光秀=天海だけはガチだと思うのだが。part3
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歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。
どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。簡単に反証されてしまうようなものばかり。
けれど、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。
当時知っていたのは、禁裏と家康側近。
そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。
江戸末期には、噂されていた「光秀=天海 説」…。
筆跡鑑定の結果は、
TV東京 → 光秀もしくはごく近い近親者
NHK → 本人ではないが、ごく似ている字があり、親戚縁者の可能性あり
ということだった。
さて、3スレ目。
引き続き、妄想を語れ。 >>328
細川元総理は細川忠興と側室・清田氏との間に生まれた
四男・細川立孝の子孫
ガラシャや光秀の血は引いていない >>324
光秀の子孫の明智家が再興したとは書かれていないのだが。
土岐定政は、もともと明智嫡流で光秀が庶流
明智本家が再興した形。明智家が滅亡していなかったら
光秀は定政の家臣になるはずだったのだから妥当な形 >>330
土岐定政は土岐氏庶流で土岐氏の家臣にすぎないのに
土岐を名乗る厚かましさ 天海に免じて、家康が明智氏の主筋の家名を名乗ることを許してくれたんだよ >>314
異常幼児性愛者の前田利家をサンプルに使われても困るw
あと、ねねの生まれ年は確定していないよ >>330
明智定政は主君の土岐氏が家臣の斎藤氏に下剋上される途上で没落
徳川家康の元へ参じて小田原征討などで軍功を挙げた
豊臣秀吉から没落した主筋に代わって土岐氏を継承することを許され
土岐定政と改名した
家康の名家復興による明智家復興ではない
土岐定政は江戸幕府が開かれる前に死んでいる >>333
ねねの生年は諸説あるが秀吉とはそこそこ年齢差がある
四男坊だった前田利家は元服しても嫁を娶らず
22歳まで独身だったことも事実だし
そもそも20歳超えて独身の女性が少なかった時代なので
20歳超えてから初婚となると当然嫁は若くなる ロリコンだった前田利家は元服しても嫁を娶らず
幼女を見初めたがそのとき妻とすることはできず、
幼女がぎりぎり結婚可能になるまで22歳まで独身だった
このような特殊事例を一般に当てはめることはできないと言ってるんだが >>334
失敬、明智家は開府前に再興されていたっけね
>豊臣秀吉から没落した主筋に代わって土岐氏を継承することを許され土岐定政と改名した
このソースは?
>家康の名家復興による明智家復興ではない
明智家が家康の名家復興策による再興とはどこにも書かれていないが >>336
14歳の前田利家は4歳のまつを見初めて結婚を断りまくった
ロリコンって「利家とまつ」の見すぎw
前田利家ってかぶき者とよばれた色男で美少年だったために織田信長の男色の相手だったんだろ
犬千代の幼名から「犬」「犬」と呼ばれて寵愛をうける寵童だったため結婚が遅れた
20歳過ぎたらさすがに男っぽくなり信長の夜の相手を免除になったために結婚した >>337
家康が関東入府する際に秀吉が家康の家臣たちに官位を与えているが
そのときに定政に従五位下と美濃国守護土岐氏嫡流の名称であった
土岐山城守の名を与えてるんじゃなかったっけ 信長と利家の男色関係は俗説らしいぞ
不寝番を任されるほど信長に信頼されてたという利家の自慢話が
いつの間にか夜伽の相手を務めたという話になってしまったとか >>338
前田利家はロリコンというより犯罪者のほうがいいかもな
前田利家の妻妾
まつ →11歳 利家21歳
聚福院→13歳 利家30歳
隆興院→14歳 利家36歳
金張院→12歳 利家38歳
明混院→13歳 利家50歳
逞正院→15歳 利家56歳 光秀は謀反人の割に私生活の醜聞がないどころか
むしろ煕子絡みの美談が伝えられているというのも不思議かも 春日局が天海に会ったとき
「お久しゅうございます」と挨拶したと、わりとよく話題に出るけど
出典がなんだかわかる奴いる? 高家旗本土岐家直系の土岐家の娘さんがクリスペプラーのおばあちゃんなんだよね
その土岐家は光秀の子孫だと密かに口伝されてきたそうだから
一応光秀子孫は高家旗本になっている人もいるようだけど
なんせ光秀家族はガラシャ以外は坂本城で皆亡くなってる事になってるから
生きてたとしてもよくわからないんだよね… >>343
光秀と会ったことがあって悪口を書いているのはフロイスくらいかな >>343
煕子との美談は「明智軍記」がもとになってるから
書いた人自体、光秀に会ったことすらないだろ
だいたい同時代の記録が公家の日記ぐらいしかないから
公家は信長の家臣の詳しい私生活まで知らないだろ >>341
当然秀吉が推薦して朝廷から貰ってくるんだよ >>350
秀吉の関白就任〜死亡までの間に
秀吉の許可を取らずに武家が任官した例があるとでも?
家康すら秀吉の配下に入っていたのに
その家臣が秀吉にも家康にも許可を取らずに
任官したというのはただのいちゃもん 秀吉が推薦したことが書かれている資料はなしということだな 横から失礼
>>341
むしろ秀吉が決めて朝廷が追認みたいな感じだろうね
真田丸で任官を巡って信之がヘソを曲げるシーンがあった
あれはドラマだが、実際もあんな感じだったんだろうと思う
>>352
常識的に考えて文献どうのこうのより、この件についての状況証拠は動かしがたいよ
秀吉に任官権がなかった証拠となる文献があれば別だけど 秀吉は菅沼定政が明智氏だと知ってたんだね
数ある土岐氏支流の中で明智一族だとわかってて没落してた本家の土岐氏を継がせたんだ
どういう考えからだったんだろうね? 日本ユニシスの大串宏通です。
先日上野の天海僧正遺髪塔に行ってきました。
パワースポットだと聞きましたが、よい場所でした。
南光坊天海=明智光秀はやはりロマンがありますね。
ただ、私は何かの隆慶一郎作品で、
金地院崇伝=明智光秀というのを読んだ記憶が
あるのです。
私の記憶違いかもしれませんが、誰か聞いたことありませんか? 金地院崇伝は光秀の息子・光慶と同じくらいの年代で
一色氏と素性もはっきりしてるから違うと思う
光秀がやりそうな仕事してるし、肖像画の顔は天海より光秀に似てるなぁと思うけとね 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
5I44A 家康の前に現れるまで、光秀はどこでどういうふうに潜伏してたの? 天下分け目の戦いに敗れ、世捨て人となったから
明智光秀ではなく出家して僧天海になったかと
仏教界は信長と対立していたから密かに光秀を英雄視していた古文書もあるし
もし、生きていれば僧侶として受け入れてくれる寺はたくさんあったのではないかと思う
ならば、秀吉の手の届きにくい関東のどこぞの寺の方が都合が良いかもね 僧侶が一番信憑性高いね。
自身が焼き討ちした比叡山というのも捨てきれない。 光秀が仏教に深く関与してたからフロイスに悪口を書かれる >>367
天台座主は甲斐の武田に逃げたし
徳川家光の時代まで本堂である根本中堂すらなかったのに
たいした被害がなかったとか… 延暦寺より多くの建物を燃やされた寺院は多くあるし
政治に介入して失敗した天台座主は失脚しただけ >>368
光秀が逃したとも言える
高僧が逃げられたなら他の人々も逃げたはずなのに
延暦寺焼き討ちの時、光秀は麓の西教寺も焼いてるけど復興させて明智家の菩提寺になってるんだよね
焼き討ちした事自体はあまり関係ない
でも、山崎の戦い当時比叡山に寺あったんだろうか?
家光が再興したなら、天海が再興したと同じような? >>370
天台座主は法親王なので殺せば正親町天皇との関係も劣悪になるから
信長が逃がしたんだろ(光秀に決定権などない)
他の僧侶はたくさん死んでいる
延暦寺の山上は根本中堂ぐらいにしか焼土が残っていないというが
当時山の上にはあまり伽藍はなかったために焼くものがなかったためであり
高僧たちは皆麓の坂本に住んでいてここを焼き討ちにした
坂本には焼き討ち以前の建物は残っていない
光秀は焼き討ちした坂本の地に坂本城を建ててすんだ
尚、光秀が復興した西教寺は天台宗から分派した天台真盛宗であり
延暦寺とは同じ天台宗系でありながらライバル関係にあった
坂本からほど近かったために延暦寺焼き討ちの際に類焼してしまったが
延暦寺焼き討ちの対象になった寺ではもともとない では、比叡山延暦寺は、光秀に恨みはなかったってこと?
山崎の合戦で逃げてきた光秀を匿う素地は十分にあったってこと? >>372
西教寺は、延焼させちゃってごめんねって事で援助したのかもね
光秀がもし、生きていたとしても比叡山ではないと思う
当時は荒廃してて、謀反人を匿うような組織的な事は出来ないと思うから どちらにしても、首実検したことになってるから、
秀吉も無理くり何かできるはずもない
そもそも光秀がいたからこその天下取り
一番の功労者
もし秀吉に見つかっても
足利将軍みたいに、御伽衆に加わっていただろう
そして片桐且元や織田有楽斎と大阪城の覇権を争い
最後は、大阪の陣で殺されてたかと
徳川について、影の宰相に収まり、
細川家の将来を見守り続けるのが、彼にとっても一番いい人生だった >>375
もし、延暦寺が荒廃していて無力な存在だったなら
焼き討ちのターゲットにならなかっただろうよ 「あたごさま」っていう童歌について詳しく知ってる人いないか?
岐阜と愛知に伝わってる歌らしいけど、何となく詞が光秀のことを歌ってるような気がするんだよな
岐阜は光秀ゆかりの地だしそもそもタイトルからしてある意味で直球だし
光秀=天海と童歌と言ったらかごめかごめが有名だけど他にも何かないのかな >>379
どの部分?
方言で歌われているから標準語に書き直したのを
読む限りそんな感じしないよ? 天海は108歳まで生きたのか。
それだったら、誰よりも人脈も知り合いも多いわけだ。
はっきり、天海は光秀だ。
と、記述した書類が数多くでてきて当然だ。
自分でも言っているはずだし、徳川家は当然知っている。
だから証拠があるはずだよ。
川越喜多院は身近なところなので、光秀が住職をしていたとしたら嬉しいが。 どうして天海の出自ははっきりしないんだろうね
仏教界といっても、さほど広くない世界だろうに
天海が徳川幕府の黒衣の宰相扱いに抜擢されてる時
若い頃の天海の上司や同僚、先輩、後輩は接点があった事で自慢したくならなかったのかな? 若い頃の天海の上司(信長)や同僚(秀吉)、先輩(柴田勝家)、後輩(森蘭丸)
皆死んでるな んなわけねえだろ。天海だったらおもろいなと誰が考え始めたのか知らんが まあ本人かどうかはともかく
本人若しくは親類縁者なのは確かだろう 光秀の近親者説は、NHKが元だよな。
テレ東による天海の筆跡鑑定は光秀のものという結論。
NHkのそれは、似てる字や特徴もあるので、本人じゃないけど血縁者の可能性があるという結論だった。
清和源氏の土岐家傍流の明智家なわけで、明智の血を引くというだけで、影の宰相として祭り上げるのはおかしいなあ。
光秀本人だとしたら頷けるけど… 光秀が爺さんで江戸時代まで生きられない場合
幕府が明智系の者を重用する理由を考えると
天海は光秀の近親だろうということになるが
光秀が若ければ光秀本人が黒衣の宰相でOk >>397
筆跡鑑定は、本物の光秀書状を使えば本人と出るし
偽書を使えば他人と鑑定されるだろう。
光秀の書状といわれるもののなかには、偽書が疑われるものもあるし 光秀にも天海にも祐筆が居ただろうし
光秀は眼病を患って薬を貰った事もあったはず
天海は高齢だし、メガネも無い時代で遺っている文書に自筆があるのかな?
筆跡鑑定は全く当てにならないよ 最後まで足利将軍を立てようとした光秀のことは、家康も信用したんだろうなあ。
初めて家康と天海が会ったとき、2人で長く密談したという伝承があるけど、山アの後の放浪生活はもちろん、姉ヶ崎の殿軍の鮮やかさなどを語り合ったのだろう。
光秀ほど、徳川幕府の力になってくれたら頼もしい存在はいないからな。 >>401
家康は老眼鏡を掛けていたらしい。
だから、天海くらいの偉い坊さんなら老眼鏡を持っていたのでは。
大河ドラマでは秀吉も老眼鏡をかけている。 >>405そうなんだ
昔の事を知ると、学校で習った事なのか自分が思い込んでいたのかわからないけど
実際の日本人は自分が思ってたよりずっと文明が進んでいたと思い知らされる事が多々あるね
言われてみれば、正倉院宝物に美しい細工のガラスの器があるのに
戦国期にメガネがない方が不自然だね 先月出版された『本能寺の変・生きていた光秀』(著・井上慶雪)。光秀=天海説を信じる人には興味深い内容。
この本によると、山崎の戦いのあと光秀は
→比叡山に潜伏。このころ叡山で死亡した会津出身の天海と入れ替わり、光秀天海となる。
→その後、大阪府貝塚市鳥羽の海雲寺(光秀の長男が創建)及び岸和田市の本徳寺(光秀の肖像画を所有)に潜伏。
※わらべ歌「かごめかごめ」の歌詞にある「後ろの正面だぁれ」は上記の寺の位置を示すらしい
→その後、家康と合流。 訂正・4行目
誤 (光秀の長男が創建)
正 (光秀の長男が住職) 失礼しました。追加して訂正・4行目
誤 (光秀の長男が創建)
誤 (光秀の長男が住職)
↓
正 (光秀の子弟が住職) 『河童バビィ』・・・
『呪術師』と書いてあるはず
そしてキュウリの葉、葱の華などの写っている写真、
あれは家の写真なんだけど
光秀という名前の親戚がいたり、
何かを知っていて、そのような名前を付けたのかな 陸奥?いまの福島県のほうのことでしょ、
むかーし住んでいた事があると言っていた、
伊達郡というところの山の上のほう、寺院が何やらとか ちなみに家は▢野という名前、
光秀という人の母親の旧姓も。
『霊山 棒術』
このような名前 江戸幕府の3代、4代将軍の乳母が光秀の重臣の子と孫だからガチ 将軍家には光秀の血は入ってないんだっけ?
細川家もガラシャの血筋じゃないよね?
将軍家が光秀の血筋だったら、この説は鉄板なんだけどなあー 家光の実母は春日局である、という説があるが
もしそれが事実なら、光秀本人ではないにせよ、
その重臣斎藤家の血は将軍家に入っていることになる。 >>421
既出だが
徳川家光は将軍に就任すると自身の外祖父であるとして
江の父である浅井長政に中納言を追贈している
家光の母が春日局なら斎藤利三が外祖父で中納言だからw >>420
謀反人の関係者が将軍の乳母という事実だけで十分だろう いやあの時代器量があれば人の前歴はあまり問題にはしてないぞ
斉藤利三の関係者なら春日の局の兄は秀吉の時代に既に士官が認められていたし
おば(利三の姉妹)の嫁いだ蜷川親長は家康の御伽衆だ
大体春日の局にしてから万石級の家老(しかも秀吉の甥の家)の正室なんだから
謀反人の娘だからって将来が閉ざされるようなことはなかったんだろう
大体謀反人に文句言い出したら三河一向一揆の連中とかどうなるんだ 江戸時代に入ってから重用された謀反人関係者で、明智光秀に関わる者以外の例を挙げてくれ
本田正信は天正時代に召し抱えられた者なので除外 わかってないな
別に陰謀論に絡めなくとも本人に器量が有ったから採用されたで説明できるということ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています