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気合いで第二次長沙作戦じゃ総崩れのボロ負けしたんが南九州の肥後もっこす
薩摩隼人集う熊本第6師団とせりあいのライバル名古屋第3師団の先陣二枚エースが
敗走し、両エース師団を救援する四国の善通寺第40師団まで多大な損害を出して
大敗したよ。善通寺師団の中でも特に大半の死傷者は土佐の高知第236聯隊よのう。
同じ乙装備で兵数が常設師団少ない30,40番師団でも「締め上げん」権威や権力を
馬鹿にする広島第39師団は、デビューから名古屋第3師団と仙台第13師団の常設二枚
エースが中国軍の反攻に総崩れの敗退した冬季作戦でも、両師団を救援し、更に敵軍を
攻撃追尾し華々しい活躍でさすが日本最強の広島第5師団の弟師団と名声を得て、
日本軍の復讐戦の宜昌作戦じゃ名古屋、仙台のエースや熊本師団から派遣された
鹿児島聯隊らを後塵せしめ、独り舞台の活躍し、敵当陽主力陣地も仙台と名古屋の両師団の
兵力で攻略させようとした軍の思惑とは違い、広島第231聯隊の僅か一聯隊で攻略したけぇのう。
まあ、冬季作戦で、ほぼ壊滅したんが会津白虎聯隊じゃった。薩摩も土佐も含め、
締めあげる封建風土の土地柄の兵は膠着戦や守勢になると脆いけぇのう。
後に、第34軍佐野司令官は「誠に攻めれば強く、守れば固く…、 藤部隊(広島39D)
の栄誉は、永く国軍の戦史に燦然と光り輝くで あろう。」と。
梶浦銀次郎氏の、「攻撃戦闘なら、一人の勇者がおれば、他の兵がこれに続くことが
出来るが、陣地では兵一人一人の、 悲惨な状況下にも孤独にもめげず、判断の正常性を
失わない、高度な能力が 要求されるが、これはどこの師団の兵にも出来るというような
ものでない。」と、云われたよう、失態を繰り返す、集団主義である前任の仙台師団にゃ
無理じゃが、個々の判断力や戦闘力が強く、個人主義の自己克服が出来る広島師団でこそ
可能になる。