>>164
 わしが書かんスレ挙げてどうすんない。
>>166-167
隠岐系佐々木は、文献上は辻褄が合うとるけどのう。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oki_k.html
{『明徳記』下巻によれば「佐々木冶部少輔高詮は、代官隠岐五郎左衛門尉を出雲国へ発向す云々」と
記されている。これに符合するものとして、室町三代将軍義満は、明徳の乱後、佐々木高氏の孫
高詮に隠岐国を賜った。
その後、隠岐氏は清秀・清綱・宗清と続き、出雲守護代尼子氏と被官関係を結んだ。結局、
在地豪族を把握することができなかった隠岐氏は、尼子氏の傘下に入るしかなかったのであろう。
  永碌五年(1562)、毛利氏が出雲に進出し、出雲国内に勢力を拡大するなかで隠岐氏内部にも
尼子方との対立が生じる。国人領主村上氏は、隠岐のにおける毛利氏の代表的存在として、
隠岐氏と対立。同九年には尼子方の水軍が毛利方の因屋城を攻めるが、村上氏によて撃退されて
いる。
 隠岐氏は、同年の月山富田落城以前に毛利方に属したようで、以後、隠岐は毛利氏の支配下に
入った。
その後為清は山中幸盛を恨むことがあり美保関で叛し、尼子軍に破られ隠岐に逃れて自殺した。
次いで、弟清家が隠岐氏を相続した。天正十年毛利氏の援助を受けた為清の子経清と争い、清家は
敗死した。清家の長男才太郎は毛利の援軍を得て城を奪回し、吉川氏の支配下となった。}
安芸吉川氏は山県郡の国人領主じゃったし、加計佐々木家は山県郡に落ち着いたんじゃろう。
元来の安芸国人領主、分家、旗本の国衆系じゃ無ぁ、新参者系よ。
まあ、広島県は尼子系の武士団子孫が多いいよ。広島の有力商人や>>128の被差別民系も
含めてのう。