★★ 邪馬台国は【葛城】である【2】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼の時代=庄内0式まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
驚くべき怠慢、惰弱。
わしは探した。
ほらトヨもヒミコもいた。
I崇神(310年)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安
トヨ津 D孝昭
トヨ津 (250年)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
つまり魏志に書かれた女王国とは葛城王朝であった。 >>7
>葛城 登美王家の初代、天日方奇日方命の御妹君。
>母君は、摂津三島(大阪府高槻市あたり)から嫁がれた生玉依媛命。
>>8
>神武と戦って、最後は饒速日に殺されてしまった登美の長髄彦との関係を明記せよ。
随分と勉強したよ。
活玉依姫は長髄彦(登美彦)の妹で、ともに摂津の三島溝杭命の子だ。
なので、イスケヨリ姫は登美の長髄彦の姪に当たる。 >>744
だからおまえは神武の墓がどこにあると思うの?
まさか博多なんて言うんじゃないよね? 大和に引っ越ししたから大和だろ。
でも、倭国の都全体は引っ越さないよ。
イスケヨリ姫は卑弥呼とは近い世代だが、倭国の都の邪馬台国とは関係ない。 いや、又従姉妹くらいには関係があるかもしれない。
イスケヨリ姫もまた、親族がたくさん筑紫にいそうだ。
本人は大和生まれの大和育ちだろうけれどもね。 新撰姓氏禄(815)によれば、賀茂氏には
@山城国神別(天神)−−以下「山城賀茂氏」
・賀茂県主(カモアガタヌシ) 神魂命(カミムスヒ)の孫・武津之身命(タケツノミ)の後也
・鴨県主 賀茂県主同祖 神武天皇が中洲(ナカツクニ-大和)に向かわれたとき、山中嶮絶にして跋渉するに路を失う。
この時神魂命(カミムスヒ)の孫・鴨建津之身命(カモタケツノミ)が大烏(八咫烏)と化して飛びかけり導き奉る。
天皇その功を嘉み厚く褒賞せり、天八咫烏(アメノヤタカラス)の号は此より始まる。
A大和国神別(地祇)−−以下「葛城鴨氏」という
・賀茂朝臣(アソン) 大~朝臣(オオミワアソン)同祖 大国主神の後也 大田田祢子命(オオタタネコ)の孫・大賀茂津美命(カモツミ)、賀茂神社を齋き奉る。よって姓を賀茂と負う
B左京皇別
・鴨県主 開化天皇(第9代)の皇子・彦坐命(ヒコイマス、10代崇神天皇の異母弟)の後也
と、大きく3系統があったという
令義解(833・大宝令・養老令の勅撰解説書)には、天神社・地祇社について
「天神とは伊勢・山城鴨・住吉・出雲国造が斎く神等是ぞ、地祇とは大~(オオミワ)・大倭・葛城鴨・出雲大汝神等の類是ぞ」
と記しており、9世紀の頃には、両氏は同じカモを名乗るものの異なる氏族と認識されていたらしい。 >>746
>大和に引っ越ししたから大和だろ。
>でも、倭国の都全体は引っ越さないよ。
>イスケヨリ姫は卑弥呼とは近い世代だが、倭国の都の邪馬台国とは関係ない。
おまえ神武が九州倭国(大笑い)から大和に向かったって説?
ならば聞こう、先妻アヒラツ媛の痕跡が福岡のどこにある?
宮崎県日南市にしかないのだが。
>イスケヨリ姫もまた、親族がたくさん筑紫にいそうだ。
>本人は大和生まれの大和育ちだろうけれどもね。
そうするとお父さんの事代主も大物主も筑紫なのか?
ヒメ踏鞴の母方の祖父は三島溝咋といって大阪の茨木市周辺の人物、
日本最大級の東奈良遺跡が彼らの根拠。溝咋神社、五十鈴神社も存在する。
ここまで頭のいかれた半チョン福岡田舎ッペ君も珍しいw
まぁzarakokuと同類だろうな。 訂正
溝咋神社にヒメ踏鞴が祀られ、近くに五十鈴町という地名も残るという事ね。 >>74
天津神・国津神
天神・地祇
こういう概念も7世紀に出来た。
勝ち組が天神を名乗っただけ。
実際は弥生中期から高天原(御所市高天)に住み続けてた人たちが天つ神。
スサノオも大物主、事代主も天の神。
しかし崇神という人物にクーデターを起こされた。
太古から続く出雲系王朝が倒された。
以降、地祇だの国つ神だの訳の分らん呼ばれ方してるだけ。 事代主は出雲からとちゃんと書いたぞ。
三島溝杙がどこから来たかだけど、高天原または九州だろ?
つまり、奈良盆地のすべての勢力が筑紫、出雲、高天原のいずれかから入植しているんだよ。 てむぱ礼賛wwwwwwwwwwwwwwwwwwのでしょう 三島溝杙の父は大山祇とのこと。
大山祇は、高天原から筑紫の日向に来た邇邇芸が娶った木花咲耶姫の父で、能古島で国生みを始めた伊弉諾の子とされている。
大山祇は綿津見大神と同一視されていて、志賀島に祭られる博多の王に他ならない。
綿津見三神は住吉三神とともに伊弉諾が筑紫の日向の小戸で禊をした時に生まれたとされる。
つまり、大山祇(綿津見大神)と住吉大神はほぼ同時に筑紫の日向で生まれている。
大山祇の子の三島溝杙が摂津に上陸するのとおそらくほぼ同時に住吉も摂津に上陸したのだろう。
摂津住吉の住吉三神は抽象的で実像がよくわからないが、三島溝杙は家系図がわかるおそらく実在の人物であり、筑紫から畿内へ進出した様子がよくわかる。 畿内でも奈良や京都は内陸の後進地域だったが、摂津は瀬戸内海ルートで筑紫と結びつくことで繁栄し、そこから淀川と木津川で京都や奈良が開発されたわけだ。 >>753
>三島溝杙がどこから来たかだけど、高天原または九州だろ?
高天原は別としても何で九州なのかな?
根拠は?
そりゃ弥生人がどこから来たかとかいう次元の話になれば、
北部九州に方形周溝墓ができて、あっという間に西日本に広がる様だから、
北部九州が先となるが、それは弥生時代初頭の話しだし関係ない。
とりあえず弥生中期以降にしてくれ。
なんでヒメ踏鞴の祖父が九州なんだ?
適当な事を言うなよカッペ。 >>757
>高天原は別としても何で九州なのかな?
>なんでヒメ踏鞴の祖父が九州なんだ?
>適当な事を言うなよカッペ。
だから、三島溝杙の父が大山祇(志賀島の綿津見大神)だからだろ。 チクシチクシチクシチクシとうるさい、ツクツクボウシかおまえはw , - ―‐ - 、
/ \
/ ∧ ∧ , ヽ
./ l\:/- ∨ -∨、! , ', さあみんな集まってー!
/ ハ.|/ ∨|,、ヘ なんでも筑紫の適当な作り話が始まるよー!!
|ヽ' ヽ ● ● ノ! l
. 〈「!ヽハ._ __ _.lノ |
く´ \.) ヽ. ノ (.ノ  ̄
\ `'ー-、 ___,_ - '´
` - 、 ||V V|| \
| || || l\ ヽ 安満遺跡、弥生時代前期末〜水田、櫛、かんざし、方形周溝墓、
東奈良遺跡、銅鐸工場 亀井遺跡、弥生時代前期末、日本最古の分銅&分銅の製作 池上曽根遺跡、弥生時代中期、巨大丸太をくりぬいた井戸、鉄工房、高床式建物、 邪馬台国は奈良盆地である事は確かだが、葛城だとは思えんな。
卑弥呼の宮殿は明日香。
石舞台古墳に隣接する広場にあったんだから。
そこは葛城ではなく、蘇我氏のテリトリーのはず。
卑弥呼が亡くなったとき、その明日香の宮殿の前は大名行列で、
ものすごい人だかりだったそうだ。
そして、その行列の中、卑弥呼の遺体は大市墓へと運ばれていった。 それが俺が知ってる3人の超能力者の答えだよ。
一人はブルガリアの超能力者のベラ・コチェフスカさん。
もう一人は有名な宜保愛子さん。
もう一人はさとこのチカラのさとこさん。
3人とも卑弥呼の住んでいた場所は石舞台古墳のある場所で一致していた。
卑弥呼が亡くなったとき、宮殿前の道に人の大行列ができて遺体が運ばれていった話は
ベラさんの談。
大市墓へと運ばれたという部分だけは俺の推測だがw 古代史最大のキーパーソン10代崇神天皇がいつ頃の人物か。
それで卑弥呼も邪馬台国も決まります。
文献史的にも考古学的にも崇神は4世紀前半。
これはもう動かないでしょう。
そこを基点に組み立てない論は意味がありません。
4世紀前半の崇神からトヨやヒミコまでを普通に遡ればいい。
何も難しい事はない。
トヨもヒミコも普通にいます。
ヒメ踏鞴 神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安 ?
孝霊 孝元 開化
崇神(318年没)
ヒメ踏鞴の住まわれたのは奈良県御所市。
2代綏靖の宮といわれる御所市森脇や神武の宮である御所市柏原から近い、
御所市名柄にある長柄神社(別名・姫の宮)が最も有力だと思われます。
邪馬台国論争は終了です。 万世一系を言ってるのではない。
逆に今の天皇家はクーデターを起こした側の末裔だと言ってるわけ。
クーデターを起された側は太古から続く出雲王朝。
王の名称はオオモノヌシ。 三王朝交代説なんて昭和の真ん中あたり、もう60年近く前の説じゃね?
そっちの方がよほど古いわけだがw 安本さんがなぜ用明天皇から20人の平均在位しか採っていないのかが謎です。
平均を採るのに20代は少ない。
私は30代で採ってみた。
30代平均 31代用明天皇元年585年〜60代元正天皇没930年
930−585=345年
345÷30は11.5年
用明から30代の平均在位は11.5年。
では用明天皇から神武まで遡ります。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、31代遡ります。
11.5×31=356.5
用明元年587年−356年=221年
30代として計算した神武元年は221年、つまり卑弥呼の時代です。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴媛しかいなくなりました。
私の説は正しいのです。 すまん間違えた、231年ね。
まぁ結論は同じだがw 神武の年代が怪しいから計算しているのに、その神武の年代を入れたらダメだろ。
神武と欠史八代を追加したら精度が落ちるよ。 卑弥呼のことは記紀に全く書いてない可能性もあるからな。
痕跡すら残らないようにされている可能性もある。 >>786
イミフ。
10代崇神が4世紀前半。
大和盆地では2世紀末が大変革で大画期。
ならば崇神から2世紀末までタイムラグが約120年。
これは10代崇神以前の王が存在したという事。
欠史8代はもちろん神武について考慮するのは当然という事になる。 >>787
いやそれはない。
書かなくていいならそれはもう本当に楽であっただろう。
しかし帝紀・旧辞には「ヒメ」の事は書かれていた。
この女性をどう扱うか、これが記紀編纂者の一番の悩みどころ。
ヒミコはおそらく日女命、媛命、姫命、比売命という表記であったのだろう。
これをそのまま記紀に載せれば、どんなアホでも卑弥呼と分る。
卑弥呼を誰なのか分らなくするのが目的の記紀編纂でそんなことをするはずがない。
だからと言って全然違う名前にしたり存在を削除することは祖先への冒涜であり許されない。
ばらばアレンジという方法がある。
付け足すのだ。
出雲族の象徴「踏鞴」、妹と共通する「五十鈴」
そして媛踏鞴五十鈴媛としたのだ。
つまりこの長い名前こそがヒミコの証拠である。 >>788
安本の計算は、神武や欠史八代をそれ以降の世代から求めようとしている。
ところが、その求めようとしている世代を計算に入れては、論理矛盾となる。
わかる? >>790
いやお前の言ってる事の方が矛盾だらけ。
というか自分で言ってる意味が分かっていないだろ。
父子継承だけでなく、
兄弟や従兄弟継承はもちろんあるとして、
平均在位でおおよその神武の時代を探るのは論理的。
継体以前は倍歴だとして神武を紀元前にした古田というアホよりよっぽど論理的。 >>792
その計算そのものに神武を入れてどうするんだよ。 >>793
いやおおよそ神武の時代がいつなのかという計算なのだが、おまえはアフォなのか。
神武がいつなのか分れば相関関係から卑弥呼が見つけ出せるだろ。
安本は神武を3世紀後半、その5世代前のアマテラスを卑弥呼としたわけ。
もちろんこれは計算自体が間違えてるのだけれど、
方法としては間違えてはいない。 安本はデムパだから、あまり真剣に相手にしないように。
神武陵のミサンザイが3C後半の造築であんなショボいものになるハズがないだろ。
あれは卑弥呼から少なくとも1C以上は前の御陵ですよ。 >>794
だから、安本の計算はまあいいのだけれど、あなたの計算は少しおかしいと言っているんだよ。 >>795
>神武陵のミサンザイが3C後半の造築であんなショボいものになるハズがないだろ。
>あれは卑弥呼から少なくとも1C以上は前の御陵ですよ。
え〜っと、今の神武陵は明治になって造成されたものだが? >>796
>あなたの計算は少しおかしいと言っているんだよ
おっ、具体的にどこがおかしいのか言ってもらおうか。
安本さんの20代は平均を採る母数として少な過ぎ。
案の定10.88年という荒い数値が出た。
安本さんはさらに古いほど在位が短くなるという理由で10年にした。
平均値で0.88年も引いてしまうというのは無茶だ。
10.88年自体が低い数値なのだから本来は11年で計算すべきだ。
どっちにしても神武と卑弥呼は同時代、卑弥呼はヒメ踏鞴しかいないわけだが。 >>797
その前の神武田のミサンザイと呼ばれていた時代の直径数mほどの
ショボい御陵の事さえも、あなた知らないの? >>799
知ってるし、それが神武陵だとは全く思っていない。
陵戸が守ってきた畝傍山の丸山こそが真の神武陵墓であろう。 >>800
丸山なら丸山って書くだろうがカス。
畝傍山北方丸山とか、畝傍山北方小山とかな。
畝傍山北方白檮尾だぞ。
畝傍山の尾だぞ。
丸山な訳がない。
安本でむぱに酔っ払うのも大概にせいよ。 欠史八代を含めた計算と、含めない計算と、どちらを取るかと言われれば含めない計算を取るだろう。
10年は短すぎるとは思うが、さりとて他に妥当な根拠がない。 >>801
>丸山なら丸山って書くだろうがカス。
記紀編纂時に丸山って呼ばれてたか不明だし呼ばれてなかったら書けないよね。
君、アフォ? >>802
>欠史八代を含めた計算と、含めない計算と、どちらを取るかと言われれば含めない計算を取るだろう
崇神は布留1期4世紀初頭から前半、
大和朝廷庄内0期2世紀末、
約120年のタイムラグがある。
当然欠史8代を含める計算をすべきであろう。
君は昭和40年代の発想なんだが。
ジジイは消えてくれ。 >>803
丸山が尾なのかよカス。
あれは丸山という呼称がなければ、小山とか、○○山という書き方になるはずだろが。
畝傍山の尾にある神武田のミサンザイで大大大正解なんですよ。
平安時代までは畝傍山の北方にある白檮の生えた山の尾だったんだろうな。
だが、行方不明の調査をしたのは、それから900年以上経った幕末だぞ。
開墾が進み、白檮が伐採されたあとの神武田と呼ばれる勾配地にある田んぼの中の
ショボいミサンザイになっていても何ら不思議ではない。 欠史八代を認める立場から発言している。
でも、その期間を決定するために欠史八代そのものを計算に含めるのは正しくないだろ?
だから安本の計算の方が信頼できるよ。 >>805
>畝傍山の尾にある神武田のミサンザイで大大大正解なんですよ。
それなら五色の賤の陵戸がいないのはおかしいね。
丸山にしかいなかったのだが? >>805
>欠史八代を認める立場から発言している。
>でも、その期間を決定するために欠史八代そのものを計算に含めるのは正しくないだろ?
>だから安本の計算の方が信頼できるよ。
ちょっと何言ってるのか分からない。
安本も欠史八代そのものを計算に含めているが?
何が言いたいのだおまえは。 >>809
丸山にもいないだろ。
いたのは丸山と神武田の間にある洞村だろ。
五色の賤なんて平安前期までに破たんして終わっているものだから、
村人の証言なんて全然あてにならんよ。
だいたい神武天皇陵は平安初め頃までは東西1町、南2町、つまり110m×220mほどの
敷地があったが、丸山には110m×220mも敷地がとれるような場所がない。
この時点で神武田ミサンザイで確定です。 >>811
>丸山にもいないだろ。
いや洞部落は丸山なんだが。
だから神武陵は丸山だ、あきらめろしつこい。 >>812
丸山には110m×220mも敷地がとれるような場所がない。
だから神武天皇陵は神武田ミサンザイで確定。
あきらめろカス。 >>814
>丸山には110m×220mも敷地がとれるような場所がない
高低に関係なく敷地がとればいいだけ。
なんで平地と決まってるんだい、ド阿保。 >>815
神武天皇陵は江戸初期まで人々が拝んでいる絵など、絵が数点ある。
どれも平地にある木が数本生えた数mほどのショボいミサンザイとして
描かれていて、高低のある場所で描かれていない。
だいたい丸山にはミサンザイ自体もない。
ハイ、神武天皇陵は神武田ミサンザイで確定。
あきらめろカス。 >>815
それに丸山だったら、大窪寺や国源寺がある場所とは全然違ってるじゃねえかカス。
ハイ、神武天皇陵は神武田ミサンザイで確定。
あきらめろカス。 >>817
神武の墓が平地にあったなら、その時点で磯城の纏向石塚や勝山より小さくランクが下なのかボケ。
よく考えろクズ。 ■ 記紀の記述
『古事記』の記述
「御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮の尾の上(かしのおのえ)にあり。」
『日本書紀』の記述
「畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」
■ 本居宣長vs谷森善臣
本居宣長は『古事記』の記述の「尾の上」から、
神武天皇陵は「尾根」の上にあるとした。
丸山は「尾根」の上にある。他の候補は尾根の上にない」と主張。
宇都宮藩の北浦定政も同意見。
いっぽう、谷森善臣は次のように主張した。
『古事記』の原文は「畝傍山之北方白檮尾上」と記されている。
古点のままに読めば「白檮尾上」は「白檮尾(かしお)」という地名であり、
その「白檮尾」に陵があったのである。
竹口英斎の『陵墓史』(1794)などの古文献によれば、
丸山の地には古くから「加志(かし)」「カシフ」「カシハ」など、
「白檮」と結びつく地名があった。
これに対し、谷森善臣はミサンザイの地に「橿檮尾」という地名があったという
具体的根拠を提示していない。谷
森善臣の読み方は少々強引のようだ。
記紀の記述と地名との関係からは、丸山説のほうが有利である。 ■神武天皇陵の守戸(または陵戸)
丸山のすぐそばに洞村(ほらむら)と呼ばれる部落がある。
この村は神武天皇陵の守戸または陵戸だったという伝えがあった。丸山の近くに洞村があったことは、江戸時代の津久井清彰の図(下図)にも描かれている。
律令時代、天皇陵には「陵戸」や「守戸」が置かれた。
「陵戸」は、律令制における賎民のひとつで、治部省の諸陵戸(諸陵寮)に隷属し、
課役の代わりに山陵の警備に従ったもの。 また「守戸」は、古代、天皇陵の番人。陵戸が不足した時に良民から指定された。
蒲生君平は『山陵志』で「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。
およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷にならばず」といっている。
菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、
洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然といしている。
もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。
神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。
この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。
神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、
丸山宮址のところとも、生玉神社のところとも伝えられている。 旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。
丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。
その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。
白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。
明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとりあげてしまった。それが、今の御陵となっている地である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。
今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝口令をしいていて、絶対に口外しなかった。今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。 洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、
洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。
■生玉神社
丸山に生玉神社がある。津久井清彰が描いた「畝傍山東北面の図」にも「生玉明神社」として描かれている。
この神社は『日本書紀』の文において、壬申の乱のさい「身狭(むさ)の社にいる生霊(いくたま)の神」が、
神武天皇陵に馬および種々の兵器を奉れ、と述べたことと関係があるのではないか。
丸山の地が「身狭」の地域に属していたことは、古文献で確認できる。
神社はもと丸山のところにあったが、集落の移転に伴い、
大正9年に現在の大久保町3-56番地に移された。 >>818
だからそれらよりも古い、大型化する前のミサンザイなだけだろ。
それらの絵は幕府が神武陵を捜索する前に描かれたものだぞ。
神武陵と題した絵では、神武田ミサンザイを人が拝んでいる。
丸山にはそのミサンザイ自体もない。
大窪寺や国源寺があった場所とも全然違う。
ハイ、神武天皇陵は神武田ミサンザイで確定。
あきらめろカス。 >>823
>だからそれらよりも古い、大型化する前のミサンザイなだけだろ
えっ?
纏向石塚より古いって初耳だ、根拠は? >>824
場所が違うじゃないの。
最初の大王陵はずーっと畝傍山周辺だろ。 >>825
>最初の大王陵はずーっと畝傍山周辺だろ
どこ? 畝傍山周辺にあった神武以降の大王墓(大王かどうかは疑問だが)、墳丘墓ではないよね。
自然の岡や山だよね。
じゃ神武だけが墳丘墓っておかしいよね、神武の墓も自然の山だよね。 おはなしぶったぎりますが神武さんとタテツキ遺跡かんけーあるやなしや(はなほじ >>828
関係ない、タテツキ遺跡が関係するのはむしろニギハヤヒ。 にぎはやひさんは近江けーゆで出雲ほーめんからやってきたとおもてた 神武さんが吉備にいたころタテツキの主は亡くなってたんか? >>831
そう思っていたら瀬戸内海ルートも物部っぽく思えてきた。
でも三島溝杙とかがダブっているのかな? たてつきのまいそーしゃは夫婦やな
先がじょしであとが男子か(逆か(頃はせーれき200−250ねん
にぎはやひのあとじゃね?
わえの直感やと神武きょーだいのスポンサーなんやけどなー >>827
神武天皇陵はな、平安時代までは110m×220mほどの敷地が設けられて、当時から
神武天皇陵と呼ばれて特別に護られ、そばに大窪寺と国源寺が建てられたんだぞ。
丸山が神武天皇陵なら丸山に大窪寺と国源寺が建てられるはずじゃないか。
丸山に110m×220mほどの敷地を設けられる場所もないし、だいたい丸山じゃなくて
神武山と呼ばれるはずじゃないか。
平安時代から江戸初期までの神武天皇陵の絵がいくつか残っているが、
どれも丸山を描写したものじゃない。
乱世の時代になって、神武天皇陵は放置され、荒廃して周辺に誰もいなくなった。
そんな時代が何百年も続いたため、神武天皇陵は近くの農民によって田んぼに
されてしまった。
そして、ミサンザイだけ残されて、その地は神武田と呼ばれるようになった。
だだ、そこがかつての神武天皇陵だという事は一応知られていたらしく、
旅人が神武田ミサンザイを拝んでいる姿を描写した絵が残っている。
幕府が神武天皇陵を捜索する前の絵である。 橿原〜当麻〜葛城は、対狗奴国の前線だな。
二上山の南北が河内と大和を結ぶルートだったんだろうな。
神武、九州南部の投馬国、投馬と当麻は関係あるのかな? >>831
ニギハヤヒは瀬戸内勢力を引き連れてやってきた(先代旧事本紀第三巻・天神本紀)
播磨、讃岐、筑紫の物部などね。
播磨、讃岐、筑紫の間にある強国と言えば吉備。
大和の纏向遺跡に吉備を中心とした瀬戸内の要素が強いのは天神本紀の記述が正しいからだ。
大和にニギハヤヒの墓候補がないので、
わしはマジで楯築遺跡がニギハヤヒではないかと思ってるけどね。 >>835
>丸山に110m×220mほどの敷地を設けられる場所もないし、
あのなぁ山や岡も充分「敷地」なのだが。
なんで平地と決まってるの?
神武や神武以降の天皇の墓が平地なら纏向古墳群より貧弱という事になるが、それでいいのか?
彼らは天然の山を墓域とした。
神武が埋葬された畝傍山は箸墓古墳や大山陵よりはるかに大きく立派だ。 >>836
>橿原〜当麻〜葛城は、対狗奴国の前線だな。
狗奴国は河内ではない、おまえは氏ね。 わしの考えるヒミコの宮
弥生中期からある水源地・姫の宮こと長柄神社。
https://goo.gl/nDK9GA
全国で唯一、銅鐸と鏡が一緒に出ている名柄遺跡がある。
息子の綏靖の宮は御所市森脇が有力、
ひょっとすると葛城一言主神社そのものかもしれない。
神武は御所市柏原、ヒミコのいる名柄に通える距離。 >>838
幕府が捜索する前に描かれた神武天皇陵の絵は周りが田んぼだぜ。
丸山に田んぼがあったのか? >>841
江戸時代には神武天皇陵なんてとっくに忘れられてたはずだが?
それでもあくまで神武墓が墳丘墓というなら綏靖以降の墓も墳丘墓として説明してもらおうか。
どこなんだよ?
さぁ説明しろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています