邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501461665/l50 里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 帯方郡〜倭の世界
帶方郡 郡 治
↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日 邪
↓ 末盧國
↓ 陸行 500里 ↓ 陸行1日(1月) 王
↓ 到 伊都國(女王の都) 馬
↓ 100里 ↓ 100里
自女王國 奴 國→不彌國→斯馬國 國
↑ ↓ 壹
烏奴國 周 已百支國
↑ 旋 ↓
支惟國 可 伊邪國 國
↑ 五 ↓
巴利國 千 都支國
↑ 里 ↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
狗 奴 國 「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の治世には増減があったでもOK
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、これも魏の治世には冠をつける役職についていてでもOK
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の治世の王が、と訳すのが適当。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮
使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭に有る三十余国には皆世襲王が有るが、その代表の大倭王は邪馬台国に居る。
(だから皇帝が印綬した。 中国の史書は皇帝の威厳と正統性を記録する為の史書である)
その国土の南北は楽浪郡から七千里の(対馬北西岸の)狗邪韓國から1万2千里までである。
(ちなみに対馬渡海は合計三千里、邪馬台国の領土は南北で九州北部の二千里しかない。)
倭人伝の
世有王皆統属女王国 は
世の(当時の三十国の)王は皆すべからく女王国に属する。 だよ。 >>006
確かにその解釈も有力と思う
重要なのは伊都国の説明文の中に入っている所
後に続く文が「郡使往來常所駐」
つまり、「女王国=伊都国」の説明になるね
有千餘戸 世有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐 「女王国=伊都国」の説明
故古田氏にも久留米大学講座の時に説明したが、邪馬壹國は自分が解決した
「世有王皆統属女王国」は他の人と以前論争した
で話を効いてくれなかったな
賛同してくれる人がいることはうれしいですね。 周旋は「一周すると」という意味で
倭人伝の記述で周旋に対応するのは奴国から奴国まで
奴國〜不彌國〜斯馬國〜已百支國〜・・・・・・〜烏奴國〜奴國
對馬國、一大國、末廬國、伊都國は周旋のルート上になく
国邑間の距離も別に書いてるから周旋には入らない。 伊都国説はかなり成熟して、文句のつけようがなかなかないな。 伊都国には一大卒がいて吉野ヶ里には卑弥呼がいたで問題ないんだろ >>2
水行10日は帯方郡から末蘆国、一日航海千里の規定により一万里 吉野ヶ里区域で王の涌きそうな地区というと
吉野ヶ里丘陵の東側に位置するブリヂストンの工場のあたりとか
北にすぼまって石動地区とかそのあたり
ここいらへんは北側峠越えで那珂川上流域(奴國)に繋がるから
魏書で出てくる烏奴國に比定可能とはなる >>12
一大率がいたのは自女王国以北です
伊都国には一大率はいません
伊都国では自女王国以北の地域を一大率と使って治ていたんです
当然、治めていたのは倭王の卑弥呼ですね。 >>19
自女王国以北は女王国を含むけど全部じゃない
女王国の北側だけだよ。 女王国の北側・・・・・・狗邪韓國〜不彌國の国邑です。 なんで女王国以北が女王国の北半分なんだよ。
そんな言葉の使い方は日本にも中国にもないだろ。
女王国は伊都国の言い換えなんじゃないか? 不彌國[生]の南に接して[女王國]があります
[山門]より南側にその一帯は位置します
魏の官として記される女王の呼称は[伊支馬]になります
これは[邪馬壹國女王]と形容されて呼ばれる[壹與]のことです
[邪馬壹國女王]とは[邪馬界]と[壹界]をまとめて締上げる[壹與]のことです
ところでこの[壹與]の[女王國]のあったあたり
いまなんと呼ばれているか知っていますか
それはなんと 壱岐なんですよね
地名がとりかえっこになっているのが興味深いでしょ >>22
女王国は女王卑弥呼の治める国だから倭國の言い換えであり
伊都国の言い換えではない [伊都國]というは[伊][一][壱][壹]のシマ=なわばりを
統べ纏め上げる拠点の称でしょ
そんなところというか
郡から〆て11900里のところに女王がいるわけとかないでしょ >>18
吉野ヶ里歴史公園でよみがえる邪馬台国の特別展をやっているそうな
一度いくといい >>17
>伊都国には一大率はいません ・・・・・
なんで、そーなるの まあ邪馬台国に関連ありそ〜な🐴の埴輪群が群馬の古墳から出てるからね
後押ししちゃってるんだわな 群馬っちゃ〜実際には藤原氏が真っ先に勢力を誇った地域
つかな >>27
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 」
自女王國以北 特置一大率・・・・・・一大率は自女王國以北に置かれていた
檢察諸國 諸國畏憚之・・・・・・一大率は諸国を観察してただけで治めてません
常治伊都國・・・・・・伊都国で常に(自女王國以北を)治めていた
諸国を治めるのは倭王卑弥呼ですね
つまり伊都国で常に自女王國以北を治めてたのは倭王卑弥呼です。 >>25
伊都=倭奴=壹都=倭都ですね
倭人伝の場合の伊は卑弥呼のことですね。 >>25
12000里は女王国最大の国邑の奴国までの距離ですね。 伊都国と奴国をあわせると筑紫の日向、これを女王国と呼んだのであろう。 >>34
「女王國東渡海千餘里」・・・・・・女王国の東には海があるのですよ
筑紫の日向の東には海はないでしょ、倭国全体を女王国と呼んでいるのです。 >>36
自女王国以北の諸国に一大率はいたということで問題ないですよ。 >>33
12000里は女王の所都までの距離ですね >>33
じゃ、伊都国にはいないね。ぴみちゃんは。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>39
>ぴみちゃんwwww
一度吉野ヶ里歴史公園にいくといい >>38
「自郡至女王國 萬二千餘里」
この場合、自郡は郡治のことだが女王國は女王國の中心地の奴国までのことだ
奴国は二万戸もある女王國最大の国邑ですから。 >>31
>諸国を治めるのは倭王卑弥呼ですね
治めているのは男弟 「有男弟佐治國」
卑弥呼の役目は引きこもり 「自爲王以來 少有見者」 >>45
佐治國・・・・・・国を治めるのを補佐してただけで、治めていたのは女王卑弥呼ですよ。 >>42
伊都国より北だったら壱岐、対馬、狗邪韓国だけになるぞ >>44
奴国の中に女王国があるということか
邪馬台国は七万戸だから最大だろ >>47
自女王國の場合は起点が奴国になってるから
奴国より北の諸国
不彌國、奴國、伊都國、末廬國、一大國、對馬國、狗邪韓國が自女王國以北の諸国となりますね。 >>49
>狗邪韓國が自女王國以北の諸国となりますね。
狗邪韓國は「其戸數道里可得略載」がないけど以北なの? >>40
伊都国には女王卑弥呼もいますから一大率いなかったんじゃないですかね。 >>49
20余国が抜けてるだろ
ところで九州王は何か本でもだしているのか? >>52
確かに狗邪韓國には戸数はないですね。
自女王國以北の諸国から外した方がいいですかね?
参考にします。 >>54
傍國は自女王国以北の諸国には入りません
考えがだいぶ纏まったので本出したいが
書くの大変そう
ウィキペディアの九州王朝とか書いてます。 >>55
>参考にします。
うん、まだ成長する可能性を持ってるね。
大筋では合っていると思う。もう少し勉強だね。 >>47
女王国以北とは、女王国より北ではなく、女王国から北だよ。
日本語も中国語も苦手なようだね。 >>55
戸数はなくても里程は書いてあるから、含めても構わないでしょうけどね。 >>60伊都国女王
以北の国は全部書かれている。狗邪韓國だけは例外なの?
郡から水行して来て、次に瀚海へと漕ぎ出す。
狗邪韓國では休息、水、食料の補給、天候などで滞在した可能性は高い。
戸数は記載されていたはずだ。陳寿は意識して外した。
それは狗邪韓國は仲間であり、一大率を畏憚する国ではなかった。
代わりに、「其北岸」を記載して倭地を表した。
范曄は「其西北界狗邪韓國七千餘里」と倭地表記をしている。
が、自説だけどね。 >>58
スタートは古田説ですけど
古田説の朝鮮半島内陸行とか受け入れられなくて
里程と日程が同じ行程を説明しているとだけの説明を弟にしたら
弟が勝手に新説を想像してた >>60
狗邪韓國は投馬国の中の国邑とすれは
投馬国の戸数は書いてあるので戸数が書いて無いともいえないかも
微妙ですね。 >>58
古田説みたいに分岐や放射状読みは無いとしてます
里程も日程も一本道
同じ行程を単に距離と時間で二重に説明しているだけ。 >>63
「更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人」
誅殺は王命で殺すこと。国と国、王と王が戦っている。
その勢力図を想像してみるのも面白いと思うよ。
卑弥呼以前の乱も勝負付かずだろ? >>61
「楽浪郡徼 去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里」
楽浪郡の堺まで倭国の中心地から12000里、倭国の西北界狗邪韓国から7000里
狗邪韓国を『後漢書』倭伝でも倭國扱いしてますね。 >>65
勝負が付いたから卑弥呼が共立されたんじゃないの。 >>67
だから勝負付かなかったと言ってるじゃん。
何が言いたいの? イミフ。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 [年已長大]の[長大]の読み直しで[倭國大乱]を補正してあげると
[倭國大乱]は210年代
この時に結果[壱太𡨧][壱太宰][一大率]に化ける[爾支]が
おおいにジャイアンした
倭國にいたアマ系の倭王は弾き出されて狗邪國王になった
アマ系の倭王の出自は元祖ヤマトの山口 [卑彌弓呼」は減画しないで正規表記してあげると[卑彌彌呼]
[投馬國]=[彌彌奴]=[彌彌那]の[利]を称する人とコモン
[都市牛利]=[都師鉾利]と同一人物で
卑弥呼の実の父の[大毘古]の名で古事記に盛られた人物ではあろう >勝負付いたら卑弥呼の出番はないでしょう
其國本亦以男子爲王と本来男王なのだから >>70
倭国大乱の時代は動かせないよ。
『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。 >>67
失礼、読み違えていました。
正史の個人編纂から、史家の集団編纂へ代わったのが晋書からです。
「漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼」
晋の史家達は、「不定」勝負がつかなかったと判断してます。 アマ系って石棺墓人
宗像から向こうに分布
本部は阿那門
多婆那の名で半島系史書に名を残し後の世には秦國に化ける
倭國の王権は甕棺墓人と石棺墓人のコラボによって成り立つ
甕棺墓人の裏にいてマリオネットしているのが木棺墓人ね >>76
天孫族でしょ。
弾き出された天孫族は畿内まで落ち延びて行った神武らのことでしょう。
それが山口県起源というのは、高天原が山口県であると言っているのに等しいでしょうが、まったく根拠はないように思います。 >>79
もしかして志賀島から遠賀川にかけていた海神、すなわち豊国王家をアマ系と呼んでしまっている?
そこはせめてワダツミ系とでも呼んで欲しいところ。
アマ系と言うと、普通は天孫族でしょう。 高天原は爾支のコンケストに関しての出発地でしょ
奴國と投馬國とのつきあいは紀元前からで古いよ
爾支のコンケストは2世紀末以降3世紀の10年代までのイベント >>82
それでは卑弥呼までの間に日向三代が入らなくなってしまいますよ。
考古学的証拠とも一致するものがなく、無理がありすぎます。 大穴牟遲~は広域のシマをもった海運を御する広域首長だけど
記紀に誘導されて出雲に目がいきがちだけど
阿那が本部で海運を御する広域首長だと考えるのが本筋でしょ なるほど。
大己貴を穴戸の王として捉えているのですね。
確かに興味深い。
それにしても邇々藝の年代比定には無理がありますよ。 >>78
晋書は漢末の倭人乱とかは三国志や後漢書を参考にしてる書いただけでしょうね。 [自女王國以北]の[伊都國]や[不彌國]は海岸域にあって海の民の巣だから
そこいらへんだけちゃんとおさえてね
三雲地区が[伊都國]だとかあほおなことぬかすのとかやめてね
三雲地区はもとのが委な奴國の中心地区で
広域化した二万戸の奴國の重要な中心地だしね
三雲を除いて奴國を語ることなかれ 大帶日子 淤斯呂和氣 纏向之日代宮
倭建命 小碓命
帶中日子 (仲哀)
この3代も穴戸の王でしょ >>86
そうでしょうね。
どうしてもその時代の知識の影響を受けるんでしょう。
「至魏時 有三十國通好 戸有七萬」 倭国全体で7万戸としてます。
特に隋書以降はひどい改変と思います。 奴國は二万戸だから筑前地区は伊都國や不彌國以外全部奴國だよな
築後や豊前にも一部奴國の領土が在ってもおかしくないぐらいかな
もしくは既に商業都市で多くの人口を養ってた? 三雲が倭奴国の中心というのはいいけれど、奴国は別に記載されているから、当時の魏使には別の集落に見えたのでしょう。
女王国と言う表現が伊都国および奴国、すなわち倭奴国なのではないかとは思います。
このあたりは日本側も微妙に言い換えを駆使して、王墓群の福岡平野側から糸島平野側への移動を誤魔化しているようにも見えますけどね。 >>88
ああ、その三代は明確に穴門の王ですね。
真ん中は若垂彦であるべきですけどね。
でもその纒向日代宮って実態は何なんでしょう。 >>79
多婆那国は土井ヶ浜だろ、倭國の北東千里だから [伊都國]から東南8kmほどのところが[奴國]だと記されていますね
[三雲地区]を[伊都國]とすると[奴國]は山の中
[三雲地区]を[奴國]を代表するような[奴國]の一部と考え
[三雲地区]から北西8kmほどのところに真の[伊都國]のありかが求められます >>92
そこのところで元祖ヤマトが山口のことだってばればれなのですね
変則読みの[マキムク][纒向]の本来の読みは[マトムク]あたりかもね
[マトムク]の[マト]は[ヤマト]の[マト]で[馬門]あたりのがぴったりかも このスレの説に対する批判は無くなったなw
平和過ぎる 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)で決着がついたんだから
その後の歴史について研究を進めるべきだよな。 世有王 = その時代に伊都国に王がいた
皆 = 倭の国々
ここまでは正解だがその先が間違ってる
正しい解釈は
「魏の時代に伊都国に王がいたが、倭の国々は(伊都国ではなく)女王国(=邪馬台国)に従った」 >>82
>>83
日向三代は2世紀〜3世紀だよ
畿内王統と九州王統は並立していた
7世紀に統一されたとき、九州の歴史を畿内の歴史の前段階に置いてしまったから
日向三代が神話上でものすごく古いことになってしまった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています