会津プロパガンダ13
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>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
↓
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
wwwwwwwwwwwwwwwwww >>95
だから会津藩のどの部隊が放火したのかさっきから聞いてるジャン
会津遊撃隊は70人の部隊で、4月下旬の矢不来の戦いで幹部7人死傷、隊士も損耗して
函館病院その他後方で入院中
5月11日に「放火」して回ることは物理的に不可能 見せしめの為に会津人の死体を野晒しにしたのは嘘だった!
>幕末の戊辰戦争(1868年)で
>戦死した会津藩士が
>埋葬されたとする史料が
>福島県会津若松市で見つかった。
>同市在住の歴史研究家
>野口信一さん(68)が
>2日、市役所で記者会見し発表した。
>これまでは新政府軍が遺体の埋葬を
>許さなかったとされてきたものの
>史料には埋葬の場所や経費などが
>詳細に記されており、野口さんは
>「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」
>と話している。
嘘をついたのは誰なのか?
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
死体埋葬禁止の嘘を発信したのは会津史談会でした。 >>103
明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある >>100
「誰も問題にしていない」→ 大山格ブログが会津若松市ですら問題にしていないと認めている
では誰が問題にしているか →大山格が批判してるのは宗教社会学の今井氏の著書
「戦時埋葬禁止令」の言いだしっぺ→ 大山格
「戦時埋葬禁止令」というアイデアは大山が最初だよ。
そんなこと従来は言ってる人間はいない。 >>103
原田伊織は広告代理店らしいな。大手2社なら韓国系とサヨク系だぞ。なっ? >>105
だから会津藩のどの部隊が放火したのかさっきから聞いてるジャン
会津遊撃隊は70人の部隊で、4月下旬の矢不来の戦いで幹部7人死傷、隊士も損耗して
函館病院その他後方で入院中
5月11日に「放火」して回ることは物理的に不可能 >>108
こういう蛮行もしてるんだよ!?
武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿) >>107
逃げずに答えろよ。
会津藩のどの部隊が放火したのかさっきから聞いてるジャン
会津遊撃隊は70人の部隊で、4月下旬の矢不来の戦いで幹部7人死傷、隊士も損耗して
函館病院その他後方で入院中
5月11日に「放火」して回ることは物理的に不可能 >>108
語り継ごうよ!
会津含む幕軍による箱館放火テロ!!
明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある >>109
今問題となってるのは「函館 5月11日」
ごまかしても無駄。 >>110
幕軍に会津がいないとでも言うの?朝鮮人は! 越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。 >>112
ごまかし続けてるのはおまえだろ朝鮮人
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ? 会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが
よろこんだ。」
(新津市史通史編下巻) >>20
>明治2年5月11日
>旧幕軍(会津)が箱館市内に放火
>900の家屋が焼失
はっきり「明治2年5月11日 」「箱館市」と限定されている。
ところが、旧幕軍に会津藩出身の遊撃隊という部隊はいたが、
隊長の諏訪常吉は重傷を負って函館病院に入院中なので
5月11日 に「放火」は物理的にできないんだが。
西郷頼母らは前線と離れてるから放火しようがないし。 米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。 >>115
その件もう大山ブログから引いてとっくに答えたうえに
今度はこっちが聞いてる段階なんだが。 そして米沢藩総督である
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。 >>117
だからって放火に参加してないとは言い切れないね。
おまえの希望にそって会津も動いてるわけじゃないんだよ。
語り継ごうよ!箱館放火事件!! >>117
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
いつ答えるのかな >>117
会津が郡山で放火や略奪をした史料です
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合 併40年記念号
何で会津って放火ばっかすんの? >>113
5月11日に矢不来の戦いで幹部7人を失って療養中の会津藩遊撃隊が放火することは
物理的に不可能なんだが
一体どの会津藩兵が放火したのかと聞いてるんだが。
これも捏造か?w
なお、函館戦争降伏の薩摩藩使者はまさに同日、この会津藩遊撃隊の諏訪常吉を頼ってきている
だから函館病院の高松凌雲が仲介者となったわけで、
この事実からも「会津藩遊撃隊が当日函館に放火しているわけがない」ことが分かる >>119
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
誰も問題にしてないって何から?
でっちあげた一派全員の名前と
何をしたのか証拠文献出せよ朝鮮人 >>125
だからって会津が放火に参加してないとは言い切れないね。
おまえの願望はもういいんだよ朝鮮猿。 語り継ごうよ!
会津含む幕軍による箱館放火テロ!!
明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある >>121
「言い切れない」じゃなくてお前が証明するんだよ。
会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。 会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。
これ完全に売国行為だわ… >>127
「言い切れない」から会津藩兵の仕業だというのはどんな理屈だよアホ。
なら「言い切れない」から長州藩兵の仕業ですという理屈も成り立つわけだが。 >>129
いないって証明できないだろ
会津は幕軍なんだゃ
おまえの願望はもういいんだよ朝鮮猿 >>131
めちゃくちゃな理屈はいいんだよ
朝鮮では通用しても
日本人には通用しないんだよ
朝鮮猿 トンビはすぐごまかすから、1点ポイントを絞って集中的に叩くのが良いよね
そうでないとすぐ逃げられる >>131
会津プロパガンダの朝鮮人だから直ぐ長州だよね
可哀想な遺伝子… >>132
「言い切れない」から会津藩兵の仕業だというのはどんな理屈だよアホ。
なら「言い切れない」から長州藩兵の仕業ですという理屈も成り立つわけだが。 >>134
朝鮮ブーメラン
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
誰も問題にしてないって何から?
でっちあげた一派全員の名前と
何をしたのか証拠文献出せよ朝鮮人 >>133
自分の理屈は大山格によって支持されているわけだがw >>136
なんの話してんの?
幕軍による箱館放火の話だよ?
どっから長州出てきたの?
頭キムチなの? 明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
あーこわっ… >>1
「言い切れない」じゃなくてお前が証明するんだよ。
会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。 白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)
会津プロパガンダ洗脳者は会津の嘘に気づきましょう。 >>140
で?会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。 >>141
おまえは願望として会津が放火に参加してないとしたいだけじゃんwww >>143
放火してない証拠はどこにあるわけ?幕軍には会津も含まれてんだよ? >>143
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史
まーた放火じゃん >>143
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より
各地で放火じゃーん >>144
願望じゃないよ。5月11日という日付で??と思っただけ。
なぜなら会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
つまり会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
当日、病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが >>151
朝鮮猿の推測なんかどうでもいいよ
会津が放火に参加してない史料文献出せ
もう一度言う、朝鮮猿の推測はどうでもいい。
わかったな朝鮮猿。 >>151
おまえの願望はどうでもいい
単純な指摘だよん♪ >>1
維新史甘く見るなよ。
お前みたいな精神病者がネットちょこちょこ叩いてやれるほど甘いもんじゃねえ。 ・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より
しっかし放火大好きだな会津ってwwwwwwwww >>152-153
推測も何も5月11日に会津藩遊撃隊は後方にいるんだっつのが分からんのかね。
なぜなら会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
つまり会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
当日、病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが >>155
願望や推測の朝鮮猿が急にどうした?(笑) >>157
おまえの推測どうでもいい。会津が放火に参加してない史料を出せよ。←読める? >>160
朝鮮人、ナマポ、朝鮮猿って事は批判してないよね?(笑) >>160
アンカー先と噛み合わないの火病の如くだね 会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史
どんだけ放火するんだよwwwwwwwwwwww >>159
会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
つまり会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
当日、病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが
しかも5月11日は官軍の総攻撃が始まった日
同時に病院にいて同時に放火できるような暇な日じゃない
放火があったとすれば前線部隊だが会津藩遊撃隊は後方にいる
かといって西郷頼母ら会津藩重臣は前線から離れてるので「放火」ができない
ならどの会津藩部隊が「放火」できたのかと具体的に聞いてるわけで。
部隊配置なり何なり見て言ってみろ。 >>165
おまえの推測、願望はどうでもいい!
会津が放火に参加してない史料持って来い! 明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
ねえ、どんだけ放火したら気がすむの? >>166
推測じゃなくて事実だっつの。
なぜなら会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
つまり会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
当日、病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが >>167
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
音読しとけ >>168
だからさっきから聞いてるんだが、会津藩のどの部隊が放火したの?
遊撃隊でなければ何隊? >>169
おまえの推測、願望どうでもいい!
会津が放火に参加してない史料出せ! >>171
会津も幕軍だから放火に参加してないとは言い切れないよね。 >>171
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
人に聞いてばかりいないでこれ答えろよ。
時系列的にはこっち先だぞ。 >>168
しかも5月11日は官軍の総攻撃が始まった日
同時に病院にいて同時に放火できるような暇な日じゃない
放火があったとすれば前線部隊だが会津藩遊撃隊は後方にいる
かといって西郷頼母ら会津藩重臣は前線から離れてるので「放火」ができない
どうすんだこれw 語り継ごうよ!
会津含む幕軍による箱館放火テロ!!
明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある >>175
どうすんだって何で現代人のおまえが気にしてんだよ?
日本人でもないくせに。 >>175
>0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
人に聞いてばかりいないでこれ答えろよ。
時系列的にはこっち先だぞ 朝鮮猿は日本人じゃないのにどうやって生活してんの?
ここおまえからしたら外国だろ? >>176
会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
つまり会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
当日、病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが
しかも5月11日は官軍の総攻撃が始まった日
同時に病院にいて同時に放火できるような暇な日じゃない
放火があったとすれば前線部隊だが会津藩遊撃隊は後方にいる
かといって西郷頼母ら会津藩重臣は前線から離れてるので「放火」ができない
ならどの会津藩部隊が「放火」できたのかと具体的に聞いてるわけで。
部隊配置なり何なりから言ってみろよw ・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より
焼くねえ…こりゃ箱館でもやってんな… >>182
おまえの推測、願望はどうでもいいんだよ
朝鮮人
参加してないと史料あるなら出せや >>182
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史
これ、やってるね… >>182
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より
やってんな、こりゃ…。なっ。 会津放火魔じゃん
これ、箱館でもやってるね…
語り継ぐしかないよ、箱館大放火! 明治2年5月11日
旧幕軍(も、ち、ろ、ん、会津含む)
が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
他の史料からも会津が放火魔なのは明らか
朝鮮猿の推測や願望は通用しない 会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。 会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。
>会津藩兵も退却する時に
>民家に放火したりすることが多かったので
>会津藩兵も退却する時に
>民家に放火したりすることが多かったので
なるほど…会津放火魔か…
こりゃ箱館でもやってるな…やばい >>169
もうそいつとあんたは勝負ついてるよ…
これ以上やると相手が加藤みたいになるぞ… 慶応四年八月二十一日 会津直撃を目指して
三千人の征討軍が殺到した。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は、敵が隠れる所を
なくすために、放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが恨みを晴らすために
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の
下流、新潟県安田町でも
会津藩兵は六野瀬という集落を焼き払った。
その翌日の八月一日、会津藩兵は
阿賀野川に面した砦を守っていた
二十四人のうち、二十三人が戦死したのだが
六野瀬集落の人々は、「会津のやつらは……」と言いながら、遺体を阿賀野川に投げ捨てた。
また放火じゃん!
どんだけ放火してんだよ会津は!!!! >>191
だから何度でも繰り返すが、
会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
それを知って薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが
しかも5月11日は官軍の総攻撃が始まった日
同時に病院にいて同時に放火できるような暇な日じゃない
放火があったとすれば前線部隊だが会津藩遊撃隊は後方にいる
かといって西郷頼母ら会津藩重臣は前線から離れてるので「放火」ができない
ならどの会津藩部隊が「放火」できたのかと具体的に聞いてるわけで。
部隊配置なり何なりから言ってみろよw >>192
勝負だったの?今知ったわwwwwwwwww >>194
おまえの推測、願望ループはもういいんだよ
早く会津が放火に参加してない史料探してこい
朝鮮猿が >>195
お前の相手はこっちだろ
とっとと答えろ
会津藩遊撃隊は矢不来の戦いで消耗して当日は函館病院他で療養していた。
だから薩摩藩使者が諏訪常吉らを指名して函館病院に来ている。
つまり当日函館病院にいた会津藩遊撃隊という組織が
分身の術を使って放火したという証拠はどこにあるのかと聞いてるわけ。
つまり会津藩遊撃隊の「アリバイ」は薩摩藩側によっても確認されている。
当日、病院に来た薩摩藩使者は諏訪らが重傷で仲介を頼めないため、
急きょ高松凌雲に仲介を頼んだのだから。
重傷で面談もできないような患者が何で同じ日に函館市内で放火して回るのかと
そういう単純な指摘なんだが
しかも5月11日は官軍の総攻撃が始まった日
同時に病院にいて同時に放火できるような暇な日じゃない
放火があったとすれば前線部隊だが会津藩遊撃隊は後方にいる
かといって西郷頼母ら会津藩重臣は前線から離れてるので「放火」ができない
ならどの会津藩部隊が「放火」できたのかと具体的に聞いてるわけで。
部隊配置なり何なりから言ってみろよw >>194
様々な史料に会津の放火が記載されてる
箱館でもやってないとは言い切れない…ぐぅ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています