倭奴国の王が金印をもらったのは伊都国が反映していた時代であり、後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国と同じである。
古くから発展し大きな人口を抱えていた奴国すなわち福岡博多に対し、伊都国は倭国大乱の前の後漢の頃に作られた政治と外交のための人工の政治都市であり、人口は少なかった。
平原遺跡の豪華な出土品からわかるように、伊都国は3世紀初頭に最盛期を迎える。
その地を治めた偉大な女王は王権の死後に王権の象徴である周8咫の大型内行花文鏡とともに葬られた。
副葬されなかった鏡は三種の神器として後の天皇家に伝えられた。
糸島平野の東にある高祖山には日向峠やくしふる山などの地名があり、伊都国の王家が八咫の鏡を伝えた日向三代の王家であったと考えられる。
それに続く倭国王であった卑弥呼ももちろん伊都国にいた。