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徳川将軍家の後継争いについて語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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0001日本@名無史さん
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2017/05/25(木) 23:01:28.42
一見順当そうなで、実はいろいろあったよなぁ・・・

秀忠.家光.家綱.綱吉.家宣.家継.吉宗.家治.家慶.家茂・・・のあと「誰っ?」って



世継ぎ争いって、結構奥深いと思うのは俺だけか?
0456日本@名無史さん
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2017/08/30(水) 12:31:46.60
白石が幕臣として仕えたのは綱吉〜吉宗の時代だが、眼中にあったのは家宣と家継と見てよいでしょう
吉宗の時代になってから執筆活動に専念しているが、享保年代なのにわざわざ終わった年代の正徳十何年って日付書いているから主君の意識はなったのでしょう
0457日本@名無史さん
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2017/08/30(水) 14:08:28.66
吉宗のパワハラで白石可哀相
0458日本@名無史さん
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2017/08/30(水) 16:14:25.30
萩原重秀って代替わり後どうなったんだっけ?
白石に嫌われてたが
0461日本@名無史さん
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2017/08/30(水) 19:03:15.96
死ぬ間際の家宣は、白石に対し、才ある者は徳なく、徳ある者は才なし、荻原の改鋳実績は評価してやんなさいと言っているから、
荻原罷免は、家宣危篤に乗じた白石の勘定所クーデターとも見受けされる。罷免後の荻原が変死しているからである
荻原家は3700石から700石に減封された
0463日本@名無史さん
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2017/08/30(水) 21:43:30.47
姉さん、事件です。
0464日本@名無史さん
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2017/08/31(木) 23:56:46.17
吉宗は白石を失脚させたように言われている。
たしかに吉宗は自分を引き立てた綱吉を尊敬し、
白石が改めた武家諸法度や朝鮮通信使への日本国王の称号を旧に復したことなど、
いわゆる綱吉の「天和の制」に立ち返る政策を打ち出し、
松平輝貞や黒田直邦など綱吉の側近たちを復権させ、
白石のライバル林信篤を重用した。
しかし、室鳩巣に寄れば、白石との書状のやり取りの中で、
享保元年10月24日付の記述では、老中たちが吉宗を恐れ憚っている様子を
白石は喜ばしく思っていた、と記されているそうな。

荻原重秀は優秀な財務官僚だったのは事実で、
綱吉が将軍になるのに伴って館林候時代からの神田御殿家臣団が
幕臣になって勘定方を独占していく中で、生え抜きの家禄150俵の勘定役から、
勘定奉行に出世した。
柳沢吉保の引き立てによるとはいえ、組頭在職中の貞享4年6月に諸国代官の
会計監査を命じられ、天和2年に彼のために新設された勘定吟味役になって
代官の8割を更迭する辣腕をふるった。

こうした財務に長けた逸材はなかなかいないようで、
白石によって勘定吟味役に登用された萩原美雅は吉宗政権への交代時、
西之丸留守居に左遷されながら、享保5年5月勘定吟味に再任されている。
0465日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 12:55:59.76
長すぎ
0467日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 13:33:53.71
自信過剰
0468日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 13:33:58.33
白石は次代将軍に吉宗推してたのに左遷されてカワイソって感じ
0469日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 14:01:04.74
たとえ次期将軍擁立に功績があっても、次期将軍が養君だと、高確率で切られるのが示されている
0470日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 14:08:14.83
「ようくん」で「養君」は変換出来ない。  誤字ではなさそうだな
0471日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 14:11:33.77
「切られるのが示されている 」
ここも日本語が怪しい
0473日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 18:06:33.50
まあ実際、どこの歴史でも長じて後見人が疎ましくなり退ける傾向はあるよね
0474日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 18:29:17.37
養子の将軍が登場したがために重臣の列から退けられた者は、酒井忠清、柳沢吉保、間部詮房、田沼意次など、多数いる。
0475日本@名無史さん
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2017/09/01(金) 20:16:04.38
傍系相続
綱吉  家宣  吉宗  家斉  家茂  慶喜  (家達)

足利将軍家では
義教  義政  義稙  義澄  義栄  義昭
0477日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 16:06:46.92
>>474
この中で、最も出世し最も穏便に引退したのが吉保
最も実権を握り最も無惨に失脚したのが意次
0479日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 16:28:41.46
吉宗の血統は人材がいなかったし、
慶喜が一橋家に迎えられたのは将軍になる含みがあってのものでしょ
0480日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 17:19:10.31
しかし、家斉以降の将軍にとっては、一橋家が里に当たるわけで、それを水戸系の慶喜に継がせるとは、思いきったことをするなぁと思ったの
0481日本@名無史さん
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2017/09/02(土) 17:41:40.58
御三卿は、その時々の将軍の庶子によって継がれるべき家柄
慶喜が一橋家を継ぐのは、吉宗の意志を蔑ろにする掟破り、
ただ、この掟破りは当時常態化していて、
最初になし崩しにしたのは、御三家の反対を振り切って
五男斉匡を田安家に押し込んだ一橋治済
0483日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 08:38:19.65
老中の板倉勝清の方が慶喜より将軍家に血統が近かったというw
0487日本@名無史さん
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2017/09/03(日) 18:12:16.33
だから板倉勝静は、家慶が慶福召見の折、家定に後継の内意を伝えた、
と勝静が藩主だった備中松山藩に仕え、維新後大審院判事になった三島中洲が
伝えている
勝静は家茂の老中だった頃も、最後まで慶喜の後見職就任に反対した
0489日本@名無史さん
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2017/09/09(土) 12:09:20.17
いっそ家重を廃嫡して寛永寺門主輪王宮の附弟に棚上げし
田安宗武は宗春後の尾張へ追いやって
一橋に九代を継がせておけば
あとあと後継者を巡って面倒が起らんかったとちゃうかな
実際宗武を尾張へやる動きは水面下であったようだから
0491日本@名無史さん
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2017/09/09(土) 17:03:11.21
家重は脳性麻卑で言語障害にして「小便公方」と嘲られる頻尿症
かといって知性が低いわけじゃなく側近には人材がそろっていた
しかし将軍として「らしくない」と当代随一に賢臣松平乗邑さえ廃嫡しようとたくらんだ
宗武は兄に変わろうとする野心が露骨で登城停止の処分を受けている
家重VS宗武・・・両成敗
吉宗は兄二人より宗尹を可愛がっていたというし
0492日本@名無史さん
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2017/09/09(土) 17:36:43.26
コミュニケーションが旨く成り立たなかっただけで、意思を理解できる者が側についていれば、全うに意思を伝達することは可能であった。
また、吉宗は家治に期待していたともされる。
コミュニケーションの補佐をしたのが、大岡忠光と大岡忠光26人衆である。
0494日本@名無史さん
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2017/09/09(土) 22:43:59.45
大体 宝暦期なんて官僚制が完成していて幼児が将軍でも幕政は安泰だろ。 木でも金属でも将軍は勤まる。
コミュニケーションはさほど重要ではない。たとえ数年でも将軍やらせて早めに引退させるのが一番賢明な策。
相続に能力主義を持ってくるのは、蒙古や満州族の王朝ならともかく幕府や諸藩でそれやりだすと、
全国お家騒動だらけになる。
0495日本@名無史さん
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2017/09/09(土) 23:37:05.74
そんなことはわかっている
0496日本@名無史さん
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2017/09/10(日) 00:25:38.78
>>489宛てと書けばよかったかな そんなにカリカリせんといてえな
0497日本@名無史さん
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2017/09/10(日) 00:26:55.18
甲陽軍鑑
・三河以東の東国武士はどこも強敵
・特に信濃勢は恐るべき相手
・武蔵武士は個人の戦闘能力が高い
・関東武士は騎馬戦を好む
・東海では三河が最強
・三河武士は戦慣れしている
・三河勢5千で関西勢2万に対抗できる
・家康軍の戦死者を見ると敵に背を向けている者は一人も居ない
・信長軍は数は多いが一兵、一兵は大したことない
・信長軍限定では美濃兵が最強
・尾張から都までの間では一戦ごとに我々と力の差が開いて行く
・尾張>伊勢>近江>山城(最弱)
・五畿内の侍は町人に似ている

・名将は元就、氏康、信玄、謙信、若手では信長、家康
・臆病な大将は大内義隆、上杉憲政、今川氏真
・今川家滅亡の元凶は上方浪人の武藤、のちの三浦右衛門

三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
その証拠は、むくろ此方へ転たるは、うつむきになり、浜松のかたへころびたるは、あふむきになり申候。

家康17,000 vs 秀吉100,000
三河出身の家康は秀吉軍を『上方の弱い軍勢』であると見下していた。
(磯田道史・岡山県出身の歴史学者)
0498日本@名無史さん
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2017/09/10(日) 01:56:01.03
吉宗は、最初は宗尹自身を越前に遣わそうとしていたんだが。
年齢が越前の松平宗矩に近いことを理由に固辞し、
それで嫡男の重昌にお鉢が回った、そうだったんじゃないのけ
0499日本@名無史さん
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2017/09/10(日) 17:46:50.62
>>494
ごめん、茶目っ気が過ぎたかなぁ。脱線ついでにお赦しあれ。
ちょっと遡る話なんだけど、綱吉治世の元禄末期〜宝永年間、
朝廷は、霊元上皇・敬法門院(東山天皇の母)・一条兼輝元関白と
東山天皇・新崇賢門院(中御門天皇の母)・近衛基熈前関白が
皇位継承を巡って争っていた。
やり手の近衛が幕府を懐柔して第5皇子の長宮(中御門)の対立候補だった
第3皇子の三宮(どうやら典侍の冷泉経子と皇弟京極宮との不倫の子らしい)
を早々に出家させ、円満院を経て寛永寺に飛ばした。
これがのちに寛永寺貫主・輪王寺門跡・天台座主となった公寛法親王。
そしてその附弟には東山天皇皇孫が就いている(公啓法親王)ので、
将軍の子弟が皇族の指定席に割り込む余地はなかったろうね。

長幼の序をひっくり返すと、お家騒動が起きる・・・当然でしょうけど、
ただ、綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が備わっていたと思うんですけどね。
0500日本@名無史さん
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2017/09/10(日) 23:00:52.12
500げっと
>>499
OK牧場。  ちょっち今 BS朝日の「独裁者の妻」観ている途中なんで、またレスすますだ。
0501日本@名無史さん
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2017/09/16(土) 17:27:38.25
>>499
>綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が
>備わっていたと思うんですけどね。

綱吉は別に長幼の序を飛び越えたとは思わんし、吉宗も家格を考えれば、これも一概にそうとも言えない。
まあ、ここは当時の価値観と現在の○親等の考え方の差もあるし、枝葉末節な部分なので脇に置いておく。
 それよりも傍系相続である綱吉・吉宗が強いリーダーシップを取れたのは、
彼ら個人の権威というよりも「徳川宗家家督」の絶対的権威がすでに確立していたからだろう。 
これこそ「個人の能力・資質」より「血筋・家柄」が重んじられる社会に到達した証左ではないか?
「戦国時代」は綱吉で完全に終焉したということか。
0503日本@名無史さん
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2017/09/27(水) 16:49:20.48
私的にゃ〜だいぶ前に出た「華族の肖像」っていうシリーズものな画集での拝見だったな
最後に現当主の家族写真が乗っていて幸せそうだったんで
後に離婚していたって聞いたときは「?」とは感じた

本当にご愁傷様っす
0504日本@名無史さん
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2017/10/19(木) 23:53:56.23
>>501
>「戦国時代」は綱吉で完全に終焉したということか
てか、家光で終焉なんじゃないのけ
0505日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/20(金) 14:31:53.74
家光は出陣したことないからな
島原の乱は知恵伊豆が出陣しただけだし、相手は大名じゃない
0507日本@名無史さん
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2017/10/21(土) 00:14:03.39
元和偃武
0508日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 15:45:49.08
家綱、家継、家重〜家定は
江戸から出たことあるのかな?
日光だけは行ったことがあるくらいでしょ
0509日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 17:56:19.77
>>501
秀忠と江がホモ変態の家光ではなく
その弟で美形の忠長を将軍にしようとしたが
家康が出しゃばってきて
「孫の代からは本人の能力・資質ではなく家柄・長幼順」
の家光を将軍指名したはず
0510日本@名無史さん
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2017/10/21(土) 23:04:52.27
>>509
その頃はまだ、家光が保毛尾田保毛男だとは判明してない。
むしろ最近は、家光は秀忠と春日局の子(シエが千姫婚儀で上洛中に秀忠が手を付けた)という説が有力。もうシエの出産は無理と思って家光を対外的にはシエの子として御披露目したら忠長がデキちゃったらしい。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/21(土) 23:42:45.84
家康も井伊直政とアッー!の関係だというじゃないか
今回の大河ドラマでやるかどうかはわからんがw
0513日本@名無史さん
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2017/10/24(火) 11:51:06.31
>>510
家光は子供の頃から化粧をして女ものの着物をかぶって走り回る
女装大好き変態少年だった

それに家光は江の実子だよw
春日局の子なんて全然有力ではない
千姫の婚礼は慶長8年7月28日。家光の誕生は慶長9年7月17日。
家光懐妊時に江は江戸城に戻ってきている。
また、江が千姫の婚礼に同行したとする史料は一部であり、
同行せずに江戸城にいた説もある。

動かぬ証拠としては家光は自分が将軍になる
と外祖父の浅井長政に中納言を追贈している
春日局の子なら斎藤利三が中納言だ
0515日本@名無史さん
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2017/10/24(火) 12:38:05.64
>>513
最後の件はあくまでも家光は正室腹という前提でないと
忠長に勝てないと思う
0517日本@名無史さん
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2017/10/24(火) 18:43:22.89
将軍本人が希望した場合もあるが、重臣が政治的功績にして改革の求心力を高めるために日光参詣を計画した場合もある。田沼や水野忠邦など
0518日本@名無史さん
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2017/10/24(火) 22:18:17.83
春日局は乳母が権力を持ってた時代の最終ランナーという感じの人物だと思うが
振り返ると、乳母が権力を持たなくなる&母親の血筋が問われなくなるのと、長子相続が基本ルールになるのと、ほぼ同時だよね
0519日本@名無史さん
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2017/10/25(水) 10:00:20.37
>>518
むしろ春日局が大奥を女性官僚制度にしたんだよ
それまでは御台所が奥のトップで取り仕切っていたのだが
春日局以降は女性官僚である御年寄が
今晩将軍の夜伽を勤める中臈の選定から後継ぎ問題まで
裁量を発揮することになった
春日局は乳母の出身ながら御年寄へシフトしたんだね
だから将軍家光の寝所に侍る側室を自在に選択して権力を持ち続けた
0520日本@名無史さん
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2017/10/25(水) 22:26:10.22
同時代の政治のほうも知恵伊豆の頃からどこか官僚的な感覚になるね
秀忠時代は権力闘争で負けたほうが死んじゃうもんな
流石にこれが続くとヤバいと皆思ったんだろうか
0521日本@名無史さん
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2017/10/28(土) 13:00:41.01
安定してくるとどこもかしこも
官僚的にはなるわなぁ。
前例とか規則とか。
0523日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 09:24:40.39
>>522
逆に戦があったら徳川将軍家が滅ぼされてしまうからね
「俺の子孫が永久に将軍。上に立つ者が人格者でなくても従うのが
家臣の勤めである(儒教)。もうこれで永久固定」
ってことで戦は止めさせたんだよ
0524日本@名無史さん
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2017/10/29(日) 09:24:40.55
>>522
逆に戦があったら徳川将軍家が滅ぼされてしまうからね
「俺の子孫が永久に将軍。上に立つ者が人格者でなくても従うのが
家臣の勤めである(儒教)。もうこれで永久固定」
ってことで戦は止めさせたんだよ
0526日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/31(火) 15:18:09.22
土屋政直、久世重之、阿部正喬、井上正路、小笠原長重、大久保忠増らは、万一戦が起きた場合、能役者の実質采配に従って諸大名が動くとは思えず、
速やかに紀伊吉宗の擁立を
0528日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:24:15.84
柳沢吉安が息子を将軍にしていたら結構面白かったかも

吉宗以降は実質紀州幕府だよね
0529日本@名無史さん
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2018/01/02(火) 21:32:16.85
吉保の息子、伊勢守吉里は、家老を斬首にしたりするなど、常軌を逸している。
0530日本@名無史さん
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2018/01/03(水) 15:42:28.83
柳沢吉保・吉里といえば、「護国女太平記」や「日光邯鄲枕」
吉里をわが子と信じ、吉保・吉里父子に百万石のお墨付を
与えようとした綱吉を御台所の鷹司信子が諌めるが、
訴えを一蹴されて綱吉を刺殺、前の大老井伊直該に後を託して自害

この結末が荒唐無稽すぎて、俗書の戯言と「とんでも」扱いされているが、
果たして、どうなんだろう?
その過程で出てくる、有力諸侯や大奥、幕閣の動向に関わる逸話には
「ほんまかいな」と疑いを触発され「う〜ん」とうなづいてしまう事柄だって
あるのだが・・・
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/05(金) 07:12:09.76
>>412
綱吉
家重
家治
慶喜

慶喜は賢すぎて周囲がついていけなかった

綱吉、家重、家治は側近に恵まれたから成果が出たな
0534日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 21:51:21.76
>>532
牧野や柳沢とか有能無比じゃん
0535日本@名無史さん
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2018/01/07(日) 23:26:47.43
>>393
>ケンぺルの「江戸参府日記」に書かれているように、
自害したという話は、日本側の史料にないんだよね 。
けど、火の無いところに煙りは発たない。

>>530
『護国女太平記』によれば、
十万両の借財申し入れは、実は甲府家の戸田長門守からだけじゃなく、
館林家の牧野備後守からもあったんだけど、
いずれも大老酒井雅楽頭から拒絶されて、
綱吉は憤りなく仕方なしと受け容れたが、
綱重は、
「我天下の連枝として僅の金子拝借を願うに其儀かなわず…
残念の至りなりと例の短慮を発せられ御無念に思され延宝二年九月十四日に
遂に御生害遊ばされける」と、いう記述がある。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:25:23.59
牧野成貞や柳沢吉保が有能とは・・・
側用人としては・・・
しかし、政治家としては・・・
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:32:22.31
ついでに言えば、対比の念頭に意次がある
水野忠成と比べれば、まだ出来がいいかも ・・・なのか
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:38:00.84
牧野、柳沢、間部、水野・・・意次には遠く及ばないだろう
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 23:43:05.81
綱重・・・自害したかどうかは別にして、
酒乱粗暴は記録に残っているようで


将軍にならなくて良かった
0540日本@名無史さん
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2018/01/10(水) 23:44:32.96
側用人ってのは将軍親政のための道具なんだから、綱吉の意思を忠実に実現した牧野、柳沢は有能だろ
意次は側用人と老中を兼任した人間だから側用人専任の柳沢らと違うのは職務上当然でしょ
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 14:04:18.19
柳沢は文化的教養も深いし、気難しい綱吉に長年辛抱して徴用されたということは
これはもう抜群の官僚政治家だよ。まあ 能吏ってやつかな。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 18:31:18.61
柳澤は軍需工場で強制労働ニカ
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 18:53:54.57
徳川綱吉は、傍系から宗家を嗣いだ将軍として、将軍とはこうあるべきだ、政治とはこうあるべきだ、という経倫を振りかざした者だったから、軋轢が大きかった。
大老酒井忠清は、例えば、御家騒動を起こした越後家や、同じく酒井忠清邸で藩重臣同士が殺しあいまでした伊達家も、取りつぶさなかった。
播磨守綱勝に嗣子がなく、本来であれば改易だった上杉家も、半知にはしたが、存続を許した。
このように、軋轢を起こさず、啼かず飛ばずが政治の極意と心得ていた酒井だったから、綱吉とは合わない。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 13:54:06.45
>>543
将軍家綱の時に起こった「由井正雪の乱」の反省から
江戸幕府は文治政治に舵をとり大名の改易をやめたんだろ
改易すると家来が失業して浪人となり江戸幕府に反逆するという理由から

他家から養子に入った6代家宣、8代吉宗の時にも改易なんか増やしていない
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 14:14:29.72
そんなことは分かっている。問題は、綱吉が、初めから高田藩をとりつぶして新将軍の威厳を見せつけようとしたことだ
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 14:16:14.08
本来ならフェートン号事件で佐賀藩36万石を改易にしてもおかしくはない

しかし外様の大身の大名を改易にするのことを1643年の会津藩加藤家改易以来、
150年以上してこなかったから、
幕閣もいつの間にか億劫になってしまい、佐賀藩主の閉門と家老らの切腹だけにとどまった
0547日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 11:46:30.38
佐賀藩潰したら、誰に長崎警備任せるの? 肥前一国天領にして幕府直轄でやるか?
そのころの幕府にはもう大身外様を潰すだけの力がなかったんだろうねえ。
というか、 >>501で少し書いたのだが、 家光の頃までは「戦国時代」であって、
大大名を改易するという発想がそもそも「戦国時代」的発想なんだろう。 文治政治以降、幕府と外様大名は
「刺すか刺されるか」の緊張関係から、「この国を平和に治める仲間」という意識になったんじゃないかな。
支配階級として同族・同門意識の共有ちゅうか。 家綱期もしくは綱吉期に「戦国」は終わったんだろう。

という意味で >>545
綱吉の高田藩改易は異例ではあるね。 秀康流の嫡系である松平光長は「影の徳川宗家」だから、
傍系相続の綱吉としては格好のスケープゴートだったんだろうねえ。 この話も前にさんざんやったね。
0548日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 14:20:27.80
綱吉が傍系いうが、先々代の息子、先代の弟だから珍しくもなんともない。吉宗や慶喜みたいに離れてれば別だが。
0549日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 15:00:04.24
傍系だろうが。なぜなら、一度館林25万石を与えられ、家臣の列に下がっている。将軍の子、将軍の弟かより、長子相続が続き、
将軍の子から、一旦は臣下の立場に下がったことを重んじるべきである。
0550日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 15:48:40.15
>>548
勿論、綱吉は宗家の出身であるし、宗家と何親等も離れている吉宗や慶喜と一緒くたに論じるのは
筆の走りすぎかもしれないが、まあ、綱ちゃんは家を出て 別家を構えた身であり宗家継いだのは30代半ばだから、
家綱政権の幕閣連中から見れば、「外の人」のカテゴリかな、と。
0551日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 16:34:19.64
宗家の出とはいえ初めての傍系相続だからな
そして結果的に酒井はクビになってるわけだし
0552日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 18:47:23.79
>>547
松平忠直(結城秀康の長男)と勝姫(将軍徳川秀忠の三女)の間に生まれた松平光長は
母親が八百屋の娘だの言われている綱吉よりも血筋が良い
個人的に将軍の座が望めないように排斥した意味もあるのかね
0553日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 19:46:21.72
>>552
松平光長に将軍職の野望はあったとは思わんけどねえ。
>母親が八百屋の娘だの言われている綱吉よりも血筋が良い
綱さんをdisるのはやめてくれえ〜。
と言いつつ、
光長の二人の同母妹は高松宮好仁親王妃と摂政九条道房室。 九条道房の母は豊臣完子(家光異父姉)
とか書いてみるテスト。
0554日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 21:16:13.68
将軍の臣下には違いないが
御三家、御両典、のちの御三卿は将軍家の親族扱い
城中席次、官位が別格
「臣下」というカテゴリ−で、越前・津山・会津等ほかの親藩と一括りにはできない

「徳川実紀」では将軍家とその世継ぎ
そしてこの八家には
徳川である姓を憚って、表記を遠慮している
0555日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 21:39:02.48
徳川を名乗る家は、皇族で言えば親王家。
親王も天皇の臣下かと問われれば臣下だが、臣籍ではない。
0556日本@名無史さん
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2018/01/13(土) 21:44:55.81
>>553
松平忠直が改易となった際、正室の勝姫は実家の徳川家に帰ったが
松平光長の2人の同母妹(亀姫と鶴姫)も母親である勝姫についていった
亀姫は2代将軍徳川秀忠の養女として有栖川宮好仁親王に嫁ぎ
鶴姫は3代将軍徳川家光の養女として九条道房に嫁いだ
その待遇をみれば同母兄の光長も秀忠や家光の養子になってもおかしくなく
そうなれば綱吉的には面白くない存在
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