邪馬台国畿内説 Part251 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1500034839/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である 科学的な根拠は全くないってこき下ろしてるじゃない。 つまり平原遺跡は3世紀以降と。
どうやっても卑弥呼の治世です。
本当にあり(ry >>844
それは言い過ぎ
鳥居をくぐったあたりとするのが公平だと思う 畿内説では、帯方郡から一万二千里のつじつまを合わせるために、伊都より東ではじめて女王の領域に入ることにしているんだと。
つまり伊都は女王国じゃないらしい。
アホだろ >>809
>伊都国から奴国、奴国から不弥国はそれぞれ百里、約8キロの間隔しかない。
ちっちゃいw
どんだけ田舎者なんだよwww ほとんど嘘の話だと言ってるでしょ
家の先祖の写真なども、
何か、おかしくない?
騙りのような家が、
あるんじゃないの? 委奴国王印が本物と言うならまず出土状況をはっきりさせないと。
ここから出ましたという証拠もないのでは本物にはならない。
金印の上にあった巨石はどこにあるのだ?
畿内にあった邪馬台国=大和朝廷の朝貢を隠すため、
邪馬台国論争をおこす必要があった。
だから新井白石や本居宣長が九州だと言った。
国家ぐるみで捏造したのが金印であろう。
奴国は福岡ではない。
狗奴国(静岡)の北にある「伊那・恵那」 かなり前の、とあるスレを見たとき
「川崎に住んでいるんでしょ」と言っている人がいたり
何の話なのか、わからないけど、家の事だと思う ちなみに家は・・・□□力夫氏と同じ家?だと思う
寺院に通っていた、なぜか肉は食べなかったよ
と言っていた 神話なのか、何なのか、知らないけど
むかーしの話をしているような気もする 『人権侵害』のような事を言っている人もいなかった? 創価か何かじゃないのか?
と言っている人もいたような
家に対し、
恨みを持った人がいるのかな 謎のチェーンソーのゲーム
主人公「金返せ」と言っているけど ネットが普及して、
ほとんどの人が気づいていると思う
漫画、アニメ、ゲーム・・・など
確実に人権侵害 >>730
>>そもそも九州説とは何なのだという事になる。<
>当時(本居や明治)の九州説と今の九州説は根本的に違うんだよ。<
当時も現代も、権力学者は、
魏志などの非常に客観性と信頼性が高い直接的な史書記録や、考古史料よりも、
後代の大和の主観的で半分×書の記紀を重視している、
という点では、同じだよ。 >>733
>彼らは大和朝廷が朝貢してた事実を知っていた。
だからそれをごまかすために九州側が勝手に朝貢したと唱えた。<
違うね。
彼らは、客観的で信頼性の高い同時代的な歴代中国史書群の記録よりも、
主観的 で信頼性の低いはるか後代の、半分×以下の記紀を信奉した。
元々彼らのフェィクから生まれたのが九州説。
つまり九州説自体が虚構。 >>735
>葛城はあったとすれば卑弥呼の前だろ
三輪王権の首都であった巻向は卑弥呼の時代と一致する <
仮に、時代が一致した?としても、
「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であり、
「殉葬奴婢百余人」の祇園山がある限り、
纏向は卑弥呼の都ではない。 >>752
>その通り、思いっきり記紀だ <
記紀は、信頼性が半分以下の×書だ。 >>771
>斯馬国は伊勢志摩 奴國は伊那・恵那 狗奴國は静岡<
「南≠東」だから✖。 >>859
その後でアジア各地で見つかった他の印と比較して、間違いなく本物というのが現在の学問的な立場だよ。
ただし出土状況に不明な点が多い。
だからこそ、実は細石神社の伝世の品という噂に信憑性がある。
籠神社の饒速日の内行花文鏡と同じような状況だったのだろう。
細石神社が邇邇芸の墓とされる三雲南小路遺跡の祭殿であることとあわせて、非常に辻褄が合っている。 >>857
弥生時代の国である倭国としては、それくらいがちょうどいいサイズだよ。
誇大妄想的な畿内説よりはずっとリアルだし、何より魏志倭人伝を無視して邪馬台国論争は成り立たない。 卑弥呼の頃の倭国は概ねこんなサイズ。
>>812
>邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
>半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 畿内より何百年も前から筑紫に古代王権が存在して中国に朝貢して倭と呼ばれて冊封されたいたことは事実で、卑弥呼がその系譜かどうかが問題なわけだが、中国側の史書では同じ倭国として扱っているんだよね。
そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。 >>873
細石神社関連の話しは歴史学的にはまったく無価値 日本が4兆5千億円相当の資金供与をしたのに
日本は関係ない、漢江の奇跡だと言う民族だからな
瑞梅寺川の奇跡ぐらいに考えているんだろ >>869
ヤマトという地名も北部九州から移った
森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です >>876
>そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。
それは、西の倭国(阿波)から東の大和(日本国)に遷都したことを記しているんですよ。 @阿波
「日本國(大和)者 倭國(阿波)之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名」 松本清張著『鴎外の婢』にみられる考古学的虚実構成
「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の
「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、
大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。 2012年といえば、森先生が松鶴洞墳でちょんぼをこいてしまわれた
28年後だな つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。
豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、
ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、空想を許されるなら、
ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。
ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。
いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。
景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に
起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。 「《椿市は、書紀にある海柘榴市(ツバイチ)で、地名は、景行紀と豊後風土記とに出ている。
しかし、もとはこの地にあったものが豊の国に対する上代の曖昧な知識から豊前の説話が
豊後(大分県直入郡)に転置されたのである。
紀は海柘榴市に「海柘榴ノ樹ヲ採リテ椎トナシ兵トナス。因ツテ猛卒ヲ簡シ兵椎ヲ授ケ、以て山ヲ穿チ
つちぐもことごとくるぶし草ヲ排シ、石室ノ土蜘蛛ヲ襲ヒ、稲葉ノ川上ニ破リテ其ノ党ヲ悉ク殺ス。
血流レテ踝ニ至ル、故ニ時人ソノ海柘榴椎ノ処ヲ作シテ海柘榴市ト曰ヒ、亦血流ノ処ヲ血田ト曰フナリ」
と地名起いち源を述べ、豊後風土記もほとんど同じ記事を掲げている」
だが、これでは海柘榴の市の説明にはならない。市は物々交換の場所だからである。
倭人伝にも「国国ニ市アリ、有無ヲ交易ス、たいわ大倭ヲシテ之ヲ監セシム」との記事によっても証される。
すなわち各地には民衆が集まる一定の場所があったのである。それには、人々のもっとも分りやすい所が
択ばれたろう。いまだ固有の地名のなかった時代、高い樹や珍しい樹の下などは、目印として恰好な場所で
あったにちがいない。ツバキは当時としては珍しい樹の一つであったろうから、
その樹のあるところは誰でも知っており、その下の広いところが市場に択ばれたのである。 ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、
日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。
倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。 「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい) >>876
>そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。
それは、西の倭国(阿波)から東の大和(日本国)に遷都したことを記しているんですよ。 @阿波
「日本國(大和)者 倭國(阿波)之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名」 3世紀東アジアで鉄器が無くて木器と石鏃の新人類発見したら
魏使は泡吹いて学会に発表しただろ 東夷諸国で鉄の武器をたくさん持ってるところは討伐されてるから
北部九州程度の量ならあってもなくてもかわらんけど >>888
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ
☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント
☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった
銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む 単行本 ? 2004/11
臼田 篤伸 (著)
銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による
銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による
争乱の古代史を描く。 いつもの歯医者さんの本
ピラミッドは日本にはありませんね >>892
「旧銅鐸群およびそれらと組成する機会のあった武器形青銅器が埋められたことを契機として高地性集落や丘陵性集落が急増したり
より盛行する地域が確かに存在する。大量埋納遺跡を有する摂津の六甲山系や出雲の宍道周辺の丘陵はその典型例で、集落の結合
単位に大きな変動をきたし、古い青銅器群の埋棄を誘致するとともに社会構造が刷新されたことと連動する…」
(森岡秀人2004a p.184)
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>890
鉄器ゼロだとこういう思考になるのかw
後世に残しておこうw >>892
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 森岡秀人の「一概に出土地が青銅祭器を活発に受容したとは言い難く、
分布地と日常の祭りに青銅器を積極的に導入した場所とは当面隔離しておくべきであろう。
青銅器を全く保持していない地域に遠隔搬入された銅鐸や武器形青銅器があったことは想像されてよく、
最終の分布状態の意味するところはそう単純ではない。」
と歯医者さんの趣味は無関係です なにこのスレw
畿内銅鐸民族はこうやって土地を奪われていったのだなあ >>806
>敵対勢力の支配域に近づく必要がない太平洋ルートが、魏の使者を迎えるルートとして選択されたんだろうね。<
魏志を曲解捏造しての、
魏使らの人類の「安全最短の原則」に違反するような、太平洋黒潮漂流ルートは選択されないし、
「自郡至女王國萬二千餘里」の里数計測にも違反している。 >>807
>弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。 倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。<
倭人の居住域と、魏使らの到着地とは、全く関係がない。
「南≠東」や、
「自郡至女王國萬二千餘里」や、
「殉葬奴婢百余人」の墓が存在しない地域は、
結局は否定されてしまう。 >>808
>卑弥呼、そしてその流れを汲む初期ヤマト政権。
実は倭国大乱でクニに対して謀叛を起こした勢力だった可能性も考えられる。<
大和政権は、
筑紫城の倭奴国の「阿毎氏の別種の旧小国」であったのであり、
「姫氏」である 卑弥呼の、直接的な流れを汲んでいない。 「姫氏」である 卑弥呼の、直接的な流れを汲んでいない。
例の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳出土鉄剣
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比?、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ
^ 宮崎市定は『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年 )124〜126頁で、
「記す」の繰り返しは漢文として稚拙であるので「記」を氏族名と見て、「記のヲワケの臣」が人名であるとした。
↑明らかに、記(木、喜、鬼、姫)氏、氏族名だよ 無視されてるけど宮崎市定はただしい…
もちろん紀氏は東海姫氏国(日本)の国姓・姫氏の一派に属する
↑これ、百済国書の「貴国」が固有名詞だってはなしともつながる
東海姫氏国(日本
百済国書の「貴国」 >>876
>そして旧唐書ではじめて東に日本国が登場して、倭国を併合したと書かれている。
それは、西の倭国(阿波)から東の大和(日本国)へ、8世紀に遷都したことを記しているんですよ。 @阿波
「日本國(大和)者 倭國(阿波)之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名」 >>813
>伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<
「南≠東」であるから、✖。 >>869
>元々彼らのフェィクから生まれたのが九州説。
>つまり九州説自体が虚構。
おぉ、同じ意見だw >>815
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であるし、
「殉葬奴婢百余人」の墓が存在しないから、
×ね。 >>904
森浩一氏が、九州からいくら鉄が出てきても畿内説の考古学者は
無視するが、近畿地方から鉄のかけらでも出てくれば大騒ぎする、
と言っていたが、これは畿内説の考古学のあらゆる面で妥当する。
九州の数百と言われる高度な鉄鍛冶遺跡には触れず、淡路島の原始的な
鉄鍛冶遺跡を「日本最大級」と発表したりする。
畿内説の考古学は少し疑ってかかる方がいい。
淡路島 五斗長垣内遺跡
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。
熊本 西弥護免遺跡
西弥護免遺跡では弥生終末期 581点の鉄器が出土している。さらに鉄滓などもあり。 >>817
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。
これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。<
時代が全く違う。
神武は紀元前1世紀頃の人。
卑弥呼は3世紀の人。
> 神武は吉備軍に同伴しただけ。 結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。
この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。<
「南≠東」だし、
「 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」だから、「大和の地は卑弥呼の支配下」とはならない。 >>820
>大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。<
「南≠東」だけで、✖。 >>821
>畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。<
「南≠東」だけで、始めから可能性がない。 >>822
>1世紀〜2世紀初頭、畿内のクナ=クニ(倭国)を中心に西日本は緩やかに纏まっていたんだよ。<
「南≠東」であるし、
「大和は、筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」であったから、
始めから✖。 >>907
>九州の数百と言われる高度な鉄鍛冶遺跡には触れず
根拠無し >>823
>卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。<
「南≠東」だから、始めから✖であり、
残りの記載は、分裂幻覚妄想にしかならない。 >>908
それ印章だけだから、金の含有率とか大きさは分からないでしょ
それにたしか金印はなかったんだよな
ていうか、それ最後まで読んだんなら偽造は否定されてるでしょ >>915
王墓から出ない金印なんてあるものかい。
由緒ある神社に古くから伝わってたわけではないないし。 本当は邪馬台国がヤマトであることは分かってた。
しかしそれは天皇家の朝貢を意味する。
九州にあったのではないかという議論をおこし、論者を増やしたい。
新井、本居が相次いで九州だと唱える、本心は大和であるが。
邪馬台国の場所を意味するヒミコの印は偽造などできないが、
委奴国王印程度は偽造できる。
そして奴国を特定させ、
邪馬台国は九州だというアホを増やしたい。
アホが増えてくれてるうちはヤマト朝廷の朝貢がばれない。
まぁそういう事であろう、アホ君(九州説)たちwww >>842
>その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、
卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。<
終わりとならない。
317年頃に、それまでの(壹與の後の)伊都国の阿毎氏系の王朝から、
また(卑弥呼の後)の姫氏系の「東海姫氏國」王朝になり、
更にまた、阿毎氏系の磐井に変わり、
継体の反乱後も阿毎氏系が続いた。
久留米付近への遷都で、 >>917
記紀が事実だとするなら、
仮に邪馬台国がヤマトだとしても、3世紀前半当時それが九州か畿内か?で、意見が割れそうだが?
記紀では神武は九州から東征した訳で、それはいつ頃?という問題もある
つまり、なんも答えは出ないのだよ >>916
細石神社
宮司の口伝で金印は神社の宝物であったという事
金印の摩耗が少ない事からも至極妥当なんだよね >>921
それもねえ
金印が見つかった時に、なんで神社伝来のものだと文句つけないんだろ 神社の宝物って古文書で所蔵した経緯とか書き残すんじゃね 日清戦争の前後では日本人の感性が大きく変わった。
日本人は2千年近く、隣国である巨大帝国・中華に怯えていた。
実際白村江で負ける。
隣国である巨大帝国の事を考えるだけで気分が鬱になったであろう。
そんな新井白石、本居宣長の時代、かつて日本の天皇が中華に朝貢していたなんて認めれると思うか?
日清戦争後の今の日本人は認めれるのだ。
なぜなら中国に対して完全に見下しているからだ。
「へぇ、昔は中国に朝貢してたんだ。だから?」こんな感じだ。
現代人は中国人を小馬鹿にして何の劣等感も持ってない。
むしろ中国人が日本に対して劣等感を持っている。
そんな現代日本人の感性で本居の時代を考えても分らないのだ。
本居宣長の奇説「熊襲の女酋長説」は古代大和朝廷の朝貢をごまかすため、目をそらすため意図的に創られた。
それが証拠に日清戦争の勝利を見届けた那珂通世を最後にこの説は終わる。
九州説自体が創られたのだ。
邪馬台国はどこにあるのだ?という関心を呼び寄せるためだ。
委奴国王印も偽造であろう。
今、出土状況がはっきりしないピカピカの親魏倭王の金印を誰かが出してきたとして、それを認めるのか?
卑弥呼の金印だと認めるか?
俺は認めない。
だから委奴国王印も認めない。
もういい加減に気づけ。 >>923
明治維新の直後に焚書があったから、多くの記録が失われた。 >>920
口の固い、腕の良い工芸士に作らせたのだろうね(*^^)v >>922
そもそも神社からという形を避けて世に出した節があるな。
都合が悪かったんだろう。
でも真実なら、倭奴国の名前で倭王に冊封されたのは伊都国王であり、南小路遺跡の被葬者であったことになる。
それは倭国大乱の前の男王でもあったから、それを継承した卑弥呼も伊都にいただろう。 誰の話なのか、しらないけど、
本物は伊達郡というところに住んでいるんだよ、
住んでいたというの? >>927
作り方の話じゃないんだよw
正式な金印のスペックを知らないのに、なぜ他の正規の金印等と同じスペックのものを造れたのと聞いてる >>927
後から他の国で見つかった金印なども同じ様式であったから、本物と考えられている。
学問的には確定事項。 たぶん盗掘されたんだろな
裏世界で売買されてたんだろ 『天子神璽』に関係する『冤罪事件』?
というのがあったみたいなんだけど、本当なのかな >>929
それは困る
週末の楽しみが減るじゃないか
畿内説の漁獲制限を設定しようぜ
冷房のきいた部屋で冷えたビール片手に畿内説をボコる
それが漏れの週末の儀式 崇神が4世紀、神武が2〜3世紀だと、神武が東征したのは倭国大乱の時であった可能性がある。
倭国大乱の前の男王の時代は、神武の前の日向三代の時代にあたり、考古学的には南小路遺跡など伊都国の時代である。
拝領した金印には倭奴国とあるが、これは伊都国のことであった。
そしてその伊都国の王墓の一つである平原遺跡からは日向三代の象徴である八咫の鏡が出た。
これは、伊都国の最初の王墓である南小路遺跡の被葬者が邇邇芸であり、日向峠の麓の高祖宮が日向の高千穂宮であったこのとを示している。
卑弥呼以前から、筑紫の日向にある伊都国が倭国の都であった。 今、出土状況がはっきりしないピカピカの親魏倭王の金印を誰かが出してきたとして、それを認めるのか?
卑弥呼の金印だと認めるか?
俺は認めない。 >>938
江戸時代に金印を偽造するというお前の発想が怖ろしいわ
そんなんだと旧石器時代事件じゃないが
偽造でなんでもありになっちまう >>942
出土状況の分からない金印を認めるおまえの発想が恐ろしいわ。
俺が新魏倭王の金印を作って「出土状況はムニャムニャ…」と濁しても認めてくれるんだね?www >>940
>崇神が4世紀、神武が2〜3世紀だと、神武が東征したのは倭国大乱の時であった可能性がある。
まったくその通り。
>倭国大乱の前の男王の時代は、神武の前の日向三代の時代にあたり、考古学的には南小路遺跡など伊都国の時代である。
時代的にはその通り。
では質問。
神武は何の目的で大和に来た?
ちょうど卑弥呼の時代だ。 >>943
>出土状況の分からない金印を認めるおまえの発想が恐ろしいわ。
はい、中国ゼロ枚出土の銅鏡は、完全なる日本製ですね! >>943
いま見つかったんじゃダメだろw
情報のない江戸時代にみつかったんなら認める >>903
乙巳の変で畿内のニッポン国に北部九州のニホン国が支配されたということですよ
それ以前のことかもしれんが、ちなみに平成はニホンである >>938
引用
田中氏の推論によれば、ある人物が金印を発見したが奉行書に差し出さず手放してしまった。米屋才蔵が何かの縁でそれを買い取り、知人の奉行津田源次郎に届けて処分を委ねた。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。