邪馬台国畿内説 PART1 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
(2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前) 記紀編纂者はスサノオが帥升と分っていた。
帝紀・旧辞に書かれていたのだろう。
でも記紀編纂に際してそれは書けない。
一度国史に書いてしまうと未来永劫中華の属民であったことを容認することになる。
記紀を読む未来の日本人の為にもそれだけは避けた。
そして中華に隷属してた事実をごまかすために神武をAD660年というとんでもない時代に設定。
その結果100歳を超える天皇が出た。
それでもかまわない、あくまでプライドを優先した。
スサノオから5世代100年後が卑弥呼の時代。
ヒミコとはヒメ踏鞴五十鈴媛である。
神武は大王ではない。
だから7世紀に「天皇・皇后」という称号を創り、神武を初代天皇にした。
それは女王であったヒメ踏鞴五十鈴媛の皇后への格下げでもある。
300年論争の結論。
邪馬台国はヒメ踏鞴五十鈴媛の住んだ葛城である。 【エリザベス女王】「エジンバラ公」
これが今のイギリス。
これに「天皇・皇后」の称号を加えるとこう変化する。
【エジンバラ天皇】【エリザベス皇后】
そしてエジンバラ天皇の武勲をこれでもかと強調、
エジンバラ天皇の記述を9、
エリザベス皇后の記述を1にする。
いつしかエジンバラ天皇だけが記憶され、エリザベス皇后が忘れ去られる。
これと同じなのだ。
普通の日本人で初代天皇の名は答えられても初代皇后の名は答えれる人はいない。
卑弥呼は忘れ去られた。 おかしいなあ。
邪馬台国畿内説Part242の画面が出なくなっている。
だから、そこでの残った反論返事は、このPart1に書く。
242の>>334
>事代主は神武の奥さんのお父さん。 なにを捏造してるんだ、ハゲ。<
事代主は大国主の息子。書紀と一緒になって、何を捏造してんだい?。 纒向でも畿内説支持者は増えないな
畿内を掘って掘って掘りまくるしか手はない。
何も出ないだろうけど
注意
子供の通学路は掘るなよ 242の>>337
>では平均在位11年で用明天皇から神武まで計算してみます。
ただし神功皇后は確実な1代ですから32代遡ります。 11×32=352
用明元年587-352=235 235年。やはり神武は卑弥呼の頃です。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴姫です。<
記紀の記載を無視して、はるか後代の平均在位を延長したって、
そりゃ史料事実の無視抹殺捏造にしかならず、
論拠にはならない。 242の>>347
>崇神が宮崎神宮の社殿を建造している。
ということは崇神は神武が宮崎だという事を強く認識していた。つまり日向とは宮崎。
宮崎神宮ほど古く格式のある神社がない防人の地・福岡は以後の発言を慎むように。<
宮崎神宮が本当に崇神が造らせたのか?は知らんし、
景行遠征話との齟齬があるが、
神武の父で宮崎に派遣されていたウガヤフキアエズは、当然天孫族の倭奴国の阿毎氏でもあり、
倭奴国から大和へ東征した神武ら兄弟も宮崎の生まれであるから、
神武の後裔の崇神にとっても、宮崎は先祖の地の一つだと思われていた、というだけ。 >>8
>事代主は大国主の息子。書紀と一緒になって、何を捏造してんだい?。
神武の奥さんのお父さんはどこにいた? >>10
>記紀の記載を無視して、はるか後代の平均在位を延長したって、
そりゃ史料事実の無視抹殺捏造にしかならず、
論拠にはならない。
記紀は半分×書と言ってたのはおまえではないか。
もはや批判にもなってない。
おまえもうホント早く氏ね。 242の>>354
>岩永省三「弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達」・・・
結論 北部九州など糞であるwww <
岩永省三は、当然「南→東」の嘘つきダマシの大和説学者であるから、
そんな「結論先にありき」の欠陥人間の講釈など、何の信頼性もないし、
この投稿子も、「・筑前 (長いので略)」として、
肝心の筑前を略す、というインチキをやっているので、
何の信頼性もない。 242の>>359
>>魏志の「卑弥呼」は、
魏の役人らの実際に実地に確認した記録であるから、
「後世」のものにはならないよ。<
>「後世」のものは松野の話だ。ごまかすな変態ジジイ。<
何を誤魔化してんだい?。
キミが自分から後世のものだとして卑弥呼を挙げたんだから、
卑弥呼は後世にはならないと言ってあげたんだよ。
それに、松野氏姫氏系図の古い時代の記載も、
やはり「後世のもの」にはならんよ。 242の>>365
>●中国・四国地方以東と異なり墳丘墓は少なく、形態もばらつき優勢なタイプがない。
ぶざまwwww 九州ぶざまwwww<
アホだねえ。
その岩永の記載では、
須玖岡本D地点の「キ鳳鏡」を隠している事になるし、
晋墓の内行花文鏡模様と筑前の内行花文鏡の模様の一致も触れていないし、
何よりも、那珂八幡古墳付近に河内や大和の庄内が来ていて同時代になるから、
大和の庄内の初期前方向円墳が那珂八幡古墳と同じころになってしまうのに、
岩永は、弥生後期に大和に既に前方後円墳が出来ていた、というような、
「通説定説大和説」の結論先にありきでの講釈をしてしまっているから、
岩永はインチキである。 242の>>732
>(孝霊)いくら頑張っても九州は伊都と奴国以外の選択肢はないから無駄ですよ。
それより瀬田遺跡から卑弥呼の生まれた頃の年代と推測された
籠とその台の出土が発表されてますよ。
瀬田遺跡と言えば前回も箸墓以前で前方後円墳の祖とも
言える古墳跡が見つかってますが、
これらがどう繋がってゆくか見ものですね。<
いくら頑張っても、
大和は、筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国であるんだから、
無駄だよ。 アホが立てたスレに書き込むなよ。
全角英数とかセンスないな。 242の>>433
>丸いか四角いかまでネジ曲げちゃうのが九州説です<
祇園山を実際に見ても、
四隅円弧の不定形では、一辺長の測定が困難であり、
「方〜歩」での記載も出来ないから、
不定形として、「径百余歩」として長径記載をしたのに、
無理やり、完全方形だ、と捻じ曲げちゃうのが大和説です。 242の>>447
大和説が九州説に抵抗する手段は、今やデマと中傷だけになってしまった。 242の>>452
いたいけな善男善女らが、ダマクラかされて、
小銭巻き上げようとしてる詐欺師まがいにウソ八百の、
「こう言えば九州説は、撃破できる」のハウツー本を売りつけられている。
騙されてるのも気づかないお気の毒な人々も多いだろうよ。 242の>>454
>畿内説は纏向遺跡と言う物証があるので、纏向遺跡が卑弥呼の住んだ都かどうかは別として、
畿内説を唱えることは分かる。<
「南≠東」だから、纏向は卑弥呼の都にならない。
>九州説者を見てると、基本邪馬台国などどっちでもいいという態度とは思えない。
もはや宗教である。<
大和説者を見てると、基本邪馬壹國などどっちでもいいという態度にしか思えない。
もはや宗教である。
>九州には原田大六の銅像が立っている。 田舎者である。
zarakokuに代表されるようにキチガイである。<
原田大六は、大和説者である。
そして屁が臭い。 邪馬台国畿内説Part242は、454を最後にして無くなったんだね。
そして、古田史学スレも探したが、無くなっている。
という事は、スレ主が両方を抹消する事がないから、
これらの両方を削除したのは、2ch側である事になる。
何故なんだろうか?。
それなら、両方に投稿していたのはzarakokuであるから、
2chは、zarakokuの投稿を(都合が悪いんで)拒否しようとして、両方を削除した、
という可能性が高い。 >>25
zarakokuってあの孫に手をかけた吉外の75歳??
キモ! こっちを本スレにしよう。
あっちはダメだ。
50近いテンプレ用意しながら、
纏向には2世紀前半からの男王の墓がないという1点で論破される間抜け。
考古学も文献史も両方見て判断するのが日本史なのに、
同時代史料ではないという理由で記紀を無視して考古学一本。
ならば考古学板があるのであっちでやって欲しい、誰も行かないだろうが。 このスレで初公開。
これが卑弥呼の墓だよ。
というか卑弥呼を生んだ一族の墓。
https://goo.gl/Fzvhz3 2世紀前半から存在し、2世紀末に卑弥呼を生んだ一族、
それが何族なのか、これが一番大事。
纏向なんて2世紀末から始まってるのだから話にならない。
纏向に卑弥呼がいたなんて言う人はアホ。
彼らは卑弥呼共立のために来た集団。
吉備や瀬戸内の要素が強いので、その通り瀬戸内から来た。
だから櫻井に吉備という地名が残ってる。
では2世紀前半から存在し、2世紀末に卑弥呼を生んだ一族はどこにいたか。
神武(2世紀末)はどこに住んだか。
葛城だ(御所市柏原)。
神武も通い婚であり、在地の王家に通ったわけだから、
2世紀前半から存在し、2世紀末に卑弥呼を生んだ一族は葛城にいた。
そういう事だ。
その王家がいたのは高天原(御所市高天)だ。
つまり葛城王朝なのだ。 卑弥呼共立のために来た集団が纏向に大古墳を造ろうが、
天然の山「高天原(現・金剛山)」を墓域にしてる一族の、
その威容にはかなわない。
まったく話にならない。 >>31
>神武も通い婚であり、在地の王家に通ったわけだから、
>2世紀前半から存在し、2世紀末に卑弥呼を生んだ一族は葛城にいた。
文章の前半と後半に関連がない。
神武と卑弥呼の関係が明らかではない。
畿内説ありきの妄想ですね。
しょせん畿内説はこの程度。 >>33
神武が実在したのなら大和にいつ頃来たのか。
4世紀初頭の崇神より6世代か9世代前だろう。
考古学的に2世紀末に師か大変革が現れないので、
2世紀末、つまり6世代前だろう。
1世代間20年で計算。
何も問題はない。 神武が4世紀初頭の崇神より6世代と言う根拠は、
物部、中臣、三上、鴨の系図がおおよそ6世代である。
http://kodai.sakura.ne.jp/sblo_files/yamatai/image/mononobe-nakatomi-mikami.pdf
神武の時代が大和盆地で大変革があった庄内0期と合う。
そして卑弥呼の時代である。 神武が崇神より9世代前と言う記紀は、
意図的に時代を大きくずらしてるわけだから、
まったく信用できない。
古くしたいから9世代にした。
父子継承が履中天皇まで続いてるというのだからあり得ない。
神武は4世紀初頭の崇神より6世代前だ。 崇神 布留1期
(その間約120年)
神武 庄内0期 向こうは>1が
2世紀前半に存在しない纏向に卑弥呼がいたという、
とんでもないアホなので畿内説の恥。
こっちが本スレ 崇神を4世紀初頭とすると、
2世紀前半から3世紀後半まで存在した(卑弥呼を生んだ)王権は、
プレ大和王権ともいうべき王朝です。
今でもしっかりその王たちの伝承は記憶されてるはずです。
そして民間信仰として今も息づいてるはずです。
それは「主」や「王」など、一豪族ではありえない表記をされてる、
出雲系葛城王朝以外にありません。
大物主、事代主、鴨王に代表される血族が卑弥呼を生んだ王権でしょう。
彼らがいた場所は高天原(御所市高天)です。 >>42
>大物主、事代主、鴨王に代表される血族が卑弥呼を生んだ王権でしょう。
彼らがいた場所は高天原(御所市高天)です。
大物主も事代主も鴨王もみんな、元を辿れば阿波の忌部一族なんですよ。
彼らがいた場所は忌部の郷(阿波・麻植・美馬)です。 >>42
「崇神を4世紀初頭とすると、」というのは仮定か?
古代の天皇は在位期間は不明なのか? >>45
いや仮定ではない。
10 代崇神天皇の時代を 4 世紀初頭とする根拠は、
古事記に「山邉道勾岡上」と記される1 0 代崇神天皇有力墓である西殿塚古墳、
または行燈山古墳が、考古学的に広義の布留式前半(4 世紀初頭)の蓋然性が高くなっ
ていること、
また、吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山古墳、
崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓の可能性が極めて高い椿井大塚山古墳、
先代旧事本紀に交野連と記されてるタベノスクネの墓である可能性が高い雷塚古墳(森
古墳群)、四道将軍ゆかりとしか考えられない会津・一簣古墳群など、
崇神時代の人物の墓もことごとくこの時期である。
また日本書紀と古事記では初期天皇の没年干支が違うが、
例えば崇神前後の開化天皇や垂仁天皇の没年干支を記載していない古事記は、
すべて記載している日本書紀と比べ、むしろ伝承しきれなかった事を正直に伝えており、
逆に記載されている崇神の没年干支は、それ自体が強く伝承されてきたと判断し、
その没年干支は充分信用できると考える。
崇神の没年は、考古学とも照合し、西暦 318 年が妥当であり、
崇神天皇の在位を西暦 300 年頃からとみる。 >>41
>向こうは>1が
>2世紀前半に存在しない纏向に卑弥呼がいたという、
>とんでもないアホなので畿内説の恥。
>こっちが本スレ
ってことはこのスレを立てたのは畿内説を認めない他説の奴なのか
なんで畿内説スレを立ててんの?
??????????? >>49
それは>>1氏に聞かないといけないが、
畿内説の中でも纏向が邪馬台国の王都ではないという意見もあるので、
(俺のように)
別に2つあってもかまわないだろ。
畿内説は纏向で決定と言う、むこうの>1のテンプレには到底納得できないし、
あり得ないと思ってる。 >>50
畿内説の中に纏向が邪馬台国の王都ではないという意見の人がいるとかいないとか関係ないじゃん
2世紀前半に王墓が存在しないからダメだって主張してるってことはお前が畿内説じゃないってことだろ
つまりナリスマシだ >>52
こいつは頭が悪いなー。
マキムク厨と命名する! 別にいいんじゃない?
こっちはこっちでテンプレ作ったら?
巻向否定畿内説でいいじゃん
あっちより内容濃くなりそうだし 畿内説じゃない人間が畿内説のテンプレなんか作れないだろ せめて番号は続けても良かったのでは?
あと、英数は半角でよろ。 >>51
はぁスレ立ては俺ではない。
だいたい何で箸墓古墳が卑弥呼の墓で決定みたいになってんだよ。
2世紀前半の男王の墓もないのに。 >>52
>2世紀前半に王墓が存在しないからダメだって主張してるってことはお前が畿内説じゃないってことだろ
おまえはアホか。
弥生X期の住居跡もあるのに。 >>60
>おまえはアホか。
>弥生X期の住居跡もあるのに。
住居があったら邪馬台国かよ。
全国どこでも邪馬台国だな。
おめでたい。 >>59
ウソばっかりついてる人は
書き込んじゃいけないアレの人でないの? 隣のスレの1さん、あなたが変なテンプレを垂れ流していたのも原因の一つなんですよ。 >>62
アホか。
まずは記紀に卑弥呼が書かれてるから、さがしてみろ。
見つけられない人間が偉そうに言うな。
【天動説】記紀に卑弥呼はいない
【地動説】記紀のイの一番に卑弥呼がいる >>66
>まずは記紀に卑弥呼が書かれてるから、さがしてみろ。
根拠がない。
これまでみんな、記紀から卑弥呼を探そうとしてきた。
【地動説】記紀に卑弥呼はいない
【天動説】記紀に卑弥呼がいる 前のはテンプレ付きの方のスレ主がよって連打したんだろ。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの1を騙り偽スレを立てること数度
畿内説スレの1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている テンプレ50も貼り付けて2世紀前半からの王墓は?と簡単に論破されてる惨めなスレを本スレと言われてもね。 >>67
>根拠がない。
>これまでみんな、記紀から卑弥呼を探そうとしてきた。
見つけられなかっただけ。
【崇神がいつ頃の人物か】
これ一点で卑弥呼も決まる。
崇神が今有力の4世紀初〜前半の人物なら台与の即位まであと約60年。
崇神のほんの少し前の女性になる。
おまえ探したことあるか?ないだろ。
最初からいないと思って探してないだろ。
台与の条件は2つ
@崇神の少し前のトヨまたはイヨという最高位の女性である事。
A3世代ほど前にヒミ、ヒム、ヒメという最高位の女性がいる事
ならば一人しかいない。
4代懿徳天皇の皇后・天トヨ津媛だ。
そして卑弥呼はヒメ踏鞴五十鈴媛という事になる。
もう一度聞く。おまえ探してなかっただろ。
そんなやつが偉そうに言うな。
【天動説】記紀に卑弥呼はいない
【地動説】記紀のイの一番に卑弥呼がいる
お二人が住んだのは葛城だ。
わかったかアホwww wikiで「台与」
豊鍬入姫命説、豊姫説、2人のアマテラス説、万幡豊秋津師比売説、天豊姫命説
がある。
はい全員アウト。
崇神が4世紀初頭なら全員アウトwww >>73
ははん
あんた本スレの1に嫉妬してんだ
だからこんなニセスレ立てては憂さ晴らししてるのか
みみっちい限りだな 箸墓が卑弥呼の墓?
アホか、そんな瀬戸内海洋下人の土地に墓があるわけないだろ。
卑弥呼の墓は高天原(御所市高天)だ。
はい、今日も見ていただきましょう、卑弥呼のお墓。
https://goo.gl/xAWiP6 >>77
ワロタ
本スレの1に嫉妬してるやつなんているのかw
何を嫉妬するんだいw
50もテンプレ貼り付けて「2世紀前半の王墓は?」の1点で撃沈してる惨めな男、
それが本スレの1だよね。
俺はステ立て人ではないが、ここの方が畿内説本スレにふさわしい。
ここの>>1さんはむこうみたいにエエかっこ言わないしな。 万幡豊秋津師比売説
>卑弥呼をアマテラスに比定する場合の説。
>万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は高御産巣日神(タカミムスビ)の娘。
>アマテラスの息子アメノオシホミミと結婚し、アメノホアカリとニニギの母となった。
>アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を臺與に比定する説で、
>安本美典が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書1988)で述べている。彼女はアマテラスが
>主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり、安本はそれをこの説の根拠の
>ひとつとしている。
崇神4世紀初頭なら、万幡豊秋津師比売だけがセーフ キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの1を騙り偽スレを立てること数度
畿内説スレの1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである >>83
高御産巣日神(タカミムスビ)の娘が、
なんで崇神の約3世代前なのだ?
無理にもほどがあるwww
神武と崇神を同一人物とみるのか? >>80
日本最古の神社の聖域、神山です。
君のような穢れた人間は立ち入るな。 >>92
なんでこのスレに迷い込んできたのかな?
ここは君のような素晴らしい常識人が来るべき場所じゃあない
ニセ畿内説スレへお帰り >>89
さよう、同一人物、
もしくは、欠史八代+アルファは神武の取り巻き将軍たちを処遇したためであり、
神武と崇神の間は1〜3世代の僅かなちがいとみる >>96
>さよう、同一人物、
あのなぁ崇神は行燈山か西殿塚で決まり。
布留1期・4世紀初頭だ。
崇神のお母さんはイカガノシコメ
物部の女性だから崇神は纏向に宮を構えた。
神武のお母さんは物部か?
今時まだこんなやつ(崇神=神武)がいるのか。
話にならない。 >>95
>>97
>>98
畿内説の座を追われ嫉妬に狂うキウス君www 神武は2世紀だろ
九州の倭国大乱で逃げ出したんだよ >>99
崇神=神武に固定してるわけではない
崇神でなければ、その2-3代前に九州からやってきた人物だろう >崇神のお母さんはイカガノシコメ
>物部の女性だから崇神は纏向に宮を構えた。
ニニギの兄のニギハヤヒの後裔か、ふむふむ 畿内は筑紫倭国の分家でした。
女王は倭国の都である筑紫にいました。
終了 うん、
倭人伝の「台与」と目される万幡豊秋津師比売の二人の息子の一族郎党は、
相前後して東を目指し、やがて大和で合流して一大王権を樹立したってわけだ。 台与が万幡豊秋津師比売なら瓊瓊杵はどこに降臨すんだよ
そこから三代経過してから神武はそこから東征するんだぞ
崇神が4世紀後半くらb「になっちまうbシw >>101
倭国大乱での傭兵のような役割だろう。
王朝から招聘されたのではないか。 >>107
台与を万幡豊秋津師比売とする場合、
天孫瓊瓊杵の降臨は九州日向辺り(伝ニニギの墓は日向・西都原にあり)
そして三代で30年、
さらに神武の東征−美々津出発−があって、(ただし欠史八代はお仲間将軍たちへの論功行賞として)、そして崇神まで2-3代の30年、
ざっと、こんな感じになってしまうねえ 隣のスレのスレ主にとっては、よほどトサカにくる事柄らしい。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの1を騙り偽スレを立てること数度
1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている アニメたまごっつ観てみた?
あの女の子の登場する話は、
天孫降臨とか、そういう話だよ
天の下ナニヤラみたいな なんで畿内説じゃない人が重複スレ立ててんの?
嫌がらせ? 平気で重複スレたてて
開口一番から狂人とか何とか言ってる時点で
何者の所業かお察し 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 (2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前) こっちが本スレでも構わない。
ただ、番号は引き継いだ方が分かりやすい。 どいつもこいつも みんな
九州説だと 言うよ♪
古墳の中から ボワッと(ボワッと
内行花文が 登場♪
いつだって 忘れない
狗奴国は 東だよ
そんなの常識 タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ ハニワがちらり タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ ピーヒャラ ピーヒャラ 焦るきないせつ
ピーヒャラ ピ 鉄器が無いよ♪
あの子もこの子も みんな
遠距離通勤してる♪
有棺有槨の かげから
布留式土器が 登場♪
いつだって 迷わない
周濠に 馬具がある
そんなの 有名 タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ
ピーヒャラ ピーヒャラ 600枚もいらない タッタタラリラ
ピーヒャラ ピーヒャラ パッパパラパ ピーヒャラ ピーヒャラ 焦るきないせつ
ピーヒャラ ピ 銅鐸も大事だよ♪ 歴史はおもしろいね。
八十島祭、詳しい人いないかな。
○天の下のどけかるべし。難波潟、たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
オノコロ島は大阪湾にあったのかな。 おのころ島は博多湾の能古島ですよ。
イザナギは博多に上陸して王となり、住吉神社の縁起になりました。
博多湾沿岸が考古学的にも倭国王権の発祥の地です。
卑弥呼より後の隋書や唐書にも、倭国の都は筑紫と書いてあります。
卑弥呼の時代は伊都国が倭国の都でした。 >>143
いちゃもんつけるだけで反論できない畿内説が哀れ。
何も根拠を持たないからなあ。 大国主の国づくりとは巻向建設のことだと思う今日この頃
神話部分と歴史部分は並行進行だよな
桃太郎の話とキビツヒコの記述みたいな関係だな これは聞いた話だから真意はわからないが
陵墓に比定すると宮内庁管轄となり無暗に立ち入りや発掘・調査できない事は周知
関西で朝鮮系の遺物が多く出土した古墳はすぐに陵墓にして天皇の出自を葬り去る。
聞いた話だが、関西では有名らしい >>145
だから、根拠を述べよ。
そうでないとただの妄想。
あと、大国主は日本海側の出雲の王だから、纒向のような辺境には関係ないと思う。 >>147
なんだかすごく良くわかる話だ。
天皇家が一番朝鮮半島っぽいからな。 >>146
畿内説の大人げないカキコミは止めてください。
このスレでは失笑を買いますよ >>148
後半部分へのヒント:国譲り、出雲大神宮@亀岡 キウス連呼祖父さんここにも来てるんだ
関係無いのにな、
畿内説のイヤガラセには困ったものです。
畿内説も滅亡の一途ですかね。 まだここ埋まっていない
邪馬台国 畿内説Part219 [無断転載禁止]©2ch.net >>154
国譲りが現在の出雲の地で行われた、国(みやこ)を譲って出雲族は現在の出雲の地に退散した、どちらが正しいと思う? なるほど、これは明快な質問だ。
国を譲って今の出雲に移動したのかもしれないな。
もともとは筑紫にいたのだろう。
それなら、国譲りの後にニニギが筑紫に降臨することの意味が通る。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
大阪城の下に何かあるのかな。 神武はいなかったと思う、実際に存在したのはニニギとニギハヤヒだけだろう。 >>162
ニニギとニギハヤヒは王だった。
イワレビコは王ではなく、都落ちした王族の生き残り。 神武(崇神)が初めに上陸した場所だから。
上町台地の北端の丘地。 新生畿内説のスレ。
我こそはと思う者は、畿内説の何たるかを大いに語るがよい。 >>165
当時の地形は、北端が大阪城ではない。
南方の北、今の新大阪から河内湖に入り、その東岸に上陸した。
長脛彦に使いを出し、逗留を許可されるが、無断で生駒越えを断行して
攻撃され、壊滅的打撃を受けて古代平野川沿いに杭全、阿倍野で上町
台地を越えて大阪湾から闘争を図る。長兄、次兄を失ってイワレ彦が
後継指名を受けて軍団の長になった。
最初から勇ましい軍団長だったわけではなく、行きがかり上後継者に
なった三男坊なのである。
こんなことを栄光の初代の記録に書く理由は何か? 大阪に至る前も、あっちふらふらこっちふらふらと、まるで当てのないような
長旅で、また大和での騙し討ちなど、おおよそ初代にふさわしくない印象である。
「東遷」説というのがまだ健在らしいが、神武記に関してはそんな雰囲気は
かけらもない。
まあそもそもがそんな計画的首都移転のような事がこの当時の日本に起こるはず
などないが。あるいは、モーゼの出エジプトのような苦難の逃避行?或いは漢の
洛陽遷都のような大動乱の末のイベントか?それとも、第二次大戦時のソ連の移
動首都クイブイシェフ?どれにも当てはまらない。
ローマからコンスタンチンへの遷都とは、まったく事情が異なる。
後の崇神、応神の頃の怒涛の軍事的拡大が「東遷」というならば、それぞれの時代
でも以前最大生産力と半島領土と利権を有する九州を捨て去る理由は、相変わらず
ない。高地性集落の東漸からは、相当の軍事的侵攻があったことは伺えるが、本拠
地を放棄する理由もないし、それを圧迫征服するような巨大勢力もない。また、宇
佐に応神と神功を脇神とする宇佐八幡を置いていく必要もない。
「東遷」とはそれらしく漢字を並べ立てた、漢文脈の中でのみ存在しうるレトリック
でしかない。ずっと下った時代でさえ、せいぜいが藤原→難波→平城→長岡→平安程
度で、完全に同じ経済文化圏でしかない。二重政治時代一度は鎌倉に移ったが、公式
的な国王は依然京都であり、その後室町にはまたも京都に戻ってしまう。
ことほど左様に遷都とは難しい。半島戦争を継続しながら一方で東方へ遷都など、
あり得ない。 >>161
神武天皇が自ら日本列島自体の神を祀った云々に由来するのでは?
因みに、当時の場所が生国魂神社で、中世には石山本願寺〜大阪城天守閣が占めています。 >>163
ニニギ=ニギハヤヒ(ニギハヤヒの略称)
(大船団に数千人を伴って再渡来して九州の有明海から佐賀に上陸)/天火明(一度目の渡来時に号した。石見の五十猛海岸に上陸。出雲帝国のオオナムチ(帝王)から丹波を与えられた。)。
ニギハヤヒ/天火明=スサノオ/イザナギ/天御中主、、、 >>171
ニギハヤヒの御子がホホデミ(九州物部王家初代)。
神武天皇がホホデミの伝があるのもホホデミの子孫で当主(襲名した?)だからでは?
磐余彦、、、磐徐彦が原形では(大倭徐家の彦)? >>168
南方という地名は南潟
中島を挟んで北潟があり北岸である吹田の岸辺まで続いていた
南潟は淀川の氾濫原であって近世開削されて新淀川となる
いまの北区のあたりは大阪城(上町台地北端)から伸びる砂州であって
そこに難波堀江を開削して大和川を海に短絡させ古河内潟の水抜きに成功した
話はそれ以前
神武は砂州(難波之碕)を迂回して大阪城の東に上陸した
ここが白肩(潟)之津である
渡って生駒越えに失敗したあと上町台地を南下し狭山を通って水越峠をこえ奈良盆地に入った
別動隊は船で海を南下し吉野川を遡って宇陀から奈良盆地を攻めた >>168
>長脛彦に使いを出し、逗留を許可されるが、無断で生駒越えを断行して
なんだか妄想が入っているな。
そもそも戦闘前に交流がきちんとなかったから戦いになったわけで。 >>177
何が妄想?
最初から在地の王たる大勢力と、後発のルンペン逃避行のような四兄弟の
せいぜいが二個中隊クラスの部隊とでは勝負にならない。
日下以西の土地はすべてこの大王の支配下にあったと考えてよく、南方を
水路湾内に侵入した時点で長脛彦の滞留許可があったはずである。
そこで「美し国」への侵入を勝手に図ったから先頭になった。そうとしか
読めない。 >>174
八尾に「竹渕」「竹渕神社」がある。
神武天皇が竹の淵に隠れて難を逃れたという古い伝承のある神社。
真実なら河内湖南岸の大和川河口から古代平野川沿いに陸路最短コースを取り
一直線に後の住吉神社を通って海路岸和田まで行ったと推測される。そこで
部隊長たる長兄五瀬の死を迎えるという、神武記通りの流れとなる。
神武軍は基本的に水路。
そんな陸路を長躯水越を越えて奈良まで行くなら、途中のクニはどうやって通過
するのか。また、記紀にある熊野の大迂回〜難路の北上〜奈良盆地南端に根拠を
得るまでの、神武記の白眉はすべて虚偽となるのだが?それに、部隊を分かつ程
の大部隊ならなんで長脛彦に四兄弟のうち三人を失う惨敗を喫したのか。
九州から来たので、装備的には優秀な部隊のはずである。 また、足の遅い陸路でそんな長距離移動をするとなると、長脛彦の追撃を
なぜ受けなかったのか。やはり水上移動だからこそ、なんとか殲滅を免れ
たのであろう。
実際記紀にはない神武一行の行軍の記録が和歌山にはいくつも残されている。 そうか?トンデモ満載なのは本スレも同じじゃないか? 畿内は国津神を祭る神社が多い。
なのに神武が大王になった。
想像するに国津神を祭る氏族のうち裏切った氏族がいる。 >>184
ひんと。
金鵄(トビ)。頭ヤタガラス。 >>181
長髄彦は守る側だから、追撃なんてしないだろう。
神武が侵略者。
ただし弱っちい。 >>179
>水路湾内に侵入した時点で長脛彦の滞留許可があったはずである。
ここがおかしいんだよ。
まともな交渉はニギハヤヒを介してしか行ってないよ。 神武がニギハヤヒと対峙した時、八咫の鏡など三種の神器ではなく天の羽羽矢を天神の証として示した。
八咫の鏡は筑紫伊都に置いてきたのだ。
そして八咫の鏡は、4世紀の景行天皇の時に筑紫の女王である神夏磯姫の所有物として記録されている。
筑紫に王権はあり続けたのだ。 神武東征(実際は吉備東征、伊勢西征)のようなヤマト征伐、外部勢力によるヤマトへの侵入が考えられるタイミングは2世紀末しかないんだよ。
その時代の王は卑弥呼。神武が実在したとしても卑弥呼配下の一武将でしかない。
卑弥呼と元から対立していたのは狗奴国、卑弥弓呼。
卑弥弓呼は3世紀中頃までは存在するしね。
ニギハヤヒがヤマトの地を譲るとか作り話としか考えられない。
ニギハヤヒの実在すら怪しい。
ニギハヤヒの末裔を名乗った集団は、狗奴国を裏切って卑弥呼側に寝返った奴らだろうね。 肥国出身の卑弥呼の王政に対して、神武ら天孫族は筑紫を離れた。
ニギハヤヒのもとに身を寄せるが、ニギハヤヒが国を譲ったなどとは書いていない。
ただ単に居候しただけである。
自分のアイデアに矛盾するものはなんでも否定するとは、能無しである。 >>194
筑紫と畿内を分けて考えることができないと、グチャグチャになるという良い例である。 >>197
誰かって>>1以降読めば
卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛命のトンスル東遷厨のキチガイ爺じゃん 誰が誰になりすましていることを想定しているのかイミフ >>204
誰が誰にかって>>1以降読めば
卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛命のトンスル東遷厨のキチガイ爺が名無しの畿内説にじゃん 畿内説同士で仲良くしないと、九州説どころか阿波説にも負けるぞw 卑弥呼=媛蹈鞴五十鈴媛命
どう見ても畿内説だな。
仲良くしろよ。 >>194
現に天孫降臨神社があって、その過去帳に正確に記録されている。
神武より実在度は上。 >>208
>畿内説同士で仲良くしないと、九州説どころか阿波説にも負けるぞw
九州説も、畿内説同様、阿波説の遊び相手なんですよ。 @阿波 阿波さんは一人で孤軍奮闘しているんでしょ?
強がりは止めておくことですね。 >>214
奮闘なんかしませんよ 遊び相手に。 @阿波 邪馬台国畿内説というより大和を中国人が蔑称で邪馬台国って言ってたのが正解だと思う 卑弥呼みたいな蔑称日本人が名乗る訳ないしおそらく公子を卑弥呼って中国人が蔑称付けた ホト(媛)タタラ五十鈴媛命は大倭国の初代大王天村雲命(神武天皇のモデルの一人目)の后。
父親は出雲帝国の東王家、富/向家の当主で帝国の第8代の副王、役職名はスクナヒコで在った
八重波津身命。
(東王家の宮殿は神魂神社の場所そのもの。別邸の一つが三保神社(ここには古志の沼名川媛と御子の建御名方富命(富家の出身を表す)と御女の三保須須美命がお暮らしでこちらに逗留中の八重波津身命が
謀略を以て渡来人らに殺害された事で后の沼名川媛は御子の建御名方富命を連れて実家の古志国に帰郷(建御名方富命は長じると信濃地域に入って平定、開発。諏訪家(出雲の分家)を建る)。
ただ、御女の三保須須美命は父親の慰霊の為に三保の屋敷に居残って父親の御霊祭祀したのが三保神社の起こりという。所以に事代主神社の総本宮と言われる))
(古代出雲帝国では東西の2王家が並立して歴代の主王のオオナモチと副王のスクナヒコを交代で就任する習わし)
東王家、富/向家の八重波津身命と后の摂津三島(大阪府高槻市辺り)の生玉依媛命との御子が、
天日方奇日方命と媛(ホト)タタラ五十鈴媛命と五十鈴依媛命
出雲某大事件?により八重波津身命が殺害されたため、
生玉依媛命も摂津の三島の実家に子どもたちと共に帰郷(逃避)
いくら母親の実家とは言え、出雲の高貴な血筋の御子がいつまでも母方のじいさん婆さん、いとこ(当主?)らの下で居候の肩身の狭い生活をする訳にも行かず、
天日方奇日方命は出雲帝国の植民地の一つで在った大和の葛城地域に移住して
登美家(元々、富家出身ゆえ)と号して独立。
父親の御霊を神祠に祀り氏神とした(鴨都波神社(葛城の下鴨神社))
それを頼って同じく出雲某大事件で殺害されたオオナモチ(主王)の八千矛命の子孫ら(多祁津媛命との御子の味耜高彦の御子、多祁津彦ら)も葛城の南部に移住してきて
高鴨(賀茂)家と号して、味耜高彦他を神祠に祀り氏神(高賀茂神社ほか)とした。 >>223
因みに、秦国からの渡来人某らから時代は紀元前の3世紀終わり頃の中国の秦帝国末期〜劉邦が建国した前漢帝国の頃の事だった(約2300年〜2000年前)と推定〜同定できます。
因みに、前漢帝国が滅亡して外戚の王蒙が「新」帝国を建てた(前漢帝国を乗っ取り)のが西暦の紀元元年なので、
歴史上のベンチマークとして分りやすいかと思います。
この新帝国も15年程で崩壊。「中原に鹿を逐う」権力勢力争いを制して後漢帝国を建てたのが前漢の王族の末裔の更に分家の分家、、、末端の小さな田舎の領主の更に四男で在った劉秀。光武帝。
この時代、西暦一世紀には仏教と共になんと成立間もないキリスト教(景教)が中国に伝来 巫女として著名な「卑弥呼」は、古代韓国語で「ビミファ」と読まれ,ビミは「日」「光」,そして「蛇」の意味があり,ミファは神と言う意味となる,邪馬台国は韓人国歌だろう >>225
古代語は倭と半島であまり違いがなかったらしい。
だからと言って、国はちゃんと別だった。
同じなら同じと魏志に書かれたはず。 甕棺天孫族を追い出して、肥国卑弥呼が伊都に入った。 追い出したなら追い出された先に甕棺墓が出土するはず 前原あたりは波多、波多江、波多津、秦だらけだぞ、徐福様を馬鹿にしてるのか 徐福が出た段階で、「ああ、高卒のバカなんだな」と。 >>1に「狂人は書き込み禁止」って書いてあるのに…
ここでいう狂人の定義は「神話と歴史の区別のつかない人」なw 畿内説のスレで畿内説の問題点を指摘したらレッドカードなんだとさ。
畿内説は批判に耐えうる説ではないということだ。 やっとマクモニーグルの本読んだわ
卑弥呼の墓は下関の安徳天皇稜なんだって 何を持ってニセというのか。
無駄なテンプレを貼りまくれば本物になれるのか。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
主語が女王国や女王卑弥呼でない場合は読み手に知らせる為に「諸國畏憚之」のよう主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている。」との意味になる
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは書かれているように自女王國以北の諸国である。
女王卑弥呼は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた、つまり
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と述べて王の所在を明らかにしている。
女王卑弥呼は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた。
以北はその出発地を含む。
陳寿は畳み掛けて同じことを別の言い回しで念を押すのが好きらしく、自女王國とも書いており、これも女王国から、という意味である。
つまり、女王国とその北にある国々を伊都国とその北の国々に置いた一大率で支配したのである。
まわりくどい表現だが、要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけ。
ここからわかることは、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。 「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
まとめると意味は
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったりしたら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や滋賀になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるという文章と大いに矛盾してしまう。
里程などが記載されているのは、対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
それらの国々を、陳寿は女王国以北(女王国を含む)と呼んでいた。
これは、女王国(邪馬台国)が福岡県内であることを示している。 >>242
畿内説じゃない奴が畿内説スレ建てたら
ニセスレだよな。
wwwwwwwww 正直、立てた人が開口一番で狂人がなんだかんだと言ってるようなスレは、早く消えてほしい。 「特置一大率(檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史)」
一大率以降は一大率の説明文だね 女王が置いた一大率の説明文ですからね
自女王國以北 特置一大率・・・女王が自女王國の北側に一大率を特別に置いた。
檢察諸國・・・女王が諸国を検察させていた。
常治伊都國 於國中有如刺史・・・女王が伊都国で(一大率を使い)治めていたのが刺史のようだ。 倭人が韓国南部(任那日本府)を支配していたんだよ
そして韓国南部からは日本産のヒスイが多く出土してる
つまり奴隷貿易だよね
日本→ヒスイ→韓国
日本←農業奴隷←韓国
こういう貿易が成立してた
奈良の渡来人は農業奴隷の末裔だよねえ 農業奴隷が奈良に住み着いて豪族になったんだよお
近畿地方にあった鉄器工房は2世紀〜3世紀に破棄されてるもんね
そりゃ奴隷に鉄器持たせるわけにはいかないからねえ
古墳も九州の古墳からは金属器やヒスイがたくさん出てくるのに
奈良の古墳からは木製品と土器しか出てこないんだよお
被支配地域だってわかるよねえ >>254
違います
韓国からの渡来人が天皇でした
倭奴は被支配層
貴族は扶余族 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) >>257
古代中国からの渡来人某(と引率してきた数千人)と出雲の分家宗像家の市杵島媛命が結婚して生まれた某氏が天皇家(と貴族の祖) この国はある意味では北朝鮮以上の国民を騙す国家だと思う 北朝鮮以上に国民を騙し詐欺師の様に搾取する
★★★★政治家・マスゴミ・が隠す日本の真実!★★★★
https://www.youtube.com/watch?v=pX9COqRfCSU
↓ ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?v=A-cKT-sKly4&;;list=PLTEQ4LklraVRq1fq3xbolEhHFm4lhBYVM&index=1
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 畿内には大きな国があったのは確かだろうがそれは魏志に書かれている邪馬台国とは別の国 >>263
同意します
別に畿内をド田舎の後進地域と言ってるわけではない
ド田舎のくせに邪馬台国だとゴリ押しするのを止めろと言ってるだけ 本スレの終盤、
畿内説の浅学なかたが暴れてましたね!
参加しようとしたら、1000こえてました。
残念と言うより、相手にしなくて、良かった >>267
そうい逃げてるスタンスは、流石に
いかんでしょ 荒らされるのが嫌で人がいない深夜まで待ってスレ立てしようとしてるテンプレくんこそ何がしたいのか >>270
あんた完全に駄目だ
本スレでお相手します >>270
あんた完全に駄目だ
本スレでお相手します 九州説のスレ立てて好きなだけ自己主張すればいいのにな
なんでやらないんだ? 家族にも愛想をつかされた寂しい老人が誰かにかまって欲しいから >>278
立ってるが、畿内説の方が論破され逃げるから。
畿内説のスレが盛り上がるのは残念な事だよ・・・
畿内説のスレは応戦一方だから、
説の探究がが進まないどころか、スレ主独りぼっち 九州説のスレは大きな異論もないから、平和なんだよ。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 しかし前スレで、何故申告しなかったのかな?
283日本@名無史さん2017/09/15(金) 23:57:54.60>>285
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 どんなに無知で無能でも
嘘ついたり自演したり成り済ましたり
粘着し続けたりとかしてなかったら
まわりの態度も随分違っただろうにね 無能は自分の器を量ることができないから無能と呼ばれるんやで >>289
畿内説の矛盾を悟ったからじゃねーね。
俺なら、意地でも貫き通すか、
指摘された時点で スレの途中でも 以下抜けてましたと言う >>289
畿内説の矛盾を悟ったからじゃねーね。
俺なら、意地でも貫き通すか、
指摘された時点で スレの途中でも 以下抜けてましたと言う 倭人伝の官名とニニギ前後の天孫の対応
伊都国 ニキ = ニニギ(アマテラスの孫)
投馬国 ミミ = アメノオシホミミ (アマテラスの子)
壱岐国 ヒコ = イキツヒコネ(アマテラスの子)
対馬国 ヒコ = アマツヒコネ(アマテラスの子)
不弥国 タモ = ホアカリクシタマ(アマテラスの孫)
奴国 ジマコ = 対応不明
ほぼすべてがニニギ前後の天孫に比定 つまりニニギと垂仁は同時代の人間
この謎は同時進行していた九州の歴史と畿内の歴史を縦に連結してしまったために起こった
畿内の歴史の前時代に九州の歴史を置いてしまった
だからニニギがとてつもなく古い時代の人間になってしまったわけだ 真の天孫族東征は7世紀
白村江の敗戦により九州が唐に占領されたことで
天孫族は畿内に移住した
つまり九州から逃れて亡命したわけだ
天孫族東征前は、物部、葛城、蘇我などの畿内有力豪族が勢力争いをしながら大王位についていた
それは帝記が蘇我邸宅にあったことや
倭王旨の七支刀が物部の神社から出てきたことでわかる
それまでマイナーな神だった天照大神が、急に皇室の最高神になったのも7世紀だ
それまで伊勢神宮など軽視されていた >>298
ニギは筑紫の日向の伊都の官(卑弥呼の頃は天孫族は卑弥呼の下のナンバーツーだった)からニニギでいいだろう。
だがその他は、ミミは王の称号で、他にも記紀には数人の名前がある。
ヒコに至っては、豪族レベルでもよくある名前になってしまう。
まあそれは置いておいて、ニニギらの日向三代の神代が3世紀の卑弥呼に近い時代のことであるだろうというのには賛成だ。
倭国大乱の前の男王70〜80年が日向三代だろう。
伊都国最初の王墓である三雲南小路遺跡がニニギの墓だろう。
その祭殿である細石神社の祭神は妃の木花佐久夜毘売とされているが、実際には王と王妃の墓であることが発掘によって判明した。
時代的には漢委奴国王印をもらった頃であり、倭奴国とは博多ではなく糸島の伊都国のことであったこともわかる。 >>302
壱岐国の官ヒコ = イキツヒコネ
ただのヒコじゃない
「イキツ」まで一致 508日本@名無史さん2017/09/20(水) 18:15:36.15
畿内説は
宮内庁主導の国家プロジェクト
皇国史観が崩されるから
509日本@名無史さん2017/09/20(水) 18:17:48.32
宮内庁に入庁するには畿内説は必須
関西の大学出身者が多いよ
510日本@名無史さん2017/09/20(水) 18:24:25.82
関西の大学の日本史の教授は、宮内庁に強いパイプ持ってるから
宮内庁の就職ワクを持っているらしい。
学生も将来のため畿内説に染まる。
奈良県教委もしかりだがね。 511日本@名無史さん2017/09/20(水) 18:50:48.00
考古学の学者の学歴調べると面白いな
関西の大学の出身者のオンパレード
畿内説の学者が多いのはあたりまえだな >>307
日本の考古学は畿内説を証明することが目的で始まったようなもんだから
畿内説を擁護しようとしてのこじつけが多い。 九州説にトドメを刺したのは九州の考古学的研究が進んだからなんだが >>311
トドメとか、妄想だよね。
バリバリと発掘の成果が出てるよ。 関関同立の頭脳は通用しないな
2流大学で畿内説、論じても素人に負けるよ 日本語でまともに論じることができない奴らに言われてもなー 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 >>316
早稲田とか関関同立とか、バカ大だろ。
東大か京大にしろよ。 >>312
硯が発見され3世紀の伊都国での文字の使用が事実だと確認されるなど考古学的研究が進んでますねw 早稲田や関関同立をバカよばわりできるやつは本物のバカだけだな
旧帝大クラスに行くやつは頭がいいから他人をむやみにバカよばわりしないからな 東大と早稲田の文献史学の一部で九州説が残ってるって本当ですか? そういう文献史学の学者は考古学の知識をどこまで持っているんだろうか? みんな学問論議交わしとるんやから
大学ぐらいは出とるやろ
別に学歴の話してもええんとちゃうか Q:神武は実在したか否か。
A:神武は実在だがその時代が女王国であった。
これは古代史における地動説だ。 >>326
早稲田は北朝、東大は南朝(びっくりしただろ 1、キャノンの色の研究では
朝貢の織物の赤はアカネだそうだ。
ベニバナの歴史では3世紀に日本では栽培されてないそうだ。
2、海遊録では対馬から江戸まで対馬藩真文役雨森芳洲が随行しており
、航海の方位は間違ていないそうだ それにしても『福島県 民家園』だよ
『旧筧家』というものがあるけど忍者か何かじゃなかった?
「旧筧家は、旧会津街道と旧米沢街道の分岐点に建っていました。」という説明があったり、実在の人物だったのかな 周旋は「一周すると」という意味で
倭人伝の記述で周旋に対応するのは奴国から奴国まで
奴國〜不彌國〜斯馬國〜已百支國〜・・・・・・〜烏奴國〜奴國
對馬國、一大國、末廬國、伊都國は周旋のルート上になく
国邑間の距離も別に書いてるから周旋には入らない。 昼スレ立てするとテンプレを罵倒されるから人がいない夜中まで待つのがスレ主スタイル だから妨害するんだよね
人として矮小だよね
そういうこと
するのは 持論の間違いを指摘されて、それに反論できないときのキナイセツくん
・それはテンプレに書いてある!
↑テンプレはスレ主の勝手な意見で何の根拠にもならない
・前スレでもう答えた!
↑ほんとうに前スレで答えたのか、証拠は示さない
・キュウシュウセツは悪口ばかり!
↑論が否定されてるのを悪口だとすり替えて逃げる 鉄器の無い領地に
鉄製武器を大量に副葬した古墳。
領地に鉄器が皆無の理由は、北部九州邪馬台国と敵対したから。
第二次大戦末期の日本と同じで(金属類回収令:昭和18年8月12日勅令第667号)、
領内の金属器をかき集めて鉄製武器に転用し尽くした。
鉄器古墳の主が先に君臨していて、それから邪馬台国と敵対したのか。
それとも
邪馬台国と敵対した土地が鉄器を使い果たして敗北占領され、そこに鉄器古墳の主がやって来たのか。
その答えは、鉄鏃でわかる。
ある程度大きな鉄器はかき集めることが出来ても、
細かい鉄鏃を見つけ出すのは容易ではない。
つまり、鉄鏃すら皆無の遺跡では、鉄鏃軍隊による教練が行われていなかった。
よって、鉄器が皆無の遺跡は、北西にある銅鐸環濠集落と同盟して、
領主が作ったのは、北西側の古墳群。
そこに鉄製武器の邪馬台国軍が進駐してきて、南東側に古墳を新築した。
ということが鉄鏃からわかる。 見つけ出すのが容易ではない細かい鉄鏃が出ないなら
軍も進駐しなかったんだろ 四道将軍
住人もろくにいない湿地の無鉄器倉庫群に軍隊を張り付ける必要はない >>373
4世紀まで畿内と吉備は敵国だったんだから邪馬台国が畿内のわけないよな 吉備へ向かったのは吉備が目的地じゃなくて
重要拠点である吉備との間にいる残党の掃討が目的で吉備に凱旋帰還な。 >>374
その時点で、あっちのスレのテンプレである瀬戸内勢力の総花的共立が崩壊するんだが。 王都を鶴橋とかプサンの国際市場みたいなところをイメージしてるんじゃないかな それで纒向の倉庫を都があった証拠と言い張っていると? >>382
考えられるのは3パターン
・出雲、吉備の圧迫に対抗するために銅矛勢力が女王を共立し魏と結び生き残りを図った
・吉備王権が銅矛勢力を支配下に置き出雲王権に対抗するため魏と結んだ
・出雲王権が銅矛勢力を支配下に置き吉備王権に対抗するため魏と結んだ 吉備と出雲になんかあんの?w
畿内ウリジナルが不可能になったから
吉備やら出雲やら持ち出しているが、なんもないしw >>386
畿内を包囲するように分布して、一気に奈良になだれ込む奴だな。
チェスをやってる人には
九州勢が畿内を突き崩すさまがよくわかる。 >>388
>近畿第X様式土器の分布範囲も重ねると面白いかも
東阿波型土器の分布域ですね。 @阿波 邪馬台国畿内説Part281が1000を超えて、掲載を止めれたので、こちらに転写保存。
281の>>217
>ヤマトは本州の意味 沖縄人は本土の人間をヤマトンチュと呼ぶ<
「大和」の文字の元は、倭国の地方の市を監督する「大倭」であり、
「ヤマト」という音韻の元は、筑紫の「邪馬=ヤマ=山」部族の「入口=門=ト」の場所、
を示した可能性が高い。 海沿いはどこも早くから発展しているから、奈良盆地みたいなところは最後のフロンティアみたいに各勢力に攻め込まれて草刈り場になるんだろう。 海沿いは河口になるから、どうしても上のほうでウンコとか流した水になっちゃうからね
祭祀には向かない 転写の続き
281の>>218
>邪馬台国 吉備 狗奴国 畿内 <
「南→東」だから×。
>土器や墓がそれを示してるよね<
庄内は、三雲が最も早く、筑紫が先行。
前方後円墳は、壹與の遣使が武帝の晋朝から「天円地方」の思想を学び、
モンゴル〜高句麗の前方後円墳の伝来に拠っての、
那珂八幡付近が始まり。
>楯築古墳が卑弥呼の墓でしょうね<
「南≠東」に拠って×。 鬼道と呼ばれた張魯の五斗米道でも
宗教活動の中心は治病であり、病気は過去の罪過の結果であるとされた。
そこで祭酒は、病人を「静室」に入れて罪過を告白させ、病人の名と罪過を書いた紙片を
天・地・水の神々(天官・地官・水官)に捧(ささ)げ、あるいは『老子道徳経』を唱えさせるなどして治病した。
水が非常に重要なんだな >水が非常に重要
まさに伊都だな。
千戸に制限。
玉造り工房などは下流に位置して
高祖宮や王墓群は上流に位置。
完璧だ。 住居の無い湿地帯の水?
見たらわかる。
死んでる水やん!w >>406
伊都でも だな
高祖の怡土城は8世紀ね だね。
2万戸の奴国は考古学的にも住居と工房だらけで水は汚かっただろうし
千戸制限のある伊都は水がきれいだっただろうね。
あ!
住居ゼロの倉庫群は
それは集落でもなんでもないから! 纏向遺跡は武器も農具もなく祭祀関係のものしか出ない
それまでの日本列島で造られた事がない特殊な弥生時代〜古墳時代初期最大の都市だね それは阿波や唐古で出てるものでしょ
>それまでの日本列島で造られた事がない
はい、ダウト 時期的に話題が出ないだけで銅鐸は大事にされてるよ
宮内庁にも所蔵されてるし 鉄器の無い領地に
鉄製武器を大量に副葬した古墳。
領地に鉄器が皆無の理由は、北部九州邪馬台国と敵対したから。
第二次大戦末期の日本と同じで(金属類回収令:昭和18年8月12日勅令第667号)、
領内の金属器をかき集めて鉄製武器に転用し尽くした。
鉄器古墳の主が先に君臨していて、それから邪馬台国と敵対したのか。
それとも
邪馬台国と敵対した土地が鉄器を使い果たして敗北占領され、そこに鉄器古墳の主がやって来たのか。
その答えは、鉄鏃でわかる。
ある程度大きな鉄器はかき集めることが出来ても、
細かい鉄鏃を見つけ出すのは容易ではない。
つまり、鉄鏃すら皆無の遺跡では、鉄鏃軍隊による教練が行われていなかった。
よって、鉄器が皆無の遺跡は、北西にある銅鐸環濠集落と同盟して、
領主が作ったのは、北西側の古墳群。
そこに鉄製武器の邪馬台国軍が進駐してきて、南東側に古墳を新築した。
ということが鉄鏃からわかる。 銅鐸は阿育王宝鐸と見なされて寺院造営の際の瑞祥とされた。
また、中世以降の梵鐘には地中・水中から出現したものや
龍宮など他界と結びつく伝承をもつものが数多くみられ、
異界とつながる特殊な力があるとされていた。
銅鐸にも異界と結びつく伝承をもつものがあり、
人々から銅鐸の出土は梵鐘の出土と同様なことと見られた可能性が高い。
梵鐘と同じく銅鐸が異界とこの世をつなぐ特殊な力をもつ器具と観念されたことによって、
寺社の造営に際しての銅鐸出土はその地の聖性を証明することにつながった。
後世の銅鐸を知らない宗教者でも聖的なものを感じたんだね 平城京が放棄されたのも
汚水問題による疫病という説があり
死に水になりやすい地形であることがわかる 住居の無い湿地帯の水?
見たらわかる。
死んでる水やん!w >>425
でも紀元前後の九州の矛は国産みに登場するんだよね。
列島を制覇したのがどこの勢力かは容易に理解できる。 そうして征服した土地が博多湾の能古島。
これが倭国の創生神話。
倭国がどこにあった国かわかるよね。
もちろん倭国女王である卑弥呼もそこにいたよ。 まあだいたいの神社は矛を祀ってることはあっても銅鐸は祀ってないからな 九州の矛じゃないだろうw
大国主の国譲りでは広矛を差し出すけど 九州の矛が儀礼用に大型化したと、畿内説が叫んでいるじゃないか。
そのまま全国に波及したんだよ。 総じて、神道の祭祀は矛とか鏡とか、九州北部のものがそのままシンボルとなっている。
祝詞では筑紫の日向のイザナギの事績を歌い上げる。
それが日本の伝統なんだよ。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す 時代により形式は変化するけど、要するに誰かが矛で京都を征服したんだな。 >>438
お名前を申し上げるのも恐れ多いですが、イザナギの大神が、九州の宮崎の橘の小戸の阿波岐原でお祓いなされた時にお生まれになった祓戸大神等よ、
もし諸諸の禍事や罪穢れがあるならば、お祓い下さいお清め下さいと申し上げる事をお聞き届けくださいと恐れ多くも申し上げます。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>438
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 九州の矛じゃなかったらどこの矛なんだよ?
銅鐸が消えて突然変異で遥か外国の矛が入って北ってか?
いい加減にしろ >>443
>九州の矛じゃなかったらどこの矛なんだよ?
阿波の矛 @阿波 突然変異w
ずっと後の唐の律令を模範とした律令制の時代なんだよ >>445
北部九州は倭国(阿波)の出先機関 @阿波 「竺紫(ちくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られるので、
後代に、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのだろう。 @阿波 簡単にいうと天竺から筑紫島を通ってきたことにしましたということ 渡来人が博多に倭国の都を築き、そこから瀬戸内海を通り畿内に侵攻したという意味だね。 人じゃなくて神
皆いろんな言い伝えをもってるだろうけど
ケンカしないように今度からこれでいくことに決めたからということ 大祓詞は中臣祓詞、中臣祭文で不比等の親戚が作った話だから
そんなに古くはない 古事記は時系列的に書かれている
最初の記述ほど過去で後の記述ほど現代に近づく
国生み神話は
1淡路島
2四国
3九州
4壱岐の島
5対馬
6佐渡島
7本州
の順番で登場してくる、淡路島が単独表記で最初というのもびっくりだが
これも四国と見れば四国が最初だ
本州は最後なのだ
この種の話だと九州と畿内に大別されている
しかし古事記の国生みは冒頭に四国を挙げる
この差はいったいなんなのだろう 閑話休題
徳川家康が関ヶ原の戦いにて天下に名を上げるや
我が名を松平元康から徳川に改名し
阿波藩も急遽、徳島藩とするよう命じた。(「道は阿波より始まる」岩利大閑)
この徳川や徳島という名称由来は、
佛祖統紀の彦子神武が、竺紫(とくし)城にて即位という部分や
竺紫(とくし)の日向(徳島県)を由来とする可能性が高い。 @阿波 こういうことを提示出来るのは、何故か「阿波」だけ。 @阿波 淡海=阿波の海
阿毎氏=阿波氏・海人氏(長国の海洋族) @阿波 阿波人って大川隆法もそうだけど
そっちのほうに異常にマニアックな人間が多い気がする 国生みは能古島(おのころ島)からだろう。
倭国が博多湾政権から成長したからだな。 スレ番号いつも滅茶苦茶だなw
それで銅鐸銅矛のいいわけまだあw 倭国は銅矛圏、その他の倭種の倭地は銅鐸圏で決定だなw キウスとかどうでもいいから
おまえは矛なし銅鐸圏にどう邪馬台国できたかいいわけしろよw 九州の矛を持った集団が畿内を征服したんだよね。
銅鐸は滅んだしね。
内行花文鏡を用いた祭祀も畿内を席巻したしね。
筑紫伊都の倭国が西日本からさらには東日本まで征服した様子がよくわかる。 >>487
そうだね、、、昔は朝鮮も日本人の物だったんだね。。 >>492
昔の話と今の話は別の話なのではないかな。。。 >>488
椿井大山古墳と言って
3世紀中ごろの古墳から見つかっている でも八咫の鏡は筑紫がオリジナルで、中国にも朝鮮にもない、倭国の王位の象徴だよ。
平原遺跡には三種の神器が揃っている。
伊都が倭国の都であった証拠だね。 >>488
椿井大山古墳と言って
3世紀末ごろの古墳から見つかっている
三国時代の30年後 >>500
つまり、その少し前の卑弥呼の時代には、九州の矛を持った氏族によって畿内が征服されたということ。
魏志倭人伝の時代、畿内は九州勢力による開拓の真っ最中。
平たく言えば植民地。 >>499
昔は見ることができ、記録された文様の記述と一致する。
大きさも八咫あるし、その大きさの鏡は平原遺跡の鏡だけ。
また、伊勢の神宝の鏡の容器の大きさとも一致する。 カスがニートだのあんな煽ってるのは無視でよいがさ
自分に跳ね返るだけよ 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>510
一尺六寸三分や一尺五寸は遷宮の時作り替える外箱だろ 畿内説論破しちゃっていい?
一大率は伊都国にあったと倭人伝に書かれている
また伊都国には郡使が常駐してたともある
しかし伊都国の比定地とされる糸島からは大和勢がいた痕跡はない
つまり郡使の認識で邪馬台国は大和勢という主張は否定される
郡使が邪馬台国と認識していた国は糸島に痕跡を残している勢力のどこかであると考えるのが妥当
糸島より南にある勢力のどこかであるが残念ながら絞り込みはまだできていない
いずれにせよ畿内説は完全に否定される 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>517
そうなんだが、考古学的に糸島の「南」に邪馬台国の様な大国が見当たらないから、困った事になっている。
遺跡が無いわけではないが、伊都国同等又はそれ以上の出土内容がある遺跡が九州には無い。
だから、畿内説等の本州のどこか説か、邪馬台国自体が連合国名とする説か、となってしまうのが現状。 大宰府、八女、博多、佐賀、熊本、久留米、そして宇佐、日向
、北九州、どこも可能性があるが、おれも平原だと思うよ >>517
>伊都国の比定地とされる糸島からは大和勢がいた痕跡はない
内陸の糸島三雲地区は博多湾岸の土器相の変化から遅れているが
糸島水道の今津湾、船越湾周辺の遺跡には福岡平野産の庄内甕、布留系甕が多数搬入されている
また出雲の玉作り工房や備讃瀬戸内系の製塩土器、瀬戸内東部の飯蛸壺が出ている
糸島より南の影響は受けていない >>527
「丗有王、皆統屬女王國」
伊都国の中心部から出てないのだからいくら周辺から出土しようが無意味
いろんな地域から伊都国の中心部に人が来てるのに大和からは来なかったことを意味する
世々王がいてみな女王国に属していたのに、女王国の人だけは中心部に入れてもらえなかったんか?
無理すぎる屁理屈 つまり伊都国が倭国の中心で、敵対していた狗奴国も同祖なんでしょ。 >>529
内陸の糸島三雲地区は北部九州の動きに着いて行っておらず
北部九州にも影響を与えていない
弥生中期以来の楽浪土器の下限もTB期
伊都国には倭の女王とは別に従属している名も記されない王がいる
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露」
津の土器相の変化が重要 九州北部が倭国だから、その中の王と認めてもらうために魏から金印をもらったんだよ。
伊都は特別な聖地なので、他所からのモノをそう簡単には搬入できなかったのだろうね。 列島内で最も富と権力が集まっていたのが筑紫だからね。
それをめぐる争いは大変だったろうね。
その中で卑弥呼が君臨することで一時的にも平和が維持されたんだね。 >>532
伊都国は周辺国に影響を与えていないと言ってるだけ
何の反論にもなってない
「丗有王、皆統屬女王國」の記述とはどうやっても矛盾する
>津の土器相の変化が重要
一大率が管理してる港がどこにあったのか確定してから言ってくれ
さらにその港が大和勢に支配されてたことを証明してからにしてくれ 北部九州の殺傷人骨は朝鮮工人による金属器製作が始まる中期のもの
弥生終末期からは、畿内から博多湾沿岸に至るまでの斉一的文化の動きがある >>536
だから糸島に「丗有王、皆統屬女王國」してるような王はいるが遅れた地区がある
一大率は諸國を檢察している >>538
伊都国なんてどうでもいい遅れた地域とディスってるだけ
反論になってない
事実として、いろんな地域から来た人が伊都国中心部にいた
帯方郡からの使者もいた
しかし大和勢はいなかった
伊都国の王と大和勢は接点さえないのだから「丗有王、皆統屬女王國」の記述とはかけ離れている >>539
伊都説は倭国を閉鎖的な極小倭国と連呼しているだけ
影響を受けてもいない糸島の南に妄想している者もいる
遅れているというのは糸島の内陸部が畿内から博多湾沿岸の動きに遅れているということ
韓系の土器は搬入されている >>540
畿内説は「丗有王、皆統屬女王國」の記述に矛盾していることに反論なしということだな >>541
畿内説は「丗有王、皆統屬女王國」の記述に矛盾していないが
伊都説はトンデモ読みをしなければならない >>539
あなたは、どういう立場から発言しているの?
畿内説?九州説? >>541
その王って卑弥呼のはずでしょ。
倭国に他の王なんていないでしょ。
狗奴国に自称王を除き。 丗有王 三雲南小路、井原鑓溝
皆統屬女王國 平原女王墓、内行花文鏡 王家って保守的だからねえ。
周りより文化的に周回遅れに見えるんでしょ。 鉄器が入手し易い=首長から分配を受ける必要がない=国の形成が遅れる→倭国に従属する 鉄材は全て朝鮮半島から壱岐対馬経由で輸入
鉄器が普及している
=伊都王家の下で結束して倭国形成して、朝鮮半島から一括輸入一括分配
鉄器ゼロ
=屁理屈こねるしかない、みじめな野蛮人w>>549 もともと倭国は、対馬海峡の交易を独占した天津神を中心に博多湾沿岸に成立した。
3世紀においては伊都がその王都だった。 >>550
弥生時代後期には、九州北部地域の各集落において鉄刃農具をはじめとした各種鉄製農耕具が保有される。
しかし、大型住居跡からの鉄器数が群を抜くような状況にはない。
また、大型鉄斧や鉄刃農具などが大型住居跡に集中するものでもなかったようである。
九州北部地域の集落では、構成員の社会的地位によって
鉄器の保有に著しい格差をみることはできないといえるだろう。
村落内有力者によって各種鉄製農工具が入手され、
それらが分配されたという推測を困難にする結果である。(野島)
閉鎖的九州説は日本人学者の論文を読まない
妄想だけだから脳が止まってしまっている 何を批判しているのかよくわからないな。
卑弥呼の統制の元に公平に鉄器を分配する社会が形成されていたということでしょう。
平原遺跡を見れば、女王一人に膨大な富が集中していたことはわかる。
その代わり、村落単位程度では有力者が独占するような権力を持ち得ない、中央集権化が行われていたということだよ。
鉄器そのものがない未開の地とは比べ物にならない。 >>552
>村落内有力者によって各種鉄製農工具が入手され、
>それらが分配されたという推測を困難にする結果である。(野島)
勝手な推測を立てて勝手に批判しているマッチポンプ。
くだらない。 >>553
>卑弥呼の統制の元に公平に鉄器を分配する社会が形成されていた
卑弥呼が首長を介さずに村人一人一人に鉄器を分配したなど妄想もいいところ
その後の鉄刃農耕具の出土状況からみても,
今まで考えられてきたよりもかなり遅くならないと鉄刃
農耕具は普及しないと考えられるようになり,
鉄刃農耕具の投入による農業生産基盤の拡大から階級社会の成立を描くという
理念的歴史像が存続する余地はほぼなくなった。(野島) 3世紀にもなって鉄器ゼロだと人類史を根本から書き変えないと成り立たないんだね。
大変だねえw >>558
北部九州倭国から内行花文鏡を携えてやって来た古墳は別として、
具体的にどこから鉄器が出土してるの? 鉄器現物が出て喜んでたような時代はとっくに過ぎた
以前も加美遺跡の鉄製工具による加工痕の例は貼ってやった
畿内説スレFAQ 15も参照すべし >>561
>鉄器現物が出て喜んでたような時代はとっくに過ぎた
南無〜 こりゃ名言だな
>鉄器現物が出て喜んでたような時代はとっくに過ぎた 鉄器はリサイクルできるから半島からも中古鉄器が流入している
首長が分配していない北部九州では集落に遺棄されている >>555
>鉄刃農耕具の投入による農業生産基盤の拡大から階級社会の成立を描くという
>理念的歴史像が存続する余地はほぼなくなった。(野島)
勝手な妄想を組み立てて自分で否定して、それで何か証明した気分になっているくだらん妄想かがいるわけだ。 >>564
半島から豊富に輸入できたから、回収するまでもなかったんだろう。 お焦げの測定をでっち上げて古墳の年代を繰り上げ、そこから馬具がでちゃったから、日本に馬がきた時期も繰り上げ、日本の歴史全体を繰り上げないといけない畿内説爺どもは日本史会の癌だな >>565
連呼人種は日本人学者の論文は読まずに自己満足の妄想しかやらないから
わからんだろうが、野島はこれまでの鉄器の研究前史の中で言ってるのであって
野島が自分で勝手な妄想を組み立てているのではない >鉄器現物が出て喜んでたような時代はとっくに過ぎた
ゼロはゼロ
石器時代ですね。 >>568
引用されている部分だけ読むと、マッチポンプを得意とする詐欺師の文章に読める。 >>571
一つの論文中で自分で仮説を立てて、自分で否定する学者はいない 弥生時代 墓、古墳遺跡数
地域 墓 古墳
奈良県 36 2
福岡県 1008 34
熊本県 145 7
佐賀県 274 3 >>573
奈文研のデータベースだろ
使い方がわかってないみたいだな >鉄器現物が出て喜んでたような時代はとっくに過ぎた
ゼロの場所を邪馬台国にしようとするとこうなるのかー(棒読み >>574
ちょっと見つけて
いろいろ遊んでます。 >>572
>>>571
>一つの論文中で自分で仮説を立てて、自分で否定する学者はいない
理系の論文ではよくあるけどね。 階級社会の成立を説明できなくなったというのは
前時代的なマルクス主義歴史観はナンセンス
って言ってるだけだな。
邪馬台国論で引用するには無意味な文だね。 >>577
それ仮説を自分で立ててるんじゃなくて、帰無仮説を棄却してるんじゃないのか 要するに畿内説のマッチポンプなんだよ。
このスレで誰も主張していない東遷説を批判しているのと同じ構造だろ。 >>578
鉄刃農耕具の投入による農業生産基盤の拡大から階級社会の成立に
マルクス主義なんか関係ない >>581
鉄器、鉄器連呼してるアホはお前くらいだよ >>583
最新の考古学研究の成果が汲み取られてはいなかったからな >>582
階級社会という言葉を出してる時点で
マルクス主義という文脈を踏まえた言説なんだよ
今時の考古学やる人間はそんな背景も知らんのか。
考古学で
古代の社会像を説明するのに
社会学の素養もないようじゃ落第だよ。 >>586
だから考古学研究の成果によって、以前の研究に見られた
理念的歴史像が存続する余地はほぼなくなったと言ってるんだよ >>587
理想的歴史像なんて誰も持ち出してないだろ。
それがマッチポンプだというんだよ。 >>587
余地がなくなったから
で?
鉄器の有無で生産性は歴然と違うわけだが
社会像の話を持ち出して何が言いたいの?
あなたが 生産性の低いところが高いところに優位な点があるってことを言わないと
無意味だよ。
社会像の引用とかしてる暇があったらそこを説明してくれたまえ。 紀元前から鉄器が普及して王墓もある九州。
3世紀の鉄器ゼロ倉庫。
どうやって逆転するの? >>591
お前にわかるように言うとな
鉄刃農耕具がもっと普及してると思われたが、実際はそうではなかったということだよ
北部九州とくに福岡が他と比べて多いということはどの学者も否定はしてないよ 農具だけの話でもない
工具だけの話でもない
武器だけの話でもない
地域としての総合力で
紀元前から鉄器普及して王墓もある九州>>>3世紀の鉄器ゼロ倉庫
中学生でもわかる簡単な話です。 中学生でもわかる簡単な話じゃないことがわかってきたんだよ
80年代以降 >>593
いや
あなたに説明されるまでもなく
鉄器については
九州>奈良
だよ。
理想像を否定したところで
畿内が優位になることはないよ。個別具体の話ではなく
立論と主張の段階であなたは落第ですね。ちゃんとした人に指導してもらいなさいね。 中学生でもわかる簡単な話で負けちゃうことがわかってきたんだよ
2013年以降 >>597
まあ今ではもう考古学者が誰も考えてないことを
いまだに連呼してるだけだから北部九州説は そりゃあ鉄器ゼロ倉庫が全国制覇したなんて中学生でも考えない罠 >>600
だからそう思うなら畿内説スレの看板のところじゃなくて
北部九州説スレで、どこの遺跡から鉄器が何ヶ出ました〜情報でも
書いてたらいいんじゃないの? >>601
九州スレでんなアホなこと書いたら恥ずかしいだろw 糞テンプレで自爆したから、こっちも巻き込もうってかw 鉄器が何ヶってのはアホなことだというのはわかってるのか >>597
>鉄器については
>九州>奈良
鉄器についても
阿波>九州>奈良 @阿波 巻向利権集団に圧殺されている葛城のような説をもっと掘り下げるべき
by 一奈良県民 >>610
大和より
葛城の方が先に宮城になってるから、
もっと何か出てもいい気はするけどね。
葛城に期待。 失礼。大和は大和でも
今で言う天理市あの辺りに移った由-あのあたりを想像していいました。 >>614
巻向は桜井市だし
天理市は物部氏ゆかりの石上神宮があるところ 邪馬台国には興味があるが、葛城の田舎には興味がない 邪馬台国には興味があるが、九州の田舎には興味がない >>620
なんてこと言うんだ
邪馬台国はクズじゃないぞ 九州説信じてるヤツって反皇国史観で
東日流外三郡誌とか信じてそうだよな >>624
それはそれで、そういう社会だ
暮らしたくないが >>624
反皇国史観て言っても
穏健な民主主義者もいれば
暴力革命過激派もいるから 一般人がなんとなく九州だと思ってるのは学校の授業でそれとなく誘導されたからだと思う
行程パズルなんかもそう
倭人伝で場所が特定されている国は全部九州にあると教えられれば、邪馬台国だけ本州だなんて不自然すぎると感じる ほぼ確実なのは伊都国や奴国までだからな。
魏志倭人伝が九州までのことしか記載していないのは事実。
そして郡使は卑弥呼に会っている。
ということは? 魏志倭人伝を邪馬台国旅行記だと思ってるからそういう発想になる
だが複数ソースで書かれてることが確実
郡使は伊都国に常駐
邪馬台国まで行ったのは数回
情報が薄いのは遠くにあることの裏付け 常駐したとは書かれてないよ
常所駐=(魏国の郡使が来倭した際には)常に留まる所
と書かれている 「國(使)・郡使往來常所駐」
狗邪國王とか投馬國王とかの定宿のもあったのやろ 魏が帯方郡を占領したのは238年なんだから、その前
公孫氏の帯方郡、後漢の楽浪郡の郡使の話だろ 「國郡使往來常所駐」の文字列があれば
「國(使)・郡使往來常所駐」と(使)を補ってあげるのが基本的なるーるだろ >>637
公孫氏の頃は帯方郡とは言わないだろ。
彼らの本国になるのだから。
郡使と表現していることや、魏志に書かれていることから、魏の帯方郡からの使いだよ。
畿内説はなんで全てねじ曲げて読むんだ? 國使・郡使が来た時にはいつも泊まる定宿が
糸島水道の南岸の周船寺のあたりにあったのやろ
糸島水道の北岸のほうは軍事的にも重要な場所だからね >>642
畿内説のスレのつもりじゃなかったのか?
wwwwww >>641
>公孫氏の頃は帯方郡とは言わないだろ。
w
ちゃんと勉強しろ >>643
「皆統屬女王國。郡使往來常所駐」
だろーが。 「皆統屬女王國郡使往來常所駐」を
「皆統屬女王國。郡使往來常所駐」と切って読むのが
あふぉおな近現代人の犯しやすい「法人読み」で
これは思想史的には許容され難い
女王國に伊都國王が統屬するとは曖昧模糊そのもの >倭人在〜漢時有朝見者
倭人伝冒頭のこの一言で倭人伝の舞台が金印の見つかった北部九州と決まってしまう。
だから金印偽物説を持ち出して必死なわけだ。 新唐書に
「其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州」
とある。
日本の東海にヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の3王がいる。
北に新羅、西北に百済、西南に越州があるとあり、日本国が九州島であると言ってる。 >>650
東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚。
有千餘戶,世有王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐。 いつの間にかスレが終わってたわ
続きはここにでもするかい? 前スレのまとめ
柳田は平原遺跡の鏡が卑弥呼の治世に造られたと認識している。 ・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。瑪瑙や琥珀の玉類
は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化さ
れ、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下
がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。周溝から鉢形の土器が
出土しているが公表されていない。」
・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、
235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」 【平原遺跡】
平原遺跡は大量の中国朱が外に流れ出したことで墓が発見された。
平原1号墓は福岡県糸島市にある東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓。
割竹形木棺は長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。槨なし。
出土物は瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚、虺龍紋鏡(きりゅうもんきょう)1枚(舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)。
耳璫(じとう)片3個。
長さ5尺(80.6cm)の素環頭大刀1本(魏からもらった5尺刀か)。
隣接する2号墓と周溝を共有し、周溝の一部からは10名の土壙墓が見つかり、全体では約100名の殉葬があったと推定されている。
周囲に18本の柱穴があり、うち2本は日向峠に向かう鳥居と推定されている。
超大型内行花文鏡が後漢との交流が途絶えた後に独自進化したものであることから、平原遺跡が作られたのは倭国大乱後と考えられ、卑弥呼の治世である。
そして平原1号墓の被葬者は絶大な権力を持つ女性と考えられている。
超大型内行花文鏡は直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)であることから、三種の神器の一つである八咫の鏡(やたのかがみ)と考えられる。
これは王権の象徴であり、伊都が文字通り倭国の都、筑紫の日向であったであったことがわかる。
そして被葬者は3世紀前半の倭国の女王である。
つまり、平原遺跡は卑弥呼の墓であると考えられる。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 テンプレがないなら嘘もない。
なまじテンプレがあるから、荒れるんだよ。 つぎのほんますれ?たつまでここにあらかじめれすつけとけばえーな^^
じすれたったらそこにこぴぺすりぇーんやし part294(いかしょーりゃく
>>595
ちーす
あの番は寝落ち失礼 >>641
れきはくはっぴょーほーこくしょはしはかさいかそーのひょーじゅんへんさ数個のすーちのばらつきひどすぎてAMSじたいの説得力0になりますた(まじれす >>674
どなたか10ぎょーくらいでまとめてくりゃれ >>672
こーせーしてほんすれでしょーじゅつできればする^^(いまはよっぱらい >>825
犬神先生やろ?
どーたくのきげんは出雲やな
越はタイプミスか? >>835
かんじょーもくちゅーれつなりさくらまちいせきなりけんさくしなはれ
じょーもんからやってましたわ ひらばるやらのはしらあとはかんじょーもくなんたらのまねでね?(てきとー part294さいしゅーばんはひらばるかがみのはなしかい
これをもとに編年云々する人は天才かアホやな(しつれーずまん
わえの霊感だと3世紀の女王が大事につことったミラーじゃ(むちゃくちゃてきとー(ヤマイではない お!ダックか^^
伊都がひみこはんのみやこでええんちゃう^^
それいじょーはもとめたらあかん(無理や テンプレスレのスレ主が荒らしている。
しかし彼には何の権利もない。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと、別コテ、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 電波だからこっちに貼っておこう
ツイッターでの拾いもの
東北大学名誉教授田中英道氏
卑弥呼も邪馬台国も存在し得なかった、由来の神社も土地の記憶もない。
https://youtu.be/GxXztdukuCw?t=810 自分の非常識行動は正当化
自分の主張は正しい、研究者はバカ
自分の行動に批判的な行為は荒し認定
何これ?絶対身近にいて欲しくないな 真っ正面から議論しても負けるからこういう嫌がらせするだけ ここはツイッターで拾ってきたトンデモネタを貼ってたからなくなると寂しい さすがにpart1はまずかろう。
次スレはpart301だな。
テンプレありとテンプレなしとどちらが先か。 ゴキブリと一緒で駆除しても新しい偽スレが出てくるな このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 159日 14時間 59分 5秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。