邪馬台国畿内説 Part288
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1507833741/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 >>638
海峡間約40〜50kmで魏の公里ではないから測量していない
一時期兵庫の元高校教師がサギ目的で短い里をキャッチフレーズに
イカサマ本を罵声で押売販売していた事件が起きたが
他の偽書販売の発覚を契機に
現在では被害に合った消費者は廃棄処分している
>王莽では、始皇帝の後だから、長里の根拠にならない。
方五千里や方万里は机上の世界観だから度量衡の単位ではない 低能キュウシュウセツはいまだにぼくちゃんの考えた凄い行程を喚き散らすだけ あくまで倭人伝だからな。
埋葬についても、当然倭人一般の風習についてかかれたもの。
つまり庶民の倭人の埋葬法。
木棺を土葬、当然槨はない。 >>584
>>視認出来なければ、起点からの大体の方向を知っていて、
双方での一寸千里での南北距離を測定して、
作図に拠って、対辺の東西方向を推定する事が出来る。<
>視認出来なければ、起点からの大体の方向すら、分からんだろうがよ。 カス<
「倭人在帶方東南大海之中」のように、
視認出来なくても、往来した事のある人からの情報で、
大体の方向は判るんだよ。 大体過ぎだろ、そんな方位じゃ三角測量なんかに使えない >>587
大和は、
倭國の別種の旧小国で、白村江の後で母国の倭國を併合吸収継承して、
701年にようやく盟主になって、記紀を造ったので、
記紀には、
「母国の倭國の歴史が大和の歴史である」かのように盗用したものが幾らでもあり得、
大彦も、倭姫も、景行も、小碓も、神功も、、応神も、仁徳も、
宣化も、欽明も、厩戸も、推古も、天武も、斉明も、
いずれも、倭國の王や武将や宰相や「率」や女王などであったものを、
大和王などとして盗用造作した記載をしている可能性が非常に高く、
このssnの論も、それが判らないらしいアホ投稿である訳で。 >>591
>もう南の一文字しか頼るものの無くなった九州説が哀れでならない <
「南→東」や、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
「白村江で大敗した母国の倭國を併合吸収継承して列島盟主になった」事や、
「纏向よりもはるかに巨大で何本もの大道もハイテク工業地域もある弥生銀座」や、
「殉葬奴婢百余人」の祇園山や、
「尚方作」鏡が21枚もある平原や、
前方後円墳は那珂八幡など筑紫が最も早い事や、
庄内は三雲が最も古い事や、
ホケノが「有槨」で「庄内〜布留」であるから、
3世紀末以後に扶余や東沃沮や古韓尺部族の流民が入って来て、威圧のために巨大古墳を造った事など、
全ての論点で、もう頼るものが全く無くなって、
反論も全く出来ずに逃げるだけになった大和説が、
哀れでならない 。 また小便着色本信者がアホの古田ネタとかのギャグを披露して笑いを取ろうとしてる >>601
>>三国志の裴松之の注では、
車駕が1日300里であり、歩行は1日200里であった、
という記載であり、
5世紀になっても「短里」が使われていた、という例になった。<
>引用してみ <
古田第1書の307頁を見てみろ。
三国志の裴松之の注では、
車駕が1日300里であり、歩行は1日200里であった、
という記載であり、
5世紀になっても「短里」が使われていた、という例になった。 >>603
>>以前にどなたかが提示された帯方郡の地図で、帯方郡内であったし、
沙里院付近から「ほぼ南に真っ直ぐの道」も書かれていた。 <
>その地図が信用できるものだって証拠は?<
半島学者でも日本学者でも、同じような比定であるし、
「景初中、明帝密遣帶方太守劉kin、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」では、
楽浪郡を攻撃するには大同江がよいが、
帯方郡を攻撃するには、海州上陸の方が、
早く沙里院付近に達する事が出来るから。 古田のバカ本持ち出して何か言った気になってるんだからあらゆる意味でお笑いだなw 偽書やイカサマ本をソント(声闘)で押売してた犯罪グループの比定する
朝鮮系遺物が豊富に出る春日からは倭人の習慣の卜骨は1かけらも出ていない
日本の調査では祇園山は集団墓
三雲では庄内式土器は作っていない >>619
>邪馬台国論争なんて過去のもの
九州北部に在った邪馬台国がその後どうやって
畿内のヤマト朝廷に代わったかが問題<
継体の反乱で、大和は筑紫倭國の王家の一員となり、
倭國が白村江で大敗して唐の軍官の拠って亡国の運命になったから、
大和が「元々大和が盟主であり、倭國は併合吸収します」としたから。 >>656
やっぱりザラコクはまた想像でテキトーなことを言ってたのか 山王(という人物?)の時代、
邪馬台国など無かったと言っている人がいたけど 直系→現在、兄弟妹という意味なのかな
家もそうなんだけど >>624
>周地付近の大地平面近似が成立するところでは
南北千里の地点の影長差は1寸であり等しくなった?
影の長さは等しいの?それとも1寸違うの?
それで何を主張したいのかさっぱり <
周地付近で影長1尺6寸。
南千里で影長1尺5寸。
北千里で影長1尺7寸。 >>624
>周地付近の大地平面近似が成立するところでは
南北千里の地点の影長差は1寸であり等しくなった?
影の長さは等しいの?それとも1寸違うの?
それで何を主張したいのかさっぱり <
周地付近で影長1尺6寸。
南千里で影長1尺5寸。
北千里で影長1尺7寸。 >>625
>平均して75mでは何の証明にもならんよ <
大和説の434mでは、6倍位も違うから、
何の証明にもならんよ 。 >>625
>平均して75mでは何の証明にもならんよ <
大和説の434mでは、6倍位も違うから、
何の証明にもならんよ 。 老婆の話
むかーし、銀?というのもいたよ
と言っていたよ
家に凄い刀があったとか >>628
>>各部分近似距離の合計の概数からでも求まる。<
>お前が書いたホラは>独立的な推論値である<
各部分行程での里記載も、「自郡至女王國萬二千餘里」も、独立的な推論値である。
>>一寸千里は、曲線距離など、始めから測っていない。<
>直線距離なら郷ノ浦から唐津で42km、郷ノ浦から壱岐最北端まで13km <
「郷ノ浦から唐津」で、「千里≒76.5km」の有効数字1桁概数の範囲内。
>>(呉志の「會稽東冶」は)分郡以前の記載 <
>倭国の情報は永安3年以前、夏后少康の子が会稽に封ぜられて
文身した話と倭人の風習が同じとの記事と「當在會稽東冶之東」を一緒に書いている
会稽東治の用例はない <
「計其道里當在會稽東治之東」の記載は、
永安3年以後の、陳寿の執筆時の「地の文」での説明記載。
>>「計其道里」の計算の起点は、 「帯方郡〜女王之所都」<
>帯方郡がどこの東にあたるかなど倭人伝に書く必要なし<
陳寿は、女王之所都の位置を、
中国側のどの付近の東になるのか?を説明しようとした。 >>654
これだね、
呉書十二慮翻傳・裴松之注
「荅曰:「翻能?行,日可三百里,自征討以來,吏卒無及翻者,明府試躍馬,翻能疏?隨之。」
慮翻が孫策に、自分は足が速いと自慢するところ、
→一般論ではなくて、あくまでも特技として自分は1日80km歩ける、と言ってるんだね。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>677
他にそんなことできる者はないと書いてある(笑 >>680
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>631
>その書いた内容が、ザラコクの捏造した真っ赤なウソなんでしょ?<
史料事実や史料実態からの帰納的確率的な、真っ白な推論しか思い付かないの。 >>633
>九州説は空虚なオウム返しばかりで惨めなもんだ<
「南→東」などの嘘吐きダマシしか出来ない空虚な大和説者は、
オウム返しされてばかりで惨めなもんだ。 >>684
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 本当のスサノオ
外来系、渡来系だと考え場合、
🌞🌛のような信仰(陰陽、暦)を持って渡ってきた >>677
75m×300=22.5kmか
普通の人でも5km×10時間=50kmくらい歩けるわなw どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>676
萬二千餘里が独立的な推論値なら郡〜女王国境までの直線距離
42kmが76.5kmの誤差の範囲内という詐欺本など
加古川あたりの特殊な人種しか買わない
三国志魏書の執筆時期などは明確にされていないから関係ない
地の文などいかにもサギ専門の古田が考えそうなこと
女王之所都は帯方郡や馬韓にはないから山東半島とその南なんか関係ない >>644
>海峡間約40〜50kmで魏の公里ではないから測量していない<
倭人伝などの記載は、
魏の公里の周髀算経の里での、有効数字1桁概数で記録されている事になるから、
計測されている。
>一時期兵庫の元高校教師がサギ目的で短い里をキャッチフレーズに
イカサマ本を罵声で押売販売していた事件が起きたが
他の偽書販売の発覚を契機に 現在では被害に合った消費者は廃棄処分している<
あれっ?、このしゃべり方は、
和田キヨエをたぶらかして尿入り一升瓶?を大量に旧和田宅に置いておいた、
偽書説派の仲間にそっくり。
>>王莽では、始皇帝の後だから、長里の根拠にならない。<
>方五千里や方万里は机上の世界観だから度量衡の単位ではない <
「机上の世界観」なら、根拠のような言い方で出すなよ、尿入り一升瓶サギシ仲間さん。 『聖化 日神 日霊 津』
調べてみても、
この人物が現れ、初めて・・・国が出来たようなことが書かれているし >>646
>低能キュウシュウセツはいまだにぼくちゃんの考えた凄い行程を喚き散らすだけ <
「南→東」などの嘘吐きダマシの、尿入り一升瓶詐欺の、
国史観人種差別殺戮戦争狂の低能ヤマトセツ者は、いまだに、
安部政府文部省の大学先生や、右翼マスコミらの考えた「6倍も違う凄い行程」を、
喚き散らすだけ。 謎の埼玉?名字辞典
というものにも、
同じような事が書いてあったり
それとも「聖化・・・・津」は、すさのお、ではないのかな? >>647
>あくまで倭人伝だからな。 埋葬についても、当然倭人一般の風習についてかかれたもの。
つまり庶民の倭人の埋葬法。 木棺を土葬、当然槨はない。<
魏使らが見聞計測していた女王卑弥呼の墓は、当然「槨」は無かったから、
「有棺無槨」と書かれた。 >>700
そりゃ無いだろう
前方後円墳に槨は無いもの
>>695
魏の公里に周髀算経の里など使われていない
死んだサギグループの主犯が考えたキャッチコピー
小便で古書に見せかけるような小技はサギ専門古田の入れ知恵だろう
机上の方万里の世界観が漢代〜三国時代の知識人の世界観
その世界観に「前史の未だ備わざる所を接ぐ。」と締めくくって、
「荒域の外、重譯して至る。足跡車軌の及ぶ所にあらず」
東夷世界を追加してるのが東夷伝 魏志倭人伝には、実は邪馬台国までの行程は書かれているが、距離は書かれていないんだな。
書かれているのは、女王国までの距離、12000里。
女王国は広大なエリアに広がり、遠方の詳細は不明と書かれている。
邪馬台国はあくまで卑弥呼が都を置いたところ。
邪馬台国までの距離が書かれていないのは、道中距離測定が不可能な行程があるから。
対馬海峡の行程は基本手漕ぎのスピード、大凡の距離の推定が可能。
距離測定が不可能な行程は、全く目印のない海原で流速の速い海流に流される航海だろう。
大隅半島から黒潮に乗るんだな。 >>649
>大体過ぎだろ、そんな方位じゃ三角測量なんかに使えない <
8区分方向の45度で、最大で1.414−1=0.414の差だから、
22.5度差なら、0.2位か?それ以下の差。 倭人は呉の末裔を自ら名乗っている。
長江河口近辺から渡来した集団だろう。
神話、考古学的事実、遺伝子等、中国南部の影響が色濃く見られる畿内。
日本列島の中で倭人の本拠地に一番相応しい。
魏志倭人伝の倭人の記述、邪馬台国までの行程、どれも畿内と矛盾しないな。 このスレを荒らす九州説の輩は、確信犯だろう。
他の地域の歴史を奪い、倭人の歴史を奪う輩。
人として一番やってはいけないこと。 畿内に中国南部の文化なんかあったか?
畿内説はとうとう頭が変になったかな? >>707
畿内説が筑紫倭国の歴史を盗もうとしているよね。 だから言ってるんだよ
「何やら、ばんざーい、ばんざーい」
のような事を言ってると逮捕される、本気で言っていると、そうなる 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。 イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。
そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。
考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 桃の種や魚の骨があったから畿内が邪馬台国だなど、とうてい理知的な思考とは思えないな。 他のスレにも書いたはず、
特別な存在だとでも思っているのか? 漢委奴国王印は蛇紐だが
筑紫は蛇信仰してないだろ
他所から盗んできたのかもしれない おかしいと思うだろうけど、
朝鮮人が日本という国を作ったような話
または朝鮮人ではない、
外来系?他の豪族や部族という意味なのか
それか当時の日本から朝鮮に渡り、
一時期(数世代)、そこに住んでいたという意味なのか 弥生時代後期には、日本列島から鉄を求めて朝鮮半島に進出していたのは間違いない。
日本列島の土器しか出ない鉄鉱石の採掘跡も見つかっている。
それをまた日本列島まで運ぶ集団もいただろう。
記紀では、どれに当たるのか? それにしても、おかしな話だよ
音楽家ではないけど
「キリト君か?」というレスが来たことがあったり 『探偵eye』というドラマ
「りん、りん」と言っていない?犬の名前 >>1 の
>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡<
と
FAQ 48 のA
だが
纏向遺跡は桜井市限定で良いのか? このようなスレもあったような
『2ch アラハバキ』
なぜかブラジルという言葉が出てきたり 桜井市教委と天理市教委の縄張り区分にしか映らない・・・・・
古代、桜井市と天理市の区分は無い
いの一番で>奈良県桜井市に所在する纒向遺跡< と持ってくるのに疑問を感ずる 遺跡地図をみたこともない、自称「考古学に詳しい」キウス >>741
馬鹿の極み 遺跡地図 はぁ 小学生のスレかここは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています