邪馬台国畿内説 Part269 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1つに、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2つに、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
(この項続く) ◆6−2(続き)
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
(この項続く) ◆7−2(続き)
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(この項続く) ◆7−3(続き)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。 ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
(この項続く) (続き)
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
(この項続く) (続き)
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
(この項続く) (続き)
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)こと、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。
上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東,得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國,在南方海中洲上居,東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、三世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、弁辰韓X期の文化圏である。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の時代」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間では…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の時代」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・烈曰:「 世有仁人,吾未之見。」(先賢行状王烈)
・発怒曰:「世有思婦病母者,豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
※これらは不特定者を指す例である。
「代々」の用例:
世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
袁氏子孫世有名位、貴達至今。(袁氏世紀渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ 56に加筆 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる土用の丑の日の日付けを間違っていることなどから、
日本国内在住ではなく、日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」からの呼称だが、2ちゃんではハンネを使用していない
全レスバカとも
自分の操作ミスを投稿制限と思い込み2ちゃん運営陣を非難したり、
.netと.scの区別がつかず、.scに書き込んだ内容が.netに無いのは運営に消されたからだと主張するような、「超」のつく非常識人物
九州王朝説を唱えた古田武彦の熱狂的支持者で、古田支持者の分裂を招いた、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する狂信者
歴史学や考古学に対する知識は皆無で、「素人おじん」を自称しているが、
その「素人」が、古田説に否定的な専門家を平気でこき下ろすという、常人には理解不能な思考の持ち主
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつであるが、本人に自覚は全くない
リテラシーも皆無で、実際には自分の主張に否定的な内容のものであっても、自身に都合良く脳内変換していることがしばしばある
「全レスバカ」の異称とおり、とにかく自分の信奉する説に否定的な書き込みにはレスを返したがり、その結果、投稿数が異常に多い
レスをつけるということへの執着により、別テーマのスレにコピペしてまでレスを書き込むというもしばしば
しかし、つけるレスは、全文引用したあげく、「自分が支持しないからこの書き込みは間違いだ!」という意味の文言か罵詈雑言しかない無内容のもの
これでも本人は、「自分の主張には必ず理由を明示している」と主張しているのであるから、どだいまともな議論は望むべくもない
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる独善であり、典型的「六拾弐病」患者 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと名無しを使い分け、自説を連呼するがバレバレ
糸クズ、八咫バカとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると主張したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッキナー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である , -──- 、
/:::::::::::::: ::\
/::::::::::: ::∨ト、 こいつはくせえッー!
:::::::::: :: レ'ノ
:::::::::::::: ::: レ'⌒ヽ ゲロ以下のにおいが
ヽ-───i===i─-}ァ' ノ プンプンするぜッ─────ッ!!
、` ー-===-゚---゚==‐' /
、`¨フ>;''ニニゞ,;アニニY´; ) こんな悪には出会ったことが
_、;;)¨´,ニ=゚='" ,.ヘ=゚:く {ッリ' ねえほどなァ────ッ
i1(リ r;:ドヽ K
ヾ=、 に二ニヽ `|; ) 環境で悪人になっただと?
_,ノ| i. {⌒゙'^ヽ.{ i;; ヽ ちがうねッ!!
_,ノ!i ヽ、 ヾ二ニソ ,';;; ;;冫=:、
_;(|.!. \ ‐っ /!;;; ;;/ 、''"\__ こいつは生まれついての悪だッ!
'ト、\. ,ゝ、.二..イリ\ / ー1\'ニゝヽ_
:ヽ `ニア ,. -┴‐‐' ー-:l :=ゞ=ソ」=ヽ 九州説さん
:::::\ ニ=ト、.i___`ー-┴-、ノ . l __l| ,ニト、くヽ
l::::::::::\ー:ト __}/ト、゙ ー-‐| ,ニ|ゞ=ハ `¨´ー- 早えとこ
;ニ=ー:::::::ヾト、._  ̄ ノ|::ヽ ニ._‐-ゞ=' .ノ ::|::::::::::: 警察に渡しちまいな!
:\:::::::::::::::ヽ  ̄ ̄ !:|:::::  ̄ ̄ ::::|:::::::: 良かったね!誤りを直しましたね!
(六拾弐病 全1病 キウス ザラコク 岡上)誰が指摘したかは知りませんが
良かったね!
◆FAQ 56
前スレ
A:「世有」には「代々」という意味と、「世間では」「この広い世界に」などと訳すべき用例がある。
↓
現スレ
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間では…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。 >>1
「有」を「・・・」としたのには笑いました。意地というか性格を垣間見ました www >>70
省略を理解できないばかどもにお情けをくれたんじゃないの? >>70
大局を見失って揚げ足取りに地道あげてるキウスの性格をバッチリ見ました www そもそもキウスには大局を見ることができるほどの知識も能力もない 268の>>483
そうか、 そうだよな。
@やっぱ筑紫だよな。 268の>>487
>一大率がヤマトより西の日本全体を管理してたの?! <
おそらく、共立諸国を中心に管理していたのであり、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」に関しては不明か、関与は少ない。 268の>>488
>九州と言う土地はむしろ弥生中期の最盛期を見るに、
弥生後期になると確実に衰退して崩壊してるのがハッキリと分かる・・・<
また、「南→東」の嘘吐きダマシの、
皇国史観の分裂幻覚の妄想の大和説の・・・・が出てきましたね。
筑紫倭國が、白村江の後まで、西日本の盟主であり、
中国との国交もほぼ一手に引き受けていた、
という事が、史料事実である事を何回書いて上げても、
全て知らん振りだもんね。 268の>>496
大和説は、もうどうあがいても成り立たない事が判明したよ。 268の>>500
倭人伝に記載されてる地域は筑紫の強い影響下にあって、
大和の中心性なんて何にもないのにな。
なにを夢見てんだか 。
史書と考古学は既に一致してる。 などと、文献も読めず考古知識もない老人75歳がむにゃむにゃ言う 268の>>505
大和様は、倭人伝に記載されてる地域からしても、その時代に中心もまとまりもない。
その土地は既に【弥生時代から白村江の後までずっと】筑紫倭國の附庸地であり、
倭国の強い影響下。
梁書に書かれた「扶桑國」時代にようやく独立的になり、
継体の反乱の後でようやく筑紫倭國の王家の一員に出世し、
中国に「日本国」を認めて貰うのは、隋の開皇末に小野妹子が失敗し、
唐の武徳中になってから。
この男らは、なにをボケかましてんだかな? 。 268の>>513
バカヤマトセツは、何も知らないから、
衝撃の事実ばかりで発狂するんじゃねぇかね。
あっ、もう狂ってるのかw。
わりぃわりぃ。 268の>>521
「南→東」などの嘘吐きダマシのヤマトセツの脳内だと、
ヤマトは豪華絢爛の財宝が山盛りの超先進国で、
日本を支配したスーパー大国なんだよな?w。
そして畿内のみならず日本全国を支配した真の日本の王朝?www。
そして、天地開闢から後の世まで、日本の代表として中国と交渉してた?wwwwという。www。
もう笑い死にそうだwwwwww 。 268の>>522
「考古学的には」は 曖昧な表現。 いかにも正しいように見えるが 、
正体は、
考古学的には=皇国史観的には。 笑い死んでくれ
ひたすら嘘をつき続けるザラコク爺よ
wwwwwwww 268の>>535
>あ、そうそう鏡の事だけどよ
まず史書にでてくる鏡は ・・・<
倭人の中の、出雲系や姫氏系ではなく、
元々は、天孫族系や阿毎氏系が鏡をお宝にしていて、
その風習が、特に天孫族系関係の諸部族で「大事なお宝」として、現在にまで残って行った、
という事。
高良大社の「三種の神宝」もその一つ。 268の>>537
>ところが伊都国をはじめとした九州諸国は
頭越しされて邪馬台国に鏡が下賜されている<
この・・・・は、また、
「邪馬台国=大和」という、
嘘吐きダマシの分裂幻覚の妄想のでっちあげでの話を書いているね。 268の>>538
この男もまた、
倭国=大和という、「南→東」の嘘吐きダマシの分裂幻覚での、
妄想を書いているようだ。 268の>>543
アレだっけ?。
和田キヨエをたぶらかして、
大量の小便着色一升瓶を旧和田家の家の中に置いた偽書説派の信者は、
「大和はいつまでも日本の王者で中国と交渉してた真の日本なんだ」という、
「南→東」などの嘘吐きダマシの皇国史観大和説者と、
同じ穴の狢だったんだっけwwww。
バカすぎてもう笑いしか出ないなwww 。 71日本@名無史さん2017/09/06(水) 01:56:02.31
>>68
きうす、それ誤りでもなんでもない
72日本@名無史さん2017/09/06(水) 02:01:12.37
>>70
省略を理解できないばかどもにお情けをくれたんじゃないの?
73日本@名無史さん2017/09/06(水) 02:01:16.84
どっちにせよ伊都説論破されてるし
74日本@名無史さん2017/09/06(水) 02:06:42.83
>>70
大局を見失って揚げ足取りに地道あげてるキウスの性格をバッチリ見ました www
75日本@名無史さん2017/09/06(水) 02:14:05.27
そもそもキウスには大局を見ることができるほどの知識も能力もない
77日本@名無史さん2017/09/06(水) 02:25:16.79
と呟くキウス
81日本@名無史さん2017/09/06(水) 05:27:27.39
モーニングザラコク
83日本@名無史さん2017/09/06(水) 05:35:03.73
キウス
86日本@名無史さん2017/09/06(水) 05:48:45.87
などと、文献も読めず考古知識もない老人75歳がむにゃむにゃ言う
91日本@名無史さん2017/09/06(水) 06:05:39.51
笑い死んでくれ
ひたすら嘘をつき続けるザラコク爺よ 268の>>548
>・・・やはり卑弥呼や巫女は、元々祭祀で軍を纏める役割を担ってたのかもな。
魏志倭人伝の記述とも合致する。<
合わないよ。
卑弥呼は、共立された女王の方だよ。
> 『鬼道にて衆を惑わす』 纒向の状況とも合致するしね。
古墳時代のモモソ姫や他の姫も同じ役割だったのかもね。吉備津彦とセットなのも納得。<
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の大和などは、
当然、筑紫倭国の王家の祭礼に対する「憧れ」を持っているから、
それが今城塚などにも表れた、というだけ。 268の>>549
>>B天孫降臨のように地上の統治権を移譲される形で登場する<
>三種の神器を掲げて、王として威風堂々と筑紫入りしたんだよね。<
同じ天孫族系列部族である事を、示し合った、
というだけだよ。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、
これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、
帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、
2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------
いや意味不明なんだが。
で、其国の男王はどこにいたの? 268の>>562
すげぇな 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの分裂幻覚の妄想患者のヤマトセツって、
本当に何一つまともな事言わないなw。
妄想をひたすら喚いてるだけ 。
流石は頭どうかしてるだけのことはあるわ 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。 はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜 268の>>589
大和説ガキらの、
無学な「南→東」の嘘吐きダマシの分裂幻覚の妄想は、
悲しいね 。 >>105
行儀が悪いです。
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
☝
畿内説内部での見解、都合が悪いから、こう答えるしかないのでしょう。 >>108
釣り掘りより、良く釣れる
次に「全一病」が来るのは分かってたよ キウス、岡上、ザラコク
邪馬台国関連スレ三大狂人
泡、呟き
を加えて五大キチ 其国の男王(帥升)は伊都国にいたが衰退、
そして突然、纏向にヒミコが現れたって言いたいようだアホの>>1はw
という事は王権の「東遷」なわけだwww >>111
読めばいいでしょ。
>>99に書いてあるとおり。 ものをはっきり言えないから学者気取りの言説でごまかす。
最低だな。 邪馬台国が北部九州という仮説だと
戸數、道里を略載してない遠絶な旁國21国は北部九州の南側
女王の南側の境界が尽きた国の南が狗奴國
後漢書の倭國之極南界の倭奴国は邪馬台国の南の旁國の奴國になる >倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれ(北部九州の衰退)と無縁であり、
>女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
え?
突如として纏向に王権が沸いたの? さすがに>>115はバカだな。
隣の爺さんが死んだからお前に乗り移ったのだ、と言うのは迷信だ。 >>121
乱があったら
没落するものと興隆する者があるのは
普通のことだよ >>1は相変わらずウダウダ逃げ回ってるが、
纏向の2世紀前半に「男王」はいないでいいね? >>126
ほら、答えないw
纏向に2世紀前半の其国の男王は「いない」でいいね? >>130
ほら、答えないw
纏向に2世紀前半の其国の男王は「いない」でいいね? >>134
ほら逃げたww
いつものパターーン。
こんな程度の人間が畿内説なんてわらかしよるw >>136
必要があるなら答えるさ
でも、誰に質問してるのかわからない問いに答える義務はない 268の>>590
いつも負けて、最後は陰謀説に走る、
「南→東」の嘘つきダマシの分裂幻覚の妄想の大和説 。 そしてザラコクは機械的鸚鵡返しでホラを吹く
九州説滅びるはずだよ >>137
2ちゃんねるで義務とかアホじゃねーの?
問いに答える義務はない キリッ >>137
当たり前だが答える必要があるだろ。
2世紀前半の其国の男王からヒミコやトヨまで1つの王権が続いてるのかいないのか。
どっちなんだよ。 >>141
そりゃ、誰に質問してるか判らないからな
当たり前だ >>142
もしかして
畿内説でもテンプレに同意してない人間がいるか??
って聞いてるわけ? 268の>>598
春成とかスレ主みたいな、政治思想に凝り固まった無能老人とか、
実力ないのに、上から目線の寺澤とか、
ろくな人材いないな 、
大和説は。 畿内厨がまた見苦しい醜態を晒していますね。
ホントにつける薬もないですねぇ >>144
>あるって理由は?
いやそれはどうでもいい。
2世紀前半の其国の男王からヒミコやトヨまで1つの王権が続いてるのかいないのか。
どっちなんだよ。 >>147
悪口しか言えない岡上ほど醜態を晒してる人は無いのだが >>145
>もしかして
>畿内説でもテンプレに同意してない人間がいるか??
>って聞いてるわけ?
おれは畿内説だがテンプレに同意していない。
纏向にヒミコがいるわけはない。
磯城=纏向勢力は王権に敵対していた側。
王権はヤマト内でも別の地域にある。
それは葛城だ。 >>148
お前って薄馬鹿?
こっちに答える必要があるかどうかは「どうでもいい」のに、なんで質問するんだ?
答える必要がなきゃ、答えないよ。 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。 >>115
>其国の男王(帥升)は伊都国にいたが衰退、
>そして突然、纏向にヒミコが現れたって言いたいようだアホの>>1はw
>
>という事は王権の「東遷」なわけだwww
どうも気になるが、「東遷」という造語は、王が国ごと引き連れて移住するって
事だよな?
神武記にみる一行の勢力は、せいぜいが大隊クラスで、それも各地を流浪の旅w
客分として屯田でもしながら移動した風情でしかない。如何に長髄彦がエリアの
王として強力であっても、九州勢力を挙げての攻撃なら流石にひとたまりもない。
鉄器の優勢だけでも、圧勝するよ。
それが、実際は兄二人を失い遙か僻遠の熊野まで落ち延びたんだよ。
統一国家で例えばレコンキスタの後カルロスが首都を移すってのとは訳が違う、
弥生の王=大稲作地帯をそのまま残して攻め取りで敵地に遷都するなんて、あり得ない。
当然鉄やその他の資産設備や人口も残していくわけだろ?後は誰が支配するんだい?
実際は、王族の一部か、九州で芽が出ない一族が新天地「うまし国」を求めて出ていった
って程度の話だよ。 >>153
邪馬台国スレで邪馬台国の質問に答える必要があるかないかなんて言うやつが邪馬台国スレを建てるな。
目ざわりだ、もうスレを消せ。 >>148
そんなテンプレにはっきり書いてあること
なんで改めて質問するんだろうね 268の>>606
アホでしょ。
「南」が間違いである確率は、0,5%はるかに以下であり、
ほぼ正しい確率は、99.5%」以上であるんだから、
方位否定とかしてたら、最初から大和説は確率がなかったわけ。
それなのに、畿内説スレを開くと言うことに、なんの意味があるか? 。
それは、馬鹿と罵られたいマゾ以外にない。 >>156
お前がこのスレに来なけりゃいいんでは? >>161
おまえが答えりゃ済む話。
2世紀前半の其国の男王からヒミコやトヨまで1つの王権が続いてるのかいないのか。
どっちなんだよ。
YESかNOか。 >>119
北は通過してきたからわかるけど、他はわからないと言うことだよ。
南だけではなく、西や東もわからないんだよ。
郡使は東にも行ってない。
南は狗奴国、熊本だね。 >>163
畿内説は誰も答えられない。
それは畿内説が捏造だから矛盾だらけなため。 常識的に言えば、同じ質問を何度もするバカに煩わされないためにテンプレがあるのだが >>164
だから、なんで俺が答える必要があるんだ?
理由を言えよ >>166
九州説は嘘をつくことでしか自我を防衛できない。 268の>>614
こいつ、頭がおかしいんじゃね。
文献批判で、99.5%以上のほぼ正しいという事になった「南≠東」を、
頭から否定しやがった。 >>169
答える必要云々でなくておまえは「答えれない」わけだ。
まぁこの程度のアホだwww >>172
どうして「答えれない」ってことになるんだ?
理由を言えよ。 学校のテストの答案に、
「だから、なんで俺が答える必要があるんだ?
理由を言えよ」
と書いたやつがいたら面白いだろうなw
他人から見ればだがwww 268の>>616
だから大和説は、「南→東」の嘘つきダマシの分裂幻覚の妄想の・・・・w 。 >>174
学校のテストは答える必要があるだろう
学業の理解度を試す試験なんだから >>155
どうあれ、それが初期ヤマト王権じゃないの >>174
言動に理由のない九州爺さんらしい錯覚だね。 268に>>620
いくら言い訳したって、あなたは、
文献の「南」の批判での、99.5%以上のほぼ正しいものを否定したんでしょ? 。
それこそ、邪馬壹國を探求するスレにいる価値もないって事の、証明だ。 へぇ>>1は
「2世紀前半の其国の男王からヒミコやトヨまで1つの王権が続いてるのかいないのか。
どっちなんだよ。
YESかNOか。」
これにさえ答えれないんだ、そうなのかw
俺の答えはもちろんYESだけどね。
そうか、>>1は答えれないのか、可哀想にwww 268の>>628
>南に行けば沖縄に着くさぁ〜
なんくるないさ〜♪<
不彌國のすぐ南にあるから、沖縄には行かない。 >>181
すでに書いてあることに二度も三度も答える必要はないんでは?
だからテンプレがある。 誰が何を答えようと同じ質問を延々と繰り返し
キナイセツハコタエラレナイって絶叫する変態なら
実在してるぞ >>180
そんな無駄レスする間にYESかNOか書き込めばいいのに。
1秒で済むよw 268の>>641
俺、そうは思わない .
って、都合の悪い史料事実を否定無視しておいて、
言葉尻に一言言うのが、反論だ論破だ、と思ってるのが、
皇国史観教の大和説だよ 。 >>165
北部九州に邪馬台国があったら西や東は旁國が隣接することになるし
21国も詰め込むのは無理 >>187
旁國21国は邪馬台国の中の国邑なので問題ない。 >>60
テンプレ用例間違えてるのに何で修正しないの?
>世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
> ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
この場合世有名節は漢代に名節だったって意味で、そこから9代目が管寧
だから代々の用例じゃなくて「魏の時代」と同じく「漢の時代」の用例だよ
トビ主はアホだなwww 10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
それで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
これが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代まですんなり遡れるのだ。
ほらトヨもヒミコもいた。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
ヒミコは天皇系図のイの一番にいた。
女王のいた都は葛城だ。
纏向ではない。 268の>>662
>まさか
そんなこと書いてない
九州説は捏造が好きだな <
大和説は、
春成かスレ主か知らんが、捏造が好きだからな。 >>192
漢代に名節だったって意味だと言う根拠は? 268の>>667
スレ主といい、春成といい、天誅といい、ssnといい、ハイエナといい、
「南→東」の嘘つきといい、偽書説派といい、
キョクウのヘイトスピーチ人種差別者といい、
大和説者には、ロクな奴がいないな。 >>192
管寧は漢代も魏代も生きていた人なんだが? 268の>>671
このように・・・、
何も理由を言わずに、「南→東:などの史料事実を否定改竄するのが大和説。
というか、「皇国史観教」とう結論先にありきであるから、理由が言えないのが大和説だな。 >>192
「お前は間違っている。なぜなら俺が正しいからだ、理由はないけど」
って九州説的な、あまりに九州説的な主張だw 268の>>681
>またザラコクがウソをついている
なんだってオウム返しできるでしょ<
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者なら、なんだって根拠無しにオウム返しできるんだろうが、
事実や史料事実の根拠で投稿している九州説者は、事実根拠無しには、オウム返しはしない。 268の>>686
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、明らかに異常。 268の>>735
>つまり「四国や吉備の連中=物部」が畿内入り(天神本紀)、
そして四国や吉備の最新手法を在地の畿内弥生土器に持ち込み土師器が誕生。
それを筑紫や全国に波及させた。 そういう事であろう。<
いや、土師器の高温焼成の技法は、
青銅や鉄での高温溶融の技法の応用、
という事以外には考え難く、
だから、中国の黒陶灰陶の技法や半島の金属溶融を知っていて学んだ、
弥生銀座のハイテク工業地域が、列島での始まりであったんだろう、
という事を否定する事は困難であり、
だから、柳田などの「庄内は三雲が最も古い」という説明は、信頼性が高い。 >>204
それ、土師器じゃなくて、須恵器の間違いとちゃいまっか?
土師器は弥生土器とほぼ同じ土器の事で、低温焼成の土器でっせ。
須恵器は中国灰陶の高温焼成技術を使った朝鮮陶質土器がルーツ。 >>204
>だから、柳田などの「庄内は三雲が最も古い」という説明は、信頼性が高い。
またザラコクが捏造してるね
そんな説明は存在しない
九州説というのは捏造をする病気なのかな 268の>>761
庄内も布留も、
三雲や河内や播磨や南加賀に奪われて、
無残やな大和説。 268の>>763
漢文が読めないし否定曲解するやつ、
考古学知らないやつ。
それが大和説者。 268の>>781
「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
結論だけ言って理由をまったく言わない。
皇国史観狂の大和説ガキの特徴がよく出てる。 268の>>794
>播磨が最古級の物部というだけ。 2世紀後半、纒向建設前(ヤマト征伐前)に、播磨は吉備に征圧されたんだよ。
征服した播磨の民を兵として再編集して、ヤマト征伐そして北部九州を征圧し、博多に一大率を設置したんだね。<
違うだろうねえ。
物部は、姫氏の高良山の古系図にも載っている家柄だから、
おそらく、「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」で、
天孫族系の阿毎氏や、姫氏の東征での、将軍か武将クラスの一族であり、
阿毎氏の神武らは、大和に侵略植民して出雲系銅鐸部族を従えたが、
物部は、播磨の銅鐸消失戦や、河内での半島渡来系や銅鐸民との共存をし支配した方、
という事になる。 沖縄では九州人のことも「ヤマトンチュ=大和人」って言うからな
大和って言葉の意味、定義、成り立ちから見直したほうがいい
ヤマトってのは山のふもとという意味だろう
それは海の近く(博多湾など)に住む海洋民族に対して、山の近くに住む農耕民族の国という意味だよ
それ以上でもそれ以下でもない
だから九州にもヤマト、四国にもヤマト、奈良にもヤマトという地名がある
後の大和王権が奈良に都を置いたせいでヤマト=奈良みたいになってるけどそれは違う
単に山のふもとという意味
そして大和王権とは「農耕民族王権」のこと
3世紀まで海洋民族が覇権を握ってたのが、勢力が逆転して農耕民族による覇権に移行したのが3世紀末の奈良
これが大和王権の原型で、九州の海洋民族政権の残党の奈良への服属の完了は6世紀までかかる 湾岸国vs内陸国っていう主導権争いがあって
結局は内陸勢力が勝つっていうのが弥生時代〜古墳・飛鳥時代の流れでしょ
ただし湾岸国もただ黙って負けたわけじゃなくて
海洋技術がないと大陸で先進の農業技術や金属農具の原料が手に入らないから
それを餌に内陸国に移住(=天孫降臨)して
内陸国の政府中枢に食い込みながら海洋政権を延命したと
それが弥生時代後期であり初期大和王権でしょうな 268の>>803
>魏使らが記録したって根拠 何もないんだけど <
魏使らの記録を見なくては、
陳寿は、魏志倭人伝を書くことが出来ない。 ただし邪馬台国の風土として「顔に刺青」とあるので
やっぱり邪馬台国も海洋民族が移住(=天孫降臨)して王族として振る舞いながら
現地の農耕民族を支配して成り立ってた国だろう
倭人伝には卑弥呼がもともと邪馬台国の人間だとは一言も書いてない 268の>>806
>やはり卑弥呼は元々祭祀で軍を纏める役割を担ってたのかもな。 魏志倭人伝の記述とも合致するな。
鬼道にて衆を惑わすとある。 纒向の状況とも合致するね。<
少し違う。
一応卑弥呼は、共立女王としての全体的な執政王であり、
軍関係は、一大率が中心的になっている。 海洋民vs農耕民の争いは
海洋民が支配していた朝鮮半島南部から農耕移民を奈良に大量に植民させたことで
海洋民の勝利に終わった
とも言える
倭は農業国家化するんだけど、もともと農耕民だった倭人が覇権を握ったわけではなく
むしろ倭の農耕民は政権から追い出され、渡来人と九州からの移民が農耕政権を作った >>177
>>>155
>どうあれ、それが初期ヤマト王権じゃないの
邪馬台国とは関係ないな。 >>187
【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>219
>倭は農業国家化するんだけど、もともと農耕民だった倭人が覇権を握ったわけではなく
>むしろ倭の農耕民は政権から追い出され、
だから、これが九州や出雲で起きたんでしょ。
そしてさらに海洋民族(天津神)さえも筑紫日向から追い出される倭国大乱があり、卑弥呼が火の国から共立されたと。 268の>>819
>三角縁神獣鏡の鋳の穴が長方形という魏の工人に特徴的であることを阪大の福永伸哉さんが指摘してた<
古田さんは、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html
の中でも、
福永論の「長方形」判定が、不完全であった事を指摘され、
しかし、「鈕孔」に関して言えば、典型をなす諸鏡(「海東鏡」「徐州・洛陽鏡」「景初三年鏡」)より、むしろこちらの方が「長方形」に“近い”のである。
要するに、典型をなす銅鏡(いわゆる「三角縁神獣鏡」)が鈕口に関しては、決して典型的な鈕口(長方形)をなしてはいなかったのである。
と指摘しておられるんだよ。 268の>>825
ほらね、大和説は、「史料事実を根拠にした人並みに会話」ができないから 、
馬鹿にされる。 268の>>839
>邪馬台国は北九州にだけはない <
邪馬壹國は不彌國のすぐ南だから、筑紫にある。
>そこにどんな国々があったか魏志倭人伝にしっかり記述されていて
邪馬台国の入り込む余地がないからだ むしろ北九州以外のどんな場所でも邪馬台国と想定したとして
それでもまだ北九州説より説得力が出る始末<
大和は、
不彌國の東北東だから、南ではなく、
始めから×だよ。 268の>>846
史料事実根拠も理由も何も無い。
「皇国史観の天皇家支配」宗教の結論だけがある 。
それが大和説wwwwwwww 。 >>197
読めば分かる
読んで分からん奴は口出しするなw >>223
起きてないよ
奈良で起きたんだよ
当時の奈良の人口の半数以上が渡来人だったというデータがあるし
現代の近畿地方のDNAは韓国人に近いというデータもある
現代でも九州は縄文人の血が濃いというDNAの調査結果があるから
大量の渡来人が九州を通り越して大阪湾まで行ったということは間違いない >>227
>と指摘しておられるんだよ。
古田武彦って演歌歌手が指摘しても意味はないのだよ。
分かったから早く古田の元に行きなさい。
紅葉シーズンまでには行けよ、分かったな。 海洋民が韓国から農耕移民を大量につれてきて作った国が奈良であり大和王権だってこと
大和王権の豪族も渡来系(蘇我、中臣など)と九州系(物部、住吉など)ばかりだろ? >>234
じゃあ素人がスレ立てて何かを主張しても意味ないな
このスレ潰せよwww 268の>>851
>へえ。 じゃあ、邪馬台国の卑弥呼の王宮が何県のどの遺跡にあったのか教えてよ。
さあ、さあ、さあ!<
おそらく、松野氏姫氏系図に卑弥呼の居地と書かれた大野付近にある「安徳台」だよ。 >>235
曽我氏は筑紫倭国、中臣鎌足は隋からの亡命者
大和王権は南部九州、孫呉
韓国からは半島を経由してきた騎馬民族 268の>>857
>(卑弥呼の宮殿の場所)九州には確実にないからもっとかわいそう<
筑紫では、安徳台。
大和には確実にないからもっとかわいそう。 268の>>885
邪馬台国も畿内説もなかった事は、もはや論ずるまでもないから。
邪馬壹國や筑紫説はあった、という事は、もはや論ずるまでもないから。 268の>>984
大和ではない理由なら、山ほどある。 268の>>898
大和は、「南≠東」などに拠って、魏志倭人伝に書かれている邪馬壹國ではない。
邪馬壹國は、不彌國のすぐ南、って書かれてんだからな 。
少なくても九州の中。 >>235
もともとから本州にいたのは賀茂氏くらい
ただし賀茂氏も出雲系だから奈良現住民ではない >>233
>当時の奈良の人口の半数以上が渡来人だったというデータがあるし
>現代の近畿地方のDNAは韓国人に近いというデータもある
>大量の渡来人が九州を通り越して大阪湾まで行ったということは間違いない
そりゃそうだ。
誰もそこは否定していない。
ただ、それは邪馬台国と関係ないでしょ? >>237
九州はいいんだよ。
卑弥呼の王宮の候補はたくさんある。
問題は畿内説だよ。
何にもないのに邪馬台国とか抜かしおる。 >>246
おこぼれだったけど勢力が逆転した
唐書「日本(奈良)は倭(九州)の別種。小国だったが倭を併合した。」
この通りでしょ >>248
>鴨は饒速日の縁だから天神。
天神って何だよ。
>>244 が正しい。
鴨は銅鐸族。 >>249
邪馬台国には馬はいなかったと明記されているから、卑弥呼より後なんだろう。 >>254
騎馬民族は応天皇以降だろう、継体天皇は本格的な騎馬民族かな
邪馬台国VS畿内騎馬民族 >>247
>九州はいいんだよ。
>卑弥呼の王宮の候補はたくさんある。
え?それ笑わそうとして言ってるの?
>問題は畿内説だよ。
>何にもないのに邪馬台国とか抜かしおる。
考古学的に纏向が候補であろうが「謂れ」がない。
謂れとは文献、神社、神社伝承、風土記となんでもいい。
これはr致命傷。
「謂れ」があるのは葛城。
大和朝廷の発祥地であり明神大社6社が集中、うち2つは日本最古級の神社。
そして高天原(御所市高天)が存在する。 >>256
乙巳の変で筑紫倭国の王である蘇我氏はヤマトの中大兄皇子、隋の中臣鎌足の策略
により暗殺され倭国はヤマトの支配下に入る
しかし白村江の戦いで倭国の友好国である新羅が統一して立場が逆転する
壬申の乱で大海人皇子は唐、新羅の援護を受けてヤマトの近江王朝に大勝した
筑紫倭国の王である天武は飛鳥に都を移した 飛鳥、法隆寺の大宰府から飛鳥への移築はヤマトから倭国への政権交代を意味する >>248
>>253
葛城の賀茂氏のトップは事代主
事代主は大国主の息子だろ?
つまり出雲系だよ
ニギハヤヒは物部の祖先であり、大国主と共同で奈良を開拓したんだから
賀茂氏とニギハヤヒは関係が深い(天孫族が奈良に来る前の盟友関係)
また、賀茂氏は秦氏とも関係が深い
秦氏も渡来系だね 韓国南部から日本産のヒスイが多く出てくるんだよね
日本→ヒスイ→韓国
日本←農業移民←韓国
こういう貿易が成立していたと
倭人は人買いだったわけだ >>262
秦氏は徐福一族であり、徐福の7人の子供(七福神)は全国にちらばり王となった >>263
新羅は出雲が作り、百済は畿内ヤマトが作った 日本→ヒスイ→韓国
韓国←生口←日本
倭国は狗邪韓国(任那日本府)を拠点に奴隷貿易をしていた
最低だなジャップ あ、間違えた
日本→ヒスイ→韓国
日本←生口←韓国 >>266
勾玉は出雲の証であり、新羅の勾玉は出雲族の証である(いいなトンスル >>267
しかし韓国という国がいつ建国されたと思ってんだか、韓国人は単一民族と思っているのか 268の>>899
>庄内布留がほぼ古墳からしかでない畿内は、古墳の墓制を北九州から受け継いだ。
つまりやはりヤマトの本家は北九州なんだ。 ってことじゃないの 、なんとなく。<
面白い視点ですね。 なぜ、いつもテンプレートは論破されてしまうのだろうか、、、、、 268の>>901
>・1万2千里を経過して「から」女王国。<
自郡至女王國萬二千餘里。
>・九州には各地にヒナモリ(ヒナは夷、鄙、モリは守。辺境の守備隊の意)が配置され、刺史(中国の地方検察官。中央には置かれない)が伊都国に常駐して周囲を監視する辺境の属国扱い <
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里・・・
參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
という範囲内の話。
>・九州は紀元前から続いていた中央の福岡の副葬品大量副葬も消滅(平原)。<
消滅していない。
>弥生中期まであった銅矛、甕棺を広めていた中心もまとまりも崩壊して各々小集落に分裂。その後現代に至るまで独自の統合勢力などなく九州王朝など論外<
久留米付近が都の東海姫氏國になった。
>・九州は紀元前から続いていた中央の福岡の副葬品大量副葬も消滅(平原)。弥生中期まであった銅矛、甕棺を広めていた中心もまとまりも崩壊して各々小集落に分裂。その後現代に至るまで独自の統合勢力などなく九州王朝など論外 <
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm >>270
確かに庄内式が畿内の影響なら
庄内式が伝わった時には北九州にはもう古墳があったってことになるな。 >>270
もとの文の意味がわからん。
庄内布留が「古墳」から北九州ではでるから
庄内布留が弥生遺跡しかからでない畿内は
北九州に遅れて古墳時代になった
こういうことか?
>>273 268の>>901の続き
>庄内土器は広く九州の弥生土器と共伴している<
庄内の最古は、三雲。
それが東方倭種に伝わり、筑紫へ搬入上納。
>・中期の最盛期の時でさえ他地域では九州と違う祭祀を行い、その後は九州では全く発展しなかった大型墳墓、土器祭器の時代となりその後九州は逆に他地域の影響下に入る。九州の影響は西日本地域に全く広まっておらず東征も東遷もない <
自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸国の大和が、
筑紫倭国を併合九州継承出来たのは、ようやく白村江の後。 ピア(PIA)、サントロペ(PIA系)、楽園(北朝鮮系)、マルハン、キコーナ(北朝鮮系の可能性が高い)の大当たりはすべて遠隔大当たりです
今のパチンコ、スロットの大当たりはすべて遠隔大当たりです
パチンコ店の幹部がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせた大当たりしかないです
だから確率、設定は関係ないです
ピア、サントロペは神奈川県のJR川崎駅前にパチンコ台1800台、スロット1000台くらいあり、そこで大勝ちしてるのは店に雇われた内ち子と呼ばれる集団です
ピア、サントロペは内ち子の台に遠隔大当たりさせて裏金(年間1億以上)を作ってる詐欺犯罪組織です
ピア、サントロペは打ち子の人数が日本で一番多いと思う
上にも書いたがピア、サントロペの大当たりはすべて遠隔大当たりです
幹部店員がパソコンを1〜3回クリックして大当たりさせています
この金が北朝鮮に流れているのかもしれない
グアム攻撃で北朝鮮が受ける最大報復
2017年8月16日
なぜ大阪・神戸地区が狙われないかというと、この地域に住む朝鮮民族のほとんどが北朝鮮系でパチンコ業で年間800憶円の献金を
キム将軍に密送しており、それがミサイル製造の資金源になっているから。
http://www.excite.co.jp/News/society_clm/20170816/TokyoSports_733545.html
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/733545/ 268の>>903
>・九州は弥生時代全てを通して一度も統合されておらず、南部に至っては奈良時代に至るまで別文化圏。東部は出雲や四国の影響が強い。北部九州を勢力下に入れていた邪馬台国は九州のどこにも設定できない <
自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸国の大和が、
筑紫倭国を併合九州継承出来たのは、ようやく白村江の後。 >>275
補足すると
・6世紀の磐井の乱の鎮圧→博多湾利権を大和王権が奪取(筑紫王の自治政権はかろうじて残る)
・7世紀の白村江の戦いの敗戦→筑紫王の自治政権が消滅
こういう流れだろうな 268の>>904
>倭人伝の脳内俺解釈しかネタの無いキュウシュウセツなんて最初からお呼びじゃない
まぁこいつらの脳内だと九州は金銀財宝山盛りの超先進国でた地域を圧倒した超大国らしいからなw
物知らない原始人の妄言は本当に笑わせてくれるw<
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm 「筑紫君磐井」の存在に着目するべきだね
「君」なんてカバネを与えられた豪族なんて他にいないからな
「大君(オオキミ)」の「君」だぞ
筑紫勢力が博多湾を支配し独自に外交・貿易を行っていたということ >>280
>「君」なんてカバネを与えられた豪族なんて他にいないからな
諸県君牛諸井。
仁徳の妃、日向髪長媛のお父さん。 >>276
はい、はい、日本第一党のクズは巣に帰りましょうね 268の>>907
>九州説はそこまでわめき散らして説明しないとダメな時点で変だ
畿内説なら九州通り過ぎて東に向かえば到着<
自郡至女王國萬二千餘里だから、通り過ぎない。
「東」は「、南≠東」だから×。
>ヤマトという所に卑弥呼の時代と年代が合う巨大古墳があり <
河内や大和の庄内は、285年頃以後であり、卑弥呼の時代と合わない。
>景初三年と魏の年号の入った三角縁神獣鏡が多数見つかるで終わり <
魏帝の銅鏡100枚の梱包は、景初二年12月までに終わっており、
景初三年鏡は、魏帝→卑弥呼の鏡ではない。 天武政権は倭国、唐、新羅の連合政権であった。
この意味がまだわからんぼけがいるみたいだな、反論できるならするがいい >>285
倭国の王の成れの果てが筑紫君磐井かもな
57年の金印授受、107年の倭国王帥升の時代が黄金期で
そこから倭国大乱〜邪馬台国成立で覇権を失い、大和王権の全国支配が進んでいき、
つまりまるまる500年くらいかけてじわじわと領地と権力を失い滅亡していった 268の>>911
>もともと西日本地域は九州の祭祀と全く違う祭祀をしていた。そして弥生時代後期には九州のまとまりは崩壊し小集落に分裂したまま他地域の影響下に陥っている
他地域が九州を上に頂く理由なにもない<
出雲系銅鐸祭祀部族や毛人蝦夷や半島流民と、東征倭国人との混合や、時には共存状態であっただけだ。
>しかも史書に登場する鏡の記述は、まさに伊都国の五十迹手、東部の神夏磯姫のように【降伏の証として鏡を差し出している】
または八咫鏡は神などの【上位者への貢ぎ物】、当地の【権利の委譲】と言う形で現れる <
倭国の存在や歴史を隠蔽する皇国史観で書かれた記紀の記載は、始めから隠蔽盗用ばかりであり、
そんな話は論拠にならない。
>また倭人伝にもあるように鏡は中国との交渉の証として機能している
これが邪馬台国に配布され、伊都国をはじめとした九州諸国が無視されているという事は九州は交渉の主体から転落していること意味している <
魏帝→卑弥呼の100枚の銅鏡jは、蝙蝠鈕座内行花文鏡や「尚方作」の方格規矩鏡などであり、
大和付近までの配布は、鏡片など以外には殆どなく、
三角縁も、呉系楽浪鏡師らの渡来に拠る製作や、大和の子弟らへの伝授に拠るもの。
>その上、邪馬台国の時代を境に九州の鏡は一気に畿内に抜かれ鏡の数はそのまま九州と畿内の力関係の変化を示している <
上述のように、示していない。
>九州のシンボルの鏡が他地域に移動してると言う事はつまり九州が主権も祭器も奪われたという事だけ
鏡が移動したことを誇らしげに主張する九州説の滑稽な姿よ <
平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡の事から逃げたこの投稿子の滑稽な姿よ。 百済王や新羅王も朝貢してれば大和貴族扱いだが、九州もある程度外国扱いだったんだろ。
300年以降対馬航路は大和政権が半島進出で朝貢も止めさせてるけど
大和の平定ってのは、反抗的でない在来豪族はそのまま地縁に残してるんだよ。
日本の戦争は一族郎党廃絶の方が少ないんじゃね?
この時海神安曇族が信濃に配流されて、宗像に出雲系豪族が入ったりしてんだろ。
筑紫の君は磐井の後も嫡流だけど畿内に人質にしてた王子とかだろな。
邪馬台国は世襲豪族でも無いのに王権が継続可能って考える方がおかしい。
400年からの倭の五王は畿内に古墳も出るだろうけど
卑弥呼の墓なんて守る王権や豪族も無きゃ出ないよ。
突然の災害で滅びたポンペイでも無いのに
誰も発展させないで滅びてる吉野が里みたいのは、まあアヤシイ。 268の>>913
ヤマトセツの・・・・能無しは、
いつまでもアリもしない栄光の「皇国超大国大和」とやらを、
妄想して喚いていればいいw 。 268の>>914
鏡と言えば大和は、その後の時代になるが、有難く九州や半島流民から伝授された鏡を、
古墳に収めて大切に保管しているな。
完全に属領として甘んじている。
なにが大和朝廷だw。
時代ズラせば誤魔化せると思ってんのか。
頭どうかしてんじゃねぇのw 。 >>287
源氏の時代は倭国(北部九州)の時代であり平氏の時代はヤマトの時代なのである。
平成は源氏の時代なのである、源平交代思想、明徳の和約(北朝=源氏。南朝=平氏ではない
が、源氏新田は南朝だしな)である
意味わかる奴いるか? >>288
尚方作が21枚? 笑っちゃうぜ。
外国有名ブランドを売ってた輸入代理店が、
商品入荷できなくなって、
困って国産バッタもん作って、
海外ブランドのロゴも入れちゃっただけよ。
でも、売れなかったので大量在庫を抱えたまま(笑
倒産寸前の兆候ね。
www 268の>>917
>「肝心の内行花文鏡が、畿内ではなく九州北部からですからねー。」
っと言ってる人間に具体的でないと指摘したら 「下池山と大塚」と、九州北部から出たのじゃない鏡のことを言い出す。
頭がおかしい人なのだろうか?<
蝙蝠鈕座内行花文鏡も、魏帝→卑弥呼の鏡であるようだし、
内行花文鏡も筑紫からの出土が圧倒的なんだから、
大和は、同じ天孫族の阿毎氏の別種の旧小国のよしみで、
少し回して貰った、という事なんだろう。
この投稿子も、頭がおかしい人なのだろうか?。 268の>>920
筑紫に沢山出土するんだから、むしろ大和が、筑紫倭国から分けて貰ったんじゃねーの。 ザラコクも北九州ゴリ押しするの諦めろよ
九州全般のどっかにあったって説の方がまだ説得力あるからさ 268の>>922
他の土地から大量に出たもんを、全て自分のもんだ、と言い張るのがヤマトセツ 。
しかも、大和は筑紫倭国の別種の旧小国の附庸国である事が史料事実。
しかも仮に鏡の祭祀が取り入れられたとして、
どこにも自分達が主体となり得る要素なんて何もなくて、伝搬や模倣や降伏や委譲の姿しか見えないのに 。
皇国史観のクルった・・・・の脳内は理解できんわ 。 268の>>926
>また突然話が変わった。
「肝心の内行花文鏡が、畿内ではなく九州北部からですからねー。」って
具体的には九州北部のどこからと言ってるんだ?<
当然筑紫であり、弥生銀座や平原から。 268の>>929
ヤマトセツは何の根拠もなく、
「ぼくちゃんがえらいんだ!九州をせいふくしたんだ!」
とか言い張るだけだからなw
惨めな「筑紫倭国の別種分家の旧小国の附庸国」しか史書からも考古学からも見えてないのにw 。
どこに大和様が九州に優越してる要素を示す史書や考古学的要素があんだ?。
ぼくちゃんがそう思う以外聞こえないが?w 。 >>295
蝙蝠鈕座内行花文鏡は最下級クラスのしたっぱ鏡だよ。
魏帝→卑弥呼の鏡にするのは無理。 でも実際には、九州厨が発狂してるんだよね、例えば>>298とかさ 邪馬台国論叢は位置論争だろ
倭人伝による行程と、倭人伝に記された遺物(物証)で手繰ると
九州に分があると思う
行程と遺物以外は、各説、推理推論でいかようにもなる気がする 268の>>93
>小型鏡というのおもに遠賀川東岸の箱式石棺墓とともにでてくる。
一方で遠賀川西岸 宗像から上流にむかって筑紫野から佐賀東部の範囲の甕棺墓にはでてこない。
小型鏡が熊本平野まで分布して
甕棺墓なくなるってことは、箱式石棺族が筑後川流域以下熊本平野つまり肥国を制覇したんだろう。<
成程。
参考になる。
その上で庄内式が置き換わるってことは、また別の流れがあったといえる。 九州などあり得ない理由
・1万2千里を経過して「から」女王国。九州のクニグニの里数を全部足すともう1万7千で九州は女王国ですらない。しかも邪馬台国はそこからさらに水行10日、陸行一月の遠方で九州など論外
・九州には各地にヒナモリ(ヒナは夷、鄙、モリは守。辺境の守備隊の意)が配置され、刺史(中国の地方検察官。中央には置かれない)が伊都国に常駐して周囲を監視する辺境の属国扱い
・平原は古い鏡を鋳つぶした国産鏡ばかりで少数の漢鏡も古いもので既に中国との交渉が出来てない。その上この後に続くものもなく祭祀も周辺地域と関係なく個人墓としての規模でしかなく福岡勢力の終焉の証となっている
・九州は紀元前から続いていた中央の福岡の副葬品大量副葬も消滅(平原)。弥生中期まであった銅矛、甕棺を広めていた中心もまとまりも崩壊して各々小集落に分裂。その後現代に至るまで独自の統合勢力などなく九州王朝など論外
・福岡の中央部の衰退以後、九州全域でも副葬品が減少し国産の小型鏡中心の時代に移行して衰退が明確になる
・バラバラの小勢力に分裂した状態の九州は弥生時代後期から急速に庄内土器が広く分布し独自の生活様式を塗り替えられ、その影響は時代を追うごとに強くなり邪馬台国の時代を迎える(庄内土器は広く九州の弥生土器と共伴している)
・中期の最盛期の時でさえ他地域では九州と違う祭祀を行い、その後は九州では全く発展しなかった大型墳墓、土器祭器の時代となりその後九州は逆に他地域の影響下に入る。九州の影響は西日本地域に全く広まっておらず東征も東遷もない
・九州は弥生時代全てを通して一度も統合されておらず、南部に至っては奈良時代に至るまで別文化圏。東部は出雲や四国の影響が強い。北部九州を勢力下に入れていた邪馬台国は九州のどこにも設定できない >「君」なんてカバネを与えられた豪族なんて他にいないからな
バカか?
キミはワケから変更されたカバネ
ワケは地方に派遣された王族や地方の領主に付けられるカバネ
九州と言う地方の豪族だからこそついてるカバネ
物知らない奴はこれだから >>262
>葛城の賀茂氏のトップは事代主
>事代主は大国主の息子だろ?
後世の習合だよ。
こんなところに事代主がいるわけない。 そもそも前方後円墳に葬られてる奴が独立国王とか脳ミソ湧いてるな
これだからキュウシュウセツはバカの集まりと言われるんだろうよ 268の>>942
>何度でもいうぞ? 九州以外の地域は九州の最盛期の時でさえも九州の祭祀を受け入れてない<
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」は、「自昔・・・」だから、長年かかった。
>その時から既に独自性をかなり強く見せている 挙句、大型墳墓、土器祭祀と言う「九州で全く発達しなかった祭祀を進化させている」 それが前方後円墳と埴輪に繋がっている<
筑紫倭国の東征と、出雲系銅鐸祭祀族と、毛人蝦夷と、半島流民などの混合共存になったから。
>九州なんて最初から最後まで畿内の政権の進化に寄与してない<
大陸文明の受け皿になって、東方各地への伝搬の起点になったのは、九州倭国。
>そして弥生後期になると九州は崩壊して小集落に転落し周辺地域、とくに畿内の強い影響下に入る
九州を上に見るような要素は何もない <
http://www.netpia.jp/history/kofun_07kyushu.htm
>史書でも鏡を渡す事は「降伏と権利の委譲」の姿 <
倭国の存在や歴史を抹殺盗用しようとした半分×書の皇国史観の記紀の記載は、根拠にならない。
鏡を渡したのか?も不明。
>また「神器を渡す」行為も降伏を意味する<
同族の旧小国への下賜なら十分に有り得る。
>倭人伝にもあるように九州は畿内に降伏してると言う事だ
大事な大事な鏡を畿内に献上してな <
降伏など全くしていない。 邪馬台国当時じゃ説明できないからと時代を先に延ばして誤魔化そうとしてできたのが九州王朝説(笑)
ところが先に行けばいくほど九州の被支配状況は強くなる一方でもっととんでもないバカ説になるという
まぁ脳ミソの無い史書も読んだこともないパーには丁度いいか 鏡を差し出して降伏した証を嬉しそうに叫んでるんだからキュウシュウセツは本当におめでたいな >>309
地方の領地の支配を皇太子に任せるってのは天孫族もよくやってることだから別に不思議じゃないでしょ キュウシュウセツはアリもしない妄想の中の「超大国キュウシュウ帝国」とかでオナニーしてるだけのバカだからな
しかたない >>307
過去スレを読まん事を勧める。
一つづつ反論が述べられている。 268の>>960
>実際南と書いてある所を東にするだけで畿内説で全て解決だからな<
「南→東」の嘘つきダマシをしても、大和説では、全て解決しない。
>これはもうそうだとしか言いようがない<
大和説者は、皇国史観の・・・・だとしか言いようがない。
>九州とくに北部はいくら方角を読み替えようにも通り過ぎるだけだから<
「自郡至女王國萬二千餘里」だから、通り過ぎない。 >>305
こういう
何も理由を言わない連中が
ガンなんだよね >>315
キナイセツも同じ穴のムジナだからな
どちらの説も確証がないから論争が続いてるわけだよ はんろん?
ぼくちゃんはそうおもわない
の連呼が?
かがみがみつかるからしはいしたんだ!
の連呼が?
アホは対等に会話してるつもりだから笑えるw >>318
だな
スレ主のテンプレ含めてひとつも根拠がない >>321
と言う根拠がない (笑
これだから九州説は
wwww >>324
どこに?
このように決して根拠を出さないのが九州説
つまりクズ説 キュウシュウセツのパーはまだ自分達が何か議論の出来る立場だと思ってるのが本当に滑稽だな
倭人伝のあり得ないバカ解釈しか無いような猿の集まりが
笑わせてくれるw >>325
いちいち自白しなくていいよ
わかってるから >>327
と言う根拠は?
ほら、また九州説が自滅した このように、九州説はもともと
証拠を出したり、理由を言ったりする生活習慣のない人たちで成り立っている
学問的な畿内説と会話が出来るわけがない
こう言う結論が出ちゃうね ダメだこのスレwww
アホが居座って話ができないwww >>333
だな
根拠なしテンプレと同レベルのアホ >>335
キナイセツが自滅してないと思う理由は? >>334
だから九州説は出て言った欲しいんだよね
会話ができないコミュ障は邪魔なんだよ
もともと畿内説スレだから、君たちが居つくことがおかしいんだけどね 268の>>963
>平原1号3世紀じゃないし<
21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、
魏帝→卑弥呼への下賜鏡が元になったものだから、
3世紀後半だよ。
この事を隠していた?とすれば、
柳田も全くのインチキ学者であった事になる。 キュウシュウセツのおサルさん達は畿内説スレを荒らすと九州に邪馬台国が出現すると信じてる可哀想な病気の動物だから仕方ない
理由も根拠もいらない
ひたすら荒せばなんか知らんけどこいつ等の中で九州に邪馬台国が出てくるらしいw >>336
ほら、また理由もなく罵るだけになったね
つまり君は又も論破されたのさ テンプレに根拠がない時点でキナイセツの負けなんだよなあ >>343
証拠は、君がどこに提示したか答えられないでしょ?
これで確定 >>348
示せてないのはお前だなw
早く根拠しめせよwww 268の>>966
>博多が畿内の飛び地化してる<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。 >>346-347
このように罵るだけになったのは
敗者の証拠 >>349
根拠があることを示せてないからだな
根拠があることを示せてない時点でキナイセツの負け
ざんねん いつものオウム返しw
ちなみにキュウシュウセツの言う「論破」「反論」ってこれの事だからな?w
こいつらの脳内ではこれで華麗に説き伏せた事になってるんだよw
会話にならんわけだ >>351
その通り
九州の飛び地が奈良なんだよね
倭人伝に「奴国」が二回出てくることからもわかる >>350
すでに>>348に示しました
そして確定しました >>355
はい諦めちゃったw
諦めたキナイセツくんの負け >>353
根拠があることを示せてないって証拠は? >>357
確定って本人が言い張ってるだけでしょ?w
根拠をちゃんと示さないと
バカだなあキナイセツは キュウシュウセツのハンロン
・ぼくはみとめないと喚く
・オウム返し
・脳内ラノベ朗読会
・何の根拠も提示しない結論連呼
・勝利宣言連発
これがキュウシュウセツの言う反論だから >>360
すでに>>348に示しました
反論がないので確定 >>362
だなw
キナイセツも同じレベルだしこのスレバカしかいないな 268の>>967
>そろそろ女王国の版図を明確にしていかないとな。 まずは畿内近辺から線を引いて行きたいが。
亀岡〜丹波〜三田辺りの勢力はどうなんだろう? 摂津東部、淀川北岸の三島辺りは、どうなんだろうか?<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
の 侏儒國が足摺岬西方の沖の島付近なんだから、
女王國の版図は、山口県までが精一杯であり、
殆ど九州〜狗邪韓国の範囲内。 ↓ぼくはみとめないと喚くってこれのこと?w
363 日本@名無史さん 2017/09/06(水) 18:38:30.65
>>360
すでに>>348に示しました
反論がないので確定 >>367
そう見えたらバカだと言う証拠だな。
自白乙です。 >>278
>・6世紀の磐井の乱の鎮圧→博多湾利権を大和王権が奪取(筑紫王の自治政権はかろうじて残る)
大和政権が手に入れたのは、かろうじて屯倉一つだけだったと書いてある。 >>303
内行花文鏡は王位の象徴、八咫の鏡の形式だよ。 >>371
徴税権を手に入れたんだから完全勝利だな 268の>>969
>摂津は邪馬台国内部でしょ<
「邪馬台国」なんて存在しないよ。 そもそも前方後円墳に葬られてる奴が独立国王とか脳ミソ湧いてるな
これだから畿内説はバカの集まりと言われるんだろうよ 結論だけ言い張って決して理由を言わないのが九州説滅びの理由だな なんの根拠もない畿内説にしがみつく精神構造って、どうなっているのかな? キナイセツのハンロン
・ぼくはみとめないと喚く
・オウム返し
・脳内ラノベ朗読会
・何の根拠も提示しない結論連呼
・勝利宣言連発
これがキナイセツの言う反論だから 結論だけ言い張って決して理由を言わないのが畿内説滅びの理由だな 法則
相手の発言をまったく読まなくても言える言葉は
原則的に相手への反論にはならない
テンプレには根拠がないな
根拠があると言うなら具体的に示せば良いのにキナイセツくんは逃げ続けるからな >>384
根拠があるなら示せばいいだろ
示せないなら根拠がないのと同じ >>381-382はザラコクのオウム返し
愚劣さの証明 >>385
法則
相手の発言をまったく読まなくても言える言葉は
原則的に相手への反論にはならない
典型が釣れました 268の>>973
>畿内説 魏志倭人伝の南に水行とある所を東としてみれば<
「南≠東」だから×。
>その先に<
「自郡至女王國萬二千餘里」だから、萬二千餘里で終点であり、
「その先」はない。
>昔からヤマトと呼ばれてきた三世紀古墳時代の 最大級の遺跡があります。<
箸墓は、(庄内ではなく)布留ですから、4世紀以後です。 >>395
常識で言えば布留0というのは庄内なんだよ。 268の>>977
>摂津東部はかつては銅鐸の産地だが、 記紀の記述や3世紀後半の古墳から魏鏡も出てるし、<
「3世紀後半の古墳から魏鏡」なんて、あったか?。
卑弥呼への下賜鏡なら殆ど筑紫だし、三角縁は呉系楽浪鏡師らだし。
>女王国側が妥当かな。<
「南≠東」だから、大和説は×。 >>398
三角縁が呉系というのは現代では完全に否定されてます
268の>>1000
史料事実の証拠もないことを言い張るのを主張だと思い込み、
違う違うと言うだけで理由を言わないのを反論だと勘違いしてる。
なんの役にも立たない人。
それが大和説信者。 史書に出てくる八咫鏡の委譲
・地上統治の権利の委譲
・降伏の証
・神、格上の相手に対する献上品
まぁ別に平原の鏡が八咫鏡だと言い張ってても一向構わんけどな?
九州が降伏して権利を譲り渡した証だというだけだし
実際そうだからその通りだな 降伏した相手から受け取ったものを皇位の象徴なんかにしないだろ。 >>395
箸墓が四世紀だとしてもおかしいんだよなぁ
畿内に三世紀まで何もなくて四世紀になったら急に
当時国内最大規模の前方後円墳が現れるとかありえんだろう?
そうだとしたら三世紀に巨大な権力の集中があった証拠というじゃねーか >>403
イギリス王家はスコットランドから奪い取ったスクーンの石を戴冠式に使ってる
玉座のケツに敷いて
征服した国のレガリアを集めるのは勝者の証 あともう一つ
鏡は中国との交渉の証
倭人伝でも邪馬台国への下賜品として登場する
九州のクニグニが鏡にこだわったのも中国との交渉権を主張する為と言うのも大きいだろう
「外交」は主権を持つ国の最も重要な仕事の一つだからな
それが移動してると言う事すなわち国家としての主権の移動そのままだな
九州の王位を有難く受け取ったんじゃなくて、九州から外交の権利を奪った証と言う事だな >>410
箸墓より古いとされる前方後円墳もあるんだが
ホケノとかメスリとか >>411
勘違いしてるようだが九州の王位を戴いたんじゃない
九州から「王権のシンボルを奪い取った」
ちょうど中国で漢から魏への禅譲が行われたがまさにそれ
漢は国を譲って臣下となり、魏が皇帝となった
「王権」という物が移動するわけだが、漢が魏の皇帝になったわけではない
同じように九州は権利を明け渡したというだけ >>410
黄幢の効能は絶大だからなあ
明帝から直ではんこ貰った人がミマキイリヒコ本人なんだろ >>73
どっちにせよ、「南→東」の嘘つきダマシの大和説は、論破されてるし 。 九州は一大卒に支配される属領である上に、弥生時代通して九州とは別の祭祀を行っていた西日本地域はここを上に頂く理由など何もない
九州を征服し、外交の権利を奪い、九州が名乗っていた倭王と言う称号をレガリア共々委譲させた
ただそれだけ
まさにその当時に中国で行われた禅譲と同じ
八咫鏡等の神宝の委譲について書かれた史書も全てそのような内容となっている
名実ともに九州に主体となる要素など何もない
鏡の移動を得意げに語るキュウシュウセツの滑稽な事よ >>416
倭と言う国号もともに移動したんでしょ?
それとも、旧唐書のように、畿内日本国が乗っ取ったと? そもそも何世紀に八咫の鏡が畿内に移動したのか不明だが、少なくとも4世紀にはまだ筑紫にあったな。
つまり3世紀の邪馬台国は筑紫と。 >>413
>箸墓より古いとされる前方後円墳もあるんだが
>ホケノとかメスリとか
阿波から進出した、阿波の有力豪族の墓ですね。
阿波産の資材を古墳・副葬品に使ってるでしょ。 @阿波 東征したのが神武か崇神かという違いに過ぎないな。
もはや畿内説の主流も東征か。 >>421
一大率は伊都国で管理され女王國以北の地域に置かれていた
魏志倭人伝を読めwカスがwww >>423
なかみおなじでも違うふりしたんだよ
親唐家としてゴマすって生き延びる為にさ >>422
あ、そういう意味か
それはアリかもね
服してもらえなかった男王が忍熊王か >>418
>明帝から直ではんこ貰った人がミマキイリヒコ本人なんだろ
ミマキイリヒコは美馬郡美馬町「倭大國魂神社」に祀られた崇神天皇。 @阿波 「鏡が移動したから畿内は九州の属国だ!」とかいう妄想の根拠など何もない
・西日本各地は弥生時代を通じて九州の祭祀を受け付けておらず終始対抗的な別勢力であり九州を上に置く理由などない
・九州は弥生後期から100年間以上まともな中心もまとまりもない中小集落の雑多な集まりに過ぎない
・弥生時代後期から九州はまさに倭人伝に記載されるクニグニをはじめ全域に庄内土器、纏向型前方後円墳が広がり畿内の強い影響下にありここに独立王国など見出せない
・倭人伝に示される九州は「女王国外」の「一大率」「ヒナモリ」を常駐される属国
・鏡の移動は倭人伝にあるように外交主体の移動、記紀や風土記に見られるように降伏や権利の委譲、謙譲品を意味し移動はそのまま九州の権利の放棄と降伏を示している
こんな土地のどこを見て畿内を征服したとかほざいてるのやら
まぁ何一つ知らないでバカサイトの受け売りしてるだけだろうけどよ >>429
>一大率は伊都国で管理され
なんて倭人伝のどこに書いてあるの?
また九州説名物捏造よみか w 『ザ・モモタロウ』という作品
「発電したか」とか、老婆と同じことを言っている。
老婆「発電、電気を起こしていて、何々様なんて言われていた」
「伊達政宗が〜」とも言っているでしょ
読んでみた? あと、バカはまだ旧唐書とか言ってるがアレは壬申の乱
そもそもそのすぐ隣に「名前が雅でないから自分で変えた」とも書いてる
しかもその理由に「太陽が昇る所だから」としてるが、その内容は「その前の」遣隋使の時の言葉そのまま
つまり前からの流れの上で改名したとも理解してる
唐側の記録が後の戦乱で混乱してるだけ
そもそも唐書は記載が混乱してるので有名
遣唐使の粟田真人が日本だと名乗ったのに倭と勘違いされたという記事が出る
この粟田真人は日中両方の史書に登場する
そしてバカ大好きな新唐書ではその日本への改称の前の遣隋使の用明天皇を「その後の」系統に続くものとして入れている
つまり中国は王朝の交代など認識してない >>119
>邪馬台国が北部九州という仮説だと <
「邪馬台国」なんて、史料に存在しないし、
「邪馬壹國」は「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」だねえ。
>戸數、道里を略載してない遠絶な旁國21国は北部九州の南側 <
いや、、南側だけとは限らない。
九州北岸部や肥前や志賀島以東も有り得る。
>女王の南側の境界が尽きた国の南が狗奴國
後漢書の倭國之極南界の倭奴国は邪馬台国の南の旁國の奴國になる <
関係がない。
古田さんは、
「倭国が南界を極めるや、光武賜以印綬す」
と読んでおられた。 以前見た、よくわからないサイト
誰かの?兄弟の家・・・兄のほうの家・・・
発電・電気を起こしていて。
近代に入ってからの話なのかな >>440
漢文読めない人がヘンテコ読みしても意味ないし >>427
メスリやホケノが阿波から進出した、阿波の有力豪族の墓に
阿波産の資材を古墳・副葬品に使ってたとして
邪馬台国自体は畿内にあった事を認めるのか? >>170
大和説者は、「南→東」などの嘘をつくことでしか、自我を防衛できない。 中国との外交主体の権限なのだからそのシンボルたる鏡と、中国からの呼称である倭の名前も手に入れて当然
それこそ「日本」と言う名前の話になるが、日本は中国の冊封から外れた事によって中国からの呼称の倭を放棄している
隋書でも遣隋使の後の使節があるのにもかかわらず「絶えた」と言うのは冊封関係の事
中国との外交関係を一新する事によって名前を変えたと言う話がこれを裏付けている
繰り返すが「対中国」の対面の為の名称であって、九州の王を戴いたのではない
九州を上に置く理由など名実ともにないのは何度も述べたとおり
勘違いして浮かれあがってるキュウシュウセツの姿に笑いしか出ない >>435
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
女王國の北側には特別に一大率を置き諸国を検察させる、諸国はこれを畏れ憚る。 伊都國で常に一大率を治めている。 >>444
逆に言えば南→東で全部畿内説で解決するって事か >>442
ここのトビ主とか畿内説の人達全然漢文読めないよなw メスリが箸墓より古いなんて主張してる研究者はいねーぞ
なんかと間違えてないか? >>443
>邪馬台国自体は畿内にあった事を認めるのか?
畿内は倭国(阿波)の開拓地。 多くの阿波豪族が畿内を開拓した。 単純なこと。 @阿波 >>178
言動に、史料事実根拠や理由のない、皇国史観教の大和説の・・・・アホらしい錯覚だね。 >>448
南→東でも解決しないんだよな
細かいこと聞いても畿内説からは何の回答もない。 >>454
罵倒だけの九州説
それは敗残のトンデモ説 老婆が言うには、銀?とかいう名前だったかな
と言っている
家の親戚の家で、凄い刀があって・・・ とにかく証拠を出さない
結論だけ言い張る
それが九州説
つまり学説ではない キュウシュウセツのハンロン
・ぼくはみとめないと喚く
・オウム返し
・脳内ラノベ朗読会
・何の根拠も提示しない結論連呼
・勝利宣言連発 >>184
誰が何を質問しようと、「南→東」の嘘つきダマシの同じ文言を延々と繰り返し、
キュウシュウセツハコタエラレナイって絶叫する変態なら、
実在してるぞ。 >>446
主語を補うと
女王卑弥呼は女王國の北側には特別に一大率を置き諸国を検察させる
諸国はこれを畏れ憚る。
女王卑弥呼は伊都國で常に一大率を治めている。 ・脳内ラノベ朗読会
キュウシュウセツのいつもの奴が始まったw >>456
解決するんだが?
南→東とするとその先は卑弥呼の時代の巨大古墳があり
魏の下賜鏡鏡三角縁神獣鏡の多数出土する畿内大和だ
九州説の特に北九州は不弥国から南に水行とある時点で
候補地から除外されるんだぞ
苦しい読み替えをしなくてはいけないのは北九州説の方だ >>443
『阿波の青石(緑色結晶片岩)の石槨石材搬出状況』
・西求女塚古墳(兵庫)・五色塚古墳(兵庫)・紫金山古墳(大阪)・茨木将軍山古墳(大阪)
・弁天山C1号墳(大阪)・櫛山古墳(河内)・燈籠山古墳(河内)・松岳山古墳(奈良)・茶臼塚古墳(奈良)
・玉手山7・9号墳(奈良)・貝吹山古墳(奈良)・ホケノ山古墳(奈良)
北條芳隆「讃岐型前方後円墳の提唱」(1999大阪大学考古学研究所 記念論集)より
畿内の古墳は、倭国(阿波)の有力支配者たちによって、倭国(阿波)の技術(積石工法)、
主要資材(青石・水銀朱等)、副葬品(鉄器類・勾玉・土器等)を使って築造されたものである。 @阿波 >>470
>女王卑弥呼は伊都國で常に一大率を治めている。
って役説という理由は?
治の目的語は? >>470
そんな風に日本語訳した人は
世界であなた以外に誰かいる?
??????? 九州などあり得ない理由
・1万2千里を経過して「から」女王国。九州のクニグニの里数を全部足すともう1万7千で九州は女王国ですらない。しかも邪馬台国はそこからさらに水行10日、陸行一月の遠方で九州など論外
・九州には各地にヒナモリ(ヒナは夷、鄙、モリは守。辺境の守備隊の意)が配置され、刺史(中国の地方検察官。中央には置かれない)が伊都国に常駐して周囲を監視する辺境の属国扱い
・平原は古い鏡を鋳つぶした国産鏡ばかりで少数の漢鏡も古いもので既に中国との交渉が出来てない。その上この後に続くものもなく祭祀も周辺地域と関係なく個人墓としての規模でしかなく福岡勢力の終焉の証となっている
・九州は紀元前から続いていた中央の福岡の副葬品大量副葬も消滅(平原)。弥生中期まであった銅矛、甕棺を広めていた中心もまとまりも崩壊して各々小集落に分裂。その後現代に至るまで独自の統合勢力などなく九州王朝など論外
・福岡の中央部の衰退以後、九州全域でも副葬品が減少し国産の小型鏡中心の時代に移行して衰退が明確になる
・バラバラの小勢力に分裂した状態の九州は弥生時代後期から急速に庄内土器が広く分布し独自の生活様式を塗り替えられ、その影響は時代を追うごとに強くなり邪馬台国の時代を迎える(庄内土器は広く九州の弥生土器と共伴している)
・中期の最盛期の時でさえ他地域では九州と違う祭祀を行い、その後は九州では全く発展しなかった大型墳墓、土器祭器の時代となりその後九州は逆に他地域の影響下に入る。九州の影響は西日本地域に全く広まっておらず東征も東遷もない
・九州は弥生時代全てを通して一度も統合されておらず、南部に至っては奈良時代に至るまで別文化圏。東部は出雲や四国の影響が強い。北部九州を勢力下に入れていた邪馬台国は九州のどこにも設定できない
大好きな行程でさえも1行目から破綻してる ミスタッチしたった
改めて
>>470
>女王卑弥呼は伊都國で常に一大率を治めている。
って訳せるという理由は?
治の目的語は? 4世紀に八咫の鏡を持っていた神夏磯姫の称号は筑紫の梟師。
帥と率は同じ意味なので、筑紫の支配者といったところか。
同時代の景行天皇の諡号は忍代別なので、分家であることがわかる。
景行天皇に荒事を任せて、女王は君臨したのである。
八咫の鏡は、景行天皇を取り込むために権威の象徴として掲げられた。
ちなみに景行天皇に渡したとは書いてない。 >>451
そこは目的語ではないよ。
漢書 西域伝 (大宛国が放射式記述の起点)
大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…
東 至 都護治所 四千三十一里
北 至 康居卑闐城 千五百一十里
西南 至 大月氏 六百九十里
北与 康居
南与 大月氏接
王の所在地を示しているね。 >>479
師と帥の違いがわからない日本語力の貧困さw >>187
>北部九州に邪馬台国があったら西や東は旁國が隣接することになるし
21国も詰め込むのは無理 <
邪馬壹國は、「福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地」だから、
「北部九州」全域にはならないんですよ。 よくわからないけど wiki ヤマトタケル
>〜を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し とにかく九州説は九州南部に邪馬台国を想定するんじゃないと
魏志倭人伝の記述にそぐわなさ過ぎる
邪馬台国を北九州に想定すると魏志倭人伝を強引に解釈する事になるから
誰が聞いても頭のおかしい説を延々と垂れ流すハメになる >>490
漢文読めない以前に漢字が読めてないと思われ >>479
土地の神木を抜いて神宝を掲げて助けを求めて帰順してるのにバカはこれだから >>488
ありえない
九州南部は奈良時代に至るまで独自の文化圏
九州北部とは土器からなにから全部違う
九州北部を征服していた邪馬台国たりえない
東西南北どこに設定しようが九州など成立しない >>201
「南≠東だ」というお前は間違っている。なぜなら俺が正しいからだ、理由はないけど、
って大和説的な、
あまりに大和説的な主張だw。 このように、九州説はもともと
証拠を出したり、理由を言ったりする生活習慣のない人たちばかりで成り立っている
学問的な畿内説と会話が出来るわけがない >>496
土器や文化が違ってても全国を支配してたのかもよ >>498
口から出まかせなので当然証拠は有馬泉w >>499
トンデモ畿内説とまともな会話ができるわけないだろ >>499
テンプレには根拠がない
同レベルである >>500
土器は人の移動そのものを示す
領域内で双方に交渉が奈良時代までずっと無いとか成り立つと思ってるのかと
遠隔地域との盛んな人の交流が他の地域では起こってるのに
荒唐無稽すぎて論じる価値もない >>503
法則
相手の発言をまったく読まなくても言える言葉は
原則的に相手への反論にはならない
また典型が釣れました 領域内で人の移動も文化の移動も何百年も起こらないとか何だそれ
そんなもんが成り立つならその方法と根拠を述べて欲しいもんだ こんなことも書いてある
>柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。
ウリ科の植物?あの写真? >>508
理由、根拠、証拠と使いわけてるじゃないか、なんか違いがあるのかな >>471
>・脳内ラノベ朗読会
>
>キュウシュウセツのいつもの奴が始まったw
反論になってないよ。 >>496
誰も主張していない九州南部を叩いて九州説をろんぱしたふりw
小物すぎるw >>500
>>>496
>土器や文化が違ってても全国を支配してたのかもよ
いいこと言った。
やはり筑紫が西日本全体を支配していたのだな。 >>518
はい、ばか珍説「伊都國で常に一大率を治めている」は誤訳。
九州説は漢文読めない無教養爺の巣窟だな。 >>526
畿内説は南と東の違いもわからないくせに、漢文を読めているつもりらしいw >>504
>>507
イギリスがインドを支配していた例があるのであーる
日本も邪馬台国時代は文化を事にする中国に
ある意味支配されていたのであーる
邪馬台国は九州南部
狗奴国は沖縄 >>521
安全でなくても愚者は安心する
安全でも小心者は安心できない >>520
誰もテンプレを読んでなくて、スレ主ブチ切れw >>523
邪馬台国宮崎説も鹿児島説も実在しますが? ヤマトタケル?
古墳時代の皇族と書いてあるから・・・おかしな話になってくる >>534
つまりテンプレを批判してる奴はみんな嘘つきってこと? >>478
この文も含めて前後は女王卑弥呼や女王国に付いての記述で
省略されている主語は女王卑弥呼や女王国である
主語が女王卑弥呼や女王国でない場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記される
「常治伊都國」では主語が特に書かれていいないので省略されている主語は女王卑弥呼か女王国
「治める」の主語だから人であり女王卑弥呼が主語となる
女王卑弥呼が治めるのは一大率ですから
目的語は一大率です。 >>530
バカが
インドはそれまでにあり得ない物だった鉄道や街、港、大規模農園
更には言語まで含めてイギリスの大きな介入を受けて変容してる
物流も双方盛んに行われて原料産地、製品消費地としての植民地関係が作られてる
それまでの文化が宗主国イギリスの為に塗り替えられる変化が起こってる
で何か?
領域内でしかも距離も大して遠くもないのに双方に何の変化もない領土だ?
アホか
何も知らんバカが見当違いの話だして偉そうな口きいてるから笑わせてくれる >>205
>それ、土師器じゃなくて、須恵器の間違いとちゃいまっか?
土師器は弥生土器とほぼ同じ土器の事で、低温焼成の土器でっせ。<
いや、庄内と布留の違いが、酸化と還元の違いであり、
どちらも、「高温領域での焼成」であった筈。
「低温」と言っても、実際は「高温」なんだよ。
>須恵器は中国灰陶の高温焼成技術を使った朝鮮陶質土器がルーツ。<
土師器は、当然、
陶質土器や陶器と、弥生との中間的技法。 サル以下の知能と知識しかないキュウシュウセツが対等に話してると思い込んでる様はもう失笑もんだな >>478
この文も含めて前後は女王卑弥呼や女王国に付いての記述です
ですから省略されている主語は女王卑弥呼や女王国です
主語が女王卑弥呼や女王国でない場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている
「常治伊都國」では主語が特に書かれておらず省略されている
明記されず省略されている主語は女王卑弥呼か女王国です
「治める」の主語ですから人であり女王卑弥呼の方が主語となる
女王卑弥呼が治めるのは一大率ですから
目的語は一大率ですね >>545
女王卑弥呼が一大率を治めるなくて
誰が治めるの? バカって本当に無敵だよな
何も知らないからどんな恥ずかしい事喚いていも自信たっぷりだからなw
全裸で偉そうに歩き回ってるようなもんだが本人は何も恥じないでいられるんだからな
まぁああはなりたくないがw >>542
>主語が女王卑弥呼や女王国でない場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記される
という根拠は? >>206
>>だから、柳田などの「庄内は三雲が最も古い」という説明は、信頼性が高い。<
>またザラコクが捏造してるね そんな説明は存在しない 九州説というのは捏造をする病気なのかな<
柳田が、ついうっかりしゃべってしまったから。
また、
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12073813522.html
にも、筑紫の庄内が、近畿の庄内よりも早い、という事が書かれているよ。 >>531
なるほど、科学的に安全だと証明されても安心は気持ちの持ちようで変わるということだな
しかし九州説は事実だと証明されてるのにへそ曲がりの畿内厨は信用しないんだよな >>551
治めるのは国とか領地などをだよ
治めるという動詞が官名を目的語にする例はあるかね? >>553
一大率常治伊都國とはない
省略していいのは主語が女王卑弥呼や女王国でない場合。 >>554
近畿の庄内よりも早いなんて書かれてないけど?
ザラコクはまた捏造してるね >>208
>三雲で庄内式とか出てた?<
柳田の最初の判断であったが、大和の学者らに反対されてひっこめたらしい。 本当は何の仕事をしていたんだろう
伊達郡の川俣町というところに住んでいた事もあるんだよ
とか >>559
ザラコクがまたデマ流してる
なんか証拠でもあるの? ざらこくって嘘ばかりついてるね。
異常者なんだろうか。 >>210
>(筑紫の古い庄内)搬入品がちょっとだけね <
https://ameblo.jp/oyasumipon/entry-12073813522.html
には、
庄内などは、筑紫が先行しており、
近畿などは、明らかに遅れた事が書かれている。 >>557
間違えた修正
一大率常治伊都國とはない
省略していいのは主語が女王卑弥呼や女王国の場合。 >>215
>それを餌に内陸国に移住(=天孫降臨)して 内陸国の政府中枢に食い込みながら海洋政権を延命したと
それが弥生時代後期であり初期大和王権でしょうな <
変な言い回しをして、騙そうとするな。
「大和に天孫降臨があった」という事には、どの史料にも書かれていないし、ならない。 >>556
普通にあるな
「十四年春三月 軍至譙 作輕舟 治水軍」 バカが
九州の土器と庄内土器は変化の流れの上に無い
ミッシングリンクレベルで別物の土器が流入してきている
だからこそ九州が畿内の強い影響下に入ったと言われてる
庄内土器は吉備の土器の影響を受けて順次成立した土器
土器の変遷も理解できないバカが都合の良い情報だけつまみ出して妄想を展開してるから呆れ返る >>543
例えば現代でも文化的に隔絶した地域が
何故かイギリス領だったりするケースがままある
それが古代ならなおのこと
その論理では南九州が全国を支配していたという仮定に対する
反証にはならないのであーる
やはり邪馬台国は南九州か?
畿内でもいいけど かなーり前の話になるけど
女の子の名前「▢子」あまり関係ないぞ
という書き込みがあったりしたでしょ
他のサイトを見たときも
明治時代になって何やら〜・・・ >>545
一大率を統率して、伊都から北の国々を支配したんだよ。 >>571
国とか領地じゃないだろ
組織ですから同じでしょ
他にも探せはあるけどめんどくさいw >>570
>庄内土器は吉備の土器の影響を受けて順次成立した土器
うそはいかん。 @阿波 >>215
>それを餌に内陸国に移住(=天孫降臨)して
天孫降臨は筑紫と書いてあるよ。 >>217
>ただし邪馬台国の風土として「顔に刺青」とあるので
やっぱり邪馬台国も海洋民族が移住(=天孫降臨)して王族として振る舞いながら
現地の農耕民族を支配して成り立ってた国だろう <
魏志などは、倭人の鯨面文身は、呉の会稽付近〜海南島付近の習俗であろう、という記載をしており、
梁書では、出雲を「文身國」と記載している、
という事が、史料事実だな。
>倭人伝には卑弥呼がもともと邪馬台国の人間だとは一言も書いてない <
「邪馬台国」とかの、史料には存在しない文言を使われても、
それが、
「邪馬壹國」の事なのか?、「大和」の事を言っているのか?、がはっきりしない。 >>572
アホかお前
「本国」が孤立してんだぞ
南九州にあるとか言う邪馬台国が
誰も来ない誰も出て行かない
文化も交流しない
それが支配国?
しかも邪馬台国は盛んな外交や一大卒の派遣などの積極的な動きを取っている
市を統治する大倭と言う官吏もいて商業活動も盛んだ
バカが何も知らないのによく人様に物が言える
笑わせてくれる 低能なサルが人間様と議論してるつもりだからウンザリだな >>575
官名の例は出せないってことで、いいね? >>219
>海洋民vs農耕民の争いは
海洋民が支配していた朝鮮半島南部から農耕移民を奈良に大量に植民させたことで
海洋民の勝利に終わった とも言える<
大和に侵入し植民したのは神武らであり、
ホケノの頃に、楽浪の画文帯神獣鏡部族や、半島の古韓尺技術者が、
大和に渡来して来た事になる。」
>倭は農業国家化するんだけど、もともと農耕民だった倭人が覇権を握ったわけではなく
むしろ倭の農耕民は政権から追い出され、渡来人と九州からの移民が農耕政権を作った <
元々の大和は、出雲系の銅鐸祭祀部族と毛人蝦夷との混合地域であったんだよ。 >>583
交流はなくても支配は可能であーる
土器とか全然関係なしに古代中国は
柵封によって周辺を支配していた例がある
王者の風格漂う誇り高き南九州邪馬台国は
その他下々の国々の程度の低い文化を
受け入れる事を良しとはしなかったのだ。たぶん 女王が一太率を治めてる
なんて変な訳は前代未聞で
笑える 「何の関係も見出せません」
これはつまり「無関係と言う証拠」なんだよ
アホが
「何も見つからないけど支配してたかもしれない!」
とかただの妄想だ
こんなもんを平気で言い出してしかも「あーる」とか
バカはこれだから度し難い 畿内説がボロボロにされる理由がわかった
このスレは 畿内説のスレでなく
畿内スレ主説だからだったんだ
説としては未熟、内容がお粗末 『何の関係もないけど支配してた!』
とかそんなんで良いなら宇宙でもどこでも成り立つわ
猿が あったでしょ?
渡部昇▢とかいう名前が出てきて
明治時代になってから・・・なんだから敬う必要はない
このような事を言っていたサイトとか >>578
渡来人(=天津神/天孫(徐福ら3000人の大船団))が筑紫(北九州)にまずは着岸、、、有明海に迂回して佐賀に上陸(八女〜吉野ヶ里が有力な都)
これを降臨(光臨=いらっしゃった) >>1
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 >>596
いつもウソと悪口だけ
あの人のカキコだな >>572
アホかお前
「本国」が孤立してんだぞ
畿内にあるとか言う邪馬台国が
誰も来ない誰も出て行かない
文化も交流しない
それが支配国?
しかも邪馬台国は盛んな外交や一大卒の派遣などの積極的な動きを取っている
市を統治する大倭と言う官吏もいて商業活動も盛んだ
バカが何も知らないのによく人様に物が言える
笑わせてくれる >>596
スレ主があんな態度を取らなければ、ここまで荒れなかった。 >>597
同意する。
畿内説はまったく根拠がない。 結論としては、治めると言ったら対象は領地や組織で個人じゃない
伊都厨珍読は間違い確定だな そして猿はコピペ荒らし
まぁ知能の無い猿のやる事なんてこんなもんだろう 一系というのも同じ、
無理に統合(神代から一系)したと言っている人がいたり 素人ですいません
誰かお教えください
庄内式土器とか布留0式、布留1式、布留2式とか
邪馬台国と直接関係あるのですか? >>602
南九州には7万戸にたぶん相当する大遺跡
上野原遺跡があるのであーる
畿内にはないだろう >>612
関係ないな。
また畿内説のでっち上げ、こじつけでしょ。 >>615
理由なき拒絶
もう九州説防衛にはソレしかない 素人ですいません
誰かお教えください
庄内式土器とか布留0式、布留1式、布留2式とか
邪馬台国と直接関係あるのですか?
☝
関係無い
縄文土器は全国各地だが王国は無い >>610
主語が一大率ではないことは確かだな
女王卑弥呼が伊都国で治める
一大率という組織じゃないなら治められるのは?
自女王国の北側の諸国? >>622
>縄文土器は全国各地だが王国は無い
さすがに、これは馬鹿 >>570
ということは、むしろ吉備が北九州を征服した。
景行天皇くらいしかおらんで。
景行天皇を弥生末期とみなすのは無理無茶。 >>596
勝手に居座って勝手な持論撒き散らしてるバカがいるから他の畿内説論者まで迷惑するんだよな
畿内説の恥さらし=スレ主 目的語として一大率という組織が気に入らないなら
女王卑弥呼が伊都国で自女王国の北側の諸国を治める
ならいいわけw >>610
バカがもう一匹
大率が
何か知らんぞこいつ。 >>273
>確かに庄内式が畿内の影響なら <
違うね。
庄内は、三雲が一番早い。
だから、筑紫から東方へ伝わった。
>庄内式が伝わった時には北九州にはもう古墳があったってことになるな<
弥生銀座では、那珂八幡古墳が既に布留であって伽耶の陶質土器と共存しており、
河内や大和の庄内は、
久宝寺での(布留ではなく)庄内と伽耶の陶質土器との共存のために285年頃以後になり、
だから、大和の初期の庄内の前方後円墳も285年頃以降になり、
この事からも、庄内も布留も、
河内や大和よりも、筑紫の方が先行していた事になる。
大和の古墳の庄内も、 >>632
女王卑弥呼が伊都国で自女王国の北側の諸国を一大率を使い治めている
って意味だな。 >>637
いや、同じ奴だから
あんな馬鹿って何人も居ない テンプレ通りの筋書きで、纒向が王都なら
俺が狗奴國の刺客なら、簡単に王の首取れるな >>624
>>625
バカがもう2人。治が動詞なことを認識できんバカ。 >>638
またザラコクが真っ赤なウソをついている
でも常識と違いすぎるので、誰も騙されない >>496
ちょっと違うな。
宮崎はかなり早期から、円形周溝墓→前方後円墳体制の一員。
宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
愛媛、大分辺りと同じく西瀬戸内海の影響下にあったのかも。 >>647
治が動詞なんて当たり前だろ
今更なに寝言言ってんだw >>639
こういう変な訳をする人がなぜ今まで誰もいないのか?
それは明らか。
文法をまるまる無視した珍訳など、漢文をまともに学んだ人がするわけないから。 >>642
だったら組織じゃなくて役人その人の役職名でしょう。そういうこと言いたいんでしょ。 >>651
治の意味と読み訓み意味を知らないのねはいはい。 >>646
俺が監督なら阪神は絶対優勝するって言い張る奴はたくさんいる。 >>639
伊都国で
が間違い
で
と言いたいならせめて
於
が前置 >>649
理由も無いのに何故うごかせないの?
信仰だからかな? ザラコクがいくら吠えようとも
邪馬台国は畿内で決まり >>639
この方が意味として分かりやすいなw
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めている。
主語の女王卑弥呼と()内が省略されているんだ! 一大率は自女王国の北側に居るのに
伊都国を治めるって意味は? >>647
さん
間違いです
治、一文字なら名詞にもなります >>667
ザラコクは特徴がハッキリしてるから、そんな病気は無いのに >>668
だから九州説は漢文が読めないと言われる。 >>666
伊都国を目的語にすると意味が通じなくなるな。 ただ訳は間違いだよな
通説どおり「治所を置く」が正解。 古田説
魏志倭人伝が手軽に読めなかった時代なら人を騙くらかせただろうけど
ネットで魏志倭人伝の訳文が誰でも読めるようになった現在だと
ちょっと調べるとすぐにボロが出る 畿内説に国語の勉強から始めなければなりませんかね
文字は一文字で名詞です
字と字が重なり動詞となる文字もあります
例えば
動は一文字で「動き」という文字
連動だと「動く」という動詞
つまりウザイと言われるかもしれませんが
有もしかり
「有」何かが有る状態。対義語は「無」 何れも名詞
稀有は複合名詞
漢文の世有の有は動詞 >>674
そりゃお前の言語力が貧弱だからで
意味が通じないからって文法無視した訳をするな。 >>678
史料にこう書いてある!
と言われて実際見ると
ぜんぜん違うことが書いてある
というパターン スレ主が漢文を読めないのは
不徳の致すところでいいじゃん
とりたてて攻める必要なし >>274
>もとの文の意味がわからん。
庄内布留が「古墳」から北九州ではでるから
庄内布留が弥生遺跡しかからでない畿内は
北九州に遅れて古墳時代になった
こういうことか?<
端的には、伽耶の陶質土器との共存したもの、が基準であり論拠になっているんですよ。
那珂八幡古墳や地域では、布留が共存しているのに、
久宝寺では、庄内が共存していて、それが同じ時期になるんですから、
庄内同士では那珂八幡の方が古くなってしまうので、
那珂八幡地域の庄内の方が、久宝寺の庄内よりも古い、という事になってしまうんですよ。
そして、久宝寺に近い大和の初期前方後円墳は庄内ですから、大和の庄内の古墳も那珂八幡古墳よりも新しい、という事になってしまうんですよ。 >>676
一大率は自女王国の北側に居るのに伊都国にもいるの?
主語は? >>672
読めないで変な訳付けてるのは畿内説の人です。 何もわからん頃邪馬台国の謎を解明してやる!って思い立って
ネットで魏志倭人伝見て伊都国は糸島市、奴国は博多…
って経路辿ったら
あっ九州に書かれてる国の中に邪馬台国ないじゃん
九州飛び出すし邪馬台国は畿内じゃんって察するに
1時間かからんかったわ >>678
畿内説も同じ運命
用例とか調べると可笑しな訳ばかりw >>689
女王国までが12000里だから九州内で畿内は絶対にないと分かるまでは
5分も掛からないよw >>676
主語は女王卑弥呼なんだから
女王卑弥呼が常に伊都国を治めるとなるだろ
前後の文と意味が通じない。 >>693
主語が女王卑弥呼という理由は?
あなた以外だれもそう主張してないんだけど 文全体の主語が女王卑弥呼なんだから、異なる主語の場合は
主語を一大率とするには「諸國畏憚之」のように「一大率常治伊都國」と明記する必要がある。 >>687
他の人だけど、動詞の直後が目的語だと書いてるだろう
常識なんだよ それにしても、
あの写真だよ
ウリ科の植物が映っているでしょ、
キュウリだとして・・・河童?
河童=キン太の頭
二本松のほうの話をしていたこともあった、
松平という人物がいたのかな?
どういう話なんだろう 浅野セメントの・・・・で仕事をしていたんだよ
とも言っている >>700
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語は省略されていても女王国か女王卑弥呼である、主語が女王国や女王卑弥呼でない場合は
文全体の主語が女王卑弥呼なのだから、異なる主語の場合は「諸國畏憚之」のよう明記されている。
主語を一大率とするには「諸國畏憚之」のように「一大率常治伊都國」と明記する必要があるのが特別に明記のないので「常治伊都國」の主語は女王卑弥呼であると判断される。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めている。
主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。 >>691
1万2千里はどこを指す?
換算すれば日本を離れたはるか南の海上だから間違いという事がわかる
短里だと九州北部を指すそうだけれど
邪馬台国は九州北部の国々より南にあると記述があるから
短里説はその次点で違うのが明白になる >>706
通説どおりと言ってるんだが?
動詞の直後は目的語とも言われてるんだが? >>707
文全体の主語が女王卑弥呼だという理由は? このように、九州説は資料のトンチキ読みで出来ています
そして考古学は完全無視です
これ学問でしょうか
まさかね >>707
こいつホントにバカやな。
自分が理解できないからって文法まるで無視してるぞ。 九州北部どうのより、
早期の前方後円墳がある宮崎が、女王国かどうかの議論をしたら? 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
主語が女王国や女王卑弥呼でない場合は読み手に知らせる為に「諸國畏憚之」のよう主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている。」との意味になる
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは書かれているように自女王國以北の諸国である。
女王卑弥呼は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた、つまり
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。 九州説は畿内が古くから日本の中心だったという事実を隠蔽し
天皇賛美に繋がらないようにしようという思惑で動いている
畿内が邪馬台国だったとしても天皇賛美に繋がらねーよ
バカバカしい
学問に政治を持ち込むな >>712
九州説脳じゃわからんか
やはりその程度のおツムの出来では
九州説なんてアホ説を信奉するのも納得ですな 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
主語が女王国や女王卑弥呼でない場合は読み手に知らせる為に「諸國畏憚之」のよう主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている。」との意味になる
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは書かれているように自女王國以北の諸国である。
女王卑弥呼は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた、つまり
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「常治伊都国」・・・(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。
まとめると意味は
「女王国の北側の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」の意味となる。 漢書 西域伝 (大宛国が放射式記述の起点)
大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…
東 至 都護治所 四千三十一里
北 至 康居卑闐城 千五百一十里
西南 至 大月氏 六百九十里
北与 康居
南与 大月氏接 「王治貴山城」
王は貴山城を治める。
他所にいる王が貴山城を遠隔支配しているのではなく、王が貴山城にいてそこを支配している。
つまり貴山城が王城という意味である。
では、「常治伊都國」は?
主語が一大率だろうが、卑弥呼だろうが、伊都国が統治している都に他ならない。 >>721
>「王治貴山城」
>
>王は貴山城を治める。
>では、「常治伊都國」は?
()は常に伊都国を治める >>723
徳川将軍は江戸を治めた。
これで徳川将軍が京などどこか他のところにいて江戸を植民地にでもしていたかの様に主張するのが畿内説。 卑弥呼が伊都国を治めていたなら、伊都国が王都である。 謎の大震災なども
人工地震だと言っている人がいたりw
なぜだと思う 女王卑弥呼は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた。
以北はその出発地を含む。
陳寿は畳み掛けて同じことを別の言い回しで念を押すのが好きらしく、自女王國とも書いており、これも女王国から、という意味である。
つまり、女王国とその北にある国々を伊都国とその北の国々に置いた一大率で支配したのである。
まわりくどい表現だが、要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけ。
ここからわかることは、 同様に、女王国までの旅路も、里程を詳しく紹介した上で、それには水行陸行で何日かかると日程も繰り返しているのである。 伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。 聖人でも殺したのか、
親戚でも殺されたのか?
というレスがあったような気がするんだけど、
誰かを殺したの? まとめると意味は
「女王国の北側の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」の意味となる。 >>730
邪馬台国=ヤマトだよ
後漢書にもそう書いてあるだろ 『天子神璽』
少し調べてみると
聖人の話みたいなんだけど まとめると意味は
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったりしたら、文章の意味が通らない。
一大率が支配していたのは奈良およびその北である京都や滋賀になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるという文章と大いに矛盾してしまう。
里程などが記載されているのは、対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
それらの国々を、陳寿は女王国以北(女王国を含む)と呼んでいた。
これは、女王国が福岡県内であることを示している。 >>734
後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 「王治貴山城」
王が貴山城を治所とする、でいいのかな?
王が貴山城を治めるだけだと間違いではないか、意味的にもの足りない
常治伊都国も同じかもな >>738
それは畿内説に対するブーメランとなる。 あの格闘ゲームに登場する、
某キャラのコンセプトも同じ、
先祖、先祖の家の〜を殺してしまった
と書いてあったり >>740
反応するってことは岡上はウソついてる自覚があるんだな (女王卑弥呼は)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治す。 常治伊都國
=常に伊都国に治す
=(一大率は)常に伊都国に居た これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。 九州説のザラコク、岡上、キウスを見てると
年を取ってもああはなりたくないと心から思う 後漢書、隋書、北史までずっと一貫して
「倭の都はヤマトで、これは魏志倭人伝の邪馬台と同じ。発音のなまりが変わったものだ。」って書いてある 一大率は普段は伊都国にいて、有事は北に出撃したり、普段も巡察などしていたかもしれない。
港湾の検疫、監察なども行っていた。 >>750
王は代々筑紫城にいた。
阿蘇山という山があったときおり火を噴く。
とも書いてある。 結局、俺がこう思うからそれが正しいんだ!としか言ってない件
岡上の主張の構造はみんな同じ >>750が全て
これを覆すためには
1 隋の時代までヤマトは奈良じゃなかった
2 隋書、北史が間違ってる
いずれかの立場を取るしかない
しかしどちらも無茶があるだろう >>752
王は代々筑紫城にいたなんて書いてないな 神殺し
有名な話なのかな、
漫画やアニメ、ゲーム、芸能関係・・・
ほとんど同じような話 >>752
かつて、王は代々筑紫城にいた
(神武の父親まで)
子の神武が東征し奈良に都を移した
これは倭人の自己申告をそのまま書いただけだね
唐書の話だよね >>721
主語が一大率だから地方長官のじs墓所があった場所
王都ではない
w >>741
>王は貴山城に治す
>
>=王は貴山城に居た
NG
王は貴山城を「しらす」
≠王は貴山城に居た そして中国側の記述>>750と
倭国側の自己申告>>757とは
一致してるんだよね
中国側
邪馬台国以前はずっと倭奴国が倭のリーダーとして中国と外交してて
邪馬台国以後は邪馬台国=ヤマトが都になった
日本側
神武の父の代までは筑紫に城があり、神武以後ヤマトを都とした
一致してる 中国側文献を追っかけるだけで邪馬台国=ヤマトだって誰でもわかるはずなんだけど
みんな何をグダグダ悩むことがあるのかわからない >>759
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。 結論
九州説は漢文の読めない素人が妄想した珍説
噴飯もの それにしてもヤマトタケルだよ
・出雲▢を殺した
・蝦夷
・国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命
・白い大猪、大蛇が現れた
スサノオの話なのかな?
どういう話なんだろう >>760
王は貴山城を「しらす」
=王は貴山城にいる
「はつくにしらす」大王は国の中にいなかったとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。 >>764
でもそのヤマト(倭)は九州北部のことですよ。 どうも気になるが、「東遷」という造語は、王が国ごと引き連れて移住するって
事だよな?
神武記にみる一行の勢力は、せいぜいが大隊クラスで、それも各地を流浪の旅w
客分として屯田でもしながら移動した風情でしかない。如何に長髄彦がエリアの
王として強力であっても、九州勢力を挙げての攻撃なら流石にひとたまりもない。
鉄器の優勢だけでも、圧勝するよ。
それが、実際は兄二人を失い遙か僻遠の熊野まで落ち延びたんだよ。
統一国家で例えばレコンキスタの後カルロスが首都を移すってのとは訳が違う、
弥生の王=大稲作地帯をそのまま残して攻め取りで敵地に遷都するなんて、あり得ない。
当然鉄やその他の資産設備や人口も残していくわけだろ?後は誰が支配するんだい?
実際は、王族の一部か、九州で芽が出ない一族が新天地「うまし国」を求めて出ていった
って程度の話だよ。 >>770
隋代まで九州にヤマトがあったと主張するわけ?
隋書にも邪馬台=ヤマトって書いてあるのに >>769
しらすを辞書で引いて意味を確認してから投稿しろ 671年に天智天皇は病死し、672年にその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
ただし新たな創作をするのではなく、九州における歴史の一部を抹消し、一部の事実は組み込んで細かいつじつま合わせをして、本来は傍流であったはずの畿内大和がおよそ三世紀頃と推定される神武の時代まで遡って列島の支配者であるかのように見せかけた。
日本書紀の編纂と並行してそれ以外の歴史書の焚書が行われ、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われたと考えられる。
日本書紀は多くの書からの引用を含んでおり、編纂が行われていた頃までは邪馬壹国を含む倭国王朝の記録もあったに違いないが、倭国の名を消すために慎重に歴史の改竄を行っている。
文書上の改変だけでなく、倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物が平城京に移動される。
九州北部と畿内で多くの地名が配置も含めて一致していることが知られており、歴史や地名も含めた文化のすべての移植をはかったのである。
その一方で、天武朝のときに外交使節として筑紫館が建てられたとされており、後の鴻臚館として朝鮮半島との通商の拠点として福岡の経済的再興の礎となった。
701年の大宝律令の制定により、正式に日本が国号として用いられるようになり、行政単位が唐の評から郡に改称され、畿内大和政権は独立国として国郡制による全国支配を確立したと考えられる。
710年には奈良盆地に平城京が建設され、九州から畿内、関東まで勢力下に置いた中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この統一王朝の名称としては大倭が用いられ、表記が大和とあらためられた後に、以前から筑紫倭国に対して近畿の政権を示すために用いていた呼称である日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、大和は政権中枢の位置する畿内の地名に変化した。
中国に対しては筑紫から畿内へ連続する王朝であると主張したが、それを神代という抽象概念に押し込めたため、現代においては筑紫に王朝があったことすら忘れ去られようとしているのである。 後漢書、隋書、北史までずっと一貫して
「倭の都はヤマトで、これは魏志倭人伝の邪馬台と同じ。発音のなまりが変わったものだ。」って書いてある
これを覆すためには
1 隋の時代までヤマトは奈良じゃなかった
2 隋書、北史が間違ってる
いずれかの立場を取るしかない
しかしどちらも無茶があるだろう 機内は邪馬台国が魏に朝貢してたことも知らんだろ。 瀬戸内海航路平定以前は外国だよ。 >>777
相変わらず理由を言わないトンデモ九州説 >>772
筑紫倭国が崩壊するのは白村江の後だから。
唐は敗戦国倭の都である太宰府に2000人の人員を送り込みました。
そして唐の直轄機構として、倭には筑紫都督府、百済には熊津都督府を置きました。
その年に傀儡政権として即位したのが、天智天皇です。 相変わらず何も理由を言わないトンデモ九州説
w w w w w w w w w w w 『氷の世界』という曲
俺の真似をしているだけなんだろう
と言っているけど、スサノオ? >>784
それは糸的に、大和から目を背けてるからだ。 完全に
通説=畿内説 VS トンデモ説=九州説
と言う構造で
定着した >>754
前者は、わりとありそうではある
邪馬台国から、
日本そのものをヤマトと呼ぶ風潮が大陸にあり
それを、倭の五王時代に輸入した
だから古事記でも、倭と書いてヤマトと読ます
奈良地方限定でヤマトと呼ばれてたのなら
専用の文字がありそうなもんだ
奈良地方をヤマトと呼んでてそれが時代をへて、
日本全体をさすようになったと考えるより。
大陸が倭国全体をヤマトと呼んでたんで、
奈良の王たちが、自分らの都に
その名を輸入したと考える方がありそうな話。
(千葉にあるけど、東京って名称のが通りがいいんで
東京ディズニーランドって名乗るような例みたいにね)
そしてトンデモ説は>>789のような悪口しか言えず
畿内説になんにも反論できない惨めな状態である
九州などあり得ない理由
・帯方郡から1万2千里を経過して「から」女王国。九州のクニグニの里数を全部足すともう1万7百で九州は女王国ですらない。しかも邪馬台国はそこからさらに水行10日、陸行一月の遠方で九州など論外
・倭人伝に登場する九州のクニグニは現代では大体比定されているので行程を追う事が可能。少なくとも福岡まで進むのでどう誤魔化そうが九州は通り抜ける事になる
・九州は弥生時代全てを通して一度も統合されておらず、南部に至っては奈良時代に至るまで別文化圏。東部、中部も庄内土器、纏向型前方後円墳が広まっており九州のどこにも九州独自の邪馬台国勢力を設定する事は出来ない
・九州には各地にヒナモリ(ヒナは夷、鄙、モリは守。辺境の守備隊の意)が配置され、刺史(中国の地方検察官。中央には置かれない)が【王が女王国に統属する】伊都国に常駐して周辺国を監視して怖れられている辺境の属国扱い
・平原は古い鏡を鋳つぶした国産鏡ばかりで少数の漢鏡も古いもので既に中国との交渉が出来てないのが分かる。その上この後に続くものがなく祭祀も周辺地域と関係なく個人墓としての規模で福岡勢力の終焉の証となっている
・九州は紀元前から続いていた中央の福岡の副葬品大量副葬も消滅(平原)。弥生中期まであった銅矛、甕棺を広めていた中心もまとまりも崩壊して各々小集落に分裂。その後現代に至るまで独自の統合勢力などなく九州王朝など論外
・福岡の中央部の衰退以後、九州全域でも副葬品が減少し国産の小型鏡中心の時代に移行して衰退が明確になる
・バラバラの小勢力に分裂した状態の九州は弥生時代後期から急速に庄内土器が広く分布し独自の生活様式を塗り替えられ、その影響は時代を追うごとに強くなり邪馬台国の時代を迎える(庄内土器は広く九州の弥生土器と共伴している)
・弥生中期の九州勢力最盛期の時でさえ西日本各地は九州と違う祭祀を行い、その後は九州では全く発展しなかった大型墳墓、土器祭器の時代となりそれが古墳や埴輪となり九州はそれに全く関与していない。
その上弥生後期には独自勢力が崩壊し周辺地域の影響下に陥る事になり九州の東征も東遷もあり得ない >>790
地名までドロボウするババ色の根性
それが九州説
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
日本を支配する福岡人脈!
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財務 国家財政トップ(財務大臣) 麻生(福岡) 自民党副総裁兼務
金融 国家金融トップ(日銀総裁) 黒田(福岡) 前総裁 白川も福岡
政治 政治・行政のトップ(総裁・総理)安倍(準福岡) 山口県下関市 ← 福岡県下関市でも違和感ないほど、限りなく福岡!
民間金融トップ 三菱UFJファイナンシャルグループ 代表執行役会長 園(福岡)
不動産トップ 三菱地所社長 吉田(福岡)
ついでに、日本医師会 会長 横倉(福岡)
財務・金融・政治・不動産・医療などの国家レベルの最重要ポストを独占!?
福岡人脈すげぇー!!w 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>797
文字数の節約にもなるから
クズ説と呼ぶのがいい
>>793
奈良地方をヤマトと呼んでて
それが日本全体をさすようになったってのは違和感がある
たとえば奈良人からしてみたら
地方人が「今日からうちも奈良って名乗る事にするわ」と
されたら、生意気に思うだろう
また、地方人からみて
奈良人が「お前らも今日から奈良って名乗れ」としたら
迷惑だろう
なにより紛らわしい
「奈良の太郎さんへ」って書かれてあるお届け物は、
どこに届ければいいのか?
はじめから、外国に日本全体をヤマトと呼ぶ風習があり、
それを奈良が自分らの都名にした方が自然に思う
少なくとも、とくに矛盾はない 例えば、アメリカ先住民のインディアンが
「インディアン、ウソつかない」みたいに
インディアン(インド人)と名乗るのは
コロンブスがそこをインドだと勘違いしたからだ
アメリカ先住民は、白人が自分らを呼ぶ名称に
合わせたに過ぎない(別にインド人を詐称してる訳じゃない)
同じように「お前ら倭人、つまりヤマト人か?」と聞かれ
「イエス、我々は倭人、つまりヤマト人だ」と答えて
その故郷である奈良の地がヤマトになってしまっても不思議はない
そもそも古事記を見るに、すでにヤマトの名称は
日本全国をさす神格化された名称のように見える
(架空時代の天皇の名称としてもつかわれて)
ヤマトが、古代あくまで一地方として始まったのなら
特別な名前ではなかったはずだろうし、
奈良とかあっけなく変える事も無いんじゃないかと
(むしろ奈良こそ、ヤマト以前から自分らで呼んでた古い名称なんじゃないかと) その頃、スサノオ兄弟は何をしていたの?
いなかった?兄姉とか 麻生氏は、下野国の藤原北家流宇都宮氏の分流城井氏の庶家で金融担当大臣
黒田日銀総裁は黒田官兵衛の子孫で、官兵衛の妹は筑前麻生氏と再婚してるから
日本の金融を藤原北家が牛耳ってるみたいなもんだな 倭の五王時代にヤマトの名称を輸入したとして、
継体天皇で王朝が覆っているなら
その事を知らなかった可能性がある。
継体天皇は、即位後なかなかヤマト入りできなかったようだし
五王時代に、しつこくやってた朝貢も
あっさりやめてるから、別王朝な可能性は少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E5.87.BA.E8.87.AA.E3.82.92.E5.B7.A1.E3.82.8B.E8.AD.B0.E8.AB.96
>日本書紀の記述では継体が507年に即位してから
>大和に都をおくまで約20年もかかっており
>皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との
>大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は
>九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。
>>801
神話のことはわからない
魏志倭人伝内の記述とスサノオは
もしかしたら遠因的に関係あるかも知れないけどね 継体天皇の時期は雄略天皇以来の混乱を収めて王権が伸長する時期だ
アホはすぐに珍説に飛びつく >>806
違う違う。王朝が変わったから
前の血統の人気者をコキおろすんだ
それは中国で皇帝が変わった場合も同じ
旧血統の時代はひどかった
今度の新しい王朝は素晴らしいって歴史が書き直される これも同じような話だと言ってなかった?
『ガンダム サングラス』 というか、明治だって
「江戸時代はひどかった」って過剰な扱いする訳だ >>771
毛沢東の長征やそれこそ三国志の劉備伝そのものだな w
大隊規模同意なんで、そこで神武長征の理由は何かと言うことになると、
卑弥呼、倭人伝を関連付けると、倭国大乱当たりが臭い。
倭国大乱が後継者争いなら「俺こそは」とかだろ。
そして「各地を客分で」でヒントを得たけど、当時の倭国では名士・名家だったんだろ。
神話というか創話の補強になっちゃったけど、案外事実もそんなもんかもしれん。 正直、魏志倭人伝は
あんまり記紀の神話とは関係ないと思うんだ
ただ、遠因的に関係ありそうな部分もあるとは思う
http://up2.cache.kouploader.jp/koups21677.png それにしても、
どうなっているんだろう
河童にタツノオトシゴでしょ、
龍宮が何やら、若返りの話をしていたり(+砂時計。時が止まった??)
橋が架かったので来てください
という招待状が届いたんだけど、
歳も取っていたし、遠かったので断った
老婆談 このような台詞も出てくる
「いもいも、石焼き芋〜」さつまいも?
老婆「この写真の後ろのほうに写っているのは、
たしかイモ類の葉だよ」 おさるの宅急便、
カゴのようなものを担いでいたり。
銀?というキャラ(人物)が出てくる作品と同じ、
ワニの描かれたコマがあったり。 晋書巻3の武帝紀によると
「(泰始二年=西暦266年)十一月己卯,倭人來獻方物。並圜丘、方丘于南、北郊,二至之祀合於二郊。」
倭人、来たりて方物を献ず。円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7003
266年(3世紀中葉)は纒向古墳群が発生したとされる前方後円墳成立期に重なる。
よってこれが前方後円墳だとすれば邪馬台国連合は後のヤマト王権と少なからず関わりがあったということとなり、
邪馬台国は畿内にある可能性が高くなる。
さらに隋書では「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也(邪靡堆を都とする。則ち、魏志言うところの邪馬臺なるものなり。)」とヤマトを邪馬臺と同一視している。
淡路島の五斗長垣内遺跡と舟木遺跡で国内最大規模の鉄器制作の痕跡が確認されている。
また纏向遺跡に搬入土器は、伊勢・東海系が49%、北陸・山陰系(おそらく古代出雲系)が17%を中心に、
河内、吉備、近江、関東、播磨、西部瀬戸内海系が確認されており、最近では韓式土器も出土している。
さらに近くの唐古・鍵遺跡では、吉備、伊勢・東海等や、九州北部(筑紫勢力?)の「須玖式」土器も出土している。
いっぽう一支国(魏志では一大国)の比定地とされる原の辻遺跡では楽浪郡の文物の他に畿内系(ヤマト勢力?)、山陰系(古代出雲勢力?)の土器が大量に出土している。
file:///C:/Users/Owner/Downloads/16425_1_%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%BE%BB%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8%E2%85%A1.pdf
しかも古代出雲の範囲内の田和山遺跡でも楽浪郡のすずりが出土している。
したがって、七万余戸もの規模の邪馬台国の中心部は畿内にあった可能性が高く、少なくとも畿内は邪馬台国連合と深い関係があったことが明らかだ。
おそらくそれに次ぐ五万余戸もの規模を誇る投馬国は国内最大級の妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡があり鉄器が大量に発掘されている大規模勢力だと
思われ、記紀の3分の1を占める等、日本神話に強く影響を及ぼした古代出雲だと推定。 >>287
>倭国の王の成れの果てが筑紫君磐井かもな
57年の金印授受、107年の倭国王帥升の時代が黄金期で
そこから倭国大乱〜邪馬台国成立で覇権を失い、大和王権の全国支配が進んでいき、
つまりまるまる500年くらいかけてじわじわと領地と権力を失い滅亡していった <
嘘を付くな、皇国史観大和説の・・・・詐欺師。
筑紫倭国は、白村江の後までずっと列島盟主であったのであり、
倭国の別種の旧小国の大和が、倭国を併合九州継承したのは701年だよ。 >>289
>百済王や新羅王も朝貢してれば大和貴族扱いだが、九州もある程度外国扱いだったんだろ。<
嘘を付くな、皇国史観大和説の・・・・サギシ。
半島や中国との国交や戦争をしていた列島盟主は、筑紫倭国であったのであり、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の附庸国であったのであり、
大和が筑紫倭国を併合九州継承して列島盟主になったのは701年だ。 >>293
>尚方作が21枚? 笑っちゃうぜ<
皇国史観にクルった・・・・が、いくら笑ったからと言っても、
平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡、という金石文、
という貴重な発掘物が消え去るものではない。 >>297
>プレ大和朝廷=狗奴国<
「南≠東」だから、×。 >>299
>ザラコクも北九州ゴリ押しするの諦めろよ
九州全般のどっかにあったって説の方がまだ説得力あるからさ <
「自郡至女王國萬二千餘里」は、不彌國で、
ほぼ萬二千餘里が使い果たされているのさ。 >>303
>蝙蝠鈕座内行花文鏡は最下級クラスのしたっぱ鏡だよ。
魏帝→卑弥呼の鏡にするのは無理。<
洛陽晋墓に幾つも副葬されるような、高級鏡だよ。 >>304
でも実際には、人種差別的皇国史観の戦争狂の・・・・大和説者が、
筑紫倭国説に議論で負けそうになったから、
発狂してるんだよね。 >>307
>九州などあり得ない理由
・1万2千里を経過して「から」女王国。
九州のクニグニの里数を全部足すともう1万7千で九州は女王国ですらない。
しかも邪馬台国はそこからさらに水行10日、陸行一月の遠方で九州など論外・・・<
これは、反論済みであり、
人種差別的皇国史観戦争狂の・・・・大和説者の、いつもの貼り付けの繰り返しだな。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、不彌國でほぼ終わっており、
「邪馬台国はそこからさらに水行10日、陸行一月の遠方」なんて、始めから嘘吐きダマシの詐欺であり、
論外。 >>308
>バカか? キミはワケから変更されたカバネ
ワケは地方に派遣された王族や地方の領主に付けられるカバネ
九州と言う地方の豪族だからこそついてるカバネ 物知らない奴はこれだから <
この男もバカか?。
根本的に、記紀は、筑紫倭国の存在や歴史を抹殺盗用しようとしている半分以上×文書であり、
そんな記紀の説明など、根拠になど、なるもんか。
物知らない奴はこれだから 。 >>824
だからその洛陽晋墓が庶民の墓なんだyo
ショボ >>806
>継体天皇の時期は雄略天皇以来の混乱を収めて王権が伸長する時期だ
>
>アホはすぐに珍説に飛びつく
ひどく混乱していた政権だよ。
畿内説って、どこまで歴史を歪曲するんだ? >>811
>卑弥呼、倭人伝を関連付けると、倭国大乱当たりが臭い。
でしょでしょ >>817
>したがって、七万余戸もの規模の邪馬台国の中心部は畿内にあった可能性が高く、少なくとも畿内は邪馬台国連合と深い関係があったことが明らかだ。
アホじゃないか?
土器の流通はどこにだってあって、纒向はむしろ東海との繋がりばかりしかない。
しかも沼川ばかりで7万戸どころか7千戸さえ怪しい。 >>827
ワケまで否定するなよ。
景行天皇が忍代別と呼ばれたのは、筑紫の女王であり八咫の鏡を持っていた神夏磯姫が倭王であったことを示している。
記紀にも大事な情報が含まれている。
それを一番重視したのは、他でもない古田氏であった。 >>646
テンプレ通りの筋書きで、纒向が王都なら
俺が狗奴國の刺客なら、簡単に王の首取れるな
☝
纒向は無防備で賞、 皇国史観は歴史を歪める
日本の歴史は捏造の連続
その始まりが記紀 とあるワードをググったとき、
このようなサイトが出てきた事があったんだけど
・周囲にいる人々は暴力団ばかり。
悪く言うと暴力団?
何かを祭り上げたり、持ち上げたり
〇×事件などの話にも出てくるでしょ、
必ず関係してくる 聖徳太子は10人の話を一度に聞けると習った
凄いと思った
今や、聖徳太子はエスパー人間じゃないと確信した 俺はプロじゃ無いから関係ないけど
学者や研究者と言われる人は、漢文をすらすら読めないといけないと思う >>837
まちがい:10人の話を聞ける
せいかい:10ヵ国語を理解する
当時の奈良は渡来人がいっぱいの多民族国家だったからね
朝鮮半島、中国からはもちろん、ペルシャ人がいたという記述も残ってる でも実際は暴力団も何もない
大昔、斧や弓、槍などを使い、
漁や狩りをして生活していたんだから
していなかった家、人なんていない
悪く言うと暴力の神こそが、
本当の神みたいな話になってくる
力こそが正義。
私の帰りなさい エヴァンゲリオン?。
ほとんど同じ、他の国もそうだと思う >>839
一度に、なんだけど、、、
順番じゃない >>838
でも学者も痛説をリードしてしまったりするからね。
偉い先生が言っていたからといって信用すると痛い目にあう。
このスレのテンプレがそう。 本当に重要なのは、こういう話だと思う
「みだりに殺生してはいけない」
何の話なのかは知らないけど >>817
>倭人、来たりて方物を献ず。円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。
面白い記事ではあるけれど、
>よってこれが前方後円墳だとすれば邪馬台国連合は後のヤマト王権と少なからず関わりがあったということとなり、
九州北部のヤマトならね。
>淡路島の五斗長垣内遺跡と舟木遺跡で国内最大規模の鉄器制作の痕跡が確認されている。
纒向とは関係ないよ。
当時はまだ畿内という括りそのものがない。
纒向は東海と結びついていて、淡路島は瀬戸内海文化圏で、考古学的にはまったく別物。
>また纏向遺跡に搬入土器は、伊勢・東海系が49%、北陸・山陰系(おそらく古代出雲系)が17%を中心に、
纒向は東海経由で他の地域と結びついていて、主体的に交易をする立場ではなく、東海からの分配に頼る属州的な存在だよ。 >>310
そもそも前方後円墳に葬られてる奴が独立国王とか、脳ミソ湧いてるな。
これだからヤマトセツはバカの集まりと言われるんだろうよ。 奈良の前方後円墳なんて規模だけでかくても木と土器しか出てこないんでしょ?www >>831
纏向だけでも伊勢・尾張の他に、山陰からの搬入土器も無視できないレベルで多い。
そもそも纏向、唐古鍵遺跡など畿内の遺跡では朝鮮半島から九州北部、山陰、吉備から関東まで広範囲
に出土するうえ、遺跡の規模だけでも日本最大級だし、沼川だらけなのはどこもいっしょ。
そもそも7万余戸は正確性の低い数字の可能性も低いけど、それだけ邪馬台国の規模が大きかったことを表現していると思う。
壱岐の原の辻遺跡では大陸系の他に無視できないレベルで畿内系、出雲系の土器が大量に出土しているし、糸島市の三雲遺跡など
九州北部の遺跡でも畿内系の土器がかなりの割合で"大量"に出土しているけどな。
少なくとも下記のように畿内には大規模な集落遺跡等が集まっているしな。
<弥生後期の畿内の遺跡の一部>
纏向遺跡 300万平方メートル
唐古・鍵遺跡(日本最大級の銅製品工場) 30万平方メートル
坪井遺跡
東奈良遺跡(唐古・鍵遺跡と並ぶ日本最大級の銅製品工場)
田能遺跡
五斗長垣内遺跡(日本最大級の鉄器製造群落遺跡) >>312
邪馬壹國当時じゃ説明できないからと、
時代を先に延ばして誤魔化そうとしてできたのが、
皇国史観の人種差別的戦争狂の大和説(笑)。
ところが先に行けばいくほど、白村江まで九州倭国の支配状況は強くなる一方で、
もっととんでもないバカ説になるという。
まぁ、脳ミソの無い、史書も読んだこともないパーには丁度いいか。 >>844
仮に九州北部にヤマトがあったにしろ、畿内にあったにしろ
3世紀中葉においては、考古学的に前方後円墳は畿内でしか前方後円墳(しかも纏向古墳群で始まったばかり)
が見つかっていないし少なくとも西暦266年までには畿内の勢力は邪馬台国連合に含まれていた可能性が高い。 >>313
筑紫倭国の存在や歴史を抹殺盗用しようとした記紀を信仰し、
更に、その記紀の記録を逆に読んで、
別種分家の大和が盟主であったかのような曲解をするとは、
人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観の・・・・大和説者は、
本当にお目出たいな。 >>847
規模が大きいと盗掘されやすいというのもある >>315
ヤマトセツは、アリもしない妄想の中の「超大国皇国史観大和帝国」とかで、
オナニーしてるだけの・・・・バカだからな 。
しかたない 。 >>326
と言う、史料事実の根拠がない (笑
これだから大和説は
wwww >>721
「王治貴山城」 ・・・・・・王は貴山城で治める
「常治伊都國」・・・・・・・常に伊都国で治める
王は貴山城を治める。では王は貴山城しか治めてないことになる、王が治めてるのは貴山城ではなく貴山城を中心とした国だろw。
君は漢文落第だなw >>328
どこに?。
このように決して史料事実の根拠を出せないのが大和説
つまり、人種差別的皇国史観の殺戮戦争狂のクズ説 >>329
ヤマトセツのパーは、まだ自分達が何か議論の出来る立場だと思ってるのが本当に滑稽だな。
「南→東」のような、倭人伝のあり得ないバカ解釈しか無いような猿の集まりが
笑わせてくれるw 。 >>331
と言う根拠は?。
ほら、また、人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観の大和説が自滅した 。 >>333
このように、人種差別的殺戮戦争狂の「南→東」の嘘つきダマシの皇国史観大和説は、
もともと 証拠を出したり、理由を言ったりする生活習慣のない人たちで成り立っている。
学問的な畿内説と会話が出来るわけがない 。
こう言う結論が出ちゃうね。 >>817
出雲、葦原中国が一大勢力または広域を支配をしてたのは確かだと思いますけど、遺跡からの出土品状況を見ると宝物、奉物のような気がしますね。
神社でいえば奥の院とか神殿とかそんな位置づけでしょう。ゆえに遺跡の重要度と戸数を関連付けるのは難がありますね。
ただし「とも」というのが船の船尾、舵取りをいいますから、出雲をこの「とも」の意味合いにした場合、「へさき」「おもて」になるのが、アナ門だったり、アキだったり、キビだったり。
記紀の年代繰上げは計算されたもので、神武東征は倭人伝の時代と被るとなれば、神武が長期滞在した瀬戸内海山陽側沿岸が大規模集落として投馬の候補地として有力だと記紀を作った時代にしても連中にしても当然だと考えていた 鴨。 >>848
>纏向だけでも伊勢・尾張の他に、山陰からの搬入土器も無視できないレベルで多い。
>そもそも纏向、唐古鍵遺跡など畿内の遺跡では朝鮮半島から九州北部、山陰、吉備から関東まで広範囲
>に出土する
伊勢・尾張は伊勢忌部・尾張忌部
山陰は出雲忌部
北部九州は筑紫忌部
吉備は吉備忌部
関東は関東忌部
ついでに北陸は北陸忌部
みんな、阿波から進出した、忌部一族がもたらした東阿波型土器の模倣土器ですね。 >>848
みんな、阿波から進出した、忌部一族がもたらした東阿波型土器の模倣土器ですね。 @阿波 「諸國畏憚之」での主語は諸国
「之」は「一大率」
その次に「常治伊都國」と続くから
「常治」しているのは「一大率」 >>817
出雲の位置付けが重要になってくるな。
竹ヶ崎辺りは、弥生時代終末期〜古墳時代前期にかけて畿内からの土器の流入があり、何らかの勢力交代が疑われる。
弥生時代後期までは、在来系の集落だったが。
鉄のルートを考える上で重要な地だな。 >>848
纒向の搬入土器も時代毎に見ていく必要あるな。
特に、3世紀後半以前と以後については、特徴が違うかもね。 >>338
だから、「南→東」などの嘘つきダマシで皇国史観狂のような人種のスレは、
2chからは出て行って欲しいんだよね。
会話ができないコミュ障の・・・・は社会にも国民にも迷惑なんだよ。
もともと公共的な掲示板だから、君たちが居つくことがおかしいんだけどね 。 >>867
>竹ヶ崎辺りは、弥生時代終末期〜古墳時代前期にかけて畿内からの土器の流入があり、何らかの勢力交代が疑われる。
阿波からの土器の流入ですね。 勾玉も阿波からの流入です。 @阿波 中国側の認識(客観的な認識)
57年
・倭奴国が朝貢、金印を送る
107年
・倭国王の帥升が朝貢、倭奴国と同じ
3世紀
・倭国の邪馬台国が朝貢
隋書、北史
・倭国の都はヤマト、これは邪馬台国と同じ
旧唐書
・倭国はいにしえの倭奴国
・日本は倭の別種、太陽が昇る東にあるから日の本=日本という
・日本は小国ながら倭を併合した
答え出たな >>342
人種差別殺戮戦争狂の、「南→東」の嘘つきダマシの皇国史観ヤマトセツのおサルさん達は、
九州説者だけを追っ払えば、大和に邪馬壹國が出現すると信じてる、
可哀想な病気の動物だから仕方ない、
理由も根拠もいらない、
ひたすら荒せば、なんか知らんけど、こいつ等の中では大和に邪馬壹國が出てくるらしいw 。 >>851
「検察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺史」
検察諸国 検察するのは誰? 一大率だ。
諸国畏憚之 諸国が畏憚する「之」は誰? 一大率だ。
常治伊都国
於国中有如刺史なのは誰? 一大率だ。
常治伊都国の主語は何?
当然ながら一大率だ。
>>871
日本=奈良=ヤマトなら「別種」「小国ながら」という記述はおかしい
なぜなら邪馬台国の時代から都だった場所を「別種」「小国」というはずがないから
やはりヤマトが移動したとしか考えられんね
小国であった奈良が唐または隋の時代にやっと倭国内の覇権を握った >>865
その理屈だと「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 畏憚之 常治伊都國」でいいことになる
檢察諸國と諸国で終わってるんだから次の主語は諸國だと。
でもこの文章の前後の文章も主語は女王国か女王卑弥呼なので、主語が女王国か女王卑弥呼とは異なる場合はすぐ前に書いてても「檢察諸國 諸國畏憚之」とわざわざ主語を明記している。
だから常治伊都國の主語が一大率なら一大率常治伊都國と書かれないと主語が一大率だとは読めない。 >>862
妻木晩田遺跡等、出雲平野〜安来平野にわたって遺跡で大規模集落も多数発見されている。
あと目を付けたのは「投馬國」の読み方。
「投馬」は「トウ・マ」は[漢音+漢音]で漢音(唐代の長安の発音に由来)より中古音(三国時代は上古音と中古音の狭間)に近い呉音
を採用したら「投馬」は「ヅメ」と読める。上代日本語では特徴的に語頭に濁音が来ないので、「ヅメ」の前には欠落しやすい何らかの母音があったと思われる。
よって投馬國(*ずめこく)は出雲だと考えられる。
投[https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8A%95]
馬[https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A6%AC#.E7.99.BA.E9.9F.B3] >>355
いつもの事実を根拠にしたお返しのオウム返しw 。
ちなみに、「南→東」の嘘つきダマシのヤマトセツの言う「論破」「反論」ってこれの事だからな?w 。
こいつらの脳内ではこれで華麗に説き伏せた事になってるんだよw 。
会話にならんわけだ 。 >>868
>纒向の搬入土器も時代毎に見ていく必要あるな。
内陸の大和より、臨海の伊勢の開拓は早いので、伊勢からの流入が多いはず。 @阿波 >>362
ヤマトセツのハンロン 。
・ぼくは「南≠東」などの嘘つきダマシも犯行をみとめないと喚く
・オウム返され
・脳内ラノベ朗読会
・何の史料事実根拠も提示しない結論の連呼
・勝利宣言連発
これがヤマトセツの言う反論だから 。 >>874
>やはりヤマトが移動したとしか考えられんね
倭国(阿波)から8世紀に大和への移動ですね。 @阿波 >>873
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國・・・・・・主語は省略(女王卑弥呼)
諸國畏憚之・・・・・・主語は諸國
常治伊都國・・・・・・主語は省略(女王卑弥呼)
常治伊都國で省略されてる主語を一大率とすると、前の文と主語が変わることになるが、何処にも主語が一大率に変わる記述がない。
主語が変わる諸國畏憚之の文では諸國諸國と繰り返しになるのに主語が変わるから明記している。 >>373
>徴税権を手に入れたんだから完全勝利だな<
タリシホコは大和の人間ではないし、
白村江で戦ったのは、(大和日本国ではなく)筑紫倭国であったんだから、
継体の反乱は、完全勝利になっていない。 >>377
結論だけ言い張って、決して史料根拠や理由を言えないのが、
大和説滅びの理由だな。 >>875
君以外の誰でも主語が一大率だと読める
直前の之を受けてるんだよ ヤマトって言葉が混乱を招いてる
奈良は奈良というべき
というか奈良の都は「飛鳥」だろ
なんで飛鳥じゃなくヤマトというのか
その時点でキナイセツのミスリードなんだよね 淡路島の鉄器製造は2世紀末まで。
彦根の稲部遺跡は3世紀後半まで。
出雲〜畿内にかけて、2世紀末〜古墳時代初頭にかけて、鉄のルートに何かが起こっているね。
鉄の供給が途絶えたのか、勢力交代があったのか。
吉備や女王国勢力の拡大に伴う動きのように見える。 ヤマトは移動したんだから
奈良の都のことは飛鳥というべき
ヤマト=奈良ではない >>378
鸚鵡返しをされるのは、論理が不完全な無能の証明。 >>881
間違い
諸国を検察してるのは一大率だよ >>886
刀狩りのように、鉄器狩りが行われたんだよ
農民に武力持たれたら支配できなくなるからね >>881
言ってることが矛盾してるね。
自分だって平気で主語が女王卑弥呼だと言い張ってるじゃないか。
前の文と主語が変わって、何処にも主語が女王卑弥呼に変わる記述がないのに。
自己矛盾しまくりだ。 >>397
人類の常識で言えば、
「布留0」というのは「庄内だ」とは全く言えなかったんだ、
という事が実態であった、、
という事を示すんだよ。 >>888
そんな発言をするのは、脳が不完全な無能の証明。 >>873
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
自女王國以北 特置一大率 檢察諸国 検察する一大率を置いたのは誰だ。女王卑弥呼だ。
諸国畏憚之 「之」を畏憚しているのは誰? 諸国だ。
常治伊都国 於國中有如刺史 刺史のように伊都国で常に治めているのは誰だ?女王卑弥呼だ。 ヤマト=奈良 なんて誰が言い出したんだ?
奈良の都は飛鳥だろ
沖縄では九州人も含めて「ヤマトンチュ」っていうんだよ >>399
三角縁が呉系というのは、
洛陽付近からの出土が極めて少なく、呉付近の出土が非常に多い事から、
もう40年来の、現代でも、完全に常識だよ。 >>894
バカ丸出し
女王が刺史のようであるわけないでしょ >>891
諸國畏憚之の主語は諸國ですよね
前の文と同じ諸國が主語では意味が通じない
女王国や女王卑弥呼に付いて説明しているこの辺の前後の文では
主語が明記されてない場合は主語は女王国か女王卑弥呼です。 >>898
女王国や女王卑弥呼について説明してない。
一大率について説明してる。 1世紀〜2世紀初頭にかけて、出雲などの日本海勢力、畿内の勢力、北部九州の勢力はよろしくやってたんだよ。
当時の畿内の出土物や伊勢遺跡の様子を見れば分かる。
倭国大乱で瀬戸内海の吉備や伊勢湾の倭人勢力、九州南部の勢力が台頭。
倭国大乱で、旧体制の中心であった、大阪湾〜ヤマトの倭人勢力(クナ)、大陸への玄関口である伊都国は女王国勢力に征服されていく。
出雲も事代主の寝返りなどで、徐々に勢力を削ぎ落とされていったんだろう。
記紀神話で大国主とスクナヒコナがよろしく国造りをしていた記述そのまま。
スクナヒコナは、敢えて名付けのエピソードが入れられているし、名前が書き換えられたんだろう。
スクナヒコナはクナヒコかもね。 >>402
>史書に出てくる八咫鏡の委譲 <
「史書」と言って誤魔化しているけど、
記紀は、筑紫倭国の存在や歴史を抹殺捏造盗用しようとした犯罪者的史書であるから。
そんな記載は、根拠にならないんだよ。
>・地上統治の権利の委譲 <
ないね。当然同じ部族間での「仲間である事」の確認。
>・降伏の証 <
出迎えただけであり、降伏なんかしていない。
>・神、格上の相手に対する献上品 <
部族のお宝だから、献上などする筈がない。せいぜい下賜があった程度。
>まぁ別に平原の鏡が八咫鏡だと言い張ってても一向構わんけどな? 九州が降伏して権利を譲り渡した証だというだけだし
実際そうだからその通りだな <
まぁ、大和説者は、人種差別殺戮戦争狂の皇国史観の、
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・なんだが、
実際そうだからその通りだな 。 >>404
>でも鏡は呉系じゃないんだな<
三角縁神獣鏡は、呉系だよ。 >>899
女王国や女王卑弥呼について説明していて
その中に一大率が出てくるだけですよ
文章全体を通した主語は女王国か女王卑弥呼です
諸國畏憚之みたいに主語が諸國だと明記されている場合以外は
主語は全て女王国か女王卑弥呼です。 >>905
他の誰もあなたのように読まないのはなぜ? >>907
理由もなしに言い張るだけの畿内説には困ったもんですねw
理論的に反論していただきたい。 >>407
>箸墓が四世紀だとしてもおかしいんだよなぁ
畿内に三世紀まで何もなくて四世紀になったら急に
当時国内最大規模の前方後円墳が現れるとかありえんだろう?
そうだとしたら三世紀に巨大な権力の集中があった証拠というじゃねーか<
関係がない。
ホケノの時点で既に大和には、
楽浪の画文帯流民や、古韓尺技術者や、伽耶の陶質土器流民や、
有棺有槨部族なども流れ込んで来て、
筑紫からも「大陸の前方後円墳」思想も入り、
倭国の東征のお手伝いで、出雲系銅鐸部族や毛人蝦夷の捕虜を墓守り人に出来て、
魏の薄葬令の影響も受けずに、
セレモニーを進化拡大出来た、というだけ。 >>909
おやおや鸚鵡返しか。
理由なら書いてあるよ。
諸国を検察したのは誰? >>910
誰が現実逃避してるの?
ちゃんとした日本語を書いて欲しいな >>909
文章全体を通した主語が女王国か女王卑弥呼だっていう理由はなに?
主語が明記されている場合以外の主語が全て女王国か女王卑弥呼だっていう理由は何?
>>915
理由は書いてるだろ
この辺の前後の文章が女王国や女王卑弥呼を説明したものだからだよ。 >>912
それが全く理由になってないのw
>諸国を検察したのは誰?
一大率ですけどそれが何か? >>412
>あともう一つ 鏡は中国との交渉の証 倭人伝でも邪馬台国への下賜品として登場する
九州のクニグニが鏡にこだわったのも中国との交渉権を主張する為と言うのも大きいだろう
「外交」は主権を持つ国の最も重要な仕事の一つだからな
それが移動してると言う事すなわち国家としての主権の移動そのままだな <
大和には移動していない。
平原に、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡の、
「魏朝の工房で造られた」事を示し、「魏帝→卑弥呼」の鏡であった事を示す、
考古的金石文発掘物がある。
>九州の王位を有難く受け取ったんじゃなくて、九州から外交の権利を奪った証と言う事だな<
この男も、人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観の分裂幻覚の妄想の・・・・大和説者のようだな。 >>916
前後の文章が女王国や女王卑弥呼を説明したものだ
っていう理由は? >>416
>勘違いしてるようだが九州の王位を戴いたんじゃない 九州から「王権のシンボルを奪い取った」
ちょうど中国で漢から魏への禅譲が行われたがまさにそれ
漢は国を譲って臣下となり、魏が皇帝となった
「王権」という物が移動するわけだが、漢が魏の皇帝になったわけではない
同じように九州は権利を明け渡したというだけ <
「王権のシンボルを明け渡して」いない。
筑紫倭国は、白村江の後まで、列島代表の盟主として、中国などと国交を持っていた。 >>817
>円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。
郊祀とは天地を祀る漢の武帝以来の重要行事。天の主宰神への祭祀である南郊と、地の自然神への祭祀
である北郊とに大きく分けられる。
北郊とは、帝都の北方に築かれ、夏至の日に祭祀が行われることが多かった。泰折、方丘、方壇、方沢など
の別称がある。大地を祀る方形の地壇ということだ。
南郊とは、皇帝が天をまつる儀礼を行う壇。漢代以来、都城の南郊に設けられるのを原則とし、圜丘とも称
した天の祭祀は冬至に行われる。つまり、天を祭る円丘である。
皇帝祭祀は、南方の長江起源の祭祀と、北方の黄河流域起源の祭祀が組み合わさって成立したものという
意味もある。
倭国の前方後円墳のお話ではないよ >>917
理由もなしに言い張るだけの岡上には困ったもんですねw
理論的に反論していただきたい。
理由が言えないのですか? >>919
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國」
主語は省略されてるけど女王卑弥呼だな
女王卑弥呼が一大率を自女王國以北に置いて諸国を検察させている。 >>922
逃げちゃダメでしょう。
理由もなしに言い張るだけの人には困ったもんですねw
理論的に反論していただきたい。
理由が言えないのですか? >>927
ハア?
理由は
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
主語が女王国や女王卑弥呼でない場合は読み手に知らせる為に「諸國畏憚之」のよう主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている。」との意味になる
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは書かれているように自女王國以北の諸国である。
女王卑弥呼は一大率を使い自女王國以北の諸国を治めていた、つまり
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「常治伊都国」・・・(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。
まとめると意味は
「女王国の北側の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王国の北側の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ。」の意味となる。 >>928
検察してるのはだれ?
檢察諸國の主語はどこに泣いてある? >>418
>黄幢の効能は絶大だからなあ
明帝から直ではんこ貰った人がミマキイリヒコ本人なんだろ<
「南≠東」だから、×。」 >>931
この文章の前後の文章って具体的にはどれ?
本当に全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文なの?
証拠は? >>931
>女王卑弥呼が治めているのは書かれているように自女王國以北の諸国である。
東も西も南も治めてないの? >>421
>九州は一大卒に支配される属領である上に、
弥生時代通して九州とは別の祭祀を行っていた西日本地域は
ここを上に頂く理由など何もない<
嘘を付くな。
筑紫倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國 」であったんだし、
白村江の後まで、列島の盟主であった。 >>931
「常治伊都國」の動詞「治」の目的語は一体どこにあるの? >>939
目的語は普通動詞の直後だからこの場合は
伊都国 >>932
檢察諸國の主語は省略されてるけど
諸国を検察させているのは女王卑弥呼だから
主語は女王卑弥呼です。
>>936
刺史のようなのは一大率ですね。 >>428
>東征したのが神武か崇神かという違いに過ぎないな。
もはや畿内説の主流も東征か。東征したのが神武か崇神かという違いに過ぎないな。
もはや畿内説の主流も東征か。<
東征の主体は、筑紫倭国。
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」。 >>941
>刺史のようなのは一大率ですね。
その主語はどこに書いてある? >>940
じゃあどうし「治」の対象は「伊都国」だね? >>939
誰かが用例で「王治貴山城」って文を揚げてましたけど
この場合「王は貴山城で治める」治めるのは周辺の領土
「常治伊都國」の場合も「常に伊都国で治める」
治めるのは女王の領土である自女王國以北ですね。 >>944
「常治伊都國 於國中有如刺史」の主語は女王卑弥呼です
「女王卑弥呼が伊都国で治めているのが刺史のようだ。」ですから。 >>941
ということは
「前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文」
だというのは間違いだね >>945
そうなんですよ
そこがわからん人が一名いるみたい。 >>941
検察させているとかどこにも書いてないぞ
検察してるんだよ。曲解するな。 >>950
「女王卑弥呼が伊都国で一大率を使って治めているのが国中で刺史を使って治めてるようだ。」って意味。 >>948
「於國中有如刺史」は誰について説明している文なの? >>952
漢文で「してる」「させている」とかないw >>957
刺史のようなのは一大率なのだろう?
一大率についての説明文だ >>960
日本語で「させる」という意味を
漢文ではどういう字を使って動詞と 目的語を配置するかは決まってる。
ここにその構文 「使役」に対する文字がない
だから 検察させると訳すのは間違い。 ああ
今回も、ほとんどスレ主の駄弁が多く、
無駄にスレの進み具合の速いこと
wwwwww. >>434
>「鏡が移動したから畿内は九州の属国だ!」とかいう妄想の根拠など何もない<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
倭国の附庸国(=属国)。 >>434
>「鏡が移動したから畿内は九州の属国だ!」とかいう妄想の根拠など何もない<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
倭国の附庸国(=属国)。 >>959
一大率だよ
当然
それがわからん人が一名
>>961
ですよね。
主語は一大率ですよね。 文節の問題
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察
諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
(王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯)
大倭の使によって女王国以北を監視するのに一大率を置いている。
伊都国において常に治め刺史の如く、北部の諸国はこれを恐れている。
(略 訳)
邪馬台国は後の百済同様、魏と大和の傀儡蝙蝠冊封国ですな。
つまり、魏使はこれを察知したが、皇帝に報告は出来ないから曖昧にした。
裴世清が斑鳩の天皇に謁見して、皇帝の使いとして無能だった時と同じ状況。
記紀は時系列も情報も創作だが、中国史書にはこの手のメンツの取り繕いが多々ある。 「諸國畏憚之。常治伊都國。」
の「之」は一大率なのだから
これを受けて「常治」の省略された主語は一大率でいい。 一連の一大率についての説明だね
刺史のようであるのも一大率 これまで倭人伝を翻訳した人に
岡上のような変な訳をした人はいない
今後もいないだろう 「皆臨津搜露、伝送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
もちろんこれ、主語は女王卑弥呼なんかじゃないよね。 馬を鹿と呼ぶ。すなわち馬鹿。
基礎知識不足で 認識の誤りがわからんらしいよ。
認知時点でおかしいから当然文の解釈も曲がる。 はい、確定。
「前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文」
だというのは間違い。
岡上珍説無残に破綻。 >>436
捏造やらないと生きていけないのが大和説だな。 >>437
大和説は、・・・学説として死だがね 。 >>972
王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯
女王國が主語ですね。
女王國では王(女王)が京都に・・・。 >>976
これを正解とか哀れとしか言えない脳みそだなw >>969
それだったら「諸國畏憚之」も前の文を受けて諸國を省略してるはずだろw >>981
悪口雑言しか言えなくなったら
あなたは論破された人 >>983
しかし、事実は違うね。省略されてない。 「女王國では」という文で女王國が主語なのか?
そんな日本語あるのか? このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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