日本史上最強の謀将は北条義時じゃないか? [無断転載禁止]©2ch.net
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>>507
朝廷の近臣だった三浦胤義は兄の義村に決起を促す使者を送ったが義村は即座に義時に知らせた
義時と義村の絆は終生固く変わらなかった
実朝暗殺も義村本人は事件に加担していなかったと思う 北条義時と父の時政には得体の知れない不気味さがある >>505
公家って誰?
「愚管抄」の慈円ぐらいだろ?
慈円は承久の乱の前、九条家を外戚とする仲恭天皇の即位に満足していた
藤原摂関家は何度も一族の娘を后に立てるが皇子出産を見ることができず
藤原摂関家を外戚とする天皇は後冷泉天皇以来だった
鎌倉幕府次期将軍の三寅も九条家出身であり
九条家は天皇家と鎌倉幕府を両方支配することができる目論見であった
しかし後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたせいで仲恭天皇は退位させられすべてがパア
九条家にすべて任せておいてくれれば上手く朝廷も鎌倉幕府を操作してやったのに…と言わんばかり >>512
実朝殺害は結局は公暁の私怨か
実朝が親京都派で後鳥羽にコントロールされているのではという危惧もあったらしいが、そうとも言い切れないらしいな 政子は何故京都にいた公暁を鎌倉に呼び戻したのだろう
公暁こそ朝廷とつながっていて父を殺したのは実朝だと聞かされていたかもしれないのに
実朝に子供ができないから公暁を還俗させて実朝の養子にするつもりだったのだろうか? 義時が妻の伊賀の方に毒殺されたというのは本当なのか? >>516
鶴岡八幡宮は源氏の守り神だから公暁をそこの別当にするため…というのは建前で
京都で反北条派に担がれでもしたらかなわないので目の届くところに置きたかったのでは
公暁を将軍にしたかったのならば本人もそれを望んでいただろうし
実朝の養子にして還俗させればよかったわけでそうしただろう
政子にその気はなかったから後鳥羽上皇の皇子を鎌倉へ貰おうとし
断られたので九条家から摂家将軍を貰ってきてた 実朝と共に切られた源仲章は義時と間違えられたと言われていた
色々な説があり公暁は最初から仲章だと知っていたという説
仲章は朝廷と通じて実朝の官位昇進を支援していたから幕府にとって危険だったという説もある 従来は実朝暗殺について、公暁の背後に有力者がいて、その有力者にそそのかされた
という学説が主流だった。
だが、今日では、公暁の単独犯行と考えるようになってきているのではないか?
公暁は父・頼家にとって代わった実朝と、その後見人であった義時を恨むようになり、
実朝と義時を暗殺しようとした。だが、間違って源仲章を殺害してしまった。 公暁は参籠するも、一向に髪を下さなかったから怪しまれてはいそうだけどね
不幸な事故だったことは間違いない 朝廷の権威を完全に無効化した北条義時こそ人類最強! 後鳥羽上皇は源頼朝と北条時政の両巨頭が消えた鎌倉幕府なんて軽く捻り潰せると思っていて
鎌倉幕府に宣戦布告したら北条義時が頼朝や時政より大化け物だった >>527
政子もおるしな
この2人が死ぬまで待つべきだったな 基本朝廷を奉る泰時だって後鳥羽の帰京を最後まで許さなかったくらいだしやる時はやる男だしな
義時政子がくたばったところで付け入る隙はないな 後鳥羽としては傲慢にも自分の鶴の一声で何とかなると思ったんだろう
頼朝は既に亡くなってはいたが、頼朝に対する忠義は武士たちの中で生き続けていた 日本史の4傑
平清盛 足利義満 織田信長 大久保利通 by週刊東洋経済 今週号
所詮 北条義時はマイナー政治家に過ぎない 頼朝の持っていたカリスマ性を唯一継承できたのが源氏ではなく、北条義時だった >>535
カリスマや権威に依らず、実務能力と謀略で政権獲ったのが義時だろが。
そんで、子孫や側近たちが義時を武内宿祢の生まれ変わりとか都市伝説を吹聴しだした。 謀略家とは言われてはいるが、協調や道理は弁えていたからね
和田合戦も自衛戦争に過ぎなかったし >>530
後鳥羽上皇は四条天皇の代に死んでるからな
承久の乱後、幕府は後鳥羽上皇の血をひかない後堀河天皇(後鳥羽の兄の子)を即位させ
後堀河、四条と続いた
後鳥羽上皇は自分の子孫を皇統から外され帰京の願いも叶わず絶望の中で死んだ
しかし、後鳥羽の死後、四条天皇は12歳で事故死、皇統が絶えた
そこで後鳥羽上皇の孫・後嵯峨天皇が即位、この系統が現在の天皇家まで続く
後鳥羽上皇も自分の孫が即位するまで生きていたら帰京の願いも叶ったかもね >>532
確かに。だが、時政・義時父子は貴種の頼朝を「奇貨おくべし」と草創期からサポートし、
一族の運命をかけて育ててきたことは、単発の偉人とは違う、(関東)武士の本懐を感じる。
この一族は鎌倉時代150年の間、他の有力御家人や同じ一族間で権力闘争を繰り返してきただろ?
で、鎌倉政権は滅亡直前まで、盤石な政権だった。たいしたもんだと思うぞ。 >>540
北条父子が頼朝と緊密になったのは政子が流人の頼朝と駆け落ち結婚してからだろ
このとき政子は18歳だが頼朝は30近い
政子の弟である義時はまだ相当若く頼朝を育てたというのはなんか違う 義時には兄がいただろ?たしか、石橋山合戦で討たれたと思うが・・・。
北条にとっては痛手だった。義時は若かったから、頼朝に近習し、学んだほうかもしれんな。 帝王学みたいなものは学んでたんじゃないか?
元が平家方で目を付けられていた畠山と比べて、北条、三浦は旗揚げよりも前から頼朝を支え続けてきた功績があって、宿老同士行動を共にしてきた いいそびれた。ボクの歴史観は「歴史を動かすのはその時代の社会」だと思っている。
偉人は偉大だと思うが、その偉人がいなくても別のヒトが似たような歴史を作ると思っている。
鎌倉時代は武士の時代。大げさに言えば関東御家人の時代だ。で、社会は荘園、国衙領で構成されており、
そこへ武士が守護・地頭として入り込むが、在地支配は従来の下司、公文、郡司、在庁官人でこれもまた武士だ。
全国挙げて在地支配(=徴税権支配)の権力闘争をしている。朝廷vs鎌倉幕府、公家(国司)・大寺院vs守護(武士)、
地頭vs下司等々。そういう社会の中で、北条一族はのし上がっていったというふうに考えている。
だから、得宗が現れ、得宗御内人が権力を持ち大規模組織になっていったわけだ。逆に負け組みもいて、これは現代に通じるものがある。
ちょっと、おしゃべりだったな。 >>544
歴史観はその通りだと思うが、
東国の場合は下司や在庁官人も地頭を兼ねたり御家人を兼ねる場合が多かった >>544
最初の2行には少し異論があるが、3行目以降は歴史認識(歴史観でなくファクトの理解)としては、
自分も同意だね。
鎌倉政権の登場は歴史的偶然でもないし、「幕府」は突然変異ではない。 荘園公領制の上に乗っかってる政権という意味では
院政がそのルーツであり、 奥州藤原政権や平氏政権の発展系であることは論を待たない。
鎌倉「幕府」は歴史の流れに沿った、遅かれ早かれ出現する「時代の産物」だったろう。
しかし、治承寿永の内乱 頼朝という天才政治家 高い政治能力を持つ歴代北条当主
という偶然的要素を「時代転換」の片方の要員という視点は かーなーり重要と思うぞ。
>その偉人がいなくても別のヒトが似たような歴史を作ると
中国史や日本の戦後史はそうだとは思う。 信長・秀吉が居なくてもいつかは誰かが天下を統一したろうが、
それが近世社会とは限らない。 薩長が居なくても徳川慶喜がある程度の近代化は出来たかもしれない。
しかし、多分その結果、 現在とはかーなーり、似てない社会になてたのではあるまいか? んで
「平清盛が源頼朝と義経を子供のうちに殺害していたら 」スレをageてみました。
どんな時代が来たんでしょうねえ。 未曾有の変革期だったからね
鎌倉方に対して平家の立ち位置ってどうだったんだろう
畿内惣官職を以って、十分に幕府的な機構だったとする見方もあるらしいけど そうなんだよな。150年続いた鎌倉時代。もうちょっとテレビドラマ化して欲しいよな。
たとえば、人気長寿番組(時代劇)は、水戸黄門、大岡越前、銭形平次。皆江戸時代それも後期。
水戸黄門なんか時頼の廻国伝説がルーツだろ。似たようなものは作れると思う。
大岡越前張りの「鎌倉執権日記」とか、「得宗御内人検断控え」とか(笑)もあり。
吾妻鏡があるんだから脚本書きも楽だと思うよ。 はい。
「なぜ鎌倉時代室町時代は地味で人気がないのか」スレもageときました。 北条義時って伊東祐親の娘が母なのか?wikiによれば
つんでもないな >>552
鎌倉時代は時代考証にこると衣装代高くつくから、民放はやらんだろ。 大衆受けしそうなステレオタイプな英雄像とは乖離してるからな
とはいえ、本当の成功者とは地道なものだ >>552
水戸黄門も大岡越前も銭形平次も
身近な庶民の困りごとを裁くから人気がある
鎌倉幕府の幹部は武家所領の決済ばかりで
庶民になんか興味なかっただろ しかし武士でありながら公家と渡り合える外交力や文の力もある武士
てあの時代にそうはいないんじゃね
鎌倉の有力御家人は腕っ節は強いがそれ以外はからっきしてのがほとんど
北条が弱小勢力ながら天下取ったのはやはり当然というか
三浦義村が北条支持で行って結局自分が天下取らなかったのは
そのあたりを自覚してたからだと思う
なんで北条義時が存在しなかったら安定した武家政権ができたか疑わしく
gdgd内乱状態になった可能性高い
頼家もgdgdだったし時政も執権になってすぐやらかして放り出されたし つまり北畠親房だったかが
頼朝がなく泰時もいなかったら日本国はどうなってたか
と言ったのは正しい認識だと思う 頼朝の存命中はまだ不完全だった武家の在り方や規範を完成させた
法制度的には御成敗式目とかかな コネとカネ、ノミナリズムで動く朝廷の倫理は大陸や半島文化的な感じ
関東の鎌倉政権は信賞必罰、法治主義、リアリズムが特徴
この二つがぶつかり合ったのが承久の乱
コネで地頭解任要求の朝廷側vs法治主義ではねつけた鎌倉
武家政権が勝利をおさめて日本は大陸半島とは違う道を歩み始める図式 本当の意味での日本らしさというものが生まれたのがこの頃だからね
他のアジアには武家に相当するものが無いからな >>562
頼家の体たらくを見る限り、まともに牽引できるのが北条家しかいなかったからな。
北条を後見とした実朝の治世は望まれたものだった。
只、時流を見極められた三浦義村と異なり、和田義盛は次第に個人的な野望が芽生え始めたんだと思う。 義村の義時に対する忠臣によって三浦は御家人の勝ち抜きトーナメントに生き残った
しかし義村の死後は子の光村(駒若丸)が野望を抱き滅亡への道を進むことになった 怜悧にして勇敢さを持ち合わせた理想的な人物に見えるけどな 政子が頼朝の嫁になって権力握ったのに
比企に苦労してたのに
実朝の外戚になろうとしないあたりが面白い
どころか息子を誰も将軍に近づけてない
将軍から独立してる
やっぱ面白いわ義時って人物 逆に義時の息子の名越朝時が実朝の怒りを被って、駿河で蟄居を命じられている 傀儡将軍みたいに見られることもあるけど、協議のもとで擁立された将軍だから、義時としては公正さを見せたかったんだと思う
後見人として必死に守ろうとしていた >>572
実朝の正室選びについては北条がわざと外戚にならなかったわけではない
頼家暗殺が朝廷にばれるとまずいので政子・義時は必死だったんだよ
鎌倉は朝廷には頼家は病死と報告していた
しかし慈円が「ふぐり(金玉)取りて」惨殺したと
日記に記しており、北条による暗殺は朝廷にも伝わっていた
頼家暗殺が北条の手によるものと後鳥羽上皇の口から大々的に発表されると
御家人たちもどう出るかわからなかったからね
政子・義時は頼家暗殺を公にしないために後鳥羽上皇の機嫌を取ることにし
後鳥羽上皇のいとこで、姉が後鳥羽上皇の寵妃だった
坊門信子を実朝の正室にした 朝時は比企の息子つまり頼家側だったろうから実朝は嫌いだろう
重時も同じく比企血筋
泰時は父親の側にいた
政村以下はまだ年若い
てんで将軍の取り巻きに北条ゼロ
実朝死んでも出家する奴は誰も出ない 義時自身は逆
父親から離れて頼朝の側にいた
将軍と北条の関わり方が実朝時代と全然違う >>576
実朝の乳母は北条だったろ
政子や義時の妹の阿波局が乳母だった 乳母という立場がなによりも重きを為していたから、それを傀儡と呼ぶかは別として実質的に将軍を手中に収めていたんじゃないか 織田が最強では。ほとんど戦国時代んの文面でよろしいかと。人が死んだ。から。 実朝って突然、大船を造って海外に旅したいとか言い出したことがあったんだっけ 阿波局は乳母だが義時は違うからな
妻の関係で頼家と両天秤状態だった
時房は頼家の仲間だったし
実朝と北条の間にはちょと隙間がある 義時は比企氏寄りの政策をとってないだろ
頼家は北条を嫌い乳父である比企能員を重用した
義時は頼家にべったり寄り添っていない 頼家が北条を嫌った証拠はないけどな
比企を重用したのは事実だけど 頼家は義時の側室が子供産んだ時祝いの品贈ってるし
それほど険悪ではなかったと思われる
呼び捨てにするので義時が嫌がったって政子の言はあるが >>585>>586
頼家が側近5人を指名したときに北条義時が入っていない
また比企能員の乱で頼家の妻・若狭局と幼い嫡男・一幡が巻き添えで死んだ際
攻めた張本人が北条義時であり比企氏に温情を見せていない 義時は頼家の叔父なのになんであの比企の息子や小笠原の息子と
同レベル扱いされにゃならんのだw
オヤジの小笠原長清が義時とわりと親しいんだよな
だから小笠原は比企合戦の時に比企の味方しないで頼家も見捨てることに
妹の大貳局はちゃっかり実朝の側近におさまってるし >>588
頼家の外戚は比企
比企の娘が頼家の嫡男を産んでいる 和田義盛も頼家の北条討伐の御教書を黙殺して、それを北条時政に密告しているな 比企に完全に手玉に取られていたからな
不肖の息子とは言え、政子にとっては曲がりにも親子だからさぞかし辛かろう 長男より次男を可愛がって長男追い落としをはかる母親てのは
日本史でちょくちょくでるがほとんど母親側が負けるんでねーの
信長とか家光とかさ
長男が母親に追い出されるってあんまないぞ
それが可能だったのは母親の実家の北条が御家人を抑えてたからでさ 三浦だとか和田だとかが反頼家派だったからな
上手い具合に共闘できた >>592
政子が頼家よりも実朝を可愛がって追い落とししたわけじゃないから
天皇家などでも有力な天皇候補であった為平親王が源高明の娘を正妃としたために
為平親王の母方である藤原氏による他氏排斥を行い為平親王は皇統から外され
同母弟が即位して円融天皇になったなどの例がある
外戚にとって都合の悪い妻を娶ると排斥された例 >>594
はたから見てれば長男より次男が可愛かったって見えるよ
次男は妹に乳母させて近くに置いてる
長男は比企に囲まれて富士の巻狩でも頼家には厳しい態度
実朝が政治ベタでも政子は追い出したりしないと思うぞ 愚将−安倍 凡将ー麻生 謀将ー二階 智将ー石破 鈍将ー石原 実朝は人当たり良さそうだし、象徴的な存在としていてくれたからこそ円満だったからな 血縁血縁でつながろうとするのが鎌倉初期の悪弊
ばっさばっさやる人物が必要だったのはしょうがない >>600
頼家の傍に比企氏を置いたのは頼朝だろ
頼家は頼朝が溺愛した大事な嫡男
だからこそ頼朝は自分の乳母で恩人でもある比企氏を側近とした
実朝は当初将軍になる予定のない傍系だから頼朝は頼家に比べて放置ぎみ
政子がそれなら自分の妹を乳母したって感じだろ
政子が長男が可愛くないから比企氏に丸投げして
実朝のことは可愛いから将来将軍にするつもりで
自分の妹を乳母にしたわけでもないぞ じゃなくて自分のそばにいたから次男が可愛くなったってこと
実朝の乳母に御家人がなりたがらなかったってのわかる
梶原や比企睨まれたくない
頼家時代になったら実朝とその側近は粛清されるだろう
なんで頼朝も弟夫婦に託した
全成は実際に粛清されたが北条はそうなる前に逆に頼家を倒した
政子は当然実家味方
頼朝としては比企と義時を縁組させて頼家の側を固めたかったんだろう
時房が頼家の近くにいたのもそれ
時政だけ排除されててその時政が主導して比企を討った 可愛い可愛くないというより、けっこう人物を見ていたような気がするよ>政子
たんに情念の強い性格というだけであそこまでの女傑にはならないでしょ 和田義盛などの源氏の忠臣たちが実朝を推戴しているからには、頼家が敬遠される程の事由があったということになる >>605
比企討伐を主導したのは時政というよりも義時だろ
比企氏の血を引く頼家の嫡男・一幡を殺したのは義時の手勢だし 梶原を討ち取ったのは時政の部隊だっけ
梶原追放には義時はどのくらい関わっていたんだろう 梶原追放は多分義時
あーゆー謀略系で相手を自滅に追い込むやり方は義時
比企討伐は時政
呼び出して謀殺するという乱暴なやり方は時政でのちに畠山重保もそうだった >>608
実働部隊は義時中心って感じ
御家人の主力が義時世代になってて時政よりネットワークがある
比企討伐軍のうち、三浦と小山結城は義時閥で畠山と和田は時政閥って印象だが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています