは時代背景が違う。
宗像から弥生中後期の遺跡・出土物として大陸・半島由来のものが見つかってたっけ? >>855
>宗像から弥生中後期の遺跡・出土物として大陸・半島由来のものが見つかってたっけ?
「田熊石畑遺跡」「今川遺跡」「手光於緑遺跡」などどうかね?
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>822
「畿内説者のレベルの低いこの重複偽スレッドでは、岡上氏の能力の全てを引き出せないからね。。。。
岡上氏が投稿しなくなったのも、そういうことなんじゃないのかな、」
とか
「岡上氏の高度なレベルの投稿が懐かしいね。。。 」
とか
「僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるのは光栄なのだけれども、、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。」
とかいうのは、自演ってことでOK?
九州説のやつが他人を誉めることってないしww 末慮国を、万津浦という地名の類似だけ(しかも現在に残っていないどころか、
典拠不明の個人蔵の文書1点にのみ記載)で決めながら、
伊都国も、奴国も、地名を無視して決めているところが、ご都合主義のダブスタ >>859
なんか、地名にしか頼るものは無いのかね? トンデモ説ってその程度? @阿波 >>855
>宗像が中継点として重視されたと確認されてるのは遣隋使以降だよ。確実に畿内が日本の中心地で、すでに帆船時代ね。
アホか。
地理的にどう見ても遥か古代から要所だろう。
縄文期から遺跡はあったはずだが? 当時の航海技術を考えると、松浦に上陸するのが最も合理的だからだよ。
帆船化し、大型化して航続能力の上がった後代の航路から類推するのは意味がない。
逆に、倭人伝の距離方位が正しいという前提で宗像を末蘆に比定すると、その後の行程が意味不明になる。
倭人伝に西行の記述が無い以上、邪馬台国の候補地は宗像より東方向、つまり瀬戸内・四国・畿内となる。
ところが、壱岐から宗像に進む方が合理的であるような航走能力を持つ船なら、九州内陸部に入る必要がない。
沿岸周り寄港補給しつつそのまま魏船で関門海峡に入ればいい。
実際、遣隋・遣唐使船も朝鮮通信使も、そういう航路を取っている。
目的地が瀬戸内・畿内・四国なら、九州でわざわざ大荷物下して、草木茂盛行不見前人なんて難所を越える意味は?
「南に水行」記述を九州中南部に取るとしても同じことだがね。 >>863
>九州でわざわざ大荷物下して、草木茂盛行不見前人なんて難所を越える意味は?
対馬海流に任せていると、簡単に福間海岸辺りに着いてしまうんですよ。
だから、八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)して、【東南】陸行500里の伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)へ向かう訳。 @阿波 >>865
>だから内陸の直方では、出入国管理にならないっての
内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
その伊都国は千戸程度だから、感田上原遺跡や帯田遺跡だろう。
大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路 出航地(平戸市周辺)
伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>866
>内陸の伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
>伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、出入国管理局。
内陸に出入国管理を置いたら、管理する前に「入国」してるやん
直方の伊都はおかしいし無理
万津浦にも四千戸は無理だし、いろいろ適当すぎ >対馬海流に任せていると、簡単に福間海岸辺りに着いてしまうんですよ。
だからね、その航行能力があったら、そのまま沿岸伝いに関門越えられちゃうでしょ。
内陸部に入る「必要」がないよね?って疑問のアンサーにはなってない。
魏史を単なる平和友好使節だと思ってる馬鹿なのかな?
卑弥呼以前は倭国は内乱状態、卑弥呼以後も内乱再発、宗教的祭祀で表面上安定させてるだけで、政情はまったく安定してないわけ。
卑弥呼が魏の威を借る必要があったのは、軍事地政学上の理由が大きいだろう。
魏史は表向き使節団、その実軍事監視団・調査団でもある。
邪馬台国は属国状態であるとしても、倭国情勢はいつひっくり返るかわからない。
松浦半島が仮にクソ田舎であったとしても、軍事上の要衝であるのは猿でもわかるよね?
可能性は低いとはいえ、魏からの派兵・駐屯も考えると軍事的には実踏調査・監視が必要なんだよ。
魏からの航行で、仮に糸島、宗像、ひょっとしたら関門まで直行できたとしても、反邪馬台国・反魏勢力に壱岐を取られたら半島・大陸との連絡は絶たれ、完全に詰む。
壱岐から目と鼻の先の松浦も、絶対に取られてはいけないところ。
直方に出入国管理局って、何を管理してるの?不法労働者か?
そんなところに一大率や魏史の駐屯所置いても、福岡市以西の勢力の抑止にはならないよ?
福岡市以西はガン無視でいいの? >>868
>だからね、その航行能力があったら、そのまま沿岸伝いに関門越えられちゃうでしょ。
残念ながら、関門海峡を渡りきる航行能力と汐待施設が整備されていなかったので超えられなかったんですよ。残念でした。
だから、内陸部に入る「必要」があったんですね。 これが疑問のアンサーでございます。 @阿波 >>868
>松浦半島が仮にクソ田舎であったとしても、軍事上の要衝であるのは猿でもわかるよね?
猿だけど分からない。 だって、魏使が上陸した形跡が無いもん。 そんな所が軍事上の要衝になどなる訳が無い。 @阿波 >>868
>直方に出入国管理局って、何を管理してるの?不法労働者か?
大陸・半島との交易品管理に決まってるでしょ。 もちろん生口管理もね。 @阿波 >>868
>そんなところに一大率や魏史の駐屯所置いても、福岡市以西の勢力の抑止にはならないよ?
福岡市以西の勢力も筑紫忌部だから心配ご無用。
>福岡市以西はガン無視でいいの?
福岡市以西の勢力も筑紫忌部だから心配ご無用。 @阿波 阿波のやっていることは、歴史学ではなく、神学なんだな
神学は、何でも「神の御業」といえばそれで終了
阿波は、何を言われても、それは忌部、というだけ
相手にしてもしょうがなさそう >>874
> 阿波は、何を言われても、それは忌部、というだけ
だって、忌部一族以外にいないでしょ。 全国へ進出していった部族は。
忌部も抹殺するつもりかね? @阿波 阿波じゃなくても里程原理主義者ってみんなこんな感じだけどね。
地政学的考察とか、弥生期の政情とか考える知能ないから。 >>878
いやいやいや、里程からいってもおかしいだろ泡インベの言ってることはw >>879
どこがおかしいのかも言えないのかな? @阿波 末慮を出所不明で検証不能な万津浦一つで決めるのがおかしい
壱岐国から末慮国が、南から外れすぎ
壱岐国から東へ航海してきて奴国をスキップするのは、魏使のお役目からもやってはいけないこと
以上より、万津浦を末慮国の比定地と考えるのは不当
直方は内陸であり、出入国管理を行う場所として不当
直方には十分な平地がない
直方付近に、伊都国の地名がない
最初の二カ国だけでも、ボロボロ また議論が止まっちゃったな
阿波が出てくると話がムダな方向に流れるからいやなんだよな だいたい、咫が漢尺の八寸って言ってる連中が、短里だの東夷伝里だのを主張するのが噴飯もの
漢尺の長さが正確に伝わっていて、既に使われなくなっている咫が周尺の八寸であることも
知っていて、それなのに6尺が歩、300歩が里っていうのが伝わっていないと主張できるのが
本当にご都合主義
さらに記録するのが魏の建忠校尉梯儁、塞曹掾史張政なんだから、魏晋里を知らない訳がないし
魏晋里以外で記録する理由がない 倭では里も咫も歩も、独自の体系で運用していたってことだよ。 どうしても万二千里にしたかったわけだからね
しょうがないね >>887
>倭では里も咫も歩も、独自の体系で運用していたってことだよ。
では、なぜ尺だけは漢尺を使うんだい?
しかも、漢尺にはない咫を、漢尺基準の換算値で使ったとも主張するなんて
理に合わないだろ? >>888
>どうしても万二千里にしたかったわけだからね
>しょうがないね
つまり、実測値ではないし、
その里程を元に比定地を求めようとしても徒労だってことだよな >>891
>魏志倭人伝は都合が悪いため否定したいキナイコシ
いや? 九州説、特に伊都国説を唱える八咫バカの人たちにとってこそ、
都合が悪いと思うけど?
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩
平原1号墓を卑弥呼の墓にしようと思っても、これではどうしようもないだろ?
そういえば、「一歩36センチでぽくぽく歩く」っていうコピペ、見なくなったねww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています