梶原景時と高師直は似すぎている [無断転載禁止]©2ch.net
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両者とも独裁者の腰巾着で大粛清を実行して悲惨な最期を迎えた日本版ベリヤ >>1
高師直に腰巾着というイメージはないな。旧秩序の破壊者。
清盛や信長 山名宗全と被っている。 2人とも祭り上げられてる神輿のダークサイドを担った面はあるだろうね
足利累代の家人である高氏を腰巾着呼ばわりはちょっと酷だが 頼朝、尊氏の有能な執事だから当然穢れ仕事も行いそれに伴う悪名も致しかがないな。 景時は判官贔屓のあまり悪者にされがちだったけど、頼朝にとっては命の恩人で自ら汚れ役を引き受ける忠臣の鑑 師直は北畠顕家討伐、楠木正行討伐でも足利幕府軍の総大将として指揮を執っている
鎌倉軍のお目付け役の景時とは違うんじゃないの 高師直って教科書に一言しかでてこないけど本当調べると面白いよな 戦前あそこまで忌み嫌われた人物はいない
戦後になっても評価されにくいのは性癖からだろうか? 昔 教科書に載ってた伝足利尊氏像(丹古母鬼馬二のやつ)って、実は高師直像というのが有力だよね。
イメージ的にはぴったし。
ちなみに神護寺三画像も実は 源頼朝⇒足利直義 平重盛⇒足利尊氏(これは似てる) 藤原光能⇒足利義詮 な。 柄本明の師直は実によかった。
あだ名の木像蟹にふさわしい顔w
師泰役が塩見さんとかほんと豪華だったな。
景時は江原真二郎の景時が秀逸だった。 江原さんは高師氏も演じていた(『北条時宗』)
あれ観るたびに「どうみても梶原景時にしか見えんなあ」とオモタ。
『黒田官兵衛』の小寺政職がどうみても北条高時にしか見えんかった。 大河で尊氏にボコボコにされて号泣するシーンは強烈だった >天皇なんぞ人形にでもさせとけ
戦前の日本では墓荒らしされるほど高師直ほど忌み嫌われた人物はいなかったとか
戦後でも見直されないのは覗き見趣味があるほど性癖が悪すぎたからであろうか? 息子の師詮は美少年だったらしいじゃないか
しかし何で師夏は片諱貰えなかったんだろう >>28
だから今、おれたちがこうして集まって高師直公を再評価することに意義があるんぢゃないか?違うか?
星の数ほどあるスレッドからわざわざこのスレを覗いたということは、君の心の中にはすでに師直愛があるからではないのか?
豊臣秀次も名君説がテレビで流れている昨今、師直英雄伝説を語り合うのがおれたちのすべきことではないのか?
上で誰かも書いているが、清盛ー師直ー信長 このライン日本史の革命児ラインなのだ。 見ろ!これを。
107 : 日本@名無史さん 2017/02/21(火) 22:42:39.96
日本三大革命児 武将編
平清盛
高師直
織田信長 日本だと革命児が幸せな死に方することはまずないからな。
師直の死に方は革命児の証だ >>28
一方、戦後に高評価された足利尊氏直義兄弟。 天皇を島流しにした北条義時もさ
直義は皇族をマジ殺しちまったが 梶原景時は結果的に盟友の比企とも連携が取れずに孤立して運が尽きたな 比企、盟友なのかね?互いに盟友にできなかったんじゃないの?盟友にするという発想もなかったと思う。
北条は違ったな。三浦とはほぼ一体になっていたな。 頼家がアレ過ぎたのは比企や梶原のせいなのか
少なくとも実朝は北条に都合のいい将軍を演じるぐらいの器量はあったようだが 漁色家の高師直は日本のベリヤ?
漁色家のベリヤがロシアの高師直 高師直の魅力がよく分かるサイトって無いですか?
wikipedia以外で
本でもいいですが 大河ドラマ太平記大全とか面白いと思うよ。
大河の太平記の師直は魅力的だったからね。 旧来の御家人層ではなく悪党・庶子家などの新興武士層の期待の星 高師直。
公家や寺社勢力をも無視し、これまでにない新秩序を目指した師直は、
早すぎた信長だったのか、あるいは日本版朱全忠だったのか?
田中角栄ブームに続く高師直ブームが今年のトレンドと言える。 >>1
師直はベリやではなく、ジューコフとフルシチョフを足した感じだな。
梶原はベリヤよりもフーシェかな。 既得権益に近い直義と新興勢力に近い師直
南朝との対立関係があるので
尊氏としてはどちらも手元に置いておきたかったんだろう 景時たちは、清水市で討ち死にしたが、
一族は、ばらばらになって、おもに山梨に逃げたので、
今河口湖に 子孫が梶原会をつくり 銅像を建てた。
おれの先祖も梶原一族で、山梨石和の寺に子供をあづけて長野に逃げて、
追手に殺された
子供は石和で育ち 戦後東京に出てきた。 師直亡き後の高家は鎌倉公方家とかに出仕していた様だけど、零落して師直時代の面影は全くないのが哀愁を誘う >>47
足利尊氏は吉川英治の小説主人公になったのに >>52
高家が没落したんで足利将軍家もいまいちパッとしないまま戦国時代になっちまったんよ。
師直兄弟はバリバリの中核だったからね。 >高家が没落したんで足利将軍家もいまいちパッとしない
んなあこたあない。 足利15代目までつづいとるやないか
3代目と8代目は黄金時代を築き上げた 義詮と基氏が無茶苦茶した親父の尻ぬぐい頑張ったおかげとも言える 足利義詮 「俺は将軍なんてなりたくなかったんだよ。バカ親父が先祖の与太話信じ切って、
北条や後醍醐天皇に謀反起こすから俺は苦労ばかりだ。」 頼朝と同様に兄弟の相克は物哀しく心打たれるよな
尊氏の場合、庶子の足利直冬との確執も複雑に絡んでくる ただなぁ
梶原景時はそれなりに教養があったみたいだけど、高師直は
ラブレターを吉田兼好に代筆させていたからなww ボ、ボ、ボクは、も・も・文字が、か、書けないんだな >>63
いくらなんでも、高師直は文字は書けたのではないかな?
ただ表現力が乏しかったから、教養がなかったから、
兼好法師に代筆させたのではないかな?
ただこれが秀吉あたりだったら、へたくそな文字や文章でも
伝わればいいのだよと考えて、自分でラブレターを出しただろうけど、
高師直はへたくそな文章や文字で出すのは恥ずかしいと考えたから
兼好法師に代筆させたのではないかな。
梶原景時なら、和歌を出したのは間違いないだろうな。 >>55
ずっと戦争して不安定な政権だったじゃんかよ。
平穏だったのは義満の晩年から義持くらいまでのごくごく短い期間だけだろ。 >>64
63だけど、そこは 「山下清かよっ!」とレスして欲しかったんだな。 >>65
下剋上の風潮は既に南北朝時代から見え始めていたというし、将軍殺しの赤松満祐はまさに乱世の申し子 高師直が無教養?
夢窓礎石に帰依して写経も多数残してるぞ。 高師直は、梶原景時をもしのぐ超・現実主義者。
神や仏を信じず、平気で神社を焼き払い、「天皇の代わりに木像でも良いではないか」と言い放った。 真如寺作ったの師直やで
詳しくは真如寺(京都市)で 師直にしたら木造や銅像を信仰してるわけじゃないってことだろうな
んなもん焼き払うことに躊躇はないだろう。 書類を読めない人に、室町幕府の執事が務まるわけないだろ 一方、極悪人でも楠正成は英雄扱いされてる
いまだ日本人は皇国史観から抜け出せず 少なくとも上皇の乗る牛車に矢を射掛けた土岐頼遠は極悪人だろうよ
上皇の権威を源泉とする室町幕府の正当性自体が危うくなる 楠木正成は倒幕最大の功臣だからな
のちに南朝に忠義を尽くしたとか関係なく英雄と言うべき存在だと思うけど 婆娑羅大名は風流を重んじた文化人で教養もあるよ
しかも、師直は鬼神の如く戦に強い 武将としての力量は
足利尊氏>足利直義>>高師直>>(越えられない壁)>>楠木正成
北条時政>源頼朝>>梶原景時>>(越えられない壁)>>源義経 冗談で言ってるのかねキミは。
特にココ⇒ 足利直義>>高師直 師直って最後の敗戦以外は無敵状態だぞ。
北畠も討ち取ってる。
南北朝最強武将だ。 どうでもいいが負け犬にすぎない楠正成と源義経の評価が高すぎるんだよw 源頼朝=足利尊氏
梶原景時=高師直
源義経=楠正成 義経に関しては、吾妻鑑では自業自得ではあるが哀れではあるという客観的な見方だな 景時や師直を再評価すべきと言うなら
義経、正成を敗者だからと低く評するのは矛盾があるわ 吉川英治が足利尊氏を名誉回復したみたいに
どっかの小説家が高師直を名誉回復すべき >>83
副将軍直義はあまり戦は得意ではなかった筈
北条時行に連敗している
時行は強い武将だったらしいが >>92
にしても忠臣蔵もだが日本人の判官贔屓は醜い
この国が法治国家になれない理由である 江戸期に単純な勧善懲悪、善悪二元の作品が流行って悪者にされるようになった
忠臣蔵の吉良を高師直に仮託しているし 頼朝の裏面を担当した大江広元は天寿を全うできたのに、
梶原景時は皆に嫌われて、天寿を全うできなかったな。
何がまずかったのかねぇ? 少なくとも大江広元は北条家とかとも仲良かったからな >>95
判官贔屓で最たるものは信長と龍馬だろうな。あれほど日本史を歪めてきたものはない。
義経と忠臣蔵は物語レベルで終わってるからまだ罪は軽い。 >>97
景時は北条の最大の敵だったから巧妙に排除された。
景時を糾弾する連判状には北条親子の名前がないんだぜw
だけど景時の首を上げたのは時政が守護をつとめる駿河の御家人。
北条が最も恐れた景時を排除したのであとは比企を潰すチャンスを待てばよかった。
各個撃破という教科書通りのやり方だね。
大江は所詮文官だからちょっと脅せばいうこと聞く。
実際大江は頼朝死後は北条べったりだったからな。 義経よりも
土佐で散った源希義やとばっちりで死んだ範頼や頼家に見せしめとして殺された阿野全成の方が可哀想だと思う 景時は独断専行だったけど、北条家は陰で駒を動かしつつ、利害の一致する諸侯や三浦家などの盟友と連携していたからな スレ立てるほどでもないのでここに書いておく。レスが多ければ新スレ立てる予定。
『 藤原良房と北条義時は似すぎている。 』 >>104
源義経 楠木正成 織田信長 忠臣蔵 坂本龍馬
時代順に置いたが日本人は敗者の美学とやらが好きなそうでw
こういう敗者に感情移入するのは日本人だけじゃないかな? 実際に支持されていたのは北朝
時代錯誤な事をやらかして、世の中を掻き乱す事しかしない南朝の方が極悪だというのに 南朝も別に飛び抜けておかしいことをやってたって訳でもないんだけどね
基本的に初期足利幕府と南朝にそこまで制度的に差は無いらしいし
じゃあなんで差がついたのと言われれば、軍事力の差としか言いようがないんだけど 勝者である源頼朝、足利尊氏、徳川家康が嫌われるのは皇国史観の悪影響。 >日本人は敗者の美学とやらが好きなそうでw
なにより敗戦国の大日本帝国を崇拝するネトウヨも増えてきた時世なこと 梶原追放を実際に主導していたのは時政なのか義時なのか
後の顛末を見る限り義時の方が慎重な策略家に見える 表で動いていたのが三浦義村だからな。
義時と義村は従兄弟どうしで年齢も近くその後もずっと一緒に行動している。
義時が動いたのは間違いない。 北条、三浦、大江
知略に富む者同士、気が合うのかな
利害関係以上に絆があったのかも知れない 初代執権にも関わらず、クーデターに失敗して失脚した時政は永久に謀反人扱いだったからな
得宗家の名の由来の通り、事実上、北条家は義時の家みたいなものでしょう 不死身の周恩来に匹敵する不死身の内政家が大江広元。 そもそも大江広元がいなかったら鎌倉幕府自体が成り立たなかった 司馬遼太郎。
「大江広元こそ今日まで続く日本人気質を作り上げた」 司馬のいうことは参考にしないがよい
壇ノ浦の戦いも世界有数の海戦とかほざいてるくらいだ 天皇を奉じる事なく、しかも一方的に朝敵にされながらも上皇方を撃退した事
史上最強のモンゴル帝国を撃退した事
鎌倉幕府が最強の政権と言われる所以 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ いまさらなんだが、梶原景時って、どういう人なんだよ?
誰か教えろください 梶原 景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。
教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。
頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。 こんなカッコよかったんかい
file:///storage/emulated/0/Download/img3cc9beffzikdzj.jpeg 景時や旗揚げ以前から協力してくれた三浦や北条、義朝の七騎落ちに最後まで付き従った平賀義信などは恩に報いる形で厚遇している
逆に義朝の仇の長田は容赦無く殺しているが 高師直は、色欲は人一倍強かったが意外に権力欲はなかった。
戦勝の褒美は領地より美女が欲しいと言ったとか このころの北条親子は確固たる立場ではあるがその真の恐ろしさは知られていないからな。
景時は北条にしてやられたと思わないで消えていった可能性が高いな。 やっぱ>>83のレス通り
北条時政こそが鎌倉最強の政治家だったんじゃないだろうか? >>142
弾劾状には北条の名前は載せていないから知る由もないのでは
諸侯間で利害が一致していたんだろうけど、暗躍していたのは確か 時政も溺愛する妻に便乗してクーデターを画策するも失脚してしまうだよな
この時代の女性はかなり強かだ 北条時政。
北条義時。
大江広元。
真の実力者ほど人気がないのは世の常 >>147
しかし大江広元の末裔毛利は大大名と
越後の子孫はウルトラマンレオのトオルくんのお兄さんが演じてと
高倉健は北条時政の末裔とか
梶原という武士はいっぱいいたけど景時の子孫なのかね? 梶原景時の末裔は全国にいるね
室町時代に鎌倉公方に出仕していたり、或いは戦国時代には四国で海賊になっていたり、織田家の奉行になっていたりする 大江広元がいなきゃ鎌倉幕府も
鎌倉幕府の連枝ということで幕府を開いた室町幕府、
そして関ヶ原で日和った毛利もおらず西軍が勝って江戸幕府もなかった
ということか。
大江広元凄すぎ 北条時政記念小学院を建設するための寄付をお願いします。 梶原さんてあの時、頼朝を殺しておけば天寿を全う出来たと思うの。 源氏の兄弟で信頼を置けるのは源範頼と阿野全成ぐらいだから、頼朝が奥さんの実家を頼りたくなるのも無理はない 全成は北条氏と婚姻関係にあったからどのみち北条を頼ったことになるな。 >>155
北条政子だって、頼朝と結婚しなかったら
子孫に恵まれていたと思う。
現実に、日本で一番不幸な尼だと愚痴をこぼした手紙を出しているし。 不肖の子だったとはいえ、頼家や更には確執の生じた父、時政も追放しているからな
親子、或いは源氏の兄弟の相克がこの時代をドラマチックなものにしている >>155
景時の権勢は鎌倉殿によるところ大だし、寄りとも没後にあっけなく滅ぼされたから、
頼朝の庇護が重要だったと思うぞ?
>>157
頼朝弟でも地味な範頼だが、子孫は吉見家として今に至るのだから、
子孫完全断絶の可能性が高い義経や平将門より幸せと言えるかも知れない。
>>158
源頼家は4人は男子がいたはずだぞ。
有名な公暁とか、一幡(比企合戦で死亡)、それと坊さんになった人たち。
要するに、彼らの子孫はいないと考えられるので、頼朝の血統は断絶と。
実朝が子宝に恵まれていたならな…と思ってしまう。 >>161
悪者扱いされる景時も可哀想だけど、
思慮深く軍事、執政でもかなりの実力者なのに義経を引き立たせる為に過小評価された範頼も可哀想だと思う 景時を正当に評価して作品にしたのは永井路子が最初かな。
草燃えるの景時は本当に見応えあったわ。 >>161
実朝に子供がいても滅ぼされてた可能性はあるがな
頼家の女子・源鞠子(竹御所)は摂家将軍・九条頼経の正室になった
しかし難産のために子もろとも亡くなった やっと梶原景時もメジャー化してきたな
次は高師直の番だ 義経の身勝手な行動で冷や飯を食わされたのは御家人達だからな
自分の事しか考えない短絡的な義経と幕府や軍全体を見れる景時の違い 梶原はのちの石田三成と同様の堅物。
師直とはタイプが違う。 保守的で怜悧な足利直義とは性格を含めて何もかもが正反対 >>179
師直は文武両道で、和歌の才があり、達筆だった。
趣味的な方面では尊氏と馬が合ったんじゃないかと思う。
足利直義は対照的に、田楽を嫌って見ず、和歌もそんなには得意じゃなかったように思う。
キャラクター的に、師直は尊氏・義詮とよく合って、直義と険悪になったのもわかる気がする。 >>180
尊氏は室町幕府にシンボル的に君臨し政務は弟の直義と執事の高師直に任せた
しかしこの両者が対立
直義の力が強くなりすぎることは愛息・義詮のためにならないと判断した尊氏が師直についた
尊氏の直義が争い始めたのは義詮と直義のどちらが後継者かということが問題になりだした晩年だし
それ以前は仲良くしてたよ 何かしらの事情があったのか、未認知の子の直冬とは決して相容れなかった様だ
直義が直冬を与党にした事でより一層、事態は混沌としている 上皇を犬と言って矢を放った土岐頼遠を処刑したり
天皇なんて木彫りで作ればいいとかいった師直を倒した直義は偉い
乱世だからと言って朝廷権威を軽んじる馬鹿は必ず最後悲惨な死に方をするという
いい前例を作った
ちなみに150年後に細川政元とかいう馬鹿が偉そうに
天皇の即位式なんて意味がないとか言ってなかなか開催を認めなかったが
最後は案の定悲惨な死に方をしている 仮に直義が高師直みたいに戦が強かったら完璧だったのかな 性格はどうだか
いずれにせよ尊氏とはぶつかるだろう >>185
源頼朝も弟たちを殺しているし織田信長や伊達政宗もそう
息子に直系相続させるために弟抹殺なんていつの世もあっただろ
直義のふるまいがよければよいほど
息子よりも後継者に適任だと思われているのではないかと疑心暗鬼になり
殺されるんだよ
直義が甘かったのは兄の尊氏を殺さなかったこと
尊氏・師直を追い詰めたものの高師直を殺しただけで
兄の尊氏とは仲良くやろうとしたが結局尊氏に暗殺された
兄が弟を殺すのは容赦ない 教科書に載っているお馴染みの源頼朝の肖像画(神護寺蔵)は
実は足利直義 忠義なのか頼朝なのかわからないが
あの肖像画を超える肖像画など日本にないだろうな ちな頼朝は三男
Evaluation: Average. 神護寺の伝頼朝像は貴公子然とした気品や凛々しさもあるけど、現代人から見ても描き方に違和感を感じないリアルさがあるから素晴らしいのでは >>192
三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛
191はリンク先貼り付けミス。予定ではクローズアップ画像を出そうとしたんだが、
写楽の解説文が出ちまった。 ギャグ空振り カッコ悪し(><) でもさぁ
ああいった教科書に載るレベルの肖像画でも、結構名前を
取り違えているけど、どうして名前を取り違えるのかなぁ? あの肖像画が仮に足利直義だったら
頼朝はどんな人なんだ >>196
神護寺にある国宝の神護寺三像は神護寺で
伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像と伝えられてきた
しかし衣装や技法から成立時期が下るとされてきた
ちなみに源頼朝像と平重盛像は顔の向きと目の多きさ以外は瓜2つ
作者が同じというだけでなく近親者を描いた可能性が高いという
足利直義、足利尊氏を描いたものであれば
兄弟が似た顔をしていてもおかしくないという 足利尊氏の木像と伝平重盛像はそっくりなんだよなw
特に垂れ目がw
ちなみにこの垂れ目は孫の足利義満も濃厚に受け継いでるのが面白い。 そんで、伝藤原光能は、木像の足利義詮像にそっくり。
足利直義は将軍ではないから例の木像群の中にはないから確定ではないけれど、
伝平重盛→足利尊氏
伝源頼朝→足利直義
伝藤原光能→足利義詮
との解釈が有力になったと。 足利将軍は尊氏〜義政(義教除く)まで皆 垂れ目だよね。伝平重盛像は尊氏や義満にクリソツ。 義教は性格含めて異端児だから似てないのかも知れんな 天皇なんぞ人形にでもさせとけばいい。
この発言で師直は今日まで朝敵にされ続けてる >>276
ハイ詐欺!
下戸遺伝子は発生はモンゴルあたりだと聞いてるが。
今現在の頻度は全然関係ないの。
キャリアが一人来ればイイだけで、その地に合えば爆発的に頻度は上がるし、
合わなきゃ頻度は下がったり、消滅もする。
で江南の半ブタ半黒人が渡来定着したという詐欺を証明する証拠遺跡とその証拠文物、
とりわけ生活痕たる証拠土器・石器と、そんな悪質極まりない詐欺を
垂れ流している悪徳考古学者の氏名と所属団体は? >>210
もしかして、海外なら王家に逆らっても許されたと思ってるの? >>212
海外なら王朝交代なんて普通にやってるだろ >>212
日本は王道と覇道が両立してるけど他所の国ではそうじゃないところが多いんでないの? ヨーロッパで例えるなら天皇はローマ法皇
征夷大将軍は神聖ローマ皇帝
大名が王みたいなものでしょ 皇国史観なんて戦時中のとち狂ったプロパカンダに過ぎない
大陸由来の儒教的発想で、北朝鮮と変わらん 南朝にとどめを刺そうと思えば出来た筈なんだけど
高師直に追放された直義は南朝を利用しようとして混沌としてくるからな >>217
北チョンと変わらないのは今の日本だ。
安倍総理=キムジョンウン 景時も悲劇的な顛末を歩むわけだけど同情されないのはなんでなんだろう
因果応報という点では義経と同じだけど >>225
義経粛清の中心人物だったという景時が謀反を起こしても同情するのは難しいんじゃないの
景時は反義経派に利用されただけで終わっちゃったな
石田光成みたいなチクリ魔が嫌われるのはよくあることだな
文武両道の景時は三成より小西行長に似てる気もするけどな
スレタイの二人にしろ義経や信長にしろ強さを傘に来た傲慢な奴の末路はろくでもないよな >>1
両者とも20世紀の旧共産圏の秘密警察の頭みたいだ >>233
梶原景季の子孫と畠山重忠の子孫が、20世紀になって、結婚したって話を聞いたことがある。。。
住まいは姫路らしい。
先祖同士がどうあれ、こんな縁があるんだなぁ。 牧の方らは畠山を死に追い込んだことで相当な恨みを買ったから
北条義時が時政を糾弾する為の大義名分としては十分すぎる 頼朝・景時
尊氏・師直
家康・正信
ことを成すには腹黒腹心が必要らしい。
正信本人は無事の天寿を全うしたが、息子は失脚・配流・幽閉だから、腹黒腹心報われない。 高師直の天皇なんて木像に云々発言と
一休、蓮如の思想はパラレルだと思うな
一休とか蓮如の仏教はある種の形式否定の思想だから >>247
一番、腹黒そうなのって北条時政では?
梶原弾劾の際に裏で対立を煽ってそう 実力主義の権化
下剋上の風潮は既に南北朝期から萌芽が見られた 景時と師直じゃかなりキャラが違う
景時は保守的だから >>249
北条時政は頼朝の舅であり腹心ではないのでは?
政子の父でなければあそこまで重きを置けたとは思えないし
腹心って絶対的な信頼のおける主従関係で結ばれた家臣のことでしょう 似てねえよべリア。 顔も性格も似てねえ。
似てるのは三国志のドウタクだろ。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
IJR6O 禁門の変で長州は御所を砲撃したけど門がちょっと被弾しただけに過ぎない
後村上天皇の吉野御所を焼き払った高師直に比べればまだまだ半人前だな 横領を許してでも恩賞をジャブジャブ配りまくった師直も問題とはいえ、逆に足利直義は恩賞を渋り過ぎて支持を失ってる
このバランスが難しい 戦後になると逆賊とされた足利兄弟は見直し評価されてきたが高師直は今だ評判が悪すぎるね 師直は太平記の印象が悪いからな
実際には教養が深い人物だったみたいだが >>1
>大粛清を実行
師直は別に粛清などしてないし、前提がそもそもおかしい 足利直義ってあまり戦は強くなかったのに前半はよく勝てたね
上杉とか桃井が優秀だったのかな 師直を高く評価していると言えば亀田俊和か
本も出しているくらいだし とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
MO5 高師直は天皇の後宮に入るはずだった二条道平の妹を盗み出して
師夏を産ませたという話が有名だが、この「天皇」て北朝の光明天皇と
南朝の後醍醐天皇のどっちだろう?道平と道平の父二条兼基は建武の新政
が始まって1、2年で死に、道平の死んだ翌年1336年には足利尊氏が九州か
ら京都に戻って光明天皇を擁立して北朝を開いた。このときの二条家の動静
はというと、道平の伯父二条師忠と息子の良基が京都に残って光明天皇に仕え、
弟とされる師基は南朝の後醍醐天皇に仕えることになった。師直の息子の師夏は
1339年生まれらしい。師直が建武の新政が始まってまもなくバサラ大名らしき
傍若無人な行動をして後醍醐天皇の後宮に入るはずだったところを奪ったにしては
子どもができるまでの年数がちょっと長いと思える。それとも後醍醐がいる吉野に
まで出向いて彼女を奪いに行ったのだろうか。師直は南朝の公家の娘に手を出すほどの
好色家だったのか?彼が手軽におもちゃにできたのは北朝側の皇族や公家の女性たちだろう。
そうなると光明天皇の後宮に入ることろを横取りしたとしか考えられない。
でも変だな。彼女には以前から大炊大納言冬信という愛人が
いたので、それを知った師直は冬信の家を焼き打ちしたとか。
大炊御門冬信は北朝でなく南朝の廷臣。
二条道平は1287年生まれ、光明天皇が1321年生まれであることを
考慮すると30歳ぐらいは年の離れた妹がいたことになる。
妹ではなくて娘の間違いじゃないか?と言いたいが、師直の兄、
師泰の妻も二条道平の妹らしい。
それとも、この話は明らかに太平記のフィクションかな?
塩冶高貞の妻とされる早田宮真覚の娘にしても
新田義貞が愛した勾当内侍にしても実は架空の人物で
太平記作者が身分の高い女性に恋い焦がれていた、
あるいは藤原氏のような貴族を馬鹿にしたかったので
高貞や義貞、師直のような田舎武将に自分の願望を代弁して
もらったというのが真相なんだろうか。 ひ弱なくせに威張り腐った貴族の男どもは大っ嫌いだけど
貴族の美女は大好きでみんな俺のもの
どこかの国の男たちそのまんまの発想w 梶原平三景時の息子がなぜ梶原源太景季なのかわからん 高氏末裔の国司親相が禁門の変を主導しているんだよな
内裏や御所に攻撃するのもお手の物かw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています