★★ 邪馬台国は【葛城】である ★★ [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。
わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた王朝は葛城王朝であった。 まずヒミコ最有力候補モモソ媛。
崇神の治世(4世紀初頭から前半)まで生きてたモモソ媛が248年に死んだヒミコであるはずがない。
ヒミコ=モモソ媛だという人は一体どういう時系列の感覚を持ってるのだ。
だいたいモモソ媛は一皇女である。
もはや話にならない。
これが最有力候補だなんてお笑いだ。 >>3
纏向、あれは物部の遺跡。
瀬戸内勢力を伴って大和入りしたニギハヤヒの記述と合う。
寺沢薫のいう筑紫、吉備、讃岐、播磨の要素と見事に合う。 橿原考古学研究所の寺沢薫さんは纏向古墳群について「筑紫、吉備、讃岐、播磨」の要素と言っておられます。
これは先代旧事本紀・第3巻天神本紀にある、ニギハヤヒに随伴した九州〜瀬戸内の物部集団の記述に符合します。
筑紫贄田物部、筑紫聞物部、播麻物部、讃岐三野物部などなどです。おそらくその主体は吉備でしょう。
さらに、
3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳ですが、その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室があります。
不思議なことに300年以上も経過してから突然、横穴式石室が作られたことになります。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。
6世紀後半、桜井を支配したのは物部守屋です。
・日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてきたのであり、14mの横穴式石室を作ったのは物部氏という事になります。
造った理由はホケノ山古墳が物部の氏神墓だからでしょう。(被葬者はウマシマジまたはヒコユキか)
さらに、
大王で初めて桜井に宮を構えたのは10代崇神天皇ですが、お母さんは物部氏の伊香色謎命ですので、
母親の実家で子供を育てたと言われる時代を考えると、桜井が伊香色謎命の地元であり、
つまり桜井は物部氏の土地だったことになります。
さらに、
4世紀初頭と言われる崇神時代は物部氏では伊香色雄命の時代ですが、遡ること6代でニギハヤヒですので、
当時の平均寿命から計算して1世代20年で最古の纏向石塚古墳の時代(2世紀末)と合います。
※他にも根拠がたくさんあるのですが割愛します。
【結論】 纏向遺跡とは物部氏の遺跡である。纏向に卑弥呼はいない。 大阪の堺から大阪南部まで頭の程度がガチ低い
紀州和歌山は頭いいと思うけど ほれ。弥生時代すでに物部(モノノフ)集団は武力で九州〜瀬戸内を守っている。
https://goo.gl/m2KfqU
これで九州に女王の住む都があったなどと考える人はいないであろう。
女王の住む都は畿内にあった。 ニギハヤヒは神武に屈した。
その時点でニギハヤヒは王ではない。
では神武が王か?
違う、記紀では彼は終始「天皇」と表記されている。
しかし7世紀以前に天皇という称号はない。
したがって神武には称号がない。
つまり彼は王ではない。
神武の時代、王は別にいた。
それは3代安寧の后ヌナソコナカツ媛の父「鴨王」だ。
日本書紀で神武の血統ではないのに「王」と表記される異色の人物だ。
この王の名はクシヒガタ。
神武の義理兄にあたる。
つまり
クシヒガタ>神武>ニギハヤヒ
という序列だ。
これで王権がどこにあったか分かるだろ。
葛城だ。
ヒミコは葛城にいた。 崇神が4世紀初頭〜前半の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世が真剣に卑弥呼は誰か考えたあげく、
神功皇后だとするわけがない。
神功皇后の時代が大きく引き伸ばされトンデモない時代設定であることは誰でも分る。
彼らは記紀編纂者が時代を大きくずらしたその意図を見抜き、
その心理を理解し、なおかつ自分たちもそれに同調した。
真実を知らない方がよほど幸せなこともある。
しかし現代の日本人は中国へのコンプレックスなど微塵も持ってない。
明治人が日清戦争で取っ払ってくれた。
だからかつて日本が中国に朝貢してたことも余裕で受け止めれる。
そういう時代だからあえて言おう。
帥升とはスサノオだ。
つまり日本の歴史は後漢・安帝への土下座から始まった。
卑弥呼とはヒメ踏鞴だ。神武は大王ではない。
邪馬台国は葛城だ。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 210年 神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
310年 崇神 卑弥呼は初代皇后であったスレと重複だろうが。
なにコテハン外しているんだよ! 誰にも相手にされないスレを覗きに来てやっているんだ。
ありがたく思え。 >>19
物部で最高位まで上り詰めた女性はウツシコメ、イカガノシコメ。
2人とも天皇を産み皇太后を名乗る。
しかし卑弥呼と時代は合わないし、名前も全然違う。
無理。 卑弥呼の墓
@前方後円墳なら卑弥呼の没以前に完成しており、埋葬部の工事に数日かかった。
魏使はその墳墓全体を径百余歩と記述した。
A神武など初期天皇の墓のように天然の山や岡を墓域とした。
魏使はその山全体を径百余歩と記述した。
B王族の代々墓が存在し、ヒミコはその一角に埋葬された。
魏使はその代々墓全体を径百余歩と記述した。
@もAも候補はない。
Bは候補がある。
纏向ごとき低地の下界を見下ろす神々の地に墓域は存在する。
その代々墓全体が径百余歩である。
その場所は高天原(御所市高天)である。
今も日本最古の神社の御神域となっている。
見ていただきましょう、これがその御神域の塚です。
https://goo.gl/DA7WRZ 箸墓の建造開始時期「布留0式古相」を強引に250年頃にしてヒミコ墓だとする勢力がある。
歴博の春成などその代表格である。
しかしヒミコ死後ピッタリに建造したとしても完成まで10年。
10年間も殯を行うわけがない。
つまりヒミコ=箸墓説なんて無理。
だいたいヒミコは既に高齢だ。
自分の墓くらい用意してただろう。
B王族の代々墓が存在し、ヒミコはその一角に埋葬された。
魏使はその代々墓全体を径百余歩と記述した。
これが正解であろう。 >>21
纏向にはホケノ以前にも多数の古墳があるのをご存知でしょうか?アマチュアさん? 葛城のタカミムスビ神(高木神)のところに嫁入りしたのが南九州の王女卑弥呼だな
倭国大乱を収めるために、南九州と葛城が同盟を結んだ
同盟の条件が卑弥呼の嫁入りだった
一時は高木神が倭国王となるが国内(特に北部九州)が納得せず、卑弥呼が葛城で女王となるとやっと北部九州も納得した
だから神武東征じゃなくて卑弥呼東征だったわけだ
そして卑弥呼の孫が北部九州を監視するための官ニキ=ニニギとして「天孫降臨」したわけだ
ヒメ大神の伝承地が南九州から宇佐、四国、奈良に残ってる
卑弥呼=神話のアマテラス=南九州から葛城に東征
神武なんていなかった >>23
だから何なんだろ。
おまえの少ない脳みそでヒミコ墓候補を絞ってみ。 >>24
>倭国大乱を収めるために、南九州と葛城が同盟を結んだ
>同盟の条件が卑弥呼の嫁入りだった
それはけっこう面白い意見だと思う。
というのもヒメ踏鞴五十鈴は日向人の神武と結婚、
ヒメ踏鞴の兄、クシヒガタも日向賀牟度美良姫と結婚する。
兄妹そろって日向人と結婚。
>同盟の条件が卑弥呼の嫁入りだった
これは全然あかん。
家制度がない当時、嫁入りなんて制度がない。
むしろ神武の婿入りを考えるべき。 日本書紀で神武とされてるのは高木神
その高木神に嫁入りしたのが南九州の王女卑弥呼=日向姫=アマテラス
(第一の東征)
4世紀初頭に物部系の崇神が大王位につき首都が三輪に移転、葛城は大王位を明け渡す
4世紀〜6世紀は物部が河内・大和を支配した磐石の時代(倭王旨=ウマシマジ〜倭の五王、朝鮮半島南部を支配)
仏教論争を経て6世紀末に葛城分家の蘇我が大王位を奪取(奈良の明日香)
7世紀にアマテラスを輩出した九州の勢力が白村江の敗戦により置かれた唐の占領から逃げるように畿内に侵入
(第二の東征)
北部九州、南九州、河内、三輪、葛城は古くから血縁関係で結ばれた同盟国(ただし同盟内で勢力争いが起こるのは世の常)
その同盟国内における大王位の変遷の歴史を「万世一系」の神話として捏造したのが日本書紀だよ >>26
卑弥呼=ヒメ大神=アマテラスの伝承は南九州から大分、四国、奈良に残ってる
東征のルート ほんま伊勢尾張の勢力は無視されるんだな。
元伊勢の分布を見ても、アマテラスは伊勢の勢力。 天武が沖縄を訪れたときの碑が残ってる
https://www.google.co.jp/amp/mintun.exblog.jp/amp/20352889/
天武は大化の改新の混乱を逃れて南九州にいた
南九州はアマテラスの出身地
南九州勢力の力を借りて兄天智の近江王朝を滅ぼし奈良で即位
アマテラスを最高神に格上げした アマテラスの扱いが7世紀から変わってるからな
それまでの歴代大王は伊勢神宮なんかぜんぜん参拝してない
それまでアマテラスは中堅どころの神にすぎなかった 「日本の天皇が中国に朝貢していた歴史などあってはならん」と言った本居宣長は、
朝貢していた歴史があったと知ってるからこそそう言ったわけだ。
本居は【最悪】の事を考えただろう。
最悪とは、始祖王にして最高神スサノオが倭國王帥升であるという事だ。
スサノオ自ら海を渡り中華皇帝安帝に土下座。
こんな史実、当然あって欲しくはなかったが「あったのではないか」と仮定しただろう。
ならばスサノオから約100年後のヒミコやトヨって誰だ?
ヒメ踏鞴、天トヨ津だ。
ヒメ踏鞴は「年已長大 無夫壻」の記述通り寡婦である。
住んだ場所は葛城である。
では夫であった神武の東征紀って何だ。
あれは女王国であったことをごまかすための大袈裟な記述であると見抜いただろう。
でも言えない。
今の日本人は中国を見下せる。劣等感なんてこれっぽっちもない。
でも昔は違う。
大国・中華の精神的クビキが日本人を覆っていた時代だ。
だから自分が気付いたその史実を封印し、熊襲の女酋長という奇説でごまかしたのだ。
つまり邪馬台国論争なんて1分で終わってた話なのだ。
なにが300年論争だ、バカ者が。 >.30
乙巳の変で倭國の蘇我氏が畿内ヤマトにだまし討ちされて筑紫倭國が占領
されたので、筑紫倭國の天武は南九州に非難したんだろう >>26
クシヒカタの嫁は
神門家じゃからアジスキタカヒコネの実家やど。
日向人と違うど。 >>35
誰も日向から嫁に来たなんて言ってない。
日向人(日向ゆかり)と言ってる。
アジスキタカヒコネ=スサノオのいた所なら高天だ。
何も問題はなし。 >>32
>ヒメ踏鞴は「年已長大 無夫壻」の記述通り寡婦である。
寡婦じゃないよ。
神武の死後は、手研耳と再婚したろ。 >>39
結婚し、亭主に先立たれ(寡婦)、また結婚し、先立たせた(寡婦)
寡婦の時期が2回ある。
タギシミミは、
【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】
だと見ている。 葛城は纒向の前の時代じゃないのかな
卑弥呼の前つまり倭国大乱の前の大和朝廷の中心地 >>42
葛城の時代がトヨ=天トヨツで終わりかける頃に磯城の纏向に箸墓古墳ができる。
おおよそ270年頃か。
これは物部が外威となって実権を握ったことを意味する。
7代孝霊天皇の頃だ。
実際、6代孝安までは宮が葛城、7代孝霊以降は脱葛城。
つまり卑弥呼は葛城にいたという事。
葛城を祖地とする蘇我が6〜7世紀に実権を握るが、これは300年前に磯城の物部がやった事。
やり返したわけだ。 奈良県ローカルの話しを邪馬台国と結びつけるなよ。
かっぺのくせにうざいな。 宗像の姫大神が、
軍神のアマテラスって書いてた人いた。
初代アマテラスが卑弥呼で、2代目がトヨかな? ちなみに、
宇佐の後ろの正面は、
ゾロアスター(エリシャ)です。 高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。 鴨厨にも功績はある。
ナガスネヒコがなぜ外来のニギハヤヒを王として迎えたのか、わからなかった。
登美の一族が出雲の事代主の末裔であれば、すでに出雲の国譲りの時に高天原のアマテラスに降伏しているので、その末裔であるニギハヤヒに従僕するのは当然だったのだ。
しかしそこにイワレビコが現れて戦いとなったので、行き違いが生じてしまった。
ナガスネヒコを倒したあと、イワレビコはあらためて登美の一族、三輪山の神の娘であるイスケヨリ姫を娶って、奈良盆地の一部に住む場所を得たのである。 >>1
違います
葛城は九州からやってきた後の神武が大国主の一族の娘をあてがわれて住むことになった土地です
邪馬台国ではありません 俺みたいなド素人だと、
アマテラスが現日本の国体神で、
日本統治の最初の人物が卑弥呼とするなら、
アマテラス=卑弥呼=皇族と
考えてしまうなあ。
どっちも女神だし。
じゃあ、もう一柱の女神の、白山菊理姫はだれだったのかだが。 記紀神話は女神だらけだよ。
それと、昔はアマテラスは男だと考えられていたらしい。
実際、天孫族は男系を優先する家系なので、アマテラスが女なのはおかしいんだよね。 そら卑弥弓呼の系統の話をアマテラスに書き換えたものだから。
アマテラスの逸話は元々はすべて卑弥弓呼の系統の話。 イザナギ→アマテラス神話は卑弥弓呼の系統について書かれたもの。
卑弥呼をアマテラスと重ねるようにミスリードしたんだよ。 勝者が敗者の血統や神話を奪うんだよ。
神武とニニギの関係もそう。ニニギは元々伊都国の話。
伊都国を支配下に置いた神武の勢力が伊都国の血統と神話を奪ったんだね。 >>59
バカジャネーノ
普通に神武が伊都国王の末裔でいいだろ。 >>53
>葛城は九州からやってきた後の神武が大国主の一族の娘をあてがわれて住むことになった土地です
あてがわれてというのは一方的な目線だけど、まぁそうだよね。
>邪馬台国ではありません
なんで?
推定で崇神から6世代前。
この時代の最高位の女性の名前が歴史上もっともヒミコに近い。
また神武死後、寡婦である。
邪馬台国の王都はここしかない。
違うというなら対抗軸としてもっと有力な誰かを出してみて。
ほとんどの人が対抗軸の人物を出せない。
自分が出せないのに出してる俺に文句ばかり言うのだ。 >>55
>日本統治の最初の人物が卑弥呼とするなら、
卑弥呼の擁立の前、2世紀前半から男王がいるわけで、
卑弥呼はその男王の王朝から出たわけだね。
纏向に卑弥呼がいたなんて言う人は、2世紀前半の男王を説明できない。
纏向は2世紀末からだからね。 >>62
俺、浅学で、
邪馬台国、卑弥呼より前の時代のこと全く知らないんだ。
確か、57年に何かあったよね。
ちょっと歴史を教えてもらえませんか?
倭の五王っていうのもいたんだっけなんだっけ。 邪馬台国はヤマトですよ
ご先祖様が土蜘蛛や蝦夷の人はヤマト嫌いの血が騒ぐので反発しているのです
いわゆる部落の人達ですね >>63
>57年に何かあったよね
金印の倭奴国か。
俺はあの金印を疑ってる。
卑弥呼より前は2世紀前半に其の国に男王がいて、
70〜80年してから倭国大乱、
そして卑弥呼共立。
この2世紀前半の其の国の男王を説明しないといけないのに、
纏向説の連中はそれが全然できてない。
こいつら論外。
倭の五王は5世紀。
記紀ではこの時代の天皇の没年干支をわざと違わせ、
誰であるか比定出来ないように細工している。
プライドとして「朝貢」をとにかく気にしていた証拠。 >>65
一連のおバカ発言はこいつか
ことごとくズレてんだよね
オツム弱いんだろな >>66
どこがズレてるのか説明せよ。
まぁどうせできないのだろうが。 記紀では神功皇后を120年ずらして卑弥呼に当てはめている。
そこまでしても隠さねばならなかったのが実際の卑弥呼である。
アマテラスやモモソ媛が卑弥呼なら隠さねばならない理由がない。
唯一、ヒメ踏鞴五十鈴媛のみが隠さねばならない理由がある。
ヒメ踏鞴五十鈴媛自身に問題があるのではない。
彼女の5世代100年前の人物に問題がある。
つまりスサノオは倭国王帥升だ。
スサノオ自ら渡海、後漢の安帝に跪き土下座。
日本の国史を「安帝に跪き土下座」から書けない。
だから神武をBC660年というトンデモない時代にずらし、
さらにスサノオを神話化したのだ。 朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
倭国王帥升とはスサノオである。
卑弥呼がヒメ踏鞴だと分かれば帥升がスサノオだと分かってしまうのだ。
記紀編纂の際、朝廷が最も恐れた事だ。 >>71
自分から会いに行って皇帝の前で突っ立ってるわけないだろ。 記紀は神功皇后を120年ずらして卑弥呼であるとしてますから、
まず神功皇后を元の時代である4世紀後半に戻し、
そこから神武の時代を想定してみるのが良いと思います。
まぁ2世紀〜3世紀というところでしょう。
記紀では神武以前の王朝の事がチラッと書かれてます。
神武はヤマトで事代主神の娘と結婚します。
「神」「主」
つまり出雲系大物主、事代主、
彼らが魏志の2世紀前半にいた其国の男王の系譜だとしか考えられません。
実際、神武の義理兄を日本書紀では鴨王としてます。
神武ではない「王」がいたという事です。
義理兄の鴨王とはクシヒガタですね。
考古学的にも弥生時代にはすでに北部九州や瀬戸内を武力で固めて防衛してます。
https://goo.gl/m2KfqU
これは畿内に都があった何よりの証拠です。 手品師が「私の右手のカードをご覧ください」と言った時、
なにやら左手でコチョコチョしてるものです。
同じように、
記紀において神武東征はハイライトです。
手品師の持つ右手のカードと同じなのです。
ここに読む人の意識を集中させてるのです。
だれもこの時代が実は女王国だったなんて発想はしないでしょう。
神武東征紀とは、実際には女王国であったのを男王国だと思わせるために書かれたものなのです。 結局、奈良盆地には3世紀以前のものと断定できるものがほとんどない。 >>73
事代主=大物主。
事代主家=葛城の登美家。ルーツは出雲王国の東の王家、富家。
出雲王国第8代少彦(スクナヒコ/副王の役職名)で有った八重波津身命(後にツミ・ハ・八重事代主に改竄。名前をあべこべにする一種の呪詛)が渡来人某ら(天津神)に謀略を以て殺害されて、
御子の1人、奇日方命と妹君ら(タタラ五十鈴媛と五十鈴依媛)が母親と共に一時期実家の摂津の三嶋(高槻市あたり)に逃避。
後に葛城に移り住んで登美家と号して父親を祀ったのが鴨都波神社(葛城の下鴨神社/事代主神)の始まり。
併せて三輪山に父親の御霊と出雲族伝来の太陽の女神(オオヒルメのムチ)を祀り、
その初代祭主に登美家天日方奇日方命の妹君で初代大倭国(葛城(出雲の分家/鴨族)、丹波連合王国)大王、天村雲命の大后の媛タタラ五十鈴姫命が就任。
(二代目祭主は妹君の五十鈴依媛命)
登美家、並びにその血統の姫御子(ヒメミコ/姫巫女)が代々祭主を努める(大物主=八重波津身命で直系の先祖)
因みに、後の太田田根子命も天日方奇日方命の登美家(事代主/大物主家)の子孫故に三輪山の祭主に成れた 高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。
そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。
そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した。
奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。
九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。
蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からないが、筑紫にいた武内宿禰の末裔と言われる。
古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。
蘇我大臣家と天皇家が物部大連家を滅ぼし(物部戦争)、次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。
こうして天皇家が畿内の覇者となった。 ■比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
ttp://www.buccyake-kojiki.com/archives/1002618084.html
イスケヨリ - 神武皇后、スカトロ的出生譚の美女
東遷完了後の初代天皇・神武天皇が改めて嫁取りした際に選ばれた皇后。二代天皇・綏靖天皇の母。
母親がうんこしている時に、オオモノヌシが化けた赤い矢が女陰に突き刺さったことで誕生する、というスカトロ的な出生譚を持つ、絶世の美女。
当初名前が出生譚にちなんで「ほとたたらいすすきひめ」となっていたが、ほと=女陰を嫌って、比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)に改名。
「ホトと呼ばないで!」という名言を残す(?)
神武天皇がイスケヨリとの合体を楽しんで述懐した歌を送られている。 >>76
>結局、奈良盆地には3世紀以前のものと断定できるものがほとんどない。
あるよ。
唐古鍵遺跡、大福遺跡、鴨都波遺跡、四分遺跡、平等坊・岩屋遺跡などなど多数。
しかし王墓がない。
これは前方後円墳を王墓と決め込んでいるからだ。
それならば3世紀以前にはない。
ただし、神のいた場所に墓域がある。
神とは神武を迎え入れた事代主神のいた場所、葛城だ。
下界を見下ろす高天原(御所市高天)にある高鴨神社の御神域は明らかな人為塚。
高鴨神社社殿は孝昭天皇の頃に創建、
つまり人為塚はそれ以前のものだ。
孝昭天皇の頃とは3世紀中〜後半、トヨの時代だ。
これはもう偶然ではあるまい。
ヒミコこと事代主神の娘・ヒメ踏鞴五十鈴の墓はここだ。
https://goo.gl/nq8fJu 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 >>81
>金印や
まさか国宝だから本物で正しいとは思ってないだろうね?
あれを国宝にしたのは昭和6年満州事変の年。
強い政治的思惑があったのだ。
>八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
崇神が手元に置いてて放逐した鏡ね。
あれは物部の祭器。
崇神はお母さんが物部のイカガノシコメ。
だから「曾根」遺跡群の平原から同じものが出た。
曾根の語源は不明だが池上曽根遺跡(二田物部)や中世の武家曾根氏など、
物部と強く関わっている名称だ。
平原は防人集団モノノフの墳墓であろう。 >まさか国宝だから本物で正しいとは思ってないだろうね?
本物だね >>82
江戸時代からあったのだから、そんな屁理屈が通るわけない。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 「大都市の江戸が現在の東京に出現して江戸時代が続いたのだから
江戸幕府は東京だった!」
「うん、そうだね」
「じゃあ、江戸を作ったのは誰だったんだろうね」
「江戸に決まっている」
「じゃなくて、江戸はその直前までど田舎だったでしょ?
それまでの関東最大だった小田原城も滅亡してるし
外部から誰かが来て江戸を作ったとかは?」
「ゴミクズ!」
「初代大名の徳川家康はどこ出身だったんだろう?」
「総花的に江戸に決まってるだろゴミクズ」
「岡崎に幼少時の竹千代伝承が集中してるんだけど」
「出た!得意のダニ的解釈www
岡崎城は徳川家臣の城であって徳川家とは無関係
むしろ服従する立場だった
江戸時代を勉強しなおしてこいゴミクズwww」 ■比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1002618084.html
イスケヨリ - 神武皇后、スカトロ的出生譚の美女
東遷完了後の初代天皇・神武天皇が改めて嫁取りした際に選ばれた皇后。二代天皇・綏靖天皇の母。
母親がうんこしている時に、オオモノヌシが化けた赤い矢が女陰に突き刺さったことで誕生する、というスカトロ的な出生譚を持つ、絶世の美女。
当初名前が出生譚にちなんで「ほとたたらいすすきひめ」となっていたが、ほと=女陰を嫌って、比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)に改名。
「ホトと呼ばないで!」という名言を残す(?)
神武天皇がイスケヨリとの合体を楽しんで述懐した歌を送られている。 >>84
江戸時代なら黒幕は江戸幕府だろう。
新井や本居が心にもない九州説を唱え、
古代大和朝廷の朝貢という重い史実をごまかそうとした。
江戸幕府もそれに同調したのであろう。 >>88
発見後の金印は筑前藩主である黒田家に代々伝わり1978年に福岡市に寄贈された。 由緒正しきものを国宝にする事に何も文句はない。
しかしその由緒が、
「百姓が畑を耕してたら大きな石があって…」
「その石はどこにあるの?」
「さぁ」
こんな由緒があるか馬鹿野郎。 軍部「皇紀2591年,柳条湖事件に端を発し、皇軍は,5ヶ月の間に満洲全土を占領、軍事的にはまれに見る成功を収めた」
Q: へぇ…皇紀2591年という事はシナに朝貢してたのは天皇家ですか?
軍部「……」
軍部「あの偽物の金印を国宝にしろ。朝貢してたのは九州と言う事にしたい」 >>88
江戸幕府がどうやって見たこともない金印を偽造できたのか立証しない限り、世間はゴタクとしかみなさないよ 国宝に指定するのと何の関係があるのか、さっぱりわからん。
石の下から見つかったのが信用できないなら、ますます伊都国細石神社説が有力じゃないか。 畿内説は、誰かを納得させようという気はさらさらないんだな。
ただの妄想にとらわれて夢でも見ているんだな。 別に、畿内説でも九州説でも、
真実ならどっちでもいいいんだよ。
問題は、客観的にほぼ確実だという
論拠がほしいってこと。
まあこう言っても、
俺はド素人だから
何も証左できないが。
ごめん、アタリマエのこと言ってしまったが、
あまりにも曖昧な意見多くてつい。 江戸時代に「漢委奴國王」印なんて何の為に偽造する必要があるんだ? >>96
九州北部伊都国を都とする倭国という国があって、その王が金印をもらった。
卑弥呼がその後を継いで女王になった。
金印はその後も江戸時代まで伊都国に保管されていた。簡単だ。 >>92
金印偽造説のテクニカルな問題は三浦佑之氏が書いておられる。
国宝になったのだから正しいのだは通らない。
出自がいい加減であることは変わらないので根拠にはならない。
>江戸時代に「漢委奴國王」印なんて何の為に偽造する必要があるんだ?
新井や本居が九州説を言い出したのと同じ。
古代大和朝廷および天皇が朝貢してた事という事実をプライドとして認めたくなかった。
九州にあった邪馬台国ががやったことにしたい。
それが理由だ。 >>98
そんな辺鄙な場所に王都などない。
カッペは自惚れるな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています