そもそも、陳寿が参考にしたと思われる文献の記録者自身が実際に邪馬台国に行ってない疑いが強いでしょ。
梯儁は印綬を携えた最VIP級公使だから卑弥呼に謁見できた可能性は高いが、その他は?

張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。

●「自為王以来少有見者」 たぶん宗教的理由だろうが、そもそも会える人間は限られてる。一般郡史レベルでは無理だったのかも。日本の地方県の知事レベルではローマ法王にはなかなか会えない、みたいな感じか。
●「郡使往來常所駐」 の記述もそれを裏打ちする。中位以下の郡史は伊都国で足止め。

●それまでは、実測不可能な海路ですら「〇〇里」表記なのに、投馬国・邪馬台国に至って突如「〇〇日」表記になる。

隋書には「夷人不知里數但計以日」とあるんだから、日数表記は「倭人の距離」であって、魏史が計測したものではないことがわかる。
魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。

つまり、魏志の原資料作者は「『投馬国・邪馬台国には』行ってない」。

伊都国で留め置かれ、そこからせいぜい徒歩圏内(100里)しか移動できてない。
原資料著者が見た「倭国」の文化習俗は伊都国からの移動が許された範囲内の事だから、これは「北部九州の描写」という事でいいだろう。