★★ 邪馬台国は【葛城】である ★★ [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。
わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた王朝は葛城王朝であった。 >>820
>古代出雲の東と西の二つの王家
それは面白い。
出雲でも四隅突出墳墓と銅鐸が一致していない。
それぞれ別の勢力(王家)であったのか。
加茂岩倉遺跡との兄弟銅鐸が近畿一円に出る。
しかし畿内に四隅突出墳墓は出ない。
分りやすく言うと、弥生後期あたりは、
山陰出雲(四隅突出墳墓)VS大和出雲・葛城(銅鐸)
なのかもしれない。
国譲りとは葛城の高天原(御所市高天)から派遣されたタケミカヅチによるものかもしれない。
葛城には高木神社と言うタケミカヅチを祀る小さな神社がある。
式内社かどうかも不明だ。
この神社は本物ではなかろうか。 >>819
媛踏鞴五十鈴姫は、葛城の登美家初代のヒカタ(天日方奇日方)命の妹君。
父君は出雲の正当。東王家の富家又は向家(コレ重要)の当主で出雲国スクナヒコ(副王)で有った、八重波津身。
(→事代主にされた。ツミ・ハ・八重・事代主(=副王の意味)は八重波津身の御名をあからさまに反転した呪詛)
母親は三島(大阪府高槻市あたり)から嫁いだ生玉依姫(この御名は巫女を意味する)
また、媛踏鞴五十鈴姫は父君の御霊を三輪山に祀り初代の祭主、日女命(ヒルメの命=ヒミコ)に就任。
葛城の神(カモ)族らは丹波から大挙して侵入侵攻してきた天香語山命(五十猛)〜、
その跡を嗣いだ天村雲命を認めて大王と推戴すると共に
葛城勢力からは媛踏鞴五十鈴姫が后に嫁ぐ事で大倭国/丹波葛城連合王国が成立。
(初代神武から9代までの天皇は天村雲命流の大王家(海海部/尾張氏)の系譜。
但し、事績は別人。
また、神武の即位年(2600数十年前)は出雲国が王政を開始した年代。我が国最初の大王と言う事では間違いではない))
三輪山の二代目祭主も実の妹で、二代大王后の五十鈴依日女命。
三代目祭主には天日方奇日方命(登美家初代)と神門美良媛命(高彦/味耜高彦(神門臣家/葛城の高賀茂家の祖)の妹)の女(第三代大王后)がそれぞれ日女命(大倭日女命)に就任。 3世紀の畿内は倭地に過ぎない。
後漢書でも魏志倭人伝でも、倭国の中枢は九州北部。 >>824
>出雲でも四隅突出墳墓と銅鐸が一致していない。
時代が違う。
>国譲りとは葛城の高天原(御所市高天)から派遣されたタケミカヅチによるものかもしれない。
高天原は天津国、対馬海峡。
だからこそ日本海側の権益を独占するために出雲を倒して、邇邇芸が筑紫に、饒速日が関西に派遣された。
内陸の葛城など、お呼びではない。 >>824
>葛城には高木神社と言うタケミカヅチを祀る小さな神社がある。
>式内社かどうかも不明だ。
格式のない小社が何を偉そうにしているんだ。 ■比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1002618084.html
イスケヨリ - 神武皇后、スカトロ的出生譚の美女
東遷完了後の初代天皇・神武天皇が改めて嫁取りした際に選ばれた皇后。二代天皇・綏靖天皇の母。
母親がうんこしている時に、オオモノヌシが化けた赤い矢が女陰に突き刺さったことで誕生する、というスカトロ的な出生譚を持つ、絶世の美女。
当初名前が出生譚にちなんで「ほとたたらいすすきひめ」となっていたが、ほと=女陰を嫌って、比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)に改名。
「ホトと呼ばないで!」という名言を残す(?)
神武天皇がイスケヨリとの合体を楽しんで述懐した歌を送られている。 お前の産んだ子(俺の子ではない)ではないんじゃないのか?
という神話
養子か何かのかな、そのような人物がいなかった、
断絶とか絶家となっている人物
本当は、現れて、すぐに断絶(絶家)したのかな? 『松傾』?
社家、絶家と書いてあったり、本系は途絶えているのかな >>825
神武がイワレに至ると金鵄が飛来して神武の弓先に止まり、、、
神武(イクメ大王=垂仁)は葛城の王(カモ)族の登美家(金鵄。金(支配権力を有する)鵄(トビ))の内応(前大王家をみかぎり裏切〜手引き)を取り付け、味方にした事で平定が成った事の比喩
葛城のカモ族(神族=王族)の協力、承認、恭順無しには大王とは成れなかった?
〜時代が下り、雄略の頃に成ってもその権威権力の構図は歴然として残っていた故に
雄略は自ら挨拶に出向き〜承認を得る必要が有ったのを、葛城に狩りに行幸云々に誤魔化した? 山守、山のカミ?
『日本昔話 姥清水』
誰が考えても、この話だしな〜 『絶家』?
明治時代になり・・・一般人になったという意味なのかな、捏造? 大物主=事代主、、、。
この点はキキ神話は真実を伝えています。
後々、崇神天皇(崇神本人は宮崎で崩御。実際には垂仁(=神武/崇神))が太田田根子を召し出して氏素性を問いただす行で、三輪山の神の正体をネタばれさせて明らかにしています。
天日方奇日方命(葛城の登美家初代)の直系子孫だと明言。
この家系、血脈(子孫ら)でないと三輪山の神様の祭祀は出来ません。(崇神/垂仁らは赤肌の他人故に祭祀は出来ません) この人物の話だよ
『社家 絶家 (須) 王』
あのキュウリの葉・・・の写真の家? キュウリの葉、葱の華・・・の写っている写真でしょ、
確実に家の先祖の写真なんだけど
悪く言うと
騙りのような家があるのかな
川崎に住んでいるんじゃないの?
とか
このような事を言っている人がいたり たまに九州説スレでも呟いているけどね。
畿内説が不利になるとたくさんつぶやくみたい。 >>828
>格式のない小社が何を偉そうにしているんだ。
葛城の高天の麓にあるというだけでいいのだ。
防人の土地九州にあっても何も意味がない。 事代主って元々亀岡〜丹波の豪族じゃないのかな。
二世末卑弥呼を共立し、大和征伐に加わったんだろ。
卑弥呼を共立した30ヶ国の中では新参者だから、同じく新参者の投馬国神武と共に葛城辺り、即ち対河内の狗奴国の前線に配置されただけだろ。 >>844
>葛城の高天の麓にあるというだけでいいのだ。
めちゃくちゃダブルスタンダードだな。
なんの謂れもない勝者だろ。
高天原を名乗る地名なんて全国にたくさんある。
なんの根拠もない。 >>846
>高天原を名乗る地名なんて全国にたくさんある。
ほとんど謂れがないよね。
特に九州なんて。
一番謂れのある御所市高天の麓に忘れられたように高木神社がある。
小社だがいつできたか分からない。
それでいいではないか、おまえがごちゃごちゃ言う事ではない。 >>827
>>出雲でも四隅突出墳墓と銅鐸が一致していない。
>時代が違う。
時代が違うから一致してないと言ってるわけだ。
何言ってんだおまえ。 次は、その剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>823
スクナ と オオナ だよ
後代のスクネ(副将軍)とオオネ(将軍)
オオナムチは八千矛の神なんだから九州(銅矛圏)の軍人だよね
スクナヒコは記紀神話の通り、在地の人間ではなく降臨してきた天神でしょ
天神系だからヒコ=日子なわけじゃん
つまりこれも対馬〜北部九州の海人族
それが同盟して出雲にまで進出したという話だよね
で、オオナムチと同じ「ムチ」がつく神はオオヒルメムチ=アマテラスだけ
古代の版図と神の系譜がわかるだろ? だから結局は天孫と物部が同盟して九州から出雲に進出したという「プレ神武東征」なんだよね >>847
>小社だがいつできたか分からない。
そういうのを謂れがないというのだよ。
博多住吉のように、イザナギが禊をした地です、と伝わっていたりするのを、謂れがあると言う。 >>848
>時代が違うから一致してないと言ってるわけだ。
>何言ってんだおまえ。
それが何の意味があるの? >>853
イザナギが禊をした地?
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指しています。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られています。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)
面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々です。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもありません。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>854
それが何の意味があるの?というレスに何の意味があるんだ。
ややこしいバカは来ないでくれ。 >>853
>博多住吉のように、イザナギが禊をした地です、と伝わっていたりするのを、謂れがあると言う。
住吉である時点で神功皇后時代だよね、そんなに古くはない。
「イザナギが禊」の謂れは宮崎に負けるよね。
まぁ福岡ごときは哀しい防人の土地でしかなかったからねw >>857
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られるので、
後代に、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのだろう。 @阿波 >>857
>住吉である時点で神功皇后時代だよね、そんなに古くはない。
はあ?
イザナギが神功皇后の時代かよ。
めでたいな。 >>859
>イザナギが神功皇后の時代かよ。
あのなぁ住吉神社だから創建は神功皇后時代以降であろう。
しかしそれとは別に「イザナギが禊」という謂れもあるという話だな。
しかし残念ながらその謂れは宮崎の方がはるかに有力だという話だ。 10代崇神天皇が4世紀初〜前半の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→「ヒメ」タタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメ 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマ「トヨ」ツヒメ
D孝昭→ヨソタラシヒメノ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。 魏志の【年已長大 無夫壻】とは神武の死後にヒメ踏鞴が寡婦であった状況であろう。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home >邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
根拠無し >>860
>しかし残念ながらその謂れは宮崎の方がはるかに有力だという話だ。
なんで宮崎なんだよ。
筑紫の日向の小戸は福岡市西区小戸で、今日ではヨットハーバーとして有名なところだよ。
なんで宮崎? 多々良五十鈴姫を祭る神社は率川神社。
現在は奈良県奈良市本子守町にある。
また、住んでいたところというなら、大神神社のある奈良県桜井市であったろう。
出だしから間違っている。 そもそも本来の名前は「ほと」たたらいすけより姫だし。 ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混まじつていました。
そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、
大和の國のタカサジ野のを
七人行く孃子おとめたち、
その中の誰をお召しになります。
このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前さきに立つておりました。
天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番前さきに立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、
まあまあ一番先に立つている娘こを妻にしましようよ。
ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目さけめに黥いれずみをしているのを見て不思議に思つて、
天地間てんちかんの千人にん勝まさりの勇士ゆうしだというに、どうして目めに黥いれずみをしているのです。
と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、
お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥いれずみをしております。
と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。
そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢やすみになりました。
その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合やまゆり草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。
山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、
アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆むしろを清らかに敷いて、
二人ふたりで寢たことだつたね。 >>864
お父さんの事代主と一緒に葛城へ。
だから結婚相手の神武の宮も葛城、
子供である綏靖天皇の宮も葛城。 >>865
思春期に名前を変えたのなら昔の名前は関係ない。
最初からヒメ踏鞴と書けばいい。
にもかかわらずなぜ古事記でホトタタラなどと書かれてるか。
ヒメ=ヒミコの印象から遠ざけようとしたため。
だいたいこの話自体が嘘だし。
記紀ともに「ヒメ」だったらだれでも卑弥呼を連想するだろ。
アホのおまえでも。 >>863
>なんで宮崎なんだよ。
アホのおまえ以外はみんな宮崎だと言ってるからさ。
ここね。
http://www.odo-jinja.jp/
悔しいのう、宮崎のようなこんな立派な神社が福岡になくてwww
>筑紫の日向の小戸は福岡市西区小戸で、今日ではヨットハーバーとして有名なところだよ。
今日ではヨットハーバーとして有名だからって何で小戸の証拠になるんだよwww
カッペには困ったもんだwww 阿波は畿内でもないし、地政学的に辺境の地。
流刑の地の一つだしね。
倭国の中心たり得ない。 流刑の地は土佐。
雄略の時代に葛城一言主が土佐に流されたことでも分かる。 >>872
>悔しいのう、宮崎のようなこんな立派な神社が福岡になくてwww
ええと、住吉神社が立派ではないと。
信じられないアホだな。 阿波 鳴門には「葛城神社」がある。
「葛城神社」は鳴門市北灘町粟田に鎮座し,一言主神(ヒトコトヌシノカミ)をご祭神とする。
縁起文中にある「藤葛にて馬がつまづき神は落馬され…」とあるが、注文すべきは「藤葛」というキーワード。列びは前後逆になるが「葛藤」という言葉がある。
「葛藤」とは「藤原氏」と「葛城氏」の因縁から生まれた言葉。
また、「葛城神社」では境内に古墳があったり、古代の遺物が発掘されている。
そして天円山一帯は特に重要な地域で、古代史に詳しい人は「萩原墳墓群」をご存知であろう。
土佐国流刑については,土佐一宮土佐神社のご祭神が一言主神であることから,神は何かの政変によって土佐国に赴任させられたのかもしれない。 @阿波 >>870
じゃあ、なんで本子守町に祭られているのだ?
適当だな。 ちょっとつつくとすぐにボロが出る、思いつきだけの糞スレ。 考古学的見地からして、ありえないだろ。
はい、解散。 ふと思ったんだが
オオクニ オオモノ オオキミ オオムラジ オオオミ オオホド オオトモ オオアマ
オオ←のほうが大事なんじゃないか? >>870
あれは持統か推古が建ててたはず。
だから何なんだ。 >>880
そうだよ。
オォが付く姓、地名が出雲系であったりする。
オオクニヌシ、オオモノヌシ、オオタタネコ >>876
雄略天皇が葛城で一言主神に出会う。
ここまでは記紀も続日本紀も同じ。
したがってこれは史実であろう。
神とは古代の高貴な人。
神とは想像上の概念であり時空を好きに移動できるというパッパラパーは黙っておけ。
雄略は葛城でこの地の主に出会った。
その人物が「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と言った。
何の事か。
この数年前、雄略がまだ大泊瀬皇子であった時に眉輪王の変が起きる。
そしてこの地の豪族・葛城円大臣(葛城 襲津彦の孫)が雄略に焼殺される。
土地も娘も差し出すと懇願する葛城円を雄略は焼き殺した。
これらは事実であり、極楽寺ヒビキ遺跡として近年発見される。
普通、火事では火を消そうとするから柱に水が掛かって全焼といえども柱は残ったりするものだが、
この極楽寺ヒビキ遺跡は土まで焼けている。火を消そうとした痕跡が全くない。
燃えるがままに見ていたという恐ろしい遺跡だ。ここで葛城円が焼き殺された。
雄略天皇が葛城で出会った一言主神はこの事件をもちろん知っている。
したがって「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神」とは、
意訳すれば「おまえの悪事を知ってるぞ」という恫喝であろう。
それに対してはさすがの雄略も怯んだ。
しかしながら一言主が土佐に流されたという続日本紀の記述も土佐一宮が存在することからも事実であろう。
これは「今回は流刑だけで済ましたがそれ以上言い続けるとどうなるか分っているな?」という雄略側からの逆恫喝かもしれない。
この少しあと、葛城から出てきたのがあの蘇我だ。
蘇我のバックボーンに葛城の怨念があったのは言うまでもないであろう。 朝鮮人は誇れる歴史がない。
だからルーツを誇るしかない(しかもほとんど捏造)。
だからあんな腐った漬物のような人種になったのでしょう。
黒人が「アフリカは人類のルーツである」と誇りますが、
これも何も誇るものがないコンプレックスの裏返し。
アメリカ人は日本文化が好きな人が多い。
でももしアメリカが日本に戦争で負けて日本に支配されてたらさてそうなっていたか。
多分なっていないと思われます。
翻って古代日本ですが、中国に朝貢していた事実がある。
そして文字や文化の多くも中国から輸入、
遣隋使、遣唐使で精一杯対等の関係を試みたものの7世紀後半の白村江で敗戦。
自尊心がボロボロであったと思われます。
そんな時代に編纂された記紀では、かつての朝貢のなかでも、
王自ら渡海して土下座するという最も不名誉であった107年の帥升、
これが誰であるかを隠した。
時代を大きく変え、そして神話化した。
やはり帥升=スサノオでしょうね。
そのためにはとっくに誰であるか分っていた卑弥呼の時代も隠した。
帥升から卑弥呼まで約100年ですから卑弥呼が分かれば帥升も分ります。
また魏志の通り女王国であった史実を隠すために神武東征を強調して「男王国」のようにした。
そして天皇という称号を新設、その神武を天皇に組み入れた。
そういう事だと思います。 >>883
蘇我氏は九州の豪族で機内に進出したんだ(いいな鴨厨 >>886
日本はアメリカに負けたのになんで鴨厨はアメポチなんだ >>883
雄略は古豪をないがしろにしすぎた
それが河内王朝の滅亡を招いた
倭国の歴史は
武王が武力支配→武王の死後恨みが健在化し王朝交代
という歴史だよ
崇峻天皇をころした蘇我氏も同じ運命にあってる >>889
天智天皇死後の壬申の乱もそう
日本は「和の国」であり武力支配をしいた王朝は必ず滅びてる 単に武力抗争が絶えない国だというだけだろ。
アホ。 記紀でも魏志倭人伝でも、倭国では殺し合いばかりしているよ。 半島勢力の代理戦争を国内でしていたのか。
敗戦国は辛いね。 壬申の乱も九州倭国内の争いだという話もあるが、さすがに信じがたい。 百済人と新羅人つまり韓人が日本を作った
百済人と新羅人のリーダーが天武と天智
都の奈良は古代韓国語で国という意味
白江の戦いで敗北した倭猿は韓人による統治で
文化を教えられて日本人になった >>896
「天」智、「天」武
「天」がつく理由だよな 新羅は出雲が作り百済は畿内ヤマトが作った
白村江の戦い(新羅VS百済)は筑紫倭国と畿内ヤマトの代理戦争であった >>896
>都の奈良は古代韓国語で国という意味
ああ、そうなのか! ウリナラは新羅の国
クマナリは熊襲、熊楚、つまり楚の国 古事記原文
爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大~之荒御魂、爲國守~而祭鎭、還渡也。
神功皇后は屈服した新羅王の門に墨江大~を祀ったわけだ。
新羅2代目王・南解次次雄=ナカツツノオ=中筒之男
彼が娘婿にしたのが、
新羅4代目王・昔脱解=ソコタレ=底筒之男
中筒之男から底筒之男へ
ワロタ、チョンみじめwww >>909
その住吉大神が大阪湾に鎮座してるんだからジャップざまあwだろ >>910
博多住吉の神が半島も畿内も征服したのか。
筑紫倭国王朝の全盛期だな。 >>910
大阪湾に鎮座してる住吉大神が新羅の王様になったという話なんだが、
悔しいのうチョン君www >>912
住吉は筑紫の日向においてイザナギが禊を行なった時に生まれた住吉三神を祭るもの。
摂津にあるのは、博多天神(海の神)の畿内支配の根拠地として博多から分社されたものだよ。 神道で一番よく用いられる祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す 博多住吉こそ、倭国創建の地。
天津神の最初の上陸地点が、国生みの最初の地である能古島(オノコロ島)。
天孫族の王の代々の称号が彦火火出見であり、それを祭るのが筑紫の日向の高祖宮。
その目の前にあるのが倭国女王の墓であり、天孫族の神宝である八咫の鏡を副葬された平原遺跡。 >>906
熊津は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり 倭国においては、肥国王家の称号が熊襲。
熊襲梟師(クマソタケル)の墓は、佐賀県の肥前川上にある。
熊襲梟師はその名を倭武(ヤマトタケル)に譲り、自らの名を川上梟師(カワカミタケル)と改めた。 白村江の戦いの後、唐が敗戦国の都においた行政機関が都督。
倭国の都には筑紫都督府、百済には熊津都督府。 >>914
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 >>912
違うだろ
新羅の王を神とあがめる人々が博多湾と大阪湾を占拠した
と、こういうことだろ 博多湾沿岸勢力の成立は、考古学的には紀元前まで遡るよ。
稲作による弥生文化を持ち込んだのも彼らだとすると、新羅など問題にならないくらい倭国の方が古いよ。 弥生時代って、弥生人が博多湾に到来して稲作や銅器、鉄器を伝え、王権を確立して、列島に支配圏を拡大していった時代なんだ。
だから、稲作の上陸地である博多湾沿岸に能古島の国生み神話があり、伊都国の天孫降臨伝承があり、博多に住吉があるんだよ。 >>913
ようするにイザナギ(渡来人のリーダー)が朝鮮半島からいろんな氏族を連れてきたと
そのいろんな氏族に対して「船旅は終わり!みんなそれぞれ勝手に生活してね!」と言ったのを「禊」と表現したんだろう
で、その中には新羅の王を神と崇めていた氏族もいたと
神功と新羅王南解次次雄じゃ時代が300年違うからな
当然、神功は住吉神が新羅神だと言うことを知ってて、
だから新羅に攻め行ったとき、わざわざ住吉神を祭ったわけじゃん レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。