邪馬台国畿内説を批判するスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。 >>949
>張政は「檄文を以て諭した」とあるんだから、会えてない可能性が高いね。謁見してたらそのように書くだろう。
この時点で既に卑弥呼は死んでいたと考える人も少なくない
張政は、難升米を相手とする行為しか書かれていないように見える >>949
>魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
自分でもこのすぐ上で「実測不可能な海路」って書いてるじゃないか
実踏していても、日数の方が距離感が伝わりやすいと考えれば、実測できない里程より
日数で記載されるのは特に不審はない >>958
>やはり九州が古墳時代に入る方が早かったんだな。敗北を知りたいものだ。
どうして九州説の人って、間違っているのが明らかなことでも、
負け惜しみで嘘を書くんだろう? 本当に不思議
那珂八幡古墳は、纒向石塚古墳をはじめとする纒向古墳群の纒向型前方後円墳の
模倣として、遅れて作られたもの
伊都国では、端山古墳がおそらく一番古い古墳だが、完全に古墳時代に入ってからのものだ
まあ、地域ごとの早い遅いは首長の寿命次第、死んだ順番ってのもあるけれど
定式化した前方後円墳が成立していく過程が、纒向遺跡の領域であとづけることができるし
九州の古墳は明確にその後追い
九州が前方後円墳祭祀という葬送儀礼において、纒向に本拠を置く畿内勢力に
完全に追随しているのは明白だよ
その直前に、九州に畿内と独立した勢力があって、畿内の勢力を隠して、魏王朝を騙して、
倭王として魏皇帝と交渉したっていうのは、どう見ても無理があるだろう
現実を見なよ >>956
>その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
その倭国の中心は「阿波」 @阿波 >>960
>やっと記念鏡を国内で作らせたことを認めたか。
500枚もあるんだから、仿世鏡が大部分なのは当たり前だろう
やっとどころか、ずっと前から誰も疑ってないぞ
そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
一番簡単な答えは、九州王朝なんていうものはなくて、
親魏倭王に除せられた卑弥呼も九州にいた王ではない、ってことだ
これが一番シンプルで分かりやすい >>953
>陳寿が「邪馬台国に到達していない魏史」の資料を基にして編纂したと考えた方が、より多くの不自然点が合理的に説明つくでしょ。
それこそ不合理。
それならわざわざ里程など書かない。
本当にそんな国(邪馬台国)があるのかどうかを確認するためにわざわざ使いを立てていたのだから。 >>955
>梯儁の記録を基に書いたとしたら、里数表記と日数表記の混在が説明つかなさすぎるだろ。
>梯儁でなくとも、帯方郡-邪馬台国を通してして到達した魏人の記録が原資料だとしたら、表記の混在をどう説明するの?
里程は帯方郡から始まっている。
日程も帯方郡からだとすれば、なんの矛盾もない。
ああ、畿内説だと矛盾するのか。
里程が九州北部で終わっているからなw >>956
>九州説が主張する北部九州も、古墳時代初期から畿内大古墳の2分の1、
>3分の1サイズで相似形の古墳を作り始める
>その倭国の中心を求めるという命題に答えればいいだけだ
卑弥呼の死後に大きな変化が生じたと考えればいい。 >逆に、魏との交渉を記念したものであるのは明白で、
それを記念する必要があるのは、魏との交渉をした当事者以外にはあり得ない<
記念した鏡なんでしょ?(笑) >>962
>その直前に、九州に畿内と独立した勢力があって、畿内の勢力を隠して、魏王朝を騙して、
>倭王として魏皇帝と交渉したっていうのは、どう見ても無理があるだろう
何が無理なのかわからんな。
むしろ、畿内が九州の頭越しに中国と交渉できるわけがない。
特に、大和は貧困弱小地域だったし。 >>949
>魏史が実踏してたらここは当然〇〇里でないと整合性が取れない。
>自分でもこのすぐ上で「実測不可能な海路」って書いてるじゃないか
そうだよ。実測不可能な末盧までの海路ですら里数表記してるという「事実」がある以上、記録者が邪馬台国に達していれば伊都国-邪馬台国間に海路があっても里数で表記するのが自然なわけ。
投馬国以降はそれを「しない」か「できない」理由がある訳だよね。
その理由は投馬国以降は倭人の伝聞情報(日数表記は倭人の習慣)で、記録者の魏人は実際の位置は知らない、とするのが一番自然なわけ。
仮に北九州に邪馬台国があったら、伊都国から徒歩圏内=実測・里数表記可能だよね?
なぜ「あえて」里数表記しなかったの?それまでは日数表記してないのに突如「日数表記の方が距離感が伝わりやすい」と思ったの?
倭人対象の報告ではなく、魏人を対象とした報告のはずなのに?
正確性はさておき、投馬国に至る前は「方角・里数表記」の法則性があるのに、投馬国以降はあえてそれを放棄する理由を教えてくれたまえ。 >>964
>そして、魏から親魏倭王に除せられたのが九州王朝なら、
>「なぜその記念鏡を作ったのが『九州王朝ではない』のか?」
畿内が九州の末裔だからだよ。 >>972
>正確性はさておき、投馬国に至る前は「方角・里数表記」の法則性があるのに、投馬国以降はあえてそれを放棄する理由を教えてくれたまえ。
投馬国は南九州だから行っていない。
邪馬台国(奴国、伊都国)への帯方郡からの総日程を書くついでに挿入された。
だから、投馬国への日程には陸路がない。 畿内の古墳の2分の1、三分の一の相似形のものを後から作ったのではなく
九州の古墳の2倍3倍の相似形のものを畿内で作った、が正解。 三角縁全てを中国製だと考える研究者は増えてるよ
学問オンチの九州説信者はともかく
畿内説論者は最新の学問の動向にもアンテナ立ててようぜ >>975
答えになってないなw
帯方郡からの総日程という珍説を披露する奴は確かに居るが(論拠は無いが)、それを以て(連続式なら不弥国、放射式なら伊都国)からの方角・距離を記載「しない」理由にならんよ。
仮に帯方郡からの総日程だとしたら、総里数記載(萬二千餘里)がある以上、不弥国or伊都国からの里数と「併記」でないとおかしいよな?
なぜ、併記せずにそれまで一貫してた方角・里数表記だけ放棄したの? >>976
だよね。
小さいものからだんだん大きくなるよね。
最初にいきなり大きい墓が作られて、それを模倣して小さいものが作られたというのが畿内説だもんな。
おかしいだろ。 >>978
>なぜ、併記せずにそれまで一貫してた方角・里数表記だけ放棄したの?
途中の里数に余りがあるから、合計するとほぼ一万二千里と考えられたんだよ。
単純合計で1万里は確実に超えているから、残りは100キロくらいしかない。
途中の誤差を勘案するとほぼ奴国付近で里程は尽きている。 このように
九州説の根拠は倭人伝の我流読みだけ
畿内説を批判する能力がない >981
あほか。
倭人伝冒頭に
「倭人在帶方東南大海之中」とちゃんと倭は帯方郡の「東南」にあると記載してるわけで。
当然、
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」と「南」と明言している以上は帯方郡からの位置ではないことは明らか。
東南か南か、どっちが正しいんだ?
同じ方角を、ある時は東南と言ったり南と言ったり適当なのか。
それとも、邪馬台国は倭国内には無い、別の国か。
そもそも帯方郡から真南は東シナ海だが。
そのへんの小島に邪馬台国を比定する説も無くはないが、トンデモの域を出ない。
また、萬二千餘里記載部分には「自郡至女王國、萬二千餘里」ときっちり書いてあるんだから、整合性的な意味では水行〜部分にもその旨注釈を入れるだろうね、普通。
水行〜部分を「帯方郡から」と仮定すると、辻褄の合わないところがさらに増えるだけ。 >>979
小さいものからだんだん大きくなってますが?
箸墓は完成形で大きい
それが三世紀半ば 前漢鏡の内行花文鏡はかなり小さいよ。
平原まで数百年かけて大きくなった。
卑弥呼の時代がピーク。 大型化に象徴的な意味があるとしても、進化や新しさとはあんまり関係ないな。
奈良の大仏は最大級だけど、だからといって鎌倉仏より新しいという事にはならない。 >>955
>でも、魏志は梯儁の書でもなければ、梯儁の記録を転記したという論拠はどこにもない。
梯儁の記録があったから梯儁のことが書かれているに決まっているだろ。
書かれているという事実が根拠だ。
お前、頭悪いだろ。 梯儁が記録した木簡は存在しただろうよ。公使なんだから。
しかし、陳寿がそれを見たという根拠はどこにもない。
お前、頭悪いだろ。 >>972の「実測不可能な末盧までの海路ですら里数表記してるという「事実」」と
>>981の「途中の里数に余りがあるから、合計するとほぼ一万二千里と考えられた」が、
互いに相容れないのは分かるかな?
実測していない数字を根拠に、比定地を探してもどこにも行き当たらないよ
実測不可能なところは、「つじつま合わせの作った数字」なんだよ
そして、萬二千里は、邪馬台国までではなく「女王国」まで
そして、魏志倭人伝の旅程は、後漢代の古い記録と魏使の報告による新しい記録を
ごちゃ混ぜにまとめてある
そこにさらに、世界の端まで萬二千里という淮南子にも書かれている中華世界の世界観と
倭国は儋耳朱崖の近くの南の国という思い込みを混ぜ込んで魏志倭人伝は書かれている
おそらく後漢代の帥升等の朝貢時で既に万里の彼方からの朝貢とされて、
対馬海峡を渡るまでが一萬里になるように数字が作られていて、
そこに末慮国−伊都国間ではない東南陸行五百里が付けられて、
計算が合わなくなって水行と陸行が日数表示になったまであってもおかしくない
まあ、北部九州から千三百里で魏晋里で畿内まで届くので特に問題はないと言えばないけれど 三国志は書かれた当初は私撰史書
陳寿は役人だけれど、公務で三国志を撰述した訳ではない
正史と認定されたのは、唐代になってから 都合の悪い記録を次々と無視する口実を見つけなくてはいけない畿内説。 >>990がたぶん正解に近い。
個人的には萬二千餘里は当時の中華的世界観による創造数値という説には賛同する。
が、倭人の住まう地という意味での「倭国」という概念があって、その中に女王統治下の「女王国」がある。
さらに、「女王国の首都」が邪馬台国。萬二千餘里は広大な「女王国」西端までの距離と考えれば他の里程記載との一応の整合性もある。
邪馬台国まで萬二千餘里とはどこにも書いてない。
女王国西端はおそらく奴国、一般的な比定では春日市あたり。大宰府の可能性もあるか?
伊都国は、「女王国以北」の属国あるいは同盟国。女王国の出張所が置かれた。
女王国西端であるところの奴国の南には敵対勢力として狗奴国があり、狗奴国=熊襲=熊本説には確証がないものの、有力ではある。
魏志倭人伝からは、他のクニはさておき、『邪馬台国の』比定は不可能。
位置情報は倭人からの伝聞であると思われる「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」しかないし、信頼性に疑いのある魏側の数値より、さらに輪をかけて信頼性が低い。 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 当時の人たちの理解が後漢書に反映されている。
狗邪韓国が女王国の境界、王都は倭奴国。 隋書には「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とある。
「都の邪靡堆は魏志の言うところの邪馬臺っスからね!」と。
隋書編纂時の倭の都はもちろん大和。
当時の人たちの理解が隋書に反映されている。 >>998
>隋書編纂時の倭の都はもちろん大和。
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