★★ 邪馬台国は【葛城】である【2】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。
わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた女王国とは葛城王朝であった。 >>108
畿内じゃないから、奴婢だけ集めた部落なんてないだろ。
部落なんて奈良県の恥だと思えよ。 >>107
じゃあ奈良県はゼロでいいよ。
ますます奈良の過疎ぶりが際立つな。 >>106
>では、それ以前は奈良盆地は完全な無人の荒野か沼地だったのか?
いや高天原(御所市高天)大国主が住んでおられました。
関東から半島中部まで支配する大きな国の王だ。
防人さんの土地・平原には王はいない、残念w >>110
じゃあ奈良県はゼロでいいよではなくて、
おまえが適当な数字を出したことを謝れカス。
ほんと古田狂徒はzarakokuもそうだが平気で嘘をつく。 >>109
大和朝廷の発祥地・葛城には大きな奴婢郷がある。
国栖(くず くにす)に関わる地名もあるから土蜘蛛と関連しているのであろう。
王権と奴婢郷が併存してる葛城こそ帥升の土地であり、
「其の国の男王」がいた邪馬台国である。 魏志倭人伝の邪馬台国周辺の17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)。
畿内の地名の多くは、九州北部から7世紀末に移転したもの。
有名な話だ。 九州の地名の多くは、大和から7世紀末に移転したもの。
有名な話だ。 八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を土蜘蛛と称して粛清している。
土蜘蛛とは、筑紫倭国の逆賊のことを呼んでいた。 旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>118
>日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった
日本書紀の最大のトリックは神武の時代が女王国であったことをごまかしたのだ。
神武の5世代前のスサノオが倭国王帥升であることを知られたくなかったからだ。
土下座外交って弱腰外交という意味であり今でも批判されたりするけども、
本当に土下座しちゃったんだから、スサノオさんはw 日本書紀は白村江の戦勝国である唐への土下座外交(遣唐使)と同時に編纂したんだよ。 >>120
白村江に勝ってたら精神的優位性からも素直に朝貢した事実を公表していたであろう。
つまり帝紀・旧辞をそのまま公表したはずだ。
古代天皇が100歳超えることもなかったわけだ。
スサノオやアマテラスを神話にすることもなかった。
大和朝廷発祥の地・葛城の高天原(御所市高天)におられたのだから。
まぁスサノオは古事記の最高神・迦毛大御神(かものおおみかみ)として、
今も高天原(御所市高天)にある日本最古の神社で祀られてるわけだが。 ageてくれるおかげでわしの>>1が多くの人の目に留まる。
それが狙いだ。
わしの>>1は間違えていないからだ。
やれ邪馬台国が纏向だ、平原だ、もういい加減にしよう。 やれ邪馬台国が葛城だ、平原だ、もういい加減にしよう。 やれ邪馬台国が葛城だ、纒向だ、もういい加減にしよう。 日本書紀原文
巻第四 綏靖天皇〜開化天皇
曰渟名底仲媛命、事代主孫、鴨王女也。磯城津彥玉手看天皇十一年正春正月壬戌、立爲皇太子
この曰渟名底仲媛命は3代安寧の正后。
ヒメ踏鞴にとっては姪っ子にあたる。
記紀では神武は終始天皇と書かれている。
しかし神武の時代に天皇なる称号はない。
したがって神武はとりあえず「役職なし」であるわけだ。
その時代に神武の血筋ではない人物が王と明記されている。
つまりクシヒガタが実質の王であった。
この鴨族(神族)の男王こそが大物主であり崇神時代まで続く。 >しかし神武の時代に天皇なる称号はない。
大王もない 都美の長髄彦との関係はどうなっているんだよ。
同じ鴨王だろ? >>128
ちなみに妃や皇后という称号もなかった。
初代皇后云々は根拠にならないということでよろ。 >>131
>>83
>葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
>(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)
に詳しくまとまっていたよ。 >>131
3代安寧の正后ヌナソコナカツ媛のお父さんでクシヒガタ。
役職は申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)
今で言えば総理か官房長官といったところか。
本当は王であったが倭国大乱を鎮めるため妹を王にたて、
自らは申食国政太夫に下がったと見ている。
魏志の男弟とはこの人物の事だ。
男の弟とは変な表現だ。
この弟とは徒弟の弟、つまり臣下の意味であろう。 >>133
>葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
>(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)
結構面白いが登美家というのはいらん。
トミとは物部の名称。
磯城にトミ山やトミ神社がある(漢字変換めんどい) >>141
ならばここは自己空想するところなんだな。 >>142
まずベースに>>1がある。
これは論破されない。
崇神が4世紀前半であることはほぼ確定であるからだ。
ということはヒミコは決まり。
せいぜいヒミコ=生涯独身説のくだらん反論をすればいい、
まぁその程度しか反論が思いつかないであろうが。
ヒミコが決まりならば後はどんどん見えてくる。
纏向遺跡が物部遺跡、男弟はクシヒガタ、ヒミコの宮に出入りする只一人の男はタギシミミなどなど。
ヒミコが正しいのだからこれらも正しいのだ。 >>93
単純に「奴」国からじゃね?
国名に意味があるなら、だけど。 卑弥呼とは関係ないが、畿内政権の成立過程を探るにはいいかもしれないな。 >>140
登美の長髄彦が祭っていたのが、物部の祖である天津神の饒速日だろ。 >>147
畿内の地方政権であるところの、大和政権の成立過程を楽しむスレです。 かもせんせーのはっそーはなかなかえー
せっとくりょくは0じゃが^^ テンプレ長い巻向スレはたたんな
こんやはのみつぶれるまであらしたろとたのしみにしてたんじゃが だれぞきのーのいのうえあさひちゃんのeてれさんぎょーくらいでまとめれいやまとめてください で、長髄彦とヒメタタライスズヒメの関係は?
記紀編纂者としては、2代目の天皇が長髄彦と血縁の姫の息子であるというのを知られたくなかったので明記しなかったのだろうが。 ■比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)
http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1002618084.html
イスケヨリ - 神武皇后、スカトロ的出生譚の美女
東遷完了後の初代天皇・神武天皇が改めて嫁取りした際に選ばれた皇后。二代天皇・綏靖天皇の母。
母親がうんこしている時に、オオモノヌシが化けた赤い矢が女陰に突き刺さったことで誕生する、というスカトロ的な出生譚を持つ、絶世の美女。
当初名前が出生譚にちなんで「ほとたたらいすすきひめ」となっていたが、ほと=女陰を嫌って、比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)に改名。
「ホトと呼ばないで!」という名言を残す(?)
神武天皇がイスケヨリとの合体を楽しんで述懐した歌を送られている。 >>11
わえのかんかくだと
すさ 紀元前3世紀から紀元前1世紀
いずもおーちょーはそのあと
ちなみによすみは3世紀いこーで出雲おうさんはひがしにおいやられる かもせんせーはすこしお下劣やね?
女子がROMってくれませんよ? ふむ。
スサノオは出雲王朝の祖だからな。
だか、出雲王朝を倒してから四隅ができたなら、3世紀より早くに出て来ていないとね。 よすみとびだしの分布変遷はじゅーよーじゃ
じんむとーせーが史実なら時期のてがかりになるやろ いんべ?くんはよーしらんが分布がヤマト系やな
いずもおーちょーのあと台頭したんじゃね? >いんべ?くんはよーしらんが
自分のご先祖さんをよーしらんとは トホホ ちなみ(にほんかいせとないかいはんとーなんがんじょーもんからあらしてたのがわじんのそ(にほんごつくったのがむなかた(ほんきょはかんもんしゅーへんでわえはこだいむなかたと定義しちょる(なぜかごびはりょーま(もののべと一部重なるのでなんかあった? 古田は関係ないだろ
なんでも古田にするなんて、ただのコンプレックスになってないか? >>168
何でヒミコをミカヨリ媛なんて言ってたおっさんにコンプレックスを持つのだ、
意味が分からん。
倍歴論も大笑いだしw お!せんせーはふるたくんきらいなんか?
むなかたにはんのーしたんか(じょーもんまるききりぬきかぬーぞくにへんかんしてよみなおしてくりゃれ さくやはやせーごーとーじょーしたらしーが
はにはのしばりでつくったまじめというかわじんをこけにしとるいうーか
あずまくんのしったいやな
呉のこーそくはんせんもでるにすればけっかちごてたかもな ゆーしょーはふくおかか
じっしつじゅんゆーしょがたいがーすやな >>169
その説には反対だが、イスケヨリ姫説も同レベルだぞ。
姫という単語に脊髄反射で飛びつくなんて。 ※数字は実際に生きてたであろう年代
崇神天皇陵=行燈山古墳=4世紀初頭から前半
I崇神(310年)
H開化 G孝元
F孝霊
トヨ津 D孝昭 E孝安
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた女王国とは葛城王朝であった。 >>178
古田ごときとわしを一緒にするな。
3世紀初頭にヒメという最高位の女性がいた。
それでいいのだ。
神武東征紀とは、実は女王国であったことを隠すため。
記紀では4世紀後半の神功皇后を強引に120年ずらし卑弥呼時代にもってきて、
本当の卑弥呼が誰なのか隠そうとしてるよね。
神武東征紀という雄々しく猛々しい男王を読み手に強烈に植え付けることで、
実は女王国であったことをごまかしたのだ。
それが日本の歴史の真相だ。
これらは全部、ヒメ踏鞴や神武より5世代前のスサノオこと倭国王・帥升の「海を渡って中華皇帝に土下座」した、
日本の歴史上、最も不名誉な史実を隠すためだ。 さてヒミコがヒメ踏鞴と決定したので、
肝心のヒミコの宮であるが、
息子の綏靖が御所市森脇、
亭主の神武が御所市柏原、
これを考慮すると、
御所市名柄の長柄神社であろう。
もちろん式内社であり別名「姫の宮」
https://goo.gl/3ciKML
全国で唯一、銅鐸と鏡が同時に出た名柄遺跡のある異色の地域である。
長柄神社の祭神はシタテル姫。
ヒメ踏鞴ではないじゃないかと言うだろ?
シタテル姫でいいのだ。
鴨族(神族)の中ではヒミコことヒメ踏鞴より5世代先輩の最重要人物。
このシタテル姫こそアマテラスの原像になった人物だ。
そして高天原(御所市高天)にある高鴨神社で、
古事記の最高神・迦毛之大御神ことスサノオとともに祀られている。
つまり葛城とはシタテル姫こそアマテラス、迦毛之大御神ことスサノオが祀られ、
後にヒミコことヒメ蹈鞴が住み、大和朝廷が発祥したとんでもない地域なのである。 まあ、このスレでは何を書いてもいいさ。
自分のスレなんだから。
でも他のスレに絨毯爆撃するのはやめろよ。 >>183
自分はここを荒らしてもいい、
しかしおまえは九州説関連は荒すなとでも言いたいのか?
年表投下したくらいで絨毯爆撃というなら、
おまえら九州説がいかに弱いかという話さ。
まぁ敗残兵は纏向説のバカと一緒におとなしくしてろ。 根拠も何もないゴミを絨毯爆撃されたら迷惑ですのでやめてください。 今の皇太子浩宮殿下はその気さくなお人柄から、周りの宮内庁の人たちから「殿下」と呼ばれてるようです。
雅子様も皇太子を「殿下」と呼ばれてるようです。
それを聞いたアメリカ人が皇太子を「denka」と表記した、とする。
それと同じように、
魏志のヒミコも周りから「ヒメ」と呼ばれていたのでしょう。
魏使はそれを「卑弥呼」と表記した。
7世紀の朝廷は卑弥呼が誰なのかとっくに分っていた、しかしそれを隠したい。
本来は「比売命」「姫命」「媛命」と表記すればいいだけなのにそれならヒミコだとすぐばれてしまう。
よほどのアホ(例えば今の古田説支持者)でもヒミコだと分ってしまう。
だから出雲族の象徴である「踏鞴」妹と同じ「五十鈴」を加飾し「媛蹈鞴五十鈴媛命」とした。
古事記に至っては「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)と記し、
この名前を恥ずかしがって「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)
に変えた、などと記す。
変えたのなら最初から比売多多良伊須気余理比売と書けばいいのにそうしない。
これはできるだけ「ヒメ」つまり卑弥呼の印象から遠ざけようと画策した魂胆が見え見えなのです。 >>188
おまえの敗残兵の嘆きのような短文レスは聞き飽きた >>180
>それでいいのだ。
鴨厨は天才バカボンだったか 日本の歴史上、最も不名誉な史実はアメリカの植民地になってることだと思うけどな
アメポチは反日、国賊、売国奴である >>194
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 「大和」と付いている。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波なのに「倭」とある。
筑紫倭國は? >筑紫倭國は「倭」発祥の地である
自己空想ではおもろうない わしはヒメ踏鞴五十鈴媛がヒミコであるという説だが、
もしそれ以外にヒミコがいるとしたら、この人。
先代旧事本紀に出てくる日向賀牟度美良姬「ひむかのかむとみらひめ」
ヒミコの発音に近い「ヒム」だし。
日本書紀に神武の血統ではないのに鴨王、「王」と明記されてる人物、
天日方奇日方命(長いので)クシヒガタの后になる。
神武の義理兄の奥さんでありヒメ踏鞴の義理姉。
だから女王と言われる地位に近い女性だ。
また崇神4世紀前半なら6世代前、この人も候補にはなりうる。
しかしまぁ鴨王ことクシヒガタが奥さんを立てて政治を行ったと考えるより妹を立てたと考える方が近いであろう。
そしてクシヒガタは
申食国政太夫「おすくにのまつりごともうすのまえつきみ」という役職に退く。
退いたと言え今で言えば総理か官房長官か。
魏志の男弟、これは男の弟とは変な表現なので、
実の弟ではなく徒弟の弟と考える。臣下という意味。 卑弥呼=「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だったそうだ。
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 >>202
2人しかおらんわボケイ。
誰か出せや早く。 その「大ゲロ媛」があなたの遙かなるご先祖様なんだからどうにもなりません。www >>193
白村江で負けて占領されて国が滅んだ筑紫倭国は日本国ではないからノーカウント? >>201
日向の神トムラ姫とはまたすごい名前の人物を見つけたものだと少し感心した、
ただ、明らかに筑紫の日向にちなんでつけられた名前であり、筑紫の伊都国の日向(当時の発音を卑弥呼から復元するとピミカになる)が原典だろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています