毛利元就と武田信玄
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>>104-105
263白馬青牛 ◆sKm0uQPecU 2017/09/05(火) 03:34:07.85
牛の糞にも段々があってのう。弱兵の産地関東地方でもよ。
甲斐の甲府連隊じゃの、連隊対抗戦で千葉の佐倉連隊にすら勝てんし…。
『人国記』は、遠い西日本はデタラメ記述が目立つが、東日本はわりあい当たっとる
んじゃないか。 上総国は、武勇では「関東で二番と劣るべからず」と、関東最強云う。
近代郷土部隊でも、今村均大将が佐倉連隊長じゃった頃でも、
「千葉県佐倉町屯在の歩兵第五十七連隊の兵員は、悉く千葉県下、房総地方出身の
青年であり、大部分は半農半漁を業とした者たちなので、自然、第一師団(東京)に
属する四つの歩兵連隊中、その体力は、断然他よりすぐれ、例えばその年の秋季演習
約十日間の行動中、一名の落伍者も出さないいで、全員やり通した中隊、わが連隊
十中隊のうち、五個中隊を報告したところ、参謀長が「君の連隊以外には、一つの
中隊もないのだ。」とか、 「約十日間、富士の裾野で行われた師団内のも一つの
旅団の連隊対抗演習で、甲府連隊 (山梨・神奈川の兵員)が多数の落伍者を出し、
そのうちの幾名かが、遂に生きてかえらず、」と、甲斐や相模は基礎体力も劣って
おったし、関東一の精強の上総や安房にゃ勝てんよ。
まあ、甲種合格率日本一常連の岩手県たぁ、体力的にも断然弱い関東、甲州じゃ
比べもんにならんけど、関東じゃ、千葉の佐倉連隊、北関東なら群馬の高崎連隊が、
関東限定じゃ強いんじゃろう。}
甲斐の甲府聯隊に神奈川県゜が混じっても、体たらくの弱兵甲斐甲府聯隊に出来る
こたぁ無ぁわ(笑)。箸にも棒にもかかんらん弱兵じゃし、東日本のしかも一番弱い関東
ローカルで強いとか云うても、「鬼美濃」と知られた家臣の原美濃の郷里上総にも
甲斐勢勝てんわけじゃし(笑)。落伍兵続出じゃ話にならんレベルよのう(笑)。 >>109
>>102が如く、イースタン・リーグのローカル甲斐武田じゃの、広島県安芸メジャー・
リーグの同族の安芸武田氏たぁ劣るけぇのう。
『陰徳太平記』の秀吉の東国勢認識は「東国武者は、短気ゆえ、長い間城を
守りぬくことは難しく、また小勢でもって多数に当るときも、いったんは勇に
任せて対陣するが、久しくこらえることができぬ。」
中国勢は、「小勢で城を守り、小をもっておおいに向こうて対陣すると、
何百日、何千日を経るとも、士気衰えて引くということはない。」
まあ、東国イースタンのマイナーローカルは、士気根気欠如なんが伝統なんじゃろう。 >源平1 広島武士、平治の乱で瞬殺される
>源平2 広島武士、伊予の盟友を裏切り土下座降伏
>源平3 広島武士、変わり身の早さを嫌われ社職追放
>南北朝 北関東の小豪族「山名時氏」に北近畿〜北中国一帯を占拠される
>室町 平賀ら広島武士、九州勢に蹴散らされる
>戦国1 鳥なき陸の中国で無人の荒野を行くが如く領土拡大
>戦国2 東九州の大友にぼこられ涙目敗走
>戦国3 天下分け目の関ヶ原で引きこもり領土削減
>戦国4 毛利家、暗黒の地広島から脱出
>保元平治の乱→安芸の東条は瞬殺されたうえに首を放置されるという悲劇
>治承寿永の内乱→安芸は長期空気。安芸の沼田が空前絶後の卑怯な振る舞いを見せ敵前降伏
>壇ノ浦後→安芸の佐伯が旧主を捨て鎌倉に媚びるも許されず身分や特権をはく奪される
>承久の乱→安芸は空気
>元寇→安芸は空気
>南北朝→安芸は長期空気。北関東の土豪「山名時氏」に周辺各国を蹂躙される
>鬼平賀→出典不明のブログの中では活躍した(らしい)
>安芸勢→九州兵の支援を受けた大内盛見に蹴散らされる 木戸孝允「肥前人と云、器械と云、陣制と云、尽相整居、殊に当候頻に進軍、兵士も一層之気力相振ひ、至て評判宜敷」
『無慮雑集』(文久二年)魚尽し之時評
肥後(熊本) 鰐の子 成人の後恐るべし
鍋島(佐賀) 鰐 呑もする、はねもする、恐るべき勢ひあり
紀州(和歌山) ゴマメ 魚の数のみ、取に足らず
芸州(広島) はりのむきみ 魚の数にはいらぬ
吉田松陰…安芸国内の「風教の退廃」憐れむべし。広島の街は子供の物売りと乞食で溢れている。
吉田松陰「殊に中国(山陽、山陰)最も柔弱と称す」
ミ ⌒ 彡
(∩Д∩) シクシク
( )
し⌒ J 武田信玄=メジャーリーガー
毛利元就=マイナーリーガー >>113
風土歴史伝統が近代郷土部隊じゃけぇのう。
>>114
真逆じゃに、弱兵揃いのマイナーローカルの東日本じゃの問題外で、>>107
が如く逃げるけぇのう。
>>111-112
出典提示出来ん大嘘こくんも軟弱九州もん晒しよるわ。他スレで云うたろう。
724 :白馬青牛 ◆MSPArYuLmJK6 :2014/10/06(月) 00:59:54.02
>>722
平治の乱でも、治承・寿永の乱でも、各豪族が分かれて行動しよったし、
瞬殺された事件じゃの無ぁわ。役職追放された豪族でも多くは土着したし、東国武士が
地頭として移住してきても、初期の婚姻相手は地元豪族じゃし、地元豪族系を抱える
ことで武力、兵力が成り立つんよ。
平賀勢自体、九州で攻略武勲を立てても一度も合戦で負けたことも無ぁし、
家臣を闇討ちにしたら、勝ったと喧伝する九州人は姑息で哀れじゃのう。
大友にも毛利は負けたことが無ぁし、大内輝広が大友に尻掻かれて(そそのかされて)、山口で
反乱したけぇ、毛利勢は立花城も落としたのに、退却し大内輝広征伐に向かうて、
殿の浦宗勝さんらを立花道雪らは闇討ちしようと麻生隆実さんに実行せえと命じたが、
麻生さんは、小早川隆景さんに、闇討ち計画に加担せん手紙を送り、護送したよ。
関ヶ原でも、広島勢は戦闘しとらんよ。引き蘢り云うたぁ、徳川派の吉川広家さんが
家康の真裏の最先頭で動けるわけ無ぁし、背後が敵を襲うじゃの、正面激突に強い
広島勢は恥じゃけぇ出来るわけも無ぁわ。正面激突に弱い、側面攻撃しか特技が無ぁ
九州人の価値観を投影してもつまらんわ。 >>111-112
{こっちの史料にも平賀氏のことが出とるよ。
http://www.tt.rim.or.jp/~kuwano/senju/page002.html
「嘉吉二年(1442)
三月十一日 室町幕府、平賀頼宗の筑前国嘉麻郡千手城における協力を賞す。
平賀頼宗が 大内教弘の軍に属して千手城の攻防戦に参加。
(「嘉穂地方史古代中世編」)三月十四日 室町幕府、平賀頼宗被官人の
筑前国嘉麻郡馬見における軍忠を賞す。少弐勢と馬見に戦った折、その被官が
疵を受けたので、大内教弘が幕府に注進し、幕府はこれを賞した。
(「嘉穂地方史古代中世編」)」
まあ、九州は平賀勢にゃガチンコ合戦じゃ手も足も出んよ。
四国の河野氏も、毛利の河野氏が攻められた時の援軍の平賀勢の活躍を御高名
誠に比類無きと 感謝しとるし。 }蹴散らかせられたんは、毎度広島に負ける
九州勢じゃし。 >>113
戦国期でも、>>115-116が如く、正面激突を怖れる薩摩の釣り野伏せり戦法の
オカマ戦法しか出来んのが負け癖の九州よ。じゃが、薩摩んもんは、関ヶ原の
遁走負け戦の突破自慢で負け犬根性自慰しても、正面の敵を撃破してこそじゃが、
徳川勢が自軍の犠牲者を増やさん為の正面を開けた情けにすがり、部下将兵が
追撃線で戦死者増大した癖に逃げられた言い訳が正面で敵さんも壊滅せんと逃げた
近代じゃ軍規違反の分際の薩摩が大物垂れてどうすんなら。
敵さんを壊滅せにゃあ、逃げ道開かれただけの負け犬も、
薩摩がローカル日本的な甘えの構造に漬かりよった負け犬分際がしれっとして
カバチ垂れる立場におるんかいのう? 信玄が織田徳川連合軍に完勝したってのはどうだろう…
いや一応織田徳川連合軍ではあるんだが信長は家康に無理して戦うなって制してるからなー 信玄が織田信長や徳川家康の首を取ったわけではないので
完勝と言ったら敵将の首を挙げて土地を占領することだし アホが
武田信玄の相手は強敵ばかりだが
毛利元就の相手は弱小武将ばかりだから武田信玄に軍配があがる ,
武田信玄=メジャーリーガー
毛利元就=マイナーリーグの三冠王 そもそも毛利元就と比較しても生きてた時代が違うしな
武田信玄がそれほど強者なら上杉謙信と長年ドンパチやって引き分けとか
晩年の上洛の時も織田を北へ引き付けるために朝倉に早く出陣してくれと
懇願しているし 信長でさえ完敗した上杉謙信と互角に戦い抜くなんて強すぎるぜ信玄!
>生きてた時代が違うしな。
そうさ元就なんて地方の豪族しか相手にしてないわけで
信玄が相手にしてた氏康、謙信、家康みたいな全国最強クラスと一度も戦わずじまい。 北条氏康
上杉謙信
織田徳川連合
この中の一人にも匹敵する武将と戦闘してないのが毛利元就 毛利元就が鬼の島津一族に圧勝したとかなら戦国最強の称号を与えてもいいけど。
毛利元就の史上最高の敵が陶晴賢では格落ち感が否めない。 まあ陶晴賢ごときでは謙信や氏康の代役にはなれんよ。 吉田松陰「柔弱日本の柔弱中国」
日本は昔より柔弱国なり。大は兵戦少く、小は殺伐少きを以て知るべし。
殊に中国最も柔弱と称す。
(『吉田松陰書簡集』)
「柔弱日本の柔弱中国(山陽、山陰)」
____.ミ ⌒ 彡
〜/ ▼▲<;`Д´>
.| ▲▼▲ |
.|_|_| ̄ ̄|_|_|. 確かに中国地方は柔弱だからこそ突出した謀略家が生まれたのである >>125
武田信玄っていったい誰に圧勝したんだ?
神官上がりの諏訪に勝って娘を側室にしたことが
信玄最大の功績とかいうなよ?
しかも諏訪の孫の代に武田はほろんだし >>129
織田徳川連合に圧勝してるぞ。
織田信長には完勝した上杉謙信が一度も勝てなかったのも武田信玄だけだな。 三増峠の戦いで
信玄は北条軍にも圧勝してる。
若いときは失敗することもあった信玄だか40を超えてから一度も負けることがないまま無くなった >>131
織田信長をやたら敵視して圧勝、圧勝いうのだけど
首も取れず上洛も許して圧勝も何もない で信長は信玄に勝てずじまい
だが信玄は織田徳川連合に圧勝したし北条軍にも圧勝してる 中国は昔より柔弱地方なり。大は兵戦少く、小は殺伐少きを以て知るべし。
殊に広島最も柔弱と称す。
(『平尾プロ書簡集』) 毛利元就は中国に生まれなければ偉人になれなかったことは確実。 >>135
信玄は今川義元が織田信長に敗れたのを機に三国軍事同盟を破棄
今川領侵攻は行ったが
信長の尾張領には一切侵攻できていない 毛利元就の最強の敵が陶晴賢では上杉謙信の相手にならんよ。 マイナーリーグの三冠王だな毛利元就!
強いことは強いけど土俵に恵まれている。 大相撲でいえば十両なら10連覇できるけど幕内では平幕筆頭が限界なのが毛利元就 元就が天下を望まないと断言してたのも自らの実力を理解してたからである . ミ ⌒ 彡
( `・ω・)
| ̄ ̄ ̄ ̄(二二二二(@
Г/____Шヽ_
(ヽ_______/ キュラキュラキュラキュラ
ヽ(◎◎◎◎◎◎/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ >>140
だから家康の首を挙げてないw
武田勝頼が織田信長に敗れたみたいなのを惨敗という 首を取れてないけど織田徳川連合を追い出したなw
信長も家康も信玄存命中は一度も勝てなかったわけだw 信玄が生きてるときは手も足も出なかったから仕方ない 武勇 元就>信玄 元就>謙信 信玄=謙信
統率 元就=信玄 元就=謙信 信玄=謙信
知略 元就=信玄 元就>謙信 信玄>謙信
政治 元就<信玄 元就<謙信 信玄=謙信
後継者 元就>>謙信>>>>>信玄
みんな勘違いしてるけど元就は少数で大軍に突っ込んでいく脳みそ筋肉の
三国志でいったら張飛みたいなタイプだから、反面教師で息子が立派に育っただけだし >>120 >>128 >>151
>>102からの現実逃避してもつまらんわ。
謀は、>>115の正面激突に弱い九州もんがやることじゃし。 >>123
越後勢も東日本じゃ、最上みたぁな東北勢と互角の強さで、関東や甲斐たぁ圧倒的に
強いが、越後上杉も東北最上も中国地方じゃ雑魚レベルよのう。
>>125
九州征伐でも、薩摩島津勢は毛利、黒田の山陽道もんに一回も勝てんし、正面激突じゃ、
四国の長宗我部たぁ弱いけぇ、釣り野伏せりの薩摩オカマ堀り戦法で勝って、
豊臣秀長軍にゃ圧勝出来た程度で、島津勢大したこたぁ無ぁし、関ヶ原でも遁走劇を
正面突破とホラ喇叭吹き自慢しよんで(笑)。敵さんを正面で壊滅させにゃあ
勝利じゃ無ぁし、徳川勢が正面を開いて島津勢に逃げ道与え、敗走追撃の
逆オカマ堀りで島津勢がオカマ掘られただけじゃなぁか(笑)。
関ヶ原の毛利、吉川勢は家康勢の背後じゃが、戦場でのオカマ堀りは、
「中国者の律儀」と、正面ガチンコの伝統から出来んけぇのう。中国(地方)もんは、
戦場の礼を重んじるし。手段を選ばん東国や九州の辺境田舎者の戦さはやらんよ。
ほいじゃが、こっちの薩摩文化スレ過疎に成ったのう。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1475327275/ >>127-136
出典提示せん大嘘こき宣伝の九州人君は、どこんスレでもお出ましじゃのう。
>>142
陶晴賢や大内勢や尼子勢、宇喜田勢や黒田勢からしても鈍重越後の上杉勢は雑魚よ。
こっちも過疎じゃのう。「戦国時代の新潟県民はなぜ戦闘力が高いのか」
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1472036012/ >>145
天下じゃの下司な腐れ根性は、、毛利や契約関係の芸備の国人衆武士団にゃ
更々無ぁよ。隣の山口県の大内は中央の室町政権に介入したり、朝鮮の李朝に
対馬割譲するけぇ、李朝の家臣して半島内に領土呉れじゃの欲こくけぇのう。
毛利本家が関ヶ原以降山口へ行ったけぇ幕末維新も山口強欲天下取りの維新と
成ったんも、大内体質の土地柄風土影響じゃし、安芸時代の毛利は広島の
土地柄風土ゆえ、中国地方まとめるだけのモンロー主義よのう。
しかも、安芸国人衆武士団が、陶、大内勢駆逐して、山口県の領土を配分されても、
代官置いて安芸本領に住んだし、毛利輝元時代に広島城下に国人衆の屋敷を作っても、
本領で過ごし城下に集まらん。ほいで輝元さんは、秀吉に検地の動員の遅いんは
家臣の言い成りになっとると怒られたわけじゃが、国人衆にゃ毛利家は同格の
契約関係でまとめ役でリーダーとしての存在じゃけぇ家臣意識は更々無ぁけんのう。
毛利家が山口へ移っても、国人衆の分家筋はほとんど広島県に残ったけぇ、
広島んもんは他所にゃ興味無ぁよ。 散るぞ悲しき〜辞世の唄
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
歴史上の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。
泣けるよ。凄く出来が良い。 〇平尾1名(福岡県) vs 岡っ引き6000名(広島県)●
ミ ⌒ 彡 一度でいいから見てみたい
( ,_`ゝ′) 廣島が九州を負かすとこ、ホモ丸です。
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( ̄ ̄( ヽ_)ヽ(_ノ\
( \ (´`ゝ ) `)\
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(\\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
(\\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
\\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄)
\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) >>150
小勢で正面の大軍へ激突するんが広島の戦闘法じゃし。
https://hayabusa6.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1493122479/163-165
広島神機隊「駒ヶ峰の激戦」じゃが、寡兵の神機隊が、他の官軍諸藩兵がその無暴を
嗤笑する中、 「剣を抜き吶喊して突撃を為し、躍りて駒ヶ峰関門前なる敵の砲台に
登り、縦横斬殺し、賊兵は 死屍を捨て 遁走せり。」 四日後は駒ヶ峰奪回をはかる
奥羽同盟軍が大挙襲来し、「賊兵頗る猛烈なりしが、我も亦寡兵を以て奮戦し、
遂に旗巻嶺下に撃退し、」 …近代郷土部隊でも、
「敵前で橋を渡るなどということは、常識はずれだ。せっかく連隊主力が上流で渡河
したのだから、そのコースを利用するのが常道である。が、本道上に待機していた
一部隊は、本隊が対岸で戦闘を始めると、やにわに橋を突っ走って行ったのである。
どういう考えだったのか、それは判らない。 「たいしたこたァ、にゃァ(ない)」と、
思ったのだろう。 しかし、この無謀な突撃で、橋梁付近が一大乱戦場になったのは
事実だ。
大戦果には必ず、こういう常識はずれの行動が付随していることが多い。捨て身に
なって奮戦していたグルカ兵が、この緒戦に敗れてからは、日本軍の姿さえ見れば、
逃散するか、両手を頭上に上げてゴム林から出て来たのは、この最初の一撃がいかに
痛烈であったかの証明であろう。」 これが、広島人の戦闘のやり方よ。 >>150
物量火器の兵器や迂回、後方突くオカマ戦法で敵さんを制圧勝利しても、
敵さんは精神的ダメージが少ないが正面ガチンコの特に原始的な白兵戦なら
勝負付けが出来て、敵さんはガチンコで負けた精神的ダメージから、次の戦闘じゃ
逃げ腰に成る。火力戦の勝ち負けと違い、接近戦闘、つまり白兵戦で負けた方は、
劣等感で負け癖がつくけんのう。
戦闘行動以前に部隊対抗の喧嘩でも同様じゃ。人間の有史以前からの
生物的闘争本能と云うべきか。 白兵戦で勝った方は戦闘主導権を握れる。
広島郷土戦記にも、
「白兵格闘ーそれは敵兵と直接肌を接して刺殺し、組みつき、殴りつけ、瞬間の
動作が、 そのいずれかの生命を奪うことになる。余程の自信と気迫がなければ、
相手に気負けして 討ちとられてしまう。白兵戦は戦闘の最終の場面であり、最も
原始的なものである。 いかに 最新兵器を駆使して、莫大な 物量を叩き込んでも、
所詮は人間の対決である。」 >>157
わしら広島人は、他地域の日本的散り際の潔さの自虐負け犬根性は持ち合わせとらんよ。
勝たにゃあ意味が無あし、負けて玉砕散華しても負け犬となる戦場の勝敗だけが結果として
反映するだけのことに、感情情緒は必要無ぁわ。要するに勝たにゃあ意味が無あし、
如何に善戦して散ろうと、負けたら負け犬に過ぎん弱い日本軍に過ぎん結果しか無ぁわ。
>>158
足軽(同心)下級武士の警官を犯罪者前科の密偵岡っ引きたぁ違うけど、戦闘力なら
岡っ引きよのう。岡っ引き業下請けは、戦闘力も優る被差別系じゃったし。
被差別系の人らは、広島でも定住せん移動民の「山窩」取り締まりも見逃す
人情があったし、同し被差別部落に保護するよう、上意下達の忖度はやらんよ。 武田信玄は守護大名
毛利元就は豪族の親戚筋だっけか 宮島行ったら、毛利元就の周到さ知略の底知れなさを理解出来た。
宮島なんて本来無視して進軍すればいいのに、
厳島神社という地域信仰の中心があり、宮尾城でビクビクしてるなんて情報聞いたら、わざわざ寄って捻り潰したくなる。
しかも挟み撃ちにうってつけの場所。後ろの急な山から攻めて来て前の海からも襲撃されたら、大軍は大混乱、迎え撃つ体制も取れない地形で逃げるにも一方的に追撃受けるしか無い地理。
これを頭の中で策略張り巡らすのはとてつもないよ。
単に挟み撃ちだけではない深謀遠慮を感じた。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
XCI >>1
2人ともソウルメイトかと思うぐらい性格が似てる 時代によって勢力の発達は違う。
元就の時代、日本で頂点を争っていたのは、天下人・大内義興と乱世の梟雄・尼子経久。
元就はその両雄の勢力を孫の世代で飲み込んだ。
信玄の時代、東国は突出した勢力はない。
と言うより、地方勢力が同じように伸張して育ち、割拠した勢力がぶつかり始めた感じ。
勢力差があったのは元就の方だけど、元就は大勢力の世代交代の間隙と混乱に乗じた下克上。
信玄は王道の国家成長。
両者の土俵は似て非なる感じ。 >>172
信玄は甲斐守護だろう。下克上じゃない。 >>174
信玄は守護が普通に成長してますね。
だから王道の国家成長と書いてます。 >>176
信玄の信濃攻略は王道の国家成長ではないだろうw
同盟結んでた今川攻めて同盟破棄に怒った後北条が信玄の娘を送り返してるし 越後佐橋からきた毛利元春は吉田郡山に城を作り安芸を侵略
大内と京極(のち尼子)の間で上手く立ち回り
元就のときに安芸の守護である武田氏を滅ぼした
安国寺は安芸武田の子孫 朝鮮ヒトモドキ伝統の贈答品
アハーンニダ ノ)
∧_,,∧∩ / ノ
< `∀´>ノ' ./
( -、 ~⌒`つ ちんコロ自粛陰謀なんかに屈せず、山梨県博の信玄生誕500年展に行こうぜ! >>187
強さで貧弱な甲州兵が安芸の国衆武士団に勝つんは無理じゃのう。
朝鮮の碧蹄館の戦いでも、最も困難な正面激突でガチンコ勝ちしたんが、小早川隆景が
率いる藝州兵で日本最強よのう。幕末戊辰戦争の浜通りでもチャンバラ白兵戦の
正面攻撃の藝州神機隊が最強じゃったし、近代郷土兵団でも、廣島聯隊は日本最強の
実績と武勲ゆえ、他地域たぁレベルが違うんよ。 セコい
比べるなら武田氏同士、甲斐武田氏と安芸武田氏で >>197
安芸武田氏の将兵の方が、広島の狭い土地柄で、接近戦、正面ガチンコ白兵戦に
慣れとるわいのう。
戦闘の勝負付けは、原始的なチャンバラ白兵戦で決まるけぇ。
負けた方は、劣等感ですぐに逃げる弱兵に成るよ。 安芸武田氏って安芸残留組より長州組の方が世を牛耳ってる印象 >>199
安芸武田氏は、山口県移住たぁ、安芸へ残ったもんが多数派じゃし、わしにもその血が
入っとるけぇのう。世の中牛耳るじゃの、奸物の武田系は、安芸にゃ、安国寺恵瓊さん
くらいしかおるまあ。
山口県は、左翼革命思想ドグマの奸物だらけじゃが。 >>201
安国寺の坊さんも、戦さ知らずで、結局、ピエロ演じたわけじゃし、悪意が
あったわけじゃ無ぁし。 ここでのピエロって、具体的にどういう立ち回りを表してるの? >>203
安国寺恵瓊さんは、石田三成に肩入れして、蔚山独断奇襲の吉川広家さんを軍令違反と
して批判た石田三成の秀吉へのチンコロも止めとらんけぇ、吉川広家さんは家康に
肩入れして騙されたわけで、毛利家が機能戦ように成ったけんのう。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523533562/56-59
[吉川広家さんは、加藤清正さんから感謝として馬印を渡されたけど、広家さんの
独断奇襲に軍令違反と因縁付けたんが、戦さ知らずの石田三成で秀吉に密告まで
しよったんを、広家さんの戦いぶり尤もなことと徳川家康が取りなして、
広家さんは家康に義理を作って仕舞うたけぇ、関ヶ原戦でも動かんかったし、
家康の背後から襲うんは正面激突の中国者として恥じゃし二重に出来んよ。
まあ、吉川広家さんは、お人よしで賢明な方(小早川隆景)を失い、毛利家が
に成ったと愚痴ばっかし云う人じゃったが、逆にお人よしゆえ、部下家臣の
云うこたぁ聞くけぇ、蔚山独断奇襲も歴戦の家臣らが敵さんのわずかな乱れに
今じゃ!云う「時」は、そん通り逃さす断行する指揮官としての徳は持っとった
けぇのう。
指揮官の能力とは「戦利、戦略にあらず、その人徳の識見である」よ。] 甲斐の連中は武田を主人公とした劇
安芸の連中は群像劇としてみると面白い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています