壇ノ浦の戦いで平家はなぜ退却しなかったの? [無断転載禁止]©2ch.net
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後白河法皇は平家を滅ぼす気マンマン、二度と平家の連中の顔も見たくなかったんだろうね。
常に平家追討に一番積極的、義仲も、頼朝も、義経も煽りに煽り、
一ノ谷で自分自身が手を汚してまで、平家を騙し討ちにもしてるわけ。
> この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、
> かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。
> 平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、
> 数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。
> 平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。
>
> 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った
> 三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。
> 平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。
> 平氏敗北の要因について、後白河法皇が平氏へ講和の提案を行い、
> 大幅に武装解除させる一方で、鎌倉政権軍と連携して
> 対平氏攻撃を着々と準備した計略であるという説が有力である。
>
> この説では、合戦直前の2月6日の後白河法皇の休戦命令と、
> 合戦後の宗盛の「休戦命令を信じていたら、源氏に襲われて一門の多くが殺された、
> (平氏を陥れる)奇謀ではないのか」という法皇への抗議の書状を重視して、
> 法皇を信頼して和解に向け展望を開いていた平氏にとって、
> 鎌倉方の突然の攻撃は想定できるものではなく、鎌倉側の勝利は
> 必ずしも源義経の将としての能力などだけに起因しているのではないとしている。
(その2)
義仲「(対頼朝・義経に集中したいので)和睦してください。」
平家「お前の跡取り息子、鎌倉で頼朝の娘の婿になってるじゃんか。」
(意訳:鎌倉で跡取り息子が人質になってるじゃん)
義仲「……。」
糸冬 了 京都では後鳥羽天皇がすでに即位していたので、
今さら平家と安徳天皇に神器を持ってノコノコ戻ってこられては困るんよ。 >>21
平家が木曽義仲に対して冷淡に接した結果、義仲も平家も鎌倉方に
各個撃破された。だから、義仲が鎌倉方の攻撃を受けて窮地に
立ったとき、平家は義仲を支えて鎌倉方の京都制圧を阻止して
おけばよかったと思う。 >>25
一ノ谷の合戦前までは、平家にとってほぼ理想的、何も問題がない情勢。
院を信じた平家が間抜けだっただけ。
一ノ谷直前の情勢で、源平で頼朝と宗盛を入れ替えていたら、
平家が勝っていただろう。
・義仲は平家を京都から追い出した張本人であること
・それが原因で、平家の面々は解官されていること
・鎌倉に義高を人質に出していること
・義仲には、北陸・越後しか残されていないが、元々、平家から奪ったものであること
・北陸に強い影響力がある延暦寺傘下の白山神社が義仲に加勢していること
・義仲もまた源氏で、平家ではないこと
非現実的な仮定は無意味、
超人的な博愛主義を前提とすることは無意味だよ。 史実では、鎌倉政権が圧倒的優勢となり、鎌倉政権は平家だけではなく、
奥州藤原氏も滅ぼしてゆく。したがって、平家が滅亡を免れるには、
「鎌倉政権といかに対峙するか」を考えねばならない。
それには、鎌倉政権と敵対したり、離反することになる人物を平家方に
引き入れることが大切だ。
源義仲 源行家 源義広(志太先生) 源義経 上総介広常
上記の人物の何人かを早期に平家方に引き入れておくのが効果的だ。
さもなくば、やはり史実通り、平家は壇ノ浦で滅亡してしまう。 あのさぁ、そんなこと言い出したら、頼朝を処刑しておけばよかったとか、
維盛の言う通り、一日も早く関東へ出陣しておけばよかったとか、そういう話になるんだよ。
挙げている名前もメチャクチャw
上総介広常?
上総氏の家督を争った広常の弟(印東常茂)が平家方なんだけど?(笑)
広常は平家方の藤原(伊藤)景清が上総介として赴任してきたときに、徹底的に苛め抜かれたんだけど?
義経?
義経は、父親を殺され(殺したのは長田忠致だが、獄門にかけられている)
産みの母親(常盤御前)が清盛の妾にされて、娘も産んでるんだが。
後白河法皇が平家追討の院宣も(頼朝宛に)出してるし。
行家?
以仁王の令旨を全国にバラ撒いた張本人なんだけど?(笑) 合理的に考えていけば、平家は史実通りに滅亡するだろう。 そんなことはない。
都落ち前に頼朝側から持ちかけた和議、手打ちのタイミングもあったし、
粘り腰ならいくらでも粘れる(>>3)。 万一壇ノ浦に勝ったとしても
それだけじゃもう情勢は引っくり返らんところまで行っちゃってるからなあ 海戦で勝っても陸の三方塞がりをなんとかしないと状況は変わらない >>28
× 藤原(伊藤)景清
○ 藤原(伊藤)忠清 >>33
勝ち抜き戦でこんな感じだった
__ 源氏 − 平家
先鋒 義経 − 宗盛 大将
次鋒 範頼
三番 梶原
四番 畠山
五番 土肥
六番 三浦
七番 和田
八番 北条
副将 比企
大将 頼朝
つまり源氏は一度にど負けても余裕だが平家にはあとがなかったということ 兵力の問題を考慮しないから分からないんだよ
当時の日本の総人口700万人程度
ここからさらに近畿と関東の田舎の動員を考慮すると
平氏源氏合わせて最大で1万動員するのが限界
源平合戦は両軍合わせて5千程度だろう
つまり兵力の差がなくて小規模の戦争だから戦略や士気でいくらでも戦局を動かせて、とんずらという選択枠はなかった
さらに平氏はいざとなったら西の豪族も味方にできた。
結局、平氏に隙を与えて戦局を立て直す暇を与えなかった源氏の戦略が上手かったってことでしょう あと武将個人の武勇で戦況を動かせたから
平氏には滅亡する間際まで危機感がなかったと思われる 壇ノ浦の時点で、日本全土中、平家側の支配圏ってどこ残ってたの? >>38 つ平清経 平維盛
壇ノ浦開戦前から二位尼はじめ女性も含めて一門は皆覚悟してただろう 壇ノ浦の合戦の時点では、九州を源氏側に押さえられてしまっているので、
平家はこれ以上逃げる場所がなくなっている。
壇ノ浦の合戦以前に、逃げるルートを確保しておかねばならなかった。 本州から離れた流刑地に行って、罪人を接収しながら勢力を大きくするんじゃ >>42
最後の拠点だった屋島を奪われたから彦島しか残らなくなったんでしょ >>43
壇ノ浦の合戦で敗北したときには、すでに瀬戸内海の制海権を源氏側に
奪われているので、九州北部の海域を通って対馬海峡沿いに逃れるしか
あるまい。その後、九州西部の海域を南下すれば、鬼界ヶ島に逃れる
ことができるだろう。
壇ノ浦の合戦の前に、先遣隊を鬼界ヶ島に派遣し、安徳天皇と女院が
お住まいになる御座所を建設しておくことが必要だ。 鬼界ヶ島まで来るのなら、内裏や平宗盛の本軍は奄美大島に置いたほうが
よさそうだ。奄美大島なら彦島より面積も広いから、食糧の生産もできて
持久戦ができそうだ 鬼界ヶ島に流された鹿の陰謀人、壇ノ浦の時点で生きてたっけ? 俊寛なら平家物語では有王が会いに行って顔を合わせたとたんに力尽きて死んでるね。
康頼と成親は知らん。 俊寛僧都・平判官康頼・藤原成経たちが流されてきたときは、鬼界ヶ島は
住民は野卑で、都とはまったく違った環境だった。
平家が来れば、内裏・女院御所・平家一門の公達たちの邸宅が並ぶ小京都と
なり、夜ごとに笛の音色が聞こえる雅びな環境に一変したことだろう。
そのころまで俊寛僧都が生きていたら、どう思っただろうか? >>53
硫黄が出たみたいだからな。
あの時代中国では火薬が実用化されたから、
硫黄の需要はうなぎのぼりだったから。 物々交換で生活してたのかね?
農作物は作れなさそうだし。
普段何食ってたんだって話。 >>55
このころだったら、貨幣経済の波が鬼界ヶ島まで押し寄せていたので
ないの?
米とか麦は取れなくても、硫黄をとることで必要物資は
何とかなったのでないの?
じっさい俊覚の使用人が訪ねてこれたのだから、それなりに通商路は
開拓されていただろうし。 平家は硫黄貿易で稼いだ金で、米などの食料や布・武具などを本土から入手
するのだろう。やがて唐船が硫黄を求めて鬼界ヶ島に入港し、港町は唐人で
にぎわうようになる。
赤いランタンの下がった唐人街に平家の公達も訪れるようになり、すっかり
成人した安徳天皇もお目当ての姑娘を訪ねて行幸されるようになる。
この南国の別天地に、平家の栄華が再び訪れるのだろう。 >>57
それどころか、火薬兵器を手に入れて、逆転の目もありうるかもしれない。
貨幣経済を浸透させて、源氏の将兵を買収するかもしれない。 それ以前に硫黄島で生活基盤を築くまで衣食住を確保するのがどれほど大変か理解できないのか。
いきなり無人島でもないけど未開の土地に行ってどうやって生きていく気してるんだw >>59
船で行くから、食料は積んでいるのでないの?
当面は1年分は必要だけど。 どのくらいのサイズの船を想像してる? 何隻?
そして平家の人数はどのくらい?
慶長遣欧使節だって大した人数でもないのに壮大な船が必要だった。
平家にそれほどの船はないだろうしそもそも当時はそんな造船技術なんかないからね。
北海道開拓団みたいな移民の苦労話を少し調べてみては。 鬼界ヶ島の周辺には多くの島嶼があるから、平家は一門を派遣して、島々に
基地を建設するのだろう。それぞれの島で取れた産物を本拠地である鬼界ヶ島
に運んでくるから、物資は次第に豊かになってくるはずだ。
九州南方の島嶼に栄える平家・安徳天皇海洋帝国は、奥州藤原氏の南方版と
なるのではないか? 壇ノ浦の戦いでは、平家がよもや宋に逃亡ということがないように、
緒方一族が逃亡海路を制圧していた。
もう平家は逃げ場がなかったとしか思えない。 それはでっち上げだよw
摂関家が平家残党狩りに横やり入れている記録が寺かどっかの
記録にこっちの方が気になる 四国だけではなく、南九州にも拠点を作っておけばよかった。
そうすれば、本土を失陥した後でも、容易に南方の島嶼に逃げることができる。 >>69
薩摩守ただのり
現在の慣用句にもなっているぐらい薩摩にも平家の拠点はあったよ
ただ平家は京に腰を据え、西国・九州の武士団も
「京都の中央政界を牛耳る平家」を慕って従っていたから、
都落ちした平家につくメリットが急減した
この辺りが鎌倉に腰をすえて、日頃から在地の武士団と
接していた頼朝と違うところだな そもそも平家が最も強固な地盤を持っていたのが関東だったからね
その関東が敵に回ったらそりゃ負けます >>71
それは違う。
正盛、忠盛、清盛は東国の受領国司になったことは一度も無いし、
やはり平忠常の乱以降は、平家の勢力は東国から大きく後退している。 確かに一門が京都にいて、高い官位を占める貴族だからこそ、地方の武士たちも
平家を支持する意味があった
都落ちして官位を失えば、平家の求心力は低下するから、次第に味方を集める
のも難しくなるね そうは言っても、「一ノ谷の騙し討ち」までは十分に勝負になってたし、
源氏将軍も三代で絶えているので、似たようなものかもしれん。
やはり足利直冬や懐良親王、古河公方、足利義稙のようなハングリーさが無いと、
なかなか厳しいということだろう。 『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」 >>75
後白河法皇が平家方に停戦、和議を提案して、
平家側が油断していた、戦闘態勢を解いていたところを
鎌倉方が急襲して、
平家方の名だたる武将が片っ端から討ち取られたこと。
まあ治天の君が、解官された賊軍、朝敵(※)に対して何をしようが、
(※寿永3年1月26日に頼朝に対して平家追討の宣旨を出している)
誰からも咎められることはないわけだけど。 一の谷の本陣が安泰で、まだ勢力のあるうちに鬼界ヶ島などの島嶼に拠点を
作っておくべきだった。屋島・彦島だけではなく、一門の武将を鬼界ヶ島に
常駐させておき、食糧や武器も貯蔵しておけばよかった。
屋島が陥落した時点で、一門の大半は鬼界ヶ島に合流し、彦島には一部の
武将を残すにとどめておけばよかった。そうしておけば、壇ノ浦で敗れても、
滅亡することはなかった。 そもそも鎌倉幕府の有力御家人の多くが坂東平氏というね。 平家が台湾を開拓すればよかった。
そしたらいまごろあの島は日本領 壇ノ浦の決戦するくらいの兵力残ってるなら四国全力で制圧できるんじゃね?
と思ったんだが。
なぜ海戦を選んだのか。
また、投身自殺を選んだのか。 坂東平氏の有力御家人
・上総介広常
・千葉常胤
・三浦義村
・和田義盛
・大庭景義
・梶原景時
・畠山重忠
・河越重頼
・葛西清重 上総介広常と河越重頼(義経の舅)を除いて、粛清したのは北条氏やし。
千葉、葛西は長く続いた。
・侍所所司→別当
・播磨・備前・美作・備中・備後の守護
・十三人の合議制のメンバー
景時が無官というのも問題じゃないな。
愚管抄にもその名が挙げられ、子供の景季、景茂は任官してるからね。
特に景茂の任官は、頼朝の成功推挙の選に入った景時の権利を譲られたもの。 >>93
?源平合戦時の話だぞ?梶原氏全体を見ても当時は無位無官じゃね? >>94
播磨・備前・美作・備中・備後の守護になったのは、まさに源平合戦の最中ですよ。
長男の景季が、義経に便乗して無断任官したのも源平合戦の最中。
(例外的に頼朝の咎めなし)
そりゃあ梶原氏は、足利・三浦・千葉・小山・宇都宮のような大身じゃあない。
相模平氏の分家筋だからね。 >>93の梶原景時が「有力御家人」でないのなら、
和田義盛や畠山義忠も有力御家人ではないことになるよ。
いずれも、三浦氏や秩父平氏の分家筋で、
頼朝に一本釣りされて引き上げられた人間なのだから。
頼朝生前の北条時政(北条丸さん)・江間義時親子は言うまでもない。 >>83 でも、貞盛の末裔でなく良文の末裔で傍流。 >>86
四国の拠点屋島を奪われて、壇ノ浦で最後の戦いを挑んだんでしょ。 >>101
勝ってもその後の展望がないような。
補給は続かないし陸地は敵だらけ。
降伏するか、沖縄や奄美に新天地を求めるくらいしかなかったんじゃ? この時期は、島津も、大友も、まだ土着してませんよw
たとえば豊後は、まだ緒方惟栄(後に義経に肩入れして流罪となる)が
平家と平家方の宇佐神宮とやりあっていた時代。
島津家初代の島津忠久が、島津荘下司職に任命されたのも、
壇の浦と同じ文治元年(1185年)で、平家滅亡後のこと。 外国と交易してたんだから、倶利伽羅峠辺りで海外から援軍頼めば良かったのでは? 秘密裏に海底基地を作っておくという道もあった。
壇ノ浦で入水して滅亡したと見せかけて、海底基地に逃れて、そこで
平穏に暮らせば、源氏に見つかることはあるまい。
二位の尼が安徳天皇に語った「水底の都」をリアルに実現するという
ことだ。 琉球諸島に接近した平家艦隊が、為朝の矢で撃沈されまくるんですね 源為朝に対して安徳天皇が赦免状を発給し、官位を復することによって、
平家と源為朝が和解できるのではないか?
平家軍に加わった源為朝が琉球から射た矢は、本土の源氏軍にまで届いて、
源氏の軍勢を次々に倒していくことだろう。 いや、為朝は琉球王だから、日本の官位なんて必要としてないから。
とはいえ、「琉球王」としては、平家と無理に争う必要が無いのは確か。
大陸への防波堤として雇ってもらえるかもしれない。 安徳天皇が為朝を琉球王に冊封するというのもありかも知れない。
安徳天皇・平宗盛などの公卿による日本国朝廷と、源為朝による琉球国朝廷の
二重国家になるのだろう。
源為朝に琉球の統治権を認めるかわりに、年貢を上納させることとし、
八重山諸島・奄美大島など周辺の島嶼は安徳天皇の直轄地とすればよい。 人形師だと、清盛が「おまいら鬼界ヶ島行きね」って宣告した瞬間の三人のリアクションが
マジビビリだったからね。 沖縄本島の首里に都を造営し、安徳天皇や建礼門院がお住まいになる御所、
琉球王・源為朝の住む王府を建設する。また、平家の公卿たちの居館がその
周囲にできて、首里はたちまちにぎわうことだろう。
平家の築いた貿易のノウハウで、宋との交易も復活し、経済的にも繁栄する
のは間違いない。沖縄は宋の江南地方と地理的にも近いので、交易には
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