なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
慶長の役と比べればわかる
戦国時代ばっか上げてないで当時世界最強のモンゴル軍フルボッコした鎌倉武士はもっと評価されるべき >>44
十九、廿日は見事に満月だね、有難う。
夜の上陸、撤退には最適だった。
そこをねらって来たのだろう。
歴史上の月齢を計算する数式というのがネット上にあり、それで
計算すると当日が満月になるので驚いたことがあったが、計算間違い
もあると思って半信半疑だった。
ところでその月齢カレンダー、どこにあるの? 文永11年20日1274/11/26は月齢25ですあさの前に東から下弦の月があがってきます At 05:20:45 UT Friday 26 November 1274 the waning moon’s phase was
13.21% full
Time Zone: UT AT ET CT MT PT AK HI
1274/11/26
http://www.moonpage.com/index.html
>>46
残念、新暦と旧暦の間違いだったか。
文永の役はほとんど暗夜だったのですね。
カレンダーの所在も併せて、有難う。 旧暦は月齢と一致しました1274.11.27は1274.11.19のユリウス暦の間違いです
月齢は20です
>>50
なるほど、旧暦は月齢と一致するようにできているから、計算するまでもない
ということですか。
すると、文永の役の月齢は19~20で、そこそこ明るかった、ということで
いいでしょうか? 1274年 (文永11年) 11月 26日
旧暦:1274年10月20日
六曜:大安
干支:己巳
祝日:
二十四節気:
曜日:月曜日
太陽の黄経:243.835
月の黄経:105.273
月齢:18.842
月の輝面比:87.484
東京の太陽、月の入出
日の出:06:29
日南中時:11:29
日の入り:16:29
月の出:20:39
月南中時:02:57
月の入り:10:19
現地時間は1時間ぐらい遅れますから9時過ぎに九州の山から半月が出ます
上のは10月22日未明です1532からグレゴリオ暦に変更されユリウス暦1274年11月19日が
11月26日と読みかえられています 有難うございました。
ざっと言えば文永の役(陰暦11月19,20日)の深夜の上陸・乗船時には半月が空に出ていた、
ということですね。 というか鎌倉武士だの九州武士は焦土作戦だのなんだのやったりしてるから絵にならない 壱岐石田s南8n北14
2017年11月風向
壱岐芦辺2017年11月風向芦辺s南3n北22
京都気象台2017年11月19日から23日まで
19降水量(mm) 0.0 0.0 0.0 気温(℃)7.4 12.0 5.1 風向・風速(m/s) 2.7 7.7 北西 13.4 北西 5.4
20降水量(mm 0.0 0.0 0.0 気温(℃)6.9 9.9 4.2 風向・風速(m/s) 1.9 4.9 西 9.0 西 0.8
21降水量(mm) 0.0 0.0 0.0 気温(℃)6.4 11.3 3.3 風向・風速(m/s) 1.6 4.2 北 6.9 南西 5.0
22降水量(mm) 1.5 1.0 0.5 気温(℃)8.3 13.8 2.8 風向・風速(m/s) 1.0 2.5 東北東 3.8 東北東 1.4
23降水量(mm) 5.5 2.5 1.0 気温(℃)9.8 13.8 5.7 風向・風速(m/s) 2.7 8.3 北西 14.9 北西 7.1
24
対馬海流を北風で乗り切るは困難
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念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
NK3 ブログ「蒙古襲来絵詞と文永の役」に、
16番目のページ「神軍の正体は何か」を追加した。
https://ameblo.jp/reydeoro/
読んで見てね。 元寇って、過小評価もなにも、本当にささいな戦いじゃん
1231年、モンゴル、高麗侵攻開始、1259年高麗降伏、1273年三別抄を攻略し全土制圧
この50年近い血みどろの高麗攻略戦のあと、たった2回、日本を攻撃しただけの話
そもそもモンゴルと高麗との接触はもっと早い
1218年、黒契丹が満洲から高麗に乱入し江東城に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしたのが最初だ
もしこの時期、高麗が、中央アジアでよくあったようにモンゴルに迎合していたらどうなったか?
承久の乱で国を二分して争っていた最中の日本に、最盛期のモンゴルが来ていれば、一瞬でやられたろう >>68
1218年なんてモンゴルが金を征服する前で、高麗に送った兵力だって僅か1万だろ。
承久の乱で19万騎を動員した鎌倉幕府に勝てるわけないじゃん。
もし1218年にモンゴル軍が日本に攻め込んでいたら瞬殺されてモンゴル帝国の歴史もそこで終わり。 俺は80年代が小中校大に重なっているおっさんですけど。
当時の社会科教育ってホント酷かったと思うよ。
日本の対外戦争と言えば大雑把に言って元寇、朝鮮出兵、日清、日露、第一次大戦が勃発までは書いてあるが、その後どうなったかという事が教科書に全く書かれていないし教師も教えないというか知らない。戦争は悲惨(そりゃそうだ)、戦前の日本は悪い国だったの一点張り。 >>68
1218年にいきなり迎合してる。
1231年一次はモンゴル使節をつい殺してしまって征伐、瞬く間に首都陥落されて降伏。
以下二次〜六次とモンゴル軍が帰った後、反乱、不正発覚などで再々征伐で降伏の繰り返し。
王は島に逃げ込み、モンゴル軍は全土を荒らされたあげく高麗降伏の繰り返し。
王の保身のみに走りろくな抵抗もせず一方的に焦土とされた愚かで卑怯な50年。 ちょうど今期は、アンゴルモア 元寇合戦記ってアニメやってるな
歴史好きは歴史物のアニメ見るのかな? 元寇って世界史の分岐点だよね。
それまでモンゴル帝国の拡大を支えていた精兵が弘安の役で壊滅。
圧倒的強さを誇ったモンゴル軍は戦闘経験の無い弱兵のみになってしまった。
元寇の後、モンゴル帝国は対外戦争で勝てなくなったんだから。 >>76
弘安の役のモンゴル軍は総勢15万くらい
これが文字通り消滅したんだから影響は大きいさ
当時の人口はおおざっぱにいうと今の10分の1
15万って今なら150万くらいの軍勢ってことになるからな
勢いなくなって当然だわ >>76
モンゴル軍の特性は騎馬スキルで大陸最強
騎馬が使えない場所だと凡人 >>78
モンゴル軍の騎馬スキルが卓越してたことは文永の役でモンゴル軍と騎馬戦やった
日本側史料にも書いてある。
でも勝ったのは日本軍。 >>79
元寇の絵とか見ればわかるけど、
元軍は騎馬戦術を使用してないし、
みんな歩兵ばかりで騎兵ではない。 チンギスカン率いるモンゴル騎馬軍団と
会戦してたら日本は負けてたよ。
日本の勝因は単純に
1.陸続きではない日本相手には
モンゴル騎馬軍団を投入できなかった
2.指揮官がフビライだった
3.日本兵がある程度の強さを持っていた
だと思う。 >>80
いや、モンゴル軍は文永の役に騎馬部隊投入してる。
『八幡大菩薩愚童訓』
「蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」
「冑ハ軽シ馬ニハ吉乗ル、力ハ強シ、命ヲタホハス、 強盛勇猛ニシテ、自在無窮ナリ」
そしてモンゴル人の指揮官自体、歴戦のモンゴル兵が負けたことを認めてる。
『高麗史』金方慶伝
「忽敦曰く「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん」」
>>81
チンギスカン時代のモンゴル軍なんて全ての点で元寇のモンゴル軍より劣ってるだろ。
チンギスカンのモンゴル軍が日本を攻めていたら、全滅してモンゴル帝国の歴史も
一代で終わっていたよ。 >>71
戦争前だよね?
つい使節を殺してしまって、って一体何があったらそんなことに? >>83
金朝の混乱で発生した契丹人難民が高麗に逃げ込んだんだけど、高麗の力では対処できなくて
1218年にモンゴル軍の協力でやっと鎮圧。
それ以来モンゴルから貢物を要求させるようになったんだけど、それが嫌になって使者殺害。
事情聴取に来た使者も弓で追い返す。
その結果、モンゴル軍が高麗に侵攻。
高麗正規軍は惨敗し、首都を包囲されてあっさり降伏。
で、モンゴル軍が占領統治のための役人だけ残して引き上げたら、その役人を皆殺し。
高麗のやり方って酷すぎるよな。 >>80
蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、
有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、
蒙古の方にも騎馬武者が描かれている 天皇に勝った東国武士は可汗皇帝も倒してしまった
北条氏率いる鎌倉最強すぎ ベトナムの陳朝はモンゴルの使者をいきなり投獄して拷問死させてる。
ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。
鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは
使者を全員無事に帰国させてるんだからな。
それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」
とか滅茶苦茶な叩かれ方してるだろ。
当時の「世界の外交ルール」とやらをちゃんと調べたうえで叩いてるとは思えない。 >>88
それどころか、文永の役の後で処刑したのに、
戦争前からいきなり使者処刑してたようによく誤解されてる >>81
>1.陸続きではない日本相手にはモンゴル騎馬軍団を投入できなかった
モンゴル騎馬軍団戦法を投入できなかった
モンゴル騎馬軍団基地から50q以上離れた敵軍に対して
騎馬集団のみでアタックを繰り返す戦法
日本軍の夜襲のためモンゴル騎馬軍団基地を作れなかった。
日本軍の弓の射程がモンゴル騎馬軍の弓の射程の1.7倍程あった。
高句麗軍歩兵や明軍歩兵の弓の射程は、日本軍の弓の射程の半分程度であった。
海岸に石垣又は崖があると日本軍の矢にさらされて上陸できない。 >>88
東大の日本史専門の学者レベルでもそう言うからな
海外の歴史は専門外と言い訳するだろうがならば当時の外交ルールに反するとか事実と違うこと言うなよと >>90
長弓と短弓の優劣は単純には結論できないが
元寇に関しては長弓が優ったね >>85
>蒙古襲来絵詞(絵巻)のことなら、
>有名なあの一場面の左右にもっと長い絵が繋がっていて、
>蒙古の方にも騎馬武者が描かれている
右の方ならたった一騎、赤坂から退却する部隊の指揮官らしいのが馬に
乗っている。
左の方なら祖原山の元軍本陣の図で、せいぜい2割ぐらいが騎馬だ。
チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。
兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。
そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。
しかしそれ以前に、東征軍の主力である蒙漢軍がすでに中国式の軍隊で、
歩騎混成だった。それがそのままやって来たと考えればよい。 >>93
>チンギスカンの騎馬部隊はそんなものではない。
>兵卒に至るまで全員が騎馬で、しかも全員が複数の替え馬を引いている。
>そんな軍隊を舟で渡海させるのは大変、というかほぼ不可能。
替え馬は1騎兵あたり5〜6頭
敵軍から100km以上離れた母基地から出撃する。
敵軍から40〜50km離れた前線基地に予備の馬4〜5頭置き、そこから出撃する。
攻撃は敵軍までの往復時間を入れて1日に1回。
翌日又は数日後に馬を交換して武器の補充をして出撃する。
それの繰り返しで敵の疲労を待つ。
前線基地は敵の索敵圏外の遠方に置く。
敵は蒙古騎馬隊が次に何時攻めて来るのかわからない。
ある日ある時に突然蒙古騎馬隊が攻めて来るのである。 >>88
メッチャな叩かれ方と言えば、元寇が起きたのは
鎌倉幕府が使者を処刑して怒らせたせい、
みたいなのもネットでは何年か前から見るようになったなあ…
弘安の役が、ならともかく元寇がってのは
元寇までは使者を全員無事に帰国させてる以上ありえないのに
なんでそんな話が出て来たんだろう
しかも広まってるのかなんかしらんが、年々見かけること多くなったし >>95
本郷の本とかで北条時宗の外交はダメとかサラッと書いていて呆れたよ
具体的にどこがどうダメなのか触れもしない
選択肢なんて最初から2つしかない
戦うか従うか
こういう状況で外交の出番なんてねえだろって
まさかお話合いをしたら戦争が回避できたとでも本気で思ってるのかね? >>97
普通は返書なんか送らないだろ。
武力をチラつかせた蝶状に返書返したら、武力に屈したと思われるじゃん。
だから諸外国がみんなモンゴルの外交に反発してるわけで。 無視しないで「お断りします」と返書すれば良かったんだよ。 「服属せよ」と暗に言っている国書に「お断り」と返事したら、結局は攻められる。
まあ、返事しないことで引き延ばし効果はあったけどね。 >>1
>神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
戦闘が物別れになったあと、元軍が船に引き揚げたというのはいろいろな
ところで見かけるが、どこから出ているのか不思議。
高麗史を見れば、軍議で撤退が決まった後に乗船したとわかるのに。 まあモヒやワールシュタットの戦いであれだけ一方的な強さを誇ったモングル軍を打ち破ったにも関わらず評価は低すぎるわな モンゴル軍は来ていない。
来たのはシナ軍とチョーセン軍だけ。 >>103
何でそんな嘘書くの?
中国人や高麗人なんて操船要員で戦ったのはモンゴル軍の精鋭部隊だよ。 金方慶率いる高麗軍
洪茶丘率いる元軍高麗人部隊
以上、チョーセン軍
劉復亨率いる漢人編成の侍衛親軍
襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍
以上、シナ軍 >>105
その中で金方慶率いる高麗軍と洪茶丘率いる元軍高麗人部隊は九州の戦いにおいて
後方に配備され前線に投入されていない。
襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。
主力は明らかに忽敦率いるモンゴル兵部隊と劉復亨率いる漢人編成の侍衛親軍だろ。
漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。
文永の役で鎌倉武士が勝ったモンゴル軍は世界を席巻したモンゴル軍そのものだよ。 >その中で金方慶率いる高麗軍と洪茶丘率いる元軍高麗人部隊は九州の戦いにおいて
後方に配備され前線に投入されていない。
ソースをどうぞ。
>襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。
ソースをどうぞ。
>漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。
ソースをどうぞ。 >>97
実際の所、日本の外交で戦争回避する方法ってあったのかな
お断りしますって返書は朝廷は送る予定があったらしいけど、
断ってそのまま引き下がるかどうか
モンゴルは温厚だったとか平和的に使者送ったのに
日本が怒らせて戦争になった、みたいな話も何故か見るけど、
返書しないからって攻めてくるって時点で平和的じゃないし
それとも当時では使者スルーしたらガチギレ戦争待ったなし、だったのか? ホーム国の海で勝っても怪しい勝利だよな。策略の匂いがする。 >>109
そんなこと言ったら海を挟んでるのに征服されたイングランドが無能みたいじゃないか。 元寇の原因は使者を切ったせい、
元は友好関係結んだり交易をしたかっただけなのに日本が使者を切って激怒させた、
ってのは今年だけでももう十回以上は見たし、
昔よりも見かける機会も増えた気はする
最近は元寇の漫画やアニメや特集番組があって
元寇が話題に上がること増えたせいかもしれないけど
最初にこれ言い出したのは誰なんだかなあ… モンゴル帝国が本気で世界征服を目指してた国家だってことを無視してるんだよね。
友好関係や交易だけで満足するなんてありえない。
戦後イデオロギーでは、外交で防げない戦争もあるなんて認めること出来なかったんだろうが。 国書には高麗との関係を父子に例えて、
日本にも誼を通じてその家に加わるように促してたけど、
その高麗の扱いも結構酷いものがあったみたいだし、
国書の額面だけ見て友好的だとか判断できるもんじゃないよね 実際戦ったモンゴル軍って総軍の一割程度だろ
後は海上待機中に台風で壊滅 日本の夜襲で船上でも戦闘はあったんだよね?
というかそれだけの戦力を有しながら台風来るまでに上陸できなかったのが敗因じゃん
神風というけどやはり鎌倉武士の実力で勝った戦だよ >>114
日本軍が毎晩のように夜襲したので1割ってことはあり得ないんじゃない
上陸は出来ないので船で寝泊まりするしかない
で毎晩のように夜襲され散々な被害
まあモンゴル軍はこの世の地獄状態だったと思うよ 日本軍はテンション上がったろうな
クビ挙げたら恩賞だからモンゴル兵は宝の山にしか見えんかったろうなw >>106
が言う:>襄陽で降伏したばかりの南宋生券軍なんてわずか1400人。
のソースがわかった。
<襄陽、生券軍、1400人>でぐぐると、偶然次のページの紹介文が出て来た・
db.history.go.kr/item/pdfViewer.do?levelId=kn_009_0010
95) 《元史》권 8, 至元 10년 9월 甲申조 “襄陽生券軍至大都 詔伯顔諭之 釋其械繫 免死罪
聽自立. 部伍 俾征日本.” 96) 《元史》권 ..... (元軍과 高麗軍) 1,400 人 7 個月分
糧料 2,904 碩, 羅州留屯 粤魯濶端赤軍糧 8,000 碩, 馬料. 1,325 碩이라 하였으니 고려 ...
彼はこのつぎはぎ文を見て、「襄陽生券軍」と「1,400人」の文字をくっつけたわけだ。
だが、この文章の前半は元史の、降伏後の生券軍の処理を述べた一節で、
「‥‥」で切れた後半は、高麗史世家の元宗十五年二月記事だ。1400人は元軍と高麗軍を
併せた耽羅守備軍の人数だ。
生券軍の人数の根拠にはならない。 今そんなに読まれてるものでもないだろうし
>>95のメッチャな叩かれ方の元かどうかわからないけど、
東洋史学者の内藤湖南がこんなこと言ってるの見つけた……
>位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。
>所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。
>そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。
>その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。
日本文化の独立 初出:講演、1922(大正11)年5月
https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/3036_21545.html 内藤湖南も随分いい加減だよな
室町以前の歴史は勉強しなくていいとか言ってる人だからさもありなん 学者さんでもこんな間違いしちゃうんだね
ちゃんとした学者で元寇の前に使者が切られたようなこと言ってるのは初めて見た >>124
解釈が根本的におかしい。
「‥‥」に該当する高麗史世家の元宗十五年二月記事は「庚午元遣蛮子軍一千四百人来分処海 白三州」。
蛮子軍と言えば旧南宋軍であって元軍と高麗軍なわけない。
駐屯地も耽羅じゃなく塩・白州。
塩・白州帰附軍については、岩波文庫「高麗史日本伝(上)」P113の説明が手っ取り早い。
「(16)元に帰附した旧南宋軍、襄陽府生券軍の1400人。忠烈王元年に塩州・白州等に屯住し、
高麗子女との強制的な婚姻等で物議をかもし、翌年帰還した。」
根本的な問題として、襄陽府生券軍の高麗派遣が忠烈王元年ってことは、文永の役に
参加してないよね。 >>128
ゴメン。
元宗十五年二月記事じゃなく忠烈王元年二月記事だ。 >>128
高麗子女との強制的な婚姻ってなんや……
1400人の兵士との…?
そういえば、元寇で日本に攻めてきた元軍(の船中?)
女性がいたような話を別スレで見かけたけど、
もしかして強制的な婚姻させられた高麗子女ってことなのか?
拉致された対馬や壱岐の女性かと思ってたが >>129
>ゴメン。 元宗十五年二月記事じゃなく忠烈王元年二月記事だ。
それもゴメンで、実際は忠烈王三年二月記事だ。
私が>>124で紹介した韓国人研究者の文章の後半は、やはり元宗十五年二月記事だ。
高麗派遣の襄陽生券軍の人数と、済州守備軍の人数が、偶然、1400人で一致したわけだ。
いずれにせよ、高麗まで来た襄陽生券軍は意外に少ないこと、第一次東征に参加した
可能性は薄いことは了解した。
そのほうが私の考え方にも合っている。
しかし、そのことは別の問題を含む。それは、第一次東征軍が出発する以前に、
すでに第二次東征軍の準備が始まっていた、ということだ。
襄陽生券軍が「征日本」を命じられたのは1273年9月だからね。 次の質問に移ろう。
>漢人部隊はチンギス・カンのホラズム遠征時からモンゴル軍の主戦力じゃん。 >>106
これのソースを聞きたい。
参考までに書いておくが、劉復亨の父親である劉通が所属した漢人軍閥の厳実が、
30余萬戸を率いてモンゴル軍に投降したのは、チンギスハンのホラズム遠征軍が
進発した1219年の翌年、1220年のことだ。 >>131
第一次東征軍が出発する以前に、すでに第二次東征軍の準備が始まっていたわけない。
普通に考えたら、襄陽生券軍は第一次東征軍の後続部隊だろ。
出発前には4万もの軍勢が九州上陸後1日でボロ負けして逃げ帰るなんて想定しないからな。 >>132
元史/卷149 郭宝玉
郭宝玉字玉臣,華州鄭県人。
甲戌(1214),從帝討契丹遺族,歷古徐鬼(グル・カーン)國訛夷朶等城,破其兵三十餘萬。
辛巳(1221),可弗叉(キプチャク)國唯筭端罕破乃滿國,引兵據撏思干,聞帝將至,棄城南走,
入鉄門,屯大雪山,宝玉追之,遂奔印度。
元史/卷151 薛塔剌海
薛塔剌海,燕人也。
從征回回(ホラズム)、河西、欽察(キプチャク)、畏吾兒(ウイグル)、康里(カンクリ)、
乃蠻、阿魯虎、忽纏、帖里麻、賽蘭諸國,俱以砲立功。
元史/卷151 賈塔剌渾
賈塔剌渾,冀州人。
歲己丑,将所部及契丹、女直、唐兀、漢兵,攻斡脫剌兒(オトラル)城。
元史/卷151 張抜都
張抜都,昌平人。
從近臣漢都虎西征回紇(ホラズム)、河西諸蕃,道隴、蜀入洛,屢戰,流矢中頰不少却。 >>130
モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから
十三翼の戦いの総指揮をとったのもテムジンの母親のホエルンだし >>108
うんそうだよ
使者を無視するってのは当時としては戦争待ったなしレベル
元史 210巻 外夷3
朕惟祖宗立法,凡不庭之國,先遣使招諭,來則按堵如故,否則必致征討。
朕惟うに祖宗からの法によると、来朝せぬ国は先ず使節を遣わして招諭し
来ればもとの如く安堵し、そうでなければ必ず征討することになっている。
>>113
高麗は忠烈王以降は高麗王は代々キュレゲン筆頭とされた他
さらに要衝の地瀋陽を与えられるなど破格も破格の待遇を受けてるけどな >>136
モンゴルとの戦争を外交で回避することなんて出来ないよ。
どの選択をしても、どうせ戦争になるんだから使者は無視するのが正解。
モンゴル帝国を詳細に調査したフランシスコ修道会士ルブルクもそう言ってる。
「モンゴル人は暴力によってどんな国をも征服したことはなく、ただ陰険な策略に
うったえるだけです。モンゴル人と和睦いたしますと、かれらはまさにその平和の
かげにかくれて、せん滅の挙に出るのです」
実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。
『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。 >>137
>実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。
>『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。
へぇどこにそんなことが書いてあったの?どうせ東亜板あたりの捏造誤訳を真に受けてるんだろう
実際の文を載せてやるよ
樞密院臣議征高麗事。初,馬亨以為「高麗者,本箕子所封之地,漢、晉皆為郡縣。今雖來朝,其心難測。莫若嚴兵假道,以取日本為名,乘勢可襲其國,定為郡縣」。
亨又言:「今既有釁端,不宜遣兵伐之。萬一不勝,上損國威,下損士卒。彼或上表言情,宜赦其罪戻 ,減其貢獻,以安撫其民,庶幾感慕聖化。俟南宋已平,彼有他志,回兵誅之,亦未晚也。」
以下訳
樞密院において高麗を征服についての議録。初めに馬亨が発言した。「高麗はもとは箕子の封地、漢、晋代の郡県であります。今は来朝したと雖も、その心情は測りがたいものがあります。
日本を取る振りをして兵を送り、勢いに乗じて、その国を襲えば我が領土と為すことができるでしょう。」
また亨は言った。「今はすでに(南宋との)戦端が開かれたばかりであります。万一勝てぬと成れば国威と兵卒を失う事となります。もし彼らが上表文を送ってくれば、その罪を許し貢物を減らし、その民を安撫するのです。
さすれば陛下の恩に慕ってやってくるでしょう。南宋を平定した後でも、彼らに他意があれば、その後に兵を送ったとしても遅くはありません。」 >>138
思いっきり南宋平定後に兵を送るって書いてあるじゃん。 鎌倉幕府の外交を批判してる人は、モンゴル帝国のことをわかってない。
モンゴル帝国は世界中全ての国の征服を国是としていた。
このことは、モンゴル自身の史料にも書いてあることで否定できないよな。
そんな国とは友好的な外交関係を築けるわけないんだから、使者は拒否するのが当然。
実際、モンゴルから使者を送られたほとんどの国が拒絶反応示してる。
このことも否定できないよな。
つまり鎌倉幕府の対応は正常で、問題はモンゴル帝国側にある。 >>138
>実際、日本に使者を送ったのも、日本を油断させて武力征服するのが目的だしね。
>『元高麗紀事』至元六年十一月二日条に書いてある。
>「日本を取る振りをして兵を送り、勢いに乗じて、その国を襲えば我が領土と為すことができるでしょう。」
これは高麗を油断させておいて高麗を直轄領にする戦略ではないか。
「その国を襲えば」の「その国」とは高麗のことだ。 >>135
>モンゴルというか遊牧民は妻も従軍して戦うのが基本だから
モンゴルの遠征軍が女臭紛々としていたというのは始めて聞いた。
降伏した生券軍に強制婚姻させたのは屯田軍にするためだよ。
「萬戸」「千戸」などの言葉が示すように、元の兵制は屯田軍が基本だった。 >>139
朝貢してくれば許す
南宋を平定したあとでもまだ二心を抱いてるのならばその時になって攻めればいいと
思いっきり書いてあるじゃん
わざわざ訳してやっているのだからこの程度ぐらい読めてくれ頼むよ頼むよ
>>140
マラバールやスマトラは招諭に応じて使節を送って来たので攻められてませんけど
>>142
それはあんたが知らないだけでしょ
「蒙韃備録」「黒韃事略」にも他の遊牧民と同様に妻子や奴婢を伴って戦う風習があったことが記されてますよ
万戸や千戸は匈奴の冒頓単于の頃からあるアジアの遊牧民全般に普遍的にみられる十進法からなる編成
オゴデイの頃は12人の万戸がいたが南宋の使節によるとそのうち何人かは女だったとか
モンゴルに限らず遊牧民の社会では女だろうが若かろうが統率力があるものが重用される
この風習が年功序列や男唱婦随を重視する漢人からは野蛮視された >>134
たった四つの例では「主戦力」かどうかはなんとも言えない。
しかもそのなかの二つは燕人(今の河北省あたりの人)とは言うものの、名前から
見て漢人ではない。恐らく色目人(ウィグル人など)だろう。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/24531/p020.pdf
「元朝怯薛出身者の家柄について」
という資料があるから見るといいよ。怯薛(ケシく)とは戦場で手柄をたてて軍人貴族
となったもののことだ。
チンギスハンの時代には圧倒的にモンゴル人が占めている。
色目人、漢人でケシクになったものの表があるが、漢人のケシクは太祖(チンギスハン)の
時代には非常に少ない。それが増えて来るのは太宗(オゴディ)以降、つまり第二次対金戦争
以降だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています