木曽義仲と源義経と畠山重忠 [無断転載禁止]©2ch.net
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豪傑好きと慎重好きに分けられるがスレタイの3人は豪傑 畠山重忠亡き後の、平姓畠山から源姓畠山への乗っ取りもなかなかエグい もともと平家方で三浦義明と交戦して討ち取ってるね
畠山を含めた秩父一族はなかなか信任を得られなかったようだが 梶原は鎌倉を引き払って京で任官しようとしたのだろうな 10月27日に結城朝光が讒言を告げられて、
翌日には66人の御家人が連判して弾劾状を出しました…
こんな筋書きを吾妻鏡の編者ですら信じていたとは思われない 結城朝光に密告したのは阿波局で梶原景時を手討ちにしたのは北条傘下の武士団だから、北条時政の工作活動があったのは明白 生真面目というか、自分から汚れ役を請け負う人だと思う >>550
義仲が、カリクラ峠のハンニバルのことは知ってた可能性はないのか?w 景時は下野した時点でも御家人一、二を争うくらい有力でしょ
城長茂みたいな降人組も与党だし
自分を用いない鎌倉なんか見切ってツテのある京で任官しようとしたので
あわてた鎌倉の追討を受けた >>561
誰がここまで火牛を真実にさせてしまったんだ? 牛かわいそう
戦いの後はステーキになって食べられちゃったんだろうね 景時の讒言というものは何だったのか
実際には義経の方に咎があったようだが 吾妻鏡元暦2年4月21日条に梶原の「讒言」が載ってるけど
要は「自分1人の手柄みたいに思い込んで御家人が困ってる、専断を諌めても聞いてくれない」
という苦情。
そのあとに続けて「範頼は大小となく義盛に相談するけど義経は独走する
人の恨みを買うのも梶原に限らない」と注釈されている。讒言というより実情の報告 範頼も義仲討伐の時は手柄を争って頼朝に怒られてるので、
早く反省したか、大手軍だからうるさい宿老が大勢いておとなしくなったか 一ノ谷に向かうまえ、京都にとどまっていたのは治安維持のため義経の存在が必要だったからなんだよな。 治安の崩壊を責められても義仲は開き直っていたからな 8月の除目で伊予守に推挙してるんだから
ずいぶん後まで気を使ってるね。 なんで伊予なんて平家のまだ版図にあった場所になっちゃったの?
越後とか信濃あたりにすればよかったのに 伊予と播磨は受領最上位だからずいぶん奮発してるよ
平重盛が平治の乱後の恩賞で任官したのも伊予守 北海道まで逃亡したんじゃないか
アイヌと接触した形跡がある 北海道の義経伝説をガチだと思うのは自由だけど歴史学の視点から言うとあれは違うから 恭順するという選択肢もあった筈なのに挙兵に踏み切るあたりが如何にも義経らしいが、軍を用意できるだけの求心力がある筈もなかった 義経像
「軍事的天才だが政治は無能」から
「折衝と根回しが得意な能吏」へとずいぶん変わったな 最初から頼朝とは目指す方向が違かった
厩司の任命や本人の言動からして第二の平清盛を目指していたのだろう
はかなげな悲劇の英雄ではなく、木曽義仲と同様に相当な野心家だ 富士川の陣中にて義経との出会いに頼朝は涙したというが、頼朝が馬を引く事を命じた際に義経が強く不満を抱いていたあたり、この頃からギスギスしてたのかな 頼朝は平家滅亡後しばらくまでむしろ義経を優遇してた
というのが最近の有力説
在地豪族や平氏離反組を組織した義経軍に手柄を取られて
鎌倉御家人たちの憤懣が溜まってたのでああなったと 頼朝と後白河で義経を取り合っていたんでしょ
後白河は安田義定にも官位を与えていたからな 後白河は義経と直接主従関係を結ぼうとした
しかし頼朝にとって義経は自分の家来
朝廷と直接主従関係を結べるのは頼朝だけ
という立場だったんだろ 時代は下るが、幕府の御家人と北面の武士を兼ねてた武士は多い。 頼朝と後白河が取り合ってたというより
鎌倉から締め出されて切れた義経が迫って院宣出させた
というのが真相でしょ
頼朝は院宣出す直前の8月くらいまで宥めようとしてた 北条氏が頼朝と義経の離間を図ったという説もあるらしい
義経(頼朝養子)←→頼家(北条外孫)
河越(義経姻族)←→畠山(北条姻族)
もっとも右側の頼家と畠山も北条によって倒されてしまうわけだが 曽我兄弟の事件では源範頼が伊豆の修善寺に幽閉されるという憂き目にあっている
牧氏事件を見る限り北条時政は強引な手段を執ろうとするからね 義経・行家・有綱ー西国武士ー後白河・反鎌倉派公家・寺社
こういう木曽義仲型「京都幕府」の出現を頼朝は恐れたのであろう 義経が頼朝養子って元木先生の説だけど
かりに生き延びてても平賀朝雅みたいに殺された可能性あるんだよね 源氏は殺し合う運命
北条家と懇意にしていた阿野全成は源頼家に殺されている 頼朝の基盤である東国武士団と源氏御門葉や義経や範頼のような宿老との間では深い溝があって、遠ざけられるだろう 北条平家が清盛の無念(頼朝の首を我が墓前に備えよ)のリベンジを果たしたという見方もできないか 武門平家は一門内内紛って保元の乱の忠正を除いて1回もない
清盛と頼盛とか色々危ない場面はあったけどすべて丸く抑えた
執権北条氏も二月騒動までは一門殺し合いはなかったような
河内源氏は義家のあたりから暇さえあれば互いに殺しあってる 叔父上も平気で殺しちゃうしな
義平→義賢
頼朝→義広、行家 とか そこら辺の因縁が義仲の頼朝に対する複雑な心境に繋がっているのかね 為義系源氏の殺し合い
−−保元の乱あたり−−
義平→義賢(叔父)
義朝→為義(父)、頼賢など(弟)
−−寿永治承あたり−−
義経→義仲(従兄)
頼朝→義高(甥)
頼朝→義広(叔父)
−−鎌倉政権下−−
頼朝→行家(叔父)光家(従弟)義経子(甥)義経(弟)範頼(弟)
頼家→全成(叔父)
参考・平家に殺された人々
・平治の乱 義朝、義平、朝長
・平家政権下 為朝
・源平合戦 仲家(義仲兄)、稀義(頼朝弟)、義円(義経兄)
同族の殺し合いの方が圧倒的に多い為義系である 義光は源義忠を暗殺した上に、義綱に濡れ衣を着せて殺しているね 平家も平将門の乱とかあったよ
平氏政権は実質清盛一代限りだったのであまりにも短いし 将門の乱は所領争いみたいな私闘が原因だけど、
河内源氏の争い(義家、義綱、義光、義親、義忠)
はそう言う単純なものではないからな
しかも義家の代から激化した >>613
そう考えると保元から壇ノ浦までの一連の戦いも、
単純に源平合戦っていう表現をするのは全く不適切な気がするぜよ・・ なにげに武田って立ち回りは良かったと思う 他の有力な亜流と違って滅ぼされることなく信玄まで続いたし 甲斐源氏は複数の分家で割れて、安田義定らと片や加賀美遠光らは対照的な運命を辿る
武田信義は何を思っていたんだろうな 信義は嫡男が理不尽なころされかたしてるから無念でたまらんだろうな >>621
しかし、次代の勝頼で滅亡・・
信玄は最後に咲いたでっかい徒花だった・・・ 武田信義は鶴岡八幡宮にて誓約までさせられたんだっけ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
BPH 範頼の顛末を見る限り、義経も仮に恭順していてもいずれは失脚したでしょう
関東の武士団とは折り合いが悪そうだし 河越重頼の妻って比企尼の娘なんだよね
頼朝にとっては結構な身内で大事にしてたようだから、
義経がおとなしくしてれば何とかなったのでは 源氏門葉平賀氏って優遇されてるのにはどんな理由があるの?
その割にマイナー 平賀義信が義朝の八旗落ちに最後まで随行したんじゃなかったっけ
その義理だと思う 加賀美遠光が御門葉になったのは他の甲斐源氏に対するあてつけも兼ねていたのかと思ったけど、確執の生じた安田義定も御門葉なのか ,
織田ザコナガの天下統一はまだか?
織田ザコナガが強いのは池沼の脳内とゲームの世界だけか?
北条義時は朝廷も叩き潰して天下の覇王になったけどな 門葉自体は国元から離れずにあまり鎌倉の中枢には関わらなかったんだね 頼朝は情に厚い
梶原景時に対しても命の恩人として義理を感じていたのだろう
逆に父親を裏切って殺した長田忠致は恭順していても殺している 漫画家の手塚治虫って木曽義仲に仕えた手塚直光の末裔らしいな >>631
安田義資が越後守に推挙されているし延慶本平家物語によると一条忠頼誅殺の直後に武田信義謀反の疑いで甲斐に侵攻したりしてるし元々は安田氏と頼朝の関係は悪くなかったんじゃね 義経ってのは本当に頼朝と兄弟だったのかな?
ふと、思ったけど
なんか、行動が常にガツガツとしてて
もっとチンピラめいた感じがする。
(時によって、バックも転々としてる感じが在って。
ともかく多方面にコネを作ろうと、色んなヤクザ組に
入っては出るを繰り返すチンピラ感というか)
頭数が必要だったんで、
出所もわからない野党ととか盗賊とか
アウトローのリーダーも仲間に加えたけど
建て前として、源氏って事にして
九男坊ぐらいならいいかと
頼朝の兄弟って設定にしちゃってたりして?
だけど、命令ろくに聞かないわ、単独で勝手に動くわ
「やっぱ、やべぇわ…こいつ」と思ったんじゃないかと 源義経は平家一門を容赦なく滅ぼした後、家臣たちと
いっしょに、入水自殺に失敗した建礼門院徳子や平家方
の若い女房たちをレイプしたんだよな。義仲の家臣たち
も京で同じことをやってるか。高貴な女性とのセックスは
気持ちよかったか?この下衆な賊どもめ。 源義経の最期を見て主君の劉邦のために項羽倒しに
尽くしたのに、項羽が死んだ後謀反の疑いをかけられ
領地を減らされ最期は謀反を起こそうして失敗し処刑
された韓信の姿が思い浮かぶ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています