なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん 慶長の役と比べればわかる 戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき 朝鮮のひとたちが李舜臣を尊敬しているように、われわれも小弐一族をもっと尊敬すべきだ 戦国時代なんか元寇に比べればコップの中の嵐だろ チンギスカン率いるモンゴル騎馬軍と 会戦して破ったと言うなら誇れるけど 元寇の時の元軍にモンゴル騎馬軍は 居なかったんだろ? 敵の総大将はフビライだし 何の自慢にもならんやん。 モンゴルの主力部隊であるモンゴルの地上部隊とは戦ってないんだろ? 元寇って船でやって来てるし モンゴルの主力部隊と戦ってると思えない。 チンギスカンやバトゥ率いるモンゴルの 主力部隊と戦ったら 義経や信長を総大将にしても 敗戦は確実だと思うが。 チンギス汗は遊牧民を統合しただけで、金を征服したり東欧へ遠征軍送ったりしたのは息子のオゴデイだし、 中東へ遠征軍送ったのは孫のモンケで、南宋征服したのはその弟のクビライだ。 文永の役で少弐景資に射られて重傷を負った劉復亨はモンケとクビライの2代に渡って大汗親衛隊を務めたエリートで、 日本へ来たのはバリバリのモンゴル主力部隊だが。 チンギスの時にもホラズムシャー朝討伐に着手し、 今のアフガニスタンからインダス川まで遠征している 日本史より謎な金儲けできる方法とか グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 7MANQ >>1 フルボッコにしてねえよ無知丸出しのネトウヨww 文永の役はモンゴル軍の圧勝だったが占拠目的ではなかったんですぐに引き上げた 弘安の役は江南軍の遅れ等でモンゴル軍の足並みがそろわず海上で待機してるうちに台風の季節となり 嵐で壊滅状態となりやむなく撤退 少しは勉強しろよwネトウヨ君ww 文永の役は威力偵察で撤退 弘安の役は日本軍の勝利だな。季節風は関係ないよ 文永の役が威力偵察なんて史料は存在しない。 そもそも博多湾上陸後、武士に野戦で全く歯が立たず逃げ回っていたモンゴル軍が 撤退するのは当たり前のこと。 明らかに日本軍の圧勝だろ。 博多を焼かれたから圧勝ではないな。神風関係なく地力で追い払ったのは事実だと思うよ >>14 博多がモンゴル軍に焼かれたなんて事実はないぞ。 当時から博多にあった聖福寺や承天寺、櫛田神社にも焼失したなんて記録はない。 モンゴル軍が博多に最接近したのは赤坂までで、その後は菊池武房に蹴散らされ敗走。 『蒙古襲来絵詞』詞書 「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」 弘安の役で敵が唐津経由で伊万里のほうに迂回した記録があってションベン漏れたわ 鎌倉時代の初期、嘉禄元年(1225年)頃より松浦党は高麗に押しかけ、倭寇の源をなした もともと辺境の地の海賊対策に高麗が元を引っ張り出すことに成功した日本もまた九州勢力 を弱くする必要があった >>5 チンギスカンやバトゥは過大評価。 文永の役でモンゴル主力軍が九州の御家人と野戦やって瞬殺されたのを見れば分かるように、 はっきり言ってモンゴル騎兵は鎌倉武士より弱い。 おまけにチンギスカン時代のモンゴル帝国は総兵力でも12万9000人。 承久の乱で19万騎動員した鎌倉幕府がチンギスカンやバトゥに負ける要素なんてゼロ。 >>19 >はっきり言ってモンゴル騎兵は鎌倉武士より弱い。 文永の役にモンゴル騎兵なんて来ていない。 来たのは歩兵主体の中国人部隊と高麗軍。 >九州の御家人と野戦やって瞬殺された という記録はない。 一代要記にある大宰府の報告では「宰府軍等敗北し了る」 元史では「其の国に入りて之を敗る」 >>22 中国人、高麗人の間では大宰府=博多。 日本側にもその傾向はある。 関東評定伝は五日対馬の後、廿日博多がなくていきなり「廿四日寄来大宰府」。 これも大宰府=博多で、廿四日が廿日の誤記。 詳しくは下記。 https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12331877947.html 高校の日本史の教師は 戦としては完全に日本の負けだったと言ってたけど まあ神風が吹いて、自然に助けられたんで 助かったわけだが それにしても時宗はすごいよな 元の規模とか分かっていなかったのだろうか >>24 その高校の日本史の教師は不勉強の極み まあ高校教師なんてそんなもんだが >>21 文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 高麗兵は補助戦力で主力とはいえないし、中国歩兵は同時期に行われた南宋攻撃に投入されてる。 一代要記は大宰府の報告じゃないぞ。 大宰府はちゃんと合戦で元軍を撃退したって報告してる。 『帝王編年記』 六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。 高麗や元の史料からも戦闘で日本軍がモンゴル軍に圧勝したとしか考えられない。 『高麗史』巻八十七、表二 年表二 十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人。 『心史』大義略叙 忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。 >>33 >文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 その「史料」をどうぞ。 >中国歩兵は同時期に行われた南宋攻撃に投入されてる。 その結果、文永の役の前年に襄陽が落ち、降伏した南宋軍(生券軍)は死を免れて 「征日本」を命じられた、と元史にある。 また、副都元帥の劉復亨の配下の軍は漢人親衛隊。 >一代要記は大宰府の報告じゃないぞ。 一代要記の成立は後宇田天皇(文永十一年〜弘安十年)の時で、まさに同時代史料。 その中で「宰府よりこれを申(の)ぶるに」と言って引用しているのだから、それ 以下は大宰府報告書の内容だ。 これに対して帝王編年記は文永の役の約百年もあとに一個人が諸書を抜粋・編纂して 書いたもの。史料としての価値は比較にならない。 相手は・・・モンゴルにゴマすって出世したくて国王や忠臣たちの意向を無視して無理な出兵を進めた将軍が率いた痛々しい兵士たちとか、祖国を裏切ってモンゴルに降った指揮官のもとで戦う南宋の捨民とかでしょ? >>35 違うよ。 歴代モンゴル皇帝の親衛隊を中核とする超精鋭部隊。 >>39 来たよ。 文永の役で鎌倉武士に惨敗したのがその超精鋭部隊。 >>34 『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』 「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル。」 「本ヨリ牛馬ヲ美物卜スル者ナレハ、射殺タル馬ヲ喰テ飽満セリ。冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、 力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ。」 劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。 漢人世侯がいたからモンゴル軍ではないなんて言ったら、オゴデイ・カーン以降モンゴル軍など 存在しなかったことになってしまう。 さらに、襄陽生券軍はモンゴル軍の攻撃に6年間も耐え抜いた、南宋軍の最精鋭。 旧南宋軍の大半が南宋攻撃に投入される中、最精鋭のみを抽出してクビライ自身の親衛部隊と 一緒に日本遠征に投入してるわけで、文永の役がどれだけ帝国の威信を賭けた戦いだったかわかるな。 あと、一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。 その後が大宰府の報告なんかじゃないのは、ガチ同時代史料の勘仲記と比較すれば一目瞭然。 『一代要記』 「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」 『勘仲記』 「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」 ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから史料としての価値はない。 一方、帝王編年記の「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。 其外皆以追返云々」は大宰府からの飛脚情報だ。 したがって史料的には文永の役は合戦による大宰府軍の勝利。 そもそも10月20日の戦闘は現地史料によって武士がモンゴル軍に圧勝したのが確実なわけで、 わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。 >>41 >文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 >>33 >劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。>>41 なるほど、中国人主体であることが分かったので、「モンゴル騎兵」のモンゴルは「元」の 意味だいうことにしたわけか。 しかし「主力がモンゴル騎兵」の「モンゴル」をごまかしても「主力が騎兵」は残る。 「主力」の意味が軍勢の「半分以上」だとしても、一万頭以上の馬を船に乗せて来なければ ならない。それでいいのか? >『一代要記』 「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」 >『勘仲記』 「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」 >ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから 一代要記の対馬五日、壱岐十三日は妥当だが、勘仲記の対馬十三日はなんのことかよくわからない。 「冬の嵐」は対馬戦の情報を伝えた飛脚の博多出発の日付であろうというのだが、推定に過ぎない。 勘仲記は個人の日記だから、リアルタイムのメリットはあるにしても、他人が見て内容がよく わからない所があるのだ。 対して一代要記は宮廷内の人物の準公的な記録文書だから内容は明確である。国会図書館の蔵書が デジタルデータで公開されているから、見るといいよ。 >わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。 大宰府は、武士が「少弐」の地位にあるとはいえ、依然として朝廷の出先機関である。大宰府軍に ついて客観的な表現をするのはむしろ当然。 >>41 >一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。 一代要記: 「十月五日、異国群勢襲来の由、宰府よりこれを申(の)ぶるに、同十三日異国軍兵壱岐の島に 乱入し、 同十四日かの島の守護代 荘官以下ことごとく打ち取らる、云々。対馬以って前に同じ。 同十九日亥の刻、筑前の国早良郡に攻め来たる。 同二十日合戦始まり、宰府軍等背北しおわる。 ここに同日亥の刻ばかり、兵船二艘出で来たり、暗天に合戦す。 凡慮の及ぶところにあらず、 これ神明の化儀(けぎ)と測り知る。 すなわち異国軍兵退散す。かの兵船一艘これを留む。 乗るところの人数六十人ばかり、云々。」 「異国群兵襲来の由」は見出し的に冒頭に掲げたのである。その後の「宰府よりこれを申ぶるに」 以降がすべて大宰府報告書の要約。 そのことを二か所の「云々」が示している。云々は引用して以下を省略するための言葉。 著者が書いた地の文章であれば云々は意味をなさない。というか、あるはずがない。 対馬〜壱岐〜博多と、三通の大宰府報告書を要約・引用したのである。 1274年11月11日-26日(文永11年10月5日-20日 11/1〜11/30月齢カレンダー >>44 十九、廿日は見事に満月だね、有難う。 夜の上陸、撤退には最適だった。 そこをねらって来たのだろう。 歴史上の月齢を計算する数式というのがネット上にあり、それで 計算すると当日が満月になるので驚いたことがあったが、計算間違い もあると思って半信半疑だった。 ところでその月齢カレンダー、どこにあるの? 文永11年20日1274/11/26は月齢25ですあさの前に東から下弦の月があがってきます At 05:20:45 UT Friday 26 November 1274 the waning moon’s phase was 13.21% full Time Zone: UT AT ET CT MT PT AK HI 1274/11/26 http://www.moonpage.com/index.html >>46 残念、新暦と旧暦の間違いだったか。 文永の役はほとんど暗夜だったのですね。 カレンダーの所在も併せて、有難う。 旧暦は月齢と一致しました1274.11.27は1274.11.19のユリウス暦の間違いです 月齢は20です >>50 なるほど、旧暦は月齢と一致するようにできているから、計算するまでもない ということですか。 すると、文永の役の月齢は19~20で、そこそこ明るかった、ということで いいでしょうか? 1274年 (文永11年) 11月 26日 旧暦:1274年10月20日 六曜:大安 干支:己巳 祝日: 二十四節気: 曜日:月曜日 太陽の黄経:243.835 月の黄経:105.273 月齢:18.842 月の輝面比:87.484 東京の太陽、月の入出 日の出:06:29 日南中時:11:29 日の入り:16:29 月の出:20:39 月南中時:02:57 月の入り:10:19 現地時間は1時間ぐらい遅れますから9時過ぎに九州の山から半月が出ます 上のは10月22日未明です1532からグレゴリオ暦に変更されユリウス暦1274年11月19日が 11月26日と読みかえられています 有難うございました。 ざっと言えば文永の役(陰暦11月19,20日)の深夜の上陸・乗船時には半月が空に出ていた、 ということですね。 というか鎌倉武士だの九州武士は焦土作戦だのなんだのやったりしてるから絵にならない 壱岐石田s南8n北14 2017年11月風向 壱岐芦辺2017年11月風向芦辺s南3n北22 京都気象台2017年11月19日から23日まで 19降水量(mm) 0.0 0.0 0.0 気温(℃)7.4 12.0 5.1 風向・風速(m/s) 2.7 7.7 北西 13.4 北西 5.4 20降水量(mm 0.0 0.0 0.0 気温(℃)6.9 9.9 4.2 風向・風速(m/s) 1.9 4.9 西 9.0 西 0.8 21降水量(mm) 0.0 0.0 0.0 気温(℃)6.4 11.3 3.3 風向・風速(m/s) 1.6 4.2 北 6.9 南西 5.0 22降水量(mm) 1.5 1.0 0.5 気温(℃)8.3 13.8 2.8 風向・風速(m/s) 1.0 2.5 東北東 3.8 東北東 1.4 23降水量(mm) 5.5 2.5 1.0 気温(℃)9.8 13.8 5.7 風向・風速(m/s) 2.7 8.3 北西 14.9 北西 7.1 24 対馬海流を北風で乗り切るは困難 とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 NK3 ブログ「蒙古襲来絵詞と文永の役」に、 16番目のページ「神軍の正体は何か」を追加した。 https://ameblo.jp/reydeoro/ 読んで見てね。 元寇って、過小評価もなにも、本当にささいな戦いじゃん 1231年、モンゴル、高麗侵攻開始、1259年高麗降伏、1273年三別抄を攻略し全土制圧 この50年近い血みどろの高麗攻略戦のあと、たった2回、日本を攻撃しただけの話 そもそもモンゴルと高麗との接触はもっと早い 1218年、黒契丹が満洲から高麗に乱入し江東城に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしたのが最初だ もしこの時期、高麗が、中央アジアでよくあったようにモンゴルに迎合していたらどうなったか? 承久の乱で国を二分して争っていた最中の日本に、最盛期のモンゴルが来ていれば、一瞬でやられたろう >>68 1218年なんてモンゴルが金を征服する前で、高麗に送った兵力だって僅か1万だろ。 承久の乱で19万騎を動員した鎌倉幕府に勝てるわけないじゃん。 もし1218年にモンゴル軍が日本に攻め込んでいたら瞬殺されてモンゴル帝国の歴史もそこで終わり。 俺は80年代が小中校大に重なっているおっさんですけど。 当時の社会科教育ってホント酷かったと思うよ。 日本の対外戦争と言えば大雑把に言って元寇、朝鮮出兵、日清、日露、第一次大戦が勃発までは書いてあるが、その後どうなったかという事が教科書に全く書かれていないし教師も教えないというか知らない。戦争は悲惨(そりゃそうだ)、戦前の日本は悪い国だったの一点張り。 >>68 1218年にいきなり迎合してる。 1231年一次はモンゴル使節をつい殺してしまって征伐、瞬く間に首都陥落されて降伏。 以下二次〜六次とモンゴル軍が帰った後、反乱、不正発覚などで再々征伐で降伏の繰り返し。 王は島に逃げ込み、モンゴル軍は全土を荒らされたあげく高麗降伏の繰り返し。 王の保身のみに走りろくな抵抗もせず一方的に焦土とされた愚かで卑怯な50年。 ちょうど今期は、アンゴルモア 元寇合戦記ってアニメやってるな 歴史好きは歴史物のアニメ見るのかな? 元寇って世界史の分岐点だよね。 それまでモンゴル帝国の拡大を支えていた精兵が弘安の役で壊滅。 圧倒的強さを誇ったモンゴル軍は戦闘経験の無い弱兵のみになってしまった。 元寇の後、モンゴル帝国は対外戦争で勝てなくなったんだから。 >>76 弘安の役のモンゴル軍は総勢15万くらい これが文字通り消滅したんだから影響は大きいさ 当時の人口はおおざっぱにいうと今の10分の1 15万って今なら150万くらいの軍勢ってことになるからな 勢いなくなって当然だわ >>76 モンゴル軍の特性は騎馬スキルで大陸最強 騎馬が使えない場所だと凡人 >>78 モンゴル軍の騎馬スキルが卓越してたことは文永の役でモンゴル軍と騎馬戦やった 日本側史料にも書いてある。 でも勝ったのは日本軍。 >>79 元寇の絵とか見ればわかるけど、 元軍は騎馬戦術を使用してないし、 みんな歩兵ばかりで騎兵ではない。 チンギスカン率いるモンゴル騎馬軍団と 会戦してたら日本は負けてたよ。 日本の勝因は単純に 1.陸続きではない日本相手には モンゴル騎馬軍団を投入できなかった 2.指揮官がフビライだった 3.日本兵がある程度の強さを持っていた だと思う。 >>80 いや、モンゴル軍は文永の役に騎馬部隊投入してる。 『八幡大菩薩愚童訓』 「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」 「冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、力ハ強シ、命ヲタホハス、 強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ」 そしてモンゴル人の指揮官自体、歴戦のモンゴル兵が負けたことを認めてる。 『高麗史』金方慶伝 「忽敦曰く「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」」 >>81 チンギスカン時代のモンゴル軍なんて全ての点で元寇のモンゴル軍より劣ってるだろ。 チンギスカンのモンゴル軍が日本を攻めていたら、全滅してモンゴル帝国の歴史も 一代で終わっていたよ。 >>71 戦争前だよね? つい使節を殺してしまって、って一体何があったらそんなことに? >>83 金朝の混乱で発生した契丹人難民が高麗に逃げ込んだんだけど、高麗の力では対処できなくて 1218年にモンゴル軍の協力でやっと鎮圧。 それ以来モンゴルから貢物を要求させるようになったんだけど、それが嫌になって使者殺害。 事情聴取に来た使者も弓で追い返す。 その結果、モンゴル軍が高麗に侵攻。 高麗正規軍は惨敗し、首都を包囲されてあっさり降伏。 で、モンゴル軍が占領統治のための役人だけ残して引き上げたら、その役人を皆殺し。 高麗のやり方って酷すぎるよな。 >>80 蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、 有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、 蒙古の方にも騎馬武者が描かれている 天皇に勝った東国武士は可汗皇帝も倒してしまった 北条氏率いる鎌倉最強すぎ ベトナムの陳朝はモンゴルの使者をいきなり投獄して拷問死させてる。 ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。 鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは 使者を全員無事に帰国させてるんだからな。 それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」 とか滅茶苦茶な叩かれ方してるだろ。 当時の「世界の外交ルール」とやらをちゃんと調べたうえで叩いてるとは思えない。 >>88 それどころか、文永の役の後で処刑したのに、 戦争前からいきなり使者処刑してたようによく誤解されてる >>81 >1.陸続きではない日本相手にはモンゴル騎馬軍団を投入できなかった モンゴル騎馬軍団戦法を投入できなかった モンゴル騎馬軍団基地から50q以上離れた敵軍に対して 騎馬集団のみでアタックを繰り返す戦法 日本軍の夜襲のためモンゴル騎馬軍団基地を作れなかった。 日本軍の弓の射程がモンゴル騎馬軍の弓の射程の1.7倍程あった。 高句麗軍歩兵や明軍歩兵の弓の射程は、日本軍の弓の射程の半分程度であった。 海岸に石垣又は崖があると日本軍の矢にさらされて上陸できない。 >>88 東大の日本史専門の学者レベルでもそう言うからな 海外の歴史は専門外と言い訳するだろうがならば当時の外交ルールに反するとか事実と違うこと言うなよと >>90 長弓と短弓の優劣は単純には結論できないが 元寇に関しては長弓が優ったね >>85 >蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、 >有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、 >蒙古の方にも騎馬武者が描かれている 右の方ならたった一騎、赤坂から退却する部隊の指揮官らしいのが馬に 乗っている。 左の方なら祖原山の元軍本陣の図で、せいぜい2割ぐらいが騎馬だ。 チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。 兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。 そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。 しかしそれ以前に、東征軍の主力である蒙漢軍がすでに中国式の軍隊で、 歩騎混成だった。それがそのままやって来たと考えればよい。 >>93 >チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。 >兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。 >そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。 替え馬は1騎兵あたり5〜6頭 敵軍から100km以上離れた母基地から出撃する。 敵軍から40〜50km離れた前線基地に予備の馬4〜5頭置き、そこから出撃する。 攻撃は敵軍までの往復時間を入れて1日に1回。 翌日又は数日後に馬を交換して武器の補充をして出撃する。 それの繰り返しで敵の疲労を待つ。 前線基地は敵の索敵圏外の遠方に置く。 敵は蒙古騎馬隊が次に何時攻めて来るのかわからない。 ある日ある時に突然蒙古騎馬隊が攻めて来るのである。 >>88 メッチャな叩かれ方と言えば、元寇が起きたのは 鎌倉幕府が使者を処刑して怒らせたせい、 みたいなのもネットでは何年か前から見るようになったなあ… 弘安の役が、ならともかく元寇がってのは 元寇までは使者を全員無事に帰国させてる以上ありえないのに なんでそんな話が出て来たんだろう しかも広まってるのかなんかしらんが、年々見かけること多くなったし >>95 本郷の本とかで北条時宗の外交はダメとかサラッと書いていて呆れたよ 具体的にどこがどうダメなのか触れもしない 選択肢なんて最初から2つしかない 戦うか従うか こういう状況で外交の出番なんてねえだろって まさかお話合いをしたら戦争が回避できたとでも本気で思ってるのかね? >>97 普通は返書なんか送らないだろ。 武力をチラつかせた蝶状に返書返したら、武力に屈したと思われるじゃん。 だから諸外国がみんなモンゴルの外交に反発してるわけで。 無視しないで「お断りします」と返書すれば良かったんだよ。 「服属せよ」と暗に言っている国書に「お断り」と返事したら、結局は攻められる。 まあ、返事しないことで引き延ばし効果はあったけどね。 >>1 >神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん 戦闘が物別れになったあと、元軍が船に引き揚げたというのはいろいろな ところで見かけるが、どこから出ているのか不思議。 高麗史を見れば、軍議で撤退が決まった後に乗船したとわかるのに。 まあモヒやワールシュタットの戦いであれだけ一方的な強さを誇ったモングル軍を打ち破ったにも関わらず評価は低すぎるわな モンゴル軍は来ていない。 来たのはシナ軍とチョーセン軍だけ。 >>103 何でそんな嘘書くの? 中国人や高麗人なんて操船要員で戦ったのはモンゴル軍の精鋭部隊だよ。 金方慶率いる高麗軍 洪茶丘率いる元軍高麗人部隊 以上、チョーセン軍 劉復亨率いる漢人編成の侍衛親軍 襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍 以上、シナ軍 >>105 その中で金方慶率いる高麗軍と洪茶丘率いる元軍高麗人部隊は九州の戦いにおいて 後方に配備され前線に投入されていない。 襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。 主力は明らかに忽敦率いるモンゴル兵部隊と劉復亨率いる漢人編成の侍衛親軍だろ。 漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。 文永の役で鎌倉武士が勝ったモンゴル軍は世界を席巻したモンゴル軍そのものだよ。 >その中で金方慶率いる高麗軍と洪茶丘率いる元軍高麗人部隊は九州の戦いにおいて 後方に配備され前線に投入されていない。 ソースをどうぞ。 >襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。 ソースをどうぞ。 >漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。 ソースをどうぞ。 >>97 実際の所、日本の外交で戦争回避する方法ってあったのかな お断りしますって返書は朝廷は送る予定があったらしいけど、 断ってそのまま引き下がるかどうか モンゴルは温厚だったとか平和的に使者送ったのに 日本が怒らせて戦争になった、みたいな話も何故か見るけど、 返書しないからって攻めてくるって時点で平和的じゃないし それとも当時では使者スルーしたらガチギレ戦争待ったなし、だったのか? ホーム国の海で勝っても怪しい勝利だよな。策略の匂いがする。 >>109 そんなこと言ったら海を挟んでるのに征服されたイングランドが無能みたいじゃないか。 元寇の原因は使者を切ったせい、 元は友好関係結んだり交易をしたかっただけなのに日本が使者を切って激怒させた、 ってのは今年だけでももう十回以上は見たし、 昔よりも見かける機会も増えた気はする 最近は元寇の漫画やアニメや特集番組があって 元寇が話題に上がること増えたせいかもしれないけど 最初にこれ言い出したのは誰なんだかなあ… モンゴル帝国が本気で世界征服を目指してた国家だってことを無視してるんだよね。 友好関係や交易だけで満足するなんてありえない。 戦後イデオロギーでは、外交で防げない戦争もあるなんて認めること出来なかったんだろうが。 国書には高麗との関係を父子に例えて、 日本にも誼を通じてその家に加わるように促してたけど、 その高麗の扱いも結構酷いものがあったみたいだし、 国書の額面だけ見て友好的だとか判断できるもんじゃないよね 実際戦ったモンゴル軍って総軍の一割程度だろ 後は海上待機中に台風で壊滅 日本の夜襲で船上でも戦闘はあったんだよね? というかそれだけの戦力を有しながら台風来るまでに上陸できなかったのが敗因じゃん 神風というけどやはり鎌倉武士の実力で勝った戦だよ >>114 日本軍が毎晩のように夜襲したので1割ってことはあり得ないんじゃない 上陸は出来ないので船で寝泊まりするしかない で毎晩のように夜襲され散々な被害 まあモンゴル軍はこの世の地獄状態だったと思うよ 日本軍はテンション上がったろうな クビ挙げたら恩賞だからモンゴル兵は宝の山にしか見えんかったろうなw >>106 が言う:>襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。 のソースがわかった。 <襄陽、生券軍、1400人>でぐぐると、偶然次のページの紹介文が出て来た・ db.history.go.kr/item/pdfViewer.do?levelId=kn_009_0010 95) 《元史》권 8, 至元 10년 9월 甲申조 “襄陽生券軍至大都 詔伯顔諭之 釋其械繫 免死罪 聽自立. 部伍 俾征日本.” 96) 《元史》권 ..... (元軍과 高麗軍) 1,400 人 7 個月分 糧料 2,904 碩, 羅州留屯 粤魯濶端赤軍糧 8,000 碩, 馬料. 1,325 碩이라 하였으니 고려 ... 彼はこのつぎはぎ文を見て、「襄陽生券軍」と「1,400人」の文字をくっつけたわけだ。 だが、この文章の前半は元史の、降伏後の生券軍の処理を述べた一節で、 「‥‥」で切れた後半は、高麗史世家の元宗十五年二月記事だ。1400人は元軍と高麗軍を 併せた耽羅守備軍の人数だ。 生券軍の人数の根拠にはならない。 今そんなに読まれてるものでもないだろうし >>95 のメッチャな叩かれ方の元かどうかわからないけど、 東洋史学者の内藤湖南がこんなこと言ってるの見つけた…… >位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。 >所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。 >そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。 >その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。 日本文化の独立 初出:講演、1922(大正11)年5月 https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/3036_21545.html 内藤湖南も随分いい加減だよな 室町以前の歴史は勉強しなくていいとか言ってる人だからさもありなん 学者さんでもこんな間違いしちゃうんだね ちゃんとした学者で元寇の前に使者が切られたようなこと言ってるのは初めて見た >>124 解釈が根本的におかしい。 「‥‥」に該当する高麗史世家の元宗十五年二月記事は「庚午元遣蛮子軍一千四百人来分処海 白三州」。 蛮子軍と言えば旧南宋軍であって元軍と高麗軍なわけない。 駐屯地も耽羅じゃなく塩・白州。 塩・白州帰附軍については、岩波文庫「高麗史日本伝(上)」P113の説明が手っ取り早い。 「(16)元に帰附した旧南宋軍、襄陽府生券軍の1400人。忠烈王元年に塩州・白州等に屯住し、 高麗子女との強制的な婚姻等で物議をかもし、翌年帰還した。」 根本的な問題として、襄陽府生券軍の高麗派遣が忠烈王元年ってことは、文永の役に 参加してないよね。 >>128 ゴメン。 元宗十五年二月記事じゃなく忠烈王元年二月記事だ。 >>128 高麗子女との強制的な婚姻ってなんや…… 1400人の兵士との…? そういえば、元寇で日本に攻めてきた元軍(の船中?) 女性がいたような話を別スレで見かけたけど、 もしかして強制的な婚姻させられた高麗子女ってことなのか? 拉致された対馬や壱岐の女性かと思ってたが >>129 >ゴメン。 元宗十五年二月記事じゃなく忠烈王元年二月記事だ。 それもゴメンで、実際は忠烈王三年二月記事だ。 私が>>124 で紹介した韓国人研究者の文章の後半は、やはり元宗十五年二月記事だ。 高麗派遣の襄陽生券軍の人数と、済州守備軍の人数が、偶然、1400人で一致したわけだ。 いずれにせよ、高麗まで来た襄陽生券軍は意外に少ないこと、第一次東征に参加した 可能性は薄いことは了解した。 そのほうが私の考え方にも合っている。 しかし、そのことは別の問題を含む。それは、第一次東征軍が出発する以前に、 すでに第二次東征軍の準備が始まっていた、ということだ。 襄陽生券軍が「征日本」を命じられたのは1273年9月だからね。 次の質問に移ろう。 >漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。 >>106 これのソースを聞きたい。 参考までに書いておくが、劉復亨の父親である劉通が所属した漢人軍閥の厳実が、 30余萬戸を率いてモンゴル軍に投降したのは、チンギスハンのホラズム遠征軍が 進発した1219年の翌年、1220年のことだ。 >>131 第一次東征軍が出発する以前に、すでに第二次東征軍の準備が始まっていたわけない。 普通に考えたら、襄陽生券軍は第一次東征軍の後続部隊だろ。 出発前には4万もの軍勢が九州上陸後1日でボロ負けして逃げ帰るなんて想定しないからな。 >>132 元史/卷149 郭宝玉 郭宝玉字玉臣,華州鄭県人。 甲戌(1214),從帝討契丹遺族,歷古徐鬼(グル・カーン)國訛夷朶等城,破其兵三十餘萬。 辛巳(1221),可弗叉(キプチャク)國唯筭端罕破乃滿國,引兵據撏思干,聞帝將至,棄城南走, 入鉄門,屯大雪山,宝玉追之,遂奔印度。 元史/卷151 薛塔剌海 薛塔剌海,燕人也。 從征回回(ホラズム)、河西、欽察(キプチャク)、畏吾兒(ウイグル)、康里(カンクリ)、 乃蠻、阿魯虎、忽纏、帖里麻、賽蘭諸國,俱以砲立功。 元史/卷151 賈塔剌渾 賈塔剌渾,冀州人。 歲己丑,将所部及契丹、女直、唐兀、漢兵,攻斡脫剌兒(オトラル)城。 元史/卷151 張抜都 張抜都,昌平人。 從近臣漢都虎西征回紇(ホラズム)、河西諸蕃,道隴、蜀入洛,屢戰,流矢中頰不少却。 >>130 モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから 十三翼の戦いの総指揮をとったのもテムジンの母親のホエルンだし >>108 うんそうだよ 使者を無視するってのは当時としては戦争待ったなしレベル 元史 210巻 外夷3 朕惟祖宗立法,凡不庭之國,先遣使招諭,來則按堵如故,否則必致征討。 朕惟うに祖宗からの法によると、来朝せぬ国は先ず使節を遣わして招諭し 来ればもとの如く安堵し、そうでなければ必ず征討することになっている。 >>113 高麗は忠烈王以降は高麗王は代々キュレゲン筆頭とされた他 さらに要衝の地瀋陽を与えられるなど破格も破格の待遇を受けてるけどな >>136 モンゴルとの戦争を外交で回避することなんて出来ないよ。 どの選択をしても、どうせ戦争になるんだから使者は無視するのが正解。 モンゴル帝国を詳細に調査したフランシスコ修道会士ルブルクもそう言ってる。 「モンゴル人は暴力によってどんな国をも征服したことはなく、ただ陰険な策略に うったえるだけです。モンゴル人と和睦いたしますと、かれらはまさにその平和の かげにかくれて、せん滅の挙に出るのです」 実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。 『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。 >>137 >実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。 >『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。 へぇどこにそんなことが書いてあったの?どうせ東亜板あたりの捏造誤訳を真に受けてるんだろう 実際の文を載せてやるよ 樞密院臣議征高麗事。初,馬亨以為「高麗者,本箕子所封之地,漢、晉皆為郡縣。今雖來朝,其心難測。莫若嚴兵假道,以取日本為名,乘勢可襲其國,定為郡縣」。 亨又言:「今既有釁端,不宜遣兵伐之。萬一不勝,上損國威,下損士卒。彼或上表言情,宜赦其罪戻 ,減其貢獻,以安撫其民,庶幾感慕聖化。俟南宋已平,彼有他志,回兵誅之,亦未晚也。」 以下訳 樞密院において高麗を征服についての議録。初めに馬亨が発言した。「高麗はもとは箕子の封地、漢、晋代の郡県であります。今は来朝したと雖も、その心情は測りがたいものがあります。 日本を取る振りをして兵を送り、勢いに乗じて、その国を襲えば我が領土と為すことができるでしょう。」 また亨は言った。「今はすでに(南宋との)戦端が開かれたばかりであります。万一勝てぬと成れば国威と兵卒を失う事となります。もし彼らが上表文を送ってくれば、その罪を許し貢物を減らし、その民を安撫するのです。 さすれば陛下の恩に慕ってやってくるでしょう。南宋を平定した後でも、彼らに他意があれば、その後に兵を送ったとしても遅くはありません。」 >>138 思いっきり南宋平定後に兵を送るって書いてあるじゃん。 鎌倉幕府の外交を批判してる人は、モンゴル帝国のことをわかってない。 モンゴル帝国は世界中全ての国の征服を国是としていた。 このことは、モンゴル自身の史料にも書いてあることで否定できないよな。 そんな国とは友好的な外交関係を築けるわけないんだから、使者は拒否するのが当然。 実際、モンゴルから使者を送られたほとんどの国が拒絶反応示してる。 このことも否定できないよな。 つまり鎌倉幕府の対応は正常で、問題はモンゴル帝国側にある。 >>138 >実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。 >『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。 >「日本を取る振りをして兵を送り、勢いに乗じて、その国を襲えば我が領土と為すことができるでしょう。」 これは高麗を油断させておいて高麗を直轄領にする戦略ではないか。 「その国を襲えば」の「その国」とは高麗のことだ。 >>135 >モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから モンゴルの遠征軍が女臭紛々としていたというのは始めて聞いた。 降伏した生券軍に強制婚姻させたのは屯田軍にするためだよ。 「萬戸」「千戸」などの言葉が示すように、元の兵制は屯田軍が基本だった。 >>139 朝貢してくれば許す 南宋を平定したあとでもまだ二心を抱いてるのならばその時になって攻めればいいと 思いっきり書いてあるじゃん わざわざ訳してやっているのだからこの程度ぐらい読めてくれ頼むよ頼むよ >>140 マラバールやスマトラは招諭に応じて使節を送って来たので攻められてませんけど >>142 それはあんたが知らないだけでしょ 「蒙韃備録」「黒韃事略」にも他の遊牧民と同様に妻子や奴婢を伴って戦う風習があったことが記されてますよ 万戸や千戸は匈奴の冒頓単于の頃からあるアジアの遊牧民全般に普遍的にみられる十進法からなる編成 オゴデイの頃は12人の万戸がいたが南宋の使節によるとそのうち何人かは女だったとか モンゴルに限らず遊牧民の社会では女だろうが若かろうが統率力があるものが重用される この風習が年功序列や男唱婦随を重視する漢人からは野蛮視された >>134 たった四つの例では「主戦力」かどうかはなんとも言えない。 しかもそのなかの二つは燕人(今の河北省あたりの人)とは言うものの、名前から 見て漢人ではない。恐らく色目人(ウィグル人など)だろう。 https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/24531/p020.pdf 「元朝怯薛出身者の家柄について」 という資料があるから見るといいよ。怯薛(ケシく)とは戦場で手柄をたてて軍人貴族 となったもののことだ。 チンギスハンの時代には圧倒的にモンゴル人が占めている。 色目人、漢人でケシクになったものの表があるが、漢人のケシクは太祖(チンギスハン)の 時代には非常に少ない。それが増えて来るのは太宗(オゴディ)以降、つまり第二次対金戦争 以降だ。 >遊牧民の社会では女だろうが若かろうが統率力があるものが重用される >>143 >モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから >>135 女性の軍人や統率者がいたというのと、 モンゴル軍の兵士が妻女同伴で遠征した、というのは別のことだ。 生券軍は高麗に「屯住」したというのだから妻がいて当たり前。 降伏するまで独身で戦っていたから、屯田軍の制度に合わせるために強制婚姻 させたのだ。 >>143 >朝貢してくれば許す と言えば(日本が)始めて朝貢して来るように聞こえるが、原文は 「宜赦其罪戻 ,減其貢獻」すなわち「その罪を許して貢物を減らしてやる」 と言っている。 これは「其の国」がすでに一定の貢物を納めていることを示している。 「其の国」とはやはり高麗だよ。 >>145 蒙韃備録に書いてあるって言ったよな https://ctext.org/wiki.pl?if=gb& ;chapter=730764 >其俗出師,不以貴賤,多帶妻孥而行, モンゴルの習慣では遠征があると、貴賤を問わず、多くは妻子を共に行かせる。 >生券軍は高麗に「屯住」したというのだから妻がいて当たり前。 >降伏するまで独身で戦っていたから、屯田軍の制度に合わせるために強制婚姻 生券軍って何?降伏するまで独身とか屯田軍の制度とか一体何の史料のどの箇所にあるの? 引用してみろよ >>146 やはりも何もそりゃ高麗ですよ というか書いてある意味本当に理解できてます? 言語性IQに随分と遅れがあるように感じるのですけど子どものときに国語などの学習に不自由してませんでしたか? >>147 >やはりも何もそりゃ高麗ですよ 私が横から入ったせいで、お互い相手を間違っているのだ。 其の国=高麗なら別に異論はないよ。 >モンゴルの習慣では遠征があると、貴賤を問わず、多くは妻子を共に行かせる。 チンギスハンのホラズム遠征も、ほんとうに全軍妻子同伴だったの? >生券軍って何?降伏するまで独身とか屯田軍の制度とか一体何の史料のどの箇所にあるの? 引用してみろよ 元の屯田制については下記資料: 「大元ウルスの枢密院所轄屯田 (矢沢知行)」 を読んだが、この論文は現在、検索で出て来ない。 >>147 生券軍については下記資料がある。関係部分を引用する: <[pdf]宗代兵制史の研究> 「前章で大軍兵士給与銭米支給に関り、家属を同伴せぬ出戌兵と家属を伴う屯駐兵には銭米支給上 に生券・熟券による両様の制度の存するをみた。出戌兵にかえて熟券制による屯駐兵をふやせば経 費軽減になるこというまでもあるまい。本章では改めてこの両様の制度の普遍的存在を尋ね、南宋 政権を支えた大軍の基盤を確認しようと考えた。 そこで先ず出戌・屯駐両様の兵の併存の事情を嚢陽と源州の地を例に尋ねた。この際屯田制の役 割なども考え、両地に生券と熟券制が併用施行されたことを確認した。特に嚢陽の場合、この両様 の制の施行、つまり出戌・屯駐兵の併存が長年の蒙古(元朝)の包囲に耐えるという成果を挙げた と解された。さればこそ、元朝はこれら兵士に多大の関心を寄せ、勝利後に生券軍・熟券軍として 接収・転用したものであろう。」 生券軍は独身、熟券軍は妻帯、ということがわかる。 生券軍の強制婚姻については元史に下記の文章がある。 「(至元十年九月)甲申,襄陽生券軍至大都,詔伯顏諭之,釋其械系,免死罪,聽自立部伍, 俾征日本;仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者。」 >>149 宋の軍制については詳しなかったんだ悪かったのう >生券軍は独身、熟券軍は妻帯、ということがわかる。 引用されてる文章を見ると生券と熟券の区分は「家属」を同伴して軍務についているか否かの違いで 独身、既婚の有無でないようにも読み取れるが >>148 >チンギスハンのホラズム遠征も、ほんとうに全軍妻子同伴だったの? モンゴル軍では蒙韃備録に「其婦人專管張立氈帳、收卸鞍馬、輜重、車馱等物事,極能走馬」とあるように野営地の建設や輜重兵はもっぱら女の仕事と考えられていたからな これは遊牧民に限らず世界中に見られた風習で例えばヨーロッパでは輜重兵であるヴィヴァンディエールはもっぱら女性兵であった またあんたが>>149 で引用した一文を見ると 仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者。 とあってこの部分は明らかに「俾征日本」に掛かっている とすると日本遠征に従軍する兵士たちの面倒を見る妻を蒙古、漢人(元代の漢人は金朝の人を指す)の内から妻を選んで各人に分配した記録だろう >>150 >独身、既婚の有無でないようにも読み取れるが 少なくとも生券軍が「単身」であったことは間違いない。辞書を見れば「独身」の 第一義は「単身」だ。まあ、実際は未婚者と、家族を残しての単身者が混じっていただろうね。 そして後者においては強制結婚によって多くの悲劇が生じたわけだ。 >野営地の建設や輜重兵はもっぱら女の仕事と考えられていたからな だから、本当にモンゴル軍の兵士「全員」が妻子を、中央アジアやヨーロッパまで連れて 行ったのか? と尋ねている。念のためだが、女性兵士の話ではないよ。 >日本遠征に従軍する兵士たちの面倒を見る妻を蒙古、漢人の内から妻を選んで各人に >分配した記録だろう 文章は生券軍の捕虜たちの首枷を外してやり、死罪を免じ、日本遠征を命じた、という ところでいったん切れている。次の「仍」は「さらに」の意味で、それ以下を意訳すれば; 「さらに、枢密院に勅して鎧・武器を与え、各人に妻を娶らせ、統率者として蒙古人、漢人 の内から選択させた。」 実際には生券軍は高麗まで行ってから、高麗人の妻を娶ったわけだ。「鈔」の字は「掠める」 の意味だから、女たちは「強制連行」されたのかも知れない。 結婚させるのはとりあえず屯田させるためで、直ちに日本まで連れて行かせるとは限らない。 東征軍の兵士全員が妻子を連れて行ったら船も食料も二倍、三倍必要なわけで。 >少なくとも生券軍が「単身」であったことは間違いない。 引用されている文章には生券軍=単身と書いているようには見えないが まぁ末葉の話何で保留 >だから、本当にモンゴル軍の兵士「全員」が妻子を、中央アジアやヨーロッパまで連れて >行ったのか? と尋ねている。 では逆に聞くが当時の慣習に反して中央アジアやヨーロッパだけは妻子を伴わずに移動していたという根拠は? >次の「仍」は「さらに」の意味で、 「仍」を「更に」のニュアンスで使用ている例を見たことないのだが 具体例があるのなら引用してくれないか >実際には生券軍は高麗まで行ってから、高麗人の妻を娶ったわけだ。 「襄陽生券軍至大都」とあるのだから>>149 は大都での話だろう >「さらに、枢密院に勅して鎧・武器を与え、各人に妻を娶らせ、統率者として蒙古人、漢人 >の内から選択させた。」 それだと人各賜鈔娶妻,又蒙古、漢人内選可為率領者にならないとおかしい 古文の時に習ったと思うが「於」の用法は、間接目的語と直接目的語を結ぶ介詞なので 「蒙古、漢人内選」は「賜鈔娶妻」を修飾しないと文法的に合わない >東征軍の兵士全員が妻子を連れて行ったら船も食料も二倍、三倍必要なわけで。 近代以前の軍隊というのはそういうものだろう 文永の役でも池州総把の馬馬や楊将軍が妻を引き連れていたという記録はあるぞ それと世襲の「襲」に襲うというニュアンスがないのと同様 賜鈔は下賜とか授与と同義語で上の者が下の者に何かを与えるという意味でかすめるなんて意味はないよ >>152 >引用されている文章には生券軍=単身と書いているようには見えないが 「家族を同伴せぬ」人は単身ではないのか? 日本語大丈夫か? >では逆に聞くが当時の慣習に反して中央アジアやヨーロッパだけは妻子を伴わずに移動していたという根拠は? なるほど。まともには言わないが、そういう形で「チンギスハンの遠征軍は全軍妻子同伴」を認めたわけだな。 憶えておくよ。 >「仍」を「更に」のニュアンスで使用ている例を見たことないのだが 「さらに」が気に入らなければ「かさねて」でも「そのうえ」でもいいのだよ。 例えば https://mnamae.jp/c/4ecd.html を見て見よ。「かさねて」「さらに」「そのうえ」と書いてある。 「仍」は人の形と胎児の形を合わせて世代の「重なり」を表した文字だ。原義に戻れば漢字の意味が分かる。 要するに元史はフビライが〜を「詔」し、かさねて〜を「勅」したと書いているわけ。 >「襄陽生券軍至大都」とあるのだから>>149 は大都での話だろう 君が紹介した「高麗史日本伝」の註書きが「高麗子女との強制婚姻」と言っているではないか。忘れたのか? >「蒙古、漢人内選」は「賜鈔娶妻」を修飾しないと文法的に合わない では聞くが、「為率領者」はどこにつながって、何を表しているのか? >文永の役でも池州総把の馬馬や楊将軍が妻を引き連れていたという記録はあるぞ 上級者が戦場に妻妾を連れて行くことは、なにもモンゴルでなくともシナにもある。京劇の「覇王別姫」の 名場面を考えればわかるだろう。 下っ端も下っ端の生券軍が全員妻子同伴で日本まで出かけることはあり得ないと言っているのだよ。 >>153 >賜鈔は下賜とか授与と同義語で上の者が下の者に何かを与えるという意味でかすめるなんて意味はないよ その後、分かった。「鈔」は元の紙幣だ。「賜鈔娶妻」は生券軍の兵士に「紙幣」と「妻」を賜ったのだ。 「賜鈔」なんて新奇な熟語を発明する必要はない。 「鈔」の字は「かすめる」の意味だが、「かすめる」→「うつす」→「コピーする」→「プリントする」と いう意味の変遷で紙幣を意味するようになったのだね。 >>155 追加。「娶」の字をなんとなく放置していた。この字は「めとる」という動詞しかないのに、 なんでここにあるのか、よくわからなかったが、「鈔」を「紙幣」と解釈することで解けた。 これは「鈔」を「賜」わって「妻」を「娶」らせた、つまり結婚費用を紙幣で与えた、と 言っているのだ。 そう解釈すれば、生券軍が大都で結婚する必要はない。身軽な姿で高麗まで行ってから 妻を徴集するのが合理的だ。 >なるほど。まともには言わないが、そういう形で「チンギスハンの遠征軍は全軍妻子同伴」を認めたわけだな。 >憶えておくよ。 いやむしろなかったという根拠をこっちは聞いているんだが >「仍」は人の形と胎児の形を合わせて世代の「重なり」を表した文字だ。原義に戻れば漢字の意味が分かる。 原義じゃなくて「仍」を「かさねて」「さらに」「そのうえ」の用法で使ってる例はあるのかと聞いてるんだが 「八」はもとの字義では「別つ」という意味だし「今」は「屋根」という意味だが漢文で実際にそういう使い方してる例はないだろ >君が紹介した「高麗史日本伝」の註書きが「高麗子女との強制婚姻」と言っているではないか。忘れたのか? 誰かと勘違いしてないか?>>128 は別人だぞ 「高麗史」を見て見ると中書省から南宋軍への妻を募集する要請が来たため 斡旋部署である「結昏都監」を始めて置いたのが元宗15(1274)年の4月で>>149 であんたが引用した記事は至元十(1273)年9月のこと 翌年の4月にかき集めた女と結婚させるとかタイムスリップでもしなければありえないから不足分を高麗から送らせたのじゃないか >では聞くが、「為率領者」はどこにつながって、何を表しているのか? 妻を与えて妻帯者としたという意味だと思うよ 我本是山東安邱縣的人,率領妻(玉歴宝鈔) >上級者が戦場に妻妾を連れて行くことは、なにもモンゴルでなくともシナにもある。 古代の中国にも女を戦場に連れて行く風習があったのだよ 「壮男一軍で一軍を為し,壮女で一軍を為し,男女の老弱者を一軍と為す,これがいわゆる三軍なり」(「商君書」兵守) 匈奴との戦いでは李陵は見せしめとして車中にいた兵卒の「妻婦」を切り捨てたと伝わっている(「漢書」李廣蘇建傳 第二十四 ) 効率効率いうのなら兵数のうち半分は輜重に回さないといけない輜重に回された兵は武器や防具を持てないから戦力としては期待できない 輜重を女で補えば戦える男の数を増やすことが出来るし女は男ほど食料を消費しない それに兵卒の脱走や反乱も防ぐことも出来る 実際に墨子は兵士を外に出すときはその妻を人質にして逆らえないようにしろと書いてるしな >>157 >仍」を「かさねて」「さらに」「そのうえ」の用法で使ってる例はあるのかと聞いてるんだが 例としては、例えば元史に次の文章がある。 「仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者」 読み下せば:「仍(かさ)ねて枢密院に勅して鎧杖を具えしめ、人各(おのおの)に鈔(紙幣) を賜りて妻を娶らしめ、蒙古、漢人の内に於いて選びて率領者と為すことを可とせしむ。」 仍を「かさねて」としたのは字源 https://jigen.net/kanji/20173 が示す四つの読み; 「よって、なお、かさねる、しきりに」から選んだものだ。 ここではフビライが先に生券軍のことで伯顔に詔したのち、「かさねて」枢密院に勅した、という 意味である。「率領」は軍を率いる意味に用いられるのが圧倒的。検索して確かめるべし。 さて、以上で私の解釈を示した。次は君の解釈を示してくれ。 >翌年の4月にかき集めた女と結婚させるとかタイムスリップでもしなければありえないから不足分 >を高麗から送らせたのじゃないか 時系列にすれば; 1273年2月 襄陽生券軍投降 1273年9月 生券軍大都着、征日本を拝命、同時に強制婚姻を命じらる。 1274年3月 高麗が結昏都監を置いて生券軍の妻となる女性の募集を始める。 1275年2月 生券軍高麗着 となり、時系列的におかしいところはない。結婚の命令から実現まで一年半かかっているが、 当時としてはこんなものだろう。 >>157 >輜重を女で補えば戦える男の数を増やすことが出来るし女は男ほど食料を消費しない なんの話をしているのか。 君は文永の役で元軍の兵士が妻子を連れて日本までやって来て、その女たちは兵士と ともに上陸して輜重の任務をこなした、と言っているの? その、兵士の妻である女たちの人数は、二万三百ないし三万三千と言われる東征軍の兵数に 含まれるの?それとも含まれないの? 面白いし参考にはなるが、だからと言って東征軍が兵士の妻を同船させて後方支援部隊 として活用したということにはならない。 もともと元軍にはコテチという後方支援の専門兵種があった。元宗十五年二月記事に、 「闊端赤(コテチ)」に食料を供給したという記事があるから、コテチが高麗まで 来ていたことは間違いない。 闊端赤は日本で言う所の近衛師団のことで後方支援ではないけどな 元史·卷五十二 兵二 宿衛 侍上帶刀及弓矢者,曰云都赤、闊端赤。 高麗史日本伝(岩波)世家070註(10)闊端赤 「モンゴル語でコテチ、軍隊に随行して道案内や馬の世話、或いは警備など雑役を 担当する者」 ところで; 「仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者」 の読み方、早よ! 岩波で高麗史の訳注がどうして根拠になるの? しかも訳してるのは朝鮮史が専門の武田だし >>163 でお前はそれをどう読んでるの? 漢文の理解力を見てやるから一回読み下して見ろよ >>164 >でお前はそれをどう読んでるの? 私の読み下しはすでに>>158 に示した。 今度は君が読み下す番だ。 「仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人内選可為率領者」 はいどうぞ。 >>162 >闊端赤は日本で言う所の近衛師団のことで後方支援ではないけどな 闊端赤というモンゴル語の、もともとの意味は「馬牽き」だったのではないか? それを裏付ける資料が ある。一つは外国人による元の軍事システムの解説である。英語なので、その一部を翻訳する。 「モンゴルの伝統的な軍事制度において、モンゴルの各戸は若者を軍隊に差し出す義務があった。これは、 成人男性は自動的に兵士であり、モンゴルの各戸は軍戸であることを意味した。使用人や奴隷は入隊を 許されなかったが、例えば horseboys (kötölči, kuoduanchi 闊端赤)として主人に同行した。」 horseboysとは馬牽きのことであろう。 もう一つは「ブラルグチ」というモンゴル独特の遺失物管理制度の研究論文である。 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/147951/1/jic086_693.pdf pdfの20ページに、モンゴルの漢字書き文献が引用 された中に「闊端赤」が出て来るが、(kötölči 馬牽き)と 筆者が注釈している。 恐らく、もともとの意味は「馬牽き」であった闊端赤(kötölči)が、ジンギスカンの幕営中の任務グループの 一つである警備隊の名称として用いられたのであろう。想像すれば「陛下の馬牽き」と言った謙譲語から出た のではないか? 「醜の御盾(シコノミタテ)」と同じようなものである。 かくして闊端赤は、一方ではエリートからなる幕営警備隊の名称として、他方では使用人や奴隷からなる軍夫 集団の名称として、かけはなれた二つの用語が生じたのであろう。そして岩波文庫の注釈は、この二つを 統一的に解説しようとして中途半端な文章になってしまった、というわけだ。 続き; では、高麗史に出て来る「闊端赤」は幕営警備隊か、それとも軍夫集団か? それは言うまでもなく後者であろう。 例えば忠烈王世家の忠烈王六年二月記事に、次のようにある。 「正軍一万名の一朔の糧は凡そ三千漢石と算得するも、若し夫れ、大軍の多く至ること 三、四万なれば、其の闊端赤も亦た且つ少なからず。」 軍の兵数が増えれば闊端赤の人数も馬鹿にならないから、食糧の量も計算通りにはならない、 と言っている。これは闊端赤が軍の兵数に含まれないことを示している。ただし軍に関して 「其の闊端赤」と言っているから、闊端赤は軍に付属するものである。 軍に付属しながら兵数には含まれないもの、それは幕営警備隊や親衛隊ではあり得ない。 したがってそれは馬牽き集団、軍夫集団なのである。 >>167 もうひとつ訂正; 忠烈王六年二月記事じゃなくて、忠烈王六年十一月記事だった。 エリートと下っ端と、二つの闊端赤があったことを上に述べた。 ところで、エリート闊端赤に対応する日本の職掌を思いついた。それは「馬廻り衆」だ。 大辞泉「うままわり」の第二義は次のように言う。 「主君・大将の乗った馬の周囲にあって警護をする騎馬武者、またその一団。近世には 制度化され、特定の者が任命された。馬廻り組、馬廻り衆。」 モンゴルのエリート闊端赤はまさにこのようなものではないか? これに対して、下っ端闊端赤に対応する日本の職掌は何か。それは下人・所従だろう。 世界がモンゴル帝国にフルボッコにされてる時代に 日本だけがフルボッコしちゃったからそりゃ台風強調するしかないだろう そもそも2ヶ月も上陸できない時点で弱すぎるわ >>172 ベトナムとか他にも勝った国はあるし日本だけじゃないよ >>172 ジャワも最終的には勝った。 モンゴルも海には弱い。 過去の元寇スレの書き込みで今でもよくコピペされているものなんですが、 これの出典をご存知の方っていますか? スレ主の書き込みには『北条氏と鎌倉幕府』と書いてあるのですが、 読んでもそれらしい記述が見当たりません。 特に謎なのが『実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる』の部分なのですが、 文永の役の後に来た使者から数えても杜世忠、周福の二回は処刑されてるけど、 他は殺された使者っていたんですか?それも四回も 調べても引き返したり、同行者に殺されたり、日本に留められて帰れなかった人しか出てきませんでした。 1 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:08:49.75 ID:3HbREZZQ0.net 元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究) 1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた 2(三)壱岐・対馬は見殺しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ 3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射殺してた 4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる) 5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた 6(左)使者をぶっ殺した時に書状を見ずに殺したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった 7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった 8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆殺しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた 9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で殺してる 9 :風吹けば名無し:2018/09/21(金) 19:10:51.40 ID:3HbREZZQ0.net 出展は細川重男の北条氏と鎌倉幕府やで 海は最強の壁 無敵だった日本を恐怖させたのは同じ海洋帝国の欧米列強だけである ★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part1 【問】高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗したの? 【答】いいえ。王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ 【問】元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如してたの? 【答】いいえ。使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者殺した国は多い 【問】武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコにされたの? 【答】いいえ。当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。 【問】神風のおかげで日本は救われたの? 【答】いいえ。神風は撤退途中に吹いただけです 【問】和弓はモンゴル弓に大きく劣ってなの? 【答】いいえ。性能面ではほぼ互角。 【問】殆どが高麗人? 【答】主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。 【問】元軍率いた武将は無能 【答】いいえ。高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。 【問】二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民 【答】いいえ。他地域では用済みの住民や兵は、基本的に直接皆殺しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。 【問】モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった? 【答】いいえ。モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。 【問】台風のおかげで二度目も助かった 【答】いいえ。台風来る前に勝負はついていました。 【問】高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ 【答】いいえ。高麗はノリノリで対馬で大虐殺しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後 ★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part2 【問】でも歴史の教科書にもそうでているけど 【答】「苦戦した日本軍が神風で助かった」とする資料は『八幡愚童訓』だが これは神社の宣伝のための書物で考証的価値が無い。劣等民族の操り人形がこれを悪用している。 【問】でも元,朝鮮,漢,南連合軍14万がきたらやばくない? 【答】元寇の約50年前承久の乱で北条政権は関東だけで19万を動員した実績が あります。西日本を合わせれば少なく見ても40万を動員できたはずで 地元に不慣れな外国連合軍14万など一蹴できたと思います。 「未曾有の国難」というのはどうみても大げさです 【問】勝って当然だったんだ 【答】敵の上陸を完全に阻止し2ヶ月間も海上生活を強制。当然やってくる台風を 待って攻撃。完勝です。 【問】敵の評価は? 【答】こんなところです: 「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。 勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。 倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。 地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」(南宋遺臣の鄭思肖) 蒙古襲来絵詞より 「蒙古兵の心胆を寒からしめた鎌倉武士の重装騎馬弓兵隊」 https://hanoikyudo.files.wordpress.com/2016/07/1280px-tagezaki_suenaga2cekotoba5.jpg 北条時宗政権は何年も前から関東武士を九州に移り住ませ 一人駆けは報酬なしと決めて重装騎馬弓兵隊として訓練していた。 またすべての武器・鎧兜や練度が蒙古兵を遥かに超えていた。 早朝に上陸した蒙古本国の最強部隊は1日の戦闘で蹴散らされ、 次々到着して増える武士達に日暮れを待たずに船に逃げ、 それをまた武士達が小舟で襲った。 舟上の戦いは鎌倉武士による一方的虐殺。 震え上がった蒙古軍は夜明けを待たずに半島目指して遁走。 結果、岸壁にぶつかり座礁し強風に晒されて約1万5千の兵を失った。 わずか1日余の戦い(文永の役) 文永の役で蒙古軍が明るいうちから船に逃げたという資料は一切ない。 また文永の役で日本軍が舟戦さをしたという資料も一切ない。ひょっとして 服部英雄の二艘120人夜襲説を信じてないか? 日本軍がやったのは見当違いな沖の浜にほぼ全軍を集結させ、元軍の先鋒が 赤坂に進出してもまだのんびり待っているという阿呆な作戦だったことは 絵詞から明らかだ。 つまり水際防衛戦すらやってない。 そして夕方6時ごろには戦闘を終えて撤退した。これについては資料は多くある。 >>11 ……ほんとこれ あと、モンゴルがもともと海での戦いに慣れてないのも大きかった いわゆる「神風」は 戦前には日本が神国である根拠として記述され 戦後には日本が勝てたのは台風のおかげ(つまり実力では無い)というストーリーのために日教組パヨクが喧伝した しかし近年の研究では 日本の武士がその強さで元や高麗軍を圧倒していた事実が分かってきている 「やあやあ我こそは」と名乗りを上げてる間に元軍にあしらわれた様な話は嘘で 練度の高い遠隔攻撃と、騎馬による密集突撃で効率的に元軍を駆逐していったのが真相 相次ぐ敗戦と厭戦気分から、海路で退却を始めた元軍に台風がトドメを刺したのは事実だけどね 因みに元の将軍は部下を置き去りにして本国に逃亡の末処刑されてます。 >>182 上陸して負けて船に逃げてるんだけど 脳みそついてるか池沼? 敵側の元史も高麗史も戦闘による敗北認めてるのに 後世のクズチョンや左翼は歴史捏造して罪悪感とかないんかな 69 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 14:58:17.44 ID:qaYXonuO0 最近言われ始めた珍説で「鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった!全部日本のせい!」 ってのがあるよな そもそもモンゴルが日本を属国にしようとして使者を送った事実は完全無視でw 74 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 15:21:22.21 ID:NlYCR7Vx0 >>69 それ自分も今年だけでも二十回は見た けど、そもそも鎌倉幕府が『元寇の前に』使者を斬った事実なんてないから、 珍説というか、捏造というか、ファンタジーというか…… 元寇の前の使者は6回なんだけど、これは6回ともちゃんと帰国していて、 その後に一度目の元寇の文永の役が起き、 その翌年に来日した七回目の使者が切られてるのが、使者処刑の最初 だから『戦争が起こった後に』鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった、 という意味不明な説になるんだよね 何かそういう史実と違う展開のフィクションでもあるのかなあ? 90 名無しさん@1周年 2018/11/05(月) 18:01:57.02 ID:UzBalQN40 >>69 ↓のように元寇の頃に日本に送られた使節のうち、 戦争前の使節はみんな生還でくっきり分かれてるのに、 なんでそんなわけわからん説が蔓延するんだろう? 1回目 高麗で引き返した(生還) 2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった(生還) 3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った(生還) 4回目 島民帰した(生還) 5回目 日本からの使者?連れて帰った(生還) 6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1 の報告した(生還) (文永の役) 7回目 処刑…(死亡) 8回目 また処刑…(死亡) (弘安の役) 9回目 台風で引き返した(生還) 10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…(死亡) 11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた(生還) 12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没(生存、日本に留めて帰さず) 13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった(生存、日本に留めて帰さず) 13回中、生還8回(本土に来れたのは4回)、死亡3回。 時期で分けると 文永の役前→生還、 文永の役後→処刑 弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める >>186 コピペになんだけど、丁度ニュース速報+のスレで、 それ言ってる人が何人もいる… >>184 >上陸して負けて船に逃げてるんだけど 元軍が船に乗る前に日本軍が「引き退いて」いる。 >>190 ただ引いたなら陸に陣地構築するだろう 上陸するのが一番大変なんだぞ 戦の素人かよ 船に戻らざるを得なかったが正しい >>192 >ただ引いたなら陸に陣地構築するだろう 日本軍が「引き退いた」ことは認めるのか? それとも日本軍は「引き退かなかった」と主張するのか? >>193 日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ 翌日の戦闘が始まる前に蒙古軍は海上に逃れてる 船は降ろすのも乗せるのも手間がかかるからいかに蒙古が急いで船に乗ったか分かるな >>194 >日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ 小規模な戦闘は日没後も続いたと言いたいわけか? >日没したから大規模な戦闘は収まったんだろ 戦闘は収まったが日本軍はその場に留まったと言いたいわけか? 約740年前の元寇げんこうで戦死した対馬の守護代・宗資国そうすけくに(助国)ら約80人の武士を慰霊する小茂田浜神社の例大祭が11日、長崎県対馬市厳原町で行われた。 資国らは1274年(文永11年)、約900隻の軍船で同市の小茂田浜などに侵攻した元軍と高麗軍計約3万人と戦い、全滅したと伝えられる。 例大祭では巫女みこ神楽の奉納や武者行列、浜辺で弓矢を射る儀式などがあり、島内外から訪れた参拝者が往時をしのび、平和の世が続くことを願った。 参拝者の中には、文永の役当時の対馬を描いた歴史漫画「アンゴルモア元寇合戦記」(KADOKAWA)の原作者たかぎ七彦さん(東京)らの姿もあった。 https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181113/20181113-OYS1I50004-L.jpg https://www.yomiuri.co.jp/kyushu/culture/history/20181113-OYS1T50030.html 軽視も何も文永は単純に戦闘に負けて撤退決めて弘安は2ヶ月何も出来なかったわけで武士の圧勝なんだが 文永の役 総数 27,000〜39,700人 弘安の役 総数 140,000〜156,989人および江南軍水夫 確かに兵力は文永んときは少ないが、それは相対的な物で 少ないから軽視とか偵察程度だったとか言うには無理がある数字だよな 普通に侵攻する気満々の数だわ それに良く考えたら「台風が来たから撤退しよう」なんて船でやって来た連中がそんなバカな決定をするはずがない 海が荒れたら陸に留まる、即ち占領した陣地を断固死守する、大陸育ちの連中なら尚更そうする 台風の中の海路を帰るなんて普通に自殺行為 つーことは橋頭堡を築く暇も無く船まで押し戻されての撤退だと考えるのはふつう >普通に侵攻する気満々の数だわ 2万程度の兵数がなくては未知の国に初めて行くのに怖くて威力偵察もできない。 >つーことは橋頭堡を築く暇も無く船まで押し戻されての撤退だと考えるのはふつう 日本軍が元軍を海に追い落としたという史料はいっさいない。 白張装束30人とか、兵船2艘とかの「神軍説話」を除けばね。 高麗史を読めば第一次東征の準備がいかにボロボロだったか、よく分かるよ。 とにかく行って帰るのが精いっぱいの軍隊だ。 主将のクドゥンがまた、なにかと言えば「回軍」を考える人物だったし。 南北朝期に九州の国人が足利幕府に反抗的なのは元寇の戦後処理に不満だったから? >戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき 口で言うのは簡単なんだが、それを認めると御家人達に褒美を与えなくてはならなくなる。 防衛戦なので領地を得たわけではないので、十分に褒美を与える為の原資が無い。 弘安の役ならいざ知らず、文永の役でフルボッコされたのは鎌倉武士。 >現代人が評価すべきって意味じゃ? 「御家人の手柄ではなく、神風のお陰である」という当時の幕府や朝廷の見解がそのまま継承された。 >>205 ならなんで文永で日本征服できんかったんや >>209 真珠湾攻撃はアメリカを征服する気だったのか? と言うのと一緒。 海洋国家米国や欧州でない限り日本は倒せんよ 大航海時代も得ていないアジアなど日本の敵ではない 3万強の大兵力を率いてその目的が日本の端っこで偵察と略奪するだけって そんなコスパの悪いことする国家や軍隊があるか? 少なくとも北九州までは版図に飲み込む気ぐらいはあっただろ 真珠湾になぞらえるんなら刀伊の入寇の3000程度で十分だ 隷下の高麗軍がやる気無かった説がちょいちょい出てくるが、あいつら普通に殺意満々だったし 発掘された軍船もしっかりした造りだったらしい つーかその軍備のせいで高麗の民は疲弊したんだけどな 八幡愚童訓は「バカなガキでも分かる八幡様のありがたいお話」という宗教書なので あんなものを鵜呑みにしてはいけない >>211 国力の比較をしているのではない。 元寇の時代に真珠湾攻撃のような、征服を目的とせず、局地的に一定の打撃を与えて 終るような作戦を行うにはどうするかを考えて見よう。 その時代に、飛行機や艦砲のような遠隔の攻撃手段があったわけではない。 相手に打撃を与えるには、人間が上陸して直接に働くよりほかに手段がないのだ。 昔の海戦の主たる攻撃手段が、相手の船に乗り移って白兵戦をやることであったこと と対比される。 つまり、渡海・上陸して戦闘をやったからといって、それが征服作戦なのか、単なる 打撃作戦なのかを外形的に区別することはできないのだ。 >>212 コスパだけではわからない。 当時、しょせんは「少数民族」に過ぎない蒙古は、大国の南宋と伸るか反るかの決戦のまっ最中だった。 だから文永の役は全面的に高麗に依存した戦争だったのだ。それでもって高麗がいかに疲弊しようが、 知ったことではない。高麗が耐え切れずに倒れれば、労せずして直轄領にするだけの話だ。 相手が元だと思うからおおげさになるが、船と食糧という、遠征軍の最も基本的な資源において、 第一次東征軍は高麗の国力の範囲でまかなえる規模でしかなかったのだ。 その意味では、文永の役は日本と元の戦争ではなく、日本と高麗の戦争だった。 お客さんのようにして蒙漢軍が乗ってはいたが、これはフビライの親衛隊で、いざとなれば カーンの地位の裏付けでもある。だから損害少なく安全に帰ることが第一だ。 そのためには、何かといえば「回軍」を持ち出す安全主義のクドゥンが、主将として適任だった。 日本征服などとおおげさに考えることはない。 その高麗の、具体的な準備状況を見てみよう。 ●1274年1月、大船300隻を起工、7月の出発をめざす。 大船300隻を半年で作ろうというのだ。 ●春の農繁期に造船労働者の半数を帰農させる。 ●6月、大船300隻と付属小舟、関連資材の完成を王がフビライに報告。 ●7月、王が死亡。忠烈王が即位。 恐らく葬儀、服喪、即位のため遠征準備にとって空白期間が生じた。 ●船員の徴募遅れのため高麗人担当官が更迭。忠烈王の回顧によれば予定の約半数しか集まらず。 ●出発が10月にずれ込む。 10月は新暦の12月、すでに季節風が強くなる航海不適の季節である。 ●(恐らく自前の船で参加する予定だった)女真軍が出発に間に合わず。 ●結局、出発したのは予定の半数にも満たない126隻。船員も予定の約半数の6700人。 これだけのことがあって、なお日本征服をめざす司令官がいるだろうか。 恐らくクドゥンの頭の中は、逆風を突いて乏しい食料で帰る帰途のことで一杯になって いただろう。 日本征服など夢物語である。 >>215 文永の役の何年か前に、南宋と日本を征討するとか言ってなかったっけ 蒙古と言えば騎馬だが、なぜ馬を連れてこなかったのだろうか? 船に馬を乗せるのは大変なのか? 逆に、秀吉の朝鮮出兵の時は、馬は現地調達したのか? 馬は連れて来ているよ。絵詞を見れば赤坂を撤退する小部隊の指揮官らしいのが 馬に乗っている。祖原山の本陣の図でも十人ぐらいの上級者らしいのが馬に乗っている。 また安国論私抄の捕虜尋問記録では、一船当たり5頭の馬を積んだと言っている。 ただ、本来のモンゴル軍のように、戦闘員が全軍騎馬で、さらに各自数頭の替え馬を引く というような姿ではない。 これは、連れて来れなかったというよりも、元軍の中身がすでにモンゴル軍というよりも シナ軍になっていたからだろう。 つまり、蒙漢軍は本国でもあのような歩騎混成の編成だったのだろう。 アホの妄想ってしょうもないな 普通に戦闘で負けて(指揮官も負傷)このままじゃ全滅だから早期撤退決めた以外の何が想像出来るのか 神風の次は征服する気がなかったとかもう想像力の欠如だから歴史から離れた方がいい いや、文永は日本がフルボッコされたとか妄想して次に日本と高麗の戦争とか言い出してるから チョンなりの惨めな妄想の類かな >神風の次は征服する気がなかったとかもう想像力の欠如だから歴史から離れた方がいい >>215 のような状況でも、なお日本を征服するつもりだったというのは、確かに素晴らしい 想像力だな。 >>214 >>215の言ってることって嘘とまでは言わんが都合の良い低い数字を恣意的に拾ってる 南宋とは文永の役の前年の決戦でほとんど決着はついてた 南宋は既に虫の息、じゃあ次は日本だと順当に駒を進めてた 高麗の船126隻ってのは千料舟という軍荷専用の大型船を指してて 上陸用のバートル船は300もある。恐らくこっちに主力兵を載せてたろう 船員の6700もあくまで水夫であって高麗兵は5300〜8000は用意してる そして蒙古漢軍は15000〜25000。ふつうに高麗軍より大所帯 蒙古の高官による現地視察や手柄の横取りなどという「お客さん」とは到底言えない クドゥンは単に引き際を心得てただけだ 金方慶が「敵地でこそ士気が上がるからどんどん攻めるべきだ」と無茶な理論を展開したのに対して 「普通に兵を消耗するだけだから撤退しよう」と諭してる 幕府の動員数って実際どれだけあったのかな 承久の乱の時に19万って数字があるけど史書の 数字はある程度割り引かないと駄目だから それでも推定される人口から見たら 最大12万から17万は動員出来そうか? >>214 >お客さんのようにして蒙漢軍が乗ってはいたが、 蒙漢軍の方が高麗軍より多くなかったっけ お客さん? 223 >蒙漢軍の方が高麗軍より多くなかったっけ >お客さん? 数が多かろうと自前でない船に乗せてもらっているという意味でお客さんだ。 旅客機だって乗員より乗客の方が多いだろう? フビライの命令で船を作ったんだからお客じゃないだろ。 >>221 >嘘とまでは言わんが都合の良い低い数字を恣意的に拾ってる 低い数字とは126隻、6700人のことと思うが、その数字は君も使っているではないか。 君も恣意的なのか? >南宋とは文永の役の前年の決戦でほとんど決着はついてた 前進拠点である襄陽の陥落が転換点だったのはその通りだが、弱体化したとは言え、巨大な南宋の 本体は残っている。襄陽の後は点の戦いが面の戦いに移行したのだ。当然、大軍が必要である。 >南宋は既に虫の息、じゃあ次は日本だと順当に駒を進めてた いかにも決着がついた南宋戦から浮いた軍隊を日本侵攻に廻したように読めるが、それは印象操作。 南宋平定作戦にはバヤンの本隊だけで20万(他に支隊)、日本向けはたったの一万五千だ。 そしてバヤンの本隊が長江を渡ったのはまさに1274年の12月。南宋平定と第一次東征は同時進行 していたのだ。 >高麗の船126隻ってのは千料舟という軍荷専用の大型船を指してて >上陸用のバートル船は300もある。恐らくこっちに主力兵を載せてたろう 船に兵を載せるということは、そこで生活させるのだよ。絵詞の海戦場面に描かれた、甲板も ないような舟艇で、どうやって生活するのか。 また、大船126隻という数字はバートルや汲水小舟を伴わず単独で出て来る数字だ。 大船、バートル、汲水小舟はワンセットだったと思われるから、大船126隻ならバートルも 126隻だった可能性がある。 >船員の6700もあくまで水夫であって高麗兵は5300〜8000は用意してる 高麗兵が船員の代わりに操船したという史料はいっさい無い。また、船員が集まらず高麗が苦労した のは、船員が専門技術者だったからだ。数がいるからと言って、農民兵を転用できたとは限らない。 >クドゥンは単に引き際を心得てただけだ その通り! 私が言いたのもそこだ。めでたく意見が一致したね。 >>224 自前でない船に乗るからお客さんって論理がよくわからん 自前じゃないってもクビライの命令で作った船だろ? >>214 この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、 それでもそんな扱いって娘婿の地位って高麗にとってはあまり意味なかったのかな モンゴルにとっては影響力を強める意味があったとしても >>230 フビライの娘婿になったのは忠烈王で、彼の即位は1274年の8月。 第一次東征軍の出発は同年10月初旬だから、忠烈王は第一次東征の準備にほぼタッチして いないと言える。 この話のかみ合わなさはパフォコン思い出す あいつまだいるのかな >>232 話が噛み合ってない? どこが? >この時点で既にクビライの娘が高麗王に嫁いでたのに、 「この時点」とは高麗が第一次東征の準備をフビライに命じられて、実行して いる時点だ。 この時点の「高麗王」とは元宗だ。 元宗の嫁はフビライの娘ではない。 それだけのことだ。 キムチが混ざるとこういう歴史考察も一気に興ざめするな 日本国内じゃ資料が少ないとかの理由であまりスポットが当てられてなかったけど 海外じゃ北条時宗は有名だぞ 元寇では武士はボロ負けwww 一騎打ちに拘って返り討ちwww 神風のおかげで偶然勝てただけwww ところが元軍や南宋軍の資料では全く違うことが書かれているのですよ。 一騎打ちに拘った資料も実はどこにも無いんですね。 元軍の記録では、武士は密集して騎射を行ったのちに少数で突撃したとあります。 また上陸した元は博多周辺から外に侵攻することも出来ずに野戦と夜討ちによて蹴散らされました 日本大嫌いな人達が、一騎打ちで負けたのを隠すために書き換えた説発覚! 神風云々も、当時の寺社と幕府が結託したものですし。 というのも防衛戦なので恩賞として与える土地も無かったんですね。 そして寺社も独自の武力を持つ集団で政治にもバリバリ介入していたので、 自分たちが神風を吹かせたのだと恩賞や名誉を独り占めしたのです。 まあ今でもありますけど、現場で活躍した人たちにムキーッとなって嘘八百を塗り固めたんじゃないですかねw 自分たちの記録ではなく敵の資料によって実態がわかる、というのも情けない話しですがw 対馬、壱岐、九州北部と戦場が限られていたのが大きいのかな。 仮に京都まで攻め込まれていたら大々的に扱われそう。 >>235 日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね 苦戦したのは事実だと思うが、それは対馬と壱岐の話じゃねーかな? しかも苦戦の理由は単に兵力の差によるものだろう あんな日本の最果ての島に増援を送るなんて不可能だし、現地の武家が頑張って力及ばずってとこだろう 日本って意外と古来から権力者が嫌いみたいで(竹取物語は反藤原を暗示してるらしい) しかも当時は日蓮率いるカルト教団が幅を利かせて鎌倉に楯突いてたから 御家人が頑張ったって言っても取り合ってくれなかったんだろうな 竹崎季長も先駆けの武功を認めてもらえなくて問注所だか侍所だかに申し立てして やっとの事で所領をもらったんだもんねぇ。 >>237 >日本側にも、竹崎季長のあの絵詞で騎武者が数人でユニット組んで突撃してるシーンがあるんだよね 白石勢のことなら、絵詞では9騎の集団が突撃している。しかしそれは絵巻だから省略したのだ。 実数は何人かと言えば、季長じしんが絵のなかに「其勢百余騎」と注釈しているから、約100騎 の集団だった。 5騎の竹崎勢を瞬時に無力化した敵の歩兵部隊は100騎の白石勢に対抗できず逃げた。 しかしそこまでだ。白石勢の働きは結局、竹崎を救出しただけだった。もったいない。 絵詞に出て来る限りでは、騎兵集団は竹崎勢5騎、白石勢100騎、菊池勢100騎とも、 いずれも単独で、かつ個々の判断で動いている。 つまり、個々の騎兵集団がいわゆる「集団戦法」を行っているが、それ以上の連携というもの が見られない。 なぜこのようになるか。それは日本軍の軍隊組織から来ていると思う。 5騎の指揮者である竹崎が総司令官の景資に直接、意見具申しているように、各騎兵集団の指揮者で ある御家人は、指揮する兵力に拘わらず皆、総司令官に直結していた。 これは軍隊組織と言えるほどのものではない。 >>233 230だけど、スマンカッタ 即位時期まで覚えてなかった >>234 Zelda Fan Boyという渾名がついてしまってる… 某ゲームに登場して知名度上がったけど、家紋がトライフォースと似てるから… どっかの大学の論文によると大鎧の小札は、 日本刀と同じように、硬くて脆い鉄と柔らかくて粘り強い鉄の合わせ鍛造らしい。 これマジなん? >>33 あの時代に馬を大量に海上輸送するのは無理じゃね 九州に上陸したモンゴル騎兵なんか実際はほとんどいなかったろうな >>242 モンゴル騎兵が大量に上陸出来ても日本の地形じゃ実力発揮できないだろう。 モンゴルやカザフ共和国の時代劇でも草原での回戦ではなく、対立部族の集落(ゲルの野営地)を 襲撃する様な場合、モンゴル人も下馬して刀槍で白兵戦してるよ。 狭隘地で騎射戦が有効でない場合は、モンゴル人もその環境に合わせて戦うってこと。 モンゴル相撲のブフだって騎馬戦での格闘術ではなく、徒歩での肉弾戦での格闘術。 元の記録 我が軍は勇敢に戦ったが敵が強かった。 鎌倉の記録 残ってない。焼かれた。 九州の記録 敵は非常に強かったが、多大の犠牲者を出し勝った。 どちらも信用度が低い。 我が一族は300人出した。 本当は100人。 総兵力も嘘臭い。 >>244 同じくらい三国志も好きだよな。しかも史実じゃなくて演義の方 国取りレースが琴線に触れるんだろうか 鴨長明「方丈記」は北条記のシャレ。 一遍上人の「時宗」は、北条時宗を暗示している。 元寇でモンゴルが襲来したため、北条時宗が忍術をはじめとする秘術を開いて、秘密結社を組織したのではないか。 1251年:北条時宗誕生。 1274年:モンゴル軍来襲。一遍上人遊行開始。 まちがいなく、一遍上人の時宗は北条時宗の秘密結社。一遍は、この年に九州に布教にいっている。 一遍の時宗は、日本軍人だ。 1275年:鴨長明が賀茂家の継承者争いに負ける。 鴨長明が「方丈記(北条記)」をいつ書いたかは謎。 日本の貴族でもかなり深いゆかりのある賀茂氏が北条氏を支持していることを示しているのだろう。 そして刹那主義の「方丈記」は、日本の行く末を川の流れの泡に例えて書いているのだ、おそらく。 1281年:モンゴル軍再来襲。 1284年:北条時宗死す。 平安鎌倉時代って馬鎧あったのかな。 戦国時代と古代は聞くけど、平安鎌倉は聞いたことない。 矢が尽きた( ・`д・´)キリッ もっと上手い言い訳考えろよと思う そもそもどういう勝利を想定して来てたのかが甚だ疑問 >>250 文字として記録が残ってる最古は13世紀後半、つまり鎌倉時代。 ただ和歌山の大谷古墳から5世紀頃の鉄製の馬冑が発掘されてるし、 6世紀以降の関東平野の数多くの古墳から出土してる馬埴輪の多くも 馬鎧に相当する胸当てが装備されてる。 なんで博多に上陸しようと思ったのか もちろん大陸から近くて、太宰府を後ろに構える大都市だってのはわかるが だからこそ防御もそれなりと考えないか? こそっと山口鳥取あたりから上陸して畿内目指せばと思うんだが 船を作るのも航海も高麗の担当だから実績がないのに鳥取あたりに大群で来れないだろ。 二、三隻ならともかく。 一説によると、刀伊の入寇に関して日本側は被害甚大で刀伊と同じ女真から朝貢を受けていた高麗に管理責任があるとキレてたので、高麗側は入寇は美味しいと錯覚してた可能性が高く、それを模倣してみただけって考察もある 矢が尽きたから帰ったって模範的な敗北の婉曲表現だろ 鷹島の海底から引き上げられた元寇船の遺物に矢尻が出てることは内緒な 矢はたくさん残ってたけど、矢が尽きたことにしました というかなんでわざわざ日本になんぞ攻めてきたのかがわからん 西方ではカイドゥの大攻勢の結果、皇族から離反者がでたり直系皇族が捕虜になったりと散々な有様で元の主力軍もそっちに釘付けにされているというのに >>264 チョンコが刀伊の入寇の真似したらウハウハだって思い込んだから >>266 朝貢国の兵力=元が利用できる兵力だから口減らしする必要性はない >>270 チョンコって出っ歯でいつも口開いてるから呆れ顔に見えるよな >>264 それが、どうも「硫黄貿易」がらみ臭いんだよな。 まず、北宋も南宋も、契丹遼やタングート大夏、女真金といった北方騎馬軍団への防衛力として 唐代に発明された黒色火薬を使ったロケット砲を大量配備して、対騎馬軍団体制を敷いていた。 この黒色火薬の原料は木炭、硝石、硫黄だが、当時の北宋、南宋の版図で硫黄だけが国産化できなかった。 当時の世界で硫黄の大産地と言ったら、紅海沿岸、ジャワ島、そして日本列島。 そういう理由で、宋代には九州の博多には民間貿易船や宋朝から直接派遣された特権商人の船団が、 大規模な硫黄買い付けに来ていた。これが、平安中期以降に日宋貿易が活性化した背景で、 当時の宋側の史料でも日本との貿易で真に国益となるのは木材と硫黄の交易だけだとはっきり書かれている。 南宋とモンゴルが対峙していた文永の役の段階では、貿易港博多を軍事占拠するだけでも南宋への硫黄供給を 遮断して南宋攻略を有利にする効果が見込めたし、南宋を滅ぼしてその国家機能を接収した後の弘安の役の 段階では、硫黄の大産地である日本列島自体を接収することで大元ウルス自体の火器軍備強化が見込めた。 実は、日宋貿易、日元貿易で硫黄が非常に大規模に交易されていたことを日本史研究者が認識するようになったのは かなり新しく、やっと21世紀になってからの事。つまり、20世紀までに書かれた歴史学書や論文では硫黄交易はほぼ 黙殺に近い状態。というのも、研究者自身、硫黄が交易されていたといっても何の目的で宋が輸入していたのか、 その用途がピンとこなかったため、日本産の貿易対価で宋側がありがたがるものと言ったら砂金ぐらいしかないだろうと 決めつけていたんだな。硫黄なんて漢方薬の原料として少量が交易されていたんだろうぐらいに思われていた。 >>272 よかった 「それを発見しのは何を隠そうわしなのだ!天才のわしなのだ!」とか言い出したらどうしようかとヒヤヒヤしながら読ませてもらったよ 非常に勉強になった ただ問題点は元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明な点 だから高麗人が唆しただけなんじゃないか説が有力になってる >>273 日宋貿易と宋朝の火器武装のリンクについては、言い出しっぺの山内晋次が山川の「日本史リブレット」の一冊、 「日宋貿易と『硫黄の道』」に詳しく書いているから、一読をお勧めする。 実は、杉山正明の「遊牧民から見た世界史」の20世紀に出された旧版では硫黄貿易との関連は触れられていないんだが、 21世紀になってから出された文庫新装版では、文永の役が硫黄貿易の遮断だという仮説を挙げているらしい(私はまだ旧版しか読んでない)。 杉山も明らかに山内の研究から刺激を受けていると言っていいだろう。 あと、クビライ帝は元寇と前後してジャワ島遠征も実行している事と、南宋の国家機能接収後に西アジアへの海路通商に力を注いでいる事にも 注目していいんじゃないかな。どれも、それぞれジャワ島の硫黄と紅海の硫黄の確保を目的の一つにしていた可能性が指摘できる。 参考までに 科研費研究課題「硫黄流通からみた古代・中世の日本とアジア」 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23520847/ 科研費研究課題「火薬原料の国際流通からみた前近代の日本とユーラシア」 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-26370779/ 科研費研究課題「学際的手法による中・近世日本のサルファーラッシュ・シルバーラッシュの比較総合研究」 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17H02394/ 中世の日本、琉球王国が,東アジアにおける軍需物資のサプライチェーンにおいて 重要な位置を占めていた事が、理解してもらえると思う。 今、この事を元寇と直接結びつけているのは杉山正明だけだけど、 これから研究が進むことによって関連が浮かび上がってくる分野である蓋然性は かなり高いと思う。 >>273 >>元寇がどういう勝利を想定してたのか全く不明 可能性と推論で語れば、兵力が少なめだった文永の役の時には戦略目標は硫黄交易拠点の博多の制圧と確保で、 莫大な兵力を集めた弘安の役の時には日本国全体の征服による硫黄産地の掌握、 という事だった可能性が指摘できる。 問題は、おそらく大元ウルス側でも、日本のどこであれだけ大量の硫黄が産出しているのかが解明できていなかった 蓋然性が高い事だろう。それが判明していれば、薩摩硫黄島や硫黄鳥島に大艦隊を送って対馬侵攻の時みたいに 制圧してしまっていただろう。 ご歓談中失礼します 高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました 各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ 高麗時代史専用スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556797827/ 高句麗=扶余族を始祖に持つウラル・ツングース 新羅=倭人始祖に持つ倭種 伽耶=ガッツリ倭人 百済=倭人に媚びへつらう元漢人 鈴木大拙の「日本的霊性」読んでみ。元寇が日本精神史上、大事件だったことがわかる。 済州島攻略も成功させてるし南宋征服も水軍が不可欠で 南宋を滅亡させた崖山の戦いなんか海戦 不慣れどころではないんだなあ 神風で船酔いしてぼろぼろ。 天皇陛下様の神通力をあなどってはならない。 >>254 鎌倉時代に馬鎧あったんだな。 詳細知ってたら教えてくれ。 古代と戦国時代、江戸時代の馬鎧は実物が残ってるよね。 下鞍と障泥はどの時代もつけてるけど、 あれも鎧の役割をしていたんじゃないだろうか。 個人的に元寇で打ち震えるのは、弘安の役における最後の後始末(鷹島掃討戦) 暴風ですでに万単位の溺死者が発生していたものの、命からがら鷹島に集結した 将兵も多数おり、その数は十万。ただし武具や矢玉はおろか、最低限の水と食糧 と生活用品すらほぼ皆無。軍ではなく着の身着のままの被災難民に成り果てていた 司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する ゆえに歴史的な意味からいえばこの時点で戦争は終わっている。だが、鷹島もまた 元軍の民間人虐殺の被害地であり、負傷し飢えた敗残兵になったからとて元軍が慈 悲の対象であろうはずもない。かくして日本軍による、血の復讐の宴が開催された 残存兵らは、この苦境の中で指導力を発揮していた下級将校を臨時の将軍とあおぎ、 その指揮の下でありあわせの工具を総動員、船を仕立てて脱出する計画を立てる だが台風一過、状況を把握した日本軍が好機を逃すはずもなく、完全武装で総攻撃 指揮官が地元の御家人クラスであることから戦力はせいぜい数千人、あるいは千人を 大きく越えなかったかもしれないが、ほぼ丸腰の元軍は一方的に敗れ、投降が相次ぐ かくして元軍の犠牲の大部分が、この時に生じる。2万〜3万人の、比較的元気で 技能のある江南人が選抜されて奴隷となった他は、推定8万が斬首されている まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない >>打ち震える 悪趣味だな。 武勇も技自慢もロマンも無い、ただの殺戮じゃん。 こういう事言う人って神風とか回天とか桜花みたいな特攻兵器に興味津々だったりするの? やっぱり「魂が打ち震える」たりするものなのか? >>司令官以下の将領クラスは退却を決定、自分らだけ健在な船を強制徴収し帰国する これは日本側の記録にも残っているね。 という事は日本側の兵が目撃していたという事だ。 なんで追わなかった? なんで逃がした? なんで討ち取らなかった? ここが一番のつっこみ所だよ。 >>287 目の前に武装してる可能性がある敵性集団が万単位でいるのにか? 頭使え、無視はできんだろう? それに捕虜にして売り飛ばせるだろうが >>286 先の見えない絶望の末の特攻戦法を、鷹島戦と混同する発想は無かった 鷹島掃討戦は、渡海軍事行動のリスクと敗戦時の人的被害の大規模化の、劇的実例だ 大正義日本海がもたらした惨劇は大陸政権による日本侵攻の、最強の抑止力となった 「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や (鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって 死んだ魂が泣く」(高麗王臣下の漢詩) 「大風雨がおこり、大浪のために沈壊。蒙古軍は半ば海に没し、残るは400隻 のみ。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、倭人のためにことごとく殺され る。ゆえに白骨山(鷹島)という」(南宋遺臣の鄭思肖) いっぽう日本側も、鷹島掃討戦の凄まじさを示す多くの地名を現地に残している 「首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷」などだ それまでの国内戦とは異質な、大量殺害が起きていたことが窺える なお地獄の鷹島から脱出して帰国を果たした者は、高麗の史書では11人確認できる さらに、捕虜となってから10年以上のちに帰国できた一握りの兵士が現れ、かれら は部下を見捨てて逃亡した将軍らを皇帝に告発した(すでにフビライの孫の代) 結果、范文虎ら数人の将官が妻子ごと処刑された。ある意味、元にとって真の終幕 >>289 まぁ江南人と高麗人が津島や壱岐でやったことを考えれば皆殺しが妥当というほかない >>290 江南人(南宋人)って文永の役の時の対馬壱岐の被害 ってか文永の役自体に参加してなくない? 南宋が元に征服されたのって文永の役の後だよね? >>284 あと南宋人の助命って比較的元気とか技能があるとかで選別されてたっけ? 『九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍為唐人、不殺而奴之』 元史には↑とあったから元気や技能の有無じゃなく単に国籍での選別だと思ってたけど >>289 >20万人は白骨山の上に置き去りにされ 弘安の役の時の軍勢、総数でも20万人もいたっけ…? >>289 陰惨な事柄に興味を持つ感覚が分からんって言ってるの。 そういう人って「魂が打ち震える」って言葉を良く使うんだよね。 負けたら被害者ヅラして罰を逃れようとするのが普通だからな >>294 日本侵攻を目論む強大な陸軍の壊滅という要素は、大きい それに日本側文献も確認したところ、日本の斬殺刑カウント数は5,000人 これは日本のほうが正確な数字と思われる。 京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(閏7月12日条)には、台風に より元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したとあり、助命も含めて1万に達していない 可能性もある。では、ほかの10万人前後の未帰還者はどうなったか? そう、溺死 「張氏墓誌銘」によれば台風により荒れた波の様子は「山の如し」であった 軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという また、将官すら溺死した。高麗王・高宗の孫で東路軍の左副都元帥アラテムルである 幕末の史書「日本外史」は「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」と 表現。日本兵が手を汚した実数は、全体比率として少ない可能性もある むろん10万人の未帰還者の主因が海難なら海難で恐るべき数字であり、この大きな 損失について真に打ち震えるべきは、大陸側ではなかろうか(ゆえに、元寇の海難に 関する大陸民の民間伝承の類が聞こえないのは残念。命の安さの反映だろうか?) >>294 元史では、一度日本で捕虜になった後に脱出帰国して范文虎らの嘘を告発した兵士の話として >八月一日、風破舟。 >五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下。 と台風の後に范文虎ら将軍たちに見捨てられた人数を十万余と記し、 >方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死。 >餘二三萬為其虜去。 と日本軍との戦闘後捕虜になったのは二、三万余と記してる その後に>>292 斬殺刑だけじゃなくその前の戦闘で戦死か敗走した人数もかなりあったのかな? >>287 その記録読んでないけど、目撃例として書かれてたの? 戦後南宋人が助命されてるんだから彼らから聞き取った可能性もあるんじゃ? >>287 元史に出てくるその時に見捨てられた南宋人の証言によれば 暴風で船が壊れたのは八月一日、諸将が彼らを見捨てて逃げたのが五日、 日本軍がやってきて戦闘になったのは七日 元軍の諸将が逃げた時に日本軍はいない 偵察などで少数の日本人が目撃していた可能性はあるが まあ、その国の置かれた自然環境ってのは、立派な防御力だからな。 ロシアの冬将軍がなければ、最終的な勝敗はさておき、ナポレオンやヒトラーはもっと進撃できてたわけだからな。 攻め込む側は相手の自然環境を重視しないといけないわけだな あまり変わらない地続きの隣国とかならともかく 海を隔てたり遠く離れて自然環境が祖国と段違いだったりするなら そういう意味では元寇も自然舐めすぎ 天の時、地の利、人の和って中国の言葉だっけ? 元寇は全部欠けてるね クビライは日本遠征前に中国の言葉引用して 土地だけじゃなく人も欲しいんだから殲滅とかするなよって釘刺したりしてるけど そういうのは学んでなかったのかな >>299 蒙古襲来絵詞 「同五日、関東の御使ひ合田五郎遠俊・安藤左衛門二郎重綱払暁に馳せ来たりしに、 季長行き向かて、「海上を隔て候間、船候はで、御大事に洩れ候ぬと覚え候」と申に、 合田五郎「兵船候はでは、力無き御事にこそ候へ」と申すところに、 肥前国の御家人其名忘る「鷹島の西の浦より破れ残り候船に、賊徒数多混み乗り候を払ひ除けて、 然るべき物どもと覚え候乗せて、早逃げ帰り候」と申に、 季長「仰せの如く払ひ除け候は、歩兵と覚え候。船に乗せ候は良き者にてぞ候覧。 是を討ち止め度くこそ候へ」と申すに、合田五郎「異賊早、逃げ帰り候」と申候。 >>287 >>307 郎党連れてたとしてもそれだけの人数じゃ、少なくとも二、三万を相手取るのは無理だわな 一旦戻って全軍での掃討戦を選ぶのは適切な判断 史料だと弘安の役で明らかに東路軍と江南軍って合流して博多湾に突入し、撃退されて 鷹島に逃げ込んだところで台風に遭ってるよな。 【八幡大菩薩愚童訓筑紫本】 「弘安四年之夏ノ比、蒙古大唐高麗己下之国々共之兵 駆具シテ三千余艘ニ數千万人乗ツレテ来ケリ。 其中ニ高麗之丘船五百艘ハ、壹岐対馬ヨリ上テ見合者ヲ打殺ス」 「是ヨリシテ高麗之舟ハ宗像ノ崎ニ寄、蒙古 大唐之舟ハ対馬ニハ寄ラズ壹岐之嶋ニ着。 自其筥崎之前成野志賀二之嶋ニソ付ニケル。 是ヲ見テ高麗之舟モ宗像ヨリ押出テ、蒙古カ舟ト一所ニ成、今度者一定勝ベケレハ 居住スヘキ[米斤]トテ、世路之具足、耕作コレノ為トテ 鋤鍬及持タリケリ」 「其後九国之兵巳ニ度々之合戦ニ及ヌ。 「開東ヨリノ武士ハ何ニ手次ノ程ヲ見給カシ」ト進ムレハ、 城次郎カ手ハ新左近十郎、今井彦次郎、財部九郎伯父甥押寄テ、 散々ニ命ヲ限卜闘フ、[彳及]テ討死シテ失ニケリ。 其後遙之奥鷹ノ嶋ヘコソ引退ケレ」 この戦闘が6月6日〜13日に行われた東路軍との戦闘じゃないのは、日本側に関東勢が 参加してることでもわかる。 5月21日に対馬襲撃されて6月13日までに関東から博多まで軍隊移動させるのは不可能。 >>287 全軍がそれを目の前にして追わなかった、ならともかく 目撃者がいた、程度じゃ別にツッコミ所でもない >>309 よく鎌倉からの本体が到着する前に九州だけで勝っちゃったというのは間違い? 鷹島に置いてけぼりになった10万の兵士は掃討しなくても船を破壊して放置すれば勝手に餓死したり疫病死したんじゃないかな? 秀吉ならそうしたと思うのだが それでも鎌倉武士としては危険を冒しても首級を挙げて手柄を立てたかったとか? 現在の鷹島にはモンゴル村があってパオに宿泊もできるそうだけど、当時の悲惨さを知ってたら怖くて寝てられるかよとw 鷹島の陸や海の10万もの兵士の亡骸はどうしたんだろう? 鷹島だけでなく他の戦場もだけど、死体を放置すると疫病の原因になることは当時の人も知ってたと思うが量が膨大過ぎて埋めることもできなかったんじゃないかな? もしかして鷹島周辺はその後何年も人が住めない荒廃した土地になったりしたのかな? >>315 飢饉で大量の餓死者がでても放置していたようだが(?) 方丈記 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98 >養和年間(1181-82年)2年間にわたって飢饉(養和の飢饉)があり、多くの死者が出た。 >仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、 >その数を数えたところ、養和2年4月・5月の左京だけで、42,300人余に達した 寛喜の飢饉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%96%9C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89 >藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、 >翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだ 飢饉や戦乱で大量の腐乱死体が放置された場合どれくらいの時間が経過すれば腐肉が分解し疫病の危険などが除去され農耕や生活などの復旧ができるのだろうかと妙なことに関心があります 特に鷹島はもともと住んでいた住民はほとんど虐殺されただろうけど、七人塚の家族の中で灰の中に隠れて助かったおばあさんみたいにわずかに助かった住民はその後どうなったんでしょう? 鷹島に帰って復旧できるまでどれくらいかかったんでしょう 逆に腐乱死体が肥料になるのかななどと不謹慎な想像をしたりしています >>314 元史では鷹島の兵士たちは木を切って船を造って帰ろうとしてた けど仮に船を造っても全員載せるほどの分はできないだろうし 水や物資も帰還日数×乗員分必要になるし、 あるいはその前に飢えるだろうから、 そのまま餓死する可能性もあるけど決死の覚悟で 略奪にくる可能性もあったと思う >>317 現代みたいな疫学の知識はないにしても 貴族とか穢れとか気にしそうだけどそういうの放置して気にならんのかな >>321 放置すると家の中まで死臭が届くのも放置してることにならん? 死臭には穢れ云々って考えはなかったのかな てか単純に臭いのは嫌じゃないんだろうか 平清盛ら平家一党が住んでた六波羅は風葬地の鳥辺野が近いが腐臭が漂ってこなかったのかな? 元寇から宋の滅亡まで期間空きすぎじゃない? それもその後にも戦争や反乱鎮圧起きてるし 【日本史】元寇、神風でモンゴル軍退散との“虚構”は、なぜ生まれたのか? http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1585574319/ 久々の元寇スレ、と思ったら内容が… フビライ側に初めから交戦する意思があったかどうか、はなはだ疑問とか、 鎌倉幕府が冷静に対応してれば回避できたとかなあ… 源平の鎌倉武士が問答無用で朝鮮コマ人皆殺ししてて笑えるw 武士のどこに百済派、新羅派の親朝鮮要素あるの? めっちゃ杉山正明氏の影響受けた記事だね けど杉山正明氏は他はともかく元寇については クビライに対して甘い見方をしてる印象がある 高麗史でクビライが日本に使者送った頃にはもう侵略を口にしてることは 単に分野違いで知らなかっただけかもしれないけど 使者の行動が丁寧な交渉というには疑問なのは元史でだって読み取れるし 上のスレで元寇の原因が日本が使者斬ったせいって言ってる人何人もいるけど、 昔っからいたけどこんなに沢山いたっけ? 1スレでこれだけ多く書き込まれるほどには流行ってなかったと思うんだけど 誰か流行らせてでもいるの? そりゃあNHKが元寇は日本が悪かったと言う番組を放送しているんだから一般人は信じちゃうよね 他にもあるみたいだね 方や子供向け?、方や歴史好きの人の趣味本とはいえ 本として、しかも事典や講義って題名の本ですらそうなのか 946 名無しさん@1周年 ▼ 2020/03/31(火) 02:05:10.93 ID:uS6hTEkT0 [1回目] >>777 日本が元寇の前に使者斬ったって話や、それを元寇の発端という話は、 歴史が専門の学者とかが書いた本では全く読んだことないけど、 歴史学者じゃなくて歴史好きの実業家の出口治明という人物の 「「全世界史」講義 I古代・中世編」と「全世界史 上巻」と、 子ども向けの歴史漫画シリーズの事典だけど 「学研まんがNEW日本の歴史」の「人物学習事典」では読んだことあったなあ 『「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史』 出口治明 『全世界史 上巻』 出口治明 >クビライは海外の事情に通じており、日本と交易をするつもりで使節を送りました。 >ところが鎌倉幕府は、国際情勢も外交上の儀礼も知らずに使者を斬ってしまった。 >それが文永の役(一二七四)の発端でした。元寇については後述します。 『学研まんがNEW日本の歴史』の『人物学習事典』 大石 学 (監修) >国書を受け取った幕府は、要求を無視する決意をかため、十八歳の時宗を執権職につけて、 >幕府内部の体制を新たにして、危機にのぞむことにしました。 >その後、何回か元の使者が来ても、時宗は、求めをことわり、使者を追い返したり殺したりしました。 >そして西日本の御家人たちを九州にまとめ、守りをかためました。 >一二七四年、フビライは兵力二万五千人をこえる大軍をおくってきました(文永の役)。 ただし、『全世界史』は2016/1/18の発売で、『学研まんがNEW日本の歴史』の『人物学習事典』は2013/4/1発売、 ネット上ではその十年以上前から広まっているようだから、これらの本が発というわけではないだろうし、 出口氏は『全世界史』の前書きで >僕は、歴史を専門として学んだわけではありません。 >この本は、一人の歴史好きの市民の趣味が高じたものに過ぎません。 と書いてるように歴史学者というわけではないから、それを前提に読むべきだろうけど。 出口治明氏ってよくクビライに好意的な視点で書いてる人だっけ… それ自体は別に悪いことじゃないけど… 同じ出口治明氏の「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」が持ってたからちょっと元寇についての箇所見てみた。 呉座勇一氏との対談の所でも使者斬ったことについて言及して、モンゴルと鎌倉幕府の対応を並べて比較してたけど、 >出口 モンゴル戦争(文永の役一二七四年、弘安の役一二八一年)についてお聞きしたいことがあります。 >最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は、「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いてなかったと思うのですが、鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。 >なんでこんな対応をしたのでしょうか。 「最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は、「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いてなかったと思うのですが」←文永の役の前 「鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。」←文永の役後 と侵略される前の交渉の最初期のモンゴルの国書と、侵略後の幕府の対応を並べて比較させてるのが疑問だった 「かなり乱暴ですね。なんでこんな対応をしたのでしょうか。」ってそりゃあっちが攻めてきたからなんじゃ 先に乱暴なことしたのはクビライなんだけど… 対談してる呉座氏もそれについて特に突っ込まないまま 外交担当の朝廷が国交を結ぶ意思を示さないから幕府は戦う準備をする以外選択肢はなかったと答えてるけど、 単に朝廷が国交を結ぶ意思を示さないなら文永の役前だってそうだったけど、 それでも幕府は使者を斬ったことはなかったのにな 呉座氏は「戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―」では 元寇前の使者について詳しく正確なことを書いているし、 元寇前の対応についてもモンゴルは服属か否かと迫っているから外交交渉の余地はなく、 服属していたらただし、南宋への進攻作戦に参加するよう命じたであろうと書いてたから、 別に鎌倉幕府の外交姿勢については批判的なわけではなさそうだけど 一応同じ本の元寇についての記述のある「第4章 モンゴル戦争と悪党」の項では、 文永の役前の幕府の対応については「「そんなもん放っておいたらええで」と突き放していた」とか 放置したことのみ書いていて斬ったとは書いてないとはいえ… この書き方だとまた同じ誤解を招きそうな この「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」の内容は初出が「週刊文春」2017年11月2日号〜2018年11月1日号となっていて、 「鎌倉幕府が使者を斬ってしまったのが文永の役の発端」と書いてる「「全世界史」講義T 古代・中世編」は2016年1月の発売のようだから、 その間に文永の役前の使者については正確な所をちゃんと知ったのかとも思うけど、 でもだったらなんで同じ本の対談では文永の役前と後を並べて比べてるんだろう あ、334で二冊挙げてるから紛らわしかったな >>335 の「同じ本」は「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」の方 文永の役前の幕府の対応についても大都まで使節団派遣してるんだから 「そんなもん放っておいたらええで」と突き放していたわけではない。 幕府が外交問題で朝廷に秘密裏に独自の動きをしていたとなると、日本中世史は 根底から覆される部分が出てくるけど。 南宋との同盟の話だって、鎌倉から南宋へ渡った僧が暗躍していたことを考えれば 幕府主導で行われていたと思うのが普通。 五回目の趙良弼の時に太宰府西守護所が派遣した奴か 元からは偵察と思われてたみたいだし戦争見越しての偵察だったのかもね >>334 2回目の使者の時の「最初にモンゴルが日本に持ってきた「仲良くして商売をやろうや」の国書」に対比させるなら 日本の対応は返書しなかったことの方だし、それだって学者によって解釈に違いはあるとはいえ その国書でももう兵を動かすのを匂わせてのものだったわけだし、 7回目の使者の時の「鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴」に対比させるなら、 モンゴルの対応は文永の役とそれによる虐殺などの被害の方なんじゃ 文永の役前は使者を斬ってないのを見ても、 「なんでこんな対応」になったのかは文永の役が分かれ目になってるよね 日蓮は幕府が法華経を尊重せず禅宗などを保護することを批判して、仏罰として地震や外寇が起こると予言してたから、元寇も仏罰と見てたんでしょ? 元の使節が斬られた滝の口の刑場では、日蓮も危うく斬られそうになったこともあり、 日蓮系の団体信者は元に共感してるのではあるまいか? >>339 2回目の使者が持ってきた国書だって「仲良くして商売をやろうや」なんて内容じゃないよ。 「モンゴルは天命によって世界の支配者になったから日本の方から挨拶に来い」とか 書いてあるわけで。 モンゴル研究者の杉山は「あれはモンゴルの外交文書の定型文で日本にだけ 酷い内容だったわけじゃない」とか主張してるけどさ。 相手のある外交文書でそんなモンゴル内だけの理屈を主張されても受け入れられるわけない。 当然、その定型文の国書を送られた国は日本以外もみんな拒絶的な態度をとってる。 明らかにモンゴルの外交姿勢が悪い。 >>332 これネットの方が先らしいけどネットでは何時からなんだろう ネットでは2000年代はまだ稀だったのが10年代になってから増えていって、 ここ数年では急速に増えてる感じだけど 2chの古いログ見てたら、2005年の書き込みにはもうあったし、 「小学校の頃はいきなり使者の首斬ったって教わった」ってのもあった 教師によるだろうけど、学校で教師が教えてるものすら昔からそんなんなのか… 236 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:55:19 >>232 そうそう。結構みんな勘違いしてるんだよね。 ホントに使者の首斬ったのは1275年なのに。 漏れも小学校の頃はいきなり使者の首斬ったって教わった。鎌倉武士テラ弱スな流れだった。 ついでに時宗とフビライはすっげー悪い奴って教わった。 https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/history/1128253450/ 本じゃないけど、有料販売されてる教材にも2008年(Google日付)の時点で既にあった Google日付は実際より後の日付になってること多いからもっと前かもしれないけど 学校で使われてるのかなこれ >[解説]元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従うようにと使者を送ってきた。 >幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。 >1274年,元軍3万が九州の博多湾に上陸し,集団戦法とすぐれた火器によって日本軍をなやましたすえ,内紛や暴風雨のために引き上げた(文永の役)。 >さらに,1281年 ,約14万の大軍で,襲来した。幕府軍は,博多湾沿いに築いた石塁を利用して戦った。 >元の大軍は上陸できないまま,暴風雨に襲われて大損害を受けて退却した(弘安の役)。 【FdData 高校入試:中学社会歴史:鎌倉】 Fd教材開発(2008/01/16) http://www.fdtext.com/dan/fdn_sr04_kama.pdf >元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従うようにと使者を送ってきた。 >幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。 >その結果,1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度にわたって日本に攻め込んだ。 【FdData中間期末:中学社会歴史:鎌倉】 Fd教材開発(2011/11/18) http://www.fdtext.com/dat/pdf_re2_1_kamakura.pdf 古いのを探したら、玉川大学・玉川学園制作・著作となってる「鎌倉時代の勉強をしよう」ってHPにもあった Googleの日付だと2002、2003年のもので、こんな昔っから、しかも大学のHPに歴史の勉強用に載せてるものにすらあったんだな しかもこのHP、「元寇」で検索すると2番目に表示されるから、元寇について調べようとした時にここを見る人多そう 二番目と三番目の方ははっきりと日本が使者を斬ったからフビライが怒って日本を攻めたように書いちゃってるし、 一番目の方にしても、朝廷が返書しようとして幕府が反対して取りやめになったのって金有成の時のことなら、 その後に来た使者って趙良弼のことになるから殺されてるわけがないんだけど でも別の元寇の解説にはちゃんと使者殺害を文永の役後、弘安の役の前としてるものもあったりして なんか所によって書いてることが違うなこのHP… >その当時の日本人には国と国の付き合いかたが分からなかった. >朝廷は返書を出そうとしましたが幕府はそれを握(にぎ)りつぶしました. >そして,その後に来た使者を殺してしまったのです. >本やテレビでは「日本の決意を示すため」としてありますが, >冷静(れいせい)に判断(はんだん)すればそんなことはしないはずです. >国際的な常識ではたとえ戦争中でも使者を殺すことは許されません.これは昔も今も同じです・・・ 小学生とゲンボー先生のページ19(2002/02/01) https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/el19.html >1.元は最初「元と貿易をしよう」と言ってきたのです。 >ただその時の手紙の内容が「他の国は皆OKといったぞ! >お前らもよ〜く考えて答えろよ,できれば軍隊を使いたくないからね〜」というような半分おどしの手紙だったのです。 >幕府は元のことを中国からきたお坊さんから聞きました。 >それによると強力な騎馬軍団(きばぐんだん)で多くの国を支配したとのことです。 >日本と貿易をしていた中国(南宗=なんそう))も侵略(しんりゃく)されていました。 >それで幕府はあわてて元とのおつき合いを拒否したのです。 >それどころか使者を切ってしまいました。いくら昔でも使者を切り殺すなど国際ルールを無視しています。 >それで、頭に来た元の一番偉(えら)い人(フビライといいます)が、日本攻撃(こうげき)を命じたのです。 >海を隔(へだ)てた日本を支配してもあまり利益になりませんが, >元は他国へのメンツもあって日本を攻撃(こうげき)してきたのです。 小学生とゲンボー先生のページ6(2003/08/29) https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/el6.html >そこで,フビライハーンは日本の王に対して「交易をしよう」という手紙を書きました. >しかし,その手紙には「交易しないのなら,軍隊を送るがそんなことはしたくないなあ・・」というおどしの言葉も書いてありました. >元にはもう一つ目的がありました。 >それは当時元と戦っていた南宋と日本の貿易額が大きく人の行き来も多かったため、 >日本と南宋をなんとかして切り離そうとしたのです。 >しかし、日本には南宋から日本に逃げてきた人が沢山いて, >その人達が「元」の恐ろしさを伝えていたために,日本は元の申し出を拒否したのです. >日本は拒否のしるしに元の使者を処刑しました.このことに怒ったフビライが日本遠征を命じたのです. 中学生とゲンボー先生14(2003/03/01) http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/jh13.html 今は映像授業サービスとWEB予備校の動画にもあるし、 学校といいオンライン授業といい、そう勉強してしまった人も増えたんだろうな ・トライイットという中学生・高校生向け映像授業サービス 【中学歴史】「元寇 文永の役と弘安の役」 映像授業のTry IT (トライイット).html https://www.try-it.jp/chapters-2878/lessons-2898/point-2/ >日本に興味を持ったフビライ・ハンでしたが、いきなり軍隊を送ったわけではありません。 >まず日本に使者を送り、降伏して元の支配に下るよう要求しました。 >当時の執権である 北条時宗 は、フビライの要求を拒否するだけでなく、元の使者を処刑してしまいました。 >この行為に激怒したフビライが、日本に大軍を送ってきたわけです。ついに戦いが始まります。 ・無料WEB予備校・塾 チノポスの授業動画 竹内睦泰 元寇と得宗専制政治 https://www.youtube.com/watch?v=b4_azPkG7-o >元の皇帝フビライは、日本に服属要求。家来になれといいました。 >日本側は北条時宗、家来になれと言ったモンゴルの、フビライの、使者を、二人の首を刎ねます。拒否。元寇でございます。 >まず文永の役。元高麗軍三万人が来ます。博多湾に上陸。 単なるネットの書き込みだけなら鵜呑みにしない人でも信用するような 教育媒体にまで浸透した結果かあ… そりゃ年々増えていくわけだ 鹿島昇の本だったかな 元の友好の使者を斬首するという外交の常識的にも異常な行動に出たのは 義経=ジンギスカンだからそれを隠すため、 みたいなぶっ飛んだ話見て吹いた覚えがあるw >>343 ] 流石に教科書にはないと思うけど、それなのに教えてる教師がいるってどうなってんだろ >>350 教師が授業を盛り上げようとして教科書にない話を盛るのが問題なんだよ。 鎌倉武士がモンゴル軍に「やーやー我こそは」と名乗ったなんてどこの史料にもないけど 実話だと信じてる人多いだろ。 >> 中学、高校の教師のサイトにも結構あったから、中高の教員にも広まってるらしい 一番上は2002年頃のもののようだから、やっぱり学校教育への広まりもかなり前から起きてるみたいだね 社会科が好きになるページ―中学校社会科教師のための実践マニュアル集― <地獄の沙汰も金次第>A いざ!帆を上げよ!@ http://kawa-k.vis.ne.jp/jyugyou/kanesidai/jigoku2.htm >教師:そう。鎌倉幕府。・・・この時の将軍は御飾りで、そのときの幕府の中心は執権という職についていた北条時宗という人。 >時宗はなんとモンゴルの使者二人の首を切り、最後の一人にその首を持たせてモンゴルに送り返した。 >生徒:「攻めて来いって言ってるのと同じジャン。」 >教師:そう。・・・そしてモンゴルは攻めてきたというわけ。・・・そのときの戦いの様子がそのとなりの絵だ。図2を見てご覧。 これでも元私立高校教員 意外に楽しい「高校日本史」4 〜鎌倉時代の相続(中編)〜 https://ameblo.jp/nopposan180/entry-11771005629.html >その使者は大陸からやってきた。 >8代執権北条時宗は、その使者の要求を拒絶しただけでなく、使者を処刑することを命じた。 >この使者を派遣したのはモンゴルのフビライ。 >高名なチンギス=ハーンの孫であり、中国で宋を滅ぼし、元を創始し皇帝となった人物だ。 >世界的な大帝国である元からみれば、日本などは歯牙にもかけぬ小国であり、 >その小国が使者を切り捨てるなど笑止なできごとであり、フビライは直ちに日本討伐を決意した。 >いわゆる元寇である。 >1274年、元軍は朝鮮の高麗軍と合わせて3万人の軍勢で対馬・壱岐を占領し、九州北部の博多湾に上陸した。 【てぃ〜ちゃ〜Mの授業】 #34【中学校社会科 歴史】元軍の襲来 http://teacherceo-masajirusi.com/2019/11/14/post-643/ >元の皇帝フビライハンが日本に服属を求めて(子分になるように求めて)日本に使者を送るが、最終的に使者を切り捨てたことにより元が日本に攻めてくる。 >元の皇帝フビライハンが日本に従わなければ攻め込むぞという手紙と使者をたびたび送るが鎌倉幕府は拒否。使者を切りつける。 >怒った元軍が攻めてくる。 社会科講師の流儀 【元寇の授業−鎌倉時代ネタ】 https://ya-hon.com/genkou >そして、五代皇帝フビライの時、国号が「元」に変わり、日本に服属を要求してきます。 >8代執権、北条時宗はこれを拒否。使者の首をはね、送り返したと言われています。 たのしい教師生活 http://tanoshi-kyoushi.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/ 日本史B「蒙古襲来」の授業 >1)フビライから日本に送られた書状を紹介する。 >「『誰が好き好んで兵を用いるだろうか』というのは、何を言いたいのだろうか。」 >『脅し』 >「この手紙に対して、君が北条時宗だったらどう返答する?」 >『来るなら来いって言う』『使者を送る』 >「実際は無視。6回同じ書状がきた。しかし、使者を殺害するなどする。返答がないことを受け、フビライは日本侵略を決意する。」 小学校、中学校、高校、 大学のHP、塾、教材、歴史の本… 浸透しすぎじゃね 流石に大学で教えてる所はないよな? >>345 、>>346 の「鎌倉時代の勉強をしよう」は「制作・著作 玉川大学・玉川学園 協同:多賀歴史研究所 多賀譲治」となってて この人が質問に回答してる「ゲンボー先生」らしいね 歴史が専門の人の書いたものでこの誤解を書いてるもののはないと思ってたけど、 本じゃなくHPとはいえ、あったんだなあ しかも18年も前から… このHPは「知るほど楽しい鎌倉時代」って題名で本にもなってるらしいけど、そっちにも載ってるんだろうか 本の説明に「平成15年第9回マイタウンマップコンクールにて 「教材開発のページ(鎌倉時代の勉強をしよう)」が東京都知事賞を受賞」ってあるけど、 このHPが受賞したってことなのかな… どうもこのデマ、取り上げるときの論調が日本・鎌倉幕府・北条時宗を 批判するものと称賛するものと両方あるみたいだね 批判的なものは先に手を出した日本が悪い、とか だから元寇は日本に非がある、侵略ではないとまで言い出してる >>352 あれ敵に対してじゃなく味方に対して名乗ってる(参加証明?功績アピール?)って話も聞くけどどうなんだろ 鎌倉時代とはいえ大陸と言語が違うことくらいはみんな知ってただろうし 日本語で名乗るって違和感あるし 白村江敗戦で唐に制圧された、元寇開戦は日本が起こしたなどなど。 全部チョンコの陰謀。 元寇に関して日本が悪い的な陰謀論は他にもあるなあ なんか日本の御家人が勢力拡大のためにわざと元寇起こすよう仕向けた、みたいなのとか そんな説でも特集した番組もあったような 北元の末帝から後金の太宗に伝わった 伝国の璽は清の滅亡でどうなったのだろう 元寇の防塁だが10mの城壁がざらにある大陸で戦って来た元軍にとってはおもちゃ並みという見方は一旦あるだろうがさにあらず。防塁があるがため日本側は元軍を防塁の外に封じ込めた。すなわち守城の立場変じて攻城側となったのが最大の利点だろうか。 元寇と対馬がテーマのゲームだってさ ソニー傘下の外国人開発チームが作ってる 元軍も南宋攻略に費やした位の兵力を投入すれば日本に勝てたかもしれんのにな。 >>366 そんな大軍を日本に輸送するのは文永の役の時は無理だろうし 弘安の役でも可能だったかどうか 樺太および蝦夷を大軍でもって征圧し、そこから陸奥、奥羽と侵攻したならば、 鎌倉を落とせたんじゃね? そんなことしてる間に本国が内乱。 東北周りでゆっくり攻めてるうちに楠木正成が生まれ落ちてゲリラ戦で撃退する 鎌倉幕府もモンゴル軍が樺太経由で北から攻めて来ることを警戒していた。 青森には昔から「蒙古が攻めて来るぞ」と言って子供を叱る習慣が残ってる。 英語圏では元寇でモンゴル兵の革鎧で太刀が折れたからいわゆるkatanaができたって話ひろがってる 英語wikiに日本の刀剣サイトの相州伝の説明を根拠にしている箇所があった これって本当なんでしょうか、説明見ると矛盾をかんじます だって相州伝は相模国つまり神奈川あたりで、元寇で実際に戦ったのは九州の御家人だから関係ないじゃん。 相州伝根拠説だと鎌倉幕府が元寇後に地元の刀鍛冶に命じたとのことです 英語wikiの根拠が日本の刀剣ワールドでは 軽く折れないようにしたとかモンゴル兵の青竜刀に影響されたとかのようです ほかのサイトでも似たような説です、青龍刀ってとこであれですが 初めから刀剣ワールドと書けばいいのに。確認したけどなんとも判断がつかない。 「強く鍛えた鋼を高温で熱し、急速に冷却するという、技術的にとても難しい鍛錬法の技術は伝承されず、 現在ではもうその製法を知ることはできません。」 と書いてあるけどそれって焼き入れじゃないの。 それと蒙古襲来絵詞を見ると敵味方ともに弓で戦っ」いて刀で切り結ぶようなことはしてない。 それから元の前の北宋の欧陽脩という文人が「日本刀歌」という歌を作っていて当時既に 中国でも日本刀の優秀さが知られていた。中国の青龍刀(柳葉刀)に負けてるとは思えない。 「ところが最近宝刀が日本の国より出てきた。越の商人がこれを青海原の東に求めてきたが、 それは香木の鞘に鮫の皮が貼ってあり、真鍮と白銅を取り混ぜて飾ってある。【真鍮は金に よく似ており、白銅は銀によく似ている】百金という大金を払って好き者の手に入った。佩用 していると悪魔を払ってくれるという。」 「それまでの日本の戦闘様式は、位の高い戦士同士が1対1で戦う「一騎打ち」が主流でした。ところが、 外国人である元人には一騎打ちは通用せず、前触れなく多数で包囲してくる「集団戦」を仕掛けられたのです。」 こう書いてあるけどこれは古い説です。蒙古襲来絵詞を見れば日本側も集団による騎射で戦っているのがわかります。 「2つ目は、焼き幅が広いこと。焼き幅が広いと硬度が高く裁断力も高いが、それだけ欠けやすく、 何度も太刀を合わせると折れてしまうのです。3つ目は、刃こぼれをした場合に研ぎ直しができな いこと。鋒/切先の短い猪首鋒では、研ぎ直しができず、太刀自体が駄目になってしまうのです。 これらの欠点を補う新しい鍛錬法の改革に迫られ、ついに新藤五国光、国光の弟の国広、正宗に よって「相州伝」と呼ばれる流派が生まれます。」 どこにも革鎧で太刀が折れたとは書いてない。「何度も太刀を合わせると折れてしまう」である。 youtubeで外人が「tachiはkatanaでは無い」「katanaは元寇後にできた」「katanaは砂鉄などのゴミからできている」 「日本の技術はモンゴルより遅れていた」「西洋のロングソードはクニャクニャ曲がって折れないから、折れる刀より優秀」 などの説がおおく、定説化しているので「刀は総称で、漢字で太いkatanaと書き、太刀は打刀では無いという説明は 説明がなりたちます」「刀は宋に輸出していて欧陽脩という政治家が日本の技術を称賛しています」「玉鋼は鋼を脆くするリンと硫黄 などを除去し、現在は安来鋼が刃物鋼として生産されています」とせつめいしています。 外人が「革鎧で太刀が折れる」というので 相州伝 元寇 などで検索すると刀の改良原因が「革鎧に対抗するため」 「元寇により日本刀の欠点が明らかになった」「集団戦の歩兵用」などがありました 元寇の英語版wikiの下に日本刀の説明にも元寇で刀の形が変わったとあり、刀剣ワールド のリンクがあります ttps://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_invasions_of_Japan 刀が折れないとはいいませんが、相州伝根拠説は日本側も言っている、が根拠がばらばらなんですよね 台風神話や一騎討ち神話を教えられてたんで疑り深くなっているから聞いてみた次第です 外人は未だに台風神話が定説してますね、長文で説明したら変人扱いされます 反日なのか変な説を信じてるのかしらないけど、海外の元寇話見てると 日本を過度に落とすような話が吹聴されてるような印象がある もっとも5chでもそういうのあるから国外に限ったことじゃないが… アジア系の反日というか、歴史的西洋剣術H.E.M.Aというのがあって、インターネット時代になってから できた武術で歴史書や一枚絵から失われた武術を再現するコミュニティーみたいです 自分たちの優位性を示すために日本の武術や武器を踏み台にしてるかんじです ダークソウルなどのゲームやG.O.Tなどのドラマの流行で人が増えたようですがネタがないのか動画のアップ数は近年減っています 向こうでもH.E.M.Aは歴史的じゃないとか、西洋剣術は唯物論や無神論のためうしなわれたとかつっこまれています そもそも遊牧民なんだから溜め込んだり支配してやろうって発想は持ってないぞ そういうのは寝返った現地の平地民支配層がモンゴル帝国の権威をカサにやってることで 遊牧民は降参してシッポ降るのまで確認したら、後は上がりさえ入ってれば下が何やってようと気にしない >>380 遊牧民は土地を支配する思想がないだけで、人に対する支配欲は強いぞ。 遊牧民にとって所有する人と家畜の数が権力なんだから。 モンゴル帝国も征服した国では必ず人口調査をするし、王族を人質に出すように要求してる。 >>211 欧州はイギリス、フランス、スペインでガチの戦争してて、極東に数十万の兵力送り込む国力は無い 中世で船だけなら、アメリカでも日本侵略は無理 13世紀に行われた第4回十字軍で、十字軍側が当初ヴェネチアに動員を約束した兵数は、 騎士4500人、従者9000人、歩兵2万人だった。 これは文永の役の元軍の兵数、蒙漢軍2万5000人、高麗軍8000人とほぼ同数。 実際には、十字軍は約束の3分の1の兵数しか動員できなかった。 それでも第4回十字軍は、文永の役の3分の1の兵数で2000キロの渡航遠征を行い、 ビザンツ帝国を征服してるんだな。 鎌倉時代の日本が突出した軍事強国だっただけで、当時の世界のレベルはその程度。 >>374 仁徳天皇陵を調査したGHQの報告書で副葬品の大太刀が白く光ってたと言ってたそうだが約1700年もの間その輝きを保ってたとは驚きだと話題になってた。 銅製なら緑色、鉄製なら赤錆が付いてたのにな…その白銅製だったのかも。 >>383 > それでも第4回十字軍は、文永の役の3分の1の兵数で2000キロの渡航遠征を行い、 兵が少ないのは、人口でなく食料の問題では >>385 単純に十字軍参加希望者が思ったより集まらなかったんだよ。 ヴェネチアは、 ちゃんと騎士4500人、従者9000人、歩兵2万を聖地まで輸送する船の準備をした。 だから十字軍はヴェネチアに代金が払えなくなり聖地じゃなくビザンツ帝国を攻撃することに。 元寇を退けた台風「神風」は日本をロックダウンした? 医師が解説するその理由 https://dot.asahi.com/aera/2020080400045.html?page=2 最近、元寇によって日本はペストから守られたって論調の記事あるけど、 日本は南宋の人は助けたという話もあるから、 そういう意味では元寇の兵士を完全に国内に入れなかったわけではないよね? 元々博多にも南宋の人かなりいたというし それでもペストが持ち込まれなかったのはなんでだろう 南宋には流行ってなかったのかな 【元寇】 麗蒙連合軍の日本征伐、戦力は上だったのに失敗した理由は?〜国や民族にも運がある★2[08/09] [蚯蚓φ★] https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1597016241/ 東ア板に久々の元寇スレ ゴーストオブツシマ効果で このスレもすわ盛り上がるかと密かに期待したら 安定の過疎に安心 あまり売れてないからね ゲーム会社もあまり期待してなかったのか出荷が少ないから品薄で人気のように見えるけど 初週売上は日本だけでも20万本以上だし据置機の新規IPとしてはかなりの快挙じゃないの とはいえわざわざこのスレにまで来て書き込む人はおらんやろなあ 日本史詳しくない初心者は書き込みにくい雰囲気だし あとツシマスレ見れば分かるがあのゲームやってる層の大半はそもそも史実だのに興味がない >>1 >神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん 廿日の戦闘が終わった後、元軍がいったん船に引き上げたという話は、学者や教科書も含めて 広く流布しているけど、そんなことを書いてある史料を見たことがないんだよね。 この説の始まりは一体なんだろう。 >>396 夕方に戦闘が終了して、翌朝には難破してるからじゃないの? そうなれば、戦場から引き揚げてすぐ乗船するぐらいでないと間に合わない >>396 そんなにたくさん史料を読んでるなら元軍が橋頭堡を確保して船に戻らなくなったという史料が見つかるかもね >>391 発売3日で240万本てかなり売れてると思うけど >>400 サムライのゲームだという物珍しさで最初は売れたな 中身はつまらない劣化アサクリだったけど >>397 >夕方に戦闘が終了して、翌朝には難破してるからじゃないの? 翌朝はまだ難破していないよ。 一隻が志賀島付近に座礁していただけで、その他は博多湾から消えていた。 あ〜よくやるらしいんだよ ヨーロッパのときもそおだけどな 最初はすぐ引き上げるわけ その10数年後に前の数倍の大軍を投入してくんだよ だから最初は偵察戦なわけなんだよ それで終わりじゃないの 第一次元寇の軍が4万 第二次元寇の軍が16万 二度目のときはほんとに台風に打ち当たりやつら藻屑になった 半島だろうが中国だろうが台風はほとんど発生しないからな 日本は山間部だから台風なんかくれば山から土石流が流れるなんざ当たり前 台風の中を生き延びられたらほめてやるよw 第三次も計画あったらしいけどな フビライが死んで計画白紙になったの いいかやつらの場合はすぐ大軍送るとかじゃないの 全部族で集まってどこを攻めるか会議やるんだよ これをクリルタイって呼んでるわけ それぞれ受け持つ軍団を集合させて攻めるから十数年かかるの やつらヨーロッパまで攻めているからな そういうときは日本にはあまり大軍回せないの 中国から日本に来る船があるだろ だいたい生存率が50%なんだよ 台風に打ち当たったらほとんど藻屑となって沈むの当たり前なの 普通の商業船でもそおなの やつら支配した地域によってウルスを置いたわけ ウルスってのはそれぞれクリルタイが開かれる場所を指す それがそのまま〇〇ハン国って呼ばれるよ〜になったわけ 中国支配したウルスはもちろんモンゴルにあった 明の朱元璋はモンゴルのやつらを中国から追い払ったが以前としてモンゴルにウルスは存在したわけ そんでやつらは以前として大元皇帝名乗ってるわけだよ 明が積極的に仕掛けたのはそいつらを滅ぼすための戦い 結局、後の清を建国したホンダイジに大元皇帝の印璽を明け渡して滅ぶんだがな 清の皇帝は一応、モンゴル、女真、漢民族らに推戴されて皇帝となった >神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん このような考え方を「いったん乗船説」と呼ぶとして、その典型的な例を挙げる。 「モンゴル帝国の興亡」杉山正明著、127〜128ページ 「ところが進攻軍もまた、いったん兵を引き、博多湾上の艦船に戻った。夜襲などの不意打ち、 地の利を生かした奇襲攻撃を回避するためには、当然だったかも知れない。そこを暴風ないし 突風が襲った、とされる。損害の出た侵攻軍は、戦闘継続をあきらめて、高麗国へ帰投した。」 どう思う? >>412 2ヶ月経っても石塁を越えきれなかったのはどう思う? >>402 その他は博多湾から消えていたという表現は正確じゃない。 ちゃんとモンゴル艦隊は博多湾から敗退したと書くべき。 >>404 最初のも偵察じゃないよ。 モンゴル軍の4万は世界の大半の国を余裕で征服できる兵数。 だからクビライもそれだけの兵力投入すれば普通に日本を征服できると考えたんだな。 ところがモンゴル軍4万人は日本軍に全く歯が立たずに1日で逃げ帰った。 だから2回目は14万人の大軍を送ったわけ。 「いったん乗船説」の本質は、戦闘継続の意思がある上陸軍が、上陸当日の「宿営地」として 「船上」を選んだ、というところにある。 その上で言えば: 1)いかに夜襲が怖いからと言って、夜間上陸作戦と同じだけ、あるいはそれ以上の労力と危険を 伴う「夜間乗船」を選ぶだろうか? 2)もっと問題なのは、夜間に「湾内」で暴風に遭って危険を感じた船隊が、もっと危険な(もっと 波の高い)「外海」へ出ていくだろうか? 湾内でやり過ごそうとするのではないか? この二つの疑問だけでも、「いったん乗船説」は成り立たない。 >>413 >モンゴル軍の4万は世界の大半の国を余裕で征服できる兵数。 まず、文永の役の元軍の兵数は4万ではなく2〜2.5万。 「世界の大半の国」とはどこの国かわからないが、 中東のホラズム王朝を滅ぼしたチンギスハーンの遠征軍は20万。 ヨーロッパ諸国の騎士団を壊滅させたバトゥの遠征軍は15万。 南宋を滅ぼしたフビライの部将バヤンの遠征軍は本隊だけで20万(他に支隊)。 おおざっぱに言って文永の役の元軍とは桁が一つ違う。 >>417 バカ? 意見が合わないとNGならどっかtwitterにでもどこでも行けよ行けぬ間 >>416 それ実数じゃないやん。 モンゴル帝国はホラズム王朝を滅ぼして、1227年にチンギス・カンが死んだ時点で 総兵力12万9000人だし。 それにポーランドへ攻め込んだモンゴル軍の兵数は僅か1万人。 一方、文永の役は中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と 梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人。 文永の役と比べたら、ヨーロッパ諸国の騎士団を壊滅させたバトゥの遠征軍なんて 屁みたいな規模でしかない。 >>420 自己紹介 朝鮮人の口癖 朝鮮呼ばわりがいやならもう言うな >>419 >1227年にチンギス・カンが死んだ時点で総兵力12万9000人だし。 その数だとしても巨大であることに変わりはない。 チンギスハーンの時は民族移動式の根こそぎ遠征だからね。 それに、平時は戦時より兵数が少ないのは現代でも同じだ。 >それにポーランドへ攻め込んだモンゴル軍の兵数は僅か1万人。 バトゥの遠征軍の出発時の兵力は1万〜5万の推定があるが、要するに比較的少数だった。 それが遠征の過程で異民族を糾合して、15万と言われる大軍に膨れ上がったのだ。 ポーランドでワールシュタットの戦いをやったのは、その中の一支隊だ。 >文永の役は中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と梢工引海水手6700人を >合わせて総数約4万人。 蒙漢軍は1万5千人と元史にある。また高麗軍の実数は高麗史世家の忠烈王六年に5300人とある。 洪茶丘軍(高麗人部隊)の数は不明だが、これが蒙漢軍に含まれれば合計は2万300人。 含まれなければ推定で2万5千人。 梢工引海水手は普通は兵数に含めない。 海が荒れるときは2メートルくらいの落差で揺さぶられるからな〜 船が転覆したら海上なら死ぬしかないニダ 大陸の大河なら波は起こらん 海上じゃあローリングとピッチングが起こる ローリングには人間耐えられるのよ ピッチングが起きたら死ぬ目に遭う 海ってのは水深8000メートルあるんだよ 大波が起これば10メートルの落差がある波が発生して持ち上げられたり叩き落とされたりするの 〜〜〜〜〜〜〜〜 こゆ状態になるの だいたい落差は数メートルから数十メートル でガタガタ船🚢が揺さぶられるんだよ 転覆した時点でアウトだぞ 普通は岸につけてやりすごさなきゃ命はない >>408 フビライの頃は、国が5つに分裂してるし、ベトナムにすら舐められる。もう勢いが無くなってる。元寇で主力失ったし モンゴル系の血を引く王朝がそのあといっぱい乱立するけどね ティムールとかムガールとか ロシアのイワン大帝なんてなモンゴルの将軍だったし その縁でモンゴル遠征始めたんだぞ 元以外のモンゴル帝国構成国みんなイスラム教に飲み込まれた説 ティムールはそのあと中国征服狙うんだわな そのティムールを倒したのがオスマントルコ ティムールがモンゴルの後を継ぎまた世界帝国築くんじゃないかみたいに言われたりな モンゴル落として正式にモンゴル皇帝の地位につければ名目立つからな 大元皇帝の印璽を最後は清のホンタイジに差し出しちゃったからパー✋ 清帝国成立は蒙古、漢、女真すべてから推戴されて皇帝に着く 日本は中国とは貿易はやらないが通信使を互いに送り込み情報のやり取りくらい ロシアを支配したキプチャク汗国(ジュチウルス)は、人口的にはキプチャク人が大部分だった。 そのキプチャク人の末裔がウズベク人だというのは、最近初めて知った。 中共がウズベク人をいじめるのは元帝国への恨みもあるのかも。 >>441 お前もなぜいつの間にかイスラム教に乗っ取られてるんだと思ったらそれが理由か >>424 戦時に動員できる兵力が12万9000人だよ。 あと、遠征の過程で異民族を糾合して大軍に膨れ上がったモンゴル軍は東欧に侵攻せず、 大部分がモンゴル高原に帰還してる。 1239年秋にオゴデイ・カアンは遠征に参加していた自身の嫡子グユクとトルイ家の モンケに帰還命令を出してるからね。 オゴデイ・カアンの死後、グユクはいち早く大軍を率いてモンゴル高原に到着し、 東方三王家最大兵力のオッチギンを圧倒して帝位に就いた。 1240年からの東欧侵攻には少数の残りカスしか参加していない。 それと、元史に蒙漢軍が1万5千人と書いてあるのは誤植ね。 元時代に編纂され、元史の史料となった経世大典だと蒙漢軍は2万5千人でこれが実数。 元史は短期間で編纂され雑だから時々間違いがある。 高麗軍も高麗で動員されたのは5000人だけど、忠烈王が元から3000人連れてきたから 合わせて8000人。 文永の役の兵数は、中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と 梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。 >>126 >戦時に動員できる兵力が12万9000人だよ。 だから、その数で十分に大軍ではないかと言っているのだが。 >遠征の過程で異民族を糾合して大軍に膨れ上がったモンゴル軍は東欧に侵攻せず、 大部分がモンゴル高原に帰還してる。 オゴディ軍を膨れ上がらせた異民族というのは殆どがキプチャク人だよ。 キプチャク人がなんでモンゴル高原に「帰還」するのか? >梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。 実数と言うなら忠烈王は第一次東征の大船の実数も述べている。126隻だ。 4万人が126隻に乗れるのかな? ちなみに第二次東征の東路軍4万人に対する大船の数は300隻だ。 >>445 >キプチャク人がなんでモンゴル高原に「帰還」するのか? グユクやモンケに糾合されたキプチャク人は、グユクやモンケがモンゴル高原に帰還すれば、 当然一緒にモンゴル高原に行くだろ。 この時モンゴル高原に行ったから、キプチャク人は後の元朝で最強軍閥として天暦の内乱以降 皇帝を傀儡化させるほどの勢力を誇っていたわけで。 >実数と言うなら忠烈王は第一次東征の大船の実数も述べている。126隻だ。 これは嘘。 忠烈王が第一次東征の大船の数を126隻などと述べた記述は存在しない。 高麗史において第一次東征の大船の数は最初から最後まで一貫して300隻。 そもそも同時代史料の経世大典に「以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」 と書いてあるんだから第一次東征の大船の実数が300隻だったことは絶対だ。 >>446 >これは嘘。忠烈王が第一次東征の大船の数を126隻などと述べた記述は存在しない。 高麗史・世家 忠烈王六年十一月 「兵船は惣(すべ)て九百艘、三百艘の用うべき梢工水主は一万八千。窃(ひそ)かに 念(おも)うに小国の戸口は自来凋弊し、往歳東征の時、大船一百二十六艘の梢工水主 すら猶未敷と為す。況や今三百艘をや。何を以てか数を盡して応副せん。此を以て農民に 至るまで丁壮を徴発すること凡そ一万五千人。その不敷の水主三千は何(いずこ)より 徴発せんや。」 これは忠烈王が、第二次東征の準備が苦しいことをフビライに訴えた文章だ。 第一次東征は大船126隻、第二次東征は300隻と、はっきり書いている。 また梢工水主の数は大船一隻当たり60人で計算しているから、第一次東征の大船126隻の 所要人数は126×60=7560人で、これに対して金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は かなり不足している。 忠烈王が「猶未敷と為す」と言っているのはこのことだろう。 つまり金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は、忠烈王世家の「大船一百二十六艘」を 裏付けている。 ★【署名のお願い】内モンゴル中国語強制&民族消滅阻止! 内モンゴル中国語教育強制反対オンライン署名〔アメリカ合衆国ホワイトハウスのweb署名”WE THE PEOPLE”〕 https://petitions.whitehouse.gov/peti... (https://petitions.whitehouse.gov/peti... ) オンライン署名の方法 PCの場合:ページ右下側にある スマホの場合:すぐ下にある ・First Name(名前) ・ Last Name(苗字 /姓) ・ Email Address(Eメールアドレス) この三箇所に記入したらすぐ下ある ・Sign Now をクリック(送信される) すぐに上記メイルアドレスにホワイトハウスからメールが来るので そのメイル内に記された ・Confirm your signature by clicking here (ここをクリックして署名を確認) をクリックします。 <署名完了!> 横レスだが、なんでそんな自信満々だったのかは知らんが、 これは、ごめんなさいでは? そんなんやっても無理 中国領とされた時点で終わってるだ 独立するしかねえでよ 神風で元軍退いたんだから恩賞要らんよね? ↓ 鎌倉幕府滅亡 【歴史】CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点 なぜ蒙古軍は一夜にして撤退したのか [すらいむ★] https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600309373/ >>446 第一次東征で高麗が梢工水主を負担した大船の数が126隻だったというだけじゃん。 第一次東征における大船の数は元史、高麗史、経世大典など主要史料全てが300隻で 一致していて、126隻などと述べた史料は存在しない。 >つまり金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は、忠烈王世家の「大船一百二十六艘」を 裏付けている。 金方慶伝の記述は、 「蒙漢軍二万五千、我が軍八千、梢工、引海、水手六千七百、戦艦九百余艘を以て合浦に留め、 女真軍を待つ。」 忠烈王世家の記述が金方慶伝を裏付けてるなら、金方慶伝の記述は実数であり、 戦艦の総数は900余艘、つまり大船の数が300隻であったことも裏付けられたわけだ。 どう屁理屈を並べても、大船の実数は諸史料の一致する300隻であり、その内で 高麗が負担する梢工水主の割り当てが126隻だったとしか考えられんわな。 457 かなり私貿易に近いね〜 北条なんか滅んだのある意味で当たり前なんだわな てめえらの利益追求しかやってないからよ そういえばクビライは日本と中国の付き合いについて手紙で言及してたけど、 クビライが要求するような付き合いってもう日本してないよね? 遣唐使が廃止されたの平安時代だし鎌倉時代って使者を宋朝に送ってなさそうだけど 461 うん、送ってない ニセ高麗とも貿易やってないし日本は貴族政治終わって公家武者らが現れた時期 貴族ってのは従三位以上を言う 公家っての従五位以上 貴族以外、朝廷には出仕できないんだよ 周囲の見回りや地方に下向する連中らが増え出した 皇族から外れた連中らも同じ やがてそういった連中らが日本各地で武装して武士団を形成した 宋貿易も日本国王印を使えば貿易できるから必ずしも天皇の署名でなくてもよいだ かつては天皇=日本国王兼ねていたがな 公家の連中らは京都で公家としてあり続けることにこだわった やがてそおいった連中らが没落した 9/17 【歴史】CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点 なぜ蒙古軍は一夜にして撤退したのか [すらいむ★] https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600309373/ つまり蒙古って唐と日本の朝貢関係みたいの目指していたのか そいから日本が天皇号を使い始めたの608年からな 遣隋使として書を送っているんだが 607年の日出る処の天子って名乗ってるのが摂政、聖徳太子 608年の日本の天皇、隋国皇帝に〜 ってのが推古天皇のこと >>459 >第一次東征で高麗が梢工水主を負担した大船の数が126隻だったというだけじゃん。 >忠烈王世家の記述が金方慶伝を裏付けてるなら なるほど、金方慶伝の引海梢工水手6700人が大船126隻用の船員数であることを認めるわけだな。 そうすると比例計算で、300隻ー126隻=174隻のための引海梢工水手9250人が別途必要になる。 この人数はどこで徴発されたのか? また忠烈王が連れて来たのか? また君は>>443 で、 >文永の役の兵数は、中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と >梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。 と言っている。 この他に引海梢工水手9250人が加わるとなると、上記の計算はどうなる? >>471 済州、東寧府、北界の能く水に習れた人は実際に文永の役に投入されてるだろ。 忠烈王六年記事によれば高麗は求められた梢工引海水手の定数である大船126艘分、 つまり、50人×126艘で6300人に満たない人数しか動員できなかった。 ところが女真軍を待つ段階で梢工引海水手は定数より多い6700人。 あきらかに高麗が動員してない梢工引海水手も含まれてるわけで、それが済州、東寧府、 北界で動員された分だな。 で、残り174艘の担当だった女真軍が到着しなかったことで高麗軍8000人も操船に従事し 大船300艘含む900艘の艦隊で遠征した。 『元史』卷八、世祖五、至元十一年三月庚寅条 「敕あり、鳳州経略使忻都、高麗軍民総管洪茶丘等,屯田軍及び女直軍を将い、水軍を并せ, 合して萬五千人,戦船大小合九百艘、日本を征す」 『高麗史』卷二十七、世家二十七、元宗十五年、四月甲子条 「洪茶丘、書を金方慶に移して云う、「船三百隻、梢工水手一萬五千人、預先め備えよ」と」 時期的に考えて洪茶丘が敕を下された「萬五千人」と、洪茶丘が書を移した「一萬五千人」は 明らかに同一だ。 つまり、クビライは最初から水軍である高麗軍に屯田軍と女直軍を合わせて1万5000人の 梢工水手を動員しようと考えていたわけ。 洪茶丘は高麗王朝に悪意を持ってるから1万5000人全員を負担させようとしたが、高麗王朝が 郭汝弼を元に派遣して「其の数甚多く豈に小邦の人のみを用いて足るべきか」と訴えた結果、 126隻分の負担となった。 残り174隻の梢工水手は屯田軍と女直軍が負担することに決まったってこと。 『元史』を編纂した宋れんは世祖本記至元十一年三月庚寅条の数字を兵数だと勘違いして、 経世大典で2万5000人になってる蒙漢軍の兵数を日本伝で1万5000人に書き換えた。 これで諸史料の数字全てを矛盾なく説明できる。 >>456 文永の役も弘安の役もガッツリもらえたんだっけ もらえた人ともらえなかった人にはどんな違いがあったんだろう? >>473 >時期的に考えて洪茶丘が敕を下された「萬五千人」と、洪茶丘が書を移した「一萬五千人」は 明らかに同一だ。 渡海遠征を命じる皇帝の勅に、ただ一つ現れる人数が船漕ぎ人夫の数だとは、いくらなんでもね。 「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人, 戰船大小合九百艘,征日本。」 これの解釈が問題だ。まず「水軍」とは以前に議論したように「渡海遠征軍」の意味だ。 君は「同率水軍」の解釈に反論していないけどね、 次に「并」は接続詞でなく動詞として用いられていると思う。 動詞としての第一義は「合わせて一つにする」ことだ。合併の併の意味だ。 以上から、勅の意味(意訳)は次のようになる。 「忻都および洪茶丘等は屯田軍及び女直軍を将い、(これらを)并せて水軍(と為し)、(その兵数は) 合わせて一万五千人、戦船は大小合わせて九百艘、(これを以て)日本を征せよ。 つまり「水軍」と「屯田軍及び女直軍」は同じものなのだ。 水軍と言う特殊な軍があったのでもないし、水軍=高麗軍でもない。 けっきょく賊でしかないやつが他国の皇帝にまで上りつめちゃったって話でしかないんだわな どおせクビライにしろ文献呼んでその気になったみたいなんだろ その時代の実際の関わり知らないわけだからな 475 問題だって? そいつらがそう主張してるだけの話だろ でたらめ抜かして嘘のことほざいてるキチガイはこの掲示板でも現れたぞ😃 そゆのが成り済ましって言うんだろ おもしろいからそいつらに対して自分で説明しろって言ってみな 黙るしかねえからよそいつら 事実認められないならてめえが死ぬ目にあっでみるか? 元寇のときに鎌倉幕府軍の総大将として九州に向かった宇都宮貞綱おるやろ😃 この武将は古代の毛野田道将軍の末裔なんよ 督戦で行ったんだわな 他のやつらで武将として残ってるのほとんどおらんで この宇都宮氏の拠点だったとこに家康は東照宮作っただ 学者レベルでそれなんだから、情けない話だな > ベトナムの陳朝はモンゴルの使者をいきなり投獄して拷問死させてる。 > ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。 > 鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは > 使者を全員無事に帰国させてるんだからな。 > それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」 >>18 > 辺境の地の海賊対策に高麗が元を引っ張り出すことに それは北方の間違いだろ アイヌ(加害者)側から樺太・大陸(元の勢力範囲)を侵略し、怒らせて負け元に服属した まず北海道に先住民(ウィルタ・擦文・ニヴフ・モヨロら)がいたところ 13世紀ごろ新たにアイヌ文化成立(オホーツク系と交雑)し、先住民を駆逐して勢力拡大 その過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略 →アイヌに害を受けた地元民が元に訴え 〜地元民の訴えを聞き、元軍がアイヌ(侵略者)にたびたび防衛出動→アイヌは負け元に服属 ※以降、アイヌは歴代中国王朝に朝貢 (アイヌのサンタン交易:古代中国への朝貢交易) http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/ >日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、 >アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。 アイヌの侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で何度も排除+懲罰し、アイヌは服従 https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf ★>アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、 ★>大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました <丶`∀´>ウリのことバカと思ったニカ? 衛星を打ち上げたけれど制御用端末を準備していなかった韓国軍 - 朝鮮日報 日本語版 2020/10/20 10:21 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/20/2020102080058.html 韓国は今年、初となる軍専用通信衛星「アナシス2号」を打ち上げたが、肝心の衛星を制御する端末は開発していないことが19日までに分かった。 軍の衛星を軌道に上げても、衛星を活用することもできずにいるのだ。 この先も1年ほどは衛星が空転する可能性が高いと伝えられている。 防衛事業庁(防事庁)が19日、保守系最大野党「国民の力」所属の韓起鎬(ハン・ギホ)議員に提出した資料によると、下朝鮮軍は今年7月、F35ステルス戦闘機を配備する際にロッキード・マーチン社と結んだ折衷交易(Offset。武器購入に伴う反対給付)で提供を受けた通信衛星「アナシス2号」を軌道に乗せた。 だが、衛星を制御する端末機の事業は来年度の予算にも反映されなかった。 端末機事業について、韓国軍は韓国国防研究院(KIDA)に事業妥当性調査を依頼したが、まだ調査が終わっておらず、予算をもらえないのだ。 韓国軍は当初、昨年12月から今年3月まで第1段階の運用試験評価を実施した後、事業妥当性調査を依頼しようとしていたが、スケジュールが1−2カ月ほどずれ込んだ。 これで事業妥当性調査も順延し、来年度予算からも抜け落ちた。 新しい機器を用意しておいて、リモコンがないから使えない、という格好だ。 韓国軍は、来年初めに通信衛星が任務を開始すると期待したが、このままだと1年以上も衛星は「無用の長物」になる。アナシス2号の寿命は12年だ。 韓国軍内外では、通信衛星事業は既に2年前から進んでいたにもかかわらず、端末機すら開発できていないのは非常識的だ−と指摘されている。 ロッキード・マーチンは当初、2018年上半期までに衛星を軌道に乗せると約束していたが、内部事情で計画を延期していた。 韓議員は「韓国軍専用の通信網を構築したいとして巨額の予算を投じ、衛星を上げておいて、結局は使える端末がなく、宇宙のどこかに浮いている衛星をただ眺めていなければならないというのが実情」と語った。 これについて防事庁は「事業妥当性調査の中間結果を根拠とし、国会の段階で予算を反映するため関連機関と協調する予定」と説明した。 <丶`∀´>やっぱりウリナラ自慢のK防疫はバカだと思ったニカ? インフル予防接種後の死者計32人に(でも因果関係が不明だから継続するニダ) - ソウル聯合ニュース 2020/10/23 10:24 韓国政府は23日、 インフルエンザワクチンの接種後に死亡した人が今月16日から23日午前0時までに全国で32人確認されたと発表した。 22日午前0時時点の12人に比べ、20人増えた。 ソウル郊外の仁川でワクチンを接種した高校生が16日に死亡して以降、高齢者を中心に全国で死亡事例が続出している。 保健当局は予防接種と死亡の関連性を確認中。 因果関係がまだ分かっていないため、接種を継続する方針だ。 因 果 関 係 が ま だ 分 か っ て い な い た め 、 接 種 を 継 続 す る 方 針 https://jp.yna.co.kr/view/AJP20201023001200882 >>411 北元の最後のハーンが皇帝の印璽をホンタイジに渡した時点を モンゴルの滅亡とするが ハルハ部はオイラートと結び尚も後金に抵抗した 降伏するのは清になってから >>475 「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人, 戰船大小合九百艘,征日本。」 はそんな読み方しねーよ。 (これらを)(と為し)(その兵数は)(これを以て)なんて原文に無い言葉を勝手に加えて 完全に別の文章にしてるじゃん。 話にならない。 「水軍」は「渡海遠征軍」の意味じゃないという分かりやすい例がある。 元史 卷二百十 外夷三 爪哇 至元三十年三月一日条 「土虎登哥、李忠等領水軍,鄭鎮國、省都鎮撫倫信等領馬步軍水陸並進」 (土虎登哥、李忠らは水軍を領し、鄭鎮國、省都鎮撫倫信らは馬步軍を領し、水陸並進す。) これはジャワ遠征の記事なんだから、当然ながら全軍が「渡海遠征軍」だ。 その「渡海遠征軍」の中に、兵種として水戦用の「水軍」と陸戦用の「馬步軍」がある。 「渡海遠征軍」を「水軍」と「馬步軍」という用途の違う2つの軍で編成するのが元軍の 基本形なんだよ。 文永の役も同じ。 4万人の「渡海遠征軍」の内、2万人が水戦用の「水軍」だからな。 ヅラスガ「強盗でアベコロナが拡大してきよったな よっしゃ、よっしゃあ」 >>475 ところで、江南軍10万人は水師だった。 江南軍の任務は海戦であって野戦や攻城戦じゃないとクビライが范文虎に告げてる。 元史卷十一 本紀第十一 十八年春正月戊戌朔条 「文虎又請馬二千給禿失忽思軍及回回砲匠。帝曰戰船安用此。皆不從」 一方、東路軍4万人も水師だ。 東路軍も江南軍も海戦の軍で、日本の内陸まで侵攻する能力はない。 つまり、日本征圧のための野戦軍が東路軍や江南軍の他に存在したってこと。 それが、これ。 元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕 「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」 東路軍と江南軍が制海権を確保し、博多から40万騎という圧倒的兵数のモンゴル騎兵を 送り込んで日本を征服するってのが、クビライの戦略だったわけ。 >>498 ごめん、壱岐軍議改め今津軍議君が2か月も空けてレスしているのに気が付かなかった。 >原文に無い言葉を勝手に加えて完全に別の文章にしてるじゃん。 ( )内は説明のために加えた言葉だが、お気に召さなければ読み下し文も載せよう。 「敕あり、鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等は屯田軍及女直軍を將(ひき)い、 合して萬五千人、戰船大小合して九百艘の水軍に并(あわ)せて、日本を征(う)て。」 注釈すれば「并」は接続詞でなく動詞であり、「水軍」はその補語だ。その「水軍」は 「合萬五千人」と「戦船大小合九百艘」に係っている、と解釈するわけだ。 要するに「忻都と洪茶丘は、屯田軍と女直軍を水軍に編成して日本を攻めよ」と言って いるわけ。 この場合、「水軍」というのは「軍が船に乗って水上を移動する」という、軍の移動形態を 表した言葉であって、特別な兵種ではない。 「渡海遠征軍」とは上記「水軍」を渡海の場合に限って表した、私の用語だ。 「水軍」が軍の移動形態(水上移動)を表す言葉だから、ジャワ遠征で河を舟で遡った部隊 もまた「水軍」と呼ばれるのだ。 一方で、河の両岸を徒歩や馬で並進した部隊は、その移動形態から「馬歩軍」と呼ばれる。 その「馬歩軍」も渡海する段階では海上を徒歩や馬で行くわけには行かないから船に乗る。 その状態では「馬歩軍」もまた「水軍」の一部なのだ。 上記した、ジャワ侵攻時の「水軍」「馬歩軍」は、君の言うように専門化された「兵種」 であっても良いが、臨時にその目的に用いられた一般の部隊であっても良い。 史弼伝によれば、ジャワ遠征で河を遡った舟は、現地で木を伐って作ったそうだ。 恐らく丸木舟だったのだろうね。 専門的な水上軍に、丸木舟は似合わないな。 >>500 >ところで、江南軍10万人は水師だった。 >一方、東路軍4万人も水師だ。 全くその通り。それが、以前から私が言っていることだ。 「水師」も「水軍」と同じで、この場合は「渡海遠征軍」の意味だ。 君は以前は江南軍の中で張禧軍だけが水師だ、と言っていたのではないか? 今になって江南軍全軍が水師だ、と言い出したのは張禧伝の「同率水師」の問題に反論でき ない、と観念したからだろう。 で、張禧軍を含む江南軍全軍を水師にするかわりに、水師ではない「野戦軍」として幻の 四十萬蒙古軍を持ち出した、というわけだ。だが、それも無駄な努力だ。 阿剌罕は第二次東征において東路軍と江南軍を併せた征日本軍の総帥だから、彼が率いる のは征日本軍ぜんたいである。「蒙古軍四十萬」も、そのことを表すべきところが、 間違えて変なことになっているのだ。恐らく「四十万」は十四万の間違いであり、「蒙古軍」 は漠然と元軍を表しているのだろう。 で、阿剌罕は「行次慶元、卒于軍中」で、出航地の慶元(=寧波)まで行って、宿営中に 急死したので、阿塔海が替わって総帥となり、日本まで行った。 阿剌罕も死ななければ日本まで行ったはずなのだ。 東路軍と江南軍を併せた十四万の「水師」を率いてね。 かくして、四十万蒙古軍も幻に終わった。 >>503 訂正;阿塔海は日本まで行かなかったらしい。元史の本紀を見ると: <元史本紀> 至元十八年二月丙申:行江東道宣慰使阿剌罕為中書左丞相、行中書省事 同六月庚寅:以阿剌罕有疾、詔阿塔海統率軍馬征日本 同七月己亥:阿剌罕卒 同八月庚寅:以阿剌罕既卒、命阿塔海等分戍三海口、令阿塔海就招海中餘寇 同八月壬辰:詔征日本軍回、所在官為給糧。忻都、洪茶丘、範文虎、李庭、 金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利、餘軍回至高麗境、十存一二 となっている。 阿塔海は六月に阿剌罕が病気のときに交代して征日本を担当したが、 江南軍が出発したあとの八月に「三海口」の守備などを命じられている。 また八月に敗れて帰国した将軍たちの中にも阿塔海の名前は無い。 本国にあって征日本に関与する、参謀本部のような職務であったらしい。 そうであれば、阿剌罕もまた、生きていたとしても日本まで行った可能性は無い。 四十万騎馬軍はますます幻だな。 ┏┓┏┓┏┏┓ ∩________∩ ┏━━┗┏┛┗┗┗┛ | ノ ⌒ ⌒ヽ ┏━┓ ┗━┓┃┗┓┏┛ ┏━━ / (●) (●) , ━━━┓┃ ┃ ┃┃┏┛┗┓┏┓ | ( _●_) ミ ┃┃ ┃ ┃┃┗┓┏┏┛┗┓ 彡 /) |‖| ミ/)━━━┛┗━┛ ┃┃ ┃┃┗┓┃┛彡( )))) |∪| ミ( i))) ┏━┓ ┗┛ ┗┛ ┗┛ / ノ ノ ヽノ .ノ ノ ┗━┛ モンゴル人がイングランド人やローマ人と違って学習能力が低かったから 日本が勝ったのは和弓=ロングボウを使っていたから弓の射程が元軍より長かったおかげ イングランド人やローマ人だったらそういう状況になったら対抗してロングボウを使いはじめるけど モンゴル人はそういう事が全くなかったから2度目の攻撃も失敗した。 騎兵に重装歩兵を四方八方から袋叩きにされたら騎兵を増強して対抗するのがローマ人 航空戦力に戦艦を撃沈されたら航空戦力を増強して対抗するのがイングランド人 ロングボウで射程外から攻撃されてもロングボウを量産して対抗しないのがモンゴル人 >>506 単なる射程では蒙古弓の方が長いのだが。 鎌倉武士の鎧は大鎧でも胴丸でも矢を効率的に防ぐ構造だから、 モンゴル側の弓の射程内でも防御出来た反面、重くて長くて小刀の様な鏃の 征矢を使う和弓は最大射程は短くとも有効射程内で当たれば より殺傷力が高く、且つ、皮主体のモンゴルの鎧やキルティングに 鉄鋲打った様なシナ朝鮮の鎧は日本の甲冑より簡単に射抜けたし、 太刀や薙刀での接近戦での斬撃に弱かった。 いそじん「早う解除してアベコロナで強盗ヘヴンやぞ よっしゃ、よっしゃあ」 ┏┓┏┓┏┏┓ ∩________∩ ┏━━┗┏┛┗┗┗┛ | ノ ⌒ ⌒ヽ ┏━┓ ┗━┓┃┗┓┏┛ ┏━━ / (●) (●) , ━━━┓┃ ┃ ┃┃┏┛┗┓┏┓ | ( _●_) ミ ┃┃ ┃ ┃┃┗┓┏┏┛┗┓ 彡 /) |‖| ミ/)━━━┛┗━┛ ┃┃ ┃┃┗┓┃┛彡( )))) |∪| ミ( i))) ┏━┓ ┗┛ ┗┛ ┗┛ / ノ ノ ヽノ .ノ ノ ┗━┛ いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ / ⌒ ⌒ \ / ノ ノ ノヽ ヽ | ノ | | | / ⌒ /⌒ヽ | ( V -・-ノ -・- V ) ( ( ) | ノ  ̄ ヽ | | `<二>′ | __\_____/_ /:::::::::::\\`ー─ '/7::::::ヽ /:::::::::::::::::::::\\ //::::::::::::::i |:::::::::::|:::::::::::::::\\//:::::::::/:::::| |:::::::::::|:::::::::::::::::/ i | i:::::::::::|:::::::| |:::::::::::| ̄ ̄ ̄ r | |/ ̄ ̄ヽ::::::l |:::::::::::|、 @ ノ__l || ◎.ノ::::::| l:::::::::::{>─- ─L!|.` ー┤:::::::| ヾ::::::::`ヽ_______,}::::::::l ./\::::::::::\ i | l! ./:::::::|ヽ / \:::::::::::> .| l /:::::::/ \ / \/ \ / ̄ ̄l \ ./ ヽ_!_!_j_} └|_!_!_!j \ _ -‐-‐ァ __ <三ニニL. _j‐-.三> {:::rj ! `ト、::::::j _ノ==-く チョンが悪さしやがって! ヘ、 ! / {警察 _,.> r=, ̄ ̄ヽ、 . L-! | (| | | 警察 ハ 丁 | Lニ| /、_j i L.| | ,ハ____l l !`7′ ! |「 | | | {:::::::::::::::ト, l ノ ハ―-― .{l ! | 〉|::::::i::::ヽ| |_j rヘ/ |::ノ:::::::::::ハ | ` !:::::i:::::::i| グギギギギギッ・・・ | l:::::::::i::::::| L! . |:::::i:::::::::! :∧_∧: | |:::::::::!:::::| l::::::〉:::::/ ;<l|l;`田´>; | !:::::::::!:::::! |:::/:::::/ :| `ー' ヌ____ノ !:::::::i::::::| |/:::::/ ;| 「`´ |:::::::i:::::| . /:::::〈_ ヽ l |:::::::l:::::| `ー一′ | l 〈_ |:::::::ト-′ `'ー-′ └‐┘ ┼ヽ -|r‐、. レ | d⌒) ./| _ノ __ノ (⌒⌒) ファビョ━ l|l l|l ━ン!!!!!. ∧_,,∧ ⊂<# `Д´> まともな思考なんかできたら / ノ∪ 朝鮮人なんてやってないニダ!!!! し―-J |l| | 人ペシッ!! __ \ \  ̄ ̄ ガースー「宣言解除して聖火リレーでドンチャン騒ぎ アベコロナがまた大拡散や よっしゃ、よっしゃあ!!」 ここ数年で元寇のモンゴル軍の主力は高麗だってよくみるようになったんだけど高麗兵数少なくねーか。 たぶん先陣を仰せつかってるね アメリカで言えば海兵隊。カッコイイ ガースー「聖火リレーでばか騒ぎ 五輪コロナが大拡散や マンボウやで全員集合」 元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か https://news.nicovideo.jp/watch/nw9506109 高麗船は手抜きだったのか? 台風による元軍の被害が大きかった理由の1つとして、彼らが軍船に使用していた「高麗船(こうらいせん)」が手抜きで造られた からという説がよく唱えられてきました。 元軍が日本侵攻に使用した軍船の多くは、当時、元朝に服属していた朝鮮半島の高麗朝が元朝に命令されて造船したものでした。 この船が「高麗船」と呼ばれています。 これまで、高麗朝が船を造る際、納期が短かった上、元の支配に対して反感を抱いていたことから手抜きをしたのではないか、 そのため高麗船は強度が不足しており、台風時の被害拡大につながったのではないか、という説が唱えられてきました。 しかし、この説は、現在はほぼ否定されているようです。というのも、実際に当時元軍が使用した軍船そのものが見つかっている からです。 その軍船とは、鷹島(長崎県松浦市)沖の海底にある「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」の沈没船です。 この沈没船は、元寇で使用された高麗船であると判定されています。調査によると、この船は船底を二重構造にして丁寧に 組み立てられており、同時代の船としては類を見ないほど頑丈な造りだったとのことです。 また中国側の史料にも、台風時に多くの軍船が沈む中、高麗船は沈まずに耐え切った船が多かった、との記録があります。 研究が進むにつれ、「高麗船手抜き説」は今では過去のものとなりつつあるようです。 >>523 江南軍の船が台風に弱かったのは元々長江防衛の河川で使用する喫水の浅い軍船だったから。 造船技術自体は朝鮮戦争お頃までシナ方がチョンよりずっと上。 >権力の座に就いたクビライは、南宋攻略作戦を展開します。実は日本へのいわゆる「元寇」は、その一環としておこなわれたものでした。 >クビライが日本に宛てた国書の写しが残されており、それを読むと日本征服ではなく、日本との交易や外交関係の樹立を求めていることが分かります。 >南宋を孤立させて包囲するための政策だったのです。 >しかし、当時の日本の政治を担当していた鎌倉幕府の執権である北条時宗は、モンゴルからの使者を切り捨ててしまいます。 >これが「文永の役」(蒙古襲来)を引き起こしました。 【歴史】モンゴル帝国の衰退は寒冷化→免疫力の低下→ペスト大流行(パンデミック)→基軸通貨たる銀の不足 [かわる★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626936604/ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206 えっ… >>186 とかこのスレでも前から言われてたけど、 この珍説(説ですらない?)、とうとう日刊ゲンダイに載るほどになったのか 日刊ゲンダイ自体も別に評価が高いわけではないとはいえ… >>186 高麗なんて2回目位でモンゴルの使者を殺害している。 その理由も高麗王府が使者に与えた土産が豪華だったので、 地方長官が横取りするのが目的という恥ずかしい理由。 令和の元寇が近づいてきてるから、日本が間違った判断をした、元は戦争を求めていなかったとしたいんだよ。 モンゴル帝国は隣接した国のほぼ全てと戦争してる。 元は戦争を求めていなかったなんてのは、明らかに非現実的な外交オンチの主張。 鎌倉幕府の方が正しい。 記録ではモンゴル兵40万人に高麗兵1万人だから朝鮮の雑魚兵なんてごく僅か 実際に鎌倉幕府が戦ったのは東路軍の4万ちょいだけだろ。 その後、遅れてやって来た江南軍10万が東路軍の生き残りと合流した時に、 丁度台風が直撃して元軍が壊滅状態になってしまったので指揮官クラスが撤退してしまい、 取り残された元軍の兵が武士によって殺されてしまった。 江南軍の到着がもっと早かったら九州地方は征圧されてたかもしれない。 幕府側が送った増援6万が到着するまで、どれだけ現地の武士が耐えられるかによるが・・・ >>535 江南軍は中国を6月18日に出発して7日の航海で日本到着してるんだから、 6月中には東路軍と合流してる。 7月になってからの壱岐や鷹島の戦いは東路江南合同軍14万と日本水軍の戦いだろ。 元軍は合流しても日本軍に歯が立たなかったから手詰まりになった。 東京教授「日本がモンゴル帝国に攻撃されたのは関東武士が野蛮で馬鹿だったから」 ■腕っぷしは強いが、知力や教養は乏しかった これは日本史ではなく、東洋史のほうの研究者の知見なのですが、いわゆる「元寇」の前段階、モンゴルから送られてきた国書は、別に服属を求めてきたわけではなく、驚くほど丁寧なものだったそうです。 だから、もしももう少し鎌倉の武士たちに教養があって、モンゴルの意図を理解することができていたら。少なくとも挨拶の使者くらいは送ったのではないかと思います。 当時の鎌倉の武士は腕っぷしは強い。しかし知力や教養は乏しかった。 たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。 重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。 彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。 その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。 そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。しかも言われている子どもたちが、箸にも棒にもかからない出来だったのであれば、まだ仕方がないですが、その子どもとは、北条時頼から認められ、初めて北条本家以外から執権になった北条長時(1230―1264)なのです。 戦後の学者連中の平和ボケは困ったもんだな。 ヤクザが丁寧な言葉使いで話しかけてきても、相手にしちゃダメだろ。 世界中で侵略戦争やってるモンゴルが驚くほど丁寧な国書を送って来ても、 挨拶の使者なんか送ったら絶対アウトなんだよ。 鎌倉武士の方がこの教授よりはるかに頭がいい。 元寇の時に南宋から大量に亡命者が来た って話を聞いてウィキペディア読んだら驚いた。 学校じゃ朝鮮から突然敵が来たくらいしか習わないけど 全然中身教えてないよな。 >>540 学校でもクビライが国書送ってきて従属を要求したけど鎌倉幕府は拒否した、くらいは習わなかったっけ モンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由と、彼らに出口治明氏が注目するワケ [11/12] [昆虫図鑑★] https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1636704002/ 【ニッポンドットコム】第一次元寇を終わらせたのは神風だったか否か 元軍撤収の理由に今も定説なし [みの★] https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1637217036/ 最近元寇スレよく立つのはゴーストオブツシマ効果かな モンゴル帝国はもうちっと頑張って北イタリアのベネチアやジェノバといった港湾都市を征圧し、 そこの造船技術や航行技術、海戦の知識と経験を身につけてれば、 九州への上陸を果たせたかもしれなかったのに・・・ >>543 イタリア制圧する頃にはクビライ亡くなって元寇の計画そのものが消えそう ベネチアやジェノバの航海技術なんて波の穏やかな地中海でしか通用しないだろ。 インド洋でイスラムと交易してた中国の方が造船技術や航海技術は上。 歴史好きは関心ないかもしれないけど、宗教哲学者の鈴木大拙は日本人の宗教への目覚めの観点から元寇を重視した 「禅と日本文化」の中で北条時宗に触れている文章(原文は英語)は格調高い 鎌倉時代だったら神風というのはわかるが、近代合理主義の洗礼を受けたあとの大日本帝国でそれを言うのは負け戦のごまかしにすぎない。 でもなぜ日本人様はあんなに強かったんだろうな。 モンゴルでさえウンコ扱いだし数で勝る民朝鮮軍も海で守られてるはずのホームでフルボッコだし 朱元璋でさえビビッてなにもしなかったし 派手に負けたのはアメリカ位でそれでもあっという間に経済大国だし。 優秀すぎるよな日本人様って。 対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた? [1/10] [昆虫図鑑★] https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1641789036/ 対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた? ★2 [1/10] [昆虫図鑑★] https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1641806044/ ちょっと前の元寇スレ なんか最近この論調の記事が多い? 少弐は足利尊氏の長男の直冬を自分の娘婿に迎えて九州に一大勢力を築いたやつだろ そのあと室町幕府と和睦が成立したときに直冬を追い出して最後は討ち取られたんだとさ 身内になっても情勢でぶっ殺されるから信用ないんだよ藤原一族 謀反人だのの汚名を着てもそれを回避する手段てのは昔から日本にはあった つまり皇族の家臣となってその配下に潜り込むことだったんだよ チョーセンがフビライを唆した。日本とモンゴルは被害者ニダ。 ネットでの元寇の評価ってここ10年でかなり変わってね? ネット上では当たり前のことを当たり前に書けるからね 当時世界最強のモンゴル軍に圧勝した鎌倉幕府を難癖つけて叩いてたのが異常なだけで 元寇で負けたせいでまるまる主力失ってんだよなぁ。 この影響ってめっちゃデカイと思うんだよね。対ベトナム戦とかにもさー。 こんな膨大な兵士、水夫、船を失って元の権威がた落ちじゃん。 なのにベトナムの勝利のおかげ! 朝鮮の抵抗!やる気がない! とかこっちのほうめっちゃ強調されてんだもんなー。 あと大平原で戦わないとフェアじゃないみたく言うの。 ほんと昔からこれ気持ち悪かったわ。 14万人いても一気に上陸できるわけじゃないし、そもそも海上で追いかけ回させているとか、これ圧勝だよな。 日本側の正しい戦略、戦術により圧勝。 こういうことを強いっていうと思う。 苦戦してからドラマチックに勝つとかとは違う、本当に強いってやつじゃないか。 >>1 言うて中国韓国モンゴルの連合艦隊だもんな日本と神風でよく勝ったぜ 一歩間違ってたら元に日本が征服されて今の日本がなかったかもしれないのに、ただの記号のように扱われているのが残念。 日本の警察「訓練は『安倍!』などと叫んで発砲する想定が多い。いきなりだと厳しい」頭大丈夫か? [561344745] https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1657419869/ 要人警護に詳しい警察関係者 「あそこまで接近されているのは一つ厳しいところ、止められなくても誰かがとめにいっていてもよかった。 銃で撃たれる想定の訓練はもちろんしている。 ただ、今回のようにいきなり銃を取り出して撃つのは今までない。 多くの訓練は思想をもった人間などが『安倍!』などと叫んで撃つといった想定が多い。 今まで日本にいなかったタイプの襲い方だろうし、やはり、いきなりこういう形は厳しい」 180 ジャガー(富山県) [JP] ▼ New! 2022/07/10(日) 12:14:02.24 ID:JPIfl03x0 [1回目] 大昔から変ってないじゃんw 鎌倉武士「やーやー我こそは」 モンゴル人「てつはうポイー」 鎌倉武士 「戦争はお互い名乗ってから開戦する想定が多い。いきなり爆弾を使われると厳しい」 >>565 大丈夫、当時の元軍には万に一つも勝ち目はなかった 南宋攻略してた頃のモンゴルは元寇なんかとは比較にならんレベルの軍勢を用意してたんだろ? 35万の大軍ならば、日本にも勝てるやろ。 >>561 神風のおかげってことにしとかないと宗教家が困るだろ >>563 ってもその35万の大軍を日本へ運ぶなら35万人を輸送するだけの船と船員がいるし しかも台風前に上陸拠点作らないと海上にいたら台風にやられる >>568 南宋攻略より元寇に投入された軍勢の方が多いよ。 日本が勝ったのはモンゴル軍40万。 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕 「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で ほぼ損害を受けなかったってこと。 それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、 東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと 考えるのが自然。 じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。 高麗史 第一百四 列傳第十七 「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」 「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。 高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。 つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で ほぼ損害を受けなかったってこと。 それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、 東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと 考えるのが自然。 じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。 高麗史 第一百四 列傳第十七 「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」 「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。 高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。 つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で ほぼ損害を受けなかったってこと。 それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、 東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと 考えるのが自然。 じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。 高麗史 第一百四 列傳第十七 「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」 「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。 高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。 つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で ほぼ損害を受けなかったってこと。 それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、 東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと 考えるのが自然。 じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。 高麗史 第一百四 列傳第十七 「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」 「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。 高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。 つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 >>573 単純に兵は生きてても船や糧食の多くを失ったからかと思ってた 船が無事なら作戦中断するにしても兵は連れて帰るだろうし 糧食がろくになかったら進軍しても飢餓に陥るだけだし やっぱり弘安の役の主力は鷹島に置き去りにされた旧南宋軍10万なんかじゃなく、 対馬沖で壊滅した蒙古軍40万の方だな。 そのことは日本側史料でも確認できた。 『勘仲記』弘安四年閏七月十四日条 「自宰府飛脚到來、去朔日大風、賊船多漂没云々、誅戮并生虜数千人、壹岐、對馬雖一艘無之」 『弘安四年日記抄』閏七月十二日条 「十二日、去夜鎮西飛脚到来云々、蒙古賊皆以滅亡、所残二千餘人、爲降人由、申上云々」 当時、太宰府から京都まで飛脚が到着する日数は約10日。 『勘仲記』によれば、閏7月1日に台風が過ぎ去った後、日本軍はまず壱岐と対馬で 残党狩りをやったんだ。 『弘安四年日記抄』は、そこで全滅したのが「蒙古賊」だったと明記してる。 『弘安四年日記抄』は元軍のことを「異国賊」と記していて、わざわざ「蒙古賊」と 民族特定してるのは閏七月十二日条だけだから。 鷹島の旧南宋軍掃討戦は閏7月5日からだから、その後ね。 鈴木大拙の「禅と日本文化」(岩波新書)に北条時宗についての記述があるが凄い名文だね。 原文は英語だからなおさら凄い。 いまだに英語でここまで簡潔に格調高く表現できる日本人はいないといわれている。 大拙は日本史における元寇とその影響である鎌倉仏教を極めて重視していた。 さかなクンをパクった芸風 持ちネタもパクリの替え歌 ~するチャレンジという企画もパクり 父の名声にあやかり父の名を貶める親不孝者 そのこころは、名古屋城調査研究センター長の長男 さかな芸人ハットリ!! https://twitter.com/hattori95 https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>289 范文虎は処刑されてないよ クビにもならずにその後も元朝に仕える生を全うしてる アニメでアンゴルモア観て面白かった。 もしもさ、 ミリオタのお前らが鎌倉時代に日本版孔明に転生して日本勝利に導かなくてはならないとしたら、 武器、戦略で思いつくことある? 条件として、お前らの科学文化知識は令和現在のもだが、 武器・資源は当時日本に存在するものしか利用できないとする。 以上、答えてみろください。 アニメでアンゴルモア観て面白かった。 もしもさ、 ミリオタのお前らが鎌倉時代に日本版孔明に転生して日本勝利に導かなくてはならないとしたら、 武器、戦略で思いつくことある? 条件として、お前らの科学文化知識は令和現在のもだが、 武器・資源は当時日本に存在するものしか利用できないとする。 以上、答えてみろください。 史実でも勝ってるんだから小細工せずに普通に戦うのが最善だろ 一度目の元寇は結構やられたんじゃなかったか? しかもまだ南宋が健在で威力偵察くらいだったとか 高麗は長年モンゴルに抗って荒廃してたから降伏後は国力復興のためにも他人の土地で盗人略奪するしかなかった 2度目が本気モンゴルだったけど対策を立てた本気鎌倉によってまともに上陸すら出来ず 何ヶ月も船でうろうろしてるうちに台風直撃した っていう風なイメージでいる >>582 南宋軍を離反させることは出来たんじゃないかと思う 高麗と違って本国が無くなってるし 鎌倉時代、元が日本に侵攻した… https://mainichi.jp/articles/20231105/ddm/001/070/097000c 2度侵攻した元軍が、嵐のため一夜で撤退したり壊滅したりしたという「通説」にも見直しが加えられている。 服部英雄・九州大学名誉教授は著作「蒙古襲来と神風(かみかぜ)」(中公新書)で、最初の文永(ぶんえい) の役(えき)(1274年)について、嵐のため元が一夜で撤退した証拠となる記録はないと指摘する。 弘安(こうあん)の役(81年)も大型台風とみられる悪天候が元軍に大きな打撃を与えたが、その後も戦闘は 続いたと検証した 文永の役は威力偵察とか言われるけどかなりの大軍だよな。弱い国や政情不安定でまとまりが無い国ならこれだけでやられそう マムルークのアインジャルートのほうがすごい!とか言われたりするけどこっちのほうが大軍だし迎え撃つ武士は少数なんだよなぁ 普通に勝ったから過小評価なんだと思うよ。ベトナムみたく首都落とされたあと勝てば評価高くなりそうw大事になってから解決すると評価は高くなる。 ちゃんと対応して普通に勝った日本は逆にケチ付けられる。そんなもんじゃないかなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる