日本国号の由来


日本国号の由来を考える。日本国号は東夷を表すつもりではなかったか。

「日本」の文字が見える最も古い記録は禰軍墓誌の「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」。
風谷遺氓を福信とする説を取ると、于時は碑文の「顯慶五年(660)」になる。
日本餘噍は660年に扶桑にいた。旧唐書の「扶餘勇者,・・・,是時走在倭國」は、日本餘噍は扶餘勇(百済王子)と思わせる。
白村江で多くの百済貴族が倭国に着き、扶餘勇と合一したはず。

旧唐書の「麟コ二年(665),封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」は倭国が唐配下になったことを示し、倭国には新しい政権が生まれる素地がある。


天智天皇(中大兄皇子)が百済将軍を使って朝鮮山城を作る。
その範囲は北九州から滋賀県。即位したのは大津に遷都後で、近江朝は、百済政権。
旧唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は
倭国を従えた近江朝のことではないか。

新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」は
壬申の乱で近江朝が旧倭国に滅ぼされたことが対応し、倭の名を冒したから近江朝は、「日本」を自称していたに違いない。

注意すべきは高句麗が倒れた後に国号を日本にしていることである。
昔、朝鮮半島あたりを日の出の地域として中国は「日本」と呼んだ。
禰軍墓誌の「日本」もそのような意味。
唐によって潰された百済・倭・高句麗を受け継ぐ国名として、天智天皇は「日本」が相応しいと考えたのではないか。
百済にとって、倭も高句麗も同盟国である。志は百済だけではなく、東夷であると。