【静かなる】北条時政こそ日本国の覇王【ドン】 [無断転載禁止]©2ch.net
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平家も源氏も朝廷も打ち破って北条得宗の全盛期を作り上げた北条時政こそ日本の覇王だろ? やっぱりいつの時代でも真の実力者ほど地味なんだろうね。
頼朝、義経、清盛、後白河天皇に比べれば地味なんだけど時政こそ最強の実力者。 北条時政と隋の文帝は似てる。隋は2代で滅んじまったが 北條義時だろう、北條家の全盛を作ったのは。
だからこそ、得宗家っていうんだよ。 北条時政が罪人の源頼朝と娘の結婚を
認めたところに北条の起点があるからな
義時が最初から鎌倉幕府で重きを置けたのも
姉の北条政子による取り立てがもとになっているし 平家の目を恐れて子を殺害した伊東とは正反対の度胸と寛大さがあるな 源氏の兄弟や一門で確執や不信が生じていたから、寧ろ心細い流人時代を真摯に支えてくれた妻の実家を頼るのは必然 梶原追放は諸侯の合意があったからこそ成し遂げられたもの
只、結城朝光に密告したり諸侯を煽っていたのは阿波局だったりする 甲斐源氏を上手いこと手懐けた頼朝も相当な切れ者だろ 時政と頼朝って似た者同士だなと思う
だからウマが合ったんじゃないか こういう情に厚くも怜悧な人に惹かれる
三浦や大江もそうだが >>21
三国志の劉備や曹操もそうだろ。
情が薄いのはシバイ 承久の乱でリーダーシップを執ったのがターニングポイントだったのかな
そもそも合議制が基本だったからな
独断専行ではなくて協調関係を築き上げる事が成功要因 キャラが濃い頼朝や清盛に比べて時政は影が薄いだけに最強の実力者なんだよなあ キャラが濃い頼朝や清盛に比べて影が薄い時政こそ最強の実力者なんだよなあ 内閣総理大臣=源頼朝
官房長官=北条時政
幹事長=大江広元 いつの世も真の実力者は表には出てこない
それが北条時政と大江広元や 権謀術数に長ける、貴種と言えども零落した流人の頼朝に運命を賭けた時点でキャラは濃いと思うけど
時政はあまり表立った軍事行動は執っていないのかな 北条早雲は北条時政との子孫だと本気で思っていたころが俺にはある 御家人達が畠山重忠に対して同情的だった事と、牧の方や平賀朝雅の野望を食い止めた義時と政子が正義という図式があったから、時政の評価は低くなってしまったのが難点 朝廷や有力公家にも北条丸呼ばわりだったから
めちゃくちゃ評価低かったんだろうな そもそも関東の御家人は武をもって鎌倉殿に仕えるというのが殆どで
政治出来るのなんてかなり限られてた気がする
時政世代だと時政と梶原景時くらいか >>39
御家人は皆どこかの領主ではあるわけだから領内運営はやっていただろ
朝廷と折衝して官位貰ってくるとか幕府の法整備とかは
都から来た学者出身の大江広元がやってたし
時政は頼朝の舅だから、景時は頼朝の命の恩人だから
鎌倉初期政権で重視された
何もなくて純粋な政治力で重用されてたわけではないだろ 頼朝は義理堅い
平賀家が厚遇されたのも義朝の七騎落ちに最期まで随行したからだとも言われているし >>39
怜悧さを持つ北条に比べて、血気盛んだけど、あまりに愚直だったから
和田義盛は挑発に乗った挙句に、三浦義村が自陣に就いてくれるものだと信じ切ってしまっていたから 義経や範頼が排除され、或いは源氏の門葉の方が格は上だったんだろうけど、鎌倉の中枢にはあまり関わらなかったからなのかな >>46
江戸時代も政治をやってたのは譜代大名で
徳川(松平)一門の御三家、御三卿、親藩は政治に関わってないからな >>47
日本、武家社会に於いては血縁ではなく、家や地縁を重んじるからな
甲斐源氏の板垣は自らが頼朝の家臣団よりも下位な事に不満を持っていたらしいが、安田義定の件とか源氏の方が信用出来ない >>47
得宗も専制化してからは
一門は事実上政治からは排除されてるように感じた
ドラマ太平記を見た感想ですがね
飾り物の執権守時や貞顕が何言っても相手にしない長崎親子・・・ 源氏の大内は承久の乱で朝廷側に与しているし、北条と上手く共存出来たのは足利ぐらいか >>49
どこの馬の骨かわかってないのか?
豊臣秀吉みたいだ >>52
あれは最末期のことで高時の資質によるところが大きい
貞時時代は得宗権力が最高潮に達した時期だった
赤橋や金沢以上に長崎父子が威張ってると言っても
北条一門は寄合衆として政権中枢にはいた >>58
貞時の晩年に既に得宗はガタが来てたぞ
貞時は有力御家人を粛清して得宗の独裁制を高めたが
晩年には「平政連諫草」を出されるほど放蕩に走り
また有力御家人たちを粛清し得宗独裁にしたはいいが
わずか9歳で得宗となった息子・高時の後見者選びに困り
グダグダのうちに亡くなった
高時政権は人柄云々の前に貞時晩年からガタが来てたよ 北条宗方の乱がきっかけなのか
二月騒動に似た図式ではあるが、時宗の様に上手く収める事が出来なかったからな 頼朝を神輿に担ぎ伊豆の豪族から日本の裏首領になりあがれた北条一族 >>59
貞時は、政務をこなす父・時宗の姿を見て育ったが、
高時は、毎日酒を飲んだくれてる父・貞時の姿しか見てない(9歳のとき父・貞時が死去)。 北条家は名君揃いだよな
時宗は北条時頼の帝王学を学んでるし
謡曲の鉢木に見られるような人物だったんだろう 崩壊に至るメカニズムが分かりにくい
霜月騒動のあたりから幕府は精彩を欠き始めた
被害者である安達は後に復帰して長崎と組んでるけど >>66 1行で書けば、
朝廷とのバランス・オブ・パワーが崩れたから。 鎌倉幕府の政治そのものは、
室町幕府がそのまま多くを継承したのを見てもわかる通り、
最後の最後まで崩壊はしていない。
クーデター、政変的要素が多分にある。 司馬一族は、魏の皇帝外戚ではなかった
北条一族は、自分たちが将軍にはならなかった
(最後の最後まで鎌倉将軍の家司筆頭にすぎなかった) 将軍を担ぎあげている方が都合が良いから
将軍どころか執権自体も形骸化し始めたのは得宗の時頼が大御所として君臨したから >>72
都合は良くないよ。北条氏滅亡の原因のひとつと言ってよい。
北条氏の教訓を得た後は、そのような最高権力者の形は三好氏くらいだが、
三好氏もやはりうまくいかなかった。
都合が良かったのはではなく、そっちの方が波風立たずに楽な方に流れただけ。 やはり義時、泰時のいずれかが、公卿になっておくべきだった、
鎌倉将軍の家政機関のトップという立場からは脱却しなければならなかった。
元寇撃退の功績で、時宗の公卿補任をあり得た。
安達氏(笑)が外戚とか愚の骨頂。 結局、何の役にも立たなかった。
摂関家か西園寺家、あるいは院近臣あたりから、嫁を貰っておけばよかったものを。
(外戚)
得宗…安達氏。何の役にも立たず。
室町将軍…日野家。
徳川将軍…
将軍生母はバックを持たない側室が多い。徳川は家康からして島津に異様に甘く、
島津家出身者から2名の御台所も出ているが、何の役にも立たず。 有事を契機に非常事大権を常態化させて全国制覇を成し遂げるのは頼朝と同様の手法だと思う
宮家から将軍を迎えつつも京とのジレンマは放置したままで、それが克服されるのは室町になってからか >>75
三好は、足利→細川→三好だから北条というより長崎の位置だな >>79
それは常識かもしれんが、俗説であり、真実ではない。 平忠常の乱のとき、
平忠常が、平直方や常陸平氏は先祖の敵の子孫だと公言している。
北條氏が真の鎌倉殿になれなかった理由のすべて。 それはカネと武力でどうにでもなる話。
足利氏は北条に尻尾振ってたし、相模平氏の和田や三浦は滅ぼされた。 足利は器用というか、時流を見極めて分別をつけてた
同じ源氏門葉でも平賀や大内は一気に没落したな 逆に考えるんだ。
教科書通り、北条が滅ぼしてきた有力御家人を列挙するのではなく、
生き延びた有力御家人に注目するんだ。
すなわち、足利(斯波、吉良、畠山など含む)、
千葉(相馬含む)、小山(結城含む)、宇都宮、葛西などのことである。 三浦も佐原流の盛連の系譜や会津守護は生き残って発展を遂げている そんなこと言いだしたら、根絶やしになった一族を探す方が難しいよw 梶原追放は北条は表には出ていないし、目立った動きもない
諸侯の協調によるものだから
只、結城に密告したのが阿波局なんだけどな >>85
滅ぼされたのは殆ど南関東(相模国 武蔵国)を本貫地とする
御家人だな
当初の鎌倉幕府は東国ローカルというよりは南関東ローカル政権と言っていいだろう 最初のライバルは伊東なのか
頼朝を巡る北条と伊東はあまりに対照的
北条と三浦の同盟はこの頃完成したのか >>76
西園寺家は鎌倉時代、天皇の正后を出す家柄だったから
坂東の荒武者に娘を嫁がせている場合ではない
島津は近衛家の養女だから将軍正室になれただけ
篤姫は摂家出身の御台所が立て続けに2人とも早世したので
3人目の正室だろ 時政は無位無官だが、
時政の叔父は従五位にあった。 >>95
頼朝死後は、将軍岳父の資格で、従五位下・遠江守になってるけどな。 >>94
島津から正室に迎えるために、島津家の姫を近衛家に養女に入れたわけ。 >>98
将軍家が積極的に島津の娘を娶ろうとしたわけではない
11代将軍正室の茂姫(広大院)は家斉が一橋当主時代に婚約
家斉が将軍になった時点で本来破談になるはずが
娘をキズモノにするのかと島津が怒りだし
近衛経熙(祖母が島津家出身で血縁者)養女とすることで話がついた
13代将軍正室の篤姫については家定3人目の正室で本来輿入れ予定はなかった
2人の正室はいずれも摂家から来ており、早世しなければ島津の娘が来る予定はなかった
しかし、将軍正室の早世続きで大奥の女主人不在が長く続き
比較的長命であった広大院の血縁者を大奥へ迎えようと言う世論が起こった
広大院自身は将軍母ではないものの広大院の時代の大奥は
徳川将軍稀に見るベビーブーム(家斉一人で正室+40数人の側室の相手をし
正室+20数人の側室から50数人の子供を作った)
であったことも縁起が良いとされた 逆賊として始末された北条w
南北合一と日明貿易で天皇より一時権威が上がった足利義満が覇王 >>102
義満が明から「日本国王」と呼ばれたのは
中国皇帝の家来になったという意味であって
天皇より上か下かを判断したわけではないんだけどね 唐に認められた天皇と同じで、改めて明の中華秩序に日本の代表として認められる行為は、天皇を凌駕する事だろw
武士、公家、寺社社会の階級を極め、南北皇室を統一した功績者、帝位簒奪の高い可能性持ってたのは日本史上義満しかいねぇw 足利義満が果たして皇位簒奪を狙っていたか否かは大きな疑問が残っているんだよね >>101
他の大名家より露骨に優遇されているのは明らかでしょ。
他の大名家は、前田家を含めてゼロなのだから。 >>105
ていうより学会で皇位簒奪なんて言ってるの今はいないでしょ >>106
家斉と婚約していたのが仮に前田家で娘をキズモノにするのかと騒がれたら
前田家と姻戚関係にあった摂家の二条家の養女ということにして
大奥入りできてたかもしれん
島津家だけは外様の中でも特に特別待遇されていたってことではないでしょ >>108
そもそもしてないじゃないか。 してないものを前提にされても困るよ。 >>109
してないなら島津だったから優遇されたとは言えない 広大院の産んだ敦之助が無事に成長していたら厄介なことになっただろうな >>110
優遇されてるよ。 島津しか例が無いんだから。
本領安堵や琉球支配なども含めて完全なる特別扱い、家康の大チョンボ。
毛利と違って、
家康は関ヶ原以前から島津家に対して非常に好意的なので、
(伊集院忠棟惨殺事件やその後の庄内の乱の裁定、処理など)
これは修正できなかっただろう。 >>115
家康が島津征討を取りやめた理由なら家康自身が死んだからだろ
秀忠は遠国の島津まで遠征するのはコストが馬鹿にならんので取りやめ
琉球支配は島津が琉球の特産物の砂糖を江戸まで出荷してくれて
将軍も大奥の女性たちも甘いお菓子を食べることができるのでメリットばかりで黙認
島津なんて中央から遠すぎて明治に入ってからの西南戦争まで
中央政権が一度も攻め込んでいない地域だよ
お蔭で島津は鎌倉時代から幕末までずっと統治者が変わらなかった 時政=波平
政子=サザエ、義時=カツオ
頼朝=マスオ
頼家=タラ
波平がタラを誅殺してサザエとカツオに放逐されたようなもの >>119
3日間だけな
島津はそれ以前から足利義昭を通じて秀吉に和平交渉していたが
秀吉の九州平定スピードが早いので3日間進軍した
3日目に一部秀吉に抵抗していた支城の城主たちに島津当主からの和睦の連絡が届き
秀吉軍は撤退した
島津当主がいる城にまでは全然来ていない 勝者は時政より政子と義時の姉弟でしょう。
どちらにしろ、正義は結局滅ぼされるの見本みたいで非常に不愉快だ。
将軍の一族を根絶やしにしたくせに、将軍様の御恩に奉公せよと御家人たちの尻を
叩いて戦わせておいて、御家人たちをないがしろにした。
4代の天皇を島流しにしたり排除したのも許せない。 何が正義か悪かは割り切れないけど大義名分を掲げるのが上手い 何らかの工作はあったんだろうけど、梶原の追放劇は運良く御家人達の反梶原の流れに便乗出来たからな 謀叛を企てた時政と牧の方に対して否定的な方が正当性を主張しやすいから 北条時政は息子の義時にくらべてもあまり人物像がはっきりしない
鎌倉幕府初代執権という最重要な人物なのに 零落していた源氏に家運を賭けた情熱と梶原を駆逐した権謀術数は素晴らしいけど、問題なのはその後の悲劇的な顛末よ 最後は隠居の身になったと思えばいいんじゃない
一応は平和に死ねたんだから 梶原の最期は哀れだったしな
時政とタイプが全然違うが有能な人物だったのに ただ比企や和田と違って、
梶原や三浦(佐原流)は御家人としての命脈は保ったんだよな。 梶原は忠臣として汚れ役を引き受ける一方で、どんどん孤立していってしまったからね >>141
だからこそ北条が生き残ったといえるかも(滅亡するときは派手だが) ライバルの蹴落としから親子の相克まで全てが詰まってるからな 桓武平氏の身から源氏側につき平家を打倒した北条時政は
自民党から離党して民主党を立ち上げて自民党を打倒した小沢一郎と同じ >>154
あのまま中央の平家側についても伊豆地方の小分家に過ぎない扱いだからな
頼朝を神輿にして日本を支配した北条時政の先見性は恐るべし >>157
平家全盛の時代だから伊東の行動は普通
時政の対応のほうがおかしい
結果としては賭けに勝ったから良かったんだけど いや平家の限界を見抜いていたんでしょ
なにしろ地方豪族だったことが逆に中央には伝わりにく地方の世評を読むことができたのが功を奏したのさ 北条時政には源頼朝ほどの平家憎しの感情が伝わってこない
これも桓武平氏の出自が影響してるのか >>160
頼朝は自分の父親を平家に殺されているからだろう
北条時政は身内に被害があったわけではない 時政のは自称平氏
祖父の名前がはっきりしないんじゃなかったか 大体坂東武者は自称平氏や源氏の子孫が多そう
系図が確かな一族ももちろんいるけど >>159
それもある。
地方にいないと大衆の真実は読みづらい。 >>165
地方でも見抜けていなかったやつの方が多いけどな
伊東なんてその典型 伊東は平家の腰巾着じゃないか
北条は平家でも縁戚だから中央とは距離かあった 大領主だった伊東に対抗する為に、この頃から北条と三浦は手を組んでいたんだよな 逆に源氏に追われる立場になった時、助命を断り潔く自らの行いを恥じて腹を切ったらしいな 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
A92F7 >>178
肉体派893の中にインテリヤクザがいるようなもんだな 旗揚げ以前からの誼と知略家同士である事で三浦家とは気が合うんだろうな やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ 義村の頃は良かったけど、三浦は泰村の代で反得宗勢力に一転して最悪な報告に舵を切るから
自滅に近い 北条得宗で最も完成された政治家は5代目の北条時頼だな
三浦を皆殺しにしておきながらそれを感じさせない 政子は父親と兄にうまく利用されたわけだ
まあ、あれだけ担ぎがいのある神輿は希少価値だよね 徳川家康よりも優秀な子孫が多いという意味で日本最高の血統 最後の執権 北条守時の末裔
https://www.kanto-sozan.com/2016/08/08/我こそは-最後の執権-北条守時の末裔-自らのルーツを訪ねて-守時光睴氏%EF%BD%9341年卒/ 俳優の高倉健は北条の子孫だとして
北条氏菩提寺の宝戒寺に卒塔婆を寄進している >>210 元々、伊豆に流された頼朝の知名度を利用して成り上がった奴やないけ。 頼朝亡き後にリーダーとして牽引できるのが北条しかいなかった
多くの諸侯は将軍頼家ではなく、北条が推戴しようとしていた実朝の支持を表明していた 初代執権の立場になれたんだからこの上ない栄華だろ。
一人で清盛と頼朝を超えてしまった あまり知られていないが時政は15人ぐらい子供を作ったなんて
とんでもない絶倫の漁食家。 世が世なら北条時政を目指して足利や徳川の下で執権になろうとした者も現れたかも >>223 将軍の血統がコロコロ変わってるのに執権の血統は変わらんのだから、
江戸時代の役職で例えれば、執権は大老というより将軍だろ。大老は内管領でないかい? >>224
時政は若い頃から漁色家だった
逆に晩年は伊豆に幽閉されておとなしくしてた
家康は若い頃は主君である今川義元の命令で結婚した
築山殿一人を妻として守っていた時期があり割とおとなしくしてた
家康は年を取るほどに漁色家になり
関ケ原で勝利した後60歳過ぎて以降も側室の数は増える一方
70過ぎてから出陣した大坂の役では曾孫より若い16歳の側室を同伴して楽しんだ 天皇→将軍→執権と権力の三重構造(鎌倉幕府末期は執権の下に北条得宗家の四重構造?)を作り上げたある意味非常に日本人的な英雄 元寇の頃
フビライ・ハン「日本国王にこの書を届けよ」
使者「ははー」
使者「日本国王にこの書を届けにきた。日本国王に面会願いたいが日本国王はどちらにおいでだ?」
太宰府役人たち「日本国王って誰のこと?天皇陛下なら京都においでだけど、実質的には国王は鎌倉の将軍様?いや今では北条家の執権様か?それとも…」
みたいなことが起きていたのかも 執権自体も形骸化し始めたのが時頼の頃から
長時に執権職を移譲後も自身は得宗として君臨し続けたから 合議を重んじる日本の社会に於いては将軍親政は成立し難いんじゃないかな スレチだけど足利尊氏は天下を取った割りには全然覇王っぽくなくて英雄という印象も弱いし、あんなんでよく天下取れたな
北条早雲があの時代にいたら早雲に天下取られそう >>228
少し違う。
天皇ー将軍ー執権ー得宗家ー内管領 の五重構造
後醍醐天皇の倒幕が無く、鎌倉幕府がしばらく続いたら長崎氏が代々 日本の支配者になってた。
長崎円喜こそ最強の覇王だよ。 徳川家康と北条時政には共通点が多いな
家康本人は頼朝を崇拝してたみたいだが 共通点といえば司馬仲達もな
上の方のレスでは違いも説明されていたが >>243
似てないだろ
家康は信長・秀吉が死んだことによる棚ぼたで
天下取れたのは60歳だったしな 棚ぼたじゃねえぞ
関ヶ原でも大阪の陣でも圧倒してるぞ >>246
家康が棚ぼただったら時政も棚ぼたに違いない
頼朝が自分より早く死ななければチャンスはなかった
時政はあの時代にしては長寿だったが頼家も分別の付く年齢になっていただろう
頼家と秀頼の人望を比較しても大差がない
政子と淀殿なら圧倒的に政子の方が人望がある 実朝 金槐和歌集がなにをいおうとピーク。死んでるし。 時政が天下人だった期間って1年10カ月程度だから短いな。
鎌倉時代当時から北条家初代を義時として時政を無視する傾向があった。
まあこれは牧ノ方事件の結果だけどね。 子孫である得宗家自ら時政を黒歴史にしてる。 時政は牧氏事件を見る限り相当な野心家だけど、義時は道理重視の生真面目さを感じる >>248
北条家が独走態勢になったのは
義時・泰時によって承久の乱で朝廷に勝利してからで
時政の時代には大したことなかっただろ
時政は晩年、軟禁蟄居だしな 危機的状況が続いたからな
頼家陣営に勝利できたのは運良く和田義盛や結城朝光、三浦義村と共闘が可能だったことと、北条時政の戦略が向こうよりも一枚上だったことに他ならない 和田義盛は強大な軍事力を誇っていたし、本気になれば将軍御所を強襲できる自信があったと思う とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
PUA 覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王覇王なんだってよかっけーな 朝廷の権威を完全に無効化した北条義時こそ人類最強! 北条ほどの名君揃いの一族が、室町初期までに一族根絶やしにされて誰も生き残ることはできなかったのはなぜだろうか? >>275
因果応報
栄枯盛衰
傲れるものは久しからずや
諸行無常
こんな感じか? 130年も日本を支配してたんだから十分すぎるだろ
ただ4代目からの執権には短命が多すぎる ,
北条一族は短期間だが天皇家を超越して日本の王に君臨した。
天皇家を超えた一族は北条一族しかいない。 皇位簒奪を狙った足利義満はいいところまで行ったんだけどな 天皇を超えたいなら皇位を簒奪するんじゃなくて義時みたいに島流しにしてしまえばいい なんで日本の天皇(家)は中国の皇帝(家)みたいにならんかったんだろうな?
中国だと例えば秦が倒されると同時に皇帝家も滅亡して後に劉邦が漢を建国して皇帝に収まる…という具合なのに
前代の統治者一族をそのまま残しておいたのは、その方が都合が良かったにしても不穏要素も残るのに その質問は誰も答えられない
なにせ蘇我入鹿の頃からだからな
それ以前は知らん 政治とは無縁の神道の最高神官の役目が天皇にはあるからだろ
天皇はローマ法王と同じだと思え
皇帝は政治の統治者だが天皇は神道の最高神官 そのかわり政治に干渉する天皇は武家から強制的に排除された
実際に天皇が政治に口を出すとろくなことが起きていない
天皇を政治の頂点にして全国民に天皇崇拝を強制した大日本帝国が70数年で崩壊したのもそれなのだ
天皇が祭祀者である限り国は平和だが
天皇が政治に口を出すと戦乱の世になる つまり卑弥呼方式がベストなわけだ
日本は変わってないな >>286
明治〜戦前って天皇が政治に口出ししてたっけ?
形はともかく実質的に議会政治で決まってなかったか? 対米開戦も天皇が許可を出したから起きてしまったわけだよw
その裏では重臣たちが暗躍してたとはいえな。 頼朝じゃ所詮天皇の末裔か
一度フビライに占領されればよかったな 九州だけ占領されちゃって関門海峡が国境になって睨み合うという展開になっていたら今頃九州は異国情緒漂う地になっていただろうな 北条氏と鎌倉幕府
執権北条氏は、なぜ自ら将軍とならなかったのか。その謎を解き明かした興味深い本です。
鎌倉時代の武士の荒々しい実像を初めて知った思いがしました。鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称していたが、要するに野蛮人だった。
京都の王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(あずまえびす。東に住む野蛮人)と呼んだが、そのとおりだった
紛争解決方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。
鎌倉武士たちは支配機構を手探りで作っていった。鎌倉幕府の歴史は、東夷たちの悪戦苦闘の歴史であり、すなわちムダな流血の連続だった 鎌倉武士の心得
「家を継ぐからには心がけねばならない。常に馬の餌の為に庭草はボーボーにしておけ。調練場には生首を絶やすな。人殺しは常にやっておけ。」
「門前を通る坊さんや乞食、修験者は弓の的に丁度良い。しつこく逃げるから弓の標的として活用せよ。」
「武士と生まれたからには殺しまくれ!」 なにわ武士だよ源平は
治承四年、ポンコツ平家と臆病な畿内童貞侍の皆さん、水鳥の羽音に狼狽し我先にと逃げ帰る。
山槐記…宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww
吉記…於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww
吾妻鏡…所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww
寿永二年、ポンコツ平氏は山城、大和、摂津、和泉、紀伊の包茎侍どもを招集(『盛衰記』)、木曽討伐に向かうも惨敗。
河内長野の貞弘戦死、季国戦死、摂津の重経、紀宗時らは尻尾を巻いて逃げ帰りました。
寿永三年、負け犬行家さんと石川源氏が連合で木曽に喧嘩を吹っ掛けるも、信濃の猛将樋口様にビビって小便漏らしながら逃亡。
【なにわのトップ】
摂津の国守護は剛毅の士・長沼宗政様(下野国出身)
河内の国守護は知勇兼備・三浦義村様(相模国出身)
和泉の国守護は弓馬無双・佐原義連様(相模国出身)
悲報、相模和田氏出身の河内国司・藤原秀康さんと弟の秀澄さんが長年の京暮らしで都の悪風に染まり
幕府から「天下乱逆の根源、この両人の謀計に起こる(承久の乱)」とまで言われてしまう。 >>307
政子の功績は差っ引かれそう
まともにやると義時が姉政子の金魚の糞になってしまうからな
時政は政子と義政に隠居させられているから
かなり黒く描かれるだろ 鎌倉を拠点にしたのは時政は平直方、頼朝は直方の婿になった源頼義と義家を意識してるから 北条義時の父親とか紹介されるんだろうか?
頼朝を祭り上げたのはほかならぬ時政 そうか?政子の舅で一か八かの賭けに出ただけだと思うけど 頼朝が拠点にした大倉は平直方が源頼義に娘と屋敷を譲った場所。 承久の乱で北条一強になったことが後で役だった
元冦の時、関東と京都が並立していたら、九州で負ける、分裂、内応で日本史が大きく変わっていた可能性 鎌倉幕府八代執権時宗
江戸幕府八代将軍吉宗
どちらも名君として誉高いのに室町幕府八代将軍義政ってどうなの? 三谷が言う前から、歴史好きの大抵の人間が思っていたことだが、カツオとサザエに放逐された波平だよな。 北条が平直方の子孫というのは、さすがに仮冒や僭称の類いで事実ではなかろう。 北条家は政治は恐ろしく強いが
戦は弱そう
こういう一族が今の日本の政治家にいればいいのに 〉〉329
小沢は壊し屋で一族の結束も弱そうだから
なんかイメージと違う 鉄の結束と言えば田中角栄の田中派、それを継いだ竹下登の竹下派
旧田中派・竹下派系を駆逐して自派を最大派閥にした小泉純一郎、及び安倍晋三こそが現代の北条時政に一番近いのかも 北条家は政治力が高い官僚タイプだね
こういうのは木曽義仲や新田義貞のような武闘派(軍人)に弱い
頼朝(政治家)は武闘派には対応できるが官僚には取り込まれて弱い
今の政治にも近い気がする
ジャンケンみたいなもんか
木曽義仲→源頼朝→北条家→新田義貞 頼朝に便乗して成り上がったパシリだろ
最後は息子と娘によって、元の伊豆の田舎に押し込められて終了 なぜ漫画やアニメ、ゲームの話ばかりしているのか?という事にもなってくる。
『マクロス 北条』調べてみた? 北条政子の読みが当たった!
いやただの恋愛感情かもしれん 「太閤殿の恩を忘れたのか?」などと演説してどちらに付くか迷っている豊臣恩顧の中間派を取り込んでいればひょっとすれば歴史が変わっていたかも いや、大阪冬の陣・夏の陣で滅亡の瀬戸際に立たされる前に石田三成と徳川家康が戦になった時点で何らかの手を打っていればあるいは・・・ 主家が豊臣に乗っ取られようと最後まで一切表に出てこなかった織田信長夫人 >>343
関ケ原は立場上、家康は秀頼家臣として秀頼のために戦った体をとっていたし
大坂の役ではねねは大坂城入りしようとして
家康がねねの実兄にねねを京都から出さないように命じている
>>342
信長正室に関しては本当にどこで何をしていたか生きていたか死んでいたか記録がない そうかなあ?
「いつの時代でも」っていうのがなんか引っ掛かる
例えば三国志での真の実力者は孔明か曹操だと思うんだけど、実は司馬懿が真の実力者なのか? おてもやん「聖火リレーでドンチャン騒ぎ
五輪コロナが大爆発や
よっしゃ、よっしゃあ」 この人ほど「晩節を汚す」という言葉が当てはまる人はいないよね? >>352
豊臣秀吉「おーっほん!誰かワシの噂してるな」 >>353
秀吉もそうなんだけど徳川家に後に滅ぼされる
時政は身内から排除されるって所だけ違うな
北条家自体は存続してるし時政の方が有能なのかもね 1984年は小説「静かなるドン」作者、ミハイル・ショーロホフが亡くなった年
2012年は漫画「静かなるドン」が完結した年
【1984】昭和59年vs平成24年【2012】
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/mukashi/1570215905/ >>354
秀吉は後継者が幼い秀頼一人しかいなかったせいで家康に付け入られたけど
秀吉自身はすべての権力を手中にした権力者のまま死んだ
時政は生きてるうちから娘と息子に実権奪われ軟禁状態にされた
別に時政の方が秀吉より有能だったってことでもあるまい >>352
西郷隆盛は?
西南戦争で大将に祭り上げられて敗死していなければ5000円札が10000円札の紙幣の肖像画に選ばれていたかも
なんとなく >>357
西郷は違うと思うけどね
まー最後がなければ札束にはなったかもしれないが 近年はお札になる人は文化・教育・医療・経済に限られるから西郷はないのでは
2024年 渋沢栄一(経済人)、津田梅子(教育者)、北里柴三郎(医者)
2004年 野口英世(医者)、樋口一葉(作家)
2000年 紫式部(作家)
1984年 福沢諭吉(教育者)、新渡戸稲造(教育者)、夏目漱石(作家)
これより前になると伊藤博文、板垣退助らの政治家も出てくるが
西郷が長生きしてれば初代総理大臣になってたとも思えないし
明治7年に下野してるしむしろ西南戦争のトップになったからこそ
鹿児島の人にあれほど愛されて2回も大河になったのだけど なるほどね
西郷隆盛は晩節を汚したというよりは源義経と同じで判官贔屓される悲劇のヒーローなのかも知れないな >>322
元寇の時に時宗以外の奴だったらそもそも
元にさっさと使者送っていて。少なくとも死者殺すことはしないだろうから
そもそも元寇は起きてない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています