邪馬台国畿内説 Part257 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501862033/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である >>142
>弥生時代のこの青銅器の分布を見てると、北九州や瀬戸内に防人を配していたことが明白。
https://goo.gl/jLePrD
弥生時代後期、すでに都は畿内にあった。<
「南→東」だから、大和や畿内は×。
また、倭人伝には、銅鐸の記載はなく、「矛」があるんだから、
女王國や倭国は、「矛」の中心である九州だよ。 >>146
こんなところかな。
九州説・・・・・倭人伝に忠実な説(ほぼ歪みがなく、99.5%以上)
大和説・・・・・倭人伝に「南→東」や考古などで、ほぼ完全に矛盾している嘘つきダマシの詐欺説(0.5%以下) >>834
だからその痛説に根拠がない。
むしろ同位体からは4世紀の鏡の可能性があるということだな。 寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島
4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、
県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。
邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。
寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。
菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。
その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で
▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある▽墳丘の表面を積石で覆っている▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。
「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。
破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。
「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が徳島県南部にあったとは驚きだ。
近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。 >>841
香春岳の銅とか使っていたりしないのかな。
あそこは4世紀には掘られていたはず。 >>144
>纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落、<
纏向は、始めか「南≠東」であるから、女王の都ではなく、
庄内の年代も、久宝寺で伽耶の陶質土器との共存があるから285年以後。
>始めから発掘した学者をして、纒向は外部の勢力の侵入を考えらずには得られないと言わしめている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。
運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。
1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。<
・・・・かね?。
1000人の婢は、大型建築にはすし詰めにしても入れないんだから、
地べたにでも寝かせておくつもりなんかね?。 >>841
平原鏡は様式は1世紀なのに、鉛だけなぜ前漢鏡タイプなの? >>147
>いろんな見方があるようです。 断定は?????????<
自然や歴史においては、99.5%以上の不可知部分があり、
0.5%以下のデータでは、「断定」は不可能であって、「確率的な推論」になるしかなく、
だから、いずれの説も、その「推論の確率の高さ」を競うのであり、
だから、文献考古の(史料批判を経た)史料事実や史料実態からの帰納的推論の九州説の確率は99.5%以上であり、
文献考古の史料事実を否定する大和説の確率は、0.5%以下。 >>853
>畿内説では箸墓に至るまで卑弥呼の墓の比定地も変わっています。いまだホケノにこだわる人もいます。
今後、どうなるかは定かではありません。畿内に新たな卑弥呼の墓の候補が発掘されるかも <
畿内でも大和でも、文献考古の史料史料実態から、親魏倭王印でも見つからない限り、
99.5%以上、ありません。 >>857
同位体を根拠としているのに、日本語読めないのか? >>856
久宝寺で伽耶の陶質土器なんて出てないよ
札付き虚言癖老人ザラコクのデッチあげ
>>856
建物の中に千人いたなんて倭人伝のどこにも書いてないな
デマ乙 >>860
ザラコクの言うことウソの確率が高い
99.5%かな >>865
それは、中国の戦国期から宋代までの鉛との比較じゃないのかい? >>873
戦国期から宋代までの鉛と比較をすると何か悪いのか? 大阪の新井さんはトンデモだが
測定した学者は本物の学者なので
数字は信用できる 漢代の代表的な鉛同位体比(弥生後期の青銅器鉛)との比較とあるな >>878
とすると前漢タイプじゃなくて後漢タイプの鉛を使った可能性が高そうだね どうも九州説のおじいさんの投稿は意味のわからない呟きが多いですね。
脳が生きてるんでしょうか?
疑問です、 >>884
断片的で意味不明な呟きなので
とても理解できない >>884
お前には解るのか?
じゃ、通訳してくれ どんな議論でも、それこそ、邪馬台国と関係ない議論でも、畿内説を狂信する狂人が論破されてしまう、、、、 まあクズ説ジイさんの言ってることなんて
悪意の嘘かボケの錯乱の2つに1つだろ
その証拠に理由を聞かれると必ず逃げる
憫笑 常駐アンチ畿内説暇爺さんの特徴
ー日本語の文章がよく読めない
ー自分の意見を文章にまとめられない
ー嘘をつくことに罪悪感がない
ー能力ないのにプライドが高い
ーいつも理由が言えない >>885
平原鏡のほとんどが柳田は国産と言ってるが、一部は魏鏡ではないかと物言い。
前漢鏡と後漢鏡では鉛同位体比が異なるとの突っ込み。
→平原鏡が前漢鏡の鉛を使っていた場合、魏鏡である可能性は低い。
後漢鏡と同じ鉛であれば、魏鏡である可能性もある。
→新井論文で平原鏡の比較対象とされたのが、漢代の代表的な鉛同位体比(弥生後期の青銅器鉛)
弥生後期とあるので後漢の鉛と同等なのか? ← いまここ >>175
>九州で作られた庄内式土器が出てるよ<
大和からは、弥生銀座や「何本もの大道」のある筑紫の土器は、出ていない筈よ。 >>189
文献考古共に、出てるいないという事実の前に、トンデモ大和説は無力。 >>201
それが大和説のやり口か?。
汚いなー。 >>204
つまり纒向は「×」ということで決まり。 >>898
新井は基本的に素人なので言ってることがムチャクチャだから数字だけ見るべし >>213
残念でした.
纒向で出た庄内式土器の中に筑紫産はなく、
九州の辺地産があることが判明し、
逆に、筑紫へは河内や播磨からの搬入庄内が沢山あり、
大和からの搬入庄内がすくなかった事が判った時点で、
「大和が搬入庄内の多い都だった」という事の根拠が失われた。 >>213
残念でした.
纒向で出た庄内式土器の中に筑紫産はなく、
九州の辺地産があることが判明し、
逆に、筑紫へは河内や播磨からの搬入庄内が沢山あり、
大和からの搬入庄内がすくなかった事が判った時点で、
「大和が搬入庄内の多い都だった」という事の根拠が失われた。 ザラコク
他人の発言を丸写したあと機械的に単語を入れ替えたりして
自動的にデマを生産する生体bot
生体人工無脳ともいう >>288
>平塚川添遺跡の支持者は「ここを中心として北部九州を勢力下に入れた7万戸の国が邪馬台国」って言いたいんだよな?
でもこの遺跡から周りに影響なんて及ぼせてない
大きな環濠に囲まれてるがその周囲に留まる集落に過ぎない存在なのが分かる
そしてこの地域は畿内の庄内式土器に取り囲まれてるようになっている <
畿内の庄内に取り囲まれていて、
逆に筑紫の庄内が大和からはでなかったんなら、
平塚川添は、畿内からの搬入上納があった首都圏の一地域であった、という事。 >>894
>鉛の同位体からは、三角縁は仿製鏡
三角縁神獣鏡 実は、これは倭国(阿波)で作られ、全国へ拡散していったんですよ。
この事実、ほんとうは知ってるんでしょ? @阿波
気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が大分(赤塚古墳)、岡山(鶴山丸山古墳)
京都(内里古墳)、奈良(黒塚古墳)、群馬(天神山古墳)で出土していますね。 >>291
>九州説側が、畿内に九州系土器が少ない、と言ったことに対して、 そうじゃないと言ったのが、そちら
それをグダグダと言い回して、言葉回しで逃げ回って 結論だけ書きこんだのが、そちら
卑劣だねえ 恥ずかしいとかいう感情もないのだろうね
現実は、九州系土器は少ないのだから、あんたの負け<
卑劣だね。 恥ずかしいとかいう感情もないのだろうね。
現実は、纏向には、筑紫系土器は0なのだから、あんたの負け。 どっちにしても、郡使を饗応した伊都と関わりがないのなら、纒向は邪馬台国と関係がない地域だよ。 >>898
新井論文によると、平原鏡は国産鏡で結論ありですね、残念 >>294
>畿内が邪馬台国として有力なのはただ纏向と言う遺跡が見つかってるからだけじゃない<
纏向は、始めから「南≠東」で×。
>弥生時代後期から始まる他地域の墓制や土器の個性の壁を突き破って全国的にその影響を広めている事に大きな根拠がある<
大和は、河内や播磨と並んで、筑紫の倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国であったから、
搬入搬出が役目であり、だから交易範囲が広がっただけ。
>九州は畿内に限らず山陰や四国などからも一方的に影響を受け続けている状態なのが分かっている <
筑紫倭国は、地方の生活物品を搬入上納を受け、その見返りの代価として、貨銭や鉄や青銅や鏡や銅鐸や絹や中国や楽浪文物を送り返しただけ。
>これは貢ぎ物などではなく生活様式一式、祭祀や墓制と言う根本的な部分まで浸食されている状況を表している
その中心地に纏向があるという図式 このような中心性は九州には全く見受けられない
<
半島人や半島文物までもが大量に搬入されている、という事は筑紫が中心であった、という事を示すもの。
>だから大きな遺跡が多少見つかったところでこの状況に何の変化もない 九州に当時の中心的場所などない
それ故に九州説など成り立たないわけだ <
それ故に大和説など成り立たないわけだ 。
お分かり? >>303
>平塚川添も吉野ヶ里も同じ そこだけで終わっていて外に何も影響を及ぼせてない
九州はそもそも東も西も中部も南部も全て別文化圏として存在してる<
元々、100余りの国が存在していて、それがようやく30国になって、
それで卑弥呼が共立されたもの。
>邪馬台国を九州だけに限定したとしてもそれでさえも中心地など九州のどこにも見出せない
九州説なんて考古学知ってたらとても言えない話<
中心は、弥生銀座や「何本もの大道」がある(弥生銀座の)首都圏の筑前地域。 >>309
>で、九州説側が、畿内に九州系土器が少ない、と言った しかし九州説側は、畿内に九州系土器が少ない、という根拠が出せない
出せないで罵り出した つまり九州説側は論破された これ以外の結論は無いでしょ<
筑紫から纏向への搬入土器は「0」の筈。
つまり九州説側は論破された。
これ以外の結論は無いでし?。 >>313
>そして銅矛に関しては弥生時代後期になると九州では甕棺共々一気に衰退する ちょうど倭国大乱の頃に当たる
今まで銅矛を各地に供給してた北部九州の衰退と各集落の小集落化と時期を同じくする<
卑弥呼の頃の倭人伝には主要武器としての「矛」の使用が記載されている、
>そしてその頃になると吉備や庄内土器の流入が目に見えて増えるようになる<
列島での庄内の最古は、三雲であった。
だから、各地では、三雲で学んで、地元に帰って、庄内を大量に造って、市を介して、筑紫へ逆輸出していた事になる。
>鏡の分布を言うのであればこれはこの時期に九州の中心的勢力が崩壊してしまった証拠となる <
九州倭国の中心部族が、天孫族の阿毎氏から、卑弥呼の(後の東海姫氏國の)久留米付近の姫氏に変わったから。 >>918
>つまり九州説側は論破された。
>これ以外の結論は無いでし?。
イミフ
纒向は筑紫から何の恩恵も受けられない辺境の地であったということだろう。
筑紫には全国から人や物が集まっていたというのに。
纒向は東濃の影響下で細々と暮らしていた田舎だよ。
交易の主力ルートである日本海へは東濃の仲介で近江を経由していた。
筑紫はさらに遠く、纒向の人々は夢のような都の噂を聞いてあれこれ想像するしかなかった。 >>316
>纒向遺跡を忘れないで! 大黒遺跡とか<
「南≠東」だから、大和は始めから×。 >>321
>で書いたように 畿内は弥生時代後期に入るとそれまでの小中集落の乱立から大規模な国が生まれている状況が観察される<
倭国の別種の旧小国の、倭国の庇護の下での発展史。
>そして逆に九州ではそれまで存在していた九州北部を影響下に入れていた勢力が崩壊して小集落単位に分裂している様相が明確になっている <
卑弥呼の姫氏で、姫氏の台頭が始まり、317年頃に久留米で東海姫氏國が倭国王を継承するようになった。
>そのような流れの中で九州は周辺地域の強い干渉を受け続け、特に有力なった畿内の勢力の強い影響下に入っていく状況が見えてくる <
受けないし、
大和は、(姫氏ではなく)倭奴國や伊都国の一代率の阿毎氏系であるから、
倭国の軍事部門の中心になっていた。
>邪馬台国の頃には九州は弱体化、衰退の様相が強く表れていて、各地域からの侵入を受け続けているというのが現実
九州一つどころか北部九州さえもまとめるよう勢力も中心地も既に失われている こんなところに邪馬台国などあろうはずがない<
阿毎氏の大和が、(継体の反乱までは)倭国の王家の中心になれる筈がなかった。 >>324
いや、確たる証拠のある事実。
「南→東」の嘘吐きダマシのサギシの大和説側は、また論破されました。 >>325
>いや、伊都には流入しない 孤児状態<
いや、流入は当然一杯あったし、
伊都国は、阿毎氏の一大率があって、 倭国の軍事的中心であり、
倭隋(平西将軍?)や竹斯國やタリシホコとして、白村江まで頑張ったらしい。 畿内説の諸君
あまりにも稚拙なカキコミが多く、
このスレは、畿内説の足を引っ張っています >>928
そういうのが具体的内容のない稚拙な誹謗ね
ダメダメ >>330
>伊都国は九州内部での影響力が明らかに弱体化してるでしょ<
いや、天孫族系の倭奴國の伊都国の一大率の阿毎氏系から、卑弥呼の姫氏系の久留米付近の東海姫氏國に変わったが、
磐井以後は、伊都国の阿毎氏は、タリシホコを輩出するなど、またトップになった。 >>331
>結局、土器の搬入だけが論拠の妄想ですね。 大型内行花文鏡の畿内への展開を無視している<
庄内も三雲が最も古いし、
大型内行花文鏡も、伊都国と同じ阿毎氏である旧小国の大和が、伊都国の模倣をした事になる。 >>926
仕方ないよ、、、
最新の科学分析技術の数々が、これまで、畿内説考古学者の築き上げてきたものを粉々にしたのだからね。
それに加えて、あの2013年の古墳調査があった。。。
とどめを刺されたよ。。。 >>333
>そもそも平塚川添遺跡でも銅矛は既に放棄されて砥石になってる
もう北部九州を影響下に収めた勢力のシンボルなんて廃材として再利用する程度の扱いになってるわけだ <
平塚川添は、倭国内の一小勢力に過ぎない。 >>334
反論できないと罵るばかりの大和説者は、
もちろん廃車、もとい敗者 。 >>933
仕方ないよ、、、
最新の科学分析技術の進歩によって、「阿波」にとどめを刺されたよ。。。 @阿波 九州にはいたるところにある平塚川添クラスの遺跡でも、纒向よりずっと立派なのはなぜ? >>336
>伊都国だのなんだのの遺跡も周りに何の影響も及ぼせてない <
伊都国の阿毎氏は、タリシホコの頃まで、倭国の一大率や平西将軍のある軍事中心であった。
>そしてその周辺は取り囲まれるように畿内の土器に覆われている <
市を介しての搬入上納であり、大和などは、その見返りに先進的な文物を分けて貰った。
>「千戸だけの小規模で王も監視されている伊都国」
の状態と合致するわけだ <
一大率がいたから、軍事的に強かった。
>どこを切り取ったところで、大和に邪馬壹國なんて設定できない。 >>348
大和説側は、大和に(九州系ではなく)筑紫系の土器が0である、という事への反論根拠が出せない
出せない、で罵り出した 。
事実でしょ?。
いくら罵っても事実は覆せない。 >>353
「南≠東」への反論がが、全くなくなって来たな。
大和説敗走の兆候。 >>933
そうやってウソをつくから
九州説が信用を失ってダメになったのに
反省が、無いんだなー >>355
>単なる文化の伝播だと反論されてることは知ってるよね。
無視してるというのはウソだ。<
大和などは、
単なる伝搬ではなく、市を介して、生活用品を搬入して、
代わりに筑紫の技術や中国や半島系の高級製品を教えて貰って、学習模倣した。 >>941
畿内説は口にするのも憚られる存在だよ。 >>944
九州説はデマと中傷ばかりになってしまった
堕ちるところまで、落ちた
>>356
>そもそもの話「九州勢力」など存在しない 九州は弥生時代全部を通して一度もまとまった事などない
そしてまた他地域に影響を及ぼせてない 九州は北、東、中部、南部に大きく分かれている
いわゆる北が伊都国、奴国等の地域だがこれも最盛期ですら西北部をまとめる程度でしかない
東は出雲などの山陰、四国などに強く影響され、南に至っては奈良時代まで別文化圏
銅矛の分布なども四国の西北部に広がる程度でそれより先には殆ど広まらない
出雲が出来た頃には瀬戸内海、山陰からは遮断されている
また土器に至っては畿内で須玖式の「欠片」が見つかっただけで大騒ぎになるくらい
九州は最盛期でさえも九州から外に対して殆ど存在感を示せていないのが分かる
「強大な九州」など存在してないのが分かる <
「南≠東」であるし、
「大和は、倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」であるし、
中国や半島との国交や高句麗戦や白村江などでの戦いの主体は、筑紫倭国であったから、
九州が列島盟主であり、強大であった。 >>365
>>土器の搬入は「支配の証拠」 <
>それ、誰が言った?<
「土器の搬入先は支配の証拠」とは、
最初は、大和説学者らが纏向のつもりで言った。
ところが、筑紫の弥生銀座などの方が、巨大な搬入中心になっている事を指摘されて、
それなら筑紫が支配者であった事になるので、
大和説学者は、それから殆ど言わなくなった。 >>371
アンチ九州説者は、「南→東」などのように、嘘が多すぎる。 しかし九州お爺ちゃんって何故か
理由をひとことも言わない人々なんだよね
異様な感じ
ただ結論を暗記させられる
奴隷教育を受けてたのかな
普通じゃないね
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。