邪馬台国畿内説 Part258 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1502150643/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
1つに、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2つに、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した
その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
(この項続く) ◆6−2(続き)
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
(この項続く) ◆7−2(続き)
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆4,5,6,7,8を修文 257の>>571
>九州に邪馬台国などない理由
@「弥生時代後期の九州は中心を失い小集落に分裂している」<
卑弥呼共立の時代にはまだ100国→30国に分裂していたから。
>(鏡も大量副葬は無くなり各地に分散した状態で見つかり、主体は国産の小型鏡。鏡は衰退と分裂を示す証拠にしかなってない)<
壹與の平原で女王としてのピークを迎え、
天孫族系の銚子塚や日田で金メッキ鏡のピークになり、
317年頃の姫氏の留米付近遷都後は、高良大社の「三種の神宝として」現代にまで伝えられた。 >>55
>卑弥呼共立の時代にはまだ100国→30国に分裂していたから。
だから邪馬台国は九州にないな の257の>>571
>A「福岡などのかつての北部の中心地は吉備式土器、庄内土器の分布が目立ち畿内の影響下にあるのが色濃く見えている」<
庄内は、三雲付近が発祥。
東方の「市」の貧乏部族が、筑紫で学習模倣して、生産を始め、
逆に、筑紫の弥生銀座などに搬入して、
見返りに大陸文化や筑紫の技能や文化を学習模倣し持ち帰って、市を介して、広めた。
>B「九州は弥生時代を通じて他地域に影響を殆ど及ぼせてない」<
白村江の後まで、関東以西の西日本の盟主であり、文化中心であった。
>C「北、東、中部、南と九州勢力は弥生時代全域で一度もまとまった事もない」<
天孫族系と思われる投馬國は、一大率の軍事力で南九州で東テイ人の後を引き継いだから、
九州はほぼ纏まって、
姫氏の卑弥呼共立に反対した姫氏本家の狗奴國が、反対抵抗した。
>(適当にどこかに邪馬台国を設定しても北地域を勢力下に入れていた邪馬台国になり得ず肝心の北はAの状態)<
317年頃の姫氏の東海姫氏國で、分家の卑弥呼らと本家の狗奴國の再統合が出来て、倭国は、九州全域の盟主になったようだ。
>(畿内に至っては須玖式の欠片が見つかって騒ぎになるくらいのレベルでしかない)<
大和は、田舎のご大尽。 257の>>571
>D「九州以外の各地域は都道府県、地方レベルの大きな国が形成されている」<
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職のレベル。
>E「畿内には全国レベルの土器、墓制の分布の中心地が存在していて九州もその影響下にある」<
逆だな。
大和などは、筑紫の文化を学習模倣し、
何でも大きく多くすりゃよい、という低レベルの文化で、
筑紫への搬入や貢納を、繰り返した。
>(九州は北九州に限定しても中心と呼べる地域も、まとまりも見られずAの状態になっている)<
317年頃までは、姫氏の狗奴國の抵抗があったが、結局、
姫氏の卑弥呼の後継が、久留米付近への 遷宮(東海姫氏國)に拠って、南筑後や肥後も倭国に纏まった。
>この前提を全て覆すような発見など最早あり得ないと言っていい状態で九州など論外だと分かる <
この投稿子も、大和説という「結論先にありき」のサギシ人種であり、
「南→東」などの都合の悪い史料事実は抹殺して世間の人々を騙す犯罪者仲間であるらしい、と判る。 257の>>586
>(伊都国)地元である九州北部にさえ干渉できず、
逆に遥か彼方の畿内の影響に完全に埋没してる伊都国の状態が見て取れる<
伊都国は、倭奴國から(奴國と別れた天孫族系の?)阿毎氏系の一大率の国であり、
だから、宮崎のウガヤフキアエズや東征した神武らの親族で本家であり、
317年頃に東海姫氏國が久留米付近に遷宮後も、倭国の軍事的な中心的地位にあり、
沖ノ島祭祀の中心にもなり、
磐井が出て、姫氏から倭国王を奪ったが、
しかし直ぐに北陸の継体に討伐されたが、
葛子に拠って阿毎氏王朝が再興され、タルシホコを輩出して栄えたが、
白村江で大敗して、大和の阿毎氏に併合吸収継承された。 257の>>586
>(伊都国)地元である九州北部にさえ干渉できず、
逆に遥か彼方の畿内の影響に完全に埋没してる伊都国の状態が見て取れる<
伊都国は、倭奴國から(奴國と別れた天孫族系の?)阿毎氏系の一大率の国であり、
だから、宮崎のウガヤフキアエズや東征した神武らの親族で本家であり、
317年頃に東海姫氏國が久留米付近に遷宮後も、倭国の軍事的な中心的地位にあり、
沖ノ島祭祀の中心にもなり、
磐井が出て、姫氏から倭国王を奪ったが、
しかし直ぐに北陸の継体に討伐されたが、
葛子に拠って阿毎氏王朝が再興され、タルシホコを輩出して栄えたが、
白村江で大敗して、大和の阿毎氏に併合吸収継承された。 257の>>586
>(伊都国)地元である九州北部にさえ干渉できず、
逆に遥か彼方の畿内の影響に完全に埋没してる伊都国の状態が見て取れる<
伊都国は、倭奴國から(奴國と別れた天孫族系の?)阿毎氏系の一大率の国であり、
だから、宮崎のウガヤフキアエズや東征した神武らの親族で本家であり、
317年頃に東海姫氏國が久留米付近に遷宮後も、倭国の軍事的な中心的地位にあり、
沖ノ島祭祀の中心にもなり、
磐井が出て、姫氏から倭国王を奪ったが、
しかし直ぐに北陸の継体に討伐されたが、
葛子に拠って阿毎氏王朝が再興され、タルシホコを輩出して栄えたが、
白村江で大敗して、大和の阿毎氏に併合吸収継承された。 >>56
統一されていないのなら、遠方から北部九州を抜けて外交することなどできないわけで、自動的に倭王は北部九州王となるよ。 257の>>586
>(伊都国)地元である九州北部にさえ干渉できず、
逆に遥か彼方の畿内の影響に完全に埋没してる伊都国の状態が見て取れる<
伊都国は、倭奴國から(奴國と別れた天孫族系の?)阿毎氏系の一大率の国であり、
だから、宮崎のウガヤフキアエズや東征した神武らの親族で本家であり、
317年頃に東海姫氏國が久留米付近に遷宮後も、倭国の軍事的な中心的地位にあり、
沖ノ島祭祀の中心にもなり、
磐井が出て、姫氏から倭国王を奪ったが、
しかし直ぐに北陸の継体に討伐されたが、
葛子に拠って阿毎氏王朝が再興され、タルシホコを輩出して栄えたが、
白村江で大敗して、大和の阿毎氏に併合吸収継承された。 鉄器もない
青銅器もない
木器だけある
銅鐸片はある
「筑紫式」ふいご1個が転がっているのを、鉄精製遺構と拡大解釈
大型建物は万行遺跡のが大きいし、鉄工房付きの稲部遺跡のがまだ邪馬台国ぽい
住居跡もない
周囲は銅鐸環濠集落で取り囲まれている
そこに突然銅鏡祭祀の古墳が出現して鉄器がなだれ込んでくる
内内尽くしでもはやどこをどうやったら3世紀の都になるのか
ゴッドハンドレベル 257の>>586
>(伊都国)地元である九州北部にさえ干渉できず、
逆に遥か彼方の畿内の影響に完全に埋没してる伊都国の状態が見て取れる<
伊都国は、倭奴國から(奴國と別れた天孫族系の?)阿毎氏系の一大率の国であり、
だから、宮崎のウガヤフキアエズや東征した神武らの親族で本家であり、
317年頃に東海姫氏國が久留米付近に遷宮後も、倭国の軍事的な中心的地位にあり、
沖ノ島祭祀の中心にもなり、
磐井が出て、姫氏から倭国王を奪ったが、
しかし直ぐに北陸の継体に討伐されたが、
葛子に拠って阿毎氏王朝が再興され、タルシホコを輩出して栄えたが、
白村江で大敗して、大和の阿毎氏に併合吸収継承された。 257の>>598
>訂正された昔の見解だよ 柳田の結論は平原王墓が西新式以前の墓だということ
二世紀末だ<
西新式が、藤崎西新町の半島民や楽浪民の居住地の土器の事を示すんなら、
女王の身内が、そのような土器を副葬に選択しなくても何らおかしくないし、
西新式自体が、3世紀後半頃までにも使用されていても 、何らおかしくない。 257の>>602
>文献学も考古学も知らん人が何をいうやら <
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つきダマシの通説大和説学者らの「文献学や考古学」なんて、
信頼性が全くない、という事も知らん人が、
何をいうやら 。 257の>>673
>大規模な国の形成の進む弥生時代後期になって時代に逆行するように分裂し小集落化していく九州は急激に周辺地域の干渉を受けるようになる
そのような流れの中で山陰、吉備、畿内、四国の勢力が九州を分割するように影響力を行使しはじめる
「鉄を大量に持つ強大な軍事力を持つ九州」など存在せず、小村落の規模のまま大国化していく周辺国に呑み込まれていく姿が見て取れる
そして邪馬台国の頃になると福岡周辺を中心に畿内の影響が明確に現れるようになっていく
この流れは弥生時代後期からその後の古墳時代にまで断続的に続き次第に強まっていく
その為どの時代を切り取ったところで九州に主体的な勢力など見出す事が出来ず邪馬台国などないのが分かる<
何だか、この一連の投稿は、トピ主の書き方を彷彿させるね。
幾ら口先で誤魔化そうとしても、弥生銀座付近が倭國の首都圏であったし、
市を介しての地方からの搬入上納などが極めて大量にあり、
地方は、見返りに半島文化や筑紫の技術を学習模倣して行った、という流れは、全く否定出来ない。
箸墓ですら、那珂八幡の模倣。 >>64
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 福岡と奈良を比べると
丹で10倍以上
銅器(鏡も含む)で6倍以上
鉄器で40倍以上
福岡のほうが多い。 257の>>608
>平原の時代を仮に3世紀の邪馬台国に持ってきたところで状況は変化しない
>>571で示したように九州は既に中心と呼べる周囲に影響を及ぼす国も、大きなまとまりもなく、周辺地域の影響下に落ちている状態
特に伊都国周辺は畿内土器に取り囲まれ孤立した状態であることに何の変りもない <
伊都国は、阿毎氏の一大率がいた軍事的な中心國。
>ここで見つかる「古い銅鏡を鋳つぶして作った国産鏡」の数々は、
外国鏡を手に入れる事も出来なくなり周辺に干渉も出来なくなった伊都国王の衰退した終焉の姿と言うだけでしかない <
巨大国産鏡は、当然卑弥呼への100枚の下賜鏡の一部も使われた。
>平原が邪馬台国の時代であろうがなかろうが最早何の意味もない <
伊都国系の阿毎氏の別種分家の旧小国の大和など、最早何の意味もなかった。 257の>>612
>九州は「女王国の属領」であって決して中心の邪馬台国でなどあり得ない <
大和は、
「倭奴國の阿毎氏の伊都国の筑紫城から別れた別種の旧小国の属領」であって、
決して中心の邪馬壹國でなどあり得ない 。 257の>>617
>邪馬台国は「やまとこく」じゃないのか?<
邪馬台国なんて存在しないし、
「南≠東」だから、大和は邪馬壹國ではないよ。
>天照大神が卑弥呼という説まであるそうだが。<
天照は、紀元前3世紀頃の阿毎氏。
卑弥呼は、紀元後3世紀頃の姫氏。
ねぇ、ザラコクってデマ以外に何か喋ったことある?
ある?
ある? >>72
福岡より徳島のほうが多いんじゃないの? @阿波 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 257の622
>平原の鏡は殆どすべてが古い鏡を鋳つぶした国産鏡でしかない
大量の船載鏡を出すような場所はすでに九州に無い<
100枚の下賜鏡は、おそらく近隣の王への配布と、鏡片で部下に下賜され、残りは平原で使われ、
その後は、天孫族系の神器の一つに使われ、高良大社でも三種の神宝として使われ、
地方では、呉系楽浪鏡師らが、持ち込んだり注文生産したり、倭人の子弟に教えた。
周辺部に数枚の鏡を出す程度になり主体も国産の小型鏡に移る
>どこの遺跡のどの遺物もかつての須玖岡本や三雲時代に比べるべくもなく、国産鏡ばかりの平原でさえもその後に続くものが無い
鏡一点をもってしても九州の衰退はいうまでもなく明らか <
須玖岡本も三雲も那珂八幡も平原も、317年頃の姫氏の久留米付近遷宮まで繁栄した。
>「先進地域の大国の九州」などそもそも存在してないのが分かる <
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、市を監督する田舎のご大尽であった事が判る。 257の>>638
>那珂八幡古墳からは畿内の古墳と同じ鋳型の三角縁神獣鏡が数枚見つかる等、中央と地方と言う関係がかなりハッキリと出ている<
箸墓は、那珂八幡の模倣。
三角縁も筑紫や那珂八幡が先行し、
呉系楽浪鏡師は、卑弥呼への下賜100銅鏡のために筑紫では商売にならず、地方へ転進。
>九州は後の仁徳天皇時代の頃の妃を出した時代になるまでその地位に大きな変化は見えず中心地として機能してはいないのが分かる<
景行、仲哀、神功、応神、仁徳は、
筑紫倭国内の武将的地位であった可能性が高い。 257の>>643
この投稿は、貼り付けの繰り返しであり、世間の皆様にも迷惑であり、
2回も反論してあるから、
・・・・アホは、パスね。 九州北部の国々は、女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではない、即ち倭国でもないというのが、魏志の時点での認識です。
他の地域(ヤマトや九州南部など)の歴史を盗んではいけません。
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。 纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落、発掘した学者をして、纒向は外部の勢力の侵入を考えらずには得られないと言わしめている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろうね。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
テンプレは、敢えてこの事実を無視している。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡などからも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。
倭人とは、記紀で言うなら、イザナギ一派だろうね。
そして倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 >>85
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
その倭人とは、忌部一族なのであった。 @阿波 >>86
>1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。
その交流は、阿波から進出した、忌部一族がもたらしたものであった。 @阿波 257の>>652
>九州の豪族は前提として「前方後円墳という中央によって構築されたシステム」の上にある事に変わりがない<
箸墓は、那珂八幡の模倣だよ。
>後の江田船山古墳、稲荷山古墳の鉄剣に見られるように
地方豪族が大王に服属していることが分かる事からも
古墳の状態と地位は合致しているのが分かる<
江田船山は、倭国内の「銀像眼」的な部下である事が判るし。
稲荷山も、関東の毛人部族が九州倭國の墓性を模倣踏襲しようとした事になる。
>そしてそのシステムの上では九州の豪族は中小規模の地位を示す古墳を構築しているにすぎず<
九州は、装飾古墳や横穴式石棺墓など、先へ先へと進んでいる。、
>副葬品に金銀を収めようがそれが王権内においてさしたる効果も及ぼしていないことの証拠にしかならない<
九州倭國は、東方の附庸國の頑張りなど、関心もないし、気にもしていなかったんだよ。
単に朝鮮半島や大陸に近く交易品を手に入れやすいというだけで弥生時代の九州の勢力と何ら変わりがないのが分かる >>87
>倭人は海洋民族。
倭人は阿波の海を根城とし、全国へ進出していった海人(忌部一族) @阿波 >>85
華南ニグロティックブタピーデが祖先の台湾ブタチック半ニガー。
クッサイ汚らしい、赤の遺伝子、afb1b3
遺伝子真っ赤っか。
ブタを帯びた黒人的造形の顔面。
鼻の穴がよく見える広鼻。
ブタ広鼻。
醜悪極まりない顔面。
ヨゴレ。
そのまんま汚物! 257の>>663
>柳田康雄「弥生王権論」2016を見てるなら
「二世紀に所属する墳墓では……三雲寺口墳墓と平原巫女王墳墓であり」p52
を見てなければおかしい
つまり柳田が平原一号を三世紀だと思っている、などという言葉が口から出るはずがない
やはりウソをついてる人だ <
柳田は、近畿や大和の権力学者らに一言言われただけで、自分の考えを変更した、
変節学者であったんだよ。 >>88
>難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
大阪湾からは小豆島は見えない。
応神天皇の難波大隈宮は、さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 @阿波 >>85
華南ニグロティックブタピーデが祖先の台湾ブタチック半ニガー。
クッサイ汚らしい、赤の遺伝子、afb1b3
遺伝子真っ赤っか。
ブタを帯びた黒人的造形の顔面。
鼻の穴がよく見える広鼻。
ブタ広鼻。
醜悪極まりない顔面。
ヨゴレ。
そのまんま汚物! 257の>>668
また、例の・・・・の貼り付けね。 >>94
妄想と思い込みだけで他人を中傷するザラコク
まともじゃない
257の>>689
考古学も文献学も踏みにじらないと、大和説は無理ってことね w 。 >>99
何も考えず機械的に鸚鵡返しを書き込む迷惑男ザラコク
さすがYAHOOを出禁になるだけある
【あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・】
東讃地方には、応神天皇(倭王讃)の信仰の痕跡が色濃く残っている。郡名の寒川(さんがわ)も「讃川」であった可能性がある。
また「誉・譽(ほむ)」の音読みである「ヨ」を冠した地名が目立つ。「誉・譽」は本来「ほむ」と呼ばれていたであろう。
下記の右の( )内が元の呼称であったと推定する。
譽田寺(ほむたじ) 与田山(譽田山ほむたやま) 本宮山(譽宮山ほむつやま) 与治山(譽治山ほむじやま) 与田川(譽田川ほむたがわ) 与田神社(譽田神社ほむたじんじゃ)、応神殿跡など。
ここからは、二並びに淡路島と小豆島がはっきり一望できるのである。 @阿波 257の>>672
>残念でしたね 平原王墓が2世紀で<
残念でしたね 。
洛陽晋墓の蝙蝠鈕座内行花文鏡が、筑紫から幾つも出ており、
卑弥呼への下賜銅鏡100枚の、一部であった可能性が非常に高いから、
平原の副葬にも、当然蝙蝠鈕座内行花文鏡を使用しており、
平原は3世紀半ば過ぎにしかならない。 大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。
何れにしても、狗奴国の正統は饒速日(実在も怪しい)ではないんだろうね。 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。 畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。
倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。
長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。 ブタチック半ニグロピーデ
長江江南
鼻の穴がよく見える広鼻
ブタ広鼻
突顎
巨大タラコ唇
OOOOOOOOOOH
クサイクサーーーーーーーーーーーイ >>106
下戸遺伝子をもたらした集団は北部九州から畿内へと進出した 257の>>675
>そもそも平原遺跡は出土品も「古い鏡を鋳つぶした国産鏡」に過ぎないだけでなく「ただの墓」でしかない
個々を中心に何かしかの影響を周囲に広げているわけでもなく、ただ墓に副葬品を収めているだけのもの
祭祀遺跡などと言うのも小規模なもので、各地土器が出るわけでもなく中央の勢力として祭祀を行ったのではなく、「豪族の私的な葬儀」という程度の物でしかない
つまりこの遺跡からは「外国との主体的な交渉の姿もなく」「周辺のクニグニに対する影響力の中心たる機能もなく」「私財を投じて財物を埋めただけの墓所」というのが分かる
しかも後続する物ない ただその時代の豪族が財物を使い果たした個人的な墓所と言う性格しか出てこないのが分かる
ここに少なくとも北部九州を影響下に収めた女王なりの墓があるというのはとても考えられない<
大量の玉と、巨大鏡を含む多数の鏡 と、剣を副葬された墓は、
列島で唯一、魏志の壹與の記述に適合し、
伊都国系の天孫族の阿毎氏の「三種の神器」の副葬にもぴったし。 257の>>678
>箸墓の副葬品は発掘できません <
箸墓は、布留であるし、那珂八幡の模倣であるから、4世紀にしかならず、
副葬品を見なくても、卑弥呼の墓でも、壹與の墓でもありません。 https://goo.gl/m2KfqU
弥生時代の青銅器の分布です。対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
これはまるで白村江の敗戦後の防衛体制そのままです。
この時点で北部九州に女王の都などありえません。もう九州説の方はあきらめてください。
狗奴国も分ります、静岡の磐田・袋井近辺。久努国ですね。
その北にある奴国は恵那、あるいは那古野、那古つまり今の名古屋。三河は銅鐸最密集地です。
近江は面白い。
白村江の敗戦後も天智天皇が近江に遷都しました。避難用の第二首都。
弥生時代も同じように考えられてたのかもしれません。伊勢遺跡とはそういう意味合いだったのかもしれません。
この対馬・北部九州から名古屋、東海、信州まで支配した王はもちろん天皇ではありません。
この大きな国の主は大国主です。卑弥呼は大国主の系譜から出ました。
もうヒメ踏鞴五十鈴媛一人しかいません。 >>105
>アマテラスとされる勢力。
>伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
>甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
それ、阿波から進出した、忌部一族(アマテラス)の勢力ですね。 @阿波 >>106
>倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
>下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。
それ、阿波から進出した、忌部一族(海人)の拓殖地ですね。 @阿波 >>112
>弥生時代の青銅器の分布
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
「銅剣・銅矛・銅戈の分布」でも「平形銅剣の分布」でも「銅鐸の分布」でも全て倭国(阿波)が含まれている。
「青銅器」も倭国(阿波)から全国に展開していったことが示されています。
それが、王権は「倭国(阿波)」にあった証拠なんですよ。 @阿波 >>112
青銅器の分布で倭国が北部九州であることがよくわかる >>115
北部九州から阿波へ進出した証拠なんですよ。 >>112
>狗奴国も分ります、静岡の磐田・袋井近辺。久努国ですね。
>その北にある奴国は恵那、あるいは那古野、那古つまり今の名古屋。三河は銅鐸最密集地です。
それ、阿波から進出した、忌部一族(海人)の拓殖地ですね。 @阿波 @八咫鏡(やたのかがみ)
アマテラスのご神体でも何でもない。
崇神の母系・物部が日本に持ち込んだ外国(とつくに)の蕃神。
伊勢神宮は美しい場所だが、だからと言って祭神まで美しいとは限らない。
あの鏡は行き場がなくて今でも伊勢神宮境内を20年に一度「式年遷宮」という名目で彷徨う。
A八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
出雲振根事件の際に出雲から奪った神宝であろう。
B草那芸之大刀(くさなぎのたち)
ヤマタノオロチ云々はもちろん嘘。
スサノオことアジスキタカヒコネ(迦毛大御神(かものおおみかみ))が持ってた神度剣であろう。
この奪った剣で最後の大物主・建飯賀田須命を殺したのかもしれない。
つまり三種の神器は崇神によるクーデターの証拠。
気味が悪いから皇室は伊勢神宮に行かなかった。
熱田神宮にも行ってないはず。 寄生虫してないで
いい加減に、四国説スレたてれば?
邪魔だし >>82
>九州北部の国々は、女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではない、即ち倭国でもないというのが、魏志の時点での認識です。
あなたの心の中ではそうなんでしょう。 まず、下戸遺伝子が長江江南なんてウソ。
下戸遺伝子はアメリカやヨーロッパにもある。
北アジアから拡散した可能性の方が高い。
頻度なんて関係ありませんので。 >>117
>北部九州から阿波へ進出した証拠なんですよ。
逆ですね。
「平形銅剣の分布」でも「銅鐸の分布」でも全て倭国(阿波)が含まれている。
しかし、北部九州は含まれていません。
「青銅器」も倭国(阿波)から全国に展開していったことが示されています。
それは、王権が「倭国(阿波)」にあった証拠なんですよ。 @阿波 https://goo.gl/m2KfqU
弥生時代の青銅器の分布です。
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、畿内は別の領域であり、畿内は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >>120
勝者の貫録で、論戦で叩き潰せばよろしいかと。 @阿波 >>126
考古学者が誰も言わない「考古学的」とか
笑える >>125
>https://goo.gl/m2KfqU
>弥生時代の青銅器の分布です。
>対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
>大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた「倭国(阿波)」を中心とする倭国の領域がわかります。 @阿波 >>124
下戸遺伝子は弥生人こと沿海州の北方モンゴロイドか、半島経由の旧石器人からだろう。 >>125
北部九州は大国主の家来。防人。
偉そうにするな。 >>128
おまえは文芸批評のスレに来てカレーの作り方を延々カキコむ迷惑行為男とおなじだよ >>133
大国主は筑紫政権を立てることになる高天原の勢力が滅ぼしてしまったよ。 257の>>679
>繰り返しになるが平原遺跡は「祭祀遺跡ではなくただの墓」である <
繰り返しになるが、平原遺跡は「ただの墓」ではなく
、「玉と鏡と剣」の三種の神器を備えた、
天孫族系の阿毎氏の女王墓である。
>大きな勢力を持ち径100歩の墓を作った巫女としての女王の墓たる祭祀の場としての機能など全く備えていない
墓所で行う葬儀の規模の遺構しか見つからず<
別に卑弥呼の墓だと特定出来るものではない。
>周辺諸国の土器や献上品が多く出てくるわけでもない <
「三種の神器」の女王であれば、土器や献上品よりも、本人の特徴を示す副葬品で十分。
>その副葬品もただの古い鏡を鋳つぶしただけの国産鏡で中国などの大陸との交渉の証でもない
後に続くものがあるわけでもない <
当然、魏帝からの下賜の100枚銅鏡の一部も使われた。
>平原に過剰な価値を見出すような要素は実は何もないのが分かる <
三種の神器をも否定するこの投稿子は、当然大和王をも否定しているアホ。 >>134
畿内説にとっては迷惑行為。 「目の上のたん瘤」とも言う。 @阿波 平原遺跡は「ただのミカン畑」
wwwwwwwwwwwwww >>136
なんの根拠もないことを何度も言い張り続けるボケ老人 >>138
敢えて言えば、畿内大和> 九州筑紫でしょう。 大和は阿波が本貫地ですから。 @阿波 >>137
ひとに迷惑かけてる自覚はあるのだな
それでもやるのは人間のクズだ 257の>>686
>平原はそこで完結してる墓で何かしかの機能を有した場ではない
中央として周辺にも後にも影響を与えてない <
同じ阿毎氏の別種の分家である大和が、影響を与えられた。
>ただ衰退して私財を投じた個人的な豪族の墓としての意味しか持ち合わせていないのが分かる<
勿論、伊都国系の阿毎氏の王家でなければ「三種の神器」は副葬出来ない訳だが、
その量の多さや豪華さは、倭國の共立女王であった可能性が非常に高い。 >>144
迷惑なら、勝者の貫録で、論戦で叩き潰せばよろしいかと。 負ければ去ります。 @阿波 257の>>694
>でも2世紀末に使い切っちゃったんでしょ?<
筑紫に洛陽晋墓の蝙蝠鈕座内向花文鏡がいくつも存在するから、
それが魏帝の下賜鏡の一部であった事になり、
平原の内向花文鏡には、魏帝の下賜鏡も使われている事になり、
従って、平原は、3世紀後半の墓。 >>149
相手してくれてありがとう。 王者の貫禄で無視すればいいものをw @阿波 >>153
近年の「科学分析的考古学」と魏志倭人伝・古事記により、阿波を推しています。
あなたが「阿波の実像」を知らないだけ。 @阿波 >>150
蝙蝠鈕座内向花文鏡って見たことある?
低級のゴミ鏡だぞ
下賜しないだろ
畿内説のカキコミ皆無だ
他説ばかりが目だつ
畿内説の論が停滞ちや テンプレで学者の説をまとめてくれてるから
論じる必要もないだろう
余白にお爺さんたちが落書きしてるだけで
最終的には1000までテンプレとFAQで完成させて
それを全邪馬台国関連スレにコピペで教化していけばいいだろう >>696
>@鏡の大半は古い鏡を鋳つぶして作った国産鏡<
魏帝の下賜100枚鏡の一部を含め、そんな大量は、倭王クラスでなければ造れない。
>A周辺地域からの献上品や土器の流入などもなく、<
土器や献上品よりも大事で、その女王の身分を、最もよく示せるお宝を副葬している。
>逆にこちらから周りに何かの影響を与えているわけでもない <
その女性が女王であった事を最もよく示せるお宝。
>B大規模な祭祀の場ではなく「個人的な葬儀のレベルを超えない程度」の柱跡がある程度<
大量の玉や巨大な鏡群が副葬された事が「大規模な祭祀」を示す。
>C後続する墓もなくこれを最後に九州の大量副葬の墓はなくなる<
銚子塚の黄金鏡の後、317年頃に、
伊都国の天孫族の阿毎氏王朝から、姫氏の卑弥呼の後裔の東海姫氏に王朝が変わって、久留米付近に都し、
東海姫氏は、(阿毎氏とは違って)、三種の神宝は持ったが、大量は無くなった。 257の>>696の続き
>(平原)・周辺に何の影響も与えてない <
三種の神器が残った。
>・中国との交渉の証ともなっていない <
魏帝の下賜鏡や壹與の大量の「貢白珠五千、孔青大句珠二枚」がある。
>・宗主としての祭祀の場として機能もしてない <
大量の「三種の神器」がある。
>・後に影響も与えていなくその後は副葬品も殆どない貧相な墓になる <
同じ阿毎氏の大和に、大きな影響を与えた。 257の>>700
>鏡・剣・玉は地方の首長だって持ってる威信材でしょ
日本史の常識<
鏡・剣・玉は、天孫族の阿毎氏ら持っていた威信材。
卑弥呼らの姫氏は、阿毎氏と合同した記録があるから、三種の神宝を持った。
それが、日本史の常識。 あの謎のチェーンソーのゲームも、
自作自演のような気がしない?
??
☁
⚡⚡
菅笠+刀剣 >>720
>柳田は平原の方格規矩四神鏡32面を国産と言ってるけど、
陶氏作、無名の10面は国産だろうが、
尚方作(中国の国立工房)の22面は魏鏡だと思うね
つまり240年に卑弥呼に下賜された鏡だ<
成程。
平原に「尚方作」があったのか。
陶氏は、呉系の楽浪鏡師の一人であった可能性もあるなあ。
また、「 257の>>723
>(平原)周りの地域は庄内土器が分布して畿内の強い影響下にある<
三雲の庄内が一番古いんだから、
平原周辺も、三雲の庄内であった可能性がある。
それを河内などが学習模倣して造ったから、
「畿内 の庄内」に見えたのかも知れない。 257の>>724
>柳田はイト国東遷説だから平原を卑弥呼の墓にはしたくないんだよな
卑弥呼の母親の墓だとか言って女王を捏造する始末
平原の方格規矩鏡に見られる特徴は魏代の鏡の特徴そのものなのに <
成程。
蝙蝠鈕座内向花文鏡だけではなく、
平原の方格規矩鏡も、魏帝の下賜鏡であった可能性が高かったのか。 >>167
「尚方作」は重要だね、もし国産だとしても元鏡があったはずだしね 何の謂れも伝承も神社もない平原にヒミコってwww
むなしくないか?
平原は先代旧事本紀の天神本紀に出てくる複数の筑紫物部の一つだろう。
暇があったら探すが良い。
というかおまえら毎日暇なので探せよ。 2世紀末から土師器が北九州にも出始める。
もちろん畿内にはある。
いわば同一文化だ。
その同一文化の中なら古墳の大きさは序列を決める大きな要素だ。
大>中>小
だから北九州は畿内にかなわない。あきらめろ、しつこい。
ヒミコがいたのは畿内だ。
では箸墓なのか。
序列を決める大きな要素は古墳の大きさだけではない、もう一つある。
立地だ。
高地>中>低地だ。
これに気づかないのは橿原考古研がバカだから。
ヒミコの墓は高地にある。
低地にある箸墓ではない。
奈良盆地の高地、高天原と呼ばれた場所にヒミコの墓がある。
前方後円墳ではない。
こんもりとした小山が2つか3つある。
ここだ。
https://goo.gl/nq8fJu >>174
>何の謂れも伝承も神社もない平原にヒミコってwww
>平原は先代旧事本紀の天神本紀に出てくる複数の筑紫物部の一つだろう。
伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。 @阿波
伊加賀志(いかがし)神社
http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 257の>>742
>短里でしょうが、 徑百餘歩は実際に歩いた距離 1歩が25センチだと使者は相当小さい<
始皇帝の「1歩=6尺」の命令は、「里歩系と尺寸系の関係」に関する命令であり、
周髀算経の「一寸千里の法」も、「里歩系と尺寸系」の計測規定になっており、
その一寸千里での、南北千里での影長の 尺寸計測では、
1里=300歩を使って、「1歩≒25cm≒1尺」の短歩を規定している事になり、
始皇帝の規定を明らかに否定している。
そして、1歩≒25cmは、成人の「足底長」にほぼ一致しており、
だから、魏使らは「足底長の何倍か?」で、計測対象の長さの概数を知る事が出来た。 平原は天神本紀に出てくる、
・筑紫弦田物部(つくしのつるたもののべ)らの祖、天津赤星(あまつあかぼし)。
・筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。
・筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)。
このあたりだろう。
下人の分際で女王を名乗るとは頭が高い。
首チョンパするぞ。 >>161
>最終的には1000までテンプレとFAQで完成させて
ワラタ >>174
気づかずに真実に触れちゃってるw
>平原は先代旧事本紀の天神本紀に出てくる複数の筑紫物部の一つだろう。
これが邪馬台国問題の核心であり、危機作成目的の主題の一つ
>何の謂れも伝承も神社もない平原にヒミコってwww
北部九州説によると筑紫の日向らしいのと
伝承がまるごと移籍したとしたら、重要なのに天〇家が敬遠しているあの・・・
私は何も言っていない、君が言ったのだw >>180
三種の神器を持つ女王を下人扱いするとは、無礼千万である。 >>179
>始皇帝の規定を明らかに否定している。
んじゃなくて古田一派の読み方がデタラメなの 257の>>792
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
また、「南→東」の嘘つきダマシの大和説の・・・・サギシが出て来て、
貼り付けをしたようだ。
怖い怖い。 >>183
ヒミコは三種の神器とは関係ない。
関係あるのは崇神。
しかし形代を取って本物の鏡と剣をほ放りだした。
怖いから。
怨霊が怖いからだ。
崇神はヒミコを輩出した神々の末裔を殺したからだ。
日本は万世一系ではない。
今の天皇家の祖先の崇神が神々に対してクーデターを起こしたのだ。 257の>>797
>柳田が御都合って どう言う中傷よ
九州説はもうダメだな 論で戦えない<
柳田は、しょっちゅう年代比定を変えているし、
三雲の庄内も近畿の権力学者に反対されてひっこめるし、
「南→東」になる嘘つきダマシになる大和説を唱えるし、
「ついうっかり」の史料事実の述懐以外は、もうダメ人間だな。 >>187
>>174が言ってるだろ
ヒミコ=ニギハヤヒ系
崇神=ニニギ系
単なる親戚の喧嘩だよw >>188
柳田がしょっちゅう年代比定を変えている
というのは真っ赤なウソ
三雲の庄内を近畿の権力学者に反対されてひっこめた
というのも根も葉も無い作り話
ザラコクの言うことはウソばかり
異常なまでにウソを言う 卑弥呼の墓!?「八倉比賣神社」【徳島】
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm
天照大神は倭国(阿波)に御座しました。
天照大神伝説の地は徳島市国府町の気延山「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
「殉葬奴婢百余人」は気延山一帯が未掘古墳だらけであることから、気延山の卑弥呼円墳近くに、殉葬されたのでしょう。 @阿波 257の>>841
>平原は半分が前漢タイプ
のこりの半分がもっと後漢鏡とかけ離れた特殊タイプ
1は原料不足で鏡以外のスクラップを混ぜた可能性を言ってる
確実に非魏鏡だね <
何だか、平原に関しては、
列島にやって来た呉系の楽浪鏡師らが持ち込んだ「鏡」や「青銅材料」などの存在や、
魏帝の下賜の100枚の銅鏡の一部が平原で使われた、
という可能性を、全く考慮していないように見えるね。 257の>>842
>しかもこれを最後に九州から鏡の大量副葬が途絶えて九州の衰退が確実になると <
平原の後での「九州の衰退」なんて、なかったよ。
九州倭國が衰退したのは、大和が白村江の後で、大敗した倭國を併合吸収継承した時からだから・ 257の>>844
「南≠東」だし、大和説なんて嘘つきダマシのサギシね。 延々と日がな飽きもせず
妄想と独断を呟いてるワガママジイさん滑稽 275の>>918
筑紫から纏向への搬入土器は「0」の筈。
つまり、纏向は都ではなかった。
だから、大和説側は論破された。
これ以外の結論は無いでし?。 257の>>941
そうやって「南→東」などのようにウソをつくから 、
大和説が信用を失ってダメになったのに。
反省が、無いんだなー。 257の>>945
大和説は、「南→東」などの嘘つきダマシだけではなく、デマと中傷ばかりになってしまった。
堕ちるところまで、落ちた。 257の>>950
しかし大和説のガキらって、何故か?、
理由をひとことも言わない人々なんだよね。
異様な感じ。
ただ結論を暗記させられる 奴隷教育を受けてたのかな?。
普通じゃないね 。 無知と強烈な思い込み、過剰な自尊心と歪んだ正義感
これらはサイコパスの特徴 257の>>958
都合の悪いことは何でも棚上げ大和説 w w w 。 257の>>960
つまり大和説は、
しょせん反科学反学問 ってことだな。 257の>>961
[
「南→東」などの嘘つきダマシのサギシみたいな輩は、
ただ問題を先延ばししたいのさ。
すぐ九州説勝利で結論が出ちゃうからね 。
焼け石に水なのに 。 >>200
畿内説は論理性を欠いたまま教条主義的に結論だけ盲信しているからね。
カルトだよ。 257の>>975
>三角縁はまあ、まず魏鏡だろう 否定材料はない<
洛陽から殆ど出ず、呉付近に類似鏡の出土が多いから、呉系だろうし、
だから、呉系の楽浪鏡師らの渡来に拠って、筑紫で造られ、
魏帝の下賜100枚の銅鏡で商売にならなくなって、地方へ行って、
大和の子弟に教えて、副葬用の粗悪な三角縁を一杯造らせたんだろう。 >>209
同位体の分析からも魏の鏡ではないみたい。 >>210
それは全く根拠がない
本物の研究者は同位体の分析から魏の鏡である可能性が高いと言っている >>56
>>卑弥呼共立の時代にはまだ100国→30国に分裂していたから。<
>だから邪馬台国は九州にないな<
だから、(統一王ではなく)、「共立」女王だった、と書いてある。 >>213
共立された王がいるのに国が分裂してたら矛盾だろ >>82
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。 <
この投稿子は、また「南→東」などの嘘つきダマシをしての、
貼り付けの繰り返しね。 鉛同位体については、データ元の中国鏡と思われる鏡がどこでいつ作成されたか?わからない状態なので、考察にも限界がある。
一緒の工房で同じ時期に作成されたのかどうか?ならほぼ同じ数値になるからわかるだろうが、魏鏡かどうか?は答えを出すには難しいだろうね >>84
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と
狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
「南≠東」だから、始めから×だよ。 >>85
>倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、
大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。<
これも、
「南→東」であり、
「大和は、倭國から別れた別種の旧小国」であるから、
×。 >>87
>クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<
これも、「南≠東」であるから、×。 >>217
まあ新井が魏鏡じゃないって言ってるのが間違いなことは読めば解るよね >>88
>○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。<
半分×書の盗用史書である記紀に書かれた景行、小碓命、仲哀、神功、応神、仁徳は、
九州倭國の中の(大和系の?)武将の事績の盗用造作である可能性があり、
論拠にはならない。 >>104
>大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。<
始めから「南→東」の嘘つきダマシの詐欺になっているから、×。 >>105
>卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。 <
始めから「南→東」の嘘つきダマシをした話を書いたから、全部×。 >>106
>畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。<
これも、始めから「南→東」の嘘つきダマシをしているから、全て×。 >>109
>下戸遺伝子をもたらした集団は北部九州から畿内へと進出した <
それが、国生み神話や、神武東征や、「自昔・・・東征毛人五十五國」の事であり、
北部九州が倭國の都であった、という事での話。 >>112
>弥生時代の青銅器の分布です。対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
これはまるで白村江の敗戦後の防衛体制そのままです。
この時点で北部九州に女王の都などありえません。もう九州説の方はあきらめてください。<
「南≠東」ですから、女王の都は北部九州です。
もう大和説の方は(ssnを含めて)あきらめてください。 >>229
畿内説の嘘がバレると困るので、要請しません。 邪馬台国と対立する狗奴国の男王が卑弥弓呼。卑弥呼と名前が似ている。 畿内説って言うのは、倭人伝に関係無く3世紀の日本の王の墓を探してるんだろ?
倭人伝の女王卑弥呼の墓なら、魏使が来て見た九州に有ったんじゃね?
邪馬台国は女王卑弥呼の国に含まれる、奴国の東の不彌國から
南至投馬國水行二十日 可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 可七萬餘戸
なんだけど、なんで国内から邪馬台国へ出発するよ?
この文は、
帯方郡から南の投馬国、水行20日が5万戸(20万人?)
その南の邪馬台国が水行10日の島々と陸行1月の範囲の九州上の領土で7万戸(28万人?)
って書いてあるわけで、投馬国は韓だし邪馬台国は卑弥呼の九州北部倭国。
国内の村邑、不彌國から出発しちゃダメだ。
この文以外で、韓を投馬国、倭を邪馬台国と言い換えてる分は無い。
ソース不明の国名が投馬国と邪馬台国。
馬韓でもトンマでも良いし、倭でもヤマトでも良いけどなw
明らかに陳寿が、ソースが違う史料からコピペで、本文に貼り場所間違えてるだろ?
この場違いな文を、削除すれば倭人伝は気持ちよく読める。
ドン来いスレなら全文有るから、漢字読める人は倭人伝読んでね。
弥生ミュージアムの写本の写真も参考になる。 >>222
畿内説に都合の悪いことは、すべて間違いかwww さすが畿内厨wwwwww >>234
だって九州説が間違いからできているんだもの
当然だよ >>234
どういう理屈で鉛同位体比から三角縁が魏鏡じゃないことになるのか説明できる?
できないでしょ?
誰にも説明できない説は間違った説だよ >>236
その説明が新井論文だろ。アホか。
三角は中国から出てないんだから、倭製と考えるのが自然。鉛同位体比がその推論を裏付けたんだろ。
平原は倭製で、三角は中国製とかご都合主義にもほどがある。 >>237
どういう説明してるかアナタは説明できないでしょ?
つまり理解してない
ただ結論が自分に都合がいいからエコヒイキしてるだけ
だから間違いを指摘されても弁護することができない
残念だったね >>237
平原の方格規矩鏡と三角とどちらが魏鏡が含まれる可能性が高いか?を考えれば、平原かな。
三角は魏の領域から出土がないから仕方がない >>238
新井論文のどこがが間違いか、お前が指摘しろ、カス >>238
論文にリンクが貼ってあるんだから、自分で読めよ。
都合が悪いから誤りだとか、アホだろ。
畿内説は恥知らずの代名詞なのか? >>239
残念ながら平原の鏡を魏鏡にすることは100%不可能
これは鉛同位体比の話が理解できればわかるよね >>242
だから間違いが指摘されてるだろ
そしてキミ盲信者は誰も反論できない
御愁傷様 >>245
スレ終わりで反応ないだけじゃねーの。
1の得意技だな おまいらぬけてるのか
ファッションじゃあるまいし魏鏡なんか貰っても有難味とかないしね >>247
言い訳したってダメ
今だって反論できないでしょ? >>243
新井論文の比較対象は日本にある魏鏡と思われる鏡なんだよね
本物かどうか分からない
だから金出して中国に魏鏡を分析してもらえば決着するんだが 結局、三角縁に添加剤で使われてる鉛は中国産ってデータだろ >>172
>「尚方作」は重要だね、<
そうですね。
「尚方作」と刻む事は、夷蛮の倭人では無理だし、呉系の楽浪鏡師であっても無理でしょうね。
漢か魏の朝廷以外は、まず無理です。
>もし国産だとしても元鏡があったはずだしね <
「尚方作」の意味を知らない倭人がそのまま模倣した場合だけでしょうが、
倭人の支配層は、漢文を読めましたから、許可しないでしょうね。 >>175
>2世紀末から土師器が北九州にも出始める。 もちろん畿内にはある。<
近畿の庄内は、久宝寺で、伽耶の陶質土器が(布留ではなく)庄内と共存しているんだから、
285年頃以後だ。
>いわば同一文化だ。<
勿論、神武らは倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であるんだから、
伊都国付近とは、同一祭祀文化だ。
>その同一文化の中なら古墳の大きさは序列を決める大きな要素だ。 大>中>小
だから北九州は畿内にかなわない。あきらめろ、しつこい。<
同種の部族で後から墓を造る方は、前代の墓よりも、より大きく立派に見えるように造らなければ、承知しない周りの親族がいるんだから、
必然的に大きくなるものであり(セレモニーは進化する)、
大きさなど根拠にならないのだ。
あきらめろ、しつこい。
>ヒミコがいたのは畿内だ。<
「南≠東」だから、×だ。 >>256
>近畿の庄内は、久宝寺で、伽耶の陶質土器が(布留ではなく)庄内と共存しているんだから、
>285年頃以後だ。
どうしてそんな真っ赤なうそを言いふらすの?
詐欺師だから?
脳の病気だから? >>210
>同位体の分析からも魏の鏡ではないみたい。<
そうでしたね。
列島の鏡には、楽浪付近の鉛鉱山の鉛も含まれている、という話でしたね。 >>212
>それは全く根拠がない 本物の研究者は同位体の分析から魏の鏡である可能性が高いと言っている <
そりゃウソダマシでしょ?。
三角縁は、洛陽からは殆ど出ずに、呉付近ばかりに出るし、
他の鏡でも、魏代の鏡の成分鉛の検査は全く行われていないから、不明な筈。 >>214
>共立された王がいるのに国が分裂してたら矛盾だろ <
各国は、
共立女王の前後では、まだ「乱」になっていた、
という事は、独立した。 >>216
>鉛同位体については、データ元の中国鏡と思われる鏡が、
どこでいつ作成されたか?わからない状態なので、考察にも限界がある。
一緒の工房で同じ時期に作成されたのかどうか?なら、
ほぼ同じ数値になるからわかるだろうが、魏鏡かどうか?は答えを出すには難しいだろうね<
「尚方作」と刻まれた鏡は、やはり、
、魏帝の下賜鏡であったか、それの複製鏡であった、んでしょうね。 >>222
>まあ新井が魏鏡じゃないって言ってるのが間違いなことは読めば解るよね <
三角縁に関しては、洛陽からは殆ど出ないんだから、魏鏡ではありませんよ。 >>235
>だって九州説が間違いからできているんだもの 当然だよ<
だって大和説は、「南→東」の嘘つきダマシの詐欺からできているんだもの。
批判非難されて当然だよ 。 >>260
アホですか
共立女王の後にもまだ「乱」になっていてどうすんの
倭人伝無視すんな >>243
>残念ながら平原の鏡を魏鏡にすることは100%不可能<
平原には「尚方作」鏡も含まれているから、
最低「魏帝からの下賜鏡か、その複製鏡」が存在した事は、ほぼ確定。
>これは鉛同位体比の話が理解できればわかるよね <
魏代の中国の鏡の「鉛」の検査がされていないんだから、「不明」にしかなっていない。 鉛同位体比の専門家は▲は国産では無いとかなり強い論調で結論づけていたはずだが
それを逆向きに主張しているとは初耳だからソースプリーズ >>252
>結局、三角縁に添加剤で使われてる鉛は中国産ってデータだろ
中国といってもひろうござんすし、
昔のものか、魏代のものかも不明でござんす。
呉系楽浪鏡師が「持ち歩いた鉛材料」か、楽浪付近の鉛山のものかも知れない。 だから舶載鏡と言いたいなら根拠となる論文やそう主張する学者の一つなり示せ 中国出土ゼロの銅鏡 = 国産鏡
鉄器出土ゼロの集落 = 邪馬台国とは無関係の田舎集落 >>268
鉛同位体比の専門家は▲は国産では無いとかなり強い論調で結論づけていたはずだが<
新井さんも、そういう紹介であった筈。
>それを逆向きに主張しているとは初耳だからソースプリーズ <
新井論考が、「▲は国産では無い」可能性が高い、としておられたんだよ。 >>273
>中国出土ゼロの銅鏡 = 国産鏡
>
>鉄器出土ゼロの集落 = 邪馬台国とは無関係の田舎集落
まあ、これが正解だよね。 >>272
>だから(三角縁が)舶載鏡と言いたいなら根拠となる論文やそう主張する学者の一つなり示せ<
魏帝からの舶載は、洛陽に殆どないから無理でしょうね。
楽浪の呉系鏡師の舶載なら、初期の三角縁なら可能性もあるが
、4世紀の三角縁では国産でしょうね。 >>274
だから専門家じゃなくてマニアの素人でしょ 三角縁神獣鏡も倭国(阿波)で作られた仿製鏡で、全国へ配られている。 @阿波
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が大分(赤塚古墳)、岡山(鶴山丸山古墳)
京都(内里古墳)、奈良(黒塚古墳)、群馬(天神山古墳)で出土している。 同じ名前というだけで、
お前の家の話ではない
というのは有名な話なのかな
ちなみに家は、
むかーし伊達郡というところに住んでいたんだけど、
あの写真もそう >>272
岡村、福永、車崎、上野・・・鏡の専門家の論文どれを読んでも結構
みんな魏鏡論者 107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみる。
魏志の卑弥呼の朝貢が238年。
スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。
しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。
邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。
本居宣長はそれに気づいた。
ところが大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。
記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばした。
今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。
ショックが大きい。
だから本居はわざと九州説(熊襲の女酋長)という虚構を創ってごまかしたのだ。
論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。
これは天才の所為である。 上の名前の読み方も
「▢▢力夫」
この読み方だと言っている
『広瀬座』というのがあって、そこへ行ったり・・・ 本居はわざと九州説(熊襲の女酋長)という虚構を創ってごまかした。
ところが20世紀、とんでもない「すっとこどっこい」が現れた。
古田武彦「九州王朝説(大笑い)」
古田武彦「九州王朝説(大笑い)」
もう一度、
古田武彦「九州王朝説(大笑い)」
大衆演劇「古田武彦一座」
zarakokuも役者として登場。
役柄は「通りすがりのハゲ」
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww こうしてみると畿内説に反対してる人の話は
ネタ噂話や思い込みゴリ押しばっかりだね
ちゃんとした学者の唱えてるものは何もない >>280
自分の頭で考えなきゃ
考察には学者の「こうでありたい」と
いう希望的推測も含まれてしまうから
それらを読んで納得できればいいのだが、私的には中国でどの種類の鏡がどの地域でどのぐらい出土している→からの論考でなければ意味がないと思っているよ >>285
学者の名前を言えと言われたから答えただけなのに
ピンボケな人だね 職業も、よくわからない
芝居とか、
そういうのばかり観ていた
クラの中にあった刀や掛け軸、
壺なんかを売ってしまったり・・・
そのような事を言っていた 三角縁神獣鏡も倭国(阿波)で作られた仿製鏡で、全国へ配られている。 @阿波
根拠:気延山古墳群の宮谷古墳出土三角縁神獣鏡と同笵鏡が大分(赤塚古墳)、岡山(鶴山丸山古墳)
京都(内里古墳)、奈良(黒塚古墳)、群馬(天神山古墳)で出土している。 これも数年前の書き込み
「本人だぞw」
「ホンモノです」という事を言っている人がいたり
何かの家だったのかな >>286
それらの学者の説には三角が魏鏡という根拠がないのだよ 沢山あった本なんかも、あげたのか、売っちゃったのかな、
それとも近所の人が持って行っちゃったのかな
このようなことも言っていた >>280
同位体についての専門家じゃないでしょ
金属工学の見地からの論文をと言っているのに
ピンボケな人だね 中国出土ゼロの銅鏡 = 国産鏡
鉄器出土ゼロの集落 = 邪馬台国とは無関係の田舎集落 >>294
おいおい、うそつきだな
そういう病気の人?
「金属工学の見地からの論文をと言って」ないだろ >鉛同位体比の専門家は▲は国産では無いとかなり強い論調で結論づけていたはずだが
>それを逆向きに主張しているとは初耳だからソースプリーズ
【サルでもわかるように翻訳すると】
鉛同位体比を分析して舶載だと主張している論文を示しなさい >>64
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 >>296
日本語が不完全で意味不明な文章だな
いつものアノ人? 国産鏡の殆どは中国の銅を鋳直して使っている。
中国の銅器は銅の産地がある程度集中するので
成分も集中しやすい。
日本の銅器は日本にわたってきた様々な銅器を
混ぜて鋳直すので、成分が広く分散する。 >>299
ところで
▲は国産では無いとかなり強い論調で結論づけていた鉛同位体比の専門家
って、誰? >>305
あとから急に論文を出せと言い出す詐欺師
w 中国出土ゼロの銅鏡 = 国産鏡
鉄器出土ゼロの集落 = 邪馬台国とは無関係の田舎集落 「あー、僕は搾取されてばかりだ」
という書き込みをしている人がいたり
本人ではないと思うw 最初からソース示せと書いてあるのに示さずに逃げ回るキチガイ >>305
「弥生・古墳時代の仿製鏡の鉛同位体比の研究」馬淵・平尾 人権侵害?
のような事を言っている人がいたり
何なんだと思う 以前は・・・だったけど、現在は一般人?
このような人の話なのかな
wikiなどもない >>305
結局また舞殿通り議論で負けて捨てセリフの罵倒で逃げていく
いつものあの人か 家の老婆がいたでしょ、
あの謎の震災後
北斗の拳【再】を観ていたり 言ったってないの水掛け論に持ち込んでるな
相変わらず汚いなぁ、畿内厨は。日本史板のもう汚物として考古学板にでも追放しろよ。
【サルでもわかるように翻訳すると】
鉛同位体比を分析して舶載だと主張している論文を示しなさい >>320
「言ったってないの水掛け論」ってアホですか?
頭狂ってますか?
ログの残ってる掲示板にそんな水掛け論は存在しない
嘘つきがいるだけだ
w 320 に噛みついたお前は、畿内厨に認定だな。さっさと、
「 鉛 同 位 体 比 を 分 析 し て 舶 載 だ と 主 張 し て い る 論 文 を 示 し な さ い」
出来なければ、三角は日本製でFAだよ。
状況から言っても、物理的特性からいってもな。 >>320
鉛同位体比を分析して舶載じゃないと主張している専門家の論文はあるのか? >324
>325
駄レス不要。 論文あるなら、コピペして示せばいいだけ。
「 鉛 同 位 体 比 を 分 析 し て 舶 載 だ と 主 張 し て い る 論 文 を 示 し な さ い」
出来なければ、三角は日本製でFAだよ。
状況から言っても、物理的特性からいってもな。 >>326
本当に馬鹿なの?
それとも病気の嘘つきなの?
示されてるでしょ
それとも誰にでも見える事実をねじ曲げたい? >>326
物理的特性からいって日本製だって
どんな理由で?
????????? >326
駄レス不要。 論文あるなら、コピペして示せばいいだけ。
「 鉛 同 位 体 比 を 分 析 し て 舶 載 だ と 主 張 し て い る 論 文 を 示 し な さ い」
出来なければ、三角は日本製でFAだよ。
状況から言っても、物理的特性からいってもな。 これどうよ
弥生・古墳時代の〓製鏡の鉛同位体比の研究(馬渕久夫)
(1)魏鏡説は、全般的に鉛同位体比の結果と整合性がよい。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-05835017/ >>329
で?
鉛同位体比を分析して舶載じゃないと主張している専門家の論文はあるのか? 古田史学スレで(2chに)×にされたようなので、こちらに転写保存。
>>428
>>(後代文献での邪馬臺國記載)引用でも証言でもなく、概要の説明なんだが?<
>そりゃ古田が反論しやすいように概要説明のだけを集めて反論に使っただけだろ<
いや、古田さんは、始めから、
(類書などを含む)後代文書での 「前代文書の紹介説明」は、写本版本系の記載よりもはるかに信頼性が低い、
という説明だった。
>辞書としての引用部分は概略説明じゃなく引用だよ、<
太平御覧などの類書は、辞書でもなく、
辞書類似の「内容説明的な書き換え」部分と引用部分の両方を持っている。
勿論、辞書であっても、「別の文言での、内容説明的な書き換え」である事には変わりがない。
>説明もその上で邪馬臺国と書いてある <
書き換えをした悪質な後代文書の典型だな。 >>297
>各地から見つかる高床大型建物=倉庫
ですよねー。 畿内説はもはや専門家も支持していない。
考古学的にあり得ないことがはっきりしてきたから。 >>330
その論文が証拠?
内容も理解せずに引用してるんだね とんでも九州説ってさ、うっかりウソ以外のこと言ったら九州説死んじゃうじゃん?
仕方ないんだよ 時期的にやっていたでしょ?
北斗の拳【再】
関東圏だよ >>340
卑怯者は>>312でも指摘されてたのに無視してた
トンデモってこうだから 邪馬台国の議論してたら馬淵や平尾の論文は読んでて当然なんだよね
存在を知りもしなかったキウスって恥ずかしい奴だよ >>330
>>343
その論文の要旨
「舶載」三角:B1
「呉紀年」三角:B2
「国産」三角:B3
日本出土の魏鏡(と言われている鏡):B1
三角以外の古墳時代国産鏡:B123にまたがる
「舶載」三角は、魏鏡と同じB1で、しかもB1だけに集中しているから、
他の古墳時代国産鏡とは違うんだ、
という論法。
つまり、最初から、三角を舶載と国産に仕分けしているわけだ。
正しい理解の仕方は、三角にはB1もB2もB3もあるのだから、
古墳時代の他の国産鏡と同じく、一定の原料で作られていない、
という結論。 B1が出たら舶載に
B3が出たら国産に振り分けてしまえばいいという >>347
素晴らしいね。
流石に▲が白菜、平原が国産 としておいて、国産に価値がない、
というような論は、欲張り過ぎだろ。
平原も三角も国産で、当時の日本人は国産でも大変ありがたがっていた。
これが実情。 意図的に詐欺をしているのか
理解する脳がないから不利な論文を引用してくるのか
理解に苦しむw >>349
蝙蝠が入ってきてもコピーしなくなった時点で、
国産独自の発展が進んでいたことが明らかですね。
大型内行花文鏡も三角縁神獣鏡も日本が誇るべき国産鏡でしょう。 平原の超大型内行花文鏡は国産だろうけど、方格規矩は魏鏡だろ。
ここを捻じ曲げると研究が100年遅れるぞ。 最初に型式学的知見を参照しなきゃ
前漢鏡も後漢鏡も魏鏡も呉鏡も倭鏡も分離できませんね >>351
お前とは話が合いそうだ。
平原の時点で国産化に成功しているんだから、これだけ誇らしいことはない。
国産だから衰退だというアホは、来世はもう少しまともな頭で生まれることを期待して、
早めに逝け。 前漢鏡は河北鉛←枯渇
後漢鏡は河南鉛←三国時代は呉領
魏鏡は? 8月11日午前編
>>268
>>330
>>347
悔しい畿内説が話題逸らしを開始←今ココw 中国出土ゼロの銅鏡 = 国産鏡
鉄器出土ゼロの集落 = 邪馬台国とは無関係の田舎集落 三角が研究の当初から魏鏡とボウ製鏡に分離されていたのを知らないバカがいるのはこのスレですか? 魏から出土すれば魏鏡
魏から一枚も出土しないなら魏鏡ではない >>368
今やかつての倣製鏡は晋鏡だとされつつあるけどな 出土場所でしか語れない情弱の声がでかいのはネット上だけ >>355
型式の分類の研究はもっとすべきですね
中国の鏡の進化と、国産の鏡の進化は別に考えるべき
勿論お互い影響しあっているだろうが、同じはありえない
国産はもしかしたら平原より前に開始されてる可能性も出て来ている
日本出土鏡を中国鏡のベースにする考察は危険と感じる >>357
>平原の時点で国産化に成功しているんだから、これだけ誇らしいことはない。
同意する。
大型化も同時に果たしているわけで、平原は倭国大乱より後に安定した政情で技術力の向上が果たされたのだろう。 >>371
そんなレベルはとっくに過ぎてる
ネット情報だけでなく専門書や専門誌も参照しろよ >>363
このように
状況がまるで見えてないのが
トンデモ九州説の特徴 >>372
考古学完全無視
これが九州説唯一の延命策
・・・って逆に死亡フラグじゃん >>373
三角のバリエーションの多さには複数系統の作鏡師が必要で
半島ではそれは想定しがたい状況であることが明白なんだが >>375
そうですか?
どの様に平原に現れる技術力の国産鏡に発展したかもわからないのに?
日本出土の鏡で、国産と大陸産と鏡の分類もはっきりしないのに?
加えて、作成された年代もわからないのに? 平原の内行花文鏡はデカいだけで鏡作りの技術的には大したことない >>382
少なくとも半肉彫の技術系譜にはぜんぜん繋がらないね >>384
それすら理解できないレベルの奴らの方が声が大きいという、ネットの寒い状況 そして鉛同位体比の話を理解できる人間が
九州説には一人もいないわけだ >>382
>>384
>>386
弥生時代は銅鐸祭祀の畿内厨が何を言ってるの?
嘲笑wwww 畿内説スレを残すためにはもう九州説をパージするしかない
そんな臭いのするスレだな >>390
勝手に寄って来て荒らし回るのにパージも糞もない >>280
>岡村、福永、車崎、上野・・・鏡の専門家の論文どれを読んでも結構 みんな魏鏡論者<
その「鏡の専門家」とやらは、皆「南→東」の嘘つきダマシの通説大和説者なんでしょ?。
それじゃ、今更何を唱えても信用出来ない半分×専門家であり、
半分×人間ですよ。」 >>381
わかっているのなら、三角や平原鏡のどれが中国産かどうか?確定してるんだね まともな人…自分が知らない→知らないことはたくさんあるから色々調べて勉強しなきゃ
おかしな人…自分が知らない→そんなこと知らないからそんな事実は存在しない >>284
こうしてみると九州説に反対してる大和説学者や大和説信者の人の話は、
「南→東」の嘘つきダマシのネタ噂話や、思い込みゴリ押しばっかりだね 。
ウソダマシをしないちゃんとした学者や科学者の唱えてるものは何もない。 >>394
その質問が、何も知らないことを明確に示している >>296
始めから「南→東」の嘘つきダマシの「結論先にありき」の通説大和説学者は、
・・・・サギシである事があからさまだから、誰も説得できない 。 >>397
知っているのでしょう?
制作された年代も教えてくださいね 無知は、識者がまだできないと現状を把握していることを、できないはずないだろと夢想する
だから無知はバカ >>377
>トンデモ九州説の特徴
そう思っているのはあなただけ。 >>399
制作と製作は意味が違うよ
言葉は正しく使うよう心掛けような
できるならば、だけどw 自分がトンデモだと認識できないところが九州説に陥る元凶 畿内説のスレだから畿内説の支持者がそれを述べればいいと思うの。 >>331
「南→東」の嘘つきダマシのサギシでなければ、大和説なんてやってられないさ。 62病の正体は、「自分は凄い」っていう傲慢さだからな >>405
畿内厨は、罵倒専門だからハードル高いな ▢▢力夫
工作員と思われる人物のほうが上の人間だったの?
それとも忍者アニメに書いてあるような、二重何々?
潜入? >>335
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者や大和説学者やYahooや2chは、
存在自体が、
国民や世間の善男善女らに迷惑。 >>408
よく意味不明な>>405を理解できるなw >>341
「南→東」などの嘘つきダマシのサギシの、とんでも大和説ってさ、
うっかりウソ以外の、本当のこと言ったら、大和説が死んじゃうじゃん? 。
仕方ないんだよ 。 むかーし住んでいたという、
伊達郡川俣町という掲示板
ポリス ポリスという
謎の書き込みがあったり
そういう系統の工作員・・・関係者? >>413
自分も年をとれば頑固になると思うけど、ああはなりたくない むかーし住んでいた家に凄い刀があった
あの謎の写真の家 >>347
>その論文の要旨 「舶載」三角:B1 「呉紀年」三角:B2 「国産」三角:B3
日本出土の魏鏡(と言われている鏡):B1 三角以外の古墳時代国産鏡:B123にまたがる
「舶載」三角は、魏鏡と同じB1で、しかもB1だけに集中しているから、 他の古墳時代国産鏡とは違うんだ、
という論法。
つまり、最初から、三角を舶載と国産に仕分けしているわけだ。
正しい理解の仕方は、三角にはB1もB2もB3もあるのだから、
古墳時代の他の国産鏡と同じく、一定の原料で作られていない、 という結論。<
成程。
当然、「日本出土の魏鏡(と言われている鏡):B1 」に関しても、
魏の鏡での検査が行われていないんだから、確認が取れていない事になるね。
また、後になればなるほど、以前の鏡の再溶融や、新規の鉛鉱山の鉛の添加も有り得るので、
混合があって当然だね。 >>405
それって何?
トンデモはいつも、日本語が不完全 >>422
つまり、不完全な内容の>>405を理解して書いてる>>408は自演だな >>351
>蝙蝠が入ってきてもコピーしなくなった時点で、
国産独自の発展が進んでいたことが明らかですね。
大型内行花文鏡も三角縁神獣鏡も日本が誇るべき国産鏡でしょう。<
ちょっとややこしいのは、渡来の「呉系の楽浪鏡師たち」の存在。
当然、倭人が「鏡の改鋳」をするのを指導したり、自らの「鏡の改鋳」を実行したんでしょうね。
そして、それが舶載だ、と判定されたのか?、も問題。 おかしくなければアンチなんてやってられんよ
キウスしかり糸クズしかりザラコクしかり泡沫しかり >>371
>型式の分類の研究はもっとすべきですね
中国の鏡の進化と、国産の鏡の進化は別に考えるべき
勿論お互い影響しあっているだろうが、同じはありえない
国産はもしかしたら平原より前に開始されてる可能性も出て来ている
日本出土鏡を中国鏡のベースにする考察は危険と感じる <
古田さんが指摘されたが、立岩は、ホウ製鏡であったようでした。 >>377
このように、
状況がまるで見えてないのが、
「南→東」などの嘘つきダマシの、トンデモ大和説の特徴 。 >>378
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説考古学者、完全信仰。
これが大和説の唯一の延命策。 川俣町
>川俣町の地名は、小手子の郷里、
>大和国(やまとのくに・奈良県)高市郡川俣の里にちなむという説がある。
どういう話なんだろう >>387
そして鉛同位体比の話をきちんとできる人間が、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者には、
一人もいないわけだ。 >>390
大和説スレがあった、という事を残すためには、
もう「邪馬台国畿内説」全体をパージするしかない 、
そんな臭いのする状況だな 。 >>404
自分が「南→東」などの嘘つきダマシのトンデモサギシであった、
と認識できないところが大和説に陥る元凶 。 >>437
ザラコクは
なんで「南→東」とやらが嘘つきダマシなのか
説明も出来ないのに連呼する
トンデモサギシであった 老婆の言う
銀?というのも、
川俣町、その近所に住んでいたみたいだよ
確実に家の親戚 疎開したときにもいた
と言っている
家に凄い刀があったとか >>271
鉛同位体比法知らないならレス書くなよw なぜ九州が出てくるんだ?
と言っている人がいなかった? >>405
「畿内説のスレ」だからだ、言って、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説を宣伝し、
「邪馬壹國→邪馬台国」や「大和説→畿内説」などの誤魔化しをして、
世間の人々を騙そうとする事は、いけない、と思うの。 >>408
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
史料事実についての議論をせずに、
罵倒専門だから、
ハードル高いな 。 >>410
「南→東」などの嘘つきダマシについての反省もしない、大和説者という人種は、
傲慢や独善とかを通り越して、・・・・だ、と言うべきかな?。 >>416
年をとれば好々爺にになるというけど、
「南→東」などのような嘘つきダマシの大和説を、
子や孫らには、教えたくはない 。 >>420
>三角縁は舶載で<
洛陽に殆ど出土しないから×。
呉付近からの直接的な舶載か?、呉系の楽浪鏡師が渡来して来て直接造ったり指導しなければ、無理。
>平原は二枚を除き国産 <
「尚方作」は、もっと多かった筈だよ。 なぜ大和説と呼ぶのか
昭和56年の統計においては、在日韓国朝鮮人の三割が大阪府に居住している。
さらに範囲を兵庫県、京都府、大阪へと広げると、割合は半数近くにも達する。
これらの人々の信仰の対象として、生駒山周辺には60程度の朝鮮寺が存在すると報告されていたが、
現在ではその数は20程度にまで減少している。
生駒山中でも大阪に面した西側南北10kmほどの地域、
北から順に辻子谷(づしだに)、額田谷(ぬかただに)、鳴川谷(なるかわだに)、以上いずれもハイキングコースとして知られる、
山畑・服部川地区、黒谷など、互いに平行に走る谷沿いにそれぞれ数個の寺院が連なって存在する。
これらは行政区では四条畷市、大東市、東大阪市、八尾市に該当する。 自分の疑心暗鬼のせいで他説を排除しようとする態度は学問とよべない >>426
「南→東」などの嘘つきダマシの、アンチ九州説の大和説者って、
平気で自演するような奴らばかりなのな 。 >>428
おかしくなければ、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説なんてやってられんよ。
大和説学者しかり、サギシしかり 、キョクウの戦争狂しかり、ヤクザ暴力団しかり、
赤報隊のような・・・・殺人鬼しかり・・・。 >>434
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者は、
まるで右翼のヘイトスピーチ街宣車。 いつの間にか故郷の古墳が卑弥呼の墓の候補地になってた >>442
大和説は、「南→東」などの嘘つきダマシのサギシが作った 。 たしか九州スレだと思う
お前は、どこかの国の王族か何かだったのか?
と言っている人がいたよ >>445
大和説はトンドモ考古学者が作った。
注
トンドモ=「南→東」の嘘つきダマシのサギシの意味。 >>452
自分の「南→東」などの嘘つきダマシの詐欺のせいで、
他説を排除しようとする態度は、学問とよべない。 伊都国も狗奴国と一緒。倭国大乱以前は、旧倭国の体制の主要構成国だったかもね。
北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
記紀の記述が事実なら、元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。 ザラコクってyahoo掲示板締め出し食らったんだろ
理由がよくわかる 猪飼野は、大阪府大阪市東成区・生野区にまたがる、平野川旧河道右岸一帯の地域名称。
渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。
1922年に大阪 - 済州島間の定期直行船君が代丸が就航したことを背景として済州島から朝鮮民族が大量に渡航してきた。
これを機にこの地域に在日韓国・朝鮮人の人口が急増する[1]。
播磨国風土記
『猪養野 右、猪飼と號くるは、難波の宮に御字しめしし天皇のみ世、
日向の肥人、朝戸君、天照大神の坐せる舟の於に、
猪を持ち参来て、進りき。飼ふべき所を、求め申し仰ぎぎ。
仍りて、此処を賜はりて、猪を放ち飼ひき。故、猪飼野といふ』
魏志韓伝(馬韓)
また、州胡がいて、馬韓の西海中の大島の上にいる。その人はやや小柄である。
言語は韓と同じではない。みな頭を剃り、鮮卑に似ているが、ただし、なめし皮を着る。
好んで牛や豚を飼う。衣は上だけで下がなく、ほとんど裸のようである。船に乗って往来し、中国や韓で取引している。
魏志挹婁伝
その風俗では、好んで豚を飼い、その肉を食べ、その皮を衣料にする。
冬は豚の脂、厚さ数分(一分は2.4mmくらい)、を体に塗って風や寒さを防ぐ。
夏は上半身裸で、尺(24cmくらい)の布で前後を隠し、身体をおおう。
弥生ブタ
2003年には石黒直隆らが塩基座502によるイノシシとブタの区別自体に疑義を唱え、
新たに255塩基対を含む574塩基対による系統解析を行い、10資料のうち6資料が現生イノシシと同じグループに、
4資料は東アジア系家畜ブタと同じグループに含まれ、
大陸から持ち込まれた家畜豚は九州・四国の西日本西部地域に限られている点を指摘した[17]。 >>461
>呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
ここが間違い。
渡来したのは九州北部。
畿内には中国と定期的に交流を持った勢力はいなかった(いたという根拠がない)。 おかしな話でしょ
肉は食べなかったよ
と言っている
どこの国の人間だったんだろう 『ワイによって助けられる』
このような話があったり あの写真の家の話だよ
肉は食べなかったよ
と言っていた 元々、川崎に住んでいたわけでもない、
伊達郡というところの山のほう >>464
倭人伝
「その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。
先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。」
卜骨の風習が壱岐と本州の関東まで拡がるのは弥生中期
2世紀までの九州からの出土はない >>461
>伊都国も狗奴国と一緒。倭国大乱以前は、旧倭国の体制の主要構成国だったかもね。
北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。・・・<
「始めからウソつきダマシ」をしては、いけないよ、大和説のサギシさん。
「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國」は、
魏使らの行程説明の「南≠東」に拠って、
「淡路島や畿内」ではなく、
九州付近の事。
「其餘旁國遠絶、不可得詳」と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」 とを、
はっきり書き分けてある。 何の話をしているのか、
知らないけど、
使用していた、使用している言語?
普通の日本語だけど 百餘國→使譯所通三十國の過程で漢の時に朝見した国が極南界に1国有ったということ 『伊達の桃太郎』
老婆の言っている機織りの話だと思う
むかーし結婚した家、
自分の家で蚕を飼っていたと言っていた >>471
>倭人伝 「その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。
先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。」 卜骨の風習が壱岐と本州の関東まで拡がるのは弥生中期 <
壱岐にあれば、魏使らが見聞出来た事になり、
九州説で十分。
>2世紀までの九州からの出土はない<
確か、肥前にもあった筈、 >>476
倭人の風習が壱岐にしかないなら九州説では不十分
2世紀までの肥前にはない 一言主とは何者か。
雄略天皇が葛城で一言主神に出会う。
ここまでは記紀も続日本紀も同じ。
したがってこれは史実であろう。
神とは古代の高貴な人。
雄略は葛城でこの地の主に出会った。
その人物が「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と言った。
何の事か。
この数年前、雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そしてこの地の豪族・葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼殺される。
土地も娘も差し出すと懇願する葛城円を雄略は焼き殺した。
これらは事実であり、極楽寺ヒビキ遺跡として近年発見される。
普通、火事では火を消そうとするから柱根に水がかかる。
だから全焼といえども柱根は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。
火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。
ここで葛城円が焼き殺された。
雄略天皇が葛城で出会った一言主神はこの事件をもちろん知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえの悪事を知ってるぞ」という恫喝であろう。
それに対してはさすがの雄略も怯んだ。
しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述も土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたがそれ以上言い続けるとどうなるか分っているな?」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。
この少し後、天皇を屁とも思わぬ傲岸不遜の豪族が葛城から出てくる。
蘇我だ。
蘇我のバックボーンに葛城の怨念があったのは言うまでもない。 芝居とか、
そういうものばかり観ていたと言っていたから
芸能関係の門人になったのかな >>474
>百餘國→使譯所通三十國の過程で漢の時に<
ウソをつくな。
「使譯所通三十國」は「今=魏の頃」であり、
「漢の時」ではない。
>朝見した国が極南界に1国有ったということ <
後漢書の筆者は、
後代の5世紀の南宋の人間で、後漢の事を実際に体験したのではなく、
魏志などの前史の記載の内容を、高慢に「誇大な表現に書き換えた」ところが多く見られる人物であり、
信頼性がなく、根拠になり難いもの。
また、「極南界」も、古田さんは、「南界を極むるに」と読んで、「光武賜以印綬の理由説明」と解しておられる。 >>481
だから過程
後漢書に信頼性がないなら光武賜以印綬が倭奴国というのも信頼性がない
小さな志賀島で出土した金印は漢委奴国王になっている >>477
>倭人の風習が壱岐にしかないなら九州説では不十分 <
考古発掘は、全てのものが見つかるものではなく、
一つあれば「他でも見聞したから記録された」という推定が十分可能になるもの。
>2世紀までの肥前にはない <
何で時期を特定したのか?は知らんが、
2世紀以後にあったのなら、証拠として十分。 >>484
壱岐は卜骨が出る地域の韓式土器や出雲の土器が出るところだから
壱岐にしかなく九州でまったく出ないから不十分
倭人の風習が本州と比較して九州では3世紀以降2遺跡しか出ないから証拠として不十分 騙り、成り済ましが
何を偉そうに語ってるんだ?
という書き込みを見たことがあるでしょ 壱岐にありゃ充分だろw
壱岐にあれば、
少なくとも、九州説を否定することは出来なくなるわけだ
じゃあ九州外で、邪馬台国であることを主張できるほどの卜骨が出土する場所ってどこよ?w 例えば『国王』
国王を騙る人間なんていないでしょ、
『王妃』『王女』『王子』でも良いけど >>488
倭人伝では伊都国王は倭の女王に従属し、
特に置かれた一大率が諸國を檢察している
卜骨が出ない北部九州は卜骨の風習がある倭人に検察されている
その倭人が共立したのが鬼道の祭祀を行う卑弥呼 東日本大震災おめでとう^^^^^^
と言っている人々がいたり、いなかった?
震災など?相手にしていない人々がいたでしょ 中越、熊本地震も同じ
べつに関係ないという人たち、いなかった? >>491
だから
卜骨の風習がある倭人の証拠ってどの遺跡のどの遺物のことよ?
まさか壱岐の数十点の卜骨遺物をさしおいて
一かけらで勝負するとか言うなよw >>495
だから、卜骨の風習があるのは壱岐と本州の関東まで、九州は3C以降2ヶ所
鬼道が卜骨ではない >>498
>鬼道が卜骨ではない
そりゃそうだ
鬼道は神道なんだからな
で、関東までのどの遺跡のどの遺物をもって、
九州外に邪馬台国があると主張したいのかな? 九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう
邪馬台国の全土で卜骨が行われていたというのは勝手なマイルールに過ぎないし
だったらそのマイルールに沿って
卜骨が地域的に普及していた=一つの県の複数の遺跡から普遍的に卜骨が出る場所
などというものを示してくれという簡単なお話 数年前の話になるけど
ここはチョンの集まりだな
と言っている人がいなかった? >>483
>だから過程
後漢書に信頼性がないなら光武賜以印綬が倭奴国というのも信頼性がない
小さな志賀島で出土した金印は漢委奴国王になっている <
いや、後漢書の高慢な「魏志記載への、誇大表現への意図的な書き換え」は、
「使驛通於漢者三十許國」や、「大倭王」や、「其地大較在會稽東冶之東」や、
「與朱崖、tan耳相近。故其法俗多同」や、「多壽考、至百餘歳者甚衆」や、
「國多女子、大人皆有四五妻、其餘或兩或三」や、「倭國大亂」や、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
などの微細な書き換えに於いてであり、
「光武賜以印綬」のような、魏志以外の事件記録に関するものではない。 別にオニ退治の話をしているわけではないんだけど
『伊達の桃太郎』・・・系統が違うのかな >>502
卜骨の分布は倭人の分布だから倭国と倭種の範囲、それが関東まで
北部九州は出ない(2ヶ所だけ)
その分布の中で北部九州まで影響を及ぼしてるのが畿内と出雲
畿内系の土器が一つも見つかっていないのが沼津の高尾山古墳 >>486
>壱岐は卜骨が出る地域の韓式土器や出雲の土器が出るところだから
壱岐にしかなく九州でまったく出ないから不十分
倭人の風習が本州と比較して九州では3世紀以降2遺跡しか出ないから証拠として不十分<
魏使らが実際に通って見聞したのなら、それで十分。
魏使らが通っても行ってもいないところの事など、何の関係も問題もないし、
反論の論拠にもならない。 同じことを言っている人がいたでしょ
本物は出家したり、寺に〜・・・▢▢院を名乗っていたり 九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう
これを崩すのに、北部九州の卜骨を連呼しても意味がない
小学生でもわかる理屈だね
毎度のことだけど、まともに論戦したらあっさり勝敗がつくから
ひたすら論点をずらしてるだけ >>490
>あの金印は偽物<
通説大和説である政府機関でもが、「国宝」と認めざるを得なかったほどの本物。 >>509
参問倭地だから見たものだけでなく倭人に聞いたことも情報になっている
壱岐でしか卜骨をやらないなら倭人の風習ではない
実際は北部九州を除く半島南岸〜本州で見つかっている 知ってる人は知ってるって、それ呟きアスペ本人だけだからなぁ >>511
卜骨の出土状況でわかることは、北部九州は非倭人の従属国
壱岐には倭人は居た >参問倭地だから見たものだけでなく倭人に聞いたことも情報になっている
ますます壱岐で十分だねw
で、そちらの言いたい遺跡遺物はどれ?w 九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう
九州説は壱岐の遺物を根拠に説明しているのに、
それに反論する根拠すら示さないとわ >>506
>卜骨の分布は倭人の分布だから倭国と倭種の範囲、それが関東まで
北部九州は出ない(2ヶ所だけ)
その分布の中で北部九州まで影響を及ぼしてるのが畿内と出雲
畿内系の土器が一つも見つかっていないのが沼津の高尾山古墳 <
何だい?、そりゃ。
「影響を及ぼしてるのが畿内と出雲」なんて、何の根拠もない話ではないか。
畿内とか大和は、倭奴國の別種の旧小国の関係だし、
出雲〜関東は、どちらか?と言えば、まだ銅鐸部族や毛人蝦夷地域であり、
出雲は、壱岐や対馬の天孫族の天照に国譲り戦争に負けた側。
という事は、壱岐が中心であった可能性が高い。 >>518
北部九州に畿内と出雲が影響を及ぼしてるというのは
久住ら九州の研究者 つうか、壱岐どころか
北部九州のが卜骨点数多いんだけど、何を主張しているんだスレ主は?w >>517
十数万戸の倭国の中で三千許家の一大國だけでしか卜骨をやっていないなら
倭人の風習ではないことは小学生でもわかる理屈
倭国が北部九州だというのが根本的に倭人伝と一致していない >>520
>北部九州のが卜骨点数多いんだけど
多くない >>511
>九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家<
「邪馬台国」なんてないよ。
卑弥呼の女王国の問題であり、
「南≠東」であるから、」魏使らは九州付近にしか来ていないのであり、
瀬戸内以東には行っていない。
>壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう <
それで、魏使らの記録根拠としては、十分。
>これを崩すのに、北部九州の卜骨を連呼しても意味がない 小学生でもわかる理屈だね <
瀬戸内以東の卜骨の有無など、何の意味もない。 小学生でもわかる理屈だね 。
>毎度のことだけど、まともに論戦したらあっさり勝敗がつくから ひたすら論点をずらしてるだけ<
毎度のことだけど、このような言葉尻でのイチャモンは、
まともに論戦したらあっさり勝敗がつくから、
大和説者らは、 ひたすら論点をずらしてるだけ。 九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう
これに対抗したいスレ主の根拠呈示マダー? 北部九州説の主張
倭人伝に書かれているものは出なくてもいい
どこでも倭国、どこでも邪馬台国 >>513
>参問倭地だから見たものだけでなく倭人に聞いたことも情報になっている<
参問倭地には、当然壱岐は含まれており、肥前も当然含まれる。
>壱岐でしか卜骨をやらないなら倭人の風習ではない <
壱岐だけでも、あれば倭人の習俗の記録になる。
>実際は北部九州を除く半島南岸〜本州で見つかっている <
魏使らの見聞記録なのであり、行ってもいないところの話など全く関係がない。
こんな話は、「丹山」でも騒いでいた・・・・がいた。 魏使が韓人や出雲人がいる壱岐で見て、海を渡って九州に来てみたら誰もやってなかったら
倭人の風習だとは思わないのが常識 >>528
魏使が壱岐で卜骨を見たことは理解しているんだねw
で、畿内倭人さんの卜骨遺物は?
思う存分、いっぱいいっぱい呈示してくださいね 日本の国の始まりを、韓系の土器や遺物、遺構が豊富に出る筑紫、肥前東部にしたい気持ちは
わからんでもないけども、ここは日本なので
やはり当時の日本がどういう状況であったかを観察しないといけない >>488
> じゃあ九州外で、邪馬台国であることを主張できるほどの卜骨が出土する場所ってどこよ?w
黒潮の乗って関東に進出した忌部一族の中継地 「伊豆」 @阿波 北部九州の卜骨は弥生終末期で時期もピッタリ
畿内の遺跡はどうなんだろうな
弥生終末期の卜骨はどれぐらいあるの? 卑弥呼一人で卜骨を焼いてたのではないから
倭人伝に書かれている風習の範囲は前述の通り
卜骨が出ない北部九州だけに見られる風習としては首狩がある >>534
だからさ、君の推す邪馬台国の遺物を示してよw
これをくつがえすインパクトのある遺物をねw
↓
九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう 古事記や日本書紀の編修担当者は卑弥呼の存在を当然知っていたはず >卑弥呼一人で卜骨を焼いてたのではないから
卑弥呼が卜骨を焼いてたなどとは
どこにも記載されていないのだが >>534
なんで首狩が邪馬台国と関係あるんだ、ぼけ >>535
だから、
首狩の風習がある北部九州説の主張
倭人伝に書かれているものは出なくていい
どこでも倭国、どこでも邪馬台国 >>539
恥ずかしくて卜骨遺跡を呈示できないんだねw >>538
うん、倭人伝にも書いてないし首狩と邪馬台国は関係ない
従属し検察された北部九州だけしか出てない >>539
倭人伝に畿内のことは書かれていないんだよ 九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう
はっはっはw
根拠すら呈示できない卑怯者が
逃げ回るのを見下ろすのは気持ちいい脳w >>542
倭人の習俗は国別ではなくて、女王国全体の倭人の風習として書いている >>544
で、畿内に卜骨の風習があった根拠は???
九州だと、壱岐に大量に出土してるし、
肥前にも出土してるよね
で、畿内は? >>533
>伊豆>>>阿波なわけだね
「伊豆諸島 神津島」に「阿波命」を祀っているのも、阿波から進出した、関東忌部が残した痕跡なんですよ。
卜骨も当然、古代神道の忌部一族の専売特許ですね。 @阿波 >>543
いや、都合が悪い卜骨の出土状況から逃げてるのは筑紫首狩族説 九州説の主張
邪馬台国とは、半島南岸〜壱岐対馬〜北部九州の国家
壱岐に大量の卜骨遺物+弥生船着場のゴールデンセットがあるのだから、
魏使は壱岐に立ち寄った際に卜骨の記録を残し、それを陳寿が採用しただけのことだろう
>>547
考古学データを何も示せない嘘だまし乙 >>512
>通説大和説である政府機関でもが、「国宝」と認めざるを得なかったほどの本物
ワロタwww
その政府機関とやらはつまり軍部w
昭和6年、満州事変を起こした軍部。
さすがに「古代天皇が朝貢してました」はまずいから、
九州説を匂わす金印を国宝にした。
君って軍国主義者で右翼だったのかwwww >>545
卜骨出土地は過去スレに何度もリンク貼ってる
弥生終末〜古墳前期のガジン地区のは貝塚だから土器相はよくわからないが
柳川のは畿内、山陰系土器が作られてるから卜骨の風習はどちらかが持ち込んだ >>550
示せないんだねw
悔しいのうw
悔しいのうw >柳川のは畿内、山陰系土器が作られてるから卜骨の風習はどちらかが持ち込んだ
バカじゃね?
壱岐にダントツに突出したした卜骨遺物があるんだから、
他の文化遺物と同じく
壱岐→北部九州(柳川)→畿内山陰の証拠遺物だろがw
完全決着 >>550
>柳川のは畿内、山陰系土器が作られてるから卜骨の風習はどちらかが持ち込んだ
持ち込んだのは、忌部一族なんですよ。
卜骨も当然、古代神道の忌部一族の専売特許ですね。 @阿波 なるほど
卜骨の風習を持つ指導者が、壱岐北部九州(柳川)→畿内山陰と移動して
征服された地域からの土器が、壱岐北部九州(柳川)←畿内山陰と献上されたわけね。 >>548
壱岐で出てるのは弥生中期のが中心かな、大量というほどでもない
おそらく終末もやってるだろうが
多いのは1遺跡だと青谷上寺地遺跡の250点以上
関東は出土遺跡数が多い >>554
>卜骨の風習を持つ指導者
その卜骨の風習を持つ指導者は、阿波から進出した、忌部一族なんですよ。
卜骨も当然、古代神道の忌部一族の専売特許ですね。 @阿波 >>555
> 関東は出土遺跡数が多い
阿波から黒潮の乗って関東に進出した忌部一族の痕跡ですね。 @阿波 >阿波も卜骨は出てない
>卜骨も当然、古代神道の忌部一族の専売特許ですね。 @阿波
卜骨は阿波と無関係なわけだな >>552
卜骨の早い時期のは青谷上寺地、古浦(島根)、阿方(愛媛)、唐古鍵の弥生前期 >>557
>阿波も卜骨は出てない
そうですね。 古代神道の発祥地なのに不思議ですね。 @阿波 >>561
>壱岐で出てるのは弥生中期のが中心かな、大量というほどでもない
>おそらく終末もやってるだろうが
ふむふむ
壱岐から広まったのか。 で、「畿内説の根拠となりうる」卜骨遺物ってまだ示せないの? >>561
>卜骨の早い時期のは青谷上寺地、古浦(島根)、阿方(愛媛)、唐古鍵の弥生前期
それの全て、阿波から進出した、忌部一族の痕跡ですね。 @阿波 卜骨の出土地・数は以前も何度か書いてるが、
九州説のお爺さんたちはごはんを食べると忘れてしまうので困る どこかの企業の工作員なのか?
と言っている人がいたでしょ
また不正、偽証発覚とか >>564
>で、「畿内説の根拠となりうる」卜骨遺物ってまだ示せないの?
そのうち、出るでしょ。 忌部一族が進出して拓殖した地なんですから。 @阿波 >>566
まーたかい
恥ずかしくてデータを示せないんだろ?
九州説側は壱岐:原の辻遺跡とカラカミ遺跡の卜骨と明示している。
そちらも根拠となる遺跡と卜骨を列挙すればいいだけ。
簡単なことだ。
それすら出来ないならお前の負けだ 鉄器もない
住居もない
なんにもない
なにも示せない
ないないない >>569
そんなに虐めないで。
そのうち、出るでしょ。 忌部一族が進出して拓殖した地なんですから。 @阿波 >>569
壱岐:原の辻遺跡とカラカミ遺跡の卜骨が弥生中期のだな
卜骨のような倭人全体の習俗は、広いエリアでの分布を見なければいけない
筑紫首狩族説の皆さん方は興奮せずに、客観的に私達の国の出土状況を観察してもらいたい なるほど
卜骨の風習を持つ指導者が、壱岐北部九州(柳川)→畿内山陰と移動して
征服された地域からの土器が、壱岐北部九州(柳川)←畿内山陰と献上されたわけね。 >>573
私はHDに入れてるけども、卜骨を調べるには
GOOGLE(日本ではグーグルと読みます)といいう検索サイトがあります
お爺さんも一度挑戦してみてはどうでしょうか 壱岐しか出ない→北部九州3世紀に出てる
墓の出土状況でわかるように、骨というのは残りにくいにも関わらず
こんだけ出てるわけで、
弥生時代開始の農業と同じく
銅鐸なんぞと同じく
卜骨も、北部九州から東征したと考えられるわけだな 卜骨の出土分布を俯瞰すると
邪馬台国とは
「壱岐を中心とする」半島南部〜北部九州の国家
あるいは
関東?
しか選択肢が無いことが分かった >>572
>卜骨のような倭人全体の習俗は、広いエリアでの分布を見なければいけない
卜骨は忌部一族の全国展開が良く分かる事例ですね。
他に石棒・柱状片刃石斧・前方後円墳・薄型土器・水銀朱などがありますね。 @阿波 九州説のお爺さんは調べるという習慣をすでに失ってしまっている 卜骨の出土分布を俯瞰すると
北部九州倭国(邪馬台国vs狗奴国)とは
「壱岐(原の辻、カラカミ)を中心とする」半島南部〜北部九州の国家 +日本海沿岸の東方倭種属国(青谷上寺地、古浦)
であることが確定した >>581
>本拠の阿波に0
そうですね。 古代神道の発祥地なのに不思議ですね。 @阿波 卜骨の出土分布を俯瞰すると
北部九州倭国(邪馬台国vs狗奴国)とは
「壱岐(原の辻、カラカミ)を中心とする」半島南部〜北部九州の国家(西蒲池池淵、牟田寄) +日本海沿岸の東方倭種属国(青谷上寺地、古浦)
であることが確定した お盆前も、ここで畿内説を主張している狂った老人が、論破されてしまっているね、、、、 キウスはさすがに知的障害者福祉関係の方におまかせします >>584
九州説の言いたいことはわかった
では、畿内説はどうなのだ? あああぁ、論破されてしまっているね、、、、畿内説。。。。。 卜骨の出土分布を俯瞰すると
北部九州倭国(邪馬台国vs狗奴国)とは
「壱岐(原の辻、カラカミ)を中心とする」半島南部〜北部九州の国家(西蒲池池淵、牟田寄) +日本海沿岸の東方倭種属国(青谷上寺地、古浦)
であることが確定した >>584
しかたないでしょう、、、、
2013年の、あの天皇家の先祖の女性の墓の調査から、畿内説は完全に破綻したのだからね。。。。 >>591
>卜骨の出土分布を俯瞰すると
卜骨は忌部一族の全国展開が良く分かる事例ですね。
他に石棒・柱状片刃石斧・前方後円墳・薄型土器・水銀朱などがありますね。 @阿波 このお盆の連休中に、奈良を訪ねるのは、かまわないけど、邪馬台国や卑弥呼とは関係ない旅になってしまうのだね。。。。 >.>595
そうだね、そういうことに、興味のある人は、まずは、吉野ヶ里町に訪れるのかな。。。。。 根拠がある奈良ドーンと出せばいいんだよ
出せば
>卜骨の出土分布を俯瞰すると
>北部九州倭国(邪馬台国vs狗奴国)とは
>「壱岐(原の辻、カラカミ)を中心とする」半島南部〜北部九州の国家(西蒲池池淵、牟田寄) +日本海沿岸の東方倭種属国(青谷上寺地、古浦)
>であることが確定した また大嘘つき連続句読点じいさんが書き込みしてるのな
ご家族は問題行動を把握しておられるのであろうか >>586
事実上たった一ヶ所だね
九州説ダメでしょ >>601
いい加減に畿内説のを示せよw
示せないんだろ?www そして、本当の古代好きの旅人に、敬遠される奈良であった、、、、、 まあ、あれだ・・・
熱い夏が続きますが
畿内説も阿波説も、もっと発掘がんばれよ・・・ 弥生中期、後期初頭の北部九州は、春日、糸島に多くの銅鏡を副葬した墓があって
その南の小郡、鳥栖から佐賀神埼にかけて松菊里型住居が密集し
その先に逃げられない構造の吉野ヶ里柵がある >>601
勝手に一ヶ所にしてはいけない
弥生終末期にはその土地の文化だった可能性ももちろんある
なぜなら、もう一ヶ所に同じ有明海沿岸でまとまった数が出土してるからね
弥生終末期には文化として有明海北部沿岸地域に広がっていたという事なのだろう >>611
敗者九州説怨念のカミツキは痛痒を感じないが鬱陶しい >>613
また言葉で逃げ回るのかw
悔しかったら証拠遺物を呈示しろよw 少しだけ助け舟・・・・
太占(フトマニの占い)」と、古代中国初期の殷王朝の「卜骨の神聖占い」とは、同じもの
何の違いもない、言い方だけの違い
3世紀の邪馬台国の卑弥呼女王は、この「太占(フトマニの占い)」と、
「桃の実を使った永遠不滅・千代に八千代にの神聖儀式」を行なっていたために、
中国の魏の使者は、日本(倭国)の女王は<鬼道>を行なっていると魏志倭人伝に記した。 >>615です
このあたりは神仙思想の孝霊雁が詳しいかと思います。 中国の卜骨=卑弥呼の鬼道であれば、
中国の史書の中に、鬼道=卜骨の記載があるはず
だが、無い
よって、卑弥呼の鬼道とは、「中国には無いもの」であり、
日本固有のもの、つまり神道である >>618
何個?
そして地域としての普及具合は? 鬼道が神道であることを必死に否定する説って
一体何なの?
キンモー >>619
多寡ですか。
そりゃ少ないですよ。巻向は一つだったかな。
しかし、纒向を所都とした場合、卑弥呼以外は占はしてなかった思いますよ。
邪馬台国の風俗ですから、庶民でも占は可、庶民が桃の実でも解釈可能
あまり、卜骨は畿内説への攻め手にはなりません。 >>622です
畿内説で丹をもって、九州説を攻める方もいますが
卜骨同様、攻めるには弱すぎます >>622です
畿内説で丹をもって、九州説を攻める方もいますが
卜骨同様、攻めるには弱すぎます >>622
すげえw被害者商法炸裂してるwww
しかし
たった一つで北部九州説に攻め込んでたのか・・・
こりゃゼロでも
説を塗り固めてくるわけだわ(;´д`)トホホw >そりゃ少ないですよ。巻向は一つだったかな。
>しかし、纒向を所都とした場合、卑弥呼以外は占はしてなかった思いますよ。
>邪馬台国の風俗ですから、庶民でも占は可、庶民が桃の実でも解釈可能
A)たった一つしかないから、
纒向を所都とした場合、「卑弥呼以外は占はしていない」
B)邪馬台国の風俗ですから、「庶民でも占は可」
相変わらずの大崩壊っぷりですな >>627
発掘された数≠実存した数
北部九州説の所都の比定地ではいくつ見つかっていますか?
いずれにせよ、九州に分が在る程度でよろしいかと。 なお、壱岐を邪馬台国に入れる説は聞いたことがありませんが・・・
いずれにせよ、九州に分が在る程度でよろしいかと。 壱岐対馬も売り渡すのか
さすが日本大嫌い説www
たった一つで敗北哀れwww え?
卜骨たった一つで勝負してたの?
マジ???w
まあ、鉄器ゼロで屁理屈こねるよりは・・・ちょっとだけマシか?(ありえねー >>632
鉄器ゼロ
卜骨ひとけけら
絶望しましたwww >>632
私は九州説
日本って素晴らしい国だと思うけど、
畿内説の君は日本をどう思うの?
・素晴らしい国
・どうでもいい
・素晴らしくない国 >>637
私は九州説
日本って素晴らしい国だと思うけど、
畿内説の君は日本をどう思うの?
・素晴らしい国
・どうでもいい
・素晴らしくない国 卜骨
これは、ナイス、九州のバカ退治
北部九州説の所都の比定地ではいくつ見つかっていますか?
壱岐を邪馬台国に入れる説は聞いたことがありませんが・
壱岐=「一大國」=「一支國」 >>638
質問の意図がよくわかりません
愛国心なら皆あると思いますよ
スレチです。 ごめん
>>637≠>>640です。
>>637は相手にしたらダメです >>639
こいつも相手にならないね、トンチンカンなカキコミ
591日本@名無史さん2017/08/11(金) 21:01:18.53>>593
卜骨の出土分布を俯瞰すると
北部九州倭国(邪馬台国vs狗奴国)とは
「壱岐(原の辻、カラカミ)を中心とする」半島南部〜北部九州の国家(西蒲池池淵、牟田寄) +日本海沿岸の東方倭種属国(青谷上寺地、古浦)
であることが確定した テンプレはおおむね良いでしょう。
(FAQが無ければ)
初心者ですが、時間があれば九州説お相手しますよ。
是々非々で・・九州説でも良いところはありますので・・・・・・・・ >>643
>テンプレはおおむね良いでしょう。
この時点で初心者。 おまえらは、平安京、平城京が縄文以降、
有り続けた御上の国の遺跡群の上に
有ることを無視している。
出ない物は無い、という考古学の限界を知れ。
吉野ヶ里はそのまま滅びている。 >>646
乱暴なカキコミするから畿内説は誤解されます >>646
だから畿内説は時代錯誤だというんだ。
奈良時代以降の繁栄を過去に投影して幻を作り上げようとしている。
畿内説は捏造史観だよ。 >>646
奈良が日本の中心となったのは、8世紀倭国(阿波)から遷都して発足した藤原京からなんですよ。 @阿波 >>647
倭人伝が九州北部なのは確定。
考古学が証明したのは
邪馬台国、伊都はそのまま 天孫降臨(不明)とか、
そういう話をしているの?
先祖の霊・・・そのような類の話、
仏教の話ではないの? 『聖化 日神 日霊 津』
『天子神璽』
書いてあるでしょ >>515
>卜骨の出土状況でわかることは、北部九州は非倭人の従属国 壱岐には倭人は居た<
出雲から東日本にも出土する、という事は、
おそらく、縄文出雲時代からの習俗。
海峡倭人で、出雲でのNo.2であった天孫族や阿毎氏も出雲にならって卜骨を取り入れたもの。
しかし、魏志では、卑弥呼の鬼道とははっきり区別されているから、
呉王夫差の後裔の姫氏は、卜骨をしていなかった。 それと『伊達の桃太郎』?
むかーし住んでいたことがあるんだよ
というところ
周辺じゃない? >>651
倭人伝には、対馬航路で上陸以降、
九州の陸行一月行が邪馬台国と書いてある。 戦争なんかにも行っていないよ
と言っている
昔のことなのでわからないけど
子供の制服?何の服なの >>519
>北部九州に畿内と出雲が影響を及ぼしてるというのは
久住ら九州の研究者<
出雲は、国譲り戦争に負けた側だし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた(神武らの東征の)別種の旧小国であるし、
「自昔祖禰・・・東征毛人五十五國」であるんだから、
「北部九州に畿内と出雲が影響を及ぼして」いない。
逆に、北部九州が大和や出雲に影響を及ぼしている。
久住も、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説であるから、
やはり、北部九州が大和に影響を及ぼしている、という説。 寺院に通っていたとも言っている、
川崎区の大島のほう 以前から書いているはず
小手子の像というものが建てられているでしょ
川崎に来る前までは、あの辺りに住んでいた
家に謎の刀が飾ってあった >>521
>十数万戸の倭国の中で三千許家の一大國だけでしか卜骨をやっていないなら
倭人の風習ではないことは小学生でもわかる理屈 <
一大國は、天孫族の阿毎氏の故地であり、
「家」で書かれた、という事は、魏の支配下には入っていないが、
姫氏の卑弥呼の「共立」には同意した国。
そして、同族の伊都国の一大率の檢察を受けた。
また、魏志は、ト骨風習と卑弥呼の鬼道をはっきり書き分けているから、
姫氏の「共立卑弥呼」はト骨の習慣はなかったらしい。
>倭国が北部九州だというのが根本的に倭人伝と一致していない <
上記のように、ぴったり一致している。 倭人伝に邪馬台国が登場するのは、一度だけ。
和訳
帯方郡の南、投馬国、水行二十日、五万戸。
これは、韓
その南、邪馬台国、女王の所都
水行10日、陸行一月、七万戸
これが、対馬海域と含む邪馬台国の国域 乙 >>646
文献、古地理、考古学もう少し勉強してから来ようか
倭国ってのは小国日本に併合されてるんだから国邑環濠集落の一つに過ぎない吉野ヶ里は滅びていいんだよ
九州なんて大和側の歴史においても後に熊襲征伐や磐井の乱などでさんざんやられてるわけで
紀元前から史書に出てくる倭国は滅びてていいの
むしろ滅びて無ければ倭国じゃないと言ってもいいくらい
もしかして邪馬台国がヤマト王権大和朝廷になったとでも思ってる?
その辺は文献も物証も確たるものはない
そういう前提や思い込みは外さないと
2,3世紀の事を考えるのならきっちり分けなきゃダメ
ヤマト王権の発生を素直な目で見て、結果として邪馬台国からって事になるのなら論にはなるが
邪馬台国=ヤマト王権って図式を前提にしちゃうと>>1みたいに史書も倭人伝も記紀も無視考古学も物証も都合の良いとこだけを妄想で繋いじゃう
って変な事になるんだな 軍人でも何でも良い、
名簿のようなものがあったとして
家は、いないと思う 畿内説の課題、
これは助け舟が出せ無いです
方位、、南
距離、、短里 シュテンドルフ?
>モモタロウとの試合の直後にご先祖ちゃんから
>「貴方にしたことを反省して、
>神社にもきちんと丑寅の方角に貴方の像が奉られている」と言うことを教えられ、
>長年に渡る恩讐を解く。
何か関係していると思う >>525
>北部九州説の主張 倭人伝に書かれているものは出なくてもいい<
そりゃ、広大な北部九州の事。倭人伝に書かれたものが、出土しない事など、いくらでも有り得る事。
>どこでも倭国、どこでも邪馬台国 <
倭人伝の記載が、出土物などで確認出来れば、
倭人伝の記載が正しい、という事の根拠になるだけの事。
「邪馬台国」なんて、存在しないよ、
嘘つきダマシのサギシの大和説狂クン。
>>661
>久住も、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説であるから、
福岡の研究者の久住はそのような説ではないので
加古川に別の久住という名の素人がいるのであろう
九州の初期前方後円墳の実態
TB〜UB期には、「畿内型」とは言い難い前方後円(方)墳群が存在する。
一部は「纒向型」としてよい古墳もある。
しかし墳形比率2:1の纒向型の定義から外れた、むしろ那珂八幡と同じ8:5とすべきものが多い。
那珂八幡を起点とする北部九州の在地的前方後円墳が(その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない)、
UB期以降「畿内型」、あるいは「定型化した」前方後円墳の影響によって変質してゆく
(段築・葺石、竪穴式石室、三角縁神獣鏡などの導入)というのがより妥当である。 久住2002 今日も朝からキウスとザラコクが電波を飛ばしまくってるな
どうせ毎日休日なんだろうから休みだからといって気合いを入れなくもいいのに >>528
>魏使が韓人や出雲人がいる壱岐で見て、海を渡って九州に来てみたら誰もやってなかったら
倭人の風習だとは思わないのが常識<
魏使らは、半島南岸以南は倭地であり、
壱岐も九州も倭人だ、と思っている。 もそ糸島とか博多とか卜占の風習がないと血が倭国の都だったなら
卜骨の風習は壱岐や対馬の段に書かれていたろうね
倭国の都でも見かけたから倭人全体の習俗として記録されてるんだよ
九州説は無理
>>530
>日本の国の始まりを、韓系の土器や遺物、遺構が豊富に出る筑紫、肥前東部にしたい気持ちは
わからんでもないけども、ここは日本なので
やはり当時の日本がどういう状況であったかを観察しないといけない<
関係がない。
魏使らが見たのは、半島南岸〜九州と、侏儒國までの範囲であり、
その範囲内での記録。 >>539
>だから、 首狩の風習がある北部九州説の主張<
戦争があれば、世界中のどこにでも起こり得る風習。
>倭人伝に書かれているものは出なくていい どこでも倭国、どこでも邪馬台国<
魏使らは、倭人の風習として、特筆すべきもの、と認めたものを記録した。 卜骨が出土した柳川の西蒲池池淵遺跡は
弥生時代中期と考えられる扁平で多きな鈕を持つ鐸形土製品が出ている
中期は汽水域もしくは湿地で、居住には適さない地域
後期には海退によって土地利用できる程度の湿地だが、軟弱な粘土土壌から居住域としては適さず、
施設として使用される建物や土坑が作られる
卜骨が出土する弥生時代終末から土坑遺構数が爆発的に増加し、
弥生時代後期に展開を始めた集落が継続して拡大する
畿内第X様式の影響を受けた土器や畿内系二重口縁壷が多数出ている >>680
でも弥生時代の日本じゃ九州以外にないよ
・・・首刈り・・・。 >>547
>いや、都合が悪い卜骨の出土状況から逃げてるのは筑紫首狩族説<
いや、都合が悪い「南→東」の嘘つきだまの大和説問題から逃げて、
壱岐などの卜骨が、倭使らが半島南岸から九州付近の倭地での習俗記載の証拠になる、
という状況から逃げてるのが、
神武の卑怯なダマシ討ちの、大和説。 このころ魏は九州を倭国の仲間と考えてるが
機内は九州を外国としており、
300年あたりで、平定している。
卑弥呼の伊都は滅びているから、遺跡が残る。
奈良に遺跡が多いのは、古代に平安京に移転したため。
京都は今も滅びていない。 >>549
>>(金印)通説大和説である政府機関でもが、「国宝」と認めざるを得なかったほどの本物 <
>ワロタwww その政府機関とやらはつまり軍部w 昭和6年、満州事変を起こした軍部。
さすがに「古代天皇が朝貢してました」はまずいから、 九州説を匂わす金印を国宝にした。
君って軍国主義者で右翼だったのかwwww <
ワロタwww 。
人種差別的な竹島戦争」を鼓舞扇動するキョクウのssnが、軍部を罵倒するとは・・・。
ssnって、同士討ちもするのか?www。、 >>550
>卜骨出土地は過去スレに何度もリンク貼ってる
弥生終末〜古墳前期のガジン地区のは貝塚だから土器相はよくわからないが
柳川のは畿内、山陰系土器が作られてるから卜骨の風習はどちらかが持ち込んだ <
ソリャ当然、柳川には、畿内、山陰系土器が搬入上納された。 また日本人の祖先を華南ニグロティックブタピーデに改竄しようと悪質な詐欺を働く
サギサギ台湾ブタチックニグロピーデが湧いてんじゃないの?
淡褐色の肌!エラ張り短顔!ブタ広鼻!突顎!巨大タラコ唇!afb1b3の塊!
汚物!
ヨゴレ!
メコン川の屎尿でできたヘドロのようなクッサイ汚らしい醜悪極まりない生き物。 >>561
>卜骨の早い時期のは青谷上寺地、古浦(島根)、阿方(愛媛)、唐古鍵の弥生前期<
何だ?、縄文出雲系の銅鐸祭祀部族ばかりのようではないか。 >>566
>卜骨の出土地・数は以前も何度か書いてるが、
九州説のお爺さんたちはごはんを食べると忘れてしまうので困る<
魏使らが行った「半島南岸から九州や侏儒國からト骨が出土するのか?が問題なのに、
「南→東」の嘘つきダマシの大和説の・・・・ガキは、ごはんを食べると忘れてしまうので困る。
そういえば、誰かが、伊予からもト骨が出ていた事もしゃべっていた。 >>673
>TB〜UB期には、「畿内型」とは言い難い前方後円(方)墳群が存在する。
筑紫方面へ進出していった、いわゆる「筑紫忌部」の古墳なんですよ。
>UB期以降「畿内型」、あるいは「定型化した」前方後円墳の影響によって変質してゆく
次々と阿波から最新の技術が筑紫方面へ流れていったことが現れています。
>(段築・葺石、竪穴式石室、三角縁神獣鏡などの導入)というのがより妥当である。 久住2002
まさに、阿波を中心とする古墳工法の筑紫への導入を示しています。 @阿波 >>681
>畿内第X様式の影響を受けた土器や畿内系二重口縁壷が多数出ている
これも、阿波から進出した、筑紫忌部がもたらした「東阿波型土器」の技法ですね。 >>573
>壱岐:原の辻遺跡とカラカミ遺跡の卜骨が弥生中期のだな
卜骨のような倭人全体の習俗は、広いエリアでの分布を見なければいけない
筑紫首狩族説の皆さん方は興奮せずに、客観的に私達の国の出土状況を観察してもらいたい <
魏使らの見聞した記録なんだから、半島南岸から侏儒國の間で目撃した訳で、
「南」ではない出雲や関東の話なんて、関係もない訳で。
騙し討ち殺戮の卑怯な大和説の皆さん方は、
興奮せずに、客観的に魏志の記載状況を勉強してしてもらいたい 。 >>578
>卜骨の出土分布を俯瞰すると 邪馬台国とは 「壱岐を中心とする」半島南部〜北部九州の国家
あるいは 関東? しか選択肢が無いことが分かった <
大和説者らは、卜骨の出土が東アジアや世界中で見つかれば、
「東アジアや世界中が倭人の地だ」とでも言いたいアホサギシらしい。 >>580
>九州説のお爺さんは調べるという習慣をすでに失ってしまっている <
「南→東」の嘘つきダマシのサギシの大和説のガキは、
ト骨さえ出れば、世界中が「大和の支配下だった」、
という妄想を抱いているらしい。 >>699
卜骨の出土物がそこに見つからなければ、
倭人の都のあった地じゃないと言いたい常識的な普通の人。 『天子神璽』
同じような名前の人物
「▢▢力夫」
グーグルで検索すると「徳川・・」という画像が出てきたりするけど
どういう意味なんだろう >>702
ザラコクに問いかけても無駄だよ 過去レスにイチャモン付け専門だから >>601
>事実上たった一ヶ所だね 九州説ダメでしょ <
出雲銅鐸系の唐子鍵にはあったようだが、
肝心の(大和説の)纏向からは出ないようだ。
「南→東」などに嘘つきダマシの大和説は、ダメでしょう。 奈良盆地の地形を知らない、行ったことすらないザラコクw
やっぱり朝鮮人なんだろう。 今更だが邪馬台国とはヤマトの事。
それ以外の選択肢はもはやないのだが。 フェニックス 鳳凰のようなキャラクターも出てきたでしょ?
あれは日本人の動画?youtube動画 >>613
敗者大和説の怨念のカミツキは、
痛痒も感じないし、
ますます泥水に吸い込まれて落ちて行っているよう。 >.615
>少しだけ助け舟・・・・
太占(フトマニの占い)」と、古代中国初期の殷王朝の「卜骨の神聖占い」とは、同じもの
何の違いもない、言い方だけの違い <
成程。大和説者は、「殷王朝も大和の支配下だ」とでもいうつもりであったのか。
>3世紀の邪馬台国の卑弥呼女王は、この「太占(フトマニの占い)」と、 <
そんな記載はないよ。
>「桃の実を使った永遠不滅・千代に八千代にの神聖儀式」を行なっていたために、<
その記載も証拠もない。
>中国の魏の使者は、日本(倭国)の女王は<鬼道>を行なっていると魏志倭人伝に記した。<
魏志は、「ト骨」風習と、卑弥呼の「鬼道」とを、はっきり書き分けているから、
「違うものだ」という認識であった事になる。 >>706
嘘しか言わないザラコク。
嘘つきダマシ専門家ダメでしょう。 >>618
>なお、纒向でも卜骨は見つかっています。 <
そりゃまた、当然だな。
一大國は、倭奴国の阿毎氏と同じ天孫族系であり、
神武らは、その倭奴国から別れた阿毎氏の別種の旧小国だったんだから。 >>622
>多寡ですか。
そりゃ少ないですよ。巻向は一つだったかな。
しかし、纒向を所都とした場合、卑弥呼以外は占はしてなかった思いますよ。
邪馬台国の風俗ですから、庶民でも占は可、庶民が桃の実でも解釈可能
あまり、卜骨は畿内説への攻め手にはなりません。<
卑弥呼が「卜骨占い」をした、なんて、魏志には書かれてもいない。 >>628
>発掘された数≠実存した数 北部九州説の所都の比定地ではいくつ見つかっていますか?
いずれにせよ、九州に分が在る程度でよろしいかと。<
壱岐も大和も天孫族の阿毎氏系だが、
卑弥呼は姫氏系であり、
その所都の弥生銀座は、
現在も巨大都市であり、発掘困難なんだよ。 >>718
異常なうそつき
発掘されたから弥生銀座って呼ばれてるんだろ >>639
>卜骨 これは、ナイス、九州のバカ退治<
卜骨 これは、ナイス、大和のバカ退治。
>北部九州説の所都の比定地ではいくつ見つかっていますか?<
「所都」の弥生銀座は、発掘困難な巨大都市。
それに、卑弥呼は「ト骨」をした、とも書かれていない。
>壱岐を邪馬台国に入れる説は聞いたことがありませんが・ <
一大國は、共立参加国。
それに「邪馬台国」なんて存在しないよ、「南→東」の嘘つきダマシもする大和説のサギシさん。
>壱岐=「一大國」=「一支國」<
そんな当たり前の事を書いたって、何の価値もないよ。 >>709
弥生時代のヤマトはどこでしょう
奈良はヤマトと呼ばれてないよ >>646
>おまえらは、平安京、平城京が縄文以降、 有り続けた御上の国の遺跡群の上に 有ることを無視している。
出ない物は無い、という考古学の限界を知れ。 吉野ヶ里はそのまま滅びている。<
何だ?、変な事を書いている、と思ったら、
やっぱり「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・大和説のサギシであったのか。 >>651
>どうでもいい話 なぜ九州が出てくるんだ?<
魏志も考古も全て九州を示しているから。 >>720
ザラコクに問いかけても無駄だよ 過去レスにイチャモン付け専門だから 以前から書いているけど
なぜ、そんなに偉そうにしているんだ、
語っているという意味 弥生時代の奈良はミマキとかミマチとかでしょ
ヤマトは女王境界のところのあちこちにたくさんあったでしょ >>722
『日本唯一、阿波にだけ在る「倭」が付く式内社「倭大国敷神社」「倭大国魂神社」』
徳島県美馬市美馬町には、「倭大国敷神社」「倭大国魂神社」と「倭」と付く神社があります。
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とあります。
「大和」と付いています。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とあります。
阿波なのに「倭」です。
何故、阿波国であるにもかかわらず、「倭」と付く神社があるのでしょうか。
これは、阿波は「倭(やまと)」であり、一方、奈良は「大倭・大和(おおやまと)」ということが、はっきり示されているのです。 @阿波 >>726
偉そうにしてる超絶無能って言やぁ>>347とか筆頭組だろう
他人に向かってそりゃ偉そうに
「内容も理解せずに引用してるんだね」
なんて言っちゃって
その自分が
>その論文の要旨
>「呉紀年」三角:B2
なんて書いてるんだから世界で一番恥ずかしいおバカさんでしょ
>>727
>弥生時代の奈良はミマキとかミマチとかでしょ
阿波国美馬(ミマ)郡美馬(ミマ)町には、延喜式内社の倭大国魂神社が鎮座する。
この事実は、阿波国が、かつて倭の国であり、歴代天皇が営んだ王都の地であったことを表す。
これは、「王都の地 倭」の決定的証跡である。
延喜式内社に採択された国魂神社は、都合20社を数える。
うち倭大国魂神社については、その由来が日本書紀に納められている。
第10代崇神天皇(ミマキイリヒコ)は、疫病が流行し、民心が乱れた為、神祭りによって地勢の安泰を図ろうと、天神地祇のほか、倭の地主神である倭大国魂神を祀ったという。
まさに倭大国魂神社の鎮座地は、倭の地(国)の証明になる。
そして、その倭大国魂神社が、奈良大倭国ではなく、唯一阿波国に鎮座するのである。 @阿波 阿波の美馬は彌馬那からの名称のまるごとぱくり
彌馬に支を添えている分
奈良盆地のほうがまだすこしは良心的 >>686
>このころ魏は九州を倭国の仲間と考えてるが
>機内は九州を外国としており、
つまり邪馬台国は九州
>300年あたりで、平定している。
まったく根拠なし
>卑弥呼の伊都は滅びているから、遺跡が残る。
>奈良に遺跡が多いのは、古代に平安京に移転したため。
時代感覚が数百年ずれている
たいへん愚か 以前から書いているはず
九州、九州、言っているのがいるけど、どこの雑魚なんだ? 家は『猫稲荷』?
あの周辺の出身、むかーし住んでいたところ 攻められてスレ主の呟き症状が悪化したw
スレの消化が加速するなw なんで知っているんだよ?
思うかもしれないけど
『伊達の桃太郎』
住んでいたからだよとしか言えない 『天子神璽』
wikiに書いてある名前みたいでしょ 山王と書いてあったりするでしょ
『山王宮 山王院』 倭人伝には
海にかこまれた島の中にあっては
徒歩5000里で廻れる二重数ヵ国が
女王国の尽きる所。
と、かいてある。
これは、九州上陸から、南北行一月と一致。 キュウリの葉、葱の華・・・
あの写真でしょ、先祖の写真だと言っている 大島(川崎区)のほうにある寺院に通ったりしていた
と聞いているよ
と
家の親は言っている 倭人伝には
帯方郡から南、水行二十日が投馬国
人口 五万戸。20万位?
さらに南、北岸から水行10日の島領と
南北一月行の国が邪馬台国で女王の所を都
と、書いてある。
九州北部の二十数ヵ国に一致。
倭国のを邪馬台国、韓を投馬国と記されたのは
この部分だけだが、
別ソースからの引用でありペースト位置を間違えているだけのこと。
倭人伝は九州伝 一緒に写っている父親がいるでしょ
軍人や警官ではないよ、ではなかった、と言っている あの川俣町という掲示板
奈良時代、平安時代の話をしているでしょ まず崇神が4世紀前半だと認めるか否か。
認めたなら、
@その60年ほど前にトヨという最高位の女性がいることに気づく。
Aその少し前に歴史上「ヒミコ」という名前に最も近い最高位の女性がいることに気づく。
B神武東征とは女王国であったことをごまかすための大袈裟な記述だと気づく。
Cその「ヒミコ」の100年前がスサノオの時代であり彼こそは帥升だと気づく。
D記紀は中華皇帝への朝貢を隠すため大幅に時代を古く変更したと気づく。
Eその「ヒミコ」の住んだのは葛城であり高天原があることに気づく。
F纏向遺跡はもう一つの天孫降臨ニギハヤヒの物部遺跡だと気づく。
G本居宣長は記紀がなぜとんでもない時代設定にしたのかとっくに気づいていたと気づく。
Hだからあえてヒミコは神功皇后であり朝貢したのは熊襲の女酋長という奇説をのべたのだと気付く。
I九州説自体が古代天皇の朝貢をあえて決定させないための虚構であると気づく。
また追加します。 「邪馬台国と大%s比売命」
邪馬台国阿波説の論拠として、日本最古の書、古事記と魏志倭人伝の記述が一致する根源に、阿波は食物(五穀)を司る穀霊(おおげつひめ)の国であり、
高天原の物語は、すべて阿波(おおげつひめ)が舞台となっている。 @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/ooawa_title.htm >>753
百済を傀儡独立させて、
北朝が下寵した七支刀や五教博士、仏教、
を献上させたのは日本だが
南朝は倭王に東洟の軍事を任せながら
重要文物は与えていない。
これは、半島利権と北部軍事にからんだ
軍事同盟だろ? >>753
倭人伝が卑弥呼は
九州倭国の共立女王と言う以上は
記紀の覇王、神功皇后は実在しない。 >>758
時代が違うんだよ。
120年前倒しして卑弥呼と混同するようになっている。 >>652
>300年程度に滅びている。<
九州倭國は、白村江でもまだ唐と戦って大敗し、
筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国であった大和に併合吸収継承されるまで、
滅びなかった。 >>667
>九州なんて大和側の歴史においても後に熊襲征伐や磐井の乱などでさんざんやられてるわけで <
コリャ、×。
大和側の記紀は、
「倭國の存在や歴史」を抹殺盗用して、
大和天皇家が天地開闢以来列島を支配すべく約束された、というウソダマシの半分×書であり、
そんなような記載は、全く信用出来ず、根拠にならない。
>もしかして邪馬台国がヤマト王権大和朝廷になったとでも思ってる?<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
大和が朝廷になったのも、白村江の後の701年の「大宝」建元から。
>その辺は文献も物証も確たるものはない<
文献では確固たるものがあるが、
考古では、大和の「倭國の隠蔽盗用」にも拘わらず、神籠石や羅城建設などがある。
>そういう前提や思い込みは外さないと
2,3世紀の事を考えるのならきっちり分けなきゃダメ <
いつまでも、「南→東」などの嘘つきダマシをやっているようでは、人間としてダメ。
>ヤマト王権の発生を素直な目で見て、結果として邪馬台国からって事になるのなら論にはなるが
邪馬台国=ヤマト王権って図式を前提にしちゃうと>>1みたいに史書も倭人伝も記紀も無視考古学も物証も都合の良いとこだけを妄想で繋いじゃう
って変な事になるんだな <
九州倭國は、白村江でもまだ唐と戦って大敗したのであり、
(筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国であった)大和に併合吸収継承されるまで、
滅びなかった。 >>762
そんなようなザラコクの妄言は、全く信用出来ず、根拠にならない。 式内社「事代主神社」 式内社 「建布都神社」
は、同じ阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』です。
式内社「事代主神社」が全国で阿波にだけ(八百万の島根にさえ無い)あるように、事代主命は阿波の人物でしょう。
同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で阿波にだけ(これも島根にも無い)あるように阿波の人物でしょう。
その他、『日本唯一 阿波にだけ在る式内社』
阿波国美馬郡「倭大國玉神大國敷神社」
阿波国美馬郡「伊射奈美神社」
阿波國麻殖郡「伊加々志(いかがし)神社」
石井町浦庄字諏訪内社・阿波國名方郡「多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社」
阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」
阿波國美馬郡「弥都波能売神社」
「天石門別八倉比売神社」 (徳島市国府町)の御祭神は「大靈女命」(おおひるめのむち)
「上一宮大粟神社」 (名西郡神山町)の御祭神は「大宜都比売命」(おおげつひめ)
「一宮神社」 (徳島市一宮町)の御祭神は「大宜都比売命」 神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
※神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 >>673
>>久住も、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説であるから、<
>九州の初期前方後円墳の実態
TB〜UB期には、「畿内型」とは言い難い前方後円(方)墳群が存在する。
一部は「纒向型」としてよい古墳もある。
しかし墳形比率2:1の纒向型の定義から外れた、むしろ那珂八幡と同じ8:5とすべきものが多い。
那珂八幡を起点とする北部九州の在地的前方後円墳が(その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない)、
UB期以降「畿内型」、あるいは「定型化した」前方後円墳の影響によって変質してゆく
(段築・葺石、竪穴式石室、三角縁神獣鏡などの導入)というのがより妥当である。久住2002<
よく読んでみろ。
那珂八幡は、UB期であり、
箸墓の 「畿内型」あるいは「定型化した」前方後円墳は、UB期以降だよ。
だから、箸墓は那珂八幡よりも新しく、箸墓が那珂八幡を模倣した事になる。 >>763
ザラコクに問いかけても無駄だよ 過去レスにイチャモン付け専門だから >>766
その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない >>677
>もそ糸島とか博多とか卜占の風習がないと血が倭国の都だったなら
卜骨の風習は壱岐や対馬の段に書かれていたろうね
倭国の都でも見かけたから倭人全体の習俗として記録されてるんだよ 九州説は無理 <
「卜骨の風習が倭国の都でも見かけた」なんて書かれていない。
倭国の都にいた卑弥呼に関しては、、むしろ、(ト骨ではなく)「鬼道」を使った、と区別して書かれている。
だから、都では「ト骨」よりも「鬼道」の方が主流であった。 宮中式内社のチョイスが興味深い。
庶民が知ることができる歴史と支配者が知る歴史は、違うのかもな。 筑紫首狩族国には卑弥呼の鬼道以前にもト骨の風習はない >>681
>卜骨が出土した柳川の西蒲池池淵遺跡は
弥生時代中期と考えられる扁平で多きな鈕を持つ鐸形土製品が出ている
中期は汽水域もしくは湿地で、居住には適さない地域
後期には海退によって土地利用できる程度の湿地だが、軟弱な粘土土壌から居住域としては適さず、
施設として使用される建物や土坑が作られる
卜骨が出土する弥生時代終末から土坑遺構数が爆発的に増加し、
弥生時代後期に展開を始めた集落が継続して拡大する
畿内第X様式の影響を受けた土器や畿内系二重口縁壷が多数出ている<
西蒲池池淵遺跡では、
「卜骨が出土する弥生時代終末から土坑遺構数が爆発的に増加」しているのに、
何故、畿内第X様式の纏向にはト骨が一個しか見つからないんだい?。
こりゃまた、この報告者の「解釈や判断」がおかしい、という事になり、
畿内第X様式は、弥生時代終末以後であり、
西蒲池池淵遺跡→纏向に、ト骨や土器や畿内系二重口縁壷の伝搬が起こった、
という事になってしまう。 >>769
おかしいでしょ
壱岐対馬にしか無いのに倭国全般の風習みたいに書いてあったら >>773
ザラコクに問いかけても無駄だよ 過去レスにイチャモン付け専門だから 返答はない >>772
狂ったじいさんは畿内でたくさん卜骨が出てることも知らない >>686
>このころ魏は九州を倭国の仲間と考えてるが<
いや、魏は、九州を、卑弥呼の都のある倭国そのものだ、と考えている。
>機内は九州を外国としており、<
「南≠東」だから、魏使らや魏や陳寿は、畿内の事など、全く何も触れていない。
>300年あたりで、平定している。<
大和が、筑紫倭國を併合吸収継承したのは、701年から。
>卑弥呼の伊都は滅びているから、遺跡が残る。<
阿毎氏の伊都国は、タリシホコを出した事になり、滅びていない。
>奈良に遺跡が多いのは、古代に平安京に移転したため。<
文部省らや大和説学者が、金を使って、必死で探したし、
奈良は、筑紫倭国のように、大和政権や記紀に「その存在や歴史を抹殺」されなかったから。
>京都は今も滅びていない。<
このような嘘つきダマシの・・・・大和説者は、すぐに滅びる。 >>694
>>>卜骨の早い時期のは青谷上寺地、古浦(島根)、阿方(愛媛)、唐古鍵の弥生前期<
>>何だ?、縄文出雲系の銅鐸祭祀部族ばかりのようではないか。<
>銅鐸祭祀部族は弥生やろ <
「〜系」というのは、以前に「〜」であった、という意味なんだよ。 場所は共通でもなかみがちがうから系騙るのは良くないよ >>700
>邪馬台国がそこにあるわけだ <
「邪馬台国」なんて、史料にはどこにもないよ、サギシくん。 >>772
テンプレにあるように纒向遺跡(まきむくいせき)は2世紀末(弥生時代後期)からの遺跡で
大和で卜骨は弥生前期、中期も出ている 鉄器も青銅器もゼロだからなあ
わずかに出たのが銅鐸片のみw
ひとかけらの卜骨片を膨らませて膨らませて膨らませて
勝負するしかないというw >>781
うるさく聞けば1が出すだろ
弥生時代の卜骨集中地域の一つなのは間違いない >>702
>卜骨の出土物がそこに見つからなければ、
倭人の都のあった地じゃないと言いたい常識的な普通の人。<
この投稿子も、魏志が、
倭人の中に、特異な「ト骨」風習の人がいる、という話と、
都の卑弥呼は(「ト骨」ではなく)「鬼道」を使う、とが、
はっきり書き分けられている、
という事をこっそり隠して、
都では、もっと「ト骨」を使っていた筈だ、
というような、嘘つきダマシをする非常識な・・・・人間。 >>779
それすごく大事なことですよね
現代風に書くなら、
×邪馬台国
〇邪馬一国
しかも倭人伝に一か所しか出てこない
和読みするなら、ヤマイ国、ヤマイチ国、であって、ヤマトにはならない。
ヤマの部分くらいは共通の意味があるのでしょうけど。 >>786
考古学的に、
鉄器も青銅器もゼロだからなあ
わずかに出たのが銅鐸片のみw
ひとかけらの卜骨片を膨らませて膨らませて膨らませて
勝負するしかないというw >>706
>出雲銅鐸系の唐子鍵にはあったようだが、
肝心の(大和説の)纏向からは出ないようだ。
「南→東」などに嘘つきダマシの大和説は、ダメでしょう。<
訂正。
纏向から「ト骨」が、1個出たらしい。
しかし、「1個」では、壱岐にも柳川にも、全く負けている。 三国志全文の中で、鬼道が出てくるのは倭人伝のみ。
中国に存在する道教やト骨は鬼道たりえず、
日本固有の祭祀といえば、やはり鬼道=原始神道であろう。 >>785
たった一つの誤字を使ってトンデモ説を何十冊も出した古田もスゴい >>781
昨夜も書いたように私はHD(ハードディスクという記憶装置です)に入れてるけども、
卜骨を調べるにはGOOGLE(日本ではグーグルと読みます)といいう検索サイトがあります
お爺さんも失敗を恐れずに一度挑戦してみてはどうでしょうか
字が小さいので虫眼鏡を使うといいと思います >>789
佐賀(牟田寄遺跡)も北部九州に入れてあげてください・・・ >>789
人骨もほとんど溶けてなくなる畿内で見つかるなんて
元々はどんなに沢山あったんだろうね >>709
今更だが邪馬壹國は、
「福岡平野の南半分〜筑紫平野部、及びその周辺丘陵地付近」の事。
それ以外の選択肢は。もはやないのだが。 前述したように卜骨は早いところで弥生前期、中期には関東まで拡がっているので
倭国乱後に共立された卑弥呼の鬼道ではありませんね
また卜骨には細かい決まりごとがあり大きく3種類の形式に分類されています
お爺さんが焚き火をしながらテキトーに骨を焼いてるのではないので庶民ではありません >>795
それ九州でも同じっしょ
壱岐だけならともかく、内陸の2つもの遺跡から10弱ずつ出土しているのだからね >>799
え?マジで?w
吉野ヶ里のすぐそばだけどw >>798
そこしか無いなら壱岐対馬からの移民村だろ 牟田寄遺跡(佐賀市兵庫町)は貝塚なので、あのあたりが弥生終末期の海岸線ということだね >>717
>博多湾岸にないね 笑 <
博多湾岸は、肝心の卑弥呼が「ト骨」を使っていなかったようだし、
3世紀から「何本もの大道が造られた弥生銀座」であり、
その後も今までずっと都市建設が続いていて、新規の発掘が困難であるから。 遺跡は建設土木工事が多いほうが見つかりやすいんだけどね >>720
>異常なうそつき 発掘されたから弥生銀座って呼ばれてるんだろ<
異常なうそつきダマシのサギシ。
3世紀から現在まで建築が続いたから、発掘出来る場所が限られ、
その限られた発掘地からでも、弥生銀座が見つかった、
という事なんてだろ?。 >>736
大和と叫ぶのは、・・・・チンピラだと書いてない?。 弥生時代の道路は敷石をしてるわけではないから
技術的には護岸に矢板を打った大溝を造るほうが随分手間がかかる 以前から書いているけど
誰に行ってるんだ?と言われたことがない >>811
弥生銀座が倭人伝に書かれていない=魏使は伊都に駐して帰っていった
弥生銀座と〇〇遺跡のあまりの落差=邪馬台国は北部九州にあった 他のスレにも書いているけど
騙り 成り済まし
知っている? 春日が弥生銀座と呼ばれているのは、考古学者にとって、弥生各時代の遺構が密集してるからだから
魏使とは関係ない >>821=822
もう自分でも何を信じればいいのかわからなくなっているようだなw
奴国の描写が無い=魏使は伊都に駐して帰っていった
邪馬台国の経済中心である奴国と〇〇遺跡のあまりの落差=邪馬台国は北部九州にあった >>790
三国志で「鬼道」は4か所出てくるよ
魏書08 二公孫陶四張傳第八
「魯遂據漢中、以鬼道教民、自號師君」
「若過多、鬼道輒病之」
魏書30 烏丸鮮卑東夷傳第三十
「名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆」
蜀書01 劉二牧傳第一
「張魯母、始以鬼道、又有少容、常往來焉家」 >>768
>その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない <
久住の、そんな勝手な口先ダマシの矛盾した講釈なんて、何の価値もない。
史料実態説明では、久住は、ついうっかり?、
那珂八幡をTB〜UB期に入れており、
大和の定型的前方後円墳の最初の箸墓を「UB期以後」にしており、
だから箸墓が後であるから、
(ついうっかりの?講釈とは逆に)箸墓が那珂八幡を模倣した事になる。 ついうっかり?wwwww
面倒臭いから、ついうっかり古田に会いに行けやジジイw >>825
>久住の、そんな勝手な口先ダマシの矛盾した講釈なんて、何の価値もない。
>>661では
>久住も、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説であるから、
と書いてるから、福岡の久住の説ではないなら
「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説の学者の名を挙げないといけない >>757
>百済を傀儡独立させて、
北朝が下寵した七支刀や五教博士、仏教、
を献上させたのは日本だが<
七支刀を贈られた倭王旨は、当然(大和日本国ではなく)筑紫の倭王。
久留米付近の「こうやの宮」に、
贈られた倭王旨の(桐の御紋の)人形や、
七支刀を携えた使節の人形(七支刀人形)などの人形が造られている。 『遅れてやってきた倭人』
山王宮 山王院?系統が違うのかな? あの写真
キュウリの葉、葱の華・・・、
中央に制服のようなものを着ている子供がいたでしょ、
その家だと思う 伊達郡というところがあって・・・山のほうに住んでいたんだよ
と言っている
むかーしの話 帽子、制服も違うような気がする
軍人の服でもない、警官でもない?
親も戦争などに行っていないと言っているし >>771
>筑紫首狩族国には卑弥呼の鬼道以前にもト骨の風習はない <
魏志では、魏使らは「3世紀の卑弥呼の時代頃の風習」についての見聞記録を書いている。 本物の・・・は、
出家したり、▢▢院などを名乗っていました
と
同じような事を言っている人がいなかった? >>773
>おかしいでしょ 壱岐対馬にしか無いのに倭国全般の風習みたいに書いてあったら<
陳寿は、卑弥呼は(ト骨ではなく)「鬼道」を使う、と書き分けているんだから、
ト骨風習が、「倭国全般の風習」として書いていない。 壱岐の人々の暮らしぶりを記録しているのだから
壱岐の人々の祭祀(ト骨)について記録したのだろう
伊都の人々の暮らしぶりを記録しているのだから
伊都の人々の祭祀(鬼道=神道)について記録したのだろう
奴国の人々の暮らしぶりが記録されていないのだから
奴国まで来ずに、伊都に駐して帰国したのだろう
なんの問題も無い >>824
道教とわざわざ対比させて、五斗米道や黄巾といった新興宗教を鬼道としていますね。 >>775
>狂ったじいさんは畿内でたくさん卜骨が出てることも知らない <
狂った大和説のガキらは、未だに「大和にどれだけのト骨」が出土したのか?を言わないし、
元々、大和や畿内へは、「南≠東」だから、魏使たは行ってもいない。 どのスレッドの話なんだろう
『天皇 キリスト教』
うまやど関係の話? 鬼道が記述されている時点で、ト骨が倭国一般の風習というのは否定されるわけだな。
女王が鬼道をやっているのだから、
倭国の主教は鬼道=神道。
ト骨は壱岐など各地で細々と行われていた民間信仰でFA。 >>838
阿波の人々の暮らしぶりを記録しているのだから
阿波の人々の祭祀(ト骨)について記録したのだろう
阿波の人々の暮らしぶりを記録しているのだから
阿波の人々の祭祀(鬼道=神道)について記録したのだろう
奴国の人々の暮らしぶりが記録されていないのだから
阿波まで来て、伊都に駐して帰国したのだろう 全力で掘りまくれば、ト骨の一つは二つくらい出るっしょ
気合が足りないんじゃないの? >>780
>テンプレにあるように纒向遺跡(まきむくいせき)は2世紀末(弥生時代後期)からの遺跡で
大和で卜骨は弥生前期、中期も出ている <
魏使ら240年頃やその後に来たんだし、
「南≠東」だから、纏向なんて関係もないし、
「纒向遺跡は2世紀末(弥生時代後期)から」というのも、
久宝寺で(布留ではなく)庄内が伽耶の陶質土器と共存しているんだから、
畿内の庄内自体が285年頃以後になってしまい、
それに引きずられて、纏向の編年も70〜80年位新しくなってしまうんだよ。 >>845
まったく問題なし 阿波は古代神道の発祥地で、全国に伝授しているから。 @阿波 筑紫首狩族国には卑弥呼の前にも卑弥呼の時代にも倭人の卜骨の風習はないから
筑紫の首狩族が没落して新興勢力が大和の女王に従属したということだね どのスレッドだったかな?
誰々って、昔、福島県のどこそこに住んでいて、
いま川崎に住んでいるんでしょ
このような事を言っている人がいた >>850
ふむふむ
武士の、首級をあげるというのは遥か筑紫倭国からの風習であったのだな。
>鬼道が記述されている時点で、ト骨が倭国一般の風習というのは否定されるわけだな。
>女王が鬼道をやっているのだから、
>倭国の主教は鬼道=神道。
>ト骨は壱岐など各地で細々と行われていた民間信仰でFA。 「汝によき物を賜うなり」
神仙思想を取り入れた卑弥呼の鬼道の祭器が三角縁神獣鏡ということだろうね 壱岐や伊豆諸島などに多いのは、阿波から進出した、忌部一族が航海の吉凶を占ったんだろう。 @阿波 阿波にト骨が無いのなら、下位ということになり、壱岐→伊豆諸島→阿波ってことだなあ 「倭人は挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。
先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。」
筑紫が倭人であればどこにも行けなくなってしまうと
しかし、倭人ではないので骨を灼いて卜す必要が無いということだね >>783
>うるさく聞けば1が出すだろ<
名乗っても本当に本人なのか?の判らず、
名乗らなければ、本人なのか?は、全く判らんよ。
>弥生時代の卜骨集中地域の一つなのは間違いない<
魏使らが来た卑弥呼の時代の「数」を挙げればよい。 >>794
>佐賀(牟田寄遺跡)も北部九州に入れてあげてください・・・<
あれ?。
また出て来ましたか。 >>795
>人骨もほとんど溶けてなくなる畿内で見つかるなんて
元々はどんなに沢山あったんだろうね <
畿内と九州じゃ、条件は殆ど変わらないだろうね。 女王卑弥呼が鬼道≠ト骨なんだろ?
じゃあ、ト骨が出土する=卑弥呼の都ではないジャマイカ >>807
大和説は、「南→東」の嘘つきダマシや、「時代を違える」ガセネタばかりだな。 >>809
>遺跡は建設土木工事が多いほうが見つかりやすいんだけどね<
そりゃ、現代の「法」の問題だろ?。 >>864
北部九州発祥セットだね
鋳型とか見ればよくわかる 数年前の△スレ
「川崎が良くならなければ、日本は良くならない」
このような事を言っている人がいたけど、なんで知っているんだろう
白い服の裏に「▢野 市・・・」と書いてなかった?
あの葱の華・・・写真の家だよ 普通に働いていたと言っているけど、
何かの家だったのかな
泥棒のようなものに入られたとは言っている
何度も書いているけど
謎の刀や本などの話 >>775
>>>772
>狂ったじいさんは畿内でたくさん卜骨が出てることも知らない
畿内にも倭種がいたから不思議ではない。 >>827
>久住も、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説であるから、
と書いてるから、福岡の久住の説ではないなら
「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」という説の学者の名を挙げないといけない <
いや、今回の久住の記載も、「影響の蓋然性」として、断定はしていなかったし、
私は、「久住編年」での「那珂八幡よりも箸墓の方が新しく書かれている」という記載が根拠。 >>873
過去レス イチャモン専門だから、だれも相手にしていない。 >>850
>筑紫首狩族国には卑弥呼の前にも卑弥呼の時代にも倭人の卜骨の風習はないから
筑紫の首狩族が没落して新興勢力が大和の女王に従属したということだね<
「南≠東」だから、女王は「大和にいた」事には、ならないよ。 >>857
>筑紫が倭人であればどこにも行けなくなってしまうと
しかし、倭人ではないので骨を灼いて卜す必要が無いということだね <
そんな事は、書かれていないから、
この投稿子の分裂幻覚の妄想だろう、
ということだね。 もれ(仮)が「ひみこ=てらす、すさのお?」と書いた後
それはヒミコや邪馬台国よりも前の出来事(話)だからなw
というレスもあった
何の話なんだろう >>872
結局、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」というのは福岡の久住の説ではないということだね 2世紀末の平原1号は高麗剣が棺の上から首元に直交させてあった
卜骨の風習が無い落ちぶれ果てた筑紫首狩族が
新興勢力の手下となって首狩した可能性もあるな 『天子神璽』
上のほうに書いたでしょ、
その家の話じゃないの? 邪馬台国と言う国名は、
倭人伝でも一度だけしかでてこない。
場所は、帯方郡から南に水行二十日の
韓北岸の国から水行十日の対馬航路で上陸し、
九州島の南北一月行部分に領土を持つ国が
女王が所都とする、邪馬台国。
女王を周辺二十分数ヵ国で擁立し、
親魏倭王の金印を得た。
倭人伝の記述は、あとは、九州の風土記だな。 箸墓も那珂八幡も布留0式なんでどちらが早いかなんて決められない。
が、纏向石塚、勝山、ホケノ山と連続してるう継続上に建造された箸墓が、
連続性がない那珂八幡に影響を与えたことは容易に想定できる。
というか同じ時期で大きさが断然違うわけだから、箸墓が主。
これはもう話にならない。
とは言え、箸墓が卑弥呼の墓かといえば違うと言わざるを得ない。
箸墓より高地にある墳墓の方が位が高い。
箸墓より高地とは高天原(御所市高天)だ。 >>885
しつこく1にナスリ付けようとするキウス・ザ・マッチポンプの犯行だろ >>879
>結局、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」というのは福岡の久住の説ではないということだね <
いや、久住は、「久住編年」で「ついうっかり」、
箸墓を(同系統の類型の那珂八幡の後、という実態を書いてしまった。
だから、
同系統の類型の墓を後から造ったら、それは、「模倣」なのであり、
遺族は、セレモニーでは、(常に)前よりも「より大きく多く派手に」する傾向がある、という人類の摂理に拠って、
巨大化をした、んだろう、という事になる。 >>879
>結局、「箸墓は那珂八幡の模倣だ 」というのは福岡の久住の説ではないということだね <
いや、久住は、「久住編年」で「ついうっかり」、
箸墓を(同系統の類型の那珂八幡の後、という実態を書いてしまった。
だから、
同系統の類型の墓を後から造ったら、それは、「模倣」なのであり、
遺族は、セレモニーでは、(常に)前よりも「より大きく多く派手に」する傾向がある、という人類の摂理に拠って、
巨大化をした、んだろう、という事になる。 >>881
>2世紀末の平原1号は高麗剣が棺の上から首元に直交させてあった
卜骨の風習が無い落ちぶれ果てた筑紫首狩族が
新興勢力の手下となって首狩した可能性もあるな <
「尚方作」という鏡は、皇帝の「鏡造りの部署の業務上の製作だ」という事をはっきり示すものであり、
列島において「皇帝からの鏡の下賜」は、魏帝から卑弥呼への下賜鏡以外には考えられないから、
平原の「尚方作」鏡は、現物であれ伝世であれ造り替えであれ、240年頃以後に副葬された事になり、
「2世紀末」にはならない。 >>890
ザラコクに問いかけても無駄だよ 過去レスにイチャモン付け専門だから 返答はない >>886
>箸墓も那珂八幡も布留0式なんでどちらが早いかなんて決められない。<
いや、「布留0の設定」そのものが、「インチキ編年」。
箸墓は、庄内がなく、布留の、UB以後であり、
那珂八幡は、「庄内+布留」のTB〜UB期。
>纏向石塚、勝山、ホケノ山と連続してるう継続上に建造された箸墓が、
連続性がない那珂八幡に影響を与えたことは容易に想定できる。<
新しいものが古いものに影響を与える事はない。
>というか同じ時期で大きさが断然違うわけだから、箸墓が主。 これはもう話にならない。<
ssnのような・・・・は、始めからもうお話にならない人種。 ざらこくは「南→東」だと一言いうだけで畿内説を完全否定
「ついうっかり」だと一言いうだけで好きな部分を正しいことにできる
根拠はなにもナシ
やりたい放題のオールラウンドなチェリーピッカーだね
神代?
いまでいうエミシ、アイヌ
その人々の話だと言っていなかった? 弥生人というの?
悪く言うと後付け、
画やイラストなども、
そういうイメージが先行してしまっている
とか 神話でもそうじゃなった?
この地が作られたときから住んでいる人々
日本なら日本、
いまでいう日本が作られた時から住んでいる >>853
>「汝によき物を賜うなり」
神仙思想を取り入れた卑弥呼の鬼道の祭器が三角縁神獣鏡ということだろうね <
違うだろうね。
「卑弥呼の鬼道」は、魏使らが見聞した実態であり、
魏帝はまだその事を知らない事になるから。
また、三角縁は、洛陽付近から殆ど出土せず、
類型が、魏の敵国の呉の付近からばかりしか出土していないんだから、呉付近の鏡であり、
呉系の楽浪鏡師らが渡来して来て、造ったものであったんだろうね。
そして、魏帝からの下賜の100枚銅鏡は、
一部の蝙蝠鈕座内行花文鏡などは、卑弥呼から筑紫付近の各地の小国などの王らに下賜され、
一部は、鏡片に分割されて「親愛出来る部下」らに下賜され、
残りは、王家に保管されて、次の壹與に託され、
そのまた一部の「尚方作」鏡は、平原に副葬されたんでしょうね。 >>857
>「倭人は挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。
先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。」
筑紫が倭人であればどこにも行けなくなってしまうと <
そんな事はどこであっても起きる事であり、
、別に、「筑紫」だけに限定する必要がない事。
>しかし、倭人ではないので骨を灼いて卜す必要が無いということだね <
筑紫は、倭人だったよ。
この投稿子も、少しおかしいねえ。 >>860
>(ト骨)博多湾岸ゼロ <
半島人居住区や、弥生銀座や、鬼道に価値があった地域。 >>866
>>ト骨+多鈕鏡+銅鐸+銅戈 がセットなんだろ <
>北部九州発祥セットだね 鋳型とか見ればよくわかる <
成程。 書いている人がいたでしょ、数年前の△スレ
「生きてたのか!」
「神様の真似なんてしているから、こんなことになってしまった」
「何度も言いました、そういうことなんだっつーの!」 よくわからないけど、
有名な言葉みたいだよ、調べてみたほうが良い
『寝言は寝て言え』
『ネて申す』
『まさに神だね』 >>906
>じゃあ何で骨を灼いて卜さないの?<
首都圏では、卑弥呼の鬼道での支配に、歯向かうようなト骨は、やり難いから。 >>907
>うそつけ ト骨ないだろ<
高温での焼成の技術が必要になる事が、共通しているから。
それは、鉄器や庄内でも同じだね。
いずれも、倭國の首都圏で工夫され、東方の倭種や毛人蝦夷らに伝わった事になる。 >>910
ああ、なるほど。
託宣をする巫女の頂点に卑弥呼がいるわけだからな。
卑弥呼も卜占をしただろうけれど、その骨はどこかに厳重に管理されただろうし。 八咫鏡(やたのかがみ) が本当にアマテラスのご神体で、
ニニギ→神武→崇神と受け継がれてきたのなら、
なんで疫病が流行った時に祈らないのか。
先祖伝来の鏡に祈って祈って祈りまくればいい。
放り出してどうする。
この時点でおかしいと気づかないと。
しかも皇室はそれ以降、伊勢に参拝しない。
伊勢神宮に行って先祖伝来の鏡に参拝すればいいのに。
これはもう、血なまぐさい事があったのは確実 まず崇神が4世紀前半だと認めるか否か。
認めたなら、
@その60年ほど前にトヨという最高位の女性がいることに気づく。
Aその少し前に歴史上「ヒミコ」という名前に最も近い最高位の女性がいることに気づく。
B神武東征とは女王国であったことをごまかすための大袈裟な記述だと気づく。
Cその「ヒミコ」の100年前がスサノオの時代であり彼こそは帥升だと気づく。
D記紀は中華皇帝への朝貢を隠すため大幅に時代を古く変更したと気づく。
Eその「ヒミコ」の住んだのは葛城であり高天原があることに気づく。
F纏向遺跡はもう一つの天孫降臨ニギハヤヒの物部遺跡だと気づく。
G本居宣長は記紀がなぜとんでもない時代設定にしたのかとっくに気づいていたと気づく。
Hだからあえてヒミコは神功皇后であり朝貢したのは熊襲の女酋長という奇説をのべたのだと気付く。
I九州説自体が古代天皇の朝貢をあえて決定させないための虚構であると気づく。
J国宝「漢委奴国王印」が偽物だと気づく。
K国宝にしたのは昭和6年、満州事変の年。軍部による政治的背景があると気づく。 >>913
>その卑弥呼というのは何なんだ? <
姫氏の女性で、女王に共立され、「鬼道」を使い、親魏倭王に認められた人。 >>910
なんでト骨つかう占いが
卑弥呼の鬼道での支配に歯向かうことに
なるんだ
ご都合主義だ なんで、
こんな低能の低能の集まりなんだ?
と言っている人がいたでしょ
山の上のほうから聞こえたのかな で、畿内から出土したト骨って何個?
それも示さずグダグダ言ってもしょうがあるまい。 家の老婆が、よく言っていた
『猫の高上り』
誰か実在の人物の話なのかな 卑弥呼も可哀想なもんだよ 本当は神の声なんて聞けないのに、
傘下の30か国のみんなが
「女王様、雨を降らせてください」
「女王様、奴国と伊都国の境界争いですが、どちらが正しいのかご神託を願います」
「女王様、狗奴国に勝つためにはどうしたらいいでしょうか?ご神託を願います。」
神の声が聞ける振りをしなくちゃいけない
今更、「実はわたし、神の声なんてわかりません ごめんなさい女王やめます」
なんて言ったら、斬首だろうから大変だ
それを約60年間女王やってたんだからな 心労は大変なものだろう 猫は高いところが好きなんだよ
あまり覚えていないけど、
というような事を言っていた >>925
しかもテキトーに「ご神託」だと言っとけばいいじゃんというかもしれないが、そうはいかない
雨乞いなら、本当に雨が降らないとみんなが卑弥呼を「本当に神の声が聞こえるのか?」
と疑いの目で見るだろう
傘下の国同士の争いを裁く時も、
一方を勝訴するにしても、みんなが納得できる判決にしないといけない
新たな証が出て再審請求されて、判決がひっくり返ることになったら、
卑弥呼の権威も「神通力の権威」も地に落ちる
狗奴国との戦いでは、相手があることだし、兵書なんて多分読んだこともないから、
御神託で狗奴国に勝つ方法なんてわかるわけがない
卑弥呼が魏から倭王に任じてもらったのは、
もう「神の声を伝える」演技をして、みんなを従わせる演技に疲れたか、
「ほころび」が出て来たので、魏の皇帝から倭王に任じてもらうことで卑弥呼自身の身の安全
を図ったのではないか 老婆の言っている言葉や、
話を調べてみると
合致しているのか、
していないのか 邪馬台国軍議 臣下一同「女王様に拝謁いたします」
卑弥呼「皆の者、ご神託である!!」
臣下一同「ははあ!!!」
卑弥呼「この度の狗奴国遠征、わが国の大勝利なり!!
狗奴国は炎上して滅亡し、狗奴国王は討死するとのお告げ也!!」
臣下一同「おおおお!!!!!」
A将軍「では狗奴国遠征だが、どの道から攻めるべきかな?」
B将軍「××道から狗奴国へ攻め入るのが、狗奴国の王宮へ迫る近道だ」
A将軍「しかし××道は山と山の間に挟まれており、伏兵がいるかもしれない。 危険すぎる!!」
B将軍「案ずるな!!卑弥呼様のお告げで我らの大勝利は決まっているのだ!! いちいち心配に及ばぬ!!!」
卑弥呼「い、いや、あの もちろん勝利は決まっておるが、 あの、味方の犠牲を少なくするためにも、将軍たちはよく兵の進退を熟考せよ」
B将軍「それではご神託では××道から攻めるのは危ういというご神託でしょうか?」
卑弥呼「いや、あの、道までは、あの、その」
C将軍「兵を二手にわけましょう。××道と〇〇道から狗奴国へ攻め入るのです」
A将軍「しかし〇〇道の先にある砦は守備兵は少ないものの、崖の上で堅固ですぞ。 それにわが軍の戦力分散になります。
すなわちわが軍の半分が〇〇道の砦で足止めされている間に、
もう半分が××道で敵の主力に奇襲されかねない」
B将軍「だ・か・ら もう神のお告げが出ているから、もう勝利は決まっていて・・」
卑弥呼「あの、だから、慎重に慎重を期して・・あの・・」
A将軍「恐れながらご神託では、狗奴国遠征の戦術をどのようにすべきと出ましたでしょうか?」
卑弥呼「は? あの、その・・」
よく60年も女王をやれたものだと感心する あの写真も出来すぎている?
むかーしから
知られていた話なのかな
葱の華とか 女(女性)の話ばかりしているけど、
男(男性)の場合は? このスレの住人に質問なんだけど
モレ(仮)の事は、
どこの国の人だと思っている?
あの写真の家なんだけど、
他にも貼り付けつたはず 雑魚の畿内説くんは尻尾をまいてトンズラか
あいかわらず弱い連中だ 記憶喪失で現実逃避か、それもいいだろう
負け犬にはぴったりの病気だ 発狂して即レスする癖治したらどうだい?クスクス
畿内説くんが何から逃げてるかなんて
このスレを見ている誰もが知っていることだろう >>944,947を書いたアンチが実は
逃げてる人だったという皮肉
そんなもんだよ もはや切って捨てるほどの価値もなくなったのが畿内説
どこまで落ちぶれるんだろこのスレ そんなに価値がないと思っているなら来なきゃいいのにw 女王の住んだ場所が大和であることは間違いないというか決まりなのだが、
大和のどこなのか。
>>1は磯城だと言う。
俺は葛城だと思う。
ゆっくり議論したいのに九州説=アホが邪魔をしに来る。 >>952-953
結局ナニからなのか答えられない逃げ回りチキン
フカシだったという・・・w みすぼらしい畿内説が祝日にひとり漫才
これほどみじめな邪馬台国スレはそうそうない >>961
1の厚顔無恥はいまにはじまった話ではない >>956
>女王の住んだ場所が大和であることは間違いないというか決まりなのだが、<
「南≠東」などや、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
「白村江で大敗した倭国を、大和日本国が併合吸収継承した」事などでも、
女王の住んだ場所は大和ではなく筑紫である事に間違いがない」、
というか決まりなのだが、
平原の方格規矩鏡の幾つもに、「尚方作」という文言があった事でも、
それらは、元は魏の尚方で造られた事になり、
魏帝から卑弥呼への下賜の100枚の銅鏡の一部が元になっている事が確実になり、
それも、大和説を否定する証拠になった。 お盆休みがはじまったけれども、やっぱり、日本人は、邪馬台国を九州にあったと思っているよ。。。。
なぜなら、巻向なんかよりも、日本の端っこににある、吉野ヶ里に、邪馬台国を求めて、訪れる古代ファンが68倍もあるのだからね。。。。 テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
単里+長里との説もありますが、信憑性は? 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、
残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の
位置は九州地方北部にかぎられる 九州説の一人勝ち状態がこのまま進めば
畿内厨もいずれいなくなるだろう、前向きに考えるか >>968
対馬海流に流されて、佐賀県唐津市に比定される末盧國は有り得ない。
よって、短理?(興味なし)は間違いであることが分かる。 @阿波 倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は北九州からのみ出土する。 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの
吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述が全く欠けている。 九州北部の国々は、女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)ではない、即ち倭国でもないというのが、魏志の時点での認識です。
他の地域(ヤマトや九州南部など)の歴史を盗んではいけません。
魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
◎重要なのは、一大率支配下の北部九州や伊都国は、女王国ですらなく倭国でもないこと。 >>971
>倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は北九州からのみ出土する。
嘘。 @阿波 >>971
倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの丹は阿波からのみ出土する。 @阿波 >>932
>よく60年も女王をやれたものだと感心する
だから卑弥呼に直接会える男は弟だけに限定したのだろう。 https://goo.gl/m2KfqU
弥生時代の青銅器の分布です。
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、畿内は別の領域であり、畿内は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 吉野ヶ里みたいな耕地と密接した砦状の中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
堀と塀を廻らし物見を兼ねた楼門には朗党が見張りしている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い(伊都)
或いは経済の中心も他所でよく(博多)
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない(伊都)
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや伊都をや 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や丹波、近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 それで
その後、卑弥呼というのは、どうしたんだ?
アマテラスにでもなったの? ヒミコ=アマテラス?
時代が全然違うwと言っている人がいたでしょ 尼寺〜ず?が何やらと言っている人もいた
アニメの話? >>973
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね<
また「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の、
いつもの「同じ文の貼り付け」の繰り返しだなあ。
平原の「尚方作」と書かれた何枚もの方格規矩鏡を、どう説明してくれるんだい?。
「尚方」とは、中国の皇帝直属の(鏡などの製作調達の)組織であるから、
平原の「尚方作」の方格規矩鏡群は、魏帝から卑弥呼への下賜の100枚の銅鏡そのものの一部になるので、
それだけで、倭國は筑紫にあった事になり、
大和は×になるんだよ。 テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
単里+長里との説もありますが、信憑性は? >>980
>生産は地方
それを消費するのが都 <
だから、
半島南岸から西日本の範囲で、最も「搬入」が多かったのは、筑紫の弥生銀座。 >>991
>テンプレでは、方位について述べてますが、<
全く時代も場所も違うような、関係もない別人 の方位記載を根拠にしていますから、
スレ主は・・・・アホです。
>距離については述べられていません 九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、 単里+長里との説もありますが、信憑性は?<
スレ主は、方位でも「南→東」の嘘つきダマシをしている・・・・サギシであり、
都合の悪い事は、決して書かないようにしています。 テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
単里+長里との説もありますが、信憑性は? テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
単里+長里との説もありますが、信憑性は? テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
単里+長里との説もありますが、信憑性は? テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
単里+長里との説もありますが、信憑性は? テンプレでは、方位について述べてますが、
距離については述べられていません
九州は短里で統一されていると思いますが、
畿内はどのように考えていますか、
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