なんで元寇って過小評価されてるの?? [無断転載禁止]©2ch.net
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鷹島に置いてけぼりになった10万の兵士は掃討しなくても船を破壊して放置すれば勝手に餓死したり疫病死したんじゃないかな? 秀吉ならそうしたと思うのだが
それでも鎌倉武士としては危険を冒しても首級を挙げて手柄を立てたかったとか?
現在の鷹島にはモンゴル村があってパオに宿泊もできるそうだけど、当時の悲惨さを知ってたら怖くて寝てられるかよとw 鷹島の陸や海の10万もの兵士の亡骸はどうしたんだろう?
鷹島だけでなく他の戦場もだけど、死体を放置すると疫病の原因になることは当時の人も知ってたと思うが量が膨大過ぎて埋めることもできなかったんじゃないかな?
もしかして鷹島周辺はその後何年も人が住めない荒廃した土地になったりしたのかな? >>315
飢饉で大量の餓死者がでても放置していたようだが(?)
方丈記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98
>養和年間(1181-82年)2年間にわたって飢饉(養和の飢饉)があり、多くの死者が出た。
>仁和寺の隆暁法印が無数の餓死者が出たことを悲しみ、行き交うごとに死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、
>その数を数えたところ、養和2年4月・5月の左京だけで、42,300人余に達した
寛喜の飢饉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E5%96%9C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89
>藤原定家の日記『明月記』にはその状況が詳しく書かれており、寛喜3年9月には北陸道と四国で凶作になったこと、
>翌7月には餓死者の死臭が定家の邸宅にまで及んだ 飢饉や戦乱で大量の腐乱死体が放置された場合どれくらいの時間が経過すれば腐肉が分解し疫病の危険などが除去され農耕や生活などの復旧ができるのだろうかと妙なことに関心があります
特に鷹島はもともと住んでいた住民はほとんど虐殺されただろうけど、七人塚の家族の中で灰の中に隠れて助かったおばあさんみたいにわずかに助かった住民はその後どうなったんでしょう?
鷹島に帰って復旧できるまでどれくらいかかったんでしょう
逆に腐乱死体が肥料になるのかななどと不謹慎な想像をしたりしています >>314
元史では鷹島の兵士たちは木を切って船を造って帰ろうとしてた
けど仮に船を造っても全員載せるほどの分はできないだろうし
水や物資も帰還日数×乗員分必要になるし、
あるいはその前に飢えるだろうから、
そのまま餓死する可能性もあるけど決死の覚悟で
略奪にくる可能性もあったと思う >>317
現代みたいな疫学の知識はないにしても
貴族とか穢れとか気にしそうだけどそういうの放置して気にならんのかな >>321
放置すると家の中まで死臭が届くのも放置してることにならん?
死臭には穢れ云々って考えはなかったのかな
てか単純に臭いのは嫌じゃないんだろうか 平清盛ら平家一党が住んでた六波羅は風葬地の鳥辺野が近いが腐臭が漂ってこなかったのかな? 元寇から宋の滅亡まで期間空きすぎじゃない?
それもその後にも戦争や反乱鎮圧起きてるし 【日本史】元寇、神風でモンゴル軍退散との“虚構”は、なぜ生まれたのか?
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1585574319/
久々の元寇スレ、と思ったら内容が…
フビライ側に初めから交戦する意思があったかどうか、はなはだ疑問とか、
鎌倉幕府が冷静に対応してれば回避できたとかなあ… 源平の鎌倉武士が問答無用で朝鮮コマ人皆殺ししてて笑えるw
武士のどこに百済派、新羅派の親朝鮮要素あるの? めっちゃ杉山正明氏の影響受けた記事だね
けど杉山正明氏は他はともかく元寇については
クビライに対して甘い見方をしてる印象がある
高麗史でクビライが日本に使者送った頃にはもう侵略を口にしてることは
単に分野違いで知らなかっただけかもしれないけど
使者の行動が丁寧な交渉というには疑問なのは元史でだって読み取れるし 上のスレで元寇の原因が日本が使者斬ったせいって言ってる人何人もいるけど、
昔っからいたけどこんなに沢山いたっけ?
1スレでこれだけ多く書き込まれるほどには流行ってなかったと思うんだけど
誰か流行らせてでもいるの? そりゃあNHKが元寇は日本が悪かったと言う番組を放送しているんだから一般人は信じちゃうよね 他にもあるみたいだね
方や子供向け?、方や歴史好きの人の趣味本とはいえ
本として、しかも事典や講義って題名の本ですらそうなのか
946 名無しさん@1周年 ▼ 2020/03/31(火) 02:05:10.93 ID:uS6hTEkT0 [1回目]
>>777
日本が元寇の前に使者斬ったって話や、それを元寇の発端という話は、
歴史が専門の学者とかが書いた本では全く読んだことないけど、
歴史学者じゃなくて歴史好きの実業家の出口治明という人物の
「「全世界史」講義 I古代・中世編」と「全世界史 上巻」と、
子ども向けの歴史漫画シリーズの事典だけど
「学研まんがNEW日本の歴史」の「人物学習事典」では読んだことあったなあ
『「全世界史」講義 I古代・中世編: 教養に効く!人類5000年史』 出口治明
『全世界史 上巻』 出口治明
>クビライは海外の事情に通じており、日本と交易をするつもりで使節を送りました。
>ところが鎌倉幕府は、国際情勢も外交上の儀礼も知らずに使者を斬ってしまった。
>それが文永の役(一二七四)の発端でした。元寇については後述します。
『学研まんがNEW日本の歴史』の『人物学習事典』 大石 学 (監修)
>国書を受け取った幕府は、要求を無視する決意をかため、十八歳の時宗を執権職につけて、
>幕府内部の体制を新たにして、危機にのぞむことにしました。
>その後、何回か元の使者が来ても、時宗は、求めをことわり、使者を追い返したり殺したりしました。
>そして西日本の御家人たちを九州にまとめ、守りをかためました。
>一二七四年、フビライは兵力二万五千人をこえる大軍をおくってきました(文永の役)。
ただし、『全世界史』は2016/1/18の発売で、『学研まんがNEW日本の歴史』の『人物学習事典』は2013/4/1発売、
ネット上ではその十年以上前から広まっているようだから、これらの本が発というわけではないだろうし、
出口氏は『全世界史』の前書きで
>僕は、歴史を専門として学んだわけではありません。
>この本は、一人の歴史好きの市民の趣味が高じたものに過ぎません。
と書いてるように歴史学者というわけではないから、それを前提に読むべきだろうけど。 出口治明氏ってよくクビライに好意的な視点で書いてる人だっけ…
それ自体は別に悪いことじゃないけど… 同じ出口治明氏の「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」が持ってたからちょっと元寇についての箇所見てみた。
呉座勇一氏との対談の所でも使者斬ったことについて言及して、モンゴルと鎌倉幕府の対応を並べて比較してたけど、
>出口 モンゴル戦争(文永の役一二七四年、弘安の役一二八一年)についてお聞きしたいことがあります。
>最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は、「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いてなかったと思うのですが、鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。
>なんでこんな対応をしたのでしょうか。
「最初にモンゴルが日本に持ってきた国書は、「仲良くして商売をやろうや」という話で、そう無茶なことは書いてなかったと思うのですが」←文永の役の前
「鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴ですね。」←文永の役後
と侵略される前の交渉の最初期のモンゴルの国書と、侵略後の幕府の対応を並べて比較させてるのが疑問だった
「かなり乱暴ですね。なんでこんな対応をしたのでしょうか。」ってそりゃあっちが攻めてきたからなんじゃ
先に乱暴なことしたのはクビライなんだけど…
対談してる呉座氏もそれについて特に突っ込まないまま
外交担当の朝廷が国交を結ぶ意思を示さないから幕府は戦う準備をする以外選択肢はなかったと答えてるけど、
単に朝廷が国交を結ぶ意思を示さないなら文永の役前だってそうだったけど、
それでも幕府は使者を斬ったことはなかったのにな
呉座氏は「戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―」では
元寇前の使者について詳しく正確なことを書いているし、
元寇前の対応についてもモンゴルは服属か否かと迫っているから外交交渉の余地はなく、
服属していたらただし、南宋への進攻作戦に参加するよう命じたであろうと書いてたから、
別に鎌倉幕府の外交姿勢については批判的なわけではなさそうだけど 一応同じ本の元寇についての記述のある「第4章 モンゴル戦争と悪党」の項では、
文永の役前の幕府の対応については「「そんなもん放っておいたらええで」と突き放していた」とか
放置したことのみ書いていて斬ったとは書いてないとはいえ…
この書き方だとまた同じ誤解を招きそうな
この「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」の内容は初出が「週刊文春」2017年11月2日号〜2018年11月1日号となっていて、
「鎌倉幕府が使者を斬ってしまったのが文永の役の発端」と書いてる「「全世界史」講義T 古代・中世編」は2016年1月の発売のようだから、
その間に文永の役前の使者については正確な所をちゃんと知ったのかとも思うけど、
でもだったらなんで同じ本の対談では文永の役前と後を並べて比べてるんだろう あ、334で二冊挙げてるから紛らわしかったな
>>335の「同じ本」は「0から学ぶ「日本史」講義(中世篇)」の方 文永の役前の幕府の対応についても大都まで使節団派遣してるんだから
「そんなもん放っておいたらええで」と突き放していたわけではない。
幕府が外交問題で朝廷に秘密裏に独自の動きをしていたとなると、日本中世史は
根底から覆される部分が出てくるけど。
南宋との同盟の話だって、鎌倉から南宋へ渡った僧が暗躍していたことを考えれば
幕府主導で行われていたと思うのが普通。 五回目の趙良弼の時に太宰府西守護所が派遣した奴か
元からは偵察と思われてたみたいだし戦争見越しての偵察だったのかもね >>334
2回目の使者の時の「最初にモンゴルが日本に持ってきた「仲良くして商売をやろうや」の国書」に対比させるなら
日本の対応は返書しなかったことの方だし、それだって学者によって解釈に違いはあるとはいえ
その国書でももう兵を動かすのを匂わせてのものだったわけだし、
7回目の使者の時の「鎌倉幕府はモンゴルの使者を斬ったりして、かなり乱暴」に対比させるなら、
モンゴルの対応は文永の役とそれによる虐殺などの被害の方なんじゃ
文永の役前は使者を斬ってないのを見ても、
「なんでこんな対応」になったのかは文永の役が分かれ目になってるよね 日蓮は幕府が法華経を尊重せず禅宗などを保護することを批判して、仏罰として地震や外寇が起こると予言してたから、元寇も仏罰と見てたんでしょ?
元の使節が斬られた滝の口の刑場では、日蓮も危うく斬られそうになったこともあり、
日蓮系の団体信者は元に共感してるのではあるまいか? >>339
2回目の使者が持ってきた国書だって「仲良くして商売をやろうや」なんて内容じゃないよ。
「モンゴルは天命によって世界の支配者になったから日本の方から挨拶に来い」とか
書いてあるわけで。
モンゴル研究者の杉山は「あれはモンゴルの外交文書の定型文で日本にだけ
酷い内容だったわけじゃない」とか主張してるけどさ。
相手のある外交文書でそんなモンゴル内だけの理屈を主張されても受け入れられるわけない。
当然、その定型文の国書を送られた国は日本以外もみんな拒絶的な態度をとってる。
明らかにモンゴルの外交姿勢が悪い。 >>332
これネットの方が先らしいけどネットでは何時からなんだろう ネットでは2000年代はまだ稀だったのが10年代になってから増えていって、
ここ数年では急速に増えてる感じだけど
2chの古いログ見てたら、2005年の書き込みにはもうあったし、
「小学校の頃はいきなり使者の首斬ったって教わった」ってのもあった
教師によるだろうけど、学校で教師が教えてるものすら昔からそんなんなのか…
236 :日本@名無史さん:2005/12/30(金) 16:55:19
>>232
そうそう。結構みんな勘違いしてるんだよね。
ホントに使者の首斬ったのは1275年なのに。
漏れも小学校の頃はいきなり使者の首斬ったって教わった。鎌倉武士テラ弱スな流れだった。
ついでに時宗とフビライはすっげー悪い奴って教わった。
https://academy6.5ch.net/test/read.cgi/history/1128253450/ 本じゃないけど、有料販売されてる教材にも2008年(Google日付)の時点で既にあった
Google日付は実際より後の日付になってること多いからもっと前かもしれないけど
学校で使われてるのかなこれ
>[解説]元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従うようにと使者を送ってきた。
>幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。
>1274年,元軍3万が九州の博多湾に上陸し,集団戦法とすぐれた火器によって日本軍をなやましたすえ,内紛や暴風雨のために引き上げた(文永の役)。
>さらに,1281年 ,約14万の大軍で,襲来した。幕府軍は,博多湾沿いに築いた石塁を利用して戦った。
>元の大軍は上陸できないまま,暴風雨に襲われて大損害を受けて退却した(弘安の役)。
【FdData 高校入試:中学社会歴史:鎌倉】 Fd教材開発(2008/01/16)
http://www.fdtext.com/dan/fdn_sr04_kama.pdf
>元のフビライ・ハンは高麗を征服した後,日本も従うようにと使者を送ってきた。
>幕府の執権北条時宗は使者を斬って,これを拒絶した。
>その結果,1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度にわたって日本に攻め込んだ。
【FdData中間期末:中学社会歴史:鎌倉】 Fd教材開発(2011/11/18)
http://www.fdtext.com/dat/pdf_re2_1_kamakura.pdf 古いのを探したら、玉川大学・玉川学園制作・著作となってる「鎌倉時代の勉強をしよう」ってHPにもあった
Googleの日付だと2002、2003年のもので、こんな昔っから、しかも大学のHPに歴史の勉強用に載せてるものにすらあったんだな
しかもこのHP、「元寇」で検索すると2番目に表示されるから、元寇について調べようとした時にここを見る人多そう
二番目と三番目の方ははっきりと日本が使者を斬ったからフビライが怒って日本を攻めたように書いちゃってるし、
一番目の方にしても、朝廷が返書しようとして幕府が反対して取りやめになったのって金有成の時のことなら、
その後に来た使者って趙良弼のことになるから殺されてるわけがないんだけど
でも別の元寇の解説にはちゃんと使者殺害を文永の役後、弘安の役の前としてるものもあったりして
なんか所によって書いてることが違うなこのHP…
>その当時の日本人には国と国の付き合いかたが分からなかった.
>朝廷は返書を出そうとしましたが幕府はそれを握(にぎ)りつぶしました.
>そして,その後に来た使者を殺してしまったのです.
>本やテレビでは「日本の決意を示すため」としてありますが,
>冷静(れいせい)に判断(はんだん)すればそんなことはしないはずです.
>国際的な常識ではたとえ戦争中でも使者を殺すことは許されません.これは昔も今も同じです・・・
小学生とゲンボー先生のページ19(2002/02/01)
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/el19.html >1.元は最初「元と貿易をしよう」と言ってきたのです。
>ただその時の手紙の内容が「他の国は皆OKといったぞ!
>お前らもよ〜く考えて答えろよ,できれば軍隊を使いたくないからね〜」というような半分おどしの手紙だったのです。
>幕府は元のことを中国からきたお坊さんから聞きました。
>それによると強力な騎馬軍団(きばぐんだん)で多くの国を支配したとのことです。
>日本と貿易をしていた中国(南宗=なんそう))も侵略(しんりゃく)されていました。
>それで幕府はあわてて元とのおつき合いを拒否したのです。
>それどころか使者を切ってしまいました。いくら昔でも使者を切り殺すなど国際ルールを無視しています。
>それで、頭に来た元の一番偉(えら)い人(フビライといいます)が、日本攻撃(こうげき)を命じたのです。
>海を隔(へだ)てた日本を支配してもあまり利益になりませんが,
>元は他国へのメンツもあって日本を攻撃(こうげき)してきたのです。
小学生とゲンボー先生のページ6(2003/08/29)
https://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/el6.html
>そこで,フビライハーンは日本の王に対して「交易をしよう」という手紙を書きました.
>しかし,その手紙には「交易しないのなら,軍隊を送るがそんなことはしたくないなあ・・」というおどしの言葉も書いてありました.
>元にはもう一つ目的がありました。
>それは当時元と戦っていた南宋と日本の貿易額が大きく人の行き来も多かったため、
>日本と南宋をなんとかして切り離そうとしたのです。
>しかし、日本には南宋から日本に逃げてきた人が沢山いて,
>その人達が「元」の恐ろしさを伝えていたために,日本は元の申し出を拒否したのです.
>日本は拒否のしるしに元の使者を処刑しました.このことに怒ったフビライが日本遠征を命じたのです.
中学生とゲンボー先生14(2003/03/01)
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/jh13.html 今は映像授業サービスとWEB予備校の動画にもあるし、
学校といいオンライン授業といい、そう勉強してしまった人も増えたんだろうな
・トライイットという中学生・高校生向け映像授業サービス
【中学歴史】「元寇 文永の役と弘安の役」 映像授業のTry IT (トライイット).html
https://www.try-it.jp/chapters-2878/lessons-2898/point-2/
>日本に興味を持ったフビライ・ハンでしたが、いきなり軍隊を送ったわけではありません。
>まず日本に使者を送り、降伏して元の支配に下るよう要求しました。
>当時の執権である 北条時宗 は、フビライの要求を拒否するだけでなく、元の使者を処刑してしまいました。
>この行為に激怒したフビライが、日本に大軍を送ってきたわけです。ついに戦いが始まります。
・無料WEB予備校・塾 チノポスの授業動画
竹内睦泰 元寇と得宗専制政治
https://www.youtube.com/watch?v=b4_azPkG7-o
>元の皇帝フビライは、日本に服属要求。家来になれといいました。
>日本側は北条時宗、家来になれと言ったモンゴルの、フビライの、使者を、二人の首を刎ねます。拒否。元寇でございます。
>まず文永の役。元高麗軍三万人が来ます。博多湾に上陸。 単なるネットの書き込みだけなら鵜呑みにしない人でも信用するような
教育媒体にまで浸透した結果かあ…
そりゃ年々増えていくわけだ 鹿島昇の本だったかな
元の友好の使者を斬首するという外交の常識的にも異常な行動に出たのは
義経=ジンギスカンだからそれを隠すため、
みたいなぶっ飛んだ話見て吹いた覚えがあるw >>343]
流石に教科書にはないと思うけど、それなのに教えてる教師がいるってどうなってんだろ >>350
教師が授業を盛り上げようとして教科書にない話を盛るのが問題なんだよ。
鎌倉武士がモンゴル軍に「やーやー我こそは」と名乗ったなんてどこの史料にもないけど
実話だと信じてる人多いだろ。 >>
中学、高校の教師のサイトにも結構あったから、中高の教員にも広まってるらしい
一番上は2002年頃のもののようだから、やっぱり学校教育への広まりもかなり前から起きてるみたいだね
社会科が好きになるページ―中学校社会科教師のための実践マニュアル集―
<地獄の沙汰も金次第>A いざ!帆を上げよ!@
http://kawa-k.vis.ne.jp/jyugyou/kanesidai/jigoku2.htm
>教師:そう。鎌倉幕府。・・・この時の将軍は御飾りで、そのときの幕府の中心は執権という職についていた北条時宗という人。
>時宗はなんとモンゴルの使者二人の首を切り、最後の一人にその首を持たせてモンゴルに送り返した。
>生徒:「攻めて来いって言ってるのと同じジャン。」
>教師:そう。・・・そしてモンゴルは攻めてきたというわけ。・・・そのときの戦いの様子がそのとなりの絵だ。図2を見てご覧。
これでも元私立高校教員
意外に楽しい「高校日本史」4 〜鎌倉時代の相続(中編)〜
https://ameblo.jp/nopposan180/entry-11771005629.html
>その使者は大陸からやってきた。
>8代執権北条時宗は、その使者の要求を拒絶しただけでなく、使者を処刑することを命じた。
>この使者を派遣したのはモンゴルのフビライ。
>高名なチンギス=ハーンの孫であり、中国で宋を滅ぼし、元を創始し皇帝となった人物だ。
>世界的な大帝国である元からみれば、日本などは歯牙にもかけぬ小国であり、
>その小国が使者を切り捨てるなど笑止なできごとであり、フビライは直ちに日本討伐を決意した。
>いわゆる元寇である。
>1274年、元軍は朝鮮の高麗軍と合わせて3万人の軍勢で対馬・壱岐を占領し、九州北部の博多湾に上陸した。 【てぃ〜ちゃ〜Mの授業】
#34【中学校社会科 歴史】元軍の襲来
http://teacherceo-masajirusi.com/2019/11/14/post-643/
>元の皇帝フビライハンが日本に服属を求めて(子分になるように求めて)日本に使者を送るが、最終的に使者を切り捨てたことにより元が日本に攻めてくる。
>元の皇帝フビライハンが日本に従わなければ攻め込むぞという手紙と使者をたびたび送るが鎌倉幕府は拒否。使者を切りつける。
>怒った元軍が攻めてくる。
社会科講師の流儀
【元寇の授業−鎌倉時代ネタ】
https://ya-hon.com/genkou
>そして、五代皇帝フビライの時、国号が「元」に変わり、日本に服属を要求してきます。
>8代執権、北条時宗はこれを拒否。使者の首をはね、送り返したと言われています。
たのしい教師生活
http://tanoshi-kyoushi.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/日本史B「蒙古襲来」の授業
>1)フビライから日本に送られた書状を紹介する。
>「『誰が好き好んで兵を用いるだろうか』というのは、何を言いたいのだろうか。」
>『脅し』
>「この手紙に対して、君が北条時宗だったらどう返答する?」
>『来るなら来いって言う』『使者を送る』
>「実際は無視。6回同じ書状がきた。しかし、使者を殺害するなどする。返答がないことを受け、フビライは日本侵略を決意する。」 小学校、中学校、高校、
大学のHP、塾、教材、歴史の本…
浸透しすぎじゃね
流石に大学で教えてる所はないよな? >>345、>>346の「鎌倉時代の勉強をしよう」は「制作・著作 玉川大学・玉川学園 協同:多賀歴史研究所 多賀譲治」となってて
この人が質問に回答してる「ゲンボー先生」らしいね
歴史が専門の人の書いたものでこの誤解を書いてるもののはないと思ってたけど、
本じゃなくHPとはいえ、あったんだなあ
しかも18年も前から…
このHPは「知るほど楽しい鎌倉時代」って題名で本にもなってるらしいけど、そっちにも載ってるんだろうか
本の説明に「平成15年第9回マイタウンマップコンクールにて
「教材開発のページ(鎌倉時代の勉強をしよう)」が東京都知事賞を受賞」ってあるけど、
このHPが受賞したってことなのかな… どうもこのデマ、取り上げるときの論調が日本・鎌倉幕府・北条時宗を
批判するものと称賛するものと両方あるみたいだね
批判的なものは先に手を出した日本が悪い、とか
だから元寇は日本に非がある、侵略ではないとまで言い出してる >>352
あれ敵に対してじゃなく味方に対して名乗ってる(参加証明?功績アピール?)って話も聞くけどどうなんだろ
鎌倉時代とはいえ大陸と言語が違うことくらいはみんな知ってただろうし
日本語で名乗るって違和感あるし 白村江敗戦で唐に制圧された、元寇開戦は日本が起こしたなどなど。
全部チョンコの陰謀。 元寇に関して日本が悪い的な陰謀論は他にもあるなあ
なんか日本の御家人が勢力拡大のためにわざと元寇起こすよう仕向けた、みたいなのとか
そんな説でも特集した番組もあったような 北元の末帝から後金の太宗に伝わった
伝国の璽は清の滅亡でどうなったのだろう 元寇の防塁だが10mの城壁がざらにある大陸で戦って来た元軍にとってはおもちゃ並みという見方は一旦あるだろうがさにあらず。防塁があるがため日本側は元軍を防塁の外に封じ込めた。すなわち守城の立場変じて攻城側となったのが最大の利点だろうか。 元寇と対馬がテーマのゲームだってさ
ソニー傘下の外国人開発チームが作ってる 元軍も南宋攻略に費やした位の兵力を投入すれば日本に勝てたかもしれんのにな。 >>366
そんな大軍を日本に輸送するのは文永の役の時は無理だろうし
弘安の役でも可能だったかどうか 樺太および蝦夷を大軍でもって征圧し、そこから陸奥、奥羽と侵攻したならば、
鎌倉を落とせたんじゃね? そんなことしてる間に本国が内乱。
東北周りでゆっくり攻めてるうちに楠木正成が生まれ落ちてゲリラ戦で撃退する 鎌倉幕府もモンゴル軍が樺太経由で北から攻めて来ることを警戒していた。
青森には昔から「蒙古が攻めて来るぞ」と言って子供を叱る習慣が残ってる。 英語圏では元寇でモンゴル兵の革鎧で太刀が折れたからいわゆるkatanaができたって話ひろがってる
英語wikiに日本の刀剣サイトの相州伝の説明を根拠にしている箇所があった
これって本当なんでしょうか、説明見ると矛盾をかんじます だって相州伝は相模国つまり神奈川あたりで、元寇で実際に戦ったのは九州の御家人だから関係ないじゃん。 相州伝根拠説だと鎌倉幕府が元寇後に地元の刀鍛冶に命じたとのことです
英語wikiの根拠が日本の刀剣ワールドでは
軽く折れないようにしたとかモンゴル兵の青竜刀に影響されたとかのようです
ほかのサイトでも似たような説です、青龍刀ってとこであれですが 初めから刀剣ワールドと書けばいいのに。確認したけどなんとも判断がつかない。
「強く鍛えた鋼を高温で熱し、急速に冷却するという、技術的にとても難しい鍛錬法の技術は伝承されず、
現在ではもうその製法を知ることはできません。」
と書いてあるけどそれって焼き入れじゃないの。
それと蒙古襲来絵詞を見ると敵味方ともに弓で戦っ」いて刀で切り結ぶようなことはしてない。
それから元の前の北宋の欧陽脩という文人が「日本刀歌」という歌を作っていて当時既に
中国でも日本刀の優秀さが知られていた。中国の青龍刀(柳葉刀)に負けてるとは思えない。
「ところが最近宝刀が日本の国より出てきた。越の商人がこれを青海原の東に求めてきたが、
それは香木の鞘に鮫の皮が貼ってあり、真鍮と白銅を取り混ぜて飾ってある。【真鍮は金に
よく似ており、白銅は銀によく似ている】百金という大金を払って好き者の手に入った。佩用
していると悪魔を払ってくれるという。」 「それまでの日本の戦闘様式は、位の高い戦士同士が1対1で戦う「一騎打ち」が主流でした。ところが、
外国人である元人には一騎打ちは通用せず、前触れなく多数で包囲してくる「集団戦」を仕掛けられたのです。」
こう書いてあるけどこれは古い説です。蒙古襲来絵詞を見れば日本側も集団による騎射で戦っているのがわかります。 「2つ目は、焼き幅が広いこと。焼き幅が広いと硬度が高く裁断力も高いが、それだけ欠けやすく、
何度も太刀を合わせると折れてしまうのです。3つ目は、刃こぼれをした場合に研ぎ直しができな
いこと。鋒/切先の短い猪首鋒では、研ぎ直しができず、太刀自体が駄目になってしまうのです。
これらの欠点を補う新しい鍛錬法の改革に迫られ、ついに新藤五国光、国光の弟の国広、正宗に
よって「相州伝」と呼ばれる流派が生まれます。」
どこにも革鎧で太刀が折れたとは書いてない。「何度も太刀を合わせると折れてしまう」である。 youtubeで外人が「tachiはkatanaでは無い」「katanaは元寇後にできた」「katanaは砂鉄などのゴミからできている」
「日本の技術はモンゴルより遅れていた」「西洋のロングソードはクニャクニャ曲がって折れないから、折れる刀より優秀」
などの説がおおく、定説化しているので「刀は総称で、漢字で太いkatanaと書き、太刀は打刀では無いという説明は
説明がなりたちます」「刀は宋に輸出していて欧陽脩という政治家が日本の技術を称賛しています」「玉鋼は鋼を脆くするリンと硫黄
などを除去し、現在は安来鋼が刃物鋼として生産されています」とせつめいしています。
外人が「革鎧で太刀が折れる」というので 相州伝 元寇 などで検索すると刀の改良原因が「革鎧に対抗するため」
「元寇により日本刀の欠点が明らかになった」「集団戦の歩兵用」などがありました
元寇の英語版wikiの下に日本刀の説明にも元寇で刀の形が変わったとあり、刀剣ワールド
のリンクがあります
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_invasions_of_Japan
刀が折れないとはいいませんが、相州伝根拠説は日本側も言っている、が根拠がばらばらなんですよね
台風神話や一騎討ち神話を教えられてたんで疑り深くなっているから聞いてみた次第です
外人は未だに台風神話が定説してますね、長文で説明したら変人扱いされます 反日なのか変な説を信じてるのかしらないけど、海外の元寇話見てると
日本を過度に落とすような話が吹聴されてるような印象がある
もっとも5chでもそういうのあるから国外に限ったことじゃないが… アジア系の反日というか、歴史的西洋剣術H.E.M.Aというのがあって、インターネット時代になってから
できた武術で歴史書や一枚絵から失われた武術を再現するコミュニティーみたいです
自分たちの優位性を示すために日本の武術や武器を踏み台にしてるかんじです
ダークソウルなどのゲームやG.O.Tなどのドラマの流行で人が増えたようですがネタがないのか動画のアップ数は近年減っています
向こうでもH.E.M.Aは歴史的じゃないとか、西洋剣術は唯物論や無神論のためうしなわれたとかつっこまれています そもそも遊牧民なんだから溜め込んだり支配してやろうって発想は持ってないぞ
そういうのは寝返った現地の平地民支配層がモンゴル帝国の権威をカサにやってることで
遊牧民は降参してシッポ降るのまで確認したら、後は上がりさえ入ってれば下が何やってようと気にしない >>380
遊牧民は土地を支配する思想がないだけで、人に対する支配欲は強いぞ。
遊牧民にとって所有する人と家畜の数が権力なんだから。
モンゴル帝国も征服した国では必ず人口調査をするし、王族を人質に出すように要求してる。 >>211
欧州はイギリス、フランス、スペインでガチの戦争してて、極東に数十万の兵力送り込む国力は無い
中世で船だけなら、アメリカでも日本侵略は無理 13世紀に行われた第4回十字軍で、十字軍側が当初ヴェネチアに動員を約束した兵数は、
騎士4500人、従者9000人、歩兵2万人だった。
これは文永の役の元軍の兵数、蒙漢軍2万5000人、高麗軍8000人とほぼ同数。
実際には、十字軍は約束の3分の1の兵数しか動員できなかった。
それでも第4回十字軍は、文永の役の3分の1の兵数で2000キロの渡航遠征を行い、
ビザンツ帝国を征服してるんだな。
鎌倉時代の日本が突出した軍事強国だっただけで、当時の世界のレベルはその程度。 >>374
仁徳天皇陵を調査したGHQの報告書で副葬品の大太刀が白く光ってたと言ってたそうだが約1700年もの間その輝きを保ってたとは驚きだと話題になってた。
銅製なら緑色、鉄製なら赤錆が付いてたのにな…その白銅製だったのかも。 >>383
> それでも第4回十字軍は、文永の役の3分の1の兵数で2000キロの渡航遠征を行い、
兵が少ないのは、人口でなく食料の問題では >>385
単純に十字軍参加希望者が思ったより集まらなかったんだよ。
ヴェネチアは、 ちゃんと騎士4500人、従者9000人、歩兵2万を聖地まで輸送する船の準備をした。
だから十字軍はヴェネチアに代金が払えなくなり聖地じゃなくビザンツ帝国を攻撃することに。 元寇を退けた台風「神風」は日本をロックダウンした? 医師が解説するその理由
https://dot.asahi.com/aera/2020080400045.html?page=2
最近、元寇によって日本はペストから守られたって論調の記事あるけど、
日本は南宋の人は助けたという話もあるから、
そういう意味では元寇の兵士を完全に国内に入れなかったわけではないよね?
元々博多にも南宋の人かなりいたというし
それでもペストが持ち込まれなかったのはなんでだろう
南宋には流行ってなかったのかな 【元寇】 麗蒙連合軍の日本征伐、戦力は上だったのに失敗した理由は?〜国や民族にも運がある★2[08/09] [蚯蚓φ★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1597016241/
東ア板に久々の元寇スレ ゴーストオブツシマ効果で
このスレもすわ盛り上がるかと密かに期待したら
安定の過疎に安心 あまり売れてないからね
ゲーム会社もあまり期待してなかったのか出荷が少ないから品薄で人気のように見えるけど 初週売上は日本だけでも20万本以上だし据置機の新規IPとしてはかなりの快挙じゃないの
とはいえわざわざこのスレにまで来て書き込む人はおらんやろなあ
日本史詳しくない初心者は書き込みにくい雰囲気だし あとツシマスレ見れば分かるがあのゲームやってる層の大半はそもそも史実だのに興味がない >>1
>神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
廿日の戦闘が終わった後、元軍がいったん船に引き上げたという話は、学者や教科書も含めて
広く流布しているけど、そんなことを書いてある史料を見たことがないんだよね。
この説の始まりは一体なんだろう。 >>396
夕方に戦闘が終了して、翌朝には難破してるからじゃないの?
そうなれば、戦場から引き揚げてすぐ乗船するぐらいでないと間に合わない >>396
そんなにたくさん史料を読んでるなら元軍が橋頭堡を確保して船に戻らなくなったという史料が見つかるかもね >>391
発売3日で240万本てかなり売れてると思うけど >>400
サムライのゲームだという物珍しさで最初は売れたな
中身はつまらない劣化アサクリだったけど >>397
>夕方に戦闘が終了して、翌朝には難破してるからじゃないの?
翌朝はまだ難破していないよ。
一隻が志賀島付近に座礁していただけで、その他は博多湾から消えていた。 あ〜よくやるらしいんだよ
ヨーロッパのときもそおだけどな
最初はすぐ引き上げるわけ
その10数年後に前の数倍の大軍を投入してくんだよ だから最初は偵察戦なわけなんだよ
それで終わりじゃないの
第一次元寇の軍が4万
第二次元寇の軍が16万
二度目のときはほんとに台風に打ち当たりやつら藻屑になった 半島だろうが中国だろうが台風はほとんど発生しないからな
日本は山間部だから台風なんかくれば山から土石流が流れるなんざ当たり前
台風の中を生き延びられたらほめてやるよw 第三次も計画あったらしいけどな
フビライが死んで計画白紙になったの いいかやつらの場合はすぐ大軍送るとかじゃないの
全部族で集まってどこを攻めるか会議やるんだよ
これをクリルタイって呼んでるわけ
それぞれ受け持つ軍団を集合させて攻めるから十数年かかるの
やつらヨーロッパまで攻めているからな
そういうときは日本にはあまり大軍回せないの 中国から日本に来る船があるだろ
だいたい生存率が50%なんだよ
台風に打ち当たったらほとんど藻屑となって沈むの当たり前なの
普通の商業船でもそおなの やつら支配した地域によってウルスを置いたわけ
ウルスってのはそれぞれクリルタイが開かれる場所を指す
それがそのまま〇〇ハン国って呼ばれるよ〜になったわけ
中国支配したウルスはもちろんモンゴルにあった 明の朱元璋はモンゴルのやつらを中国から追い払ったが以前としてモンゴルにウルスは存在したわけ
そんでやつらは以前として大元皇帝名乗ってるわけだよ
明が積極的に仕掛けたのはそいつらを滅ぼすための戦い
結局、後の清を建国したホンダイジに大元皇帝の印璽を明け渡して滅ぶんだがな
清の皇帝は一応、モンゴル、女真、漢民族らに推戴されて皇帝となった >神風のお陰にされてるが侵略軍が船に引っ込まざるを得ない時点で話にならん
このような考え方を「いったん乗船説」と呼ぶとして、その典型的な例を挙げる。
「モンゴル帝国の興亡」杉山正明著、127〜128ページ
「ところが進攻軍もまた、いったん兵を引き、博多湾上の艦船に戻った。夜襲などの不意打ち、
地の利を生かした奇襲攻撃を回避するためには、当然だったかも知れない。そこを暴風ないし
突風が襲った、とされる。損害の出た侵攻軍は、戦闘継続をあきらめて、高麗国へ帰投した。」
どう思う? >>412
2ヶ月経っても石塁を越えきれなかったのはどう思う? >>402
その他は博多湾から消えていたという表現は正確じゃない。
ちゃんとモンゴル艦隊は博多湾から敗退したと書くべき。
>>404
最初のも偵察じゃないよ。
モンゴル軍の4万は世界の大半の国を余裕で征服できる兵数。
だからクビライもそれだけの兵力投入すれば普通に日本を征服できると考えたんだな。
ところがモンゴル軍4万人は日本軍に全く歯が立たずに1日で逃げ帰った。
だから2回目は14万人の大軍を送ったわけ。 「いったん乗船説」の本質は、戦闘継続の意思がある上陸軍が、上陸当日の「宿営地」として
「船上」を選んだ、というところにある。
その上で言えば:
1)いかに夜襲が怖いからと言って、夜間上陸作戦と同じだけ、あるいはそれ以上の労力と危険を
伴う「夜間乗船」を選ぶだろうか?
2)もっと問題なのは、夜間に「湾内」で暴風に遭って危険を感じた船隊が、もっと危険な(もっと
波の高い)「外海」へ出ていくだろうか?
湾内でやり過ごそうとするのではないか?
この二つの疑問だけでも、「いったん乗船説」は成り立たない。 >>413
>モンゴル軍の4万は世界の大半の国を余裕で征服できる兵数。
まず、文永の役の元軍の兵数は4万ではなく2〜2.5万。
「世界の大半の国」とはどこの国かわからないが、
中東のホラズム王朝を滅ぼしたチンギスハーンの遠征軍は20万。
ヨーロッパ諸国の騎士団を壊滅させたバトゥの遠征軍は15万。
南宋を滅ぼしたフビライの部将バヤンの遠征軍は本隊だけで20万(他に支隊)。
おおざっぱに言って文永の役の元軍とは桁が一つ違う。 >>417
バカ?
意見が合わないとNGならどっかtwitterにでもどこでも行けよ行けぬ間 >>416
それ実数じゃないやん。
モンゴル帝国はホラズム王朝を滅ぼして、1227年にチンギス・カンが死んだ時点で
総兵力12万9000人だし。
それにポーランドへ攻め込んだモンゴル軍の兵数は僅か1万人。
一方、文永の役は中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と
梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人。
文永の役と比べたら、ヨーロッパ諸国の騎士団を壊滅させたバトゥの遠征軍なんて
屁みたいな規模でしかない。 >>420 自己紹介
朝鮮人の口癖
朝鮮呼ばわりがいやならもう言うな >>419
>1227年にチンギス・カンが死んだ時点で総兵力12万9000人だし。
その数だとしても巨大であることに変わりはない。
チンギスハーンの時は民族移動式の根こそぎ遠征だからね。
それに、平時は戦時より兵数が少ないのは現代でも同じだ。
>それにポーランドへ攻め込んだモンゴル軍の兵数は僅か1万人。
バトゥの遠征軍の出発時の兵力は1万〜5万の推定があるが、要するに比較的少数だった。
それが遠征の過程で異民族を糾合して、15万と言われる大軍に膨れ上がったのだ。
ポーランドでワールシュタットの戦いをやったのは、その中の一支隊だ。
>文永の役は中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と梢工引海水手6700人を
>合わせて総数約4万人。
蒙漢軍は1万5千人と元史にある。また高麗軍の実数は高麗史世家の忠烈王六年に5300人とある。
洪茶丘軍(高麗人部隊)の数は不明だが、これが蒙漢軍に含まれれば合計は2万300人。
含まれなければ推定で2万5千人。
梢工引海水手は普通は兵数に含めない。 海が荒れるときは2メートルくらいの落差で揺さぶられるからな〜
船が転覆したら海上なら死ぬしかないニダ 大陸の大河なら波は起こらん
海上じゃあローリングとピッチングが起こる
ローリングには人間耐えられるのよ
ピッチングが起きたら死ぬ目に遭う 海ってのは水深8000メートルあるんだよ
大波が起これば10メートルの落差がある波が発生して持ち上げられたり叩き落とされたりするの 〜〜〜〜〜〜〜〜
こゆ状態になるの
だいたい落差は数メートルから数十メートル でガタガタ船🚢が揺さぶられるんだよ
転覆した時点でアウトだぞ
普通は岸につけてやりすごさなきゃ命はない >>408
フビライの頃は、国が5つに分裂してるし、ベトナムにすら舐められる。もう勢いが無くなってる。元寇で主力失ったし モンゴル系の血を引く王朝がそのあといっぱい乱立するけどね
ティムールとかムガールとか ロシアのイワン大帝なんてなモンゴルの将軍だったし
その縁でモンゴル遠征始めたんだぞ 元以外のモンゴル帝国構成国みんなイスラム教に飲み込まれた説 ティムールはそのあと中国征服狙うんだわな
そのティムールを倒したのがオスマントルコ ティムールがモンゴルの後を継ぎまた世界帝国築くんじゃないかみたいに言われたりな モンゴル落として正式にモンゴル皇帝の地位につければ名目立つからな 大元皇帝の印璽を最後は清のホンタイジに差し出しちゃったからパー✋
清帝国成立は蒙古、漢、女真すべてから推戴されて皇帝に着く 日本は中国とは貿易はやらないが通信使を互いに送り込み情報のやり取りくらい ロシアを支配したキプチャク汗国(ジュチウルス)は、人口的にはキプチャク人が大部分だった。
そのキプチャク人の末裔がウズベク人だというのは、最近初めて知った。
中共がウズベク人をいじめるのは元帝国への恨みもあるのかも。 >>441
お前もなぜいつの間にかイスラム教に乗っ取られてるんだと思ったらそれが理由か >>424
戦時に動員できる兵力が12万9000人だよ。
あと、遠征の過程で異民族を糾合して大軍に膨れ上がったモンゴル軍は東欧に侵攻せず、
大部分がモンゴル高原に帰還してる。
1239年秋にオゴデイ・カアンは遠征に参加していた自身の嫡子グユクとトルイ家の
モンケに帰還命令を出してるからね。
オゴデイ・カアンの死後、グユクはいち早く大軍を率いてモンゴル高原に到着し、
東方三王家最大兵力のオッチギンを圧倒して帝位に就いた。
1240年からの東欧侵攻には少数の残りカスしか参加していない。
それと、元史に蒙漢軍が1万5千人と書いてあるのは誤植ね。
元時代に編纂され、元史の史料となった経世大典だと蒙漢軍は2万5千人でこれが実数。
元史は短期間で編纂され雑だから時々間違いがある。
高麗軍も高麗で動員されたのは5000人だけど、忠烈王が元から3000人連れてきたから
合わせて8000人。
文永の役の兵数は、中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と
梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。 >>126
>戦時に動員できる兵力が12万9000人だよ。
だから、その数で十分に大軍ではないかと言っているのだが。
>遠征の過程で異民族を糾合して大軍に膨れ上がったモンゴル軍は東欧に侵攻せず、
大部分がモンゴル高原に帰還してる。
オゴディ軍を膨れ上がらせた異民族というのは殆どがキプチャク人だよ。
キプチャク人がなんでモンゴル高原に「帰還」するのか?
>梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。
実数と言うなら忠烈王は第一次東征の大船の実数も述べている。126隻だ。
4万人が126隻に乗れるのかな?
ちなみに第二次東征の東路軍4万人に対する大船の数は300隻だ。 >>445
>キプチャク人がなんでモンゴル高原に「帰還」するのか?
グユクやモンケに糾合されたキプチャク人は、グユクやモンケがモンゴル高原に帰還すれば、
当然一緒にモンゴル高原に行くだろ。
この時モンゴル高原に行ったから、キプチャク人は後の元朝で最強軍閥として天暦の内乱以降
皇帝を傀儡化させるほどの勢力を誇っていたわけで。
>実数と言うなら忠烈王は第一次東征の大船の実数も述べている。126隻だ。
これは嘘。
忠烈王が第一次東征の大船の数を126隻などと述べた記述は存在しない。
高麗史において第一次東征の大船の数は最初から最後まで一貫して300隻。
そもそも同時代史料の経世大典に「以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘」
と書いてあるんだから第一次東征の大船の実数が300隻だったことは絶対だ。 >>446
>これは嘘。忠烈王が第一次東征の大船の数を126隻などと述べた記述は存在しない。
高麗史・世家 忠烈王六年十一月
「兵船は惣(すべ)て九百艘、三百艘の用うべき梢工水主は一万八千。窃(ひそ)かに
念(おも)うに小国の戸口は自来凋弊し、往歳東征の時、大船一百二十六艘の梢工水主
すら猶未敷と為す。況や今三百艘をや。何を以てか数を盡して応副せん。此を以て農民に
至るまで丁壮を徴発すること凡そ一万五千人。その不敷の水主三千は何(いずこ)より
徴発せんや。」
これは忠烈王が、第二次東征の準備が苦しいことをフビライに訴えた文章だ。
第一次東征は大船126隻、第二次東征は300隻と、はっきり書いている。
また梢工水主の数は大船一隻当たり60人で計算しているから、第一次東征の大船126隻の
所要人数は126×60=7560人で、これに対して金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は
かなり不足している。
忠烈王が「猶未敷と為す」と言っているのはこのことだろう。
つまり金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は、忠烈王世家の「大船一百二十六艘」を
裏付けている。 ★【署名のお願い】内モンゴル中国語強制&民族消滅阻止!
内モンゴル中国語教育強制反対オンライン署名〔アメリカ合衆国ホワイトハウスのweb署名”WE THE PEOPLE”〕
https://petitions.whitehouse.gov/peti... (https://petitions.whitehouse.gov/peti...)
オンライン署名の方法
PCの場合:ページ右下側にある スマホの場合:すぐ下にある
・First Name(名前)
・ Last Name(苗字 /姓)
・ Email Address(Eメールアドレス)
この三箇所に記入したらすぐ下ある
・Sign Now
をクリック(送信される)
すぐに上記メイルアドレスにホワイトハウスからメールが来るので
そのメイル内に記された
・Confirm your signature by clicking here
(ここをクリックして署名を確認)
をクリックします。
<署名完了!> 横レスだが、なんでそんな自信満々だったのかは知らんが、
これは、ごめんなさいでは? そんなんやっても無理
中国領とされた時点で終わってるだ
独立するしかねえでよ 神風で元軍退いたんだから恩賞要らんよね?
↓
鎌倉幕府滅亡 【歴史】CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点 なぜ蒙古軍は一夜にして撤退したのか [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600309373/ >>446
第一次東征で高麗が梢工水主を負担した大船の数が126隻だったというだけじゃん。
第一次東征における大船の数は元史、高麗史、経世大典など主要史料全てが300隻で
一致していて、126隻などと述べた史料は存在しない。
>つまり金方慶伝の「梢工引海水主六千七百」は、忠烈王世家の「大船一百二十六艘」を
裏付けている。
金方慶伝の記述は、
「蒙漢軍二万五千、我が軍八千、梢工、引海、水手六千七百、戦艦九百余艘を以て合浦に留め、
女真軍を待つ。」
忠烈王世家の記述が金方慶伝を裏付けてるなら、金方慶伝の記述は実数であり、
戦艦の総数は900余艘、つまり大船の数が300隻であったことも裏付けられたわけだ。
どう屁理屈を並べても、大船の実数は諸史料の一致する300隻であり、その内で
高麗が負担する梢工水主の割り当てが126隻だったとしか考えられんわな。 457
かなり私貿易に近いね〜
北条なんか滅んだのある意味で当たり前なんだわな
てめえらの利益追求しかやってないからよ そういえばクビライは日本と中国の付き合いについて手紙で言及してたけど、
クビライが要求するような付き合いってもう日本してないよね?
遣唐使が廃止されたの平安時代だし鎌倉時代って使者を宋朝に送ってなさそうだけど 461
うん、送ってない
ニセ高麗とも貿易やってないし日本は貴族政治終わって公家武者らが現れた時期
貴族ってのは従三位以上を言う
公家っての従五位以上
貴族以外、朝廷には出仕できないんだよ
周囲の見回りや地方に下向する連中らが増え出した
皇族から外れた連中らも同じ やがてそういった連中らが日本各地で武装して武士団を形成した 宋貿易も日本国王印を使えば貿易できるから必ずしも天皇の署名でなくてもよいだ
かつては天皇=日本国王兼ねていたがな 公家の連中らは京都で公家としてあり続けることにこだわった
やがてそおいった連中らが没落した 9/17
【歴史】CGで完全再現したらわかった! 元寇で押し寄せた蒙古軍船の弱点 なぜ蒙古軍は一夜にして撤退したのか [すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1600309373/ つまり蒙古って唐と日本の朝貢関係みたいの目指していたのか
そいから日本が天皇号を使い始めたの608年からな 遣隋使として書を送っているんだが
607年の日出る処の天子って名乗ってるのが摂政、聖徳太子
608年の日本の天皇、隋国皇帝に〜
ってのが推古天皇のこと >>459
>第一次東征で高麗が梢工水主を負担した大船の数が126隻だったというだけじゃん。
>忠烈王世家の記述が金方慶伝を裏付けてるなら
なるほど、金方慶伝の引海梢工水手6700人が大船126隻用の船員数であることを認めるわけだな。
そうすると比例計算で、300隻ー126隻=174隻のための引海梢工水手9250人が別途必要になる。
この人数はどこで徴発されたのか? また忠烈王が連れて来たのか?
また君は>>443で、
>文永の役の兵数は、中核のモンゴル人漢人部隊だけで2万5000人で、高麗軍8000人と
>梢工引海水手6700人を合わせて総数約4万人が実数だ。
と言っている。
この他に引海梢工水手9250人が加わるとなると、上記の計算はどうなる? >>471
済州、東寧府、北界の能く水に習れた人は実際に文永の役に投入されてるだろ。
忠烈王六年記事によれば高麗は求められた梢工引海水手の定数である大船126艘分、
つまり、50人×126艘で6300人に満たない人数しか動員できなかった。
ところが女真軍を待つ段階で梢工引海水手は定数より多い6700人。
あきらかに高麗が動員してない梢工引海水手も含まれてるわけで、それが済州、東寧府、
北界で動員された分だな。
で、残り174艘の担当だった女真軍が到着しなかったことで高麗軍8000人も操船に従事し
大船300艘含む900艘の艦隊で遠征した。 『元史』卷八、世祖五、至元十一年三月庚寅条
「敕あり、鳳州経略使忻都、高麗軍民総管洪茶丘等,屯田軍及び女直軍を将い、水軍を并せ,
合して萬五千人,戦船大小合九百艘、日本を征す」
『高麗史』卷二十七、世家二十七、元宗十五年、四月甲子条
「洪茶丘、書を金方慶に移して云う、「船三百隻、梢工水手一萬五千人、預先め備えよ」と」
時期的に考えて洪茶丘が敕を下された「萬五千人」と、洪茶丘が書を移した「一萬五千人」は
明らかに同一だ。
つまり、クビライは最初から水軍である高麗軍に屯田軍と女直軍を合わせて1万5000人の
梢工水手を動員しようと考えていたわけ。
洪茶丘は高麗王朝に悪意を持ってるから1万5000人全員を負担させようとしたが、高麗王朝が
郭汝弼を元に派遣して「其の数甚多く豈に小邦の人のみを用いて足るべきか」と訴えた結果、
126隻分の負担となった。
残り174隻の梢工水手は屯田軍と女直軍が負担することに決まったってこと。
『元史』を編纂した宋れんは世祖本記至元十一年三月庚寅条の数字を兵数だと勘違いして、
経世大典で2万5000人になってる蒙漢軍の兵数を日本伝で1万5000人に書き換えた。
これで諸史料の数字全てを矛盾なく説明できる。 >>456
文永の役も弘安の役もガッツリもらえたんだっけ
もらえた人ともらえなかった人にはどんな違いがあったんだろう? >>473
>時期的に考えて洪茶丘が敕を下された「萬五千人」と、洪茶丘が書を移した「一萬五千人」は
明らかに同一だ。
渡海遠征を命じる皇帝の勅に、ただ一つ現れる人数が船漕ぎ人夫の数だとは、いくらなんでもね。
「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,
戰船大小合九百艘,征日本。」
これの解釈が問題だ。まず「水軍」とは以前に議論したように「渡海遠征軍」の意味だ。
君は「同率水軍」の解釈に反論していないけどね、
次に「并」は接続詞でなく動詞として用いられていると思う。
動詞としての第一義は「合わせて一つにする」ことだ。合併の併の意味だ。
以上から、勅の意味(意訳)は次のようになる。
「忻都および洪茶丘等は屯田軍及び女直軍を将い、(これらを)并せて水軍(と為し)、(その兵数は)
合わせて一万五千人、戦船は大小合わせて九百艘、(これを以て)日本を征せよ。
つまり「水軍」と「屯田軍及び女直軍」は同じものなのだ。
水軍と言う特殊な軍があったのでもないし、水軍=高麗軍でもない。 けっきょく賊でしかないやつが他国の皇帝にまで上りつめちゃったって話でしかないんだわな どおせクビライにしろ文献呼んでその気になったみたいなんだろ
その時代の実際の関わり知らないわけだからな 475
問題だって?
そいつらがそう主張してるだけの話だろ
でたらめ抜かして嘘のことほざいてるキチガイはこの掲示板でも現れたぞ😃
そゆのが成り済ましって言うんだろ
おもしろいからそいつらに対して自分で説明しろって言ってみな
黙るしかねえからよそいつら 事実認められないならてめえが死ぬ目にあっでみるか? 元寇のときに鎌倉幕府軍の総大将として九州に向かった宇都宮貞綱おるやろ😃
この武将は古代の毛野田道将軍の末裔なんよ 督戦で行ったんだわな
他のやつらで武将として残ってるのほとんどおらんで この宇都宮氏の拠点だったとこに家康は東照宮作っただ 学者レベルでそれなんだから、情けない話だな
> ベトナムの陳朝はモンゴルの使者をいきなり投獄して拷問死させてる。
> ビルマのパガン朝はモンゴルの使節団の半数を処刑。
> 鎌倉幕府は高麗や陳朝やパガン朝と違って、モンゴルの方から戦争仕掛けるまでは
> 使者を全員無事に帰国させてるんだからな。
> それなのに文永の役の後で使者を処刑したら「世界の外交ルールを無視した蛮行」 >>18
> 辺境の地の海賊対策に高麗が元を引っ張り出すことに
それは北方の間違いだろ
アイヌ(加害者)側から樺太・大陸(元の勢力範囲)を侵略し、怒らせて負け元に服属した
まず北海道に先住民(ウィルタ・擦文・ニヴフ・モヨロら)がいたところ
13世紀ごろ新たにアイヌ文化成立(オホーツク系と交雑)し、先住民を駆逐して勢力拡大
その過程で、アイヌ(加害者)が樺太・大陸のニヴフ(被害者)を渡海侵略
→アイヌに害を受けた地元民が元に訴え
〜地元民の訴えを聞き、元軍がアイヌ(侵略者)にたびたび防衛出動→アイヌは負け元に服属
※以降、アイヌは歴代中国王朝に朝貢 (アイヌのサンタン交易:古代中国への朝貢交易)
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%83%82%83%93%83S%83%8B%82%CC%8A%92%91%BE%90N%8DU/5/
>日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[25]、
>アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[26]。
アイヌの侵略に対し、元軍が船・ソリ(犬・トナカイなど)で何度も排除+懲罰し、アイヌは服従
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
★>アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
★>大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました <丶`∀´>ウリのことバカと思ったニカ?
衛星を打ち上げたけれど制御用端末を準備していなかった韓国軍 - 朝鮮日報 日本語版 2020/10/20 10:21
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/20/2020102080058.html
韓国は今年、初となる軍専用通信衛星「アナシス2号」を打ち上げたが、肝心の衛星を制御する端末は開発していないことが19日までに分かった。
軍の衛星を軌道に上げても、衛星を活用することもできずにいるのだ。
この先も1年ほどは衛星が空転する可能性が高いと伝えられている。
防衛事業庁(防事庁)が19日、保守系最大野党「国民の力」所属の韓起鎬(ハン・ギホ)議員に提出した資料によると、下朝鮮軍は今年7月、F35ステルス戦闘機を配備する際にロッキード・マーチン社と結んだ折衷交易(Offset。武器購入に伴う反対給付)で提供を受けた通信衛星「アナシス2号」を軌道に乗せた。
だが、衛星を制御する端末機の事業は来年度の予算にも反映されなかった。
端末機事業について、韓国軍は韓国国防研究院(KIDA)に事業妥当性調査を依頼したが、まだ調査が終わっておらず、予算をもらえないのだ。
韓国軍は当初、昨年12月から今年3月まで第1段階の運用試験評価を実施した後、事業妥当性調査を依頼しようとしていたが、スケジュールが1−2カ月ほどずれ込んだ。
これで事業妥当性調査も順延し、来年度予算からも抜け落ちた。
新しい機器を用意しておいて、リモコンがないから使えない、という格好だ。
韓国軍は、来年初めに通信衛星が任務を開始すると期待したが、このままだと1年以上も衛星は「無用の長物」になる。アナシス2号の寿命は12年だ。
韓国軍内外では、通信衛星事業は既に2年前から進んでいたにもかかわらず、端末機すら開発できていないのは非常識的だ−と指摘されている。
ロッキード・マーチンは当初、2018年上半期までに衛星を軌道に乗せると約束していたが、内部事情で計画を延期していた。
韓議員は「韓国軍専用の通信網を構築したいとして巨額の予算を投じ、衛星を上げておいて、結局は使える端末がなく、宇宙のどこかに浮いている衛星をただ眺めていなければならないというのが実情」と語った。
これについて防事庁は「事業妥当性調査の中間結果を根拠とし、国会の段階で予算を反映するため関連機関と協調する予定」と説明した。 <丶`∀´>やっぱりウリナラ自慢のK防疫はバカだと思ったニカ?
インフル予防接種後の死者計32人に(でも因果関係が不明だから継続するニダ) - ソウル聯合ニュース 2020/10/23 10:24
韓国政府は23日、
インフルエンザワクチンの接種後に死亡した人が今月16日から23日午前0時までに全国で32人確認されたと発表した。
22日午前0時時点の12人に比べ、20人増えた。
ソウル郊外の仁川でワクチンを接種した高校生が16日に死亡して以降、高齢者を中心に全国で死亡事例が続出している。
保健当局は予防接種と死亡の関連性を確認中。
因果関係がまだ分かっていないため、接種を継続する方針だ。
因 果 関 係 が ま だ 分 か っ て い な い た め 、 接 種 を 継 続 す る 方 針
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20201023001200882 >>411
北元の最後のハーンが皇帝の印璽をホンタイジに渡した時点を
モンゴルの滅亡とするが
ハルハ部はオイラートと結び尚も後金に抵抗した
降伏するのは清になってから >>475
「庚寅,敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍,并水軍,合萬五千人,
戰船大小合九百艘,征日本。」
はそんな読み方しねーよ。
(これらを)(と為し)(その兵数は)(これを以て)なんて原文に無い言葉を勝手に加えて
完全に別の文章にしてるじゃん。
話にならない。
「水軍」は「渡海遠征軍」の意味じゃないという分かりやすい例がある。
元史 卷二百十 外夷三 爪哇 至元三十年三月一日条
「土虎登哥、李忠等領水軍,鄭鎮國、省都鎮撫倫信等領馬步軍水陸並進」
(土虎登哥、李忠らは水軍を領し、鄭鎮國、省都鎮撫倫信らは馬步軍を領し、水陸並進す。)
これはジャワ遠征の記事なんだから、当然ながら全軍が「渡海遠征軍」だ。
その「渡海遠征軍」の中に、兵種として水戦用の「水軍」と陸戦用の「馬步軍」がある。
「渡海遠征軍」を「水軍」と「馬步軍」という用途の違う2つの軍で編成するのが元軍の
基本形なんだよ。
文永の役も同じ。
4万人の「渡海遠征軍」の内、2万人が水戦用の「水軍」だからな。 ヅラスガ「強盗でアベコロナが拡大してきよったな
よっしゃ、よっしゃあ」 >>475
ところで、江南軍10万人は水師だった。
江南軍の任務は海戦であって野戦や攻城戦じゃないとクビライが范文虎に告げてる。
元史卷十一 本紀第十一 十八年春正月戊戌朔条
「文虎又請馬二千給禿失忽思軍及回回砲匠。帝曰戰船安用此。皆不從」
一方、東路軍4万人も水師だ。
東路軍も江南軍も海戦の軍で、日本の内陸まで侵攻する能力はない。
つまり、日本征圧のための野戦軍が東路軍や江南軍の他に存在したってこと。
それが、これ。
元史卷一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中」
東路軍と江南軍が制海権を確保し、博多から40万騎という圧倒的兵数のモンゴル騎兵を
送り込んで日本を征服するってのが、クビライの戦略だったわけ。 >>498
ごめん、壱岐軍議改め今津軍議君が2か月も空けてレスしているのに気が付かなかった。
>原文に無い言葉を勝手に加えて完全に別の文章にしてるじゃん。
( )内は説明のために加えた言葉だが、お気に召さなければ読み下し文も載せよう。
「敕あり、鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等は屯田軍及女直軍を將(ひき)い、
合して萬五千人、戰船大小合して九百艘の水軍に并(あわ)せて、日本を征(う)て。」
注釈すれば「并」は接続詞でなく動詞であり、「水軍」はその補語だ。その「水軍」は
「合萬五千人」と「戦船大小合九百艘」に係っている、と解釈するわけだ。
要するに「忻都と洪茶丘は、屯田軍と女直軍を水軍に編成して日本を攻めよ」と言って
いるわけ。
この場合、「水軍」というのは「軍が船に乗って水上を移動する」という、軍の移動形態を
表した言葉であって、特別な兵種ではない。
「渡海遠征軍」とは上記「水軍」を渡海の場合に限って表した、私の用語だ。
「水軍」が軍の移動形態(水上移動)を表す言葉だから、ジャワ遠征で河を舟で遡った部隊
もまた「水軍」と呼ばれるのだ。
一方で、河の両岸を徒歩や馬で並進した部隊は、その移動形態から「馬歩軍」と呼ばれる。
その「馬歩軍」も渡海する段階では海上を徒歩や馬で行くわけには行かないから船に乗る。
その状態では「馬歩軍」もまた「水軍」の一部なのだ。
上記した、ジャワ侵攻時の「水軍」「馬歩軍」は、君の言うように専門化された「兵種」
であっても良いが、臨時にその目的に用いられた一般の部隊であっても良い。
史弼伝によれば、ジャワ遠征で河を遡った舟は、現地で木を伐って作ったそうだ。
恐らく丸木舟だったのだろうね。
専門的な水上軍に、丸木舟は似合わないな。 >>500
>ところで、江南軍10万人は水師だった。
>一方、東路軍4万人も水師だ。
全くその通り。それが、以前から私が言っていることだ。
「水師」も「水軍」と同じで、この場合は「渡海遠征軍」の意味だ。
君は以前は江南軍の中で張禧軍だけが水師だ、と言っていたのではないか?
今になって江南軍全軍が水師だ、と言い出したのは張禧伝の「同率水師」の問題に反論でき
ない、と観念したからだろう。
で、張禧軍を含む江南軍全軍を水師にするかわりに、水師ではない「野戦軍」として幻の
四十萬蒙古軍を持ち出した、というわけだ。だが、それも無駄な努力だ。
阿剌罕は第二次東征において東路軍と江南軍を併せた征日本軍の総帥だから、彼が率いる
のは征日本軍ぜんたいである。「蒙古軍四十萬」も、そのことを表すべきところが、
間違えて変なことになっているのだ。恐らく「四十万」は十四万の間違いであり、「蒙古軍」
は漠然と元軍を表しているのだろう。
で、阿剌罕は「行次慶元、卒于軍中」で、出航地の慶元(=寧波)まで行って、宿営中に
急死したので、阿塔海が替わって総帥となり、日本まで行った。
阿剌罕も死ななければ日本まで行ったはずなのだ。
東路軍と江南軍を併せた十四万の「水師」を率いてね。
かくして、四十万蒙古軍も幻に終わった。 >>503
訂正;阿塔海は日本まで行かなかったらしい。元史の本紀を見ると:
<元史本紀>
至元十八年二月丙申:行江東道宣慰使阿剌罕為中書左丞相、行中書省事
同六月庚寅:以阿剌罕有疾、詔阿塔海統率軍馬征日本
同七月己亥:阿剌罕卒
同八月庚寅:以阿剌罕既卒、命阿塔海等分戍三海口、令阿塔海就招海中餘寇
同八月壬辰:詔征日本軍回、所在官為給糧。忻都、洪茶丘、範文虎、李庭、
金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利、餘軍回至高麗境、十存一二
となっている。
阿塔海は六月に阿剌罕が病気のときに交代して征日本を担当したが、
江南軍が出発したあとの八月に「三海口」の守備などを命じられている。
また八月に敗れて帰国した将軍たちの中にも阿塔海の名前は無い。
本国にあって征日本に関与する、参謀本部のような職務であったらしい。
そうであれば、阿剌罕もまた、生きていたとしても日本まで行った可能性は無い。
四十万騎馬軍はますます幻だな。 ┏┓┏┓┏┏┓ ∩________∩
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┃┃ ┃┃┗┓┃┛彡( )))) |∪| ミ( i))) ┏━┓
┗┛ ┗┛ ┗┛ / ノ ノ ヽノ .ノ ノ ┗━┛ モンゴル人がイングランド人やローマ人と違って学習能力が低かったから
日本が勝ったのは和弓=ロングボウを使っていたから弓の射程が元軍より長かったおかげ
イングランド人やローマ人だったらそういう状況になったら対抗してロングボウを使いはじめるけど
モンゴル人はそういう事が全くなかったから2度目の攻撃も失敗した。
騎兵に重装歩兵を四方八方から袋叩きにされたら騎兵を増強して対抗するのがローマ人
航空戦力に戦艦を撃沈されたら航空戦力を増強して対抗するのがイングランド人
ロングボウで射程外から攻撃されてもロングボウを量産して対抗しないのがモンゴル人 >>506
単なる射程では蒙古弓の方が長いのだが。
鎌倉武士の鎧は大鎧でも胴丸でも矢を効率的に防ぐ構造だから、
モンゴル側の弓の射程内でも防御出来た反面、重くて長くて小刀の様な鏃の
征矢を使う和弓は最大射程は短くとも有効射程内で当たれば
より殺傷力が高く、且つ、皮主体のモンゴルの鎧やキルティングに
鉄鋲打った様なシナ朝鮮の鎧は日本の甲冑より簡単に射抜けたし、
太刀や薙刀での接近戦での斬撃に弱かった。 いそじん「早う解除してアベコロナで強盗ヘヴンやぞ
よっしゃ、よっしゃあ」 ┏┓┏┓┏┏┓ ∩________∩
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┃┃ ┃┃┗┓┃┛彡( )))) |∪| ミ( i))) ┏━┓
┗┛ ┗┛ ┗┛ / ノ ノ ヽノ .ノ ノ ┗━┛ いつまでもパボなミンジョク願望や被害妄想を滾らせてないで
オモニのおっぱいに吸い付いときなさいニダ
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/ ノ ノ ノヽ ヽ
| ノ | |
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( V -・-ノ -・- V )
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<三ニニL. _j‐-.三>
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_ノ==-く チョンが悪さしやがって! ヘ、 !
/ {警察 _,.> r=, ̄ ̄ヽ、
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丁 | Lニ| /、_j i L.|
| ,ハ____l l !`7′ ! |「 |
| | {:::::::::::::::ト, l ノ ハ―-― .{l !
| 〉|::::::i::::ヽ| |_j rヘ/ |::ノ:::::::::::ハ |
` !:::::i:::::::i| グギギギギギッ・・・ | l:::::::::i::::::| L!
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l::::::〉:::::/ ;<l|l;`田´>; | !:::::::::!:::::!
|:::/:::::/ :| `ー' ヌ____ノ !:::::::i::::::|
|/:::::/ ;| 「`´ |:::::::i:::::|
. /:::::〈_ ヽ l |:::::::l:::::|
`ー一′ | l 〈_ |:::::::ト-′
`'ー-′ └‐┘
┼ヽ -|r‐、. レ |
d⌒) ./| _ノ __ノ (⌒⌒)
ファビョ━ l|l l|l ━ン!!!!!.
∧_,,∧
⊂<# `Д´> まともな思考なんかできたら
/ ノ∪ 朝鮮人なんてやってないニダ!!!!
し―-J |l| |
人ペシッ!!
__
\ \
 ̄ ̄ ガースー「宣言解除して聖火リレーでドンチャン騒ぎ
アベコロナがまた大拡散や
よっしゃ、よっしゃあ!!」 ここ数年で元寇のモンゴル軍の主力は高麗だってよくみるようになったんだけど高麗兵数少なくねーか。 たぶん先陣を仰せつかってるね
アメリカで言えば海兵隊。カッコイイ ガースー「聖火リレーでばか騒ぎ
五輪コロナが大拡散や
マンボウやで全員集合」 元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か
https://news.nicovideo.jp/watch/nw9506109
高麗船は手抜きだったのか?
台風による元軍の被害が大きかった理由の1つとして、彼らが軍船に使用していた「高麗船(こうらいせん)」が手抜きで造られた
からという説がよく唱えられてきました。
元軍が日本侵攻に使用した軍船の多くは、当時、元朝に服属していた朝鮮半島の高麗朝が元朝に命令されて造船したものでした。
この船が「高麗船」と呼ばれています。
これまで、高麗朝が船を造る際、納期が短かった上、元の支配に対して反感を抱いていたことから手抜きをしたのではないか、
そのため高麗船は強度が不足しており、台風時の被害拡大につながったのではないか、という説が唱えられてきました。
しかし、この説は、現在はほぼ否定されているようです。というのも、実際に当時元軍が使用した軍船そのものが見つかっている
からです。
その軍船とは、鷹島(長崎県松浦市)沖の海底にある「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」の沈没船です。
この沈没船は、元寇で使用された高麗船であると判定されています。調査によると、この船は船底を二重構造にして丁寧に
組み立てられており、同時代の船としては類を見ないほど頑丈な造りだったとのことです。
また中国側の史料にも、台風時に多くの軍船が沈む中、高麗船は沈まずに耐え切った船が多かった、との記録があります。
研究が進むにつれ、「高麗船手抜き説」は今では過去のものとなりつつあるようです。 >>523
江南軍の船が台風に弱かったのは元々長江防衛の河川で使用する喫水の浅い軍船だったから。
造船技術自体は朝鮮戦争お頃までシナ方がチョンよりずっと上。 >権力の座に就いたクビライは、南宋攻略作戦を展開します。実は日本へのいわゆる「元寇」は、その一環としておこなわれたものでした。
>クビライが日本に宛てた国書の写しが残されており、それを読むと日本征服ではなく、日本との交易や外交関係の樹立を求めていることが分かります。
>南宋を孤立させて包囲するための政策だったのです。
>しかし、当時の日本の政治を担当していた鎌倉幕府の執権である北条時宗は、モンゴルからの使者を切り捨ててしまいます。
>これが「文永の役」(蒙古襲来)を引き起こしました。
【歴史】モンゴル帝国の衰退は寒冷化→免疫力の低下→ペスト大流行(パンデミック)→基軸通貨たる銀の不足 [かわる★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626936604/
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206
えっ…
>>186とかこのスレでも前から言われてたけど、
この珍説(説ですらない?)、とうとう日刊ゲンダイに載るほどになったのか
日刊ゲンダイ自体も別に評価が高いわけではないとはいえ… >>186
高麗なんて2回目位でモンゴルの使者を殺害している。
その理由も高麗王府が使者に与えた土産が豪華だったので、
地方長官が横取りするのが目的という恥ずかしい理由。 令和の元寇が近づいてきてるから、日本が間違った判断をした、元は戦争を求めていなかったとしたいんだよ。 モンゴル帝国は隣接した国のほぼ全てと戦争してる。
元は戦争を求めていなかったなんてのは、明らかに非現実的な外交オンチの主張。
鎌倉幕府の方が正しい。 記録ではモンゴル兵40万人に高麗兵1万人だから朝鮮の雑魚兵なんてごく僅か 実際に鎌倉幕府が戦ったのは東路軍の4万ちょいだけだろ。
その後、遅れてやって来た江南軍10万が東路軍の生き残りと合流した時に、
丁度台風が直撃して元軍が壊滅状態になってしまったので指揮官クラスが撤退してしまい、
取り残された元軍の兵が武士によって殺されてしまった。
江南軍の到着がもっと早かったら九州地方は征圧されてたかもしれない。
幕府側が送った増援6万が到着するまで、どれだけ現地の武士が耐えられるかによるが・・・ >>535
江南軍は中国を6月18日に出発して7日の航海で日本到着してるんだから、
6月中には東路軍と合流してる。
7月になってからの壱岐や鷹島の戦いは東路江南合同軍14万と日本水軍の戦いだろ。
元軍は合流しても日本軍に歯が立たなかったから手詰まりになった。 東京教授「日本がモンゴル帝国に攻撃されたのは関東武士が野蛮で馬鹿だったから」
■腕っぷしは強いが、知力や教養は乏しかった
これは日本史ではなく、東洋史のほうの研究者の知見なのですが、いわゆる「元寇」の前段階、モンゴルから送られてきた国書は、別に服属を求めてきたわけではなく、驚くほど丁寧なものだったそうです。
だから、もしももう少し鎌倉の武士たちに教養があって、モンゴルの意図を理解することができていたら。少なくとも挨拶の使者くらいは送ったのではないかと思います。
当時の鎌倉の武士は腕っぷしは強い。しかし知力や教養は乏しかった。
たとえば極楽寺重時(1198―1261)という、北条泰時(1183―1242)の弟にあたる武士がいました。泰時は御成敗式目を定めた執権。重時はその兄に非常に忠実な人で、泰時に頼まれて京都で六波羅探題を務め、泰時没後は、兄の孫の北条時頼(1227―1263)を補佐するために京都から帰ってきた。
重時は時頼をしっかり補佐し、やがて重時の娘と時頼が結婚して時宗が生まれた。後にモンゴルと戦うことになる北条時宗(1251―1284)です。時宗からすると、重時は祖父ということになります。
彼は、兄の泰時とともに、政治行為の重要性を知らしめ、鎌倉幕府に「統治」という概念を植えつけました。この極楽寺重時が鎌倉時代のキーパーソンだったと私は考えています。
その重時が、子どもたちにあてて書いた遺訓が残っています。
そのなかの1つには「どんなに腹が立っても家来を殺してはいけない」とある。どんな教えだ。重時ほど優秀な人にして、このレベル……。しかも言われている子どもたちが、箸にも棒にもかからない出来だったのであれば、まだ仕方がないですが、その子どもとは、北条時頼から認められ、初めて北条本家以外から執権になった北条長時(1230―1264)なのです。
戦後の学者連中の平和ボケは困ったもんだな。
ヤクザが丁寧な言葉使いで話しかけてきても、相手にしちゃダメだろ。
世界中で侵略戦争やってるモンゴルが驚くほど丁寧な国書を送って来ても、
挨拶の使者なんか送ったら絶対アウトなんだよ。
鎌倉武士の方がこの教授よりはるかに頭がいい。 元寇の時に南宋から大量に亡命者が来た
って話を聞いてウィキペディア読んだら驚いた。
学校じゃ朝鮮から突然敵が来たくらいしか習わないけど
全然中身教えてないよな。 >>540
学校でもクビライが国書送ってきて従属を要求したけど鎌倉幕府は拒否した、くらいは習わなかったっけ モンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由と、彼らに出口治明氏が注目するワケ [11/12] [昆虫図鑑★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1636704002/
【ニッポンドットコム】第一次元寇を終わらせたのは神風だったか否か 元軍撤収の理由に今も定説なし [みの★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1637217036/
最近元寇スレよく立つのはゴーストオブツシマ効果かな モンゴル帝国はもうちっと頑張って北イタリアのベネチアやジェノバといった港湾都市を征圧し、
そこの造船技術や航行技術、海戦の知識と経験を身につけてれば、
九州への上陸を果たせたかもしれなかったのに・・・ >>543
イタリア制圧する頃にはクビライ亡くなって元寇の計画そのものが消えそう ベネチアやジェノバの航海技術なんて波の穏やかな地中海でしか通用しないだろ。
インド洋でイスラムと交易してた中国の方が造船技術や航海技術は上。 歴史好きは関心ないかもしれないけど、宗教哲学者の鈴木大拙は日本人の宗教への目覚めの観点から元寇を重視した
「禅と日本文化」の中で北条時宗に触れている文章(原文は英語)は格調高い 鎌倉時代だったら神風というのはわかるが、近代合理主義の洗礼を受けたあとの大日本帝国でそれを言うのは負け戦のごまかしにすぎない。 でもなぜ日本人様はあんなに強かったんだろうな。
モンゴルでさえウンコ扱いだし数で勝る民朝鮮軍も海で守られてるはずのホームでフルボッコだし
朱元璋でさえビビッてなにもしなかったし
派手に負けたのはアメリカ位でそれでもあっという間に経済大国だし。
優秀すぎるよな日本人様って。 対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた? [1/10] [昆虫図鑑★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1641789036/
対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた? ★2 [1/10] [昆虫図鑑★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1641806044/
ちょっと前の元寇スレ
なんか最近この論調の記事が多い? 少弐は足利尊氏の長男の直冬を自分の娘婿に迎えて九州に一大勢力を築いたやつだろ
そのあと室町幕府と和睦が成立したときに直冬を追い出して最後は討ち取られたんだとさ
身内になっても情勢でぶっ殺されるから信用ないんだよ藤原一族 謀反人だのの汚名を着てもそれを回避する手段てのは昔から日本にはあった
つまり皇族の家臣となってその配下に潜り込むことだったんだよ チョーセンがフビライを唆した。日本とモンゴルは被害者ニダ。 ネットでの元寇の評価ってここ10年でかなり変わってね? ネット上では当たり前のことを当たり前に書けるからね
当時世界最強のモンゴル軍に圧勝した鎌倉幕府を難癖つけて叩いてたのが異常なだけで 元寇で負けたせいでまるまる主力失ってんだよなぁ。
この影響ってめっちゃデカイと思うんだよね。対ベトナム戦とかにもさー。
こんな膨大な兵士、水夫、船を失って元の権威がた落ちじゃん。
なのにベトナムの勝利のおかげ!
朝鮮の抵抗!やる気がない!
とかこっちのほうめっちゃ強調されてんだもんなー。
あと大平原で戦わないとフェアじゃないみたく言うの。
ほんと昔からこれ気持ち悪かったわ。 14万人いても一気に上陸できるわけじゃないし、そもそも海上で追いかけ回させているとか、これ圧勝だよな。
日本側の正しい戦略、戦術により圧勝。
こういうことを強いっていうと思う。
苦戦してからドラマチックに勝つとかとは違う、本当に強いってやつじゃないか。 >>1
言うて中国韓国モンゴルの連合艦隊だもんな日本と神風でよく勝ったぜ 一歩間違ってたら元に日本が征服されて今の日本がなかったかもしれないのに、ただの記号のように扱われているのが残念。
日本の警察「訓練は『安倍!』などと叫んで発砲する想定が多い。いきなりだと厳しい」頭大丈夫か? [561344745]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1657419869/
要人警護に詳しい警察関係者
「あそこまで接近されているのは一つ厳しいところ、止められなくても誰かがとめにいっていてもよかった。
銃で撃たれる想定の訓練はもちろんしている。
ただ、今回のようにいきなり銃を取り出して撃つのは今までない。
多くの訓練は思想をもった人間などが『安倍!』などと叫んで撃つといった想定が多い。
今まで日本にいなかったタイプの襲い方だろうし、やはり、いきなりこういう形は厳しい」
180 ジャガー(富山県) [JP] ▼ New! 2022/07/10(日) 12:14:02.24 ID:JPIfl03x0 [1回目]
大昔から変ってないじゃんw
鎌倉武士「やーやー我こそは」
モンゴル人「てつはうポイー」
鎌倉武士
「戦争はお互い名乗ってから開戦する想定が多い。いきなり爆弾を使われると厳しい」
>>565
大丈夫、当時の元軍には万に一つも勝ち目はなかった 南宋攻略してた頃のモンゴルは元寇なんかとは比較にならんレベルの軍勢を用意してたんだろ?
35万の大軍ならば、日本にも勝てるやろ。 >>561
神風のおかげってことにしとかないと宗教家が困るだろ >>563
ってもその35万の大軍を日本へ運ぶなら35万人を輸送するだけの船と船員がいるし
しかも台風前に上陸拠点作らないと海上にいたら台風にやられる >>568
南宋攻略より元寇に投入された軍勢の方が多いよ。
日本が勝ったのはモンゴル軍40万。
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で
ほぼ損害を受けなかったってこと。
それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、
東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと
考えるのが自然。
じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。
高麗史 第一百四 列傳第十七
「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」
「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。
高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。
つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で
ほぼ損害を受けなかったってこと。
それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、
東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと
考えるのが自然。
じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。
高麗史 第一百四 列傳第十七
「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」
「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。
高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。
つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で
ほぼ損害を受けなかったってこと。
それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、
東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと
考えるのが自然。
じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。
高麗史 第一百四 列傳第十七
「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」
「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。
高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。
つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 台風の後で兵10余万が置き去りにされたってことは、鷹島の南宋兵10万人は台風で
ほぼ損害を受けなかったってこと。
それにも関わらず遠征軍首脳陣は作戦中段を決断して、兵を置き去りにしたってことは、
東路軍4万や南宋軍10万の他に主力部隊がいて、その部隊が台風で大損害を受けたと
考えるのが自然。
じゃあ、それを裏付ける史料があるかといえば、実はある。
高麗史 第一百四 列傳第十七
「及征日本,至大明浦,忽大風覆舟,官軍多溺死,周鼎以計拯活甚衆」
「大明浦」は対馬の大明神浦とするのが定説。
高麗史では南宋軍を「官軍」ではなく「蛮軍」と呼ぶ。
つまり鷹島で台風に遭った南宋軍10万の他に対馬で被災した官軍がいた。 >>573
単純に兵は生きてても船や糧食の多くを失ったからかと思ってた
船が無事なら作戦中断するにしても兵は連れて帰るだろうし
糧食がろくになかったら進軍しても飢餓に陥るだけだし やっぱり弘安の役の主力は鷹島に置き去りにされた旧南宋軍10万なんかじゃなく、
対馬沖で壊滅した蒙古軍40万の方だな。
そのことは日本側史料でも確認できた。
『勘仲記』弘安四年閏七月十四日条
「自宰府飛脚到來、去朔日大風、賊船多漂没云々、誅戮并生虜数千人、壹岐、對馬雖一艘無之」
『弘安四年日記抄』閏七月十二日条
「十二日、去夜鎮西飛脚到来云々、蒙古賊皆以滅亡、所残二千餘人、爲降人由、申上云々」
当時、太宰府から京都まで飛脚が到着する日数は約10日。
『勘仲記』によれば、閏7月1日に台風が過ぎ去った後、日本軍はまず壱岐と対馬で
残党狩りをやったんだ。
『弘安四年日記抄』は、そこで全滅したのが「蒙古賊」だったと明記してる。
『弘安四年日記抄』は元軍のことを「異国賊」と記していて、わざわざ「蒙古賊」と
民族特定してるのは閏七月十二日条だけだから。
鷹島の旧南宋軍掃討戦は閏7月5日からだから、その後ね。 鈴木大拙の「禅と日本文化」(岩波新書)に北条時宗についての記述があるが凄い名文だね。
原文は英語だからなおさら凄い。
いまだに英語でここまで簡潔に格調高く表現できる日本人はいないといわれている。
大拙は日本史における元寇とその影響である鎌倉仏教を極めて重視していた。 さかなクンをパクった芸風
持ちネタもパクリの替え歌
~するチャレンジという企画もパクり
父の名声にあやかり父の名を貶める親不孝者
そのこころは、名古屋城調査研究センター長の長男
さかな芸人ハットリ!!
https://twitter.com/hattori95
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>289
范文虎は処刑されてないよ
クビにもならずにその後も元朝に仕える生を全うしてる アニメでアンゴルモア観て面白かった。 もしもさ、
ミリオタのお前らが鎌倉時代に日本版孔明に転生して日本勝利に導かなくてはならないとしたら、
武器、戦略で思いつくことある?
条件として、お前らの科学文化知識は令和現在のもだが、
武器・資源は当時日本に存在するものしか利用できないとする。
以上、答えてみろください。 アニメでアンゴルモア観て面白かった。 もしもさ、
ミリオタのお前らが鎌倉時代に日本版孔明に転生して日本勝利に導かなくてはならないとしたら、
武器、戦略で思いつくことある?
条件として、お前らの科学文化知識は令和現在のもだが、
武器・資源は当時日本に存在するものしか利用できないとする。
以上、答えてみろください。 史実でも勝ってるんだから小細工せずに普通に戦うのが最善だろ 一度目の元寇は結構やられたんじゃなかったか?
しかもまだ南宋が健在で威力偵察くらいだったとか
高麗は長年モンゴルに抗って荒廃してたから降伏後は国力復興のためにも他人の土地で盗人略奪するしかなかった
2度目が本気モンゴルだったけど対策を立てた本気鎌倉によってまともに上陸すら出来ず
何ヶ月も船でうろうろしてるうちに台風直撃した
っていう風なイメージでいる >>582
南宋軍を離反させることは出来たんじゃないかと思う
高麗と違って本国が無くなってるし 鎌倉時代、元が日本に侵攻した…
https://mainichi.jp/articles/20231105/ddm/001/070/097000c
2度侵攻した元軍が、嵐のため一夜で撤退したり壊滅したりしたという「通説」にも見直しが加えられている。
服部英雄・九州大学名誉教授は著作「蒙古襲来と神風(かみかぜ)」(中公新書)で、最初の文永(ぶんえい)
の役(えき)(1274年)について、嵐のため元が一夜で撤退した証拠となる記録はないと指摘する。
弘安(こうあん)の役(81年)も大型台風とみられる悪天候が元軍に大きな打撃を与えたが、その後も戦闘は
続いたと検証した 文永の役は威力偵察とか言われるけどかなりの大軍だよな。弱い国や政情不安定でまとまりが無い国ならこれだけでやられそう
マムルークのアインジャルートのほうがすごい!とか言われたりするけどこっちのほうが大軍だし迎え撃つ武士は少数なんだよなぁ 普通に勝ったから過小評価なんだと思うよ。ベトナムみたく首都落とされたあと勝てば評価高くなりそうw大事になってから解決すると評価は高くなる。
ちゃんと対応して普通に勝った日本は逆にケチ付けられる。そんなもんじゃないかなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています