【静かなる】北条時政こそ日本国の覇王【ドン】 [無断転載禁止]©2ch.net
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平家も源氏も朝廷も打ち破って北条得宗の全盛期を作り上げた北条時政こそ日本の覇王だろ? やっぱりいつの時代でも真の実力者ほど地味なんだろうね。
頼朝、義経、清盛、後白河天皇に比べれば地味なんだけど時政こそ最強の実力者。 北条時政と隋の文帝は似てる。隋は2代で滅んじまったが 北條義時だろう、北條家の全盛を作ったのは。
だからこそ、得宗家っていうんだよ。 北条時政が罪人の源頼朝と娘の結婚を
認めたところに北条の起点があるからな
義時が最初から鎌倉幕府で重きを置けたのも
姉の北条政子による取り立てがもとになっているし 平家の目を恐れて子を殺害した伊東とは正反対の度胸と寛大さがあるな 源氏の兄弟や一門で確執や不信が生じていたから、寧ろ心細い流人時代を真摯に支えてくれた妻の実家を頼るのは必然 梶原追放は諸侯の合意があったからこそ成し遂げられたもの
只、結城朝光に密告したり諸侯を煽っていたのは阿波局だったりする 甲斐源氏を上手いこと手懐けた頼朝も相当な切れ者だろ 時政と頼朝って似た者同士だなと思う
だからウマが合ったんじゃないか こういう情に厚くも怜悧な人に惹かれる
三浦や大江もそうだが >>21
三国志の劉備や曹操もそうだろ。
情が薄いのはシバイ 承久の乱でリーダーシップを執ったのがターニングポイントだったのかな
そもそも合議制が基本だったからな
独断専行ではなくて協調関係を築き上げる事が成功要因 キャラが濃い頼朝や清盛に比べて時政は影が薄いだけに最強の実力者なんだよなあ キャラが濃い頼朝や清盛に比べて影が薄い時政こそ最強の実力者なんだよなあ 内閣総理大臣=源頼朝
官房長官=北条時政
幹事長=大江広元 いつの世も真の実力者は表には出てこない
それが北条時政と大江広元や 権謀術数に長ける、貴種と言えども零落した流人の頼朝に運命を賭けた時点でキャラは濃いと思うけど
時政はあまり表立った軍事行動は執っていないのかな 北条早雲は北条時政との子孫だと本気で思っていたころが俺にはある 御家人達が畠山重忠に対して同情的だった事と、牧の方や平賀朝雅の野望を食い止めた義時と政子が正義という図式があったから、時政の評価は低くなってしまったのが難点 朝廷や有力公家にも北条丸呼ばわりだったから
めちゃくちゃ評価低かったんだろうな そもそも関東の御家人は武をもって鎌倉殿に仕えるというのが殆どで
政治出来るのなんてかなり限られてた気がする
時政世代だと時政と梶原景時くらいか >>39
御家人は皆どこかの領主ではあるわけだから領内運営はやっていただろ
朝廷と折衝して官位貰ってくるとか幕府の法整備とかは
都から来た学者出身の大江広元がやってたし
時政は頼朝の舅だから、景時は頼朝の命の恩人だから
鎌倉初期政権で重視された
何もなくて純粋な政治力で重用されてたわけではないだろ 頼朝は義理堅い
平賀家が厚遇されたのも義朝の七騎落ちに最期まで随行したからだとも言われているし >>39
怜悧さを持つ北条に比べて、血気盛んだけど、あまりに愚直だったから
和田義盛は挑発に乗った挙句に、三浦義村が自陣に就いてくれるものだと信じ切ってしまっていたから 義経や範頼が排除され、或いは源氏の門葉の方が格は上だったんだろうけど、鎌倉の中枢にはあまり関わらなかったからなのかな >>46
江戸時代も政治をやってたのは譜代大名で
徳川(松平)一門の御三家、御三卿、親藩は政治に関わってないからな >>47
日本、武家社会に於いては血縁ではなく、家や地縁を重んじるからな
甲斐源氏の板垣は自らが頼朝の家臣団よりも下位な事に不満を持っていたらしいが、安田義定の件とか源氏の方が信用出来ない >>47
得宗も専制化してからは
一門は事実上政治からは排除されてるように感じた
ドラマ太平記を見た感想ですがね
飾り物の執権守時や貞顕が何言っても相手にしない長崎親子・・・ 源氏の大内は承久の乱で朝廷側に与しているし、北条と上手く共存出来たのは足利ぐらいか >>49
どこの馬の骨かわかってないのか?
豊臣秀吉みたいだ >>52
あれは最末期のことで高時の資質によるところが大きい
貞時時代は得宗権力が最高潮に達した時期だった
赤橋や金沢以上に長崎父子が威張ってると言っても
北条一門は寄合衆として政権中枢にはいた >>58
貞時の晩年に既に得宗はガタが来てたぞ
貞時は有力御家人を粛清して得宗の独裁制を高めたが
晩年には「平政連諫草」を出されるほど放蕩に走り
また有力御家人たちを粛清し得宗独裁にしたはいいが
わずか9歳で得宗となった息子・高時の後見者選びに困り
グダグダのうちに亡くなった
高時政権は人柄云々の前に貞時晩年からガタが来てたよ 北条宗方の乱がきっかけなのか
二月騒動に似た図式ではあるが、時宗の様に上手く収める事が出来なかったからな 頼朝を神輿に担ぎ伊豆の豪族から日本の裏首領になりあがれた北条一族 >>59
貞時は、政務をこなす父・時宗の姿を見て育ったが、
高時は、毎日酒を飲んだくれてる父・貞時の姿しか見てない(9歳のとき父・貞時が死去)。 北条家は名君揃いだよな
時宗は北条時頼の帝王学を学んでるし
謡曲の鉢木に見られるような人物だったんだろう 崩壊に至るメカニズムが分かりにくい
霜月騒動のあたりから幕府は精彩を欠き始めた
被害者である安達は後に復帰して長崎と組んでるけど >>66 1行で書けば、
朝廷とのバランス・オブ・パワーが崩れたから。 鎌倉幕府の政治そのものは、
室町幕府がそのまま多くを継承したのを見てもわかる通り、
最後の最後まで崩壊はしていない。
クーデター、政変的要素が多分にある。 司馬一族は、魏の皇帝外戚ではなかった
北条一族は、自分たちが将軍にはならなかった
(最後の最後まで鎌倉将軍の家司筆頭にすぎなかった) 将軍を担ぎあげている方が都合が良いから
将軍どころか執権自体も形骸化し始めたのは得宗の時頼が大御所として君臨したから >>72
都合は良くないよ。北条氏滅亡の原因のひとつと言ってよい。
北条氏の教訓を得た後は、そのような最高権力者の形は三好氏くらいだが、
三好氏もやはりうまくいかなかった。
都合が良かったのはではなく、そっちの方が波風立たずに楽な方に流れただけ。 やはり義時、泰時のいずれかが、公卿になっておくべきだった、
鎌倉将軍の家政機関のトップという立場からは脱却しなければならなかった。
元寇撃退の功績で、時宗の公卿補任をあり得た。
安達氏(笑)が外戚とか愚の骨頂。 結局、何の役にも立たなかった。
摂関家か西園寺家、あるいは院近臣あたりから、嫁を貰っておけばよかったものを。
(外戚)
得宗…安達氏。何の役にも立たず。
室町将軍…日野家。
徳川将軍…
将軍生母はバックを持たない側室が多い。徳川は家康からして島津に異様に甘く、
島津家出身者から2名の御台所も出ているが、何の役にも立たず。 有事を契機に非常事大権を常態化させて全国制覇を成し遂げるのは頼朝と同様の手法だと思う
宮家から将軍を迎えつつも京とのジレンマは放置したままで、それが克服されるのは室町になってからか >>75
三好は、足利→細川→三好だから北条というより長崎の位置だな >>79
それは常識かもしれんが、俗説であり、真実ではない。 平忠常の乱のとき、
平忠常が、平直方や常陸平氏は先祖の敵の子孫だと公言している。
北條氏が真の鎌倉殿になれなかった理由のすべて。 それはカネと武力でどうにでもなる話。
足利氏は北条に尻尾振ってたし、相模平氏の和田や三浦は滅ぼされた。 足利は器用というか、時流を見極めて分別をつけてた
同じ源氏門葉でも平賀や大内は一気に没落したな 逆に考えるんだ。
教科書通り、北条が滅ぼしてきた有力御家人を列挙するのではなく、
生き延びた有力御家人に注目するんだ。
すなわち、足利(斯波、吉良、畠山など含む)、
千葉(相馬含む)、小山(結城含む)、宇都宮、葛西などのことである。 三浦も佐原流の盛連の系譜や会津守護は生き残って発展を遂げている そんなこと言いだしたら、根絶やしになった一族を探す方が難しいよw 梶原追放は北条は表には出ていないし、目立った動きもない
諸侯の協調によるものだから
只、結城に密告したのが阿波局なんだけどな >>85
滅ぼされたのは殆ど南関東(相模国 武蔵国)を本貫地とする
御家人だな
当初の鎌倉幕府は東国ローカルというよりは南関東ローカル政権と言っていいだろう 最初のライバルは伊東なのか
頼朝を巡る北条と伊東はあまりに対照的
北条と三浦の同盟はこの頃完成したのか >>76
西園寺家は鎌倉時代、天皇の正后を出す家柄だったから
坂東の荒武者に娘を嫁がせている場合ではない
島津は近衛家の養女だから将軍正室になれただけ
篤姫は摂家出身の御台所が立て続けに2人とも早世したので
3人目の正室だろ 時政は無位無官だが、
時政の叔父は従五位にあった。 >>95
頼朝死後は、将軍岳父の資格で、従五位下・遠江守になってるけどな。 >>94
島津から正室に迎えるために、島津家の姫を近衛家に養女に入れたわけ。 >>98
将軍家が積極的に島津の娘を娶ろうとしたわけではない
11代将軍正室の茂姫(広大院)は家斉が一橋当主時代に婚約
家斉が将軍になった時点で本来破談になるはずが
娘をキズモノにするのかと島津が怒りだし
近衛経熙(祖母が島津家出身で血縁者)養女とすることで話がついた
13代将軍正室の篤姫については家定3人目の正室で本来輿入れ予定はなかった
2人の正室はいずれも摂家から来ており、早世しなければ島津の娘が来る予定はなかった
しかし、将軍正室の早世続きで大奥の女主人不在が長く続き
比較的長命であった広大院の血縁者を大奥へ迎えようと言う世論が起こった
広大院自身は将軍母ではないものの広大院の時代の大奥は
徳川将軍稀に見るベビーブーム(家斉一人で正室+40数人の側室の相手をし
正室+20数人の側室から50数人の子供を作った)
であったことも縁起が良いとされた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています