邪馬台国畿内説 Part287
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1507643065/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。 ◆6−3
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。 ◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。 ◆FAQ 23−2
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41−1
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
◆FAQ 41−2
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BV型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BW型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓X期の文化圏である。
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)西北至都護治所二千二百五十八里、北接尉犂、南至小宛可三日行、
…西通精絕二千里。
(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行、
…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)東北至都護治所六十日行、
東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
(大月氏國)東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行,
南與罽賓接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ58に加筆、◆FAQ59,60,61を追加 286の>>882
>倭人伝からどんどん離れてく九州説<
「南→東」や、
平原の「21個の尚方作鏡」や、
祇園山の「殉葬奴婢百余人」や、
「持衰の証言」や、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、倭國の附庸國」や、(箸墓をはるかに凌駕する)弥生銀座」や、
庄内も前方後円墳も鏡も筑紫が先行や、
吉備やホケノが「有槨」だから、扶余や東沃沮流民が流入した事など、
史料事実や史料実態からどんどん離れて行って、
瀕死の状態の大和説。 286の883
>一女子が共立されて女王国になったので 女王国はどこも征服していません <
姫氏の卑弥呼自身は、直接征服戦をしていなくても、
倭國は「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」ですから、
配下の軍事担当の一大率の伊都國の阿毎氏が、(阿毎氏の配下や別種らを引き連れて)、
南の対狗奴國や東テイ人や東征戦などを実行していたようです。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 286の>>885
>至ナントカ国とあれば 前の国の中心地から次の国の中心地 までの距離だとしながら<
していないねえ。
陳寿の国間距離や都市や地域間距離記載の原則は、(中心地間ではなく)
「その地域の外縁部の出口〜到着地域の入り口(居住外縁部)」という記載で統一されている。
>しれっと島だけでは 特別に 島の端っこまでの距離だとする 統一性のなさ というか恣意性
これが九州説の非学問性だね <
このように、古田説明や生野真好氏らの、外縁部的説明の存在を「知らん振り」して、
なかった事した嘘つきダマシのヘイトスピーチ街宣するのが、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者の本質的な・・・・性だね。 286の>>886
>デタラメばかり <
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、・・・・のようなデタラメばかり。 >>78
>陳寿の国間距離や都市や地域間距離記載の原則は、(中心地間ではなく)
>「その地域の外縁部の出口〜到着地域の入り口(居住外縁部)」という記載で統一されている。
それだと倭人伝に書いてある部分里程を全部足しても約12000になってはいけないことになるね
倭人伝には国の大きさが書いてないのだから 286の>>889
>これこそ短里ありきで 自説に合うように恣意的に比定地を決めてる 典型例だな<
いや、古田比定の出発点の推論は、
全て、三国志の記載や自然地理的実態からの帰納的推論であったのであり、
「結論先にありき」になっていない。
この男も、「南→東」などの史料事実の否定曲解をしたのと同じように、
古田論を曲解捏造してヘイトスピーチ誹謗の街宣をする・・・・キョクウ。 吉武高木から平原まで倭人の風習である卜骨がひとかけらも出てないから
倭人ではないんだよ 286の>>890
>つまり、行程をいくら捏ねくり回しても邪馬台国がどこだかは判らない、
という畿内説の結論どおりなのだな。<
つまり、この男も、大和説にとっては都合の悪い魏志の行程を、否定抹殺してしまうために、
「いくら捏ねくり回しても邪馬台国がどこだかは判らない」、
という史料事実の否定抹殺して、
大和説にも可能性がある、として、
世間の人々を騙す大和説者のサギどおりなのだな。 286の>>893
>対馬の西北端に着いて東南端から出発したと言えば800里、対馬の東北端に着いて東南端から出発したと言えば400里。<
「対馬」ではないよ。
「對海國」は、浅茅湾を囲む南北対馬の中央部〜南寄り、が推定地域。
>自由に調節できて便利な説だな。<
いや、「方四百余里」という記載などの制約があり、その制約の範囲内での、帰納的な推論。
>好きなところを邪馬台国にできるわ。<
大和説者のように、「邪馬台国」なんて、史料事実の改竄をするんなら、
そりゃ、好きなところをどこにでも、邪馬壹國にできるわな。 テンプレ添削のしようがない駄作
卒論なら留年決定、一から出直し
畿内説が気合説になってしまった >>82
壱岐のカラカミ遺跡、原の辻遺跡
佐賀県の牟田寄遺跡
福岡県の西蒲池池淵遺跡
から卜骨は出ているから
そのうちに糸島でも出るだろうね。 286の>>895
>それこそ先に結論ありきの循環論法じゃないか <
全体の論であっても、個々の論であっても、
「個々の論理」において、全て、
「結論とは関係にない史料事実や自然事実からの帰納的な確率的推論」をしている限り、
循環論法になっていない。 286の>>897
>その一里はどうやって出した? w w w <
魏志などでの「里」数記載からの帰納的確率的推論。 牟田寄遺跡も西蒲池池淵遺跡も北部九州に庄内式土器が受容された後だな
北部九州で朝鮮系金属器製作が始まる弥生中期前半の卜骨が出ないと倭人の国ではないんだよ 286の>>898
>日向峠とか舗装してなかったらマタギくらいしか使えない <
一度自動車で往復したが、それほど険しい峠ではなかった。
>糸島平野から早良平野に行くには長垂山の一番低いところ
今宿五郎江遺跡の東の県道561号ラインを使う<
そのコースは、糸島水道付近から東方であり、
不彌國へ向かった魏使らなら使った可能性があるが、
奴國は、伊都國からの「東南」方向であるから、日向峠方向になる。 遣隋使は記紀と隋書と擦り合わせをしないといけない
BUT3世紀に持ち込む気が知れない 時代考証もできなない畿内説だ 286の>>902
>島巡りトンデモを採用したから1里が何メートルか根拠が無くなっちったよ。
さあ、九州説さん困ったね。 どうする? <
関係がないよ。
魏志全体などからの帰納的確率的推論であったから、
無くなっていないよ。
しかし、この男も、変な・・・・サギシのようだね。 286の>>904
>ほらな 九州説敗勢<
ほらな、大和説敗勢。
九州説全勝。 >>87
高天原の場所がわかるよな
島が拠点だから、九州や本州に天孫降臨してくるわけだ 286の>>907
>当時に水銀朱を採掘してたのは西日本では近畿と四国だけ 九州は、絶望 <
この男も、一種の・・・・だなあ。
「朱丹」は、水銀だけではない、と言っているんだし、
水銀も佐賀の「からすんま」の山の近所だから、縄文から知られていたんだろう、
と言っておいた事を、隠している。 286の>>915
>(ト骨)で? 倭国の都には無いの? なら、倭国全体の風習のようには書かないよ
九州説は倭人伝を無視するな <
都の弥生銀座は、ハイテク工業地域であるから学問的文明的にハイレベルであり、
「ト骨」のような習慣は、余り流行らず、
そんな習慣は、壱岐や東方の毛人らのような田舎に多く残っていたの。 286の>>918
>ト骨と丹だけでも九州説は死ぬ <
全くの・・・・だねえ。
ト骨と丹も、九州にもある、というだけで、「反九州説は死ぬ」。 286の>>920
>>松浦川上流に水銀丹山があるから「其山有丹」だし、<
>松浦川上流の水銀丹山で採れた丹はどこに使われているの?<
そりゃ、九州で一番使われたんだろうよ。
地方の市が発達していたようだから、田舎へも送られたかも知れんが。
>その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。@阿波<
九州には、明帝から贈られた「鉛丹五十斤」もあれば、丹木もあった。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 286の>>922
>はい、こんどは渡海の距離で九州説が死にました<
はい、こんどは渡海の有効数字1桁概数の距離でも、大和に届かず、
大和説が死にました。 286の>>924
>南とひとこと言うだけで畿内説が崩壊すると妄想してる夢見爺<
「南≠東」のひとことだけにも、全く反論出来ずに、崩壊してしまった大和説者の実態。 286の>>925
>>大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた分家の旧小国で、倭國の附庸国。<
>そんなこと書いた史料は無いよ。<
隋書と旧唐書や唐会要と新唐書に書いてある事。 286の>>926
>島巡りで短里が死んだし <
短里の島巡りで、大和説が死んだし。 >>102
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 286の>>927
>高木の方に向かって奴國の中心域見つけようとしたって無駄
高木のなかのひとが三雲主導で福岡圏を二萬戸の奴國連邦に仕立てた
那珂は奴のグループの別れの意味
須玖はスサノヲ・オオ穴モチの世代に繁栄期を迎えた出店のの奴國 <
伊都國の東南百里に2万戸の奴國(の入り口)があり、
伊都国の東百里に不彌國の入り口があって、
その南のほぼくっついて7万戸の邪馬壹國があり、その都の弥生銀座があるんだから、
油山の西が奴國で、
油山の北〜北東が不彌國で、
油山の東が邪馬壹國や弥生銀座がある、
と住み分けるしかない。 >>107
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 荒らしの岡上と妄言のザラコクか
九州説が滅ぶわけだよなあ >>110
それ何度も言ってるけど何のこと?
気になるから教えてほしい 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 286の>>928
>郷ノ浦を出発港にして渡海距離を伸ばしても唐津城まで1000里で約44km <
それは直線距離?。
それでも、千里(76.5km)の半分以上だから、千里の「有効数字1桁概数」の範囲内。
>壱岐は縦横最長のところで17.5km×14.5kmくらい <
一大國の「方三百里」は、外接出来る正方形の1辺表現であるから、
周辺の支配地の島々をも含めたものであり、
「壱岐」島だけの大きさでは×。
300里は大体20km位になった筈、
>最長で方300里の半周は1里約53.3m <
その狭い大きさでの計算だから、それで1里約53.3mであるんなら、
300里の有効数字1桁概数の範囲は、250〜350里だから6分の1になって、
76.5mの6分の1を少しオーバーする位。
>島の西側の郷ノ浦を出発港にすると島内の1里は短くなる <
リアス式の激しい一大國では、海岸沿いの出来るだけ平坦路を移動すれば、
直線距離よりもはるかに長い距離の移動になる。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 >>110
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 286の>>931
>数字があったらとにかく足しちゃおうって 食べ物見たら落ちてるものでも食っちゃう
浮浪者みたいだね<
都合の悪い数字があったら、とにかく何でも抹殺しちゃおうって、
おいしい食べ物見たら、それだけは落ちてるものでも食っちゃう。
大和説者は、まるで、詐欺師の浮浪者みたいだね。 286の>>933
>倭人伝を歪め、考古学を歪め 九州説はどんどん隘路に入って行く そこは袋小路 <
倭人伝を歪め、考古学を歪め、
大和説はどんどん隘路に入って行く。
そこは袋小路で、ゴミ捨て場。」 >>117
引くに引かれぬクソ意地
今さら、誤りと認めたくないから、ゴタクをならべるだけ 自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
女王国が九州上陸から2千里の国境にあるから一大率に関するこの一文は成立する。
女王国が奈良だと対馬航路の九州は管理されない。 無意味。
北=北、南=南、千里=千里だろ。
畿内説が存在し得ることが、日本史最大の謎だよ。
中国古代史書は大和朝廷が250年時に九州を含む統一をしていない事を明らかにしてるし
当然、天皇の起源は九州には無い。 神武東遷なんてのは嘘八百もいいとこだ。
まさか、記紀信仰で日本史書きたいだけなのか? 286の>>936
>五尺刀の上町向原が伊都國王墓
玉作工房の準構造船の部材の出ている潤地頭給あたりが伊都國中心域
伊都國王の住まうところや臨津搜露するところは防衛上有利な向こう岸のほう
ここから東南100里で奴國中心地の三雲地区 <
凄い情報ですね。
情報提供、有難うございます。 >>109
>と住み分けるしかない。
福岡の遺跡知識と地理を知らないから
比定が間違っている なーんだ
結局テンプレにはぜんぜん反論できないのか >>114
直線距離なら郷ノ浦ー唐津城=約42.5
半分以上が範囲内なら12000里は459km〜1377kmが範囲内
島内移動距離が方三百里×2なら周辺の島々は含まれない
測量して方三百里なら道なりの距離は関係ない 286の>>937
>キプロス…こうある場合に島の大きさをわざわざ足さないだろ?
島の大きさ書いてるからって それを行程に足すのは明らかにおかしいよ <
違うね。
對海國と一大國は、単なる途中経由地点ではなく、
目的の倭地内の国として書かれ、
その大きさも、国内移動をした事もはっきり書かれているから、
最終目的地の「邪馬壹國女王之所都」への(道のり)距離に算定する必要がある。 286の>>946<
>どこにも反論などない件<
「南→東」など、数えきれない位の反論をしてある件について・・・。 286の>>953
>自分が認定すれば、全て正しい それがご都合主義の九州説<
「南→東」などのウソ付きダマシのように、
史料事実を自分が「間違いだ」と認定すれば、全て「間違い」で正しい 。
それがご都合主義の大和説者。 >>130
史料事実ってなんだか知らないで、いい加減なこと言ってない? 286の>>957
「南→東」の嘘つきダマシの指摘に、全然反論できなくて暴言吐いてただけだろ?。
そして、そのほかの「史料事実への否定」の理由を聞かれたら逃げてたし。
実に大和説者は、ミットモナイ存在だわ。 286の>>960
トンデモ大和説教に染まった皇国史観の脳は治癒しない、
ということか?。
・・・・は死んでも直らない。 286の>>965
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の糞に糞認定されたってことは、
九州説は普通だな。 286の>>967
>ほら、敗北者は悪口しか言えない <
ほら、「南→東」などの嘘つきダマシの敗北者の大和説者は、
史料事実に拠る反論が出来ず、悪口しか言えない、糞以下の糞。 >>129
反論として成立します
畿内説が説明ができないだけでしょう
誤報、誤認、誤記で済ませるのが学問だろうか? 畿内に邪馬台国と違う国があったか説が、理解を得安い
基本は、倭人伝です
行程しかり、文献に基づく物証が皆無に等しい
炭素年代で3世紀と断定したとしても、3世紀の遺跡が見つかった程度 286の>>983
>>陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載してる。<
>貴重な情報ありがとう。 陳寿が「車駕1日300里」「歩行1日200里」などの数式を好んで使う人だってことがはっきりしたわ。<
関係がないね。
陳寿の記載は、当然魏の頃の車駕や歩行の記録の紹介であり、(長里ではなく)短里だ。
>これなら陳寿が「舎1日30里」を利用しても不思議ではないね。<
いや、軍隊の移動である「舎1日30里」の「里」は、長里にしかならず、
陳寿は、当然利用も採用していない。
>「舎1日30里」は「車駕1日300里」「歩行1日200里」よりもメジャーな数式だからね。<
「舎1日30里」を書いた文書も、魏朝や陳寿の「短里」採用を知らないアホ文書であった、という事だな、
あなたのおかげ自説の正しさが強化されたわw 286の>>984
しかし大和説者も、情けないなー 。
「南→東」などの嘘つきダマシのテンプレを擁護して、
カラ回り自滅して、沈黙、 というパターンが、
このところ続いてる 。 >>117
あの、鍵型の墓のせいじゃないかな。。。
魏志倭人伝に書かれているものとは形が違うけどね。。。
>>121
そのような反アカデミックな老人たちが、真実の探求を妨たげるのだね。。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 倭人伝と真摯に向き合う九州説のが姿勢も賛同者が多い一因
九州説にも弱点はあるが、それを九州説は克服するため日々研究する姿勢も良い
畿内説みたいに断定だけして後付けの根拠を推理はいただけない 286の>>985
>>>不弥国まで10700里 不弥国から邪馬台国まで約60日<
>>約60日では、5万戸の投馬國が途中にある事になり、入らなくなるよ。<
>これに関しては意味がわからない。
約60日なら投馬國は、不弥国と邪馬台国の間に入るよ。<
おや?、失敗。
「残り1300里しかないんだから、5万戸の投馬國が途中にある事になり、入らなくなるよ」
という事の間違い。 例えれば
畿内説はまず犯人Aを決め付け、後で裏付け捜査する手法
捜査の結果誤逮捕とわかっても、都合の良い証拠だけ採用し
是が非でももAを有罪としてしまう、冤罪を生む手法 286の>>986
>そもそも魏志倭人伝に約60日(水行30日+陸行1ヶ月)って書いてあるんだが <
その日数の意味が違うよ。
魏志倭人伝では、不彌國で「萬二千余里」がほぼ消化してしまっている事になるから、
里数説明は終わってしまっている事になり、
約60日(水行30日+陸行1ヶ月)は、(これまで数え切れない位書いて来たように)、
里数説明とは別の、
側副行程日数や、郡から女王之所都の日数の話、
を書いている事になるんだよ。 286の>>988
>テンプレも「日数から割り出した」説みたいだな <
テンプレも始めから「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・説みたいだからな・ 286の>>992
>>陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載してる。<
>検索したけど、ないね<
古田第1書の初版頃の307頁〜308頁に記載場所が書かれている。
自分で探しな。 286の>>993
>>陳寿が「舎1日30里」を利用しても不思議ではないね。<
>これも三国志になし<
当たり前。
魏朝の短里で書いた陳寿が、通説であった長里的な文献の「里」記載を、
紹介する筈がない。 286の>>995
「南→東」などの嘘つきダマシの指摘に、
理由もなくヘラヘラ笑ってる大和説者は、
脳が足りない人に見えて、笑われるね。 286の>>1000
どうやら笑い者は、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説のようだ。
また九州説の勝ち。 島内距離で1400里を消費すると末盧國上陸までにまで11,400里消費してることになるので
短里で前原町を伊都國、三雲を奴國(入口)に比定して、奴國へは行かないならば
同じ百里の不彌國は周船寺あたりとなる、
ここまでで12,000余里消費 >>73
>「南→東」や、
平原の「21個の尚方作鏡」や、
祇園山の「殉葬奴婢百余人」や、
「持衰の証言」や、
「大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国の、倭國の附庸國」や、
(箸墓をはるかに凌駕する)弥生銀座」や、
庄内も,前方後円墳も,鏡も,筑紫が先行や、
吉備やホケノが「有槨」だから、扶余や東沃沮流民が流入した事など、
史料事実や史料実態からどんどん離れて行って、
瀕死の状態の大和説。 <
>流石にそんな無茶苦茶な歴史は無いだろ<
皆、史料事実や史料実態だよ。 >>80
>>陳寿の国間距離や都市や地域間距離記載の原則は、(中心地間ではなく)
「その地域の外縁部の出口〜到着地域の入り口(居住外縁部)」という記載で統一されている。<
>それだと倭人伝に書いてある部分里程を全部足しても約12000になってはいけないことになるね<
いや、魏使らや陳寿は、小さい国の国内移動は、
「里」記載を省いて「余」に含めているように思われる。
>倭人伝には国の大きさが書いてないのだから<
對海國や一大國のような、途中の大きな国の中を通った時には、書いている。 不彌國は伊都國と同じ千餘家なので
水行十日陸行一月を朝鮮半島内で消費していて
不彌國の南に邪馬台国の入口が接して
南の三雲と早良平野が奴國なら
高祖山山上だけが7万戸の邪馬台国 七万戸は奴国の二万戸を含む、筑紫と肥前の合計だよ。
最大の国邑は奴国の二万戸で、これを高祖山や日向峠に求めることはできないので、福岡平野のことだろうね。
ただし魏志倭人伝は、高祖山を含めて伊都国と奴国、不弥国までをあわせて女王国と捉えていたように読める。
そうすると、高祖山の高祖宮か、不弥国の香椎宮が卑弥呼の王宮の可能性が高い。
特に高祖宮は、女王墓である平原遺跡の目の前であり、記紀にある筑紫の日向の高千穂宮のこととも考えられるので、国内の史書でも名のある王宮であったことになる。 高祖山には3世紀の高祖宮跡というようなものは出ていない >>159
それにしては、九州でありながら九州産の水銀朱がどこからも出ないのはどうしたことか?
こっちでも丹で遊んでみる泡厨。 @阿波 忘れないように
削除したら「敗けを認めて削除したw」と笑われる
削除しなければ「推古紀が根拠w」と笑われる
どう転んでも笑われるテンプレくんw >>160
高祖宮は高祖山の西の麓の方で、遺構はすでに知られているらしい。
ただし、年代を確実に知る方法はない。
高祖宮、高祖城、怡土城など、年代により作り変えたりしているから、卑弥呼の時代の遺構が残っていない可能性もある。
現在の高祖宮も、以前の場所とは違うとのこと。 >>82
>吉武高木から平原まで倭人の風習である卜骨がひとかけらも出てないから
倭人ではないんだよ <
いや、首都圏で出ていなくても、
一大國の壱岐から大量で出ていれば、魏使らが目撃可能であり、
一大國は倭人だから、倭人の風習だ。 >>161
筑紫と肥国が倭国だったが、肥後狗奴国が反旗をひるがえしたので、卑弥呼の時代の倭国は筑紫と肥前まで。
邪馬台国側の城は大野城と基肄城、狗奴国側の城は菊池城。
狗奴国の官の名として、菊池彦の名前が魏志倭人伝に見えるから。 高祖山の西の麓ですでに知られている遺構は3世紀ものとは考えられていない >>87
壱岐のカラカミ遺跡、原の辻遺跡 、佐賀県の牟田寄遺跡 、福岡県の西蒲池池淵遺跡
から卜骨は出ているから そのうちに糸島でも出るだろうね。<
情報提供、有難うございます。 >>166
大野城、基肄城、菊池城の3世紀と判断されている遺構
を提示してからにしてくれ >>90
>牟田寄遺跡も西蒲池池淵遺跡も北部九州に庄内式土器が受容された後だな
北部九州で朝鮮系金属器製作が始まる弥生中期前半の卜骨が出ないと倭人の国ではないんだよ<
列島最古の庄内は、卑弥呼の頃の三雲や、祇園山の庄内だから、
魏使らの目撃時期であり、魏志の記載にぴったりであり、
大和や河内の庄内は、それより50年位後なんだよ。 >>111
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・大和説のスレ主らと、
唯我独尊の高慢な皇国史観の、
タカ派の国家国粋人種差別的殺戮戦争狂の、・・・・政府や大和説患者の組み合わせでは、
ヒトラーや戦前と同じように、気が付いたら戦争になっていて、
大和説も日本国も、滅ぶわけだよなあ。 畿内説と戦争は関係ない
畿内説は皇国史観の万世一系を否定している
そういうプロパガンダを叫んでももう古田の本は売れないだろ >>124
>>伊都國の東南百里に2万戸の奴國(の入り口)があり、
伊都国の東百里に不彌國の入り口があって、
その南のほぼくっついて7万戸の邪馬壹國があり、その都の弥生銀座があるんだから、
油山の西が奴國で、
油山の北〜北東が不彌國で、
油山の東が邪馬壹國や弥生銀座がある、
と住み分けるしかない。<
>福岡の遺跡知識と地理を知らないから 比定が間違っている <
いくら口先でヘイトスピーチしても、
伊都国と、奴國と、不彌國と、弥生銀座の邪馬壹國が、近接して存在する事は、否定しようがない。 >>125
>なーんだ 結局テンプレにはぜんぜん反論できないのか<
なーんだ?、
結局テンプレは、「南→東」などの嘘つきダマシのような、
スレ主の嘘つきダマシの指摘に関する反論に対しては、
ぜんぜん反論できずに、
勝手な事を書き続けるだけなのか ?。 >>173
でも、邪馬台国が畿内にあったことにすることで、日本の政権が古来から畿内にだけしかなかったようにしようとしているのでしょう?
万世一系の天皇と何が違うわけ?
行き着くところは同じでしょ。
今は天皇という単語を持ち出さないようにしているだけでしょ。
いや、畿内説の葛城スレとかに行くと、すでに天皇とか皇后とか、時代背景も無視して連呼している輩もすでにいるよね。 もはや、福岡県内のどの地域を魏志倭人伝のどの国に割り当てるかの数キロ単位のせめぎ合いであり、畿内なんかお呼びじゃないな。 【卑弥呼の王宮】
候補はいくつかあるが、いずれも魏の郡使が駐在する伊都国から遠くないことが条件となる。
・高祖宮
魏志に伊都国と記された糸島市の高祖神社が掲げる宮号。
糸島平野と福岡平野の間にある高祖山の南の峰をクシフル山と呼び、福岡に通じる峠を日向峠と呼ぶことから、高祖宮が記紀にある筑紫の日向の高千穂宮に比定できる。
高千穂宮は天孫ニニギが八咫の鏡を伴って筑紫の王として即位した宮であり、神武天皇が東征に出発した宮でもある。
後にこの地に建設される怡土城、高祖城は高祖山・クシフル山の山頂を含む中国式山城であり、高千穂宮の名にふさわしい。
糸島平野にある三雲南小路遺跡はニニギと木花咲耶姫の墓と伝えられ、平原遺跡からはニニギ王家の家宝である八咫の鏡が出土している。
平原遺跡は卑弥呼がいた3世紀の女王墓であり、卑弥呼が被葬者の最有力候補である。
・橿日宮
現在の香椎神宮。
卑弥呼の後継者となる筑紫の女王の一人として、景行天皇の時代に筑紫の梟帥の称号と八咫の鏡を持つ神夏磯姫(神橿日姫)がいて、その名からはおそらく橿日宮に住んでいたと思われる。
景行天皇の孫の仲哀天皇も橿日宮を拠点としており、代々の筑紫の王宮として用いられていたと考えられる。
魏志では不弥国に比定されることが多く、ここまでは距離が明記されているので郡使が往復したことは確実である。何のために往復したのかと言えば、卑弥呼に会いに行った可能性がある。
・高良宮
筑後一宮。高良大社や高良玉垂宮などからなる複合施設だが、後世の仏教との習合や神仏分離などの影響による。
近隣には卑弥呼もしくはそれに近い人物の墓と言われる祇園山古墳がある。
卑弥呼が筑後出身ならば、高良宮が元宮だったかもしれない。
伊都国までの移動は日帰りではやや厳しいか。
いずれの宮も聖地である山の西の麓にあり、王は太陽を背にして君臨したと考えられる。
これは倭国が太陽信仰をもとにした祭政一致体制であったためである。
その象徴となるのが王位の証である八咫の鏡などの内行花文鏡であり、平原遺跡に見られる鳥居や御柱などと合わせて、3世紀においてすでに神道が成立していたことをうかがわせる。
魏志において卑弥呼が用いたと記録された鬼道も、三種の神器や榊を用いた神道の儀式であったはずである。 >>126
>直線距離なら郷ノ浦ー唐津城=約42.5<
どっちにしても、短里の千里(76.5km位)での、
有効数字1桁概数の 0.5千里から1.5千里の間に入っている。
>半分以上が範囲内なら12000里は459km〜1377kmが範囲内<
12000里という事なら、11500里と12500里の範囲内。
>島内移動距離が方三百里×2なら周辺の島々は含まれない <
一大國の外接正方形は当然周辺の島々も含む。
そして、陳寿はその事が判らないから、国内移動は、方三百里だとして計算する。
だから、島内移動だけの場合があるから、「最大で二辺分」位だ、と推定出来る。
>測量して方三百里なら道なりの距離は関係ない <
一大國は、凸凹の激しいリアス式のような形だから、海岸沿いの平坦な道を選ぶ事になり、
島内移動は、屈曲の多い「道のり距離」になり、
逆に「方三百里の二辺長」に近付いて行く事になる。
また、どっちにしても、合計に「余」が付けられているから、大体の「概数」であり、
細かい計測差の議論は無意味。 >>128
>>>どこにも反論などない件<
>>「南→東」など、数えきれない位の反論をしてある件について・・・。<
>それ、反論じゃないだろ<
元の文の、「どこにも反論などない件」自体が、
何を問題にしているのか?が、全く分からない、ヘンテコな文だろ? >>131
>史料事実ってなんだか知らないで、いい加減なこと言ってない? <
文献にせよ、考古にせよ、伝承などにせよ、その「事実そのもの」だよ。 >>139
でも、結構な数の研究者の目に留まっちゃったんだよね。。。 >>143
でも、インタ−ネット工作が、観光客の対応に、猫の手も借りたい筈の、黄金週間もやまなかったね。 >>144
2013年のあの大規模調査よりも、数年後のあれのせいでしょ。
勿論、2013年のあの調査が畿内説破綻の発端となったことには変わりないけど、、、
やっぱりとどめになったのはあれだね。。。 >>115
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>181
>また、どっちにしても、合計に「余」が付けられているから、大体の「概数」であり、
>細かい計測差の議論は無意味。
その通り。
それを一里が75メートルちょうどになる区間がないから誤りなどというのは、議論がわかっていない証拠。 >>180
もうこの中から卑弥呼の王宮を選ぶということでいいだろう。 >>138
また少し訂正です。
「陳寿は、三国志に、1日「車駕300里」や歩行「1日200里」を記載してる」
と書いたが、
古田第1書で確認したら、3か所はいずれも、
三国志の記載に関しての「裴松之の注説明」文の記載であった。
だから、内容としては陳寿の主張でよいが、
三国志の記載、という点が間違っていた事になった。 >>185
そういえば、この畿内スレpart1が立てられたのもその頃だったね。。。 >>192
肥後熊本は狗奴国だから。
菊池彦の名前も見えるし。 >>141
2013年以前から、桜井市のは、卑弥呼の古墳ではなく、天皇の妹の古墳だと認定されているのにね、、、
しかも、天皇家直近の国家機関からなのに。。。 >>194
狗奴国は肥後の南半部から薩摩、大隅、日向というのがどうだろうか、、、 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
基肄城と大野城と見られる名前がすでにセットで登場する。
狗奴国の菊池彦の城が菊池城なら、古代九州の三大城がすでに揃っていたことになる。 >>196
考古学的に、筑後までは筑紫との結びつきが強いが、薩摩、大隅は交流が薄い。
また、日向は都万神社が投馬国に比定できるので、これも違う。 >>198
畿内に邪馬台国があり卑弥呼がいたと主張する以上、畿内説だよ。
このスレを潔く纒向説にでも改名したら、別だと主張できるだろう。 >>199
間違えた。
肥後までは筑紫との関わりが強い、だ。 >>189
つまり帰納なんかしてなかった
という告白だな >>200
畿内のどこかに邪馬台国があった、という説は
畿内説と呼べないな
その場所の名前をつけるがいい
ここは、畿内説のスレ >>171
>学術調査にも基づいていない <
「南→東」などの嘘つきダマシの通説大和説学者らは、始めから「嘘」をついているサギシである事になるから、
そんな嘘つきに拠る「学術調査」は、
発掘などの事実関係は「半分信頼」しても、
発掘事実への解釈や説明は、殆ど信用出来ない。 帯方郡から海路で20日で、関門海峡を経由して九州北西部の投馬国。。。
帯方郡から海路で10日で、マツラコク、そこから筑紫を経由して、肥後まで1月、、、
すっきりくるのではないかな。 >>203
>畿内のどこかに邪馬台国があった、という説は
>畿内説と呼べないな
(・・?) >>208
豊国は、伊都国など卑弥呼が治めていたことが確実な地域と文化圏が異なるんだよ。
むろん、畿内なんて論外なわけだけど。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>209
逆にいえば、だから5万戸のおおきなまとまりで支配していたのではないだろうかな。 >>211
卑弥呼が豊国も支配していた可能性はもちろんある。
ただし傍国の一覧では大分県は一つしか出てこない。
属州のような立場であったかと思われる。 まったく九州説はレベルが低いな
水銀朱は取れないし
卜骨もほとんど無いじゃないか
倭人伝無視も甚だしいよ ひとの話を聞かないで
ぼくのかんがえたさいきょうの九州説
を演説するだけでは
畿内説に歯が立たないのは当然だ ひとの話を聞かないで
ぼくのかんがえたさいきょうの畿内説
を演説するだけでは
九州説に歯が立たないのは当然だ >>203
>畿内のどこかに邪馬台国があった、という説は
>畿内説と呼べないな
へえ。
それで、畿内説とやらでは、楼閣高い卑弥呼の王宮はどこにあったの? >>220
畿内のどこかに邪馬台国があった、という説は
畿内説と呼べないな >>173
>畿内説と戦争は関係ない <
関係大有りだ。
大和説は、大和天皇家一元列島支配論の皇国史観そのものであり、
だから、「南→東」などのような嘘つきダマシに執拗に執着するのであり、
だから、記紀思想と同じく、「九州倭國=九州王朝説」という史料事実を執拗に否定するのであり、
戦前日本のような天皇独裁支配主義に戻ろうとし、
合わせて、唯我民族独尊の高慢でタカ派になって、
政府やマスコミなどにも煽られて、
戦前やヒトラーと同じように、
近隣諸国民への敵対的憎しみの人種差別の殺戮戦争を志向するようになっている。
>畿内説は皇国史観の万世一系を否定している <
ダメだ。
大和説に固執する点が、大和天皇家一元列島支配論の皇国史観そのものだ。
>そういうプロパガンダを叫んでももう古田の本は売れないだろ<
残念ながら、古田さんの民族平等の平和主義は、もう大半の国民から忘れられてしまっている。
国民の無党派層のかなりの部分も、
政府や読売産経やNHKなどのマスコミや右翼の享楽的な民族優越人種座別主義の宣伝に騙されて、
結局、憲法も改悪して、
近隣諸国とまた殺し合い戦争になるな。
地球上の人類も生物も皆兄弟。
諸行無常。万物流転。栄枯盛衰。盛者必滅。おごる大和説者久しからず。 >>210
「副葬品」ってのがポイントだよ
墓に豪華な副葬品を入れるのは神羅の風習
副葬品が豪華なところは神羅系の渡来人が多い地域 >>222
王宮があった場所だけが
どうして邪馬台国になるんだ?
王宮があるのは邪馬台国の中のどこかだろう? >>226
つまり畿内説とは関係ないね。
ここは畿内説のスレだから
関係ない話は他所でしてくれ。 じゃあ畿内説っていうのは、女王が特定の王宮を持たずに放浪していたり、抽象化された偶像になっているのかな。
アホだな〜。 邪馬台国論争は畿内でほぼ決着しちゃったから、九州説老人のホラ話に付き合う人は確かに減った >>203
>>>200
>畿内のどこかに邪馬台国があった、という説は
>畿内説と呼べないな
>その場所の名前をつけるがいい
>ここは、畿内説のスレ
こいつ、どうすればいい? 九州説ですら、ザラコクが九州説の一部であることを認めざるを得ないのに。
畿内説は、畿内のどこかに特定したら畿内説ではなくなるのか。
閉鎖的な派閥だな。 >>235
とにかく九州説の信者は最低限はテンプレを読むべきだ
勝手に想像した架空のキナイセツを罵ってても
痴呆老人のたわごとでしかない
アホにしか見えない >>236
逆でしょ。
邪馬台国論争はアマチュアの言い争いだからどうでもいいけど
考古学のほうはプロの学問だから、
日本統一過程を間違うとだんだん綻びが大きくなって、旧石器時代みたいなことになるのでは? >>238
九州説の考えはわけわからんな
畿内のどこかが邪馬台国で畿内の別のどこかが狗奴国だったら、そんなの邪馬台国畿内説とは言わんだろ >>241
狗奴国が畿内とは限らないだろ。
わけわからんな。 漠然とした名前からして、まやかし説ですな、 畿内説も九州説も。 @阿波 なんでこのスレは纒向説に名前を改めないんだ?
そもそも、何も見つけられないから畿内説と言って誤魔化しているだけだろ。 >>248
何も見つからないと思ってる情弱さが九州説の本質 >>250
それならその見つかったところの説の名前でなくていいの?
で、何が見つかった? 邪馬台国はどこか、という論争なんだから
邪馬台国=地名で言うのが普通だろ
邪馬台国日本説とか言ったらアホやし 邪馬台国九州説というのはジャンルなんだよ
邪馬台国九州説という説は無いのさ >>202
>つまり帰納なんかしてなかった という告白だな <
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
断定など全く出来ず、
知り得た観察実験計測や史料事実からの帰納的確率的推論をするしかないんだよ。 >>254
>邪馬台国日本説とか言ったらアホやし
邪馬台国畿内説って、それに近いレベル。
しかも、九州北部も支配していたんだろ?
邪馬台国西日本説と言っているのに近いだろ。 >>257
また妄想が暴走する九州説
反論ができなくなると、いつも火病だ >>255
>邪馬台国九州説という説は無いのさ
邪馬台国九州説以外聞いたことなし >>257
相手の言ってることに反論せず、自分の空想と格闘し始めるのは、九州説特有の病気か >>260
九州説教のサティアンで生まれ育ったのか もうこのスレの老人くらいしか
畿内説なんて出さないからね。
畿内説は学者にとっては
忘れたい黒歴史でしかない。 >>181
>11500里と12500里の範囲内
短里の千里(76.5km位)の0.5千里は38.25km、1里38.25m
短里の千里(76.5km位)の1.5千里は114.75km、1里114.75m
11500里は短里(76.5m位)なら879.75km、1里73.3125m
12500里は短里(76.5m位)なら956.25km、1里79.6875m
測量精度がまるで違う
屈曲の多い「道のり距離」を半周したら「方三百里の二辺長」より長くなる
大体の「概数」なら測量はしていない
細かい計測差の議論は無意味なら倭人伝で短里(76.5m位)を根拠にするのは無意味 >>189
一里が75メートルという度量衡単位で書かれているという根拠がない >>267
というか、それを算出した形跡すら無いという・・・ >>193
確かに、、、、
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>266
どっちにしても畿内には届かないから、心配するな。 >>271
倭人伝の里が測量した里数ではないなら
12000里という距離自体が机上の里数ということになる >>188
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 魏使は伊都国までは行ってるから大体の距離はわかるだろ どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>276
それが記録された、という根拠は何もないが >>187
しっ。だめだよ、それだけは。。。
発狂者が増えてしまうもの。 >>186
ここで騙しの宣伝しているのは、
奈良の観光関係の組合員や、公務員じゃないのかもね。
それとも、専門の下請け業者なのかな、、 >>174
ヘイトスピーチの使い方が間違っている
前原町から道なり7.65kmの地点と春日とは近接しない テンプレートを貼り付けている狂った老人は、どうして魏志倭人伝に書いてあることを、無視するのだろうか、、、 >>279
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>272
測量したけど、目測とかも含めてのことであり、誤差があるのは当たり前。 >>282
そうだね。。。。
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 >>284
そんな、組織だった工作ではないと思うよ。
書いている内容が、狂人のように錯乱しているからね、、、、 >>286
仕方なさすぎるよ。。
テンプレートを貼り付けている狂った老人は、魏志倭人伝が嫌いなのだから。。。
なぜなら、ちゃんと読めば、邪馬台国と奈良が関係ないことがわかるのだもの、、、 >>289
>測量したけど
実際の距離から測量したことが確認できない 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 九州説はもうウソをつくしか着ない説に抵抗するすべが無いんだよ
悲惨だね 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 最終的に九州説は
泣きわめきながら邪馬台国は九州だと連呼するだけになるだろう 今日も畿内説の嘘デタラメに騙されるアホはいるかな? >>299
嘘をつくしかない畿内説
よくわかってんじゃん テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>295
概ねあっているんだから、目測かも知れないけど測ったんだろう。
畿内説は都合の悪い情報を全て誤情報にしたがるな。
敗者の悪あがきだよ。 >>308
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>308
岡上は畿内説にしておくのはもったいないな。 >>311
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上だと勘違いしているふしがあるね。。。
発狂しているからかな。。。。 論破された奴が嫌いなスレ主
岡上、ザラコク、キウスもろもろ
幼いの^ ^^ ^^ ^^ ^^ ^
荒らすしか、能が無い スレ主
テンプレで反抗したら、益々馬鹿をさらけ出す 論破された奴が嫌いなスレ主
岡上、ザラコク、キウスもろもろ
幼いの^ ^^ ^^ ^^ ^^ ^
荒らすしか、能が無い スレ主
テンプレで反抗したら、益々馬鹿をさらけ出す 論破された奴が嫌いなスレ主
岡上、ザラコク、キウスもろもろ
幼いの^ ^^ ^^ ^^ ^^ ^
荒らすしか、能が無い スレ主
テンプレで反抗したら、益々馬鹿をさらけ出す >>310
壱岐縦横最長 1里約53.3m
対馬南端〜壱岐北端 約50km
壱岐南端〜唐津城 約40km
なので1里76.5mとは概ね合っていない
東夷伝序文冒頭の『尚書』禹貢編のような九服を中心とした机上の平面上の地理的世界観で書かれていたら
確認できない部分の里数がどれほどの距離なのかはわからない 女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。 論破された奴が嫌いなスレ主
岡上、ザラコク、キウスもろもろ
幼いの^ ^^ ^^ ^^ ^^
荒らすしか、能が無い スレ主
テンプレで反抗したら、益々馬鹿をさらけ出す 九州北部は女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)には含まれないんだね。
当然倭国にも含まれない。
明治時代まで北海道や沖縄が日本に含まれなかったのと同じ。
畿内の倭国から見たら、朝鮮半島と同じ外国だったんだろうね。 魏志倭人伝はその名の通り倭人について書かれたもの。
倭国とは、倭人の国。
九州北部は倭国への通り道に過ぎない。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 九州説を唱える輩は、
他の地域の歴史を奪うという、一番してはいけないことを自覚しよう。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 >>326
だいたいわかってきたぞ
こいつ、1にこっぴどく論破られて恨んでる奴だな
>>335
九州説が扶桑国の歴史を奪うわけないだろ テンプレもいい加減、ヤマトの地が女王国に征服された結果、
卑弥呼がヤマト入りし都を置いたことを認めないといけないよ。 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。
伊勢遺跡の水の祭祀。夜に行われていた説もある。 >>332
>後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
平安時代がどうかしたのか? 纒向や畿内に邪馬台国と 違う集合が体があったで良い
全国各地、三世紀に全国各地にひとは住んでたしそれなりの秩序もあったであろう
邪馬台国論争は三世紀の日本を語る論争では無い
畿内説はさんの畿内の様子を語ってるだけ
基本は倭人伝 /04/09(日) 21:20:35.54 .net AAS
糞ッタレ。悔しいぜ。
畜生め。
吉野ケ里遺跡は『国の特別史跡』であるばかりか、『日本名城100選』にも認定されているのかよ。
あの纏向遺跡の柵の囲いがもっと巨大でもっと魏志倭人伝に書かれてあった卑弥呼の城に相応しければなあ・・・・
これでは邪馬台国の所在地論争に国家の判定が下されてしまったようなものではないか。
そして、その吉野ケ里遺跡からの出土品は、『国』が指定した重要文化財が100点近くもあるのだなぁ。
平原遺跡から出土した数々の出土品は、どれもこれも『国宝』なのかよ。
畜生め。
魏志倭人伝に書かれてあった『鉄鏃』や『銅鏡』も『国宝』なのかよ。
あぁ、うらやましい。
一方、我ら奈良県民と畿内説者自慢の纏向の出土品は・・・・・・・
『市』の指定文化財が数点では全く太刀打ちができないなぁ・・・・・
畜生め。 >>335
1〜3世紀の日本で歴史があるのは九州だけだ
九州以外の地域は有史以前だから無い歴史は奪えない。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。
クニ、倭国の始まりの可能性もあるね。
問題は倭国の王が何処にいたかだな。 倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 965: 日本@名無史さん
2017/04/09(日) 22:10:31.19 .net AAS
俺は論破され続けて疲れた。
↓
❓❓❓ 今日はアンチが多いな❓❓❓
. /テンプレ\ ❓❓❓ アンチの正論に
/ \ 抵抗するのはやっぱり
. / (゚) (゚) \ 無理だな
| )●( |
. \ 廿 / もう寝たいな
. ノ \ ❓❓❓
👆「さあ、元気出して生きま賞」 大和の地が卑弥呼側の勢力に制圧された後(2世紀後半以降)の、
狗奴国の版図は、河内、和泉。
卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。 >>288
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 纒向で一番多いのは在来系土器。
外来系土器で一番多いのは伊勢尾張。次は吉備。この二地域が大部分。
九州東部(北部ではないw)の土器は少量。
記紀等でヤマトの地は、一見九州勢力に征圧された(神武東征など)ように書かれているが、考古学的事実はそうではない。
事実は、伊勢尾張の西征、吉備東征だろう。卑弥呼共立で伊勢尾張の勢力と吉備が手を組んだんだろう。
伊勢尾張、吉備両地域とも下戸遺伝子が色濃く分布するエリア。
倭国大乱の名の通り、ヤマト征圧は倭人同士の内乱の一場面なんだろうね。
伊勢尾張、瀬戸内海の吉備に挟まれた地域。
河内やヤマト。ここが卑弥呼と対立する卑弥弓呼の支配域。狗奴国。
神武東征の逸話にも残るように、ヤマトへの侵攻は瀬戸内海側からは紀伊半島へ迂回。
すなわち狗奴国の本拠地河内を避けたんだろうね。
もう一つ、ヤマト征圧には伊勢尾張の勢力が大きな役割を果たしたと思われる(むしろ主力)が、記紀では神武にのみ焦点が当てられている。 >>214
「南→東」などの嘘吐きダマシのように、
史料事実や史料実態を読まずに否定抹殺して、
筆者が言いたい事を考えないで、
自分の考えた最強の大和説 を演説するだけでは
史料事実に拠った九州説に歯が立たないのは当然だな。 宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 >>219
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つきダマシのような、
こういう思考停止が大和説なんだな。 宮中式内社は興味深い。
宮中には、どんな歴史が伝承されているのか‥
詳しい人いないかな。 >>236
邪馬壹國論争は筑紫でほぼ決着しちゃったから、
大和説老人のホラ話に賛成する人は確かに減った。 >>361
決着ついてるのならいちいちレスすんなよ
このスレにも来る必要ないだろうから消えろ 倭→大倭→大和、どれもヤマトとは読めない。
大阪湾から見て河の内側にある地がカワチ(河内)
大阪湾から見て山の向こう側(外)にある地が、ヤマト(山外)
これが本来のヤマトの意味じゃないかな。
記紀でもヤマトの名の名付けのエピソードが幾つかあるのは、ヤマトの本来の意味を隠したかったからかもしれない。
ヤマトの本来の意味が明らかになれば、名付けの主体が何処にいたかも明白になるからね。
つまり、大阪湾の倭人。 ここは畿内説スレ。
九州説はスレ違い。
さらに九州北部は倭国でもないので、邪馬台国論争にすら参加する資格なし。 九州説の輩が嫌がらせするので、
魏志倭人伝当時の状況を明らかにする議論ができないんだよ。
日本海側の勢力とか、朝鮮半島における倭人の活動etc解明しないといけないことが山程あるんだよ。
邪魔するな。 >>239
>とにかく九州説の信者は最低限はテンプレを読むべきだ<
2回も読んで、一つずつ反論も書いが、殆ど返事がなかったようだし、
「南→東」などの 嘘吐きダマシは全く変わっていないから、
もう読まない。
読んで欲しければ、一つずつ書き出してみな。
>勝手に想像した架空のキナイセツを罵ってても 痴呆老人のたわごとでしかない
アホにしか見えない<
都合の良い質問だけ設定して返事を書き、
都合の悪い話は黙殺素通りをする痴呆老人のたわごとばかりだから、
アホにしか見えない。
、 陶塤面白いねぇ。
宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。
弥生時代前期。銅鐸より時代は古く、水稲が広がっていく時期と被る。
長江河口辺りから、大陸で大きな戦乱がある度に渡来があったんだろうね。 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。卜骨も出てるし、倭人の活動範囲だろうね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、中国本土からだけでなく日本列島からも鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない。 淡路島の鉄器製造跡(舟木、五斗長垣内遺跡)。
淡路島で利用された鉄は、
出雲→播磨東部、摂津西部→淡路島のルートで運ばれたことが分かっている。
製鉄跡は見つかっていないので、インゴットの形態で淡路島に運ばれたのだろう。
淡路島の鉄器製造は、2世紀末、卑弥呼の共立、纒向建設開始と時期を同じくして行われなくなる。
広島の小丸遺跡。2世紀末〜3世紀の製鉄跡が見つかっている。たたら製鉄の始まりの可能性がある。
重要なのは、吉備ではインゴットからの鉄器製造ではなく、砂鉄からの製鉄が始まったこと。
ひょっとしたら、吉備はインゴットの入手ができない状況にあった可能性がある。
吉備の影響力が強い纒向。鉄貧乏で有名。
少し時代は下るが、鉄器製造が行われていた彦根の稲部遺跡。在来系の土器が主で在来系の勢力の集落跡と考えられる。
稲部遺跡から川を挟んで3キロ南の斗西遺跡。
吉備など纒向と似た土器構成。女王国の前線だった可能性がある。
吉備の影響力が強くなったエリアは、鉄のインゴットの入手が困難になった可能性が考えられる。 【筑紫】
筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 筑紫日向伊都国の天孫族が保有していたはずの八咫の鏡を、神武は持っていなかった。
饒速日との対面では天の羽羽矢を見せて身分を明かした。
では倭国の王権の証とされた八咫の鏡は誰が持っていたのか?
3世紀に卑弥呼とともに平原遺跡に何枚かが副葬された。
壹與は肥前河上神社の祭神となった。
4世紀には筑紫の女王である神夏磯姫が八咫の鏡を所有していた。
その孫の田油津姫は筑後から筑豊を支配していた。
彼らは肥国から進出して筑紫を支配していたのだろう。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 【鬼道と神道】
伊都国にあたる平原遺跡からは最大の銅鏡である八咫の鏡5枚を含む史上最多の40枚の銅鏡と、太刀と約2000個の玉、鉄器などが出土しており、三種の神器に相当する副葬品(鏡、剣、玉)が揃って出土している。
3世紀で最大の倭国の王位を象徴する八咫の鏡を用いた国家規模の祭祀に倭国の女王である卑弥呼が関わらなかったわけはない。
周囲には鳥居や御柱の跡も残っており、古代神道の形式が整っていたことがわかる。
これは3世紀においてすでに倭国には神道があったことを意味している。
ならば卑弥呼の用いた鬼道とは、中国人から見た神道そのものだったはず。
邪馬壹国は鬼道などの言葉の印象が強いため後進国のように思われがちだが、中国人から見た鬼道とは、神道の儀式を指していたと考えられる。
そして、その祭祀は畿内ではなく伊都で行われていた。
平原遺跡から出土した八咫の鏡の形式である内行花文鏡は、もともと紀元前から博多湾岸では多く出土し、漢の皇帝から王侯に冊封された証である威信材として用いられていたと考えられる。
内行花文鏡の文様は太陽を形取っていることから、天つ神としての太陽信仰の象徴として最適であったと考えられる。
漢の滅亡後に作られた平原遺跡では八咫の鏡を含めほとんどが国産の鏡となっており、漢から下賜された鏡よりも大きな内行花文鏡を完成させることで王権の象徴となったと考えられる。
後世においては、八咫の鏡を継承することが天皇位の証とされ、今日でも伊勢神宮と皇居で1枚ずつ祭られている。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 九州説を唱える輩は、
他の地域の歴史を奪うという、一番してはいけないことを犯している。
ヤマトの歴史、倭人の歴史、伊勢尾張や吉備の歴史、大阪湾の歴史etc。
畿内説のスレなのに、そのルールすら守らず嫌がらせ以外に何ものでもない。 >世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >>378
盗まれた神話という本を読んでごらん。
筑紫の歴史を盗んだのは畿内政権だよ。 >>380
筑紫こそ倭国の中心だよ。
後漢書でも読め。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 委奴国は伊都国。
倭国とは何の関係もない。
関係は少しあるか。
元々倭人の国ではなかったが、畿内の倭国から1世紀に倭人を王として迎え入れたんだね。 >>376
畿内説「そんなの関係ないし!畿内しかありえないし!」
w >>383
委奴国は倭国の極南界
→委奴国と倭国は別の国と言っている。
倭国のある本州から見たら、九州北部は南の端。
いい加減にしろよな。
他の地域の歴史を奪うな。
狗邪韓国が倭国?韓国と書いてあるだろ。 九州説を唱える輩は、本当に日本人か?
日本の歴史、倭国の歴史を蔑ろにし捏造するのはいい加減にしろよな。 記紀に書いてあるでしょ。神武「東征」 ×東遷
任那を必死に否定する畿内説の輩は
日本人ですか?と問われるとダンマリ
せめて日本国籍を取ってから日本史を語ってくださいねw 糸島説は半島の4分の1の5万戸が糸島と同じ民族で
九州中南部と敵対し本州とは別の民族という説だな 銅鐸が出土するのが倭人の風習である卜骨が出る本州側 >>386
>倭国のある本州から見たら、九州北部は南の端。
>他の地域の歴史を奪うな。
>狗邪韓国が倭国?韓国と書いてあるだろ。
あなたの「本州」はどこですか?
あなたはどこの国の人?
普通の日本人は、九州は本州の西と捉えるんですよ。 >>391
魏志倭人伝の中に、鏡や矛は登場しても、銅鐸は登場しないよ。 関東では、九州は南だから北部九州も暖かいと思ってる人多いよ 緯度は福岡と和歌山の南部が同じくらい
瀬戸内海も畿内側はやや北上する
半島側から見ると日本海沿岸は東北に伸びている もう魏使が来た頃は銅鐸を作ってないからね
糸島も広形銅矛はないよ
博多湾沿岸もわずか、壱岐も少ない 纒向唯一の出土金属器が銅鐸片。
>>397
ということは。 銅矛は中広形銅矛からは刃部に刃をつけなくなり,
ソケット部に鋳造時の中子が詰まったままで柄も着装しなくなったね 銅矛も無い奈良湖のほとりの倉庫群
倭国大乱も関係なく平和だのーw 濊伝に作矛長三丈或數人共持之能歩戦
濊のご先祖様、お守りくだゴスミダという祭祀だろうね 魏志倭人伝に名前すら登場しない畿内やら纒向やらが何を偉そうに ソーダね
数人がかりで重たいのをぶん回してダース単位で敵をぶん倒す戦法だがり 纒向に武器がないのは、4世紀に突然纒向が消失することと関係しているんじゃないかな。
民が一斉に何処かに行くのは、戦くらいだろう。武器を全て携え出兵。
もう一つ民の反乱を抑える意味で、武器は別の所に保管していた可能性もある。
物ー部、の由来が気になるところ。武器の管理。 畿内説は年代捏造の常習犯
どんなものでも3世紀と言い張るからね
そのうち鉄砲や新幹線も3世紀と言いだしかねない 奈良盆地なんて、周辺勢力の草刈り場だったろう
青銅器すら持たない纒向の未開の集団は、摂津や東海の豪族の奴隷みたいなものだったろうね それどころか、魏志倭人伝の行程は九州に着くなり上陸して歩き回っており、日本海や瀬戸内海を通じて畿内へ行くそぶりなど全く見せていない 崇神が鉄器を普及させなかったのは本当に賢明だったよな。
これで鉄器がいくつか出土していたら大混乱してたところだよ。 >>404
いや、柄つけてないから全体で80cmくらい >>409
目的地が畿内なら九州を素通りして瀬戸内海や畿内の描写がメインになるよね。
九州にしても奴国の工房群や密集する住居群のことは全く触れられていないし
考古学的にも楽浪土器や硯が糸島に集中しているから
魏使は伊都に駐して帰っていったことが明白ですね。 >>414
卜骨とか水銀朱とか、宮室とか径百余歩の墓とか
畿内の描写がメインだよな
中継点の伊都国のことは地方支配の制度として
ちょっとだけ触れてる >>240
>逆でしょ。 邪馬台国論争はアマチュアの言い争いだからどうでもいいけど
考古学のほうはプロの学問だから、<
プロアマなんて、あんまり意味がない、と思いますよ。
無限に存在する不可知部分に対して、人間誰しも知り得る量は、
(プロアマでの量の差異があったとしても)微々たるものであり、
プロが知らない事をアマチュアが知っている、という事など、
幾らでも有り得ます。
要は、プロアマが助け合って、不可知部分を切り開いて行けばいいんですよ。
>日本統一過程を間違うと<
「日本統一過程」という条件設定や枠の決めつけが、
そもそも、何らかの思想宗教的な「結論先にありき」であり、
失敗も元なんだろう、と思いますよ。
列島は、始めから南洋や大陸からの流民の集合であったんでしょう。
>だんだん綻びが大きくなって、旧石器時代みたいなことになるのでは?<
思想宗教的な「結論先にありき」が、間違いの根本的原因でしょうね。 >>241
>九州説の考えはわけわからんな
畿内のどこかが邪馬台国で畿内の別のどこかが狗奴国だったら、
そんなの邪馬台国畿内説とは言わんだろ <
「南≠東」だし、「邪馬台国は実在しない」から、
始めから捏造だし、(旧石器事件と同じように)×ですよ。 >>242
>つまり本当は九州説なんて無いんだよね <
99.5%4位以上、九州でしょうね。 >>245
>狗奴国が畿内とは限らないだろ。 わけわからんな。<
狗奴國も、99.5%以上九州でしょうね。
拘奴國は、後漢書の記載自体に信頼性が下がりますが。 >>249
>畿内説だからだろ<
そんな言い方をすれば、「結論先にありき」のサギになりますよ。 >>250
>何も見つからないと思ってる情弱さが九州説の本質<
纏向は、「南≠東」ですから、始めから0.5%以下の確率しかありません。
僅かにある確率は、「九州の倭国の阿毎氏の別種の同族であった」という事だけ。 >>420
畿内説が畿内説と名乗る理由が、なんで「結論先にありき」のサギなんだ?
九州説の考えはわけわからんな >>253
>やっぱり九州説は感覚が、おかしい<
やっぱり、「南→東」などの嘘吐きダマシをする大和説者は、感覚がおかしい。 >>255
>邪馬台国九州説というのはジャンルなんだよ<
「邪馬台国」なんて史料事実になく、思想宗教家らのでっち上げですよ。
>邪馬台国九州説という説は無いのさ<
邪馬壹國九州説の確率は、99.5%以上。 >>258
>でも、帰納はしなかったんだろ?<
文献や考古史料からの帰納敵確率的推論をしなければ、
九州が99.5%以上の確率だ、
なんて言える訳がないよ。 >>259
>また妄想が暴走する九州説 反論ができなくなると、いつも火病だ<
また「南→東」などの思想宗教的な妄想断定が暴走する、嘘つきダマシの大和説。
反論ができなくなると、いつも「結論先にありき」の循環論法のサギだ。 >>261
相手の言ってることに反論せずに知らん振りし、
自分の「思想宗教的な結論先にありきの分裂幻覚の妄想」と格闘し始めるのが、
大和説特有の病気か。 >>263
大和説者は、「大和説教という宗教のサティアンで生まれ育った」のか ?。 ザラコクは朝からオウム返しでウソつき回ってるのか
迷惑なボケ老人だな >>266
>>11500里と12500里の範囲内 <
>短里の千里(76.5km位)の0.5千里は38.25km、1里38.25m
短里の千里(76.5km位)の1.5千里は114.75km、1里114.75m
11500里は短里(76.5m位)なら879.75km、1里73.3125m
12500里は短里(76.5m位)なら956.25km、1里79.6875m 測量精度がまるで違う<
大小の確率を持った近似値を10個位合計したら、その合計の確率は、
情報量が多くなったのだから、大きく上がる事もあれば、少し下がる事も有り得る。
>屈曲の多い「道のり距離」を半周したら「方三百里の二辺長」より長くなる<
以前に、「迂回か直行かの選択」の分かれ道を人類の常識で考えたら、
道のり距離は直線距離の半円周分(1.57倍位)か、直角に等辺三角形の二辺分(1.414倍位)かであり、
1.5倍位を超えるようでは、障害物を乗り越えて行ってしまう感じであり、
だから、道のり距離を採用すれば、直線距離の1.25倍平均の距離増加になるようだ、
という事になった。
>大体の「概数」なら測量はしていない <
一寸千里も三角測量も記里車も歩測も「大体の概数」。
>細かい計測差の議論は無意味なら倭人伝で短里(76.5m位)を根拠にするのは無意味 <
始めから、有効数字1桁程度の概数記載。 >>267
>一里が75メートルという度量衡単位で書かれているという根拠がない <
魏志に書かれた里数は、
一里が50〜100メートルという度量衡で書かれた、という確率は極めて高いが、
一里が400〜450メートルという度量衡で書かれた、という確率は極めて低くて殆ど0%。 >>415
地方制度の、という部分が根拠のない妄想というか、願望だね。 >>267
>>>189
>一里が75メートルという度量衡単位で書かれているという根拠がない
魏志倭人伝がそのように書かれていますよ。
実際の地図と比べてください。 具体的なことって・・・魏志東夷伝がそのまんま具体的な証拠だろ
何言ってんのこいつ だから魏志東夷伝がまんま結論だろ。
実際の地図との比較が北部九州スレでも計算されてるしここにも引用されてた。
一度出た話を畿内説一人のためにまた大量にコピペしたら他の人の迷惑になるだろ。 >>435
証拠を提示されても理解できないゆとりは引っ込んでいろよ。 >>439-441
一言も論じられないクズさん、連投乙
実力もないのに人並みにプライド持っちゃいけないよ 畿内説
ベニバナ染色やバジル漢方の
先進的な技術が渡来しているのに
鉄が無いな 鉄の渡来は拒んだのかな??
不思議だよな ベニバナの渡来は4 - 5世紀ごろだから
ベニバナの花粉が出たら4 - 5世紀以後の建造物確定。 紅藍花は,いわゆる〈張騫(ちようけん)もの〉で西域から中国に将来されたベニバナ
張 騫(ちょう けん、? - 紀元前114年)
世界大百科事典 第2版の解説【ベニバナ(紅花) safflower】
西南アジア原産のキク科の二年草(イラスト)。サフラワーともいう。古くから南ヨーロッパ〜中近東,インド,中国で栽培された。日本へは推古天皇の時代(6世紀末から7世紀初め)に朝鮮半島を経て渡来したといわれる。 >>445
ベニバナの渡来が4 - 5世紀ごろって誰が決めたの?
w >>269
>一里が75メートルという度量衡単位で書かれているという根拠がない
>というか、それを算出した形跡すら無いという・・・<
7000余里と記録し、3か所の1000余里や、方四百余里や、方三百里や、
陸行五百里や、二つの百里を記録した、という事が「算出した形跡」。
そして、「1里=400〜450m」というメジャーでは、計測した形跡は全くない。 >>272
>倭人伝の里が測量した里数ではないなら
12000里という距離自体が机上の里数ということになる <
倭人伝の里が測量した里数であるから、
12000里という距離自体も机上の合計した里数ということになる。 >>274
>テンプレに書いてあることだ <
スレ主のテンプレは、始めから「南→東」などの嘘つきダマシをしているから、
信頼性は全くない、ということだ 。 魏の建国が220年
魏が朝鮮半島に進出したのが238年
魏は265年に滅亡
魏は楽浪帯方以外の東夷を支配下においたこともなければ、
魏の尺度が東夷世界に普及するのに30年弱は短すぎる。 >>280
>九州説、中身ないなー <
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
相変わらず、中身が全くないなー。 >>281
>それが記録された、という根拠は何もないが <
7000余里と記録し、3か所の1000余里や、方四百余里や、方三百里や、
陸行五百里や、二つの百里を記録した、という事が「記録した形跡」。
そして、「1里=400〜450m」というメジャーでは、記録した形跡は全くない。 >>295
>>測量したけど <
>実際の距離から測量したことが確認できない <
7000余里と記録し、3か所の1000余里や、方四百余里や、方三百里や、
陸行五百里や、二つの百里を記録した、という事が「実際の距離から測量した根拠」。
そして、「1里=400〜450m」というメジャーでは、実際の距離から測量した形跡は、
全くない。 >>299
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、
もうウソをつくしか九州説に抵抗するすべが無いんだよ。
悲惨だね。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>458
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>303
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
最終的には泣きわめきながら「邪馬壹國は大和だ」と連呼するだけになるだろう。 いくら実測と違っても1里75mを固持しなきゃならん九州説は
終わったな 奈良湖の中心で「ドジョウが捕れたぞ」と叫ぶ憐れた狂老人畿内厨 九州説の馬鹿爺さんは唐古鍵に住んでたのが半魚人だとか思ってるんだろうな。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 >>476
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>478
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上だと勘違いしているふしがあるね。。。
発狂しているからかな。。。。 発狂してるのは岡上
その狂人を頭いいなんていうのは本人 >>318
>壱岐縦横最長 1里約53.3m<
「方三百里」は周辺島々をも外接する正方形だから、
一大國は、壱岐島よりも、1里約53.3mよりも、もっと長い筈であり、
1里約53.3mでも、76.5の有効数字1桁概数内になっている。
>対馬南端〜壱岐北端 約50km<
これも、76.5も有効数字1桁概数範囲内に入っているし、
対馬出航は、おそらく巌原港。
>壱岐南端〜唐津城 約40km なので1里76.5mとは概ね合っていない<
これも、実際の渡海ルートは、
出立港は、壱岐南端ではなく、おそらく郷ノ浦であり、
島伝いして呼子から海岸伝いであり、
40kmというよりは50kmに近い筈であり、
40kmでも、76.5の有効数字1桁概数の範囲内。
>東夷伝序文冒頭の『尚書』禹貢編のような九服を中心とした机上の平面上の地理的世界観で書かれていたら
確認できない部分の里数がどれほどの距離なのかはわからない <
洛陽とそれほどの緯度差がない事は、一寸千里で直ぐに判り、
十分確認出来る。 >>320
>ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。<
隠れてこっそり書いても無駄ね。
「南≠東」だから、始めから×ね。 >>483
つまり測定なんてしてないってことだね。 盆地中央部に遺跡があれば、その時代には奈良湖なんてないってこと
さあ、奈良県遺跡地図で確認してみようぜ >>485
>>>483
>つまり測定なんてしてないってことだね。
測定していなかったら数字が記載されるわけがない。
目測かもしれないけどね。 >>494
>湖の中に遺跡や古墳が作られる頃まで?
奈良県の遺跡は奈良湖を囲むように配置されるんだよ。
だから8世紀に平城京を作るスペースがあった。 奈良湖なんて奈良盆地の地理を知らないアホの妄言だろ >>504
九州説がまた無知をさらけ出している
w
w
w >>507
計算したら平均が75メートルだったんでしょ。 奈良湖推定図
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg 九州説になるための条件
・日本史、考古学の知識が皆無であること
・自分自身を天才だと信じることができる傲慢さを持っていること
・平気で嘘をつけるよう、良心を持ち合わせていないこと 九州説の人間には歴史にとって最も重要なこと
いつの時代か
を考える習慣がない >>516
そうやって九州爺さんはゴミ情報を拾い喰いする 恒常的な湖というより、おそらく亀の瀬の崩落状況によって常に拡大縮小を繰り返していた湖沼、湿地帯だった。
弥生時代に神武以前のどこかの勢力が掘削を始めたのだろう。 まあググって出てくるなんて一般の地図にも載ってるような遺跡だけだからなw
自分の使ってる情報ツールを万能に思い込むのは情弱
どの二千年に奈良湖があったなんて言ってるのは地質学者じゃなくて
九州説の頭のおかしい老人やそれで飯食ってる詐欺師だけ >>515
それ有名どころだけだから
チェリーピックの最たるものだぞ >>521 訂正
?
>どの二千年に奈良湖があったなんて言ってるのは地質学者じゃなくて
>九州説の頭のおかしい老人やそれで飯食ってる詐欺師だけ
○
>どの道二千年前に奈良湖があったなんて言ってるのは地質学者じゃなくて
>九州説の頭のおかしい老人やそれで飯食ってる詐欺師だけ まあ、京奈和道で盆地中央部付近を調査したのに
広範囲に及ぶはずの水成堆積土層が発見されなかったからなw >>527
国土地理院によると、奈良盆地が干上がってくるのは平城京の建設開始の直前ということか。
こりゃ勝負あったな。 >>527
リンク先の縄文時代の奈良湖は奈良期には消えてるわけだが
縄文・奈良・江戸・現代と大雑把に分けたもので
恣意的に邪馬台国の時代あたりに話を持ってく九州説のいつもの詐欺 >>529
奈良期には消えてるわけだが
710年平城京
そりゃそーだw >>729
藤原京は耳成山を挟んではるか南へ回避
平城京ははるか北へ回避
古墳も見事に周囲をぐるりと取り囲む
中に入るのは5世末から6世紀の最終末期古墳のみ。 奈良時代に消えかかり始めたなら、弥生時代・古墳時代は沼の中だね
中心は明日香村のあたり? >>537
奈良湖の周辺の飛鳥の田舎だけのローカル歴史だよ。
それで日本の歴史を説明できるわけではない。 >>69
>大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ソースは?
距離表S22ってなんだそりゃ テンプレは素人が聞きかじった情報をコピペして、
妄想で繋げたものだから。
生温かく見守ってやろうぜw >>540
下永東方も東城も縄文の遺構か遺物があるんだな
奈良湖信者憤死 >>536
「消えかかり」を勝手に「消えかかりはじめ」に変換してるぞ 「消えかかり」も「消えかかりはじめ」もほぼ一緒じゃね >>431
>大小の確率を持った近似値を
約40〜50kmは76.5kmの近似値ではない
>直線距離の1.25倍平均の距離増加
それはリアス式のような形の海岸線沿いの屈曲の多い道じゃない
>一寸千里も三角測量も記里車も歩測も「大体の概数」。
76.5mが40〜55mは三角測量から得られる大体の概数ではない
現代人の歩測は100mの距離で5%以内の誤差
>始めから、有効数字1桁程度
始めに短里ありき >>549
>文科省の地方研究所
無知にもほどがある 今でも池だらけのところあるじゃん。
徐々に何百年もかけて変化したんでしょ。
どちらにしてもろくな土地ではない。 >>547
イメージは
「消えかかり」=もう消える寸前
「消えかかり始め」=消え始め >下永東方
その調査報告書持ってる(多分押入れの中w)
現在の河川のすぐ近くだが遺跡があって乾燥化は今と変わらんぐらいで
むしろ驚いたのを記憶してる
もっとも大きな環濠集落とか建造物の痕跡じゃなくて流路とか土器の欠片だが
弥生末期の奈良湖なんて信じてる九州説信者にかかれば
「土器は船の上から投げ入れた」
トレンチで植物の根とかの痕跡があっても
「後代に上から伸びてきた」
とか言われるんだがw >>551
池が多いのは上にも出てた、小雨という気候と
郡山周辺では藩が金魚の養殖を奨励したから >>555
>弥生末期の奈良湖なんて信じてる九州説信者にかかれば
国家にオーソライズされちゃったからw >>449
>「算出した形跡」
計算してみたら誤差が大きすぎる
>「1里=400〜450m」というメジャーでは、計測した形跡は全くない。
畿内説は測量したとは考えていない >>450
>倭人伝の里が測量した里数であるから、
学問で押売りは通用しない >>552
別に橿考研が「奈良湖はなかった」なんて大々的に発表したわけでも
誰かが論文にまとめてる訳でもないからな
現にここにも知らないで恥をかいたバカがいるんだから
>>553
実際に現地を掘ってる機関の見解を否定とかw >藩が金魚の養殖を奨励したから
池を作りすぎw
どんだけ金魚を育てまくるんだ
供給過多で全員倒産するぞwww 九州説になるための条件
・都合が悪い事実は目に入れたり、耳に入れたりしない、超限定的視野・聴覚 >>563
郡山へ行ってみろよ
出くわす池はほとんど金魚の養殖池 じゃあ簡単に九州説のアホ共の妄言の矛盾を見つける方法をw
じゃあ・・・
「標高○m以下は古墳時代が始まるまで湖
人による乾燥化の巨大土木工事、あるいは何らかの現象(自然ダムの崩壊等)により
その標高以下の新たな平野を獲得して古墳時代が始まった」
・・・という与太話を信じたとしてだw
だったらその標高○m以下の土地には古墳時代以後に
古墳やその他遺跡や生活の痕跡が出現してなきゃならんお話だが
そんな境界線のようなものは存在しないw
まあ実際ボウリング調査なりで弥生末期にそんな巨大湖が存在してた痕跡−証拠なんてでてきやしない
例によって適当な資料のつまみ食いでこしらえた九州説の典型的与太話 池がたくさんあったから金魚を育てたんだろ。
金魚のために池を掘ったわけではない。 工エエェェ(´д`)ェェエエ工
郡山あたりの金魚の養殖池を古代奈良湖の痕跡とか思ってるのか?
九州説のアホジジイ共ってwww 湿原は徐々に陸地化するんだよ。
理科で習わなかったのかな?
ゆとり世代かな? >>567
自分の意見が歴史的事実よりも正しいてかw
金魚の養殖池の小規模なものは田んぼを転用したもの
だいたい郡山周辺は標高が高く、奈良湖があったとしても水面下に沈みはしない >>562
>別に橿考研が「奈良湖はなかった」なんて大々的に発表したわけでも
つ『 悪魔の証明 』
「〜はない」「〜がなかった」なんて証明はできんよ
アホな無茶振りは止めなさいボケジジイ >>571
痕跡を見つけることができない=あったという根拠がない
ということは確認できているというのが厳然とした事実 >>483
>53.3mでも、76.5の有効数字1桁概数内になっている。
23.2mの誤差なら12000里で278.4kmの誤差
>島伝いして呼子から海岸伝いであり、 40kmというよりは50kmに近い筈であり
海岸伝いの距離を小刻みに三角測量したとするには76.5kmとの誤差が大きすぎる
実際には距離が違う3海峡各1000里だから測量していない
>洛陽とそれほどの緯度差がない事は、一寸千里で直ぐに判り
緯度差がない事が直ぐに判るなら福岡が會稽東冶の東ではないことは直ぐに判る >>569
>湿原は徐々に陸地化するんだよ。
>理科で習わなかったのかな?
はて?「理科」でそんな湿原の乾燥化の変遷とかでてきたっけ?
授業でどういう風に説明を受けたんだい?
思い出せないんだが教えてくれんかね?
まあ日本の義務教育でないのなら要らんがwww 大和郡山市における金魚養殖の由来は、
享保9年(1724年)に柳澤吉里候が甲斐の国(山梨県)から
大和郡山へ入部のときに始まると伝えられています。
幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、
職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。
https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kingyo/production/001197.html 確かに同じような地名だよ
大和 郡山と福島県 郡山。
伊達郡というところには飯野というところがあって、
そこで機織り。
長田というところもある。 >>577
うわっ
その場の雰囲気とか勢いで知ったかで適当なことほざいて
加えてこの誤魔化し方
このスレの大ベテラン地縛霊の「あのお方」かな?
(あ、察し…)
でググったが何処に学校の理科で教えるって出てくるんだい?
小学校?中学校?
そもそも地形に関することなら地理だと思うが
例えば三角州、堆積平野等々 伊達郡でしょ、今でいうところの、
引っ越しをしたんじゃないの?
移り住んだ 『遅れてきた倭種』と『松傾』の系統がいるみたいなんだけど そもそも郡山て奈良盆地の北の方って分かってるのか?
九州説ボケ老人って? 山の上のほうに住んでいたとも言っているし、
詳しいことはわからないけど、
凄い土地を持っていたとか >>566
奈良湖とは、亀の瀬の崩落によって一時的・定期的にできる湖のことだから
その成立要因からして、かの水月湖や琵琶湖のような一般的な湖の堆積とは違う。
強いて言えば大規模洪水の後のような堆積の仕方だろう。 テンプレートを貼り付けている狂った老人は、どうして魏志倭人伝に書いてあることを、無視するのだろうか、、、 >>560
>畿内説は測量したとは考えていない
畿内説だと矛盾だらけになってしまうから、考えたくはないだろうなあw >>591
仕方なさすぎるよ。。
テンプレートを貼り付けている狂った老人は、魏志倭人伝が嫌いなのだから。。。
なぜなら、ちゃんと読めば、邪馬台国と奈良が関係ないことがわかるのだもの、、、 奈良湖でコテンパンにされたからって荒らすなよ、岡上 >>589
掘って出てくれば洪水のあとかどうかくらいすぐわかる
それすら出てこないという事実に気がつくべき >>597
九州説がほざく「弥生末期の巨大奈良湖」のエリア全域で? 湖に流れ込む川が洪水まで起こしていたのならこりゃすごい土地だな。 纏向は4世紀後半以降の遺跡なので邪馬台国ではあり得ない
箸墓から鐙が出ただろ?
東夷伝に馬がいたと記される半島でも鐙が出るのは4世紀後半なんだよ
トンチキが 仮に箸墓が4世紀だとして、なんで纒向も4世紀になるのか意味不明 鐙が出た箸墓周濠上層の堆積層が布留1式(4世紀初め) はい奈良湖の次は定番の鐙ネタ入りました〜
死ぬまで同じことを繰り返す九州説老人の暇つぶし
ち・な・み・に・・・
一口に鐙と言っても
馬の背に乗るための単なる足がかりと
乗馬中姿勢を保持する鐙とあって
前者は紀元前には出現してた
Wiki
>紀元前5世紀頃の古代インドで発明された物に、繊維製や革製の鞍の前方からぶら下げた2本のロープの先を輪っか状に結び、
>真っ直ぐ前へ伸ばした足の親指を引っ掛け楽な状態を維持する物があった[1][2][3]が、騎乗時の保持を目的とした物ではなく現在使われている鐙と直接の繋がりは無い。
>他にも中西部アジアの遊牧民族のサルマタイ人が片鐙を取り付けて馬の背に乗る時の補助として使用した。
後者のような物が出てきて初めて小説やマンガに出てくるような関羽や張飛と言った豪傑による
馬上で何合も打ち合う戦闘が可能になったとかw
そりゃ馬の背に乗れなきゃなんか工夫はするってお話
要はこれも九州説による(鐙)詐欺みたいなもん そう言えば三国志に荊州に長く身を寄せ
戦場に出撃するために馬に乗ることもなく
内腿に贅肉が付いてしまったのを劉備が嘆く
「髀肉の嘆」・・・ってのがあるが
やっぱ三国志の時代は鐙というか鞍が未発達で
内腿によるホールドが必須だったんだなw 『山の神』
画像などを調べてみるとわかる、山の守? >>603
箸墓は4世紀後半て言ったロ
だから纏向は4世紀中頃なんだよ 現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!! 388 名前:subo[] 投稿日:2017/09/21(木) 19:25:14.52
>>385
成りすましがきたな、でも俺の成りすましは難しいと思うけどな
389 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/09/21(木) 19:25:36.34
九州説はだいぶ紅花が痛手になったらしい。
390 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/09/21(木) 19:26:59.11
現時点では
九州>紀元前からずっと絹製品が出土
畿内>絹ほんのわずか+4世紀ベニバナ花粉だけ
↑インチキ詐欺師の畿内厨!!! みんな、騙されるなよ 78 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/09/13(水) 07:09:35.66
369 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/09/11(月) 10:20:16.26
>>326
「奴」の音読み「ド」は漢音(唐代の長安付近の言語由来)だから有り得ない。
時代錯誤も甚だしいわ。
時代としては中古音の「ノ」または上古音の「ナ」と読むほうが実情に即している。
↑詭弁!! へりくつ!!
この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる
リーベン(北京官話の現代シナ語の日本)
イ、イ、委だよ ポイントは
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝
繰り返す
「漢の委の奴の国王」
な わ
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
三段国名の例があったら教えてもらいたい
ないだろ?? 畿内厨… 4世紀初めの中国南部の古墳から鐙をした陶嘯ェ見つかっていて、これが最初の鐙とされている
これは片足だけのもので現在のように馬に乗って体を安定させる為のものではなく、単に馬に跨がりやすくするためのものだったと思われる
鐙と言う文字が「登」という旁になっているのはそのため。
此の鐙は騎乗が苦手な一部の文人官僚にしかつかわれることなく、なかなか普及しなかったと言われている
中国北部の騎馬民族は片足鐙など必要が無く、飛び上がって騎乗する。
ところが馬に乗る人間は右側から乗る人間と左側から乗る人間がいていっそのこと両方に鐙を垂らしてみた。
すると両足に鐙を付けるとからだが安定して具合が良いことが解って、それが騎馬民族への普及になった。
それが4世紀後半のことと言うのが通説だ。 鐙を持ち出して4世紀後半だとかほざいてる馬鹿がまだいるんだな
笑った 自説に都合がよいと通説だ!と主張し
自説に都合が悪いと通説を無視した主張をする
九州説は見境なしのダブスタ >>618
畿内説は、自分たちがやっていることだから他の人たちもやっていると思い込んで避難するんだな。 >>613
引用してる書き込み、
>この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる
といいながら現代中国語読みを持ち出し、
>時代としては中古音の「ノ」または上古音の「ナ」と読むほうが実情に即している。
を否定してるぞ
こいつバカだろw 『山守』の話でしょ
どうした聖人でも殺したのか?
と言っている人がいたけど
どのような事が書いてある?
徳を持っている、徳の高い人物と書いてあるでしょ >>621
いや、九州説で馬鹿じゃない奴がいたら、教えて欲しい。 墳頂で見つかってる古いタイプの特殊器台や土器を無視して周濠から見つかった鐙を持ち出して「4世紀後半だ!」とか喚くのがキュウシュウセツ
それを延々と繰り返す >>616
>それが4世紀後半のことと言うのが通説だ。
4世紀前半の南京象山7号墓出土の陶馬俑は両輪垂直型「両側有鐙 」 老婆の話
本や書なんかも沢山持っていて、
ずらーっと並んでいた
近所の人にあげたのか、持って行っちゃったのかな〜 邪馬台国の時代は弥生時代だったのさ。
歴博や奈良文研は年代を捏造している。
歴博や奈良文研の年代を信用してこれを根拠に年代を主張する畿内説の学者はいないだろ?
明らかに奴らのやっていることはオカシイ、と畿内説の学者も思っているから。
歴博や奈良文研みたいな捏造をする人間がいる事自体が畿内説の怪しさを証明するものだ あの写真だと言っているよ、
葱の華などの写っている写真
それらしき制服のようなものを着ているけど、
戦争などにも行っていないと言っていたり >>627
しかもそれを、いつのまにか両輪に化けさせてる詐欺師と来たもんだ。
九州説はどこまで醜態を晒すやら。 湖南省長沙金盆嶺21号墓の片側鐙騎人俑の紀年磚は永寧二年(後 302)
だから使用していた時期は3世紀末には遡る それに馬にしろベニバナにしろ何故か「完全定着」の設定で「おかしい」と喚き散らす
出土状況からその時だけの特別なものと考えて差し支えないのに「定着はもっと後だ!五世紀だ!おかしい!」と叫んでる
バカはこれだから
まぁ400年も交流があったのに馬一つ入ってこなかった土地もどっかにあったけどな >>637
>>616が言っている4世紀初めの中国南部の古墳というのは湖南省長沙金盆嶺21号墓 >>637
江南まで鐙が伝わってるんだから
河北はとっくだ
アホ 畿内に馬を持ち込んだのは騎馬民族だよ
当時の船で馬を持ち込むのは大変だったけど、騎馬民族としては馬は絶対必要だから、無理して持ち込んだんじゃね? 珍説サイト見るといまだに鐙の起源を延々と講釈垂れて「箸墓は4世紀後半以降にしかなりえない!(どやぁ」とか書いてて笑い死ぬ
まぁここにいまだに鐙ネタで乗り込んでくるアホとかそういうバカサイト見て浮かれあがったサルだろうけどな
分かりやすすぎてもう笑いが止まらん こんご、九州説を略して「き印」と呼ぶことを提案するぞ ここまで読んだが
中国の>>635
でようやく3世紀末なのだが。
じゃあ箸墓は?? まーたまた無駄なことしてるね
鉄器ゼロだから邪馬台国じゃない
これで終了。
はい、解散解散w 鐙が出た箸墓周濠上層の堆積層が布留1式(4世紀初め) >>321
>宮崎、大淀川流域、生目古墳群。 円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。 女王国メンバーの投馬国だね。<
姫氏の卑弥呼系の部族というよりは、
一大率や壹與の伊都国やその別種分家の大和の、阿毎氏系の墓文化のように見えるね。 湖に流れ込む川が洪水まで起こしていたのならこりゃすごい土地だな。 >>327
>九州北部は女王国(親魏倭王卑弥呼を王とする国)には含まれないんだね。
当然倭国にも含まれない。 明治時代まで北海道や沖縄が日本に含まれなかったのと同じ。
畿内の倭国から見たら、朝鮮半島と同じ外国だったんだろうね。<
こっそり「畿内の倭国」なんて文言を入れて、世間の人々を騙そうとする、という事は、
この男も、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者の仲間だったようだね。 このような事も書かれている
『勘解由』
昔の職なので、詳しいことはわからないけど、
ほとんど合っているような気がする
「沢山あった本や書なんかも、
誰かに、あげたのか、近所の人が持って行っちゃったのかな」
それと飾ってあったという謎の刀の話 >>651
嘘ついてすみませんでした。
お詫びに奈良湖をバタフライで往復してきます。 >>330
>魏志倭人伝はその名の通り倭人について書かれたもの。 倭国とは、倭人の国。
九州北部は倭国への通り道に過ぎない。<
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」であるから、
東方は「倭種」であり、「倭国」とは書かれていないのであり、
侏儒國は足摺岬〜沖の島に痕跡があるんだから、
倭國は、九州しかないんだけどね。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 このような事も書かれているでしょ
『公廨稲』・・・稲田の植えられている家?
芝居の話もしているし、よく観に行っていた >>331
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内が中心だろうね。<
この男も、
「南→東」の嘘つきダマシをしている事になるし、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」であるから、
東方は「倭種」であり、「倭国」とは書かれていないのであり、
侏儒國は足摺岬〜沖の島に痕跡があるんだから、
倭國(≒女王國)は、九州しかないんだよね。 >>335
大和説や、その拡大詐術の畿内説を唱える輩は、
他の地域の歴史を奪うという、一番してはいけないことを自覚しよう。 >>658
邪馬台国ブームなんてもう半世紀も前だろ?
九州説の懐古ジジイって何匹目のドジョウ狙ってんだよw >>659
嘘ついてすみませんでした。
お詫びに奈良湖に三角縁神獣鏡を並べて仙人走りで渡り切ります。 >>336
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
この男も、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つきダマシの、
分裂幻覚の妄想の・・・・のようだね。 >>664
嘘ついてすみませんでした。
お詫びに奈良湖でパソコンを水洗いしてきます。 約300万年前から100万年前までは、現在の大和川流域を含む地域に、
近畿最大の水系が存在していたと推定されている。
この水系は、現在の琵琶湖より南に位置していた古琵琶湖から古瀬せ田た川を通過し、
現在の奈良盆地に位置している古奈良湖に入り、大和川へ流れていたと考えられている。 >>339
この投稿子もいい加減、九州の地で(姫氏の)卑弥呼が共立され、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、
事を認めないといけないよ。 ヽ、.三 ミニ、_ ___ _,. ‐'´//-─=====-、ヾ /ヽ
,.‐'´ `''‐- 、._ヽ /.i ∠,. -─;==:- 、ゝ‐;----// ヾ.、
[ |、! /' ̄r'bゝ}二. {`´ '´__ (_Y_),. |.r-'‐┬‐l l⌒ | }
゙l |`} ..:ヽ--゙‐´リ ̄ヽd、 ''''  ̄ ̄ |l !ニ! !⌒ //
. i.! l .::::: ソ;;:.. ヽ、._ _,ノ' ゞ)ノ./
` ー==--‐'´(__,. ..、  ̄ ̄ ̄ i/‐'/
i .:::ト、  ̄ ´ l、_/::|
! |: |
ヽ ー‐==:ニニニ⊃ !:: ト、
おれたちはとんでもない思い違いをしていたようだ。これを見てみろ。
まず「畿内説」を英字で表記する
『KINAISETU』
これを逆にすると、
『UTESIANIK』
そしてこれを更に日本語に直すと
『ウテシアニク』
スレを立てたのが>>1と言う事を考えれば末尾に『クソスレ』を加えるのが当然だ。
すると導き出される解は
『ウテシアニククソスレ』
そして最後の仕上げに意味不明な文字『ウテシアニク』
これはノイズと考えられるので削除し残りの文字を取り出す。
するとできあがる言葉は・・・・・・『クソスレ』。
つまり!『クソスレ』とは『まさにこのスレッド』を表す言葉だったのだ!! >>340
>魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。<
「南≠東」であるから、卑弥呼が近畿にいたような言い方をして、
世間の人々を騙そうとしてはいけないよ。 _人人人人人人人人人人人人人人_
> な なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
_,,.-‐-..,,_ _,,..--v--..,_
/ `''.v'ν Σ´ `、_,.-'""`´""ヽ
i' / ̄""''--i 7 | ,.イi,i,i,、 、,、 Σ ヽ
. !ヘ /‐- 、u. |' |ノ-、 ' ` `,_` | /i'i^iヘ、 ,、、 |
|'' !゙ i.oニ'ー'〈ュニ! iiヽ~oj.`'<_o.7 !'.__ ' ' ``_,,....、 .|
. ,`| u ..ゝ! ‖ .j (} 'o〉 `''o'ヽ |',`i
_,,..-<:::::\ (二> / ! _`-っ / | 7  ̄ u |i'/
. |、 \:::::\ '' / \ '' /〃.ヽ `''⊃ , 'v>、
!、\ \. , ̄ γ/| ̄ 〃 \二-‐' //` >>671
嘘ついてすみませんでした。
お詫びに奈良湖で水ごり祭祀を行ってきます。 >>665
>ところで、奈良湖ってあったの?
ん百万年前にはwww
ちなみに上で
>>552
>地形関連は国交省の方が知見あるだろ
と言ってるやつがいるがその国交省で
『pdf 1. 流域及び河川の概要 - 国土交通省近畿地方整備局』
https://www.kkr.mlit.go.jp/yamato/about/seibi/pdf/seibi_01.pdf
には
>約 300 万年前から 100 万年前までは、現在の大和川流域を含む地域に、近畿最大の水系が存在
>していたと推定されている。
とさw >>346
>おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。<
「30国」が近畿にあったかのような言い方をすれば、
そりゃ「南≠東」の嘘つきダマシのサギになるよ。 >>347
>クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<
卑弥呼が「大和の支配者になった」という表現は、
「南≠東」の嘘つきダマシのサギシである事になるよ。 >>679
嘘ついてすみませんでした。
お詫びに奈良湖で水中ジャンケンポンしてきます。 >>683
宮崎康平さん成仏してください
あんたがブームのきっかけ作った為に
未だに踊らされてる九州説の爺さんたちがいます 第二次大戦で全くの異人に敗北して廃絶したか?
してない
同じことだ
紀元前から既に1000年近く続いていた系統は
大事にされて
オブラートに包んだ歴史書で継続されたんだよ。 >>675
それは、近畿地方整備局・大和川河川事務所の「大和川水系整備計画」だから歴史部分は
既存の説のコピーだろうね。
こっちは研究所のオーソライズ資料(解説(裏))
http://www.gsi.go.jp/chizuhensyu/chizuhensyu41001.html
もうちょっと詳しいデータとか欲しいところだが >>665
有史以来絶え間なく工事が続けられ、現代でもなお出現が懸念されている。
当然、弥生時代には幾度となく出現した。
決壊するまで一時的にせよ現在の想定水没地域より大規模な地域が水没したに違いない。
現に高い標高の地域でも水没の痕跡がある。
同時にその開拓容易な土地は盆地の発展の原動力となった。 奈良湖だけじゃないぞ。
現代日本のほとんどの平地が天孫族によって開拓されてる。
まさに無から国土を創生したのが天孫族。
その功績を捻じ曲げる畿内説の南都浅はかなことよ。 >>689
いいや、それでも邪馬台国の王都は纏向なんだもん 鉄器がねー
パワフル騙しい
鉄器がねー
酸いも甘いも
鉄器がねー
Do the ド根性
男は汗かいてベソかいてGo! >>690
天孫族だかなんだか知らないが、
その、現代日本のほとんどの平地を開拓したのが、倭国(阿波)から進出した忌部一族なんだから
みんな、感謝して阿波に足を向けないように。 @阿波 畿内は奈良湖
九州は対馬海流
そして両方とも丹無し
どうするの? @阿波 縄文時代は落葉樹が多い冬に葉が落ちて
森が乾燥する東日本のほうが住みやすい。
特に九州は冬でもジャングル状態なので
森に入れない。
九州の縄文遺跡は川沿い海沿いが多い。 >>696
「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。 >>693
マジか。
自らの根拠の根源たる天孫族をsageるのか。
見損なったぜw
寄生しておいて、寄生先をsageるとわな
忘恩の極みをここに見たり。 九州は鬼界カルデラ大噴火のアカホヤ火山灰で一度終了したからね >>701
天孫族なるものなど存在しない。 すべて忌部一族である。 頭が高い!! @阿波 >>703
鬼界カルデラの大噴火は約7,300年前
その上の層が朝鮮半島の櫛目文土器の影響を受けた轟式土器 過去7万年で最大級の噴火は181年ニュージーランドのタウポ火山の噴火
東アジアにも影響は大きく、寒冷化の一因とも言われる。 >>689
>同時にその開拓容易な土地は盆地の発展の原動力となった。
具体的には?
じゃあある年代を契機に標高○m以下の場所に目覚ましい発展を見せる遺跡群でも出るのか?
こんな与太話に頼らねばならない九州説のアホぶり >>710
じゃあ銅鏡の現れるのが一定の標高以下というデータを出せ
ちなみに九州の吉武でも出てる多紐細文鏡は銅鐸の時代に出てるがw 銅鐸が出土する本州は開拓容易な土地で発展の原動力だったてこと? 鐙とか奈良湖とか毎度毎度同じネタのローテーション
新しいことを覚えるのが苦痛な九州説老人
もう歴史とかジャンル越えて
およそ趣味とは言え学術的な物は止めなさいゴミども >>711
ジョーカー 相変わらず口が汚いな すぐわかる 箸墓が卑弥呼の墓で無い事は確定したようだね
橿原考古学研究所では勝山あたりが候補みたいなこと言っていたようだったが >>709
現にもとは西日本一遺跡の少ない僻地だろう。
定期的な洪水を忘れて、もしくは知らない人間が住み始めるも持続しないだろうね。
標高の低い場所は、亀の瀬の工事で水没の機会は減っても都市としては発展しにくいだろう。 畿内は奈良湖
九州は対馬海流
そして両方とも丹無し
どうするの? @阿波 >>728
自分が上司を殴ったことにも気づいてないの?
天孫族をディスったお前は
何の根拠もないクズだ
味方をダシにするクズ。
それが@阿波 >>730
>自分が上司を殴ったことにも気づいてないの?
その上司も忌部一族なんだが。 @阿波 >>636
>まぁ400年も交流があったのに馬一つ入ってこなかった土地もどっかにあったけどな
まあ、畿内は邪馬台国と関係ないということ。 >標高の低い場所は、亀の瀬の工事で水没の機会は減っても都市としては発展しにくいだろう
藤原京域では飛鳥川の西岸側は東岸側に比べるとやや低湿であったようで、川の氾濫の痕跡も顕著で
街区として整備するには大規模な排水や造成工事が必要であったとされる
飛鳥川の河床と藤原京の造営された地形面との標高差が小さいため、
飛鳥川の洪水氾濫が藤原京内におよびやすかった
治水対策は必要であったとしても平坦な地形面が広がる広大な土地は、
多数の官衙建物の建設に大きな制約になることはなく、
諸施設を比較的自由にレイアウトできる地形条件にあるといえる (出田和久) これだけ議論になってる時点で終了
鉄器ゼロだしもうオワコン ジョーカー、おかえり。
帰ってこなくてよかったのに。 >>735
難波の堀江工事も、8世紀聖武天皇の難波の宮造営頃だろう。 @阿波 沼地で重要な施設がなかったことが、8世紀に都を建設するのに役に立ったんだね。
もちろん、3世紀なんて何にもないよ。 >>739
だから、東遷説もその沼地に足を取られるんですよ。
どうするの? @阿波 ここで、畿内説と東遷説が湖底に沈み
九州王朝説が対馬海流に飲み込まれる。
どうするの? @阿波 やっぱり、基本に帰らないといけないね。
「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。 >弥生の大洪水で稲作壊滅状態。
弥生時代の平野部の遺跡なんて大抵水害にあってる
(20〜21世紀の日本でも水害の被害は絶えない)
>奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
根拠なし
ちなみに信濃とかは結構縄文〜弥生時代の人口が多く推定されてる
>纏向は湿地帯で王都に不適。
根拠なし
どれくらいの湿地帯でそれがなぜ乾燥化したのか?
気候や地質の学者のデータ等を出せ
>対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
海流と潮流の違いを理解しろ
>瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
潮流対策施設とは具体的になんだ?
ちなみに壱岐には河を遡った場所に当時の東アジアでもかなりでかい船着き場の跡が出てるし
潮流に船を持っていかれるというのなら竜骨もなく
底がフラットな和船は砂浜にだって乗り上げることも可能
結論
寄生中泡ゴミジジイは
踊るアホウであり
大ボケ小ボケであり
鳴門の渦に花が咲くクルクルパーである 日本には土木技術があったので低地に都を造った
サイキバの家族たちは水を非常に怖がっていた
耕作適地が無い阿波ではボロ布を作って踊っていた
ということだろうね >>743
>弥生時代の平野部の遺跡なんて大抵水害にあってる
(20〜21世紀の日本でも水害の被害は絶えない)
だから、弥生の大洪水で稲作壊滅状態。
>ちなみに信濃とかは結構縄文〜弥生時代の人口が多く推定されてる
根拠なし
>どれくらいの湿地帯でそれがなぜ乾燥化したのか?
気候や地質の学者のデータ等を出せ
奈良湖
>海流と潮流の違いを理解しろ
海流:対馬海流など
潮流:瀬戸内海など潮の満ち干による
>潮流対策施設とは具体的になんだ?
潮待ち・風待ち施設
>ちなみに壱岐には河を遡った場所に当時の東アジアでもかなりでかい船着き場の跡が出てるし
壱岐と瀬戸内を一緒にするでない。 海流と潮流の違いを理解しろ
結論
寄生中泡ゴミジジイは 踊るアホウであり 大ボケ小ボケであり
鳴門の渦に花が咲くクルクルパーである 面白い、よくできました。 @阿波 結論
寄生中泡ゴミジジイは
踊るアホウであり
大ボケ小ボケであり
鳴門の渦に花が咲くクルクルパーである
面白い、ジョーカーよくできました。 @阿波 >根拠なし
人口については鬼頭なりの推定を見ろカス
>奈良湖
100万年前の話がどうしたって?ゴミw
>潮待ち・風待ち施設
アホか?
待つ間船が心配なら船を浜に上げておいて待てばいいだけの話
そうそう思いだしたがこのアホ
「畿内の人間に航海のなんたるかを教えてやる!」
と風呂敷広げておいて黒潮が土佐湾のそれこそ砂浜の近くまで来てるようなこと
ほざいてたバカだなwww
魏使が「海の幸を堪能して・・・」というのも
観光パンフにあるような
「黒潮が運んでくれる海の幸」
とかで連想しただけなんだろうがwww
>面白い、よくできました。 @阿波
徳島に昔からあるネタだぞゴミ
都会コンプレックス拗らせる前に地元を知りましょう 訳の分からない「天孫族」鴨厨はジョーカーだったんだ @阿波 ちなみに時代劇の港の風景としては
岸に横付けされ係留された船に板橋を渡して人や物が出入りしてる絵が出て来るが
勿論地形的にそういうものもあったが多くは遠浅の砂浜だったとか
上でも書いたが底がフラットな和船は砂浜に上げることもできたし
船体に比して大きな舵も外すことができたが
やはり砂浜に上げたり海に出したりは労力いるので
小舟で少し沖合の船に荷を運んだりしてたとか
泡ゴミが何をほざいてるのかイマイチ分からんが
埠頭を備えたようなかっちりした港がなきゃ航海できないものでもない あのみっともない卑弥呼の墓?とかいって「尾根の写真」貼ってたのももジョーカーだったのか @阿波 >>752 泡ゴミ
尾根の写真?
なんだそれ?ひょっとして曲学の徒か?
何でもかんでも結びつけるなよ
本当ド低脳ゴミクズだな
こんな俺でも主張には傾向がある
それも分からないのに結びつけるだけのバカ
少なくとも前方後円墳が自然地形を利用したものから始まったなんて主張は一度もしたことがないし
むしろ定型化古墳第一号とも言われる箸墓がその例じゃないのだから
否定したことがある話だ
まあ何を言ってるか理解できないかもしれんが
自分がアホをほざいてることだけは自覚しろ 奈良盆地の水は湖があった頃は淀川の方に流れていて、あるとき、人為的か、地震か何かの影響で
大和川方向の地盤沈下で西に水が流れるようになったと言う事を聞いた事がある >>730
>>728
自分が上司を殴ったことにも気づいてないの?
天孫族をディスったお前は
何の根拠もないクズだ
味方をダシにするクズ。
それが@阿波
↑
やはり、葛城厨はジョーカー @阿波 ネットなどでも言われていない?
朝鮮人が日本を作った、
日本では宇宙神?
それを批判をしている人々がいて・・・、
というのことは、本当の話だという事ではないの? あと韓流?
のことを寒流、寒流と言っている人々もいたような 仕事場のPCが突然画面が真っ暗になって、何度も電源を切ってやり直したら、
5チャンネルが出なくて、検索していたら、2チャンネルに繋がったので、
とりあえずそちらに>>321〜>>426の返事を投稿して、
自宅に戻って、5チャンネルを探したら、
2ちゃんねるで投稿したものは、残念ながら掲載されていなかった。
だから、>>321〜>>426のこちらでの返事は、断念する。 ほとんど同じ話
サイバーパンクspecialというコミック
ロト「寒い・・・あたたかい・・・」
某徳永英明氏の曲なども サイバーパンクコミック?
蒸気機関車のようなものが出てきて、
機関車のことを、お母さんのような事を言っていて、
内部が原子炉、プールのようになっていたり >>758
ジョーカーならなぜ筑紫の日向に降臨した天孫族に言及するんだ?
あいつは九州は嫌いだったろう? 老婆が言うには
昔、発電、電気を起こしていたという話もしていた
この写真の家は何々様なんて言われて奉られていたとか、
誰かの嫁(の家)なのかな? >>770
葛城厨(ジョーカー)が貼り付けた尾根の写真 @阿波 >>769
葛城厨(ジョーカー)の高天原
A高天原
大和朝廷発祥地の葛城の高天である。 @阿波 >>770
葛城厨(ジョーカー)が貼り付けた尾根の写真 @阿波
見ていただきましょう、これがその御神域の塚です。
https://goo.gl/DA7WRZ 謎の大震災が起きたとき、海のほうに原子力発電所があるんだよ、
ミハルというところがあって・・・・・・・
かなり詳しかったり どうなっているんだろう
実際に住んでいるところは川崎区、
サイバーパンク?に登場するロトちゃんも川崎区に住んでいるような話 『福島 民家園』【民家園の沿革・概要】
ここだよ
>鈴木家住宅(赤浦屋―馬宿)が川崎市立日本民家園に解体運搬され
うまやど? 家は稲田の植えられている家と同じ?なのかな
『松傾』でしょ、
松(もみ??)の立てられている写真があったり、
上の名前の読み方が何やらと言っていたり 『葱の華』
調べてみると輿のような画像が出てきたり 高祖山、日向峠、クシフル岳こそ、記紀に言う天孫降臨の地はここではないかという説がある。
原田大六氏だけでなく「筑紫の日向」は宮崎の日向ではないのではとする研究者は多い。
「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳...」は伊都国の真東にそびえる高祖山である。太陽はこの高祖山の日向峠から登り、カフリの海に沈む。アマテラスは太陽の神、すなわち農耕神である。
縄文世界であった日本列島に、大陸から稲作農耕文明が入ってきて、次第に縄文人と弥生人が融合し、定住し、ムラが出来、クニグニが生まれ、やがてそれらがまとまり倭国が出来た。
その稲作農耕文明の入り口が伊都国を含む筑紫、北部九州であったわけだから、アマテラス一族の天孫降臨がこの筑紫にあったと考えるのが合理的に思える。
朝鮮半島には天から穀霊神が降臨し、その子孫が王となったとする神話が伝承されている。
稲作農耕文明(鉄器製造、灌漑、土木工事技術、気象天体観測、環濠集落、支配秩序)の移入に伴う自然信仰、祖霊信仰の考え方も入ってきた。
倭国の起源がここにあると考える。
記紀にはニニギノミコトが天から三種の神器とともに降臨してきた地は
「韓国(からくに)を望む朝日の直射すところ、夕日の火照るところ」
と形容されている。
まさに高祖山、日向峠から望む玄海灘の光景である。 私見ゆえご勘弁ください
1、最近カキコミ数は増えますが、罵声、オウム返しが多いです
2、里数の問題が数多く書きこまれていますが、九州説への反論とそれに対する反論
これは、九州説でスレでやるべきです
3、このスレで里数を問題にするならば、畿内説の邪馬台国に至るまでの国々の比定地を明確にしていただきたい
4、奈良湖(ヤマト湖)については、・・・湖の定義をどうするかによってきます、比較的大きな沼、池?水深?
数万年まえは生駒山が島でその近辺は海ぐらいは知っていますが・・・
一応拾ってきたものを貼り付けます
^^^^^
奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。
やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。
すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから
弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。 次に万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌から
「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ
海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、
この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。
6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことでしょう 以下同意します、本当に不思議ですよね。
>>444
畿内説
ベニバナ染色やバジル漢方の
先進的な技術が渡来しているのに
鉄(鉄器)が無いな 鉄の渡来は拒んだのかな??
不思議だよな >>786
ホケノ山古墳の工法も石材(青石)も水銀朱も土器も鉄器も銅鏡もその他諸々、全部倭国(阿波)の産物。
ホケノ山古墳は神武東征により、鳴門市萩原地域を脱出して大和へ逃げ込んだ登美能那賀須泥毘古の墳墓の可能性が高い。
ちなみに、登美能那賀須泥毘古の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、「黒谷川郡頭遺跡」が本拠であろう。
周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残っている。 @阿波
>>786
そもそも、ホケノ山古墳の築造年代が
「邪馬台国時代に相当する」という判断は、どのような根拠にもとづくのでようか。
箸墓を卑弥呼の墓とした場合、誰の墓でしょうか????????????????
また庄内式土器の年代については、考古学者のあいだで、一致した見解がえられているわけではないでしょ。 阿波には昔阿波湖があって人が住めなかったんじゃない? 「ホケノ山古墳」の発掘が畿内説に有利には働かないと思います
その理由は、『魏志倭人伝』には「棺(かん)あれど槨(かく)なし」と記述されています
「ホケノ山古墳」には槨があり、『魏志倭人伝』の記述と矛盾しています
「畿内説支持者が古墳の築造年代を古く古く持っていこうとする風潮はいかがなものか?」 阿波には今でも大河吉野川があって人がたくさん住んでいるんじゃない? ホケノ山古墳は、5世紀の堂ノ後古墳を
削ったあとに作られた3世紀の古墳である。 そもそも記紀のもあるように、大王墓は平地には造営しない。
歴代の大王墓は、神域の山稜。 @阿波 ホケノ山古墳については阿波もありです
ホケノ山古墳の墳丘頂上の埋葬施設は「石囲い木槨」構造で,
その前身構造が阿波の萩原墳墓群の1号墳・2号墳にみられます
円形の墳丘に短い突出部,「石囲い木槨」構造,画文帯神獣鏡を破砕して副葬するなど,
共通点が多いことから,ホケノ山古墳の築造に,阿波の勢力が関わっていたと考えられます 画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四世紀代の古墳から出土している。
なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。
そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。
中国北方の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。 卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡は、はいらない、とみるべきである。
三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもらった100面の鏡としては、数が多すぎる。
画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう このように歴史資料にそぐわない事を言い続けて
誰にも相手にされなくなった九州説 畿内説の研究社は環境によって抑圧される自身の人格を守り、
汚れのないままでいようという願望をもつユニークな存在として、
妄想的な観念に反応する。
それは逃避以外のなにものでもない。 畿内説の研究社は環境によって抑圧される自身の人格を守り、
汚れのないままでいようという願望をもつユニークな存在として、
妄想的な観念に反応する。
それは逃避以外のなにものでもない。 魏志倭人伝に倭地には、100余国あると書いてある。
また卑弥呼を王として共立した国々は30ヶ国とも書いてある。
当時の日本列島は、統一までに程遠い状況なのが分かる。
言い換えると、女王国の周辺は敵対勢力、中立勢力だらけということ。統一国家へ向けての極々初期段階だということ。
倭国大乱。
名の通り倭国の大乱。
卑弥呼vs狗奴国卑弥弓呼の争いが中心。
倭国の位置が何処にあったかが問題だな。 >>751
外洋船も平底か?
潮の干満や波に対応するには石積堤に浮き桟橋
宿泊、補給で寄港地の準備は必要だったと思うよ。 >>808
>名の通り倭国の大乱。
その名の通り倭国(阿波)国内での乱。
>卑弥呼vs狗奴国卑弥弓呼の争いが中心。
卑弥呼側:粟国
狗奴国卑弥弓呼:長国 @阿波 倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。 邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力 「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡・福寺山遺跡 こういう事実を示せるのは、なぜか倭国(阿波)だけ。 >>809
>外洋船も平底か?
「遣唐使船」の復元も結構想像だけだったするそうだが
それでも竜骨を持った船なんて想定されてない
あるならソースを出してくれ
多くの人間が思い違いをしてるが
和船が外洋航行に向かないのは
第一に水密甲板を持ってなかったからであり
(外洋の高い波を被ればいっかんの終わり)
竜骨を持つ構造云々ではない
船体の強度の補強は内部からでもできた
>宿泊、補給で寄港地の準備は必要だったと思うよ。
そんなものはその土地の首長と話をつけておけば良いだけ
>潮の干満や波に対応するには石積堤に浮き桟橋
単なる思い込み根拠なし
それこそ上で書いた時代劇に出てくる絵の刷り込み程度
参考)適当にググった
PDF]港 物 語 - 木更津市
http://www.city.kisarazu.lg.jp/resources/content/498/20121116-150354.pdf
>明治治時代に入り、海上は東京と定期航路が結ばれ、外輪
>の蒸気船(恵比寿丸と福沢丸)が1日2往復していました。
>当時はまだ、木更津の海は遠浅であったため、蒸気船は沖
>に 停 泊 し 、乗 船 客 は 艀 舟( は し け ぶ ね )を 使 っ て 、蒸 気 船 に 乗
>り 移 っ て い ま し た 。し か し 、潮 が 引 い た 干 潮 時 に は 、艀 舟 さ え
>も使えなくなり、乗船客はやむなく海中人力車に乗り移る
>か、裸足になって浅瀬や干潟を渡るしかありませんでした。 >宿泊、補給で寄港地の準備は必要だったと思うよ。
だから背景として遠い地の首長らとのネットワーク形成が必要であり
それが広範囲になされたのが埋葬文化の共有や鏡の配布がなされた
北部九州から大和更には東日本までを背景にするのが畿内説
一体どういう趣旨で指摘してるのか知らんが
畿内説にとって有利になりこそすれ不利になる話でもない >>818
>そんなものはその土地の首長と話をつけておけば良いだけ
さすがに、葛城厨のジョーカー @阿波 ジョーカーなんて、ただ口汚いだけのバカだろ。
持ち上げる価値はない。 >>823
>ジョーカーなんて、ただ口汚いだけのバカだろ。
見ていただきましょう、これがその御神域の塚です。
https://goo.gl/DA7WRZ
↑
そうです。ジョーカーなんて、ただ口汚いだけのバカです。 なんで九州説の人は脈絡のきちんと続いた文章を書けないんだろうねえ >>827
そんな文句を言われるジョーカーの発言って
どれのこと? >>828
>>818
>そんなものはその土地の首長と話をつけておけば良いだけ 鏡の配布も、三角縁さえも畿内のものは九州のコピーだそうだが。 で最初期型あるいは全ての三角縁神獣鏡のオリジナルって九州の何処に出てるんだ?
九州ウリナラ起源説はマジ勘弁な 海洋民族の拠点を調べないとな。
天然の良港。
難波津、鞆の浦、丹後半島etc。
弥生時代の天然の良港の分布が分かれば、色々ヒントになるかも。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>838
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 まだ言ってるの?『河伯』河童という説明があるでしょ?
キュウリの葉、葱の華・・・などの写っている写真
「すがの」?だと言っているけど 老婆が言うには、
この写真の嫁(母親)の家?は何々様なんて言われて、奉られていたんだよ
嫁の家だからなのかな 『河伯』
>元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、
>冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。
>道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという。
この話だと思うんだけど
『聖化 日神 日霊 津』 14日午後1時半すぎ、神戸市長田区の民家で、住人女性の親族に屋内整理を頼まれた男性から
「白骨遺体が見つかった」と長田署に通報があった。女性は8年前に行方不明となり、同署が民家を
捜索した際は見つからなかったという。同署が遺体の身元を調べている >>840
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 ほとんど合っているような、
馬に乗り、謎の刀を持っていて・・・寺院に通ったりしていた
と言っていた 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 キューバ革命に成功した後、国際的な名声を得たチェ・ゲバラ。
だが家族と最後の食事を済ませると、急に姿を消してしまう。 失礼しました
テンプレを読み返しました
テンプレが長くななるほど、倭人伝から離れて行っています
また、時代錯誤の文献の引用も多く見られます
倭人伝なかりせば、邪馬台国無しの基本に立ち返ってはいかがでしょうか ということは・・・家の老婆も何々様という話なのかな >>543
>魏の建国が220年 魏が朝鮮半島に進出したのが238年 魏は265年に滅亡
魏は楽浪帯方以外の東夷を支配下においたこともなければ、
魏の尺度が東夷世界に普及するのに30年弱は短すぎる。<
何をトンチンカンを言っているんだい?。
東夷は「里」を知らず、
魏志東夷伝の「里」を記録したのは、魏の役人たちではないか。 >>855
>魏志東夷伝の「里」を記録したのは、魏の役人たち
魏志東夷伝の「里」を測定したのは、漢かそれ以前の役人たち。 >>855
里を知らずに日で計るのは倭国ですよ。
よく行き来するので
里でわかってる不弥国以降は
現地の単位で記録するらしく
ちゃんと現地の日で記録されていますね。 >>465
>いくら実測と違っても1里75mを固持しなきゃならん九州説は 終わったな <
いくら実測と違っても1里430m位を固持しなきゃならん九州説は、
終わったな。 >>465
>だれも算出したことのない謎の75m w w w <
魏志倭人伝でだれも算出したことのない謎の430m
w
w
w。 >>472
大和説の人って、「南→東」などの嘘つきダマシのサギシであり、無知なんだね 。 >>859
短里と違って歴史資料と証拠品があるから仕方ないだろ 河伯、その時代(の人間)の話でしょ
邪馬台国なんてなかった時代だぞ
と言っている人もいた >>487
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は完全に負けとるなあ・・・
負けているというより、死んでいる。 『河伯』画像を検索すると『浦島太郎』のような画が出てきたり、『松傾』の人の話? >>514
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説になるための条件。
日本史、考古学の知識が皆無であること。
自分自身を天才だと信じることができる傲慢さを持っていること 。
平気で嘘をつけるよう、良心を持ち合わせていないこと。 松傾・・・松(またはモミ?)の木の立てられた写真、
家の話だと思うんだけど 兄 弟
妹:5月15日生まれ
川崎区に住んでいない? >>517
大和説の人間は、
「南→東」などの史料事実の否定抹殺をし、
歴史にとって最も重要ないつの時代かを、
考える習慣がない。 現在、家の前は駐車場になっている、
家を出て、左に進むとファミリーマートがある 右のほうに進むとセメント通り
住んでいない?「上の名前の読み方、家は本当は『す□□』だよ」と言っているし >>548
>大小の確率を持った近似値を
約40〜50kmは76.5kmの近似値ではない
>直線距離の1.25倍平均の距離増加
それはリアス式のような形の海岸線沿いの屈曲の多い道じゃない
>一寸千里も三角測量も記里車も歩測も「大体の概数」。
76.5mが40〜55mは三角測量から得られる大体の概数ではない
現代人の歩測は100mの距離で5%以内の誤差
>始めから、有効数字1桁程度
始めに短里ありき 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 『天岩戸』
調べると出てくる、とある絵に似ているし また失敗。
>>548
>>大小の確率を持った近似値を合計 ・・・<
>約40〜50kmは76.5kmの近似値ではない<
何の話か?判らんが、有効数字1桁近似の500里=1500里の範囲内だよ、
>>道のり距離は直線距離の1.25倍平均の距離増加<
>それはリアス式のような形の海岸線沿いの屈曲の多い道じゃない <
どこの話か?は知らんが、山越えや湖横断のような選択の時には1.5倍が分かれ道だよ。
>>一寸千里も三角測量も記里車も歩測も「大体の概数」。<
> 76.5mが40〜55mは三角測量から得られる大体の概数ではない<
何の話か?は知らんが、渡海なら一寸千里の法が中心だよ。
>現代人の歩測は100mの距離で5%以内の誤差<
渡海では歩測は出来ないよ。
>>始めから、有効数字1桁程度<
> 始めに短里ありき<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、始めから「長里」ありき。 >>845
そうそう。あれを最初に目にしたあの人が、機転を利かせて足元の枯葉を蹴り掃いて覆ったけど、、、 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 家の老婆が詳しいだけなのかな、
あの写真と言い、本物の家なのかな? >>880
古墳を管理する宮内庁が情報公開の流れでやったイベントにドヤ顔でしがみつく
ゴミクズレベル九州説の更に最低辺オウム返し・コピペ荒らししか出来ないド低脳地縛霊サイキバ
>畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。
その途中経過というのはかつて九州説を唱えたご老人方が一人また一人と消えていく訃報のことか?www
結局九州説なんてブーム以降何の進展もない
そりゃそうだ口々に
「素直に読んだらここしかない!」
とアームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵)ごっこしてるだけなのだから
結局やることは畿内説にイチャモンを付けることだけ
その寄生虫の大ベテランがこのゴミクズレベル九州説の更に最低辺オウム返し・コピペ荒らししか出来ないド低脳地縛霊サイキバ >>882
九州説にろくに反論できない
畿内説の悔しさがよく出た文章ですね。 >>883
九州説は九州説スレへ
ゴミクズ(ゴミ九州)はゴミクズ箱(ゴミ九州箱)へ >>878
岡上、荒らすなよ
コピペなん連投するんだ >>883
おやおや
九州説はもう完全に論破されてるからコピペ荒らしやオウム返しばかりしてるんだろ?
ウソをついては、いけない >>887
でも畿内説って、何にも根拠が見つからないんでしょう? >>888
根拠ならテンプレにたくさん書いてあるぞ。
九州説にできる反抗はテンプレを読まないこと、畿内説を知ろうとしないこと。
それだけ。 >>888
こんなふうに漠然と抽象的な言い返ししか出来ないのが
九州説がすでに敗北してる証拠 >>889
なに過去の話してるの テンプレすでにボロボロ
だから恥の上塗りのように毎回長くなってる Wwww テンプレが根拠という割には、そのテンプレからの引用すらできないのが畿内説。
よく読むと、肝心な部分をぼかした文章ばかりで、中身がないテンプレなんだよ。
そんな事がどこに書いてあるの、と言い逃れがいつでもできるようになっている。
完全な詐欺師の話法。 テンプレートを貼り付けている狂った老人は、どうして魏志倭人伝に書いてあることを、無視するのだろうか、、、 >>560
>>「算出した形跡」 <
>計算してみたら誤差が大きすぎる <
計算してみたら、「1里≒76.5kmの有効数字1桁概数」の範囲内。
>>「1里=400〜450m」というメジャーでは、計測した形跡は全くない。<
>畿内説は測量したとは考えていない <
畿内説なんて知らん。
大和説は、「南→東」でも、「1里=400〜450mで計測した形跡は全くない」事でも、×。 >>891
ほらな
具体的な反論が出来ない
これが、九州説が既に敗退している証拠だ >>894
誰もテンプレが根拠と言っていない件について >>561
>>倭人伝の里が測量した里数であるから、<
> 学問で押売りは通用しない<
学問では、観察事実や実験や測定事実や史料事実などの「否定曲解」の押し売りは、
通用しない。 >>564
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説になるための条件
・都合が悪い事実の否定曲解は、
目に入れたり、耳に入れたりしない、超限定的視野・聴覚。 >>877
どれも反論になっていない
・千里の有効数字が500里〜1500里は、お前が決めて言張っているだけ
>どこの話か?は知らんが
・お前のレス>>114
>リアス式の激しい一大國では、海岸沿いの出来るだけ平坦路を移動すれば、
>直線距離よりもはるかに長い距離の移動になる
>渡海なら一寸千里の法が中心だよ
・それを循環論法という
>渡海では歩測は出来ないよ
・3海峡全部同じ千里なら測量しなくていい
>始めから「長里」ありき
・長里ではなく、東夷伝の一番初めに書いてあるのは
『尚書』〔禹貢篇〕九服之制の地理的世界観 そもそも短里なんてものが存在しないのだから
長里なんていい方は認められない とりあえず
短里なるものを実は誰も算出していない
という事実を指摘して
九州説を論破完了 >>575
>>53.3mでも、76.5の有効数字1桁概数内になっている。<
>23.2mの誤差なら12000里で278.4kmの誤差 <
12000里なら、11500里〜12500里の範囲。
>>島伝いして呼子から海岸伝いであり、 40kmというよりは50kmに近い筈であり <
>海岸伝いの距離を小刻みに三角測量したとするには76.5kmとの誤差が大きすぎる<
おそらく郷ノ浦と唐津とでの一寸千里に拠る計測。
>実際には距離が違う3海峡各1000里だから測量していない <
3海峡とも一寸千里が中心の計測。
>>洛陽とそれほどの緯度差がない事は、一寸千里で直ぐに判り<
>緯度差がない事が直ぐに判るなら福岡が會稽東冶の東ではないことは直ぐに判る<
まず会稽東冶ではなく、会稽東治であり、
また「緯度差」とは、ここでは「道里」の計算に拠っている。 >>912
一寸千里なんて使われてないことは
証明されてるだろ テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。
岡上という人はどんな人なのだろうか、、、、 >>914
岡上という、その人なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
テンプレートを張り付けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 >>616
史料記載が自説に都合がよいと、通説だ!と主張し、
史料事実が自説に都合が悪いと、通説を無視して否定曲解した主張をする大和説は、
見境なしのダブスタ 。 >>916
テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上だと勘違いしているふしがあるね。。。
発狂しているからかな。。。。 >>623
「南≠東」の指摘に反論できない詐欺師。
それが大和説。 >>626
いや、大和説者で、
「南→東」などの嘘つきダマシのアホサギシじゃない奴がいたら、
教えて欲しい。 >>912
・12000里の±500里の誤差と1000里の±500里の誤差では測量精度がまったく違う
・郷ノ浦と唐津間の沿岸沿いの距離は棒の影の差を利用して測量することはできない
・3海峡とも千里だから測量の根拠がない
・洛陽と会稽東冶は緯度差がある 岡上?
どこぞの鋳造メーカーが寄贈したレプリカの銅鏡にサービスで八咫烏入れたのを見て
「八咫の鏡には八咫烏がー」といった馬鹿か?
平原に柱跡が並んでるのだけ見て
「伊勢神宮と同じだー」と言った馬鹿か?
関西の鉄道の駅にある大神神社の宣伝の看板のデザインみて
「古代から続く意匠」みたいなことを行った馬鹿か?
まあ勘違いは誰にもあるし無論俺もその例外ではないが
あの手の馬鹿は自分の脳内ストーリーに合致すると見れば
後先なくかぶりつくからなwww
岡の上にあがったカッパ以下 >>627
>墳頂で見つかってる古いタイプの特殊器台や土器を無視して<
特殊器台も、(ホケノの3世紀末の有槨と同じく)吉備系であり、
土器も布留であるから4世紀初頭であるから、
周濠からの鐙は、4世紀初頭以後。
周濠から見つかった鐙を持ち出して「3世紀だ!」とか喚くのがヤマトセツ それを延々と繰り返す。
ほいまた、しまった。
この男は
和田キヨエをたぶらかして、
尿入り?の沢山の一升瓶を、旧和田家宅の中に置いておいたサギシの仲間であった。 >>919
100年前から
方位は誤りであるって
反論してるのだが >>643
こんご、大和説を略して「嘘つきダマシのき印」と呼ぶことを提案するぞ。 >>656
そして歴史じゃなくて溺死しろ、「南→東」などの嘘つきダマシの大和説。 >>691
いいや、それでも邪馬壹國の王都は弥生銀座なんだもん。 >>694
>縄文時代は北部九州も遺跡は少ないな <
北部九州に、文明が開いてしまったから、 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。 一寸千里は夏至の正午の南北でないと成り立たないんでないの?
いつでもどこでも距離が測れるもんじゃないと思うなぁ >>796
鐙とか奈良湖とか毎度毎度同じネタのローテーション。
新しいことを覚えるのが苦痛な大和説老人 、
もう歴史とかジャンル越えて 、
およそ趣味とは言え学術的な物は止めなさいゴミども 。 >>934
主語だけ書き換えるとウソを書いたことになるの
九州老人は気がつかないのだろうか? >>934
アホなこと言い出す九州説に対して事実を述べているまでだ。 >>933
正確に言うと夏至の正午の南北でも成り立ってない もともと周髀算経が短里を否定してるんだから話にならんでしょ 里逞に関しては三國志内で完結している。
そのための史書である。
半島の東西は四千里、
対馬海峡は三千里である。
皇帝の威信によって確定している。
倭人伝をちゃんと読め。 どこ読んでも皇帝の威信によって対馬海峡は三千里に確定したとか
書いてないんだけど 倭人は鮑や魚をとってたというのに、何で海のない畿内説が成立するの(・ω・`)? >>939
日本の学者は馬鹿ばっかか?
記紀迎合は不可能だろ? 感情の原因はそれを感じる者自身の固定観念・価値観・判断基準
「言葉 風紀 世相の乱れ」はそう感じる人の心の乱れの自己投影
問題解決力の低い者ほど自己防衛の為に礼儀作法やマナーを要求する
憤怒は無知 無能の自己証明。中途半端な知識主ほど辛辣に批判する
全ては必然。偶然 奇跡 理不尽 不条理は思考停止 視野狭窄の産物
真実・事実・現実・史実はその主張者の主観。よって人の数だけある
「真実は一つ」に執着する者だけがその矛盾を体験(煩悩 争い)する
宗教民族差別貧困は戦争の「原因」ではなく「口実動機理由言訳」
全ての社会問題の根本原因は(専ら家庭における)低水準教育
情報分析力の低い者ほど宗教デマ似非科学オカルトに感化傾倒自己陶酔
史上最も売れているトンデモ本は聖書。神概念は人間の創造物
犯罪加害者に必要なのは懲罰ではなく治療。被害者のみ支援は偽善
虐めの原因は唯一「虐める者の適応障害」。真に救済すべきは加害者
体罰は指導力・向上心・自制心の乏しい教育素人の責任転嫁
死刑(死ねば許され償え解決する)を是認する社会では自他殺は止まない
核武装論は人間不信と劣等感に苛まれた臆病な外交素人の精神安定剤
投票率の低下・奇人変人の当選は社会成熟・議員定数過多の徴候
感情自己責任論 〜学校では教えない合理主義哲学〜 m9`・ω・) 倭人伝の意義は
中国皇帝が邪馬台国の南北は九州北部二千里
って、言ってるんだよ♪ それにしても詳しい
橋が架かったので来てください
という招待状が届いたんだけど、
そのときには歳も取っていたし、遠いからと言って断ったこともあるんだよ
老婆談 キュウリの葉・・・・だからと言っても、
カッパ橋ではないと思う それなら倭国の位置を遠めにおいて
こんなに遠い国からも朝貢しに来たんだぞとしたのかもな
つまり短里はなかった 倭人伝が伝える日本史に重要な事実は
九州北部の邪馬台国があった、ではなく
九州平定が250年以後だった事、それに伴う
高句麗馬の移入、銅鐸祭祀の放棄だろ? >>956
相変わらず九州説は理由を何も言わない
そういうことだからジリ貧になり
学問の世界から消えた レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。 新スレ立てました
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1508078214/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>901
いや、テンプレに書いてあるとか、畿内説からよく書き込まれているよ。 >>962
読解力低すぎだろう
九州平定が250年以後で、それに伴って銅鐸祭祀の放棄
なんて畿内説ではあり得ない
これじゃ240年代に畿内が魏と通交できないではないか >>963
テンプレに書いてあるというのと
テンプレが根拠だというのと
ぜんぜん違うが? そもそも倭人伝の何処に「銅鐸祭祀の放棄」とか書いてあるんだ?
電波さんですか? 九州説って、現実とは異なる世界の住人なのか、大嘘つきなのか、いずれかだな 邪馬台国は九州にあった大和の出先機関の一つじゃないかな
卑弥呼と天照や大和の皇室を同一視するからお互い錯誤するんじゃないかな 9州説のアホが新スレに書き込んでるな
まったくゴミな連中だ >>973
誰が、卑弥呼と天照や大和の皇室を同一視してんの? 倭国の邪馬台国は北部九州の政権であり、
東の倭種でのちに倭国を併合した
畿内の日本国とは、政権としては関係がない。 >>974
いや、テンプレの不備を指摘しているだけだから、どちらの立場かはわからないな。
濡れ衣は良くない。 >>976
相変わらず九州説は理由を何も言わない
そういうことだから
学問の世界に居る場所がなくなり
ゴミ扱いされるようになった >>973
魏の使いは伊都までしか来ていないのに、卑弥呼に会っている。
ちなみに天照もその親のイザナギも、九州の倭国王だから。
錯誤もなにも、畿内はお呼びでない。 >>975
大和の皇室なんて、3世紀にあったと思っているの?
おめでたいね。
歴史を歪曲する皇国史観は害悪でしかない。 >>977
不備なんかないじゃん
バカを晒しただけ
つまり九州説だ 畿内説者は
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
のマナーは守るよ テンプレに書いてあるとは・・・・・
スレ主が書き込んでいるだけである
テンプレが解答になっていないので畿内説への疑問を質問を投げかけても
「テンプレに書いてある」なんて回答でも何でもない
つまり、畿内説はテンプレに従えという事・・・
結論
スレ主ひとりで自演それも、ズタズタのテンプレで 記紀には卑弥呼のことが書かれていいない卑弥呼と天照は別人
3世紀の倭国北部九州、本州は倭種。 今どきになっても九州説に残っているのは
日本語が理解できないレベルのクズ
ってことが良くわかる >>974、>>984はスレ主だよ
>>984・・・ここに来る畿内説支持者はスレ主一人じゃないの
>畿内説者は
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
のマナーは守るよ < >>992
そんな子供みたいな言い返ししかできないのは
脳の退行した終末期老人だろう(推測) >>993
そして全一病
・・・いつものあの老人か >>993
マナーが守れないのはいつも九州説か東遷説だね。 テンプレでは話にならないのに
<テンプレに書いてある>
この回答は????????????????? このスレッドは1000を超えました。
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