神武の墓は壬申の乱の挙兵報告の場所に指定されるくらい普通に知られていた。
ならば7世紀の五色の賤の陵戸が置かれたであろう。
神武の墓なら誰にもましてイの一番に置かれたであろう。

ならばそれは畝傍山の丸山にあった洞部落であると断定できる。
実際、洞部落には代々神武の墓を護ってきたという伝承がある。
神武の墓は畝傍山の丸山である。
ということは神武の系統は前方後円墳ではなく自然の山を墓域にする一族であろう。

神武の祖先、やはり宮崎にちがいない。
父も祖父も場所は別として自然の山が墓の候補になっている。