なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
慶長の役と比べればわかる
戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき 朝鮮のひとたちが李舜臣を尊敬しているように、われわれも小弐一族をもっと尊敬すべきだ
戦国時代なんか元寇に比べればコップの中の嵐だろ チンギスカン率いるモンゴル騎馬軍と
会戦して破ったと言うなら誇れるけど
元寇の時の元軍にモンゴル騎馬軍は
居なかったんだろ?
敵の総大将はフビライだし
何の自慢にもならんやん。 モンゴルの主力部隊であるモンゴルの地上部隊とは戦ってないんだろ?
元寇って船でやって来てるし
モンゴルの主力部隊と戦ってると思えない。
チンギスカンやバトゥ率いるモンゴルの
主力部隊と戦ったら
義経や信長を総大将にしても
敗戦は確実だと思うが。 チンギス汗は遊牧民を統合しただけで、金を征服したり東欧へ遠征軍送ったりしたのは息子のオゴデイだし、
中東へ遠征軍送ったのは孫のモンケで、南宋征服したのはその弟のクビライだ。
文永の役で少弐景資に射られて重傷を負った劉復亨はモンケとクビライの2代に渡って大汗親衛隊を務めたエリートで、
日本へ来たのはバリバリのモンゴル主力部隊だが。 チンギスの時にもホラズムシャー朝討伐に着手し、
今のアフガニスタンからインダス川まで遠征している 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
7MANQ >>1
フルボッコにしてねえよ無知丸出しのネトウヨww
文永の役はモンゴル軍の圧勝だったが占拠目的ではなかったんですぐに引き上げた
弘安の役は江南軍の遅れ等でモンゴル軍の足並みがそろわず海上で待機してるうちに台風の季節となり
嵐で壊滅状態となりやむなく撤退
少しは勉強しろよwネトウヨ君ww 文永の役は威力偵察で撤退
弘安の役は日本軍の勝利だな。季節風は関係ないよ 文永の役が威力偵察なんて史料は存在しない。
そもそも博多湾上陸後、武士に野戦で全く歯が立たず逃げ回っていたモンゴル軍が
撤退するのは当たり前のこと。
明らかに日本軍の圧勝だろ。 博多を焼かれたから圧勝ではないな。神風関係なく地力で追い払ったのは事実だと思うよ >>14
博多がモンゴル軍に焼かれたなんて事実はないぞ。
当時から博多にあった聖福寺や承天寺、櫛田神社にも焼失したなんて記録はない。
モンゴル軍が博多に最接近したのは赤坂までで、その後は菊池武房に蹴散らされ敗走。
『蒙古襲来絵詞』詞書
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」 弘安の役で敵が唐津経由で伊万里のほうに迂回した記録があってションベン漏れたわ 鎌倉時代の初期、嘉禄元年(1225年)頃より松浦党は高麗に押しかけ、倭寇の源をなした
もともと辺境の地の海賊対策に高麗が元を引っ張り出すことに成功した日本もまた九州勢力
を弱くする必要があった >>5
チンギスカンやバトゥは過大評価。
文永の役でモンゴル主力軍が九州の御家人と野戦やって瞬殺されたのを見れば分かるように、
はっきり言ってモンゴル騎兵は鎌倉武士より弱い。
おまけにチンギスカン時代のモンゴル帝国は総兵力でも12万9000人。
承久の乱で19万騎動員した鎌倉幕府がチンギスカンやバトゥに負ける要素なんてゼロ。 >>19
>はっきり言ってモンゴル騎兵は鎌倉武士より弱い。
文永の役にモンゴル騎兵なんて来ていない。
来たのは歩兵主体の中国人部隊と高麗軍。
>九州の御家人と野戦やって瞬殺された
という記録はない。
一代要記にある大宰府の報告では「宰府軍等敗北し了る」
元史では「其の国に入りて之を敗る」 >>22
中国人、高麗人の間では大宰府=博多。
日本側にもその傾向はある。
関東評定伝は五日対馬の後、廿日博多がなくていきなり「廿四日寄来大宰府」。
これも大宰府=博多で、廿四日が廿日の誤記。
詳しくは下記。
https://ameblo.jp/reydeoro/entry-12331877947.html 高校の日本史の教師は
戦としては完全に日本の負けだったと言ってたけど
まあ神風が吹いて、自然に助けられたんで
助かったわけだが
それにしても時宗はすごいよな
元の規模とか分かっていなかったのだろうか >>24
その高校の日本史の教師は不勉強の極み
まあ高校教師なんてそんなもんだが >>21
文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。
高麗兵は補助戦力で主力とはいえないし、中国歩兵は同時期に行われた南宋攻撃に投入されてる。
一代要記は大宰府の報告じゃないぞ。
大宰府はちゃんと合戦で元軍を撃退したって報告してる。
『帝王編年記』
六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。
高麗や元の史料からも戦闘で日本軍がモンゴル軍に圧勝したとしか考えられない。
『高麗史』巻八十七、表二 年表二
十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人。
『心史』大義略叙
忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。 >>33
>文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。
その「史料」をどうぞ。
>中国歩兵は同時期に行われた南宋攻撃に投入されてる。
その結果、文永の役の前年に襄陽が落ち、降伏した南宋軍(生券軍)は死を免れて
「征日本」を命じられた、と元史にある。
また、副都元帥の劉復亨の配下の軍は漢人親衛隊。
>一代要記は大宰府の報告じゃないぞ。
一代要記の成立は後宇田天皇(文永十一年〜弘安十年)の時で、まさに同時代史料。
その中で「宰府よりこれを申(の)ぶるに」と言って引用しているのだから、それ
以下は大宰府報告書の内容だ。
これに対して帝王編年記は文永の役の約百年もあとに一個人が諸書を抜粋・編纂して
書いたもの。史料としての価値は比較にならない。 相手は・・・モンゴルにゴマすって出世したくて国王や忠臣たちの意向を無視して無理な出兵を進めた将軍が率いた痛々しい兵士たちとか、祖国を裏切ってモンゴルに降った指揮官のもとで戦う南宋の捨民とかでしょ? >>35
違うよ。
歴代モンゴル皇帝の親衛隊を中核とする超精鋭部隊。 >>39
来たよ。
文永の役で鎌倉武士に惨敗したのがその超精鋭部隊。 >>34
『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』
「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル。」
「本ヨリ牛馬ヲ美物卜スル者ナレハ、射殺タル馬ヲ喰テ飽満セリ。冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、
力ハ強シ、命ヲタホハス、強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ。」
劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。
漢人世侯がいたからモンゴル軍ではないなんて言ったら、オゴデイ・カーン以降モンゴル軍など
存在しなかったことになってしまう。
さらに、襄陽生券軍はモンゴル軍の攻撃に6年間も耐え抜いた、南宋軍の最精鋭。
旧南宋軍の大半が南宋攻撃に投入される中、最精鋭のみを抽出してクビライ自身の親衛部隊と
一緒に日本遠征に投入してるわけで、文永の役がどれだけ帝国の威信を賭けた戦いだったかわかるな。
あと、一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。
その後が大宰府の報告なんかじゃないのは、ガチ同時代史料の勘仲記と比較すれば一目瞭然。
『一代要記』
「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」
『勘仲記』
「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」
ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから史料としての価値はない。
一方、帝王編年記の「是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。
其外皆以追返云々」は大宰府からの飛脚情報だ。
したがって史料的には文永の役は合戦による大宰府軍の勝利。
そもそも10月20日の戦闘は現地史料によって武士がモンゴル軍に圧勝したのが確実なわけで、
わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。 >>41
>文永の役の主力がモンゴル騎兵だったことは史料から明白。 >>33
>劉復亨のような漢人世侯はモンゴル帝国初期からモンゴル軍の中枢。>>41
なるほど、中国人主体であることが分かったので、「モンゴル騎兵」のモンゴルは「元」の
意味だいうことにしたわけか。
しかし「主力がモンゴル騎兵」の「モンゴル」をごまかしても「主力が騎兵」は残る。
「主力」の意味が軍勢の「半分以上」だとしても、一万頭以上の馬を船に乗せて来なければ
ならない。それでいいのか?
>『一代要記』 「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」
>『勘仲記』 「去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」
>ここまでハッキリと一代要記の記述は嘘情報なのだから
一代要記の対馬五日、壱岐十三日は妥当だが、勘仲記の対馬十三日はなんのことかよくわからない。
「冬の嵐」は対馬戦の情報を伝えた飛脚の博多出発の日付であろうというのだが、推定に過ぎない。
勘仲記は個人の日記だから、リアルタイムのメリットはあるにしても、他人が見て内容がよく
わからない所があるのだ。
対して一代要記は宮廷内の人物の準公的な記録文書だから内容は明確である。国会図書館の蔵書が
デジタルデータで公開されているから、見るといいよ。
>わざわざ京都に「負けた」なんて嘘を報告する必要がない。
大宰府は、武士が「少弐」の地位にあるとはいえ、依然として朝廷の出先機関である。大宰府軍に
ついて客観的な表現をするのはむしろ当然。 >>41
>一代要記が「自宰府申之」としてるのは「十月五日、異國群勢襲來之由」だけじゃん。
一代要記:
「十月五日、異国群勢襲来の由、宰府よりこれを申(の)ぶるに、同十三日異国軍兵壱岐の島に
乱入し、 同十四日かの島の守護代 荘官以下ことごとく打ち取らる、云々。対馬以って前に同じ。
同十九日亥の刻、筑前の国早良郡に攻め来たる。 同二十日合戦始まり、宰府軍等背北しおわる。
ここに同日亥の刻ばかり、兵船二艘出で来たり、暗天に合戦す。 凡慮の及ぶところにあらず、
これ神明の化儀(けぎ)と測り知る。 すなわち異国軍兵退散す。かの兵船一艘これを留む。
乗るところの人数六十人ばかり、云々。」
「異国群兵襲来の由」は見出し的に冒頭に掲げたのである。その後の「宰府よりこれを申ぶるに」
以降がすべて大宰府報告書の要約。
そのことを二か所の「云々」が示している。云々は引用して以下を省略するための言葉。
著者が書いた地の文章であれば云々は意味をなさない。というか、あるはずがない。
対馬〜壱岐〜博多と、三通の大宰府報告書を要約・引用したのである。 1274年11月11日-26日(文永11年10月5日-20日
11/1〜11/30月齢カレンダー
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