【初心者】スレッド立てる前に質問をPart37【歓迎】 [無断転載禁止]©2ch.net
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前スレ
日本史・スレッド立てる前に質問をPart36
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1431960606/ 明治以前は神社仏閣には寺領神領があって封建自治(裁判権含め)が認められていたのが
版籍奉還ですべて国家に召し上げとなって経営が成り立たなくなったのが明治初期の混乱の
元だね。このさい神社は国家機関として組み込まれたのでむろん経営には歳費が支払われた
けれども寺院は対象ではなかった。 >>198
基礎的な部分の網羅では中公文庫のもとになったやつが上回る
が、中公文庫の方のもとが八十年ごろだったか? ちと古い(もっと古かったかも
各巻末尾に2000年頃の追加情報が付いてはいるが、本文が古いのはどうしようもなく。
といっても講談社のも九十年代後半の本だから、さほど新しくもないんだよな
それより新しい他社の通史は文庫化されてないと思うけどさ >>200
大日本帝国憲法
第三条「天皇ハ神聖不可侵ニシテ犯スヘカラズ」
天皇を神聖なもの(=神)と憲法で定めているのだから国の方針 >>201
寺領神領と自治が与えられたのは大寺などだけだよ
中小の寺社は江戸時代も檀家や氏子からのお布施に支えられていた
寺は寺請制度によって檀家の冠婚葬祭や戸籍管理、通行手形を管理、
神社も集落によって氏子が決められ村ごとの祭礼を行い
それによって檀家や氏子たちは寺社にお布施を納めていた
明治政府から歳費が払われたのも国家神道と直結する一部の大きな神社にだけだよ
中小の神社の神主まで歳費を与え公務員同様に国家が養ったわけではない でかいところでなくても寺領神領(朱印地)はあるよ。
村高の一部(相給地)で数十石とかそんなレベル
自治権はないけど。 裁判権みたいなのは本寺に帰属するけれども寺社の封建的性格はかわらんよ。 >>203 文部省は天皇じゃないだろ。文部省がある学者に論文書かせて
それに文部省と書いて発行したからといってそれが国家の基本方針と
なるようには帝国憲法は設計されてないんだよ。そういう都合のいい
ところがあったんだ。 有名な「国体の本義」なんかも文部省が学者に書かせて勝手に出版したものであって
あんなのは帝国の基本方針でもなんでもなかったんだよ。これを戦後の内閣一致の
文脈で読むから、あたかもあれが政府の基本方針と読み間違ってしまう。帝国憲法は
上から下を支配するためにじつに都合よく設計されてるんですよ。 大日本帝国憲法は文部省が勝手に発布した
国は関与していないって誰の説? 帝国憲法は責任の所在が階層的にしかも複数ある構造になってるんだよ。
文部省のしでかすことに陸軍も逓信省も責任はないし拘束もされない
責任もたせたり拘束したりするためには立法措置するなり勅令が必要
文部省は大臣の責任において天皇に対してのみ責務を追えばよいという構造 >>199
>>>190氏の言によると「国が人事権を握っている」ことになるのかな
それに該当するのは時代とポストが意外と限定されると思う。 >>212
大日本帝国憲法の何条から何条までが
文部省が勝手に書いたので陸軍も逓信省も
文部省以外の人間は責任も拘束もされない部分なの?
つうか憲法に拘束されるのはそれを作った文部省だけって
もう憲法じゃないじゃんw 遅レスですが
>>186
なるほど。ありがとうございます。肝に銘じておこうかと思います。
いずれにせよ有意なデータではなさそうですね。
>>161
私が使っていた昭和末期の山川の教科書を見てみると
天平文化に「国家仏教の発展」という節がありました。
私も全く記憶になかったので驚きました。
本文には「仏教は国家の保護をうけていっそう発展した」とあるだけで
定義的な説明はなく不思議な感じはしますけどね。
一方186の検索で「鎮護国家仏教」は日蓮宗関係の一件のみ、論文検索ではゼロなので
やはりこの語はかなりマイナーと見てよさそうです。 >>215 帝国憲法55および伊藤「憲法義解」
憲法義解には大臣は補筆であり君主の代理ではない、大臣は議会に責を問われず
ただ君主にのみ責をとわれる、議会は議院を通じて君主に奏上することができるので
間接的に責を問える、また大臣は専任職であり連帯して責任を問われないとはっきり
記述してある。 なお「憲法に拘束されるのはそれを作った文部省」というのは
悪意をもった意味不明の文言の捏造なので
そのような恥知らずな弁論は控えるようにしなさい。
帝国憲法は太政官により作成され天皇の御名御璽により
発布されたことは万人の知る所であり文部省など関係ない。 なお「憲法に拘束されるのはそれを作った天皇陛下」
家法である とりあえず阿呆がスレに常駐してることはわかったので
あとは適宜あぼんする >>216
国家が仏教の力を使って国を治めようとしたって内容は習ったけど、
「国家仏教」ならびにそれに類するような言葉は習わなかったですよね〜 国家が仏教の力を使って国を治めようとしたって内容は習ったことがない。
国分寺・国分尼寺・東大寺を作っただけ。そんな穿った解釈も習わなかったよ とりあえず阿呆がスレに常駐してることはわかったので
あとは適宜あぼんする 一向宗って浄土真宗のみを指して言うのですか?
日蓮宗の方が過激で、日蓮原理主義的な
ものを
感じますが、日蓮宗は一向宗に含まれませんよね >>226
もともと中世には時宗や浄土宗の一派も一向宗を名乗ったものがあり
浄土真宗に限ったものではなかった
しかし江戸時代、江戸幕府が浄土真宗に対して
正式名称を一向宗に変えるように強要した
徳川家康は浄土宗だったが、三河一向一揆に苦しめられ浄土真宗を嫌っており
天下の徳川将軍家が菩提寺とする浄土宗と一字違いな上
こっちが真実の浄土宗みたいな宗名を浄土真宗が名乗るのを許さなかったとか
江戸幕府滅亡後、明治時代に正式名称を浄土真宗に戻している お聞きしたいんですが、歴史群像等の月刊誌(昔は季刊誌でしたが)のバックナンバーを揃えるという行為はコストパフォーマンス的にどうなんでしょうか?
揃えてる人は「本には載ってないことが雑誌に載ってることが多い」と言ってるんですが 趣味のものにコストパフォーマンスを問われたら悪いに決まってるじゃない。 >>222
マジで?
鎮護国家って用語も習わなかった? 日本の学習指導要領に基づいた教育ではなかったのだろう >>231
聖武天皇がカルトにはまって散財し,荘園が生まれた
その後藤原氏の貴族が台頭って流れの話だから >>221
ですから
あなたが高校で日本史を履修しなかったか45歳以上か山川教科書を使わなかったかの
どれかに当てはまるならそういうことですね。 90年代はあやしげな「歴史用語」が無批判で出回り始めた時代だからね。
史学は科学として完成されているようなものじゃなくて、ほとんど研究者個人の
おもいつきと嗜好で書かれたエッセイに近いものだよ。これ経済学や法学でも
そうなんだけどさ。 鎮護国家という語と「国家仏教」という概念はまったく別のものと峻別すべきと
わたしは思いますよ。前者は陳述で後者はラベルです。 以前、歴史博士が答えるスレで、鎌倉時代の執権よりも北条得宗(家)の方が
重要度は高いって話がありましたが、それは本当でしょうか?
義務教育たる中学の歴史でも執権は鎌倉時代の最重要レベルの用語として
出てきましたが、得宗(家)は出てきた記憶がありません
自分が得宗(家)を知ったのはもっと後になってからでした
歴代の有名な北条氏を検索しても、まず最初に第○代執権ということが紹介され、
その後で得宗(家)ってことが出てきます
それらを鑑みると、やはり重要度でも執権の方が上ではないかと思います
確かに得宗(家)の方が実権を握っていた面があるのかも知れませんが、
それは北条氏内部の家督争いやら勢力争いのことであって、
幕府の要職としての執権の方が広い目で見て重要度は高いという自分の考え方を
みなさんはどう思われますか? 得宗は幕府の役職じゃないからね、幕府の役職としては執権が最上位
ただ、執権を出す北条氏の内部序列が執権より上だ
特に鎌倉時代末ごろになると北条氏の家人である御内人がすごく多くなって、幕府より北条氏のほうが影響範囲が広いぐらいになってるだけに、どうしても執権より得宗の方が上にならざるを得ないのではないかと 得宗=北条家の家長
誰を執権にするかなどの権限を持っていたのが
北条家の家長である得宗
勿論、実際に幕府で政治を行うのは執権だが
執権を挿げ替える権限が得宗にある 御内人といって幕臣じゃない、北条氏家臣(幕府から見たら陪臣)が激増してて、北条氏以外の御家人の領地を合わせたより御内人の領地の方が多いぐらいになってったんじゃなかったか
御内人に対する命令権は幕府にはなくて得宗だけが持ってるんだから、執権への人事権がなくても幕府より得宗の方が軍事的にも経済的にも力が大きいぐらいだろう 成り上がり者だった秀吉・家康には豊臣恩顧・徳川四天王といった忠臣(?)が集まったのに
信長には1人もいなかったのですか? 新興といっても守護代の分家で立場的に恵まれていたのに
変死とはいえ人望なさすぎではなかったですか?? 一族内部での主導権争いで旧臣の多くが一度は敵対してるからなあ
それに対する旧怨を信長自身が持ってる関係上、古くからの家臣が足りなくて信長の代で新規に召し抱えた新興家臣ばかりになるのはしかたない
その意味では家康や秀吉と大差ないほど家臣の層は薄かったんじゃないかな。
弟信行(信勝)との争いより以前からの家臣で信長晩年まで残ってるヤツなんていないじゃん
信行家臣から信長に鞍替えした柴田勝家とか、信長家臣から信行擁立に荷担した後で戻った林とか、その辺が最古参じゃないかな
守り役で切腹した平手の子供らはあんまり信長とうまくいってなかったようだし。
でも、清洲会議の頃の家臣らは、信長生前の体制を復旧しようという指向性をまだ残してたっぽいんだよ
その後の経緯で内部崩壊してしまっただけで。 執権よりも得宗の方が強かったとしても、必ずしも得宗の方が重要とは言えないだろう
本当に得宗の方が重要であれば、中学の日本史でも出てくるだろうし、検索したらまず得宗の方が先に紹介され、
後で執権が出てくると思う >>243
秀吉は成り上がりだが豊臣恩顧の加藤や福島は秀吉の親類だからなあ
家康は三傑の中では一番出自はマシ
5代前から城主やってて5代前から仕える譜代がいた
ただし家康の親父も祖父も自分の譜代家臣に20代で殺されている 得宗 ←人事権
執権 ←権限あるポジション
こんなところですかね。「得宗」という語義じたいも論者によって
いろいろな解釈があって確定的じゃないんですよね確か。現代で
いうところの「宗家」「本家」とでも言う程度の語義で。 >>245
中学の教科書では承久の乱の時の執権北条義時とか
執権北条泰時の御成敗式目ぐらいしか出てこないからだろ
鎌倉幕府滅亡時の幕府最高権力者が北条高時だった
(執権は北条守時だが先に戦死している
鎌倉幕府は執権北条守時の死ではなく
得宗北条高時の死によって終焉した)
ことは高校日本史からしか習わない なるほど、得宗という権力が確立される前の執権しか教科書に出ないから、得宗と執権の関係は出てきようがないわけか そもそも中学校の教科書はものすごく端折っています。
実像よりもわかりやすさ、説明の簡潔さが優先されます。
鵜呑みにしない方がよいと思います。 鎌倉幕府の政治機構とか呼ばれる組織図だって、同時期に併存してたわけではない時代違いの組織を併置してるぐらいだしな、
実態から離れた説明が多発するのもしかたないとこではある >>249
その北条高時も検索してみれば、ウィキペディアでは「最後の得宗」というのが最初に紹介されるが、それ以外のコトバンクやニコニコ百科他などでは「第14代執権」というのが最初に紹介されている
北条時宗も同様であった 日本史において、関東地域は結構時代が下るまでは朝廷から
「外界の地」「未開の地」のように思われていたと言います。
しかし、その割には日本において格式が高い三大神宮のうち、
トップである伊勢神宮に次ぐ香取神宮と鹿島神宮のふたつが
千葉と茨木に創建されたのが腑に落ちません
また、東京の浅草寺も仏教寺院として日本有数の古さだと
されています
なぜ「外界の地」「未開の地」のような場所にそんな格式高い
神宮や創建されたり、有数の古さ(歴史)をもつ寺院が建てられ
たのでしょうか? 浅草寺が古いってのは自称で、考古学的に確認できているのは中世から >>255
>香取神宮と鹿島神宮のふたつが
香取神宮の経津主神と鹿島神宮の建御雷神は、ともに国譲りの際に活躍した軍神なので
坂東のまつろわぬ民に睨みを利かせるためと考えられる。 >>254
白河、後白河、後鳥羽あたりも「天皇」で紹介されるでしょう 古墳でいえば埼玉は畿内に比肩するほど多くみられるから千葉・茨城・埼玉に
古くから文明圏があったのは明らかだとは思う。ただ文字に残されていないから
化外あつかいされるのだろう。 古墳時代から奈良時代ぐらいの期間は、関東や東北が化外の地、異民族であることを装う、偽装する必要性が朝廷側にあったので、
本当に化外だったかどうかは不明瞭なんだよね
九州の南半分も奈良時代頃までは同様に化外として扱われてなかったかな
で、それ以後の関東は、過去の経緯で化外扱いが援用されてただけの可能性も。
ただ、武士が実力行使で支配してる暴力的な土地という扱いが平安時代頃にはあった気はする 日本書紀によれば景行天皇の時に東国を視察した武内宿禰が「蝦夷の土地東に日高見国あり。
蝦夷の土地だから撃ちて取るべし」と献策したので日本武尊に平定させたとある。
常陸国風土記によれば日高見国は常陸に有った。関東が平定された後は日高見国は東北へ移り、
北上川の語源となったという。
>>261
>本当に化外だったかどうかは不明瞭なんだよね
化外は王化の外、つまり王に従わない者だから独自の文明があっても化外は化外だよ。 >>254
大坂の役の時の徳川方総大将は徳川家康だったが
家康はこのとき将軍ではなく役職なし
それなのに諸大名は皆家康の指示に従った
あえていうなら正式な役職ではない大御所
そういうことだよ
家康も江戸幕府初代将軍として紹介されるが
実際には2年しか将軍になった時期はなく
それ以外の時期は将軍でもないのに
徳川家の最高意思決定を行っている >>263
大御所時代と将軍在職時とどちらの方が力があったのか知らないけれど、
重要なのは大御所として権勢をふるったことよりも、足利以来の征夷大将軍に
任じられて江戸に幕府をひらいた初代将軍ってことだろうよ
家康は死後に東照大権現という神号まで与えられているけど、
東照大権現よりも江戸幕府初代将軍の方が重要だろう
足利義満も晩年太政大臣にまでなっているけれど、より重要なのは
室町幕府第三代将軍であることだと思う 家康の権力が現役将軍時代と引退後でどうこう言ってるんじゃなくてな、
特定のタイミングで現役将軍である秀忠と将軍を引退して無役になってる家康を比べてるんだろ
将軍を引き継いで久しい秀忠よりも家康のほうが常に権力が大きかったが、
それに関する法的な権限はないはずだよな 縄文式火焔型土器型のコーンを使ったソフトクリームって
特許取れて、大金持ちになれますか?
(´・ω・`) 秀忠も家光に対して大御所政治で臨んだし、吉宗も家重に対して大御所政治で
臨んだわけだから、この形態の政治方法はある種の魔術的効力があるのかも
しれませんね。 >>264
執権北条守時は得宗北条高時の命令で出陣し先に戦死した
得宗は執権に命令する権限があり
執権は北条家嫡流である得宗に忠誠を尽くす使命があった
得宗は執権よりも力があったかもしれんが
それでも力がない執権のほうがはるかに重要だ
なぜなら中学の教科書が一番正しいからと言いきられてもなあ >>265
大御所や上皇の権威、権力の源泉は
元将軍、前将軍、元天皇、前天皇、
将軍の父、天皇の父、ということだから、
やはり重要なのは将軍、天皇に帰結する >>270
元将軍、前将軍、元天皇、前天皇には何の権限もないぞ
崇徳上皇が前天皇でありながら院政の権限を持たず
保元の乱を起こしたのを知らないのか
院政や得宗になれる人物は家長に限られる
逆に元天皇、前天皇ではないのに
家長だから院政を取った人物もいる >>271
全員が、ってわけではないけど、
上皇や大御所で権威、権力を行使した
者の力の源泉は天皇、将軍の経験者と
しての部分によるところが大きいと
思うけどね
最後の行は興味ある
詳しく教えて >>274
天皇経験者としての実績が何よりも重要ならば
19年間も天皇としての実績を立派に積んだ崇徳上皇が院政をとれなくて
わずか2年間しか天皇じゃなかった後白河上皇が
その後何十年も院政をとってるのはおかしいわな
「元天皇、前天皇ではないのに
家長だから院政を取った人物もいる」
守貞親王(後高倉院)、西園寺寧子(広義門院)
いずれも院政をとったが天皇として即位したことはない >>274
最後の行って、
>逆に元天皇、前天皇ではないのに、家長だから院政を取った人物もいる
のことだよな、>>272が言ってる後高倉院が代表格
高倉天皇の子で後鳥羽上皇の弟。天皇としての即位はしてないが、乱後の新しい天皇 後堀河天皇の父親とし上皇宣治を受けて院政をおこなった
あと、正平一統の後に即位した後光厳天皇の時、祖母の広義門院(西園寺寧子、後伏見上皇の女御で光厳天皇及び光明天皇の実母)が院政を行った。
紹介されてる名前のチェックぐらいしとこうよ 北条でも誰でも良いんだけど、
子孫や末裔はいるの?仮に、いたとして、何をしているんだろう
ググってみると『北条 末裔』いるよと書いてあるし 肥(コーエー)のゲーム?
ばかりやっていると・・・と言ってる人がいたよ
何々家は滅亡しましたと出てきて、
子孫も末裔zero??
このように洗脳されるとか 数年前の肥(こえ)関係のスレ
こんな????(忘れた)企業、なんだよ!
と言ってる人がいたり、そういう書き込み 自民党の無役だけど力持ってる長老と
総理総裁みたいな関係性? 東豎子(あずまわらわ)という女官は、「三つ子は天皇を守るという故事」から来ているそうですが、
この故事というのはどこに由来するものでしょうか?
女官が男性名を名乗るというのがとても興味深く感じて気になりました 少なくとも奈良時代には、女官が男性名を名乗って一般の官僚として働いた事例も見つかっているらしいけどね
逆に名前だけでは性別を確定できないらしい。 古代中国では豎は戴冠していない童僕のことで周礼天官に「内豎掌内外之通令,凡小事」とあって
こまごました雑務を扱わせるものとしている。この慣習が日本で襲用されるさいに、どういう経緯か
女性となって、さまざまな呪術的意味合いが付加されたのだろう。「豎子」は孺子(こぞう)という程度の
意味だからね。これに東(あずま)がついているあたりは何かを意味させようとはしてるのだろうけれども
根拠あることについてはちょと分からない。 安斎随筆10には「姫マウチギミ(姫松)」でかるく言及してるんだけどwikipediaに書いてある
範囲をこえないコメント程度、公事根源に東豎子について言及があると示唆してある。 平安時代の途中から幕末くらいまで、例外的なケースを除いて歴代の天皇は
親政をしていませんでした(摂政や関白、大臣、幕府に委任?)
(明治〜戦前も親政ではありませんが、政治への関与は増えたかと思います)
こういった天皇の政治行政への関わり方と、現在の天皇陛下の政治行政への関わり方は
本質的にはほとんど同じようなものなのでしょうか?
象徴行為とか国事行為とか祭祀とかは別にして >>286
>象徴行為とか国事行為とか祭祀とかは別にして
戦後はそういう形でしか関われないと思うけど。 >>281
北条一族内の力関係なので別次元の話と思いますが、強いてあてはめるならば
田中角栄、竹下登両元首相と現役の首相の関係が近いと思います。
私は鎌倉時代が専門ではないので詳しくは知りませんが
得宗と執権の関係をややこしくしているのは得宗の時宗が執権になる前の時期です。
力関係では時宗の方が執権の長時、政村より上だったと思います。
時宗がほぼ成人した政村時代は時宗は連署をつとめて経験を積み
18歳で執権に就任、政村は連署にまわります。いわば大政奉還です。
このあたりは天皇、将軍経験者が実権をにぎる院政や大御所政治とは違う形態になります。
しかも貞時、高時時代には内管領が力を強め、得宗は思い通りにはできません。
(それを得宗専制政治と表現するのは私も納得がいかないのですが)
こんなややこしい話を中学生に理解させるのは困難です。
実態を無視して執権に収斂させるしかないでしょう。 象徴行為 → 戦後GHQの造語
国事行為 → 政治行政への関わりそのもの
祭祀 → 政治行政と無関係
結論:何が言いたいか分からない >>288
>しかも貞時、高時時代には内管領が力を強め、得宗は思い通りにはできません。
>(それを得宗専制政治と表現するのは私も納得がいかないのですが)
得宗の側近であることを権力の源泉としているはずの内管領が実権を握ってる状態を得宗専制と呼ぶ現状が妥当であるなら、
室町時代の足利義政期前半ごろの、側近政治の時代も将軍専制と呼べることになってしまうんだよな、誰も呼ばないけど。 >>290
しかし、鎌倉幕府は北条高時の死によって終焉したわけで
長崎高資の死によって終わったわけではない
そういう意味では得宗専制といえる
江戸時代だって実際に実権を握っているのは側用人でも
大名たちは柳沢吉保のために忠義を尽くすわけではなかったからねえ >>291
>しかし、鎌倉幕府は北条高時の死によって終焉したわけで、長崎高資の死によって終わったわけではない
>そういう意味では得宗専制といえる
同じことは足利義政にも言える。義政時代に権力を持った側近たちは、「将軍家とのつながり」ではなく、義政個人とのつながりによって権力を持ってたんだ。
だから、同じように将軍専制の時代と呼んでもおかしくないはずだ、だが誰も言わない。 >>292
義政の時代も政治のトップは義政だろう
義政の幼少期、もしくは政治に興味を失った後は
側近が実務を執り行ったり富子が跡取りを決めたりすることはあったにしても
義政に政治のやる気がある時には義政の意見が最優先されており
将軍の意見よりも優先するほどの実権を近臣が握っていたわけではない
それをいったら院政期にも後鳥羽や後白河が実権のトップにいても
実務は院近臣たちが行っており必ずしも院がすべての政治を行っていない
ただし後鳥羽や後白河が意見を言った場合にはそれが院近臣の意見に優先している >>287 >>289
わかり難い文章ですいません
現在の天皇は政治行政に直接的に介入できません
また、内閣や議会が正式な手続きで決めた政策に対して
拒否権等もありません
しかし、同時に天皇陛下の決済(御璽)がなければ正式決定になりません
例えば江戸時代の天皇等は江戸幕府が決めた政策に対して
拒否権があったのかどうか?また、最終的に天皇の決済がなければ
正式決定にはならないのか?天皇の決済がなくても正式決定になったのか?
そういう部分をお聞きしたいのです >>294
江戸時代の天皇は幕府によってほとんどの権限を制限されて決裁権も拒否権もないから後水尾天皇の
紫衣事件とか勝手に譲位事件とか起こった。(詳しいことはググれ)
ところが長い平和が続く間に水戸学や国学などの尊皇思想が蔓延した結果幕末には開国に天皇の勅許が
必要という事態になってしまった。鎖国したのは幕府なのに開国するには勅許が必要っておかしな話だが
それが時代の空気ということなのだろう。
現在の憲法では決済が必要とは書いてあるけど拒否したらどうなるとは書いてない。内閣の決定を拒否しない
という暗黙の了解のもとに成り立っている。 >>295
ちなみにペリーの開国要求への勅許を孝明天皇が拒否した結果、大老井伊直弼の裁可で勝手に開国して
その結果井伊直弼は暗殺された。 >>296
ちなみに孝明天皇は開国反対、攘夷攘夷という思想だが何故か幕府への信任が厚く
開国後も幕府に神戸や大阪の開港をやめろと指示するのに攘夷派の長州には耳を貸さなかった。
不思議だね。おかげで長州は御所を襲撃する禁門の変を起こして朝敵に成り下がった。 >>294
逆に尋ねるわ。日米通商条約は正式決定になったのか? ならなかったのか?
君はどう思うんだ? 同様に日米和親条約については?
“正式”の効力はそういうもの。幕府の力に依存する >>295
>内閣の決定を拒否しない
>という暗黙の了解のもとに成り立っている。
自己レスだけど、国民主権という大前提があるから国民が選んだ内閣の決定を天皇が拒否することは
有り得ないということになるんだろうな。 >>295
開国のとき幕府が朝廷に勅許を求めたというのは実はデマで、
幕府が求めたのはただの同意だった
開国時の幕府方針は全大名の同意を得てから開国するというもので、
朝廷のことは大名と同列にしか思ってない
大名の同意を求める一環で朝廷にも同意を求めただけ
それを勘違いして勅許を求めたとして騒いだ勘違い君が事態を悪化させた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています