【静かなる】北条時政こそ日本国の覇王【ドン】 [無断転載禁止]©2ch.net
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平家も源氏も朝廷も打ち破って北条得宗の全盛期を作り上げた北条時政こそ日本の覇王だろ? そもそも関東の御家人は武をもって鎌倉殿に仕えるというのが殆どで
政治出来るのなんてかなり限られてた気がする
時政世代だと時政と梶原景時くらいか >>39
御家人は皆どこかの領主ではあるわけだから領内運営はやっていただろ
朝廷と折衝して官位貰ってくるとか幕府の法整備とかは
都から来た学者出身の大江広元がやってたし
時政は頼朝の舅だから、景時は頼朝の命の恩人だから
鎌倉初期政権で重視された
何もなくて純粋な政治力で重用されてたわけではないだろ 頼朝は義理堅い
平賀家が厚遇されたのも義朝の七騎落ちに最期まで随行したからだとも言われているし >>39
怜悧さを持つ北条に比べて、血気盛んだけど、あまりに愚直だったから
和田義盛は挑発に乗った挙句に、三浦義村が自陣に就いてくれるものだと信じ切ってしまっていたから 義経や範頼が排除され、或いは源氏の門葉の方が格は上だったんだろうけど、鎌倉の中枢にはあまり関わらなかったからなのかな >>46
江戸時代も政治をやってたのは譜代大名で
徳川(松平)一門の御三家、御三卿、親藩は政治に関わってないからな >>47
日本、武家社会に於いては血縁ではなく、家や地縁を重んじるからな
甲斐源氏の板垣は自らが頼朝の家臣団よりも下位な事に不満を持っていたらしいが、安田義定の件とか源氏の方が信用出来ない >>47
得宗も専制化してからは
一門は事実上政治からは排除されてるように感じた
ドラマ太平記を見た感想ですがね
飾り物の執権守時や貞顕が何言っても相手にしない長崎親子・・・ 源氏の大内は承久の乱で朝廷側に与しているし、北条と上手く共存出来たのは足利ぐらいか >>49
どこの馬の骨かわかってないのか?
豊臣秀吉みたいだ >>52
あれは最末期のことで高時の資質によるところが大きい
貞時時代は得宗権力が最高潮に達した時期だった
赤橋や金沢以上に長崎父子が威張ってると言っても
北条一門は寄合衆として政権中枢にはいた >>58
貞時の晩年に既に得宗はガタが来てたぞ
貞時は有力御家人を粛清して得宗の独裁制を高めたが
晩年には「平政連諫草」を出されるほど放蕩に走り
また有力御家人たちを粛清し得宗独裁にしたはいいが
わずか9歳で得宗となった息子・高時の後見者選びに困り
グダグダのうちに亡くなった
高時政権は人柄云々の前に貞時晩年からガタが来てたよ 北条宗方の乱がきっかけなのか
二月騒動に似た図式ではあるが、時宗の様に上手く収める事が出来なかったからな 頼朝を神輿に担ぎ伊豆の豪族から日本の裏首領になりあがれた北条一族 >>59
貞時は、政務をこなす父・時宗の姿を見て育ったが、
高時は、毎日酒を飲んだくれてる父・貞時の姿しか見てない(9歳のとき父・貞時が死去)。 北条家は名君揃いだよな
時宗は北条時頼の帝王学を学んでるし
謡曲の鉢木に見られるような人物だったんだろう 崩壊に至るメカニズムが分かりにくい
霜月騒動のあたりから幕府は精彩を欠き始めた
被害者である安達は後に復帰して長崎と組んでるけど >>66 1行で書けば、
朝廷とのバランス・オブ・パワーが崩れたから。 鎌倉幕府の政治そのものは、
室町幕府がそのまま多くを継承したのを見てもわかる通り、
最後の最後まで崩壊はしていない。
クーデター、政変的要素が多分にある。 司馬一族は、魏の皇帝外戚ではなかった
北条一族は、自分たちが将軍にはならなかった
(最後の最後まで鎌倉将軍の家司筆頭にすぎなかった) 将軍を担ぎあげている方が都合が良いから
将軍どころか執権自体も形骸化し始めたのは得宗の時頼が大御所として君臨したから >>72
都合は良くないよ。北条氏滅亡の原因のひとつと言ってよい。
北条氏の教訓を得た後は、そのような最高権力者の形は三好氏くらいだが、
三好氏もやはりうまくいかなかった。
都合が良かったのはではなく、そっちの方が波風立たずに楽な方に流れただけ。 やはり義時、泰時のいずれかが、公卿になっておくべきだった、
鎌倉将軍の家政機関のトップという立場からは脱却しなければならなかった。
元寇撃退の功績で、時宗の公卿補任をあり得た。
安達氏(笑)が外戚とか愚の骨頂。 結局、何の役にも立たなかった。
摂関家か西園寺家、あるいは院近臣あたりから、嫁を貰っておけばよかったものを。
(外戚)
得宗…安達氏。何の役にも立たず。
室町将軍…日野家。
徳川将軍…
将軍生母はバックを持たない側室が多い。徳川は家康からして島津に異様に甘く、
島津家出身者から2名の御台所も出ているが、何の役にも立たず。 有事を契機に非常事大権を常態化させて全国制覇を成し遂げるのは頼朝と同様の手法だと思う
宮家から将軍を迎えつつも京とのジレンマは放置したままで、それが克服されるのは室町になってからか >>75
三好は、足利→細川→三好だから北条というより長崎の位置だな >>79
それは常識かもしれんが、俗説であり、真実ではない。 平忠常の乱のとき、
平忠常が、平直方や常陸平氏は先祖の敵の子孫だと公言している。
北條氏が真の鎌倉殿になれなかった理由のすべて。 それはカネと武力でどうにでもなる話。
足利氏は北条に尻尾振ってたし、相模平氏の和田や三浦は滅ぼされた。 足利は器用というか、時流を見極めて分別をつけてた
同じ源氏門葉でも平賀や大内は一気に没落したな 逆に考えるんだ。
教科書通り、北条が滅ぼしてきた有力御家人を列挙するのではなく、
生き延びた有力御家人に注目するんだ。
すなわち、足利(斯波、吉良、畠山など含む)、
千葉(相馬含む)、小山(結城含む)、宇都宮、葛西などのことである。 三浦も佐原流の盛連の系譜や会津守護は生き残って発展を遂げている そんなこと言いだしたら、根絶やしになった一族を探す方が難しいよw 梶原追放は北条は表には出ていないし、目立った動きもない
諸侯の協調によるものだから
只、結城に密告したのが阿波局なんだけどな >>85
滅ぼされたのは殆ど南関東(相模国 武蔵国)を本貫地とする
御家人だな
当初の鎌倉幕府は東国ローカルというよりは南関東ローカル政権と言っていいだろう 最初のライバルは伊東なのか
頼朝を巡る北条と伊東はあまりに対照的
北条と三浦の同盟はこの頃完成したのか >>76
西園寺家は鎌倉時代、天皇の正后を出す家柄だったから
坂東の荒武者に娘を嫁がせている場合ではない
島津は近衛家の養女だから将軍正室になれただけ
篤姫は摂家出身の御台所が立て続けに2人とも早世したので
3人目の正室だろ 時政は無位無官だが、
時政の叔父は従五位にあった。 >>95
頼朝死後は、将軍岳父の資格で、従五位下・遠江守になってるけどな。 >>94
島津から正室に迎えるために、島津家の姫を近衛家に養女に入れたわけ。 >>98
将軍家が積極的に島津の娘を娶ろうとしたわけではない
11代将軍正室の茂姫(広大院)は家斉が一橋当主時代に婚約
家斉が将軍になった時点で本来破談になるはずが
娘をキズモノにするのかと島津が怒りだし
近衛経熙(祖母が島津家出身で血縁者)養女とすることで話がついた
13代将軍正室の篤姫については家定3人目の正室で本来輿入れ予定はなかった
2人の正室はいずれも摂家から来ており、早世しなければ島津の娘が来る予定はなかった
しかし、将軍正室の早世続きで大奥の女主人不在が長く続き
比較的長命であった広大院の血縁者を大奥へ迎えようと言う世論が起こった
広大院自身は将軍母ではないものの広大院の時代の大奥は
徳川将軍稀に見るベビーブーム(家斉一人で正室+40数人の側室の相手をし
正室+20数人の側室から50数人の子供を作った)
であったことも縁起が良いとされた 逆賊として始末された北条w
南北合一と日明貿易で天皇より一時権威が上がった足利義満が覇王 >>102
義満が明から「日本国王」と呼ばれたのは
中国皇帝の家来になったという意味であって
天皇より上か下かを判断したわけではないんだけどね 唐に認められた天皇と同じで、改めて明の中華秩序に日本の代表として認められる行為は、天皇を凌駕する事だろw
武士、公家、寺社社会の階級を極め、南北皇室を統一した功績者、帝位簒奪の高い可能性持ってたのは日本史上義満しかいねぇw 足利義満が果たして皇位簒奪を狙っていたか否かは大きな疑問が残っているんだよね >>101
他の大名家より露骨に優遇されているのは明らかでしょ。
他の大名家は、前田家を含めてゼロなのだから。 >>105
ていうより学会で皇位簒奪なんて言ってるの今はいないでしょ >>106
家斉と婚約していたのが仮に前田家で娘をキズモノにするのかと騒がれたら
前田家と姻戚関係にあった摂家の二条家の養女ということにして
大奥入りできてたかもしれん
島津家だけは外様の中でも特に特別待遇されていたってことではないでしょ >>108
そもそもしてないじゃないか。 してないものを前提にされても困るよ。 >>109
してないなら島津だったから優遇されたとは言えない 広大院の産んだ敦之助が無事に成長していたら厄介なことになっただろうな >>110
優遇されてるよ。 島津しか例が無いんだから。
本領安堵や琉球支配なども含めて完全なる特別扱い、家康の大チョンボ。
毛利と違って、
家康は関ヶ原以前から島津家に対して非常に好意的なので、
(伊集院忠棟惨殺事件やその後の庄内の乱の裁定、処理など)
これは修正できなかっただろう。 >>115
家康が島津征討を取りやめた理由なら家康自身が死んだからだろ
秀忠は遠国の島津まで遠征するのはコストが馬鹿にならんので取りやめ
琉球支配は島津が琉球の特産物の砂糖を江戸まで出荷してくれて
将軍も大奥の女性たちも甘いお菓子を食べることができるのでメリットばかりで黙認
島津なんて中央から遠すぎて明治に入ってからの西南戦争まで
中央政権が一度も攻め込んでいない地域だよ
お蔭で島津は鎌倉時代から幕末までずっと統治者が変わらなかった 時政=波平
政子=サザエ、義時=カツオ
頼朝=マスオ
頼家=タラ
波平がタラを誅殺してサザエとカツオに放逐されたようなもの >>119
3日間だけな
島津はそれ以前から足利義昭を通じて秀吉に和平交渉していたが
秀吉の九州平定スピードが早いので3日間進軍した
3日目に一部秀吉に抵抗していた支城の城主たちに島津当主からの和睦の連絡が届き
秀吉軍は撤退した
島津当主がいる城にまでは全然来ていない 勝者は時政より政子と義時の姉弟でしょう。
どちらにしろ、正義は結局滅ぼされるの見本みたいで非常に不愉快だ。
将軍の一族を根絶やしにしたくせに、将軍様の御恩に奉公せよと御家人たちの尻を
叩いて戦わせておいて、御家人たちをないがしろにした。
4代の天皇を島流しにしたり排除したのも許せない。 何が正義か悪かは割り切れないけど大義名分を掲げるのが上手い 何らかの工作はあったんだろうけど、梶原の追放劇は運良く御家人達の反梶原の流れに便乗出来たからな 謀叛を企てた時政と牧の方に対して否定的な方が正当性を主張しやすいから 北条時政は息子の義時にくらべてもあまり人物像がはっきりしない
鎌倉幕府初代執権という最重要な人物なのに 零落していた源氏に家運を賭けた情熱と梶原を駆逐した権謀術数は素晴らしいけど、問題なのはその後の悲劇的な顛末よ 最後は隠居の身になったと思えばいいんじゃない
一応は平和に死ねたんだから 梶原の最期は哀れだったしな
時政とタイプが全然違うが有能な人物だったのに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています