ゆるりと邪馬台国畿内説Pprt 302
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国畿内説のスレです。
前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510884650/l50
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
他説も歓迎です カキコミは自由に語ってください
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なお個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
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できれば前スレを埋めてから書き込んでください。 誰に許可貰ったんだ
ニセスレやめろ
ニセスレやめろ
ニセスレやめろ >>2
自分で立ててないスレで1を名乗るアホ
実はキウスの自演 こっちのスレでまったり議論がいい感じだな。
あっちは確定だとテンプレで主張してるけど、
それなら、そもそも議論の必要がない。(笑) 987日本@名無史さん2017/11/23(木) 13:07:35.90
四道将軍派遣は 卑弥呼の後
↑
派遣を決めたのはヒミコだから、問題ないと思う 死んだり滅ぼされたりすると神になるのかな。
時代が下ると、滅ぼされると聖人にされたり。 >>1
どうせなら、ゆるりと九州説のスレでも立ててろや 九州説は福岡説、熊本説、大分説、宮崎説の4つに分類できる 佐賀は佐賀ルートではあっても
あくまでも途中の経路だな。 畿内説・九州説の限界が露呈してしまった昨今、今や阿波説のみが真実の説と認知されるようになったね。 @阿波 ---いつだって「リスタート」氣づいた時がはじめ時-----
ひとりひとりの個性のままに
力を抜いて、歩いていこう〜♪
間違いなんてないのだよ
やりたい時が、やり時
始めたい時が、はじめ時
動きたい時が、動き時
心、体、魂の調和。
そのバランスの和を届けます >>39は私です
ゆるりと参りましょう
時が来たら一挙に語ることもありますが・・・時折 挫折 >>39=>>40=@阿波???????????????????
こことの関連・・ググったら出てきました
https://ameblo.jp/thankyou39thankyou39/entry-11535951728.html
すみません どうでも いいことですね
良スレですここは
風林火山にぴったりもこのスレ このスレのルーツは岡上と阿波
それに乗っかったキウス
皆 本スレでは奇人 去って本スレ万々歳
ザラコクは許す 留まったから ついでに 本スレで相手にされなかったバカもここに来ている >>44
そっちにザラコクが居ついているから、こっちに来ているんだがw ザラコクのお守り、よろしく。 スマン
前スレで海流等の質問をしようと思ったが思い出した
対馬海流および大海の荒れ狂う波と気象に比べれば
関門海峡や瀬戸内なんてさほど困難が無いルートだと思うがいかに 水行20日以降の記述を信じるなら
九州説は熊本か宮崎に限定される >>47
瀬戸内の潮の流れは日本海とちがって目まぐるしく変わる
海路をよく知っている者でなければ座礁もする 関門海峡が今より狭くてトンネル状で、流量が今と同じなら、とんでもない難所だったろう。
今でもあの潮の速さは割と脅威だと思う。
動力がなかった昔の船では大変だったろうな。 >>49
瀬戸内海は穏やかな海ではないのか
なぜ、そんなに潮の流れが変わるのか 西と東に出入り口があり、干満のタイミングがずれると海水が大きく移動する。
しかもあちこち狭くて流速が上がる。
鳴門の渦潮などの難所もある。 >>47
対馬海流は1〜1.5ノット
手漕舟は2.5〜3.5ノットなので、好天時は航行可能
かたや瀬戸内海、最強時には、
関門海峡は時速17.4km(9.15ノット)
大畠瀬戸は時速12.8km(6.74ノット)
来島海峡は時速19.1km
明石海峡で時速12.4km
鳴門海峡で時速19.4km
(出所:海上保安庁海洋情報部) 瀬戸内海は本州四国の両岸&島々を支配下に置いてないと無理だな。
魏の使者を戦闘に巻き込むわけにはいかないからね。 舟も通れない、道もないという状態だと大軍も移動できない
遠方地を支配できるわけがない >>57
嘘で無いと思う
どこかで読んだ記憶がある 神武さんの話なら、ヤマトは外部勢力に征圧されたことになるからね。
しかもヤマト入りする際は、実質河内を迂回して紀伊半島からヤマト入り。
魏志倭人伝当時河内が女王国の勢力範囲か甚だ疑問。 >>52
其の通りだと思うが
なんか納得できない、少し考えてみます 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。 @阿波 >>62に振るのも 良くないが
俺には謎
神武東征は分からない
神武東征(じんむとうせい)は、初代天皇であるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、
大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。・・・・ ウィキペディア
「徐福」も伝説の人?
よくわからない 明快な説明はグッグっても出て来ない >>66
「徐福」は考え込んでしまいますネ
司馬遷の『史記』
「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。
直接的には邪馬台国と関係と無い記述ですが
奈良を湿地帯と揶揄する方にはどう映るのでしょうか 「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」 スマソ
各説の決め手は何か
3つぐらいで完結に示してくれるかなぁ >>70
説はいろいろの考察の混合から成り立ってますから・・
人それぞれの3つの宝は持っていると思います
説を代表する3つは?
すいません 答えになってませんね >>67
辿り着いたのは九州ですよ。
長崎あたりが一番信じているようですが。 >>70
すみません。3つに絞れません。 @阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していた。
八十島祭と関連の深い生國魂神社。
元々は大阪城の地にあった。境内に古墳もあったらしい。
誰の墓だったんだろうか? >>75
>八十島祭。
>天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
阿波から奈良遷都後の聖武天皇「難波の宮」の祭り。 @阿波 >>75
>後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
>○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
その難波潟も、阿波から奈良遷都後の聖武天皇「難波の宮」の難波潟 @阿波 >>75
>○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
>淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
仁徳天皇の歌の難波は、奈良遷都前の応神天皇の難波大隈宮。
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 @阿波 >>67
湿地帯は事実でしょ。
奈良は古奈良湖、京都は小椋湖、大阪は淀川の河川敷。
これで畿内にどうやって勢力が生まれると思えるのか。
まあ、大阪摂津だけは、海運で発展の余地があるし、住吉神社が博多から勧請されているから、港として発展していたこともわかるけどね。 >>72
まじそれな。
あの時代の近代的な北部九州の集落とかな。
畿内は何も出てこないしな。 >>67
平原広沢とは広い平野でしょうね
あたり一面の稲穂、どこが一番ふさわしいでしょうか 稲作が早くに上陸した福岡平野か、広さや水利で言えば筑後川。 両面すくなの陰に蓬莱あり(にんとくのときにあらずときは神武なり 筑紫平野も湿地帯だね。
肥国説の自分としては八代も推したいところ。 いぬがみせんせーの話は時系列がわからんなー
りょーめんすくなつうのは役職名か武内くんみたいな 両面宿儺ってあまり知らないが飛騨の話と思ったが。
神武さんは飛騨には行ってないだろうし。
飛騨に逃れた人がいたのかな‥ >>90
りょーめんすくなも武内宿禰みたいに世襲制かも
武内宿禰はいま73代目だしな、酔っ払いのおっちゃんだけど >>92
奈良の信貴山は飛騨の支店みたいなもんかな
毘沙門天は飛騨と関係あるから >>80
>住吉神社が博多から勧請されているから、港として発展していたこともわかるけどね。
「住吉大明神こと住吉神社」
板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。
祭神は神功皇后、表筒男命、中筒男命、底筒男命。
鎮座地は神功皇后ゆかりの地で
当社は全国住吉神社の元社にあたる。
(徳島市住吉にある住吉神社は蜂須賀がこちらを移遷したもの)
神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。
大陸進出にあたり航海の守護神として、底筒男命、中筒男命、表筒男命を御舟に祀っていた。
百済征伐の帰りに当地に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろしたのであろう。
(現在の吉野川本流は別宮川と呼ばれた支流。住吉神社の南側の川が本来の吉野川本流であり、河口に繋がっていた可能性が高い。)
そのほか、夫にあたる仲哀天皇は西に位置する板野郡矢武の応神山仲哀寺で祀られ、大臣 武内宿禰は同町 矢武八幡神社を中心に武威神社、高良神社で祀られている。
また御子である応神天皇の葬場跡は南に位置する応神町宮島。
審神者(さにわ)で顕れた淡郡の嚴(いつの)事代主は吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。
ちなみに海人族でも支配地域が違うと氏族も違う。
皇后も幼少の頃より古の各海人部族の神話を聞かされていたのであろう。
そもそも住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。
この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。
底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
神功皇后は阿波全ての海人族神を味方につけて異国との闘いに挑んだ訳である。 @阿波 両面君が神武はんに王位をさずけたのソースはなんじゃ? りゃんめんくんの宿敵わにのたけふるくまは神宮皇后の家来やな
にんとくくんのおばーちゃんや 蓬莱と両面君と関係あるやなしや(ぽんしゅのはなしにあらず(本日のぢざけ 生國魂神社、神武東征の際、石山碕に生島神と足島神を鎮祭したとある。
何か関連あるのかな。わからんな。 >>101
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。 @阿波 >>106
>海の民とは関係ないということ
湖の民? @阿波 彦根辺りは息長の地とされるが‥
息長氏が彦根辺りを討伐して入植したんじゃないかな。 >>59
日本書紀 景行天皇条より
治世12年11月、日向国について行宮を建てて高屋宮と名付けて住んだ。
治世12年冬12月5日、天皇は熊襲を討とうと考え群卿を集め言った。
治世13年夏5月、ことごとく熊襲国を平らげた。
治世17年春3月12日、子湯(こゆ)県(宮崎県児湯郡)に行き、丹裳小野(たものおの)で遊興した。その時、側の者に言った。
天皇> この国は真っ直ぐに日の昇る国に向いておるな。
そこでその国を日向(ひむか)という。 彦根の稲部遺跡は在来の土器が中心。南に3qの斗西遺跡は、吉備など纒向とよく似た構成の土器が出土。
愛知川を挟んで敵対勢力が睨みあっていた可能性がある。 他のスレの話になるけど
当時、天皇はいなかった
と言っている人がいたよ
当時の日本に天皇はいない、
天王もいなかったとか 他のスレにも書いているんだけど
そろそろ頭のビョーインに行ったほうが良いぞ 極端な話をすると
当時、日本人自体いなかった〜みたいな話 【宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国】
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大
將軍倭國王(中略)…詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事
安東大將軍倭王
(訳)
倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。
「三国史記 新羅本紀」
倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。 均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。
「三国史記 百済本紀」
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。 太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。 魏志倭人伝には、狗邪韓国(加羅)を倭国の北限とする記事があり、
考古学的にも当地の3世紀の遺跡には、倭系遺物の出土が多い。
好太王碑文に倭国が海を渡って、百済・新羅を臣民にしたとの記述
が見られる時期に、 朝鮮の正史「三国史記」に、百済が皇太子を、
新羅が王子を、倭国に人質に出した記事がある。
「日本書紀」も同様で、400年前後に倭国が朝鮮半島南部に勢力を
広げたことで一致。 宋書には、5世紀後半に、倭国に新羅・任那
などの軍事権を認めた叙任がある。
これらの文献資料は、全て調和的。
考古学的には、畿内発祥の埴輪を並べた前方後円墳が、古墳時代
中期〜後期(5〜6世紀) になると、朝鮮半島南部にいくつも
見られるようになり、倭国の勢力拡大を裏付けている。 ふひゃあーー
武内とりゃんめんがうがやふきあえずおーちょーでつながった
いぬがみせんせーのでんぱはでんぱではなかった( >>123
あっちはなープラズマせんせー相手しすぎや さんごくしきは後出しじゃんけんやなー
記事の出典が不明やし >>120
いえ、ここは「並行宇宙(パラレルワールド)」スレです。 宋書倭国伝・・・・・・・・・朝鮮半島は倭が支配している >>129
りょーしこんぴゅーたーでけーさんしたんか >>131
やよいどきもこふんもあるからのー
投げ馬国かのー >>133 についか
じょーもんのひすいの勾玉もでてたか(うろおぼえ 73日本@名無史さん2017/07/20(木) 16:32:00.02>>75
邪馬台国は190〜270年の九州北部二十数か国の国邑連合で
武力で国家を形成するほどの力は無く、世襲じゃないシャーマンの女王を共立。
この時、対馬貿易が有ったので、魏が使者を寄こして倭人伝に記録が残った。
これだけが、邪馬台国だろ。
魏使を返した二六六年以降、東国平定の畿内、出雲の併合勢力が進攻してきて
筑紫が管理下に入り、対馬航路に任那建立、百済新羅の開拓で高句麗馬を搬入。
この三〇〇年〜四〇〇年で朝廷は甲斐、上州、信州、関東に御牧を広げた。
これが、大和朝廷の基礎だよ。 邪馬台国は無くなったw
卑弥呼の墓は筑紫の君の墓の下にでもなってる。 結局倭国大乱が九州限定か西日本全体かで決まるが、
高地集落性から西日本全体とみていいんだし、邪馬台国は畿内 >>137
>魏使を返した二六六年以降、東国平定の畿内、出雲の併合勢力が進攻してきて
ここが間違い。
むしろ崇神が大和入りする時代だろ。 弥生時代に手漕舟で瀬戸内海の遠距離移動が困難だったとすると、
高地性集落は局地的な小競り合いの結果のものとしか考えられない 300年以降、日本は百済を傀儡として
七枝刀、仏教、五教博士を手にいれた。
倭の五王は半島利権交渉で南京に渡航した。
これは、畿内朝廷につながる。 紀元前後に確か南海トラフ地震があったはず。
高知の地層で津波の堆積物を確認できている。
紀元後の高地性集落は、津波の教訓の結果の可能性も考えないといけない。 スレまとめてくれんかのー(めーまわった(りゃんめん対わにの話できるんならどっちでもええが 高地性集落と大乱を結びつけるのは考古学的にも最近は否定的かな
何れの時期ともずれるから お前に言っているんだよ
一度、戦争でもしてみるか? 博多に一大卒があるからな。
古墳時代に入ると益々畿内から兵が送られている。
朝鮮半島進出はこれを使ったのかもね。
朝鮮半島南西部に複数前方後円墳もあるしね。 そのときになってから、
泣いて謝ったりするなよ
それと、お前(自分の)の書いたことくらいは覚えておけ 帯方郡は313年までは有った。
日本は楽浪郡まで道を開き馬を移入した。
邪馬台国は270年まで馬を入れていない。
大和朝廷は400年までに
甲斐に高句麗馬の御牧を成功させた。 朝鮮半島南東部、洛東江付近に2世紀の日本列島の土器しかでない鉄鉱石採掘跡が見つかっている。
こっちは出雲か丹後半島からの進出かな?
4世紀以降、百済方面は畿内→九州勢力が進出。
新羅方面は、山陰勢力が進出していたのかもしれない。 「そのとおりでございます」
「私が間違っていました」
数年前、
このようなレス(返事)をしてきた人もいた
たしかヤマタイ関係のスレッドだったよ >>143
>紀元前後に確か南海トラフ地震があったはず。
>高知の地層で津波の堆積物を確認できている。
>
>紀元後の高地性集落は、津波の教訓の結果の可能性も考えないといけない。
新しい視点であり、興味深い。 >>142
>これは、畿内朝廷につながる。
何の根拠もないだろ。 横から失礼
ひょっとしてだけど、
アマテラス=卑弥呼?
ありえない? 三国史・・・・・・・・・・・朝鮮半島南「狗邪」は「倭国の北限」 サルタヒコというスレを読んでみた?
すがのゆやまぬし?
みやまぬし?
『松傾』のことだよ >>155
天照大神の方が時代が古い。
時代だけで考えると神功皇后。 神輿とか浦島太郎・・・
そのような話をしているでしょ?
サルタというスレ、読んでみた?
天孫(降臨)の話 随書・・・・・・・・・・・・倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。百済と新羅は倭国を大国として敬った。 wiki 天孫神話?
>天宇受売命が猿田毘古命を送って帰ってきて、
>あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇藝命)に仕えるかと聞いた。
>多くの魚が仕えると答えた中でナマコだけが答えなかった。
>そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。
>それで今でもナマコの口は裂けているのである。 さかきばら事件
「向うの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」
「口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。
その後は文句を言わなくなったという。」 どのスレッドだったかな、
このような書き込みばかりしている人がいたり
「カメみたいな・・・だなwwwwwwwww」
「猿wwwwwwwwwwwwwwwwwww」
なぜかゴキのaaばかり貼り付けていたり 竹取物語に出てくる車持皇子は藤原不比等がモデルだとか >>157 >>159
有難う
やはりあり得ないか 他のスレにも書いているんだけど、
以前から書いている
無断で、人の家の、
お金を使ったりするような事はするなよ
名前(家)や役職などを騙ったり 『ポリゴン事件』ググると
『ポケモン』
『銀?』という作品のキャラが出てきたり、
電気(電源)が何やら、故障してないか見てきて
と言う台詞が出てきたり >>159
神功皇后は海外の史書との比較から、120年繰り上げてあることが判明している。
卑弥呼とはかなり時代が違う。 『本当はクズだった偉人伝』
日本(日本人)の話だけを読んでみて ↑
そろそろ気づいた方が良い
荒せば荒らすほど、あんたの居るスレの品格が落ちる 1. 川で寸断される日本では、ろくに橋のかかってない三世紀には陸行一月する場所がそもそも地理的に存在しない。
2. 魏志倭人伝をそっくりパクって作った梁書では「陸行一月日」となっている。
3. 駢儷文の観点から一月はあり得ない。一月なら他と韻を揃えて三十日と必ず書いた筈。
4. この時代は旅行中は十日ずつ区切って占いをやっていた。だから水行十日とか水行二十日とか書かれている。
この意味でも陸行一月なら陸行三十日と書いた筈。
陸行一月は陸行一日の写し間違い。
すると、九州、出雲、阿波が候補 奈良は外される >>178
陸行一月はあっていると思います
倭人伝の行程から
1日なら記述する必用はないと思います
また、あなたの論で行くと畿内説も成り立ちます
「大和川で纏向近辺 陸行1日で纏向」 >>178
> 1. 川で寸断される日本では、ろくに橋のかかってない三世紀には陸行一月する場所がそもそも地理的に存在しない。
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道) 河川は川船で渡船
投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)
距離約350km 歩行速度11.7km/日 @阿波 >>180
>1日なら記述する必用はないと思います
こんな考えの人が一日を一月に誤記したんだろうな。 >>180
>1日なら記述する必用はないと思います
私もそう思います。 @阿波 >>110
>治世17年春3月12日、子湯(こゆ)県(宮崎県児湯郡)に行き、丹裳小野(たものおの)で遊興した。その時、側の者に言った。
>天皇> この国は真っ直ぐに日の昇る国に向いておるな。
>そこでその国を日向(ひむか)という。
そんなわけで、それ以前の筑紫の日向は宮崎県ではなく、福岡県西部の高祖山日向峠の周辺。
平原遺跡を含めて弥生王墓が集中し、魏志倭人伝には郡使が滞在するところと書かれている。 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られるので、
後代に、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのだろう。 @阿波 北部九州は、記録、遺物、遺跡が多いから
ちゃっかりと取り込んで北部九州は、
他地域の出張所などと主張する人がいるが
本国より出張所のほうが大規模なわけで
その主張は通らないでしょう。 卑弥呼の時代に畿内の土師器が九州をはじめ全国に拡散。
これはその震源地である畿内に王権があった証拠。
したがって考古学者で九州説を言う人は高島さんをのぞいてほぼいない。 考古学の型式論や年代論については解釈の入る余地は余りないが、邪馬台国はそこから先
の話である。
巨大古墳は確かに地域内の権力集中の所産だが、強権的な権力集中が実現しやすかった
のは、政争の絶えない中央ではなく、服従し完全支配された辺境だったかもしれない。
実際、巨大墳墓の築造は時系列に吉備・山陰から畿内そして関東へ向かう。辺境だから
こそ実現できた可能性がある。つまり辺境の大将軍である。
また作られた土器が外部へ出ていく地域とその土器が持ち込まれる地域。当然土器には
モノが入れられていたが、この2つの地域間においてモノの移動を取り仕切っていたのは
どちらの地域か。
同じことは人間にもあてはまる。人間が出ていく地域とその人間が入ってくる地域では
どちらの地域が人の移動を主導していたのか。
移動した人間が支配者階級なら移動した先が従属国だろうし、移動した人間が土器を生産
するような労働力なら移動した先は宗主国の可能性が高い。そして考古学的に移動の痕跡
が残りやすいのはどちらの種類の人間だろうか。強権的な権力の集中が実現されていた
時代に、多くの支配者階級が存在したとは考えにくい。
考古学は古代の人々の生活を知る学問だが、いったん文献なしに政治を絡めだすと途端に
解釈の問題になる。だから考古学の限度をわきまえている普通の学者は邪馬台国を口に
しないし、論文もない。 などと言う妄想をニセスレに書き綴る無学な老人がいる >>199
ニセスレにふさわしい内容だとするなら、その必要はない >>196
>巨大古墳は確かに地域内の権力集中の所産だが、強権的な権力集中が実現しやすかった
>のは、政争の絶えない中央ではなく、服従し完全支配された辺境だったかもしれない。
そんなに小難しく、こねくりかえさなくとも、簡単なことですよ。
倭国(阿波)から拓殖のため畿内へ進出した、忌部一族有力者の巨大な墓ってだけですから。 @阿波 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なお個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 不快感を与えるニセのスレタイ
不快感を与えるニセのテンプレ
不快感を与えるニセスレはおやめ下さい 陸行1日なら
不弥国の比定地は内陸部が多い
現候補(飯田、宇美町・・)から海岸に行くのに
南至投馬國、陸行?日水行二十曰と記述されなければならないが無い
不弥国の比定地を見直さなければならない 古代日本に関する以下の仮説はどうでしょう?
@古代の日本は、中国から「倭」(百余国)とよばれた。民族は列島系(刺青)。
A倭は九州政権で、「王は奴国王(福岡辺り) → 邪馬台国 が継承→ 邪馬台国王統」と続いた。
B3世紀頃、奈良に大和朝廷(小国)が興り(古墳)、倭(邪馬台国王統)と併存した。
Cその後、大和朝廷は7世紀頃までに日本全国に権威を広めた(古墳)。民族は半島系(刺青無し)。
D7世紀後半、大和朝廷は倭(王は天智天皇)を併合し、日本とした(天武天皇)
Eその後、邪馬台国王統(天智天皇系)が復権し、現代に至る。
不快感を与えるニセのスレタイ
不快感を与えるニセのテンプレ
不快感を与えるニセスレは止めて下さい 編年は考古学者がやる分野
科学者が専門なのはC14や年輪年代による年代測定
現在では両方がほぼ一致
差があっても10年か20年の差しかない
一方、九州説を支持してるアマチュアによる編年は大きくズレていて50年〜100年も差がある
鏡などは中国の編年ともズレている
つまり九州説を支えている年代観は素人が作ったものできちんとした裏付けもなければ整合性もない >>216
そうそう
ニセスレだから、いくらウソついてもイイんだよ
365日エプリルフールさっ >>216みたいに本当のこと言っちゃダメなんだろ? 346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】 >>213
韓国国籍法改正
韓国との複数国籍を認め、兵役義務を果たして無い者は国籍離脱無効
韓国の国籍法
出生者で決まる
父親・母親の一方が韓国籍である場合その子供は韓国籍
1.出生当時に父親、又は母親が韓国国民である者は韓国籍
2.出生前に父が死亡した場合でも、死亡当時の父が大韓民国国民であった者は韓国籍
韓国の国籍法改正では広範囲に韓国籍と複数国籍を認めた一方で
兵役記録が無い者に対して韓国国籍離脱が禁じられています >>213
古墳が全国的に展開されているのでその仮説はどうでしょう? >>196
同意します。
畿内にいたのは九州から派遣されてきた植民地総督のような存在で
鎌倉が京都の朝廷から独立したようにやがて特異な存在感をもち
独立的な権威をもつようになっていったのでしょう。 >>222
古墳は政治権力とは関係ないのでは?
宗教の広がりや流行じゃないの。 >>223
>畿内にいたのは九州から派遣されてきた植民地総督のような存在で
昔と違って、だんだん阿波説に近づいてきてる? @阿波 >>223
ニセのスレタイ
ニセのテンプレ
そういうウソ投稿がぴったりだ 今日は嵐が激しいので
ゆ る り と 参 り ま し ょ う
みなさん荒らしは誰かは見当はついていると思いますが >>227
個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい 2271. ◆CSZ6G0yP9Q 2017/11/24(金) 17:39:15.55>>228
今日は嵐が激しいので
ゆ る り と 参 り ま し ょ う
みなさん荒らしは誰かは見当はついていると思いますが
↑
これは、個人攻撃では無いな
1、嵐が激しい・・・ごもっとも
2、荒らしは誰かは見当・・・なにも攻撃していない >>228さん
失礼しました 皆様にもお詫びします
個人攻撃に近いかも知れません 失礼しました
少し 度を越した嵐 にカチッと来ました
御詫び申し上げます 良スレだなあ
>>228 あなたも少しは詫びた方が良いと思うよ 自意識過剰な1の連投・・・
本スレの1のようにならなければいいが・・・ >>213
@について
これは他国の記録なので、通説というか
上から目線以外は、ほぼ間違いないですね。
Aについて
邪馬台国は九州と確定はしていませんが
発掘の進展がある畿内で決定的な証拠が無く
数ある畿内説も、主観やこじ付けとは言えないものの
無理があるきがします
一例上げれば、箸墓古墳の築造時期確定?です。
こんな重大な件の、つじつまが合わない部分を
「誤差」とか言って片付けてます >>224
>古墳は政治権力とは関係ないのでは?
>宗教の広がりや流行じゃないの。
だから、古墳は各地へ進出した忌部一族有力者のお墓ですから。 @阿波 Bについて
纏向遺跡は画期的な遺跡でしょう。
政治と祭祀に特化した生活の痕跡がない大きな遺跡で
大和朝廷の発露と想定され、主体は尾張・東海地方です。
同時期に山陰(出雲?)・吉備・越・中部
最後に九州と、続々と纏向遺跡(大和)に入っています。
最近は各勢力が協調した連合国家として興ったという
説で固まりつつあります。
九州と大和で二朝並立は、理解できるようなきがします。
王朝成立のタイミングは九州の方が少し早いのでは? >>238
>大和朝廷の発露と想定され、主体は尾張・東海地方です。
>同時期に山陰(出雲?)・吉備・越・中部
>最後に九州と、続々と纏向遺跡(大和)に入っています。
あえて阿波を避けてて、ちょっと滑稽(失礼)ですね。 @阿波 364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】 >>237 @阿波
阿波は畿内邪馬台国の女王の隠家と理解できないか? おかしーなー
うそつきだましのうよくにわえのれすがぼーがいされちょる(りょーま&ぷらずませんせーふー
もーいっかいちょーせん >>218
>>216
なぞamsまとめははじしらず(それにのっかるのはただのはじしらず( なんや^^
よっぱらいのひがいもーそーやった(れすできんかったんはよってたせーか 当ニセスレの1は自意識過剰
トリ消して他スレを荒らしまくり
ナリスマシして連投するもバレバレ 「ゆるりと」 はぁーーーーーーーーー
馬鹿が集うから 頭の回転遅いから「ゆるりと」だろ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なお個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー おおらいかわさきのじいさんあばれててる
川崎しらずにあばれてる臭いを
ただよわせ本すれはわれなりとさわぐ
本すれでもおれのかきこができまい 何故なんだ♪♪
皆 静かにしてるのは
♪♪何故なんだ♪♪
思考停止のエセスレ
♪♪この禿ーーーちがうだろーーー♪♪ 個人攻撃や、不快感の与えるようなカキコミは1だけに止めて下さい 391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】 >>257
広開土王と戦ったのは、全国へ進出できる航行術を持つ、「阿波の海人族」である。
一方、今日まで各地に伝承・痕跡が残る忌部一族のように、畿内や九州から全国へ進出した忌部一族のような部族は存在しない。
朝鮮半島まで、進出できる航海術を持っているのは、「阿波の忌部一族(海人族)」の他にはない。 @阿波 >>238
筑紫の弥生王墓は紀元前から始まっているよ。
纒向より500年は開始が古いと思う。 葛城スレが面白い展開になったから見に行ってあげて。 このスレを立てていないのに>>1を名乗り続けるキウス
実は名無しに成り済まして立てた設定を忘れてる 邪馬台国≠大和朝廷
邪馬台国は九州で良い・・調停員
根拠はまるく収まる 俺はこう思う
1、天皇家は朝貢していないーーーー日本人の魂が魏に負けるわけない
2、邪馬台国は九州−−−−−−−−現天皇家も傷なし
3、東征−−−−−−−−−−−−−魏にペコペコする邪馬台国の反感勢力(天王家)が邪馬台国を倒し東征
4、出雲、阿波−−−−−−−−−−も魏にペコペコするのに反対し、九州のペコペコ邪馬台国に嫌気をさしてた
邪馬台国の反感勢力=反大陸王朝が 畿内に王朝を創った >>261
誰が立てたスレ??
良スレだと思うが・・・ キウス、焦りの連投
なお、本スレだろうが偽スレだろうが、自演や成り済ましはマナー違反行為 邪馬台国の場所について
邪馬台国について。
畿内説が優勢と言われてます。学者の先生も大半が畿内説だ、と言ってる人が多いですが、本当ですか?
具体的な学者の先生揚げてる人、全然というか、一人もいないですよね?
もともと畿内説だった人以外で、昨年の歴博の発表で畿内説に転じた先生、近年、年輪年代測定法などの科学的測定法で畿内説に転じた先生など、
抽象的ではなく、具体的な動きが知りたいのです。
今の考古学はどこまで進んでますか
よろしくお願いします。 >>269
そういうことは、ニセスレで聞くものではない One purpose, Doshisha, thy name
Doth signify; one lofty aim;
To train thy sons in heart and hand
To live for God and Native Land.
Dear Alma Mater, sons of thine
Shall be as branches to the vine;
Tho' through the world we wander far and wide,
Still in our hearts thy precepts shall abide! 弦月高く 空に冴え
見よ 若き血は 花と咲き
今 雄の 雄叫びに
かしまし鳥の 群るも
羽音ひそませ 姿なし
征け 征け 友よ、いざ征きて
勝ちどき高く 叫べかし
誇りに刻む その名関西
ああ 吾が母校
関西 関西 関西学院 都の西北 早稲田の杜(もり)に
聳(そび)ゆる甍(いらか)は われらが母校
われらが日頃の 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠(くおん)の理想
輝くわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ 眉山にかをる青嵐
流れにやどす栄光の
あゝ青春の夢つどひ
称へあれ 称へあれ
うつして清き吉野川
ほまれは高き学園に
われら世紀の扉をあけむ
わが 徳島大学 若き血に燃ゆる者
光輝みてる我等
希望の明星仰ぎて此処に
勝利に進む我が力
常に新し
見よ精鋭の集う処
烈日の意気高らかに
遮る雲なきを
慶應 慶應
陸の王者 慶應 自然の秀麗 人の親和 たぐいなき 此の学園
我等立つ 人生の曙に 燦たる理想 仰ぎつつ
学ぶは一途 純正の 若き心に 讃えなん
関西大学 関西大学 関西大学 長き歴史 アキバにあるのは、揚げばか
この偽スレの1は、上げばか 風みどり吹け 松陵に
われらが若き 血はわきて
至純の力 あふるるを
いざわが友よ 出立たん
フレーオ フレーオ フレ フレ フレ テンプレスレの1さん、すっかり壊れちゃったね。
まあ、100近いテンプレ上げるようでは
まともな人ではなかろうが。 戦後の籠神社の宮司と出雲大神宮の宮司の対談の記事を見たことがある。お互いの秘密を暴露していて、
出雲大神宮は、中央は空位で、左がミホツ姫とオオクニヌシ。右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命らしい。
籠神社の隠してある主祭神は、出雲の大神とのこと。
筆者はどちらも、クナトの神だろうと推測していた。
その出雲地方で元々信仰されていたのが、クナトの神と姫神の幸神、その子のサルタヒコ。
クナトの神、渡来人を思わせる、文物をもたらした神。
ある伝承では、東から来たらしい。
元々出雲にいた幸神と結ばれたのだろうか?
西ではなく東からというのが興味深い。
記紀の出雲の伝承とされているのは、大国主とスクナヒコナ。
大国主はイザナギ、スサノオの子孫と記述されている。
スクナヒコナは渡来人的性格を帯びた国造りの共同者。
クナトの神は、イザナギ的性格とスクナヒコナ的性格が合わさったものと似ている。
多くの銅鐸が出土した出雲と環大阪湾。紀元前より何らかの交流があったことが推測される。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
邪馬台国の南にあるクナ国。
淡路島を中心とした大阪湾一帯で銅鐸を作り活動していた倭人。
主祭神なのに隠さないといけない神とは、どういう存在だったんだろうか? 生駒の嶺に 朝影さして
緑風さやけき 銀杏の木蔭
若きいのちは 力あふれて
歌ぞおほらに 望みはるけし
叡智の泉 掬みてつきせず
ほこりあり 真理の岡べ 嘘と中傷とナリスマシでここまで来たが
とうとう壊れたなニセスレ男 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
神々がいるところ、高天原のイメージともダブる。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 ニセのスレタイ
ニセのテンプレ
ニセの投稿
ニセの1 1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 卑弥呼を共立する国々(丹後、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけだろう。
吉備軍は、記紀にあるように狗奴国の本拠地河内を避けて熊野に迂回しヤマトへ進軍したんだろうね。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。 倭国大乱
◎吉備が少しずつ瀬戸内海の支配を進める。
2世紀末までに播磨、淡路島と吉備に落とされていく。
◎九州南東部の投馬国。神武の本貫かな。吉備などの西瀬戸内海の海人と手を組み、九州北部を征圧。
伊都国に一大卒、苅田にも拠点を構える。
◎伊勢尾張の勢力
打倒畿内のクナを目指し、西征。
甲賀、伊賀と兵を進め、南近江を征圧。
さらに伊賀→宇陀方面からヤマトに進軍。
大きく分けて、この3つの勢力が卑弥呼共立で手を組んだんだな。 倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力) 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していた。
八十島祭、かつては天皇の即位儀礼の一つであった。
王権を正式に引き継ぎましたという、国譲りの意味を込めた儀式だったんだろうか?
八十島祭と関連の深い生國魂神社。
神武東征の際、生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残されている。 ニセのスレタイ
ニセのテンプレ
ニセの投稿
ニセの1 >>292
誇大妄想。 卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 大阪城の地。
かつて石山本願寺ができる前は、生國魂神社の境内であった。古墳もあったらしい。誰の墓だったのか‥
その近傍の淀川河口にあったとされる坐摩神社。
井戸の神とされているが‥
巨大井戸と言えば、鉄工房もある池上曽根遺跡。〜弥生時代末期。
上町台地、それに続く泉北丘陵。
大きな勢力があった可能性がある。
記紀でいう国津神。国造り神。
その親玉、大国主。出雲の神とされるが、出雲の伝承ではオオナムチ。全く別の存在だったのでは?出雲は古墳時代までは静穏。最初に国譲りをしたのは出雲の王でなかった可能性もある。
大国主とスクナヒコナ。
クニヌシとクナヒコ。クニの王、クナの王。
同一だった可能性もある。
国造り的性格と渡来人的性格を分けた可能性がある。
そして国造り的性格の面を後にオオナムチと集合させたのかもしれない。
クナ国の王、卑弥弓呼。
記紀で徹底的に消されているヤマト征伐以前の大阪。
古墳時代に多数の巨大古墳が好立地に作られた。消された集落も沢山あったのかもしれない。 >>296
いいタイミングで現れるなw
毎度毎度歴史の隠蔽、ご苦労さん。
阿波忌部の宿命かw
滅びた勢力、勢力争いに負けた勢力を隠蔽するのが仕事かな。
阿波が関するところ隠蔽あり、分かりやすい。 >>294
応神天皇の「難波大隈宮」と聖武天皇の「難波宮」をずっと混同してますね。 @阿波 393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった。【三国史記・新羅本紀】 >>298
西日本を駆けての「大乱」をいうのであれば、兵站の説明をどうしたのか考証しなければ。
ずっと阿波説に突っ込まれますよ。 @阿波 >>298
西日本を駆けての「大乱」をいうのであれば、兵站をどうしたのか考証しなければ。
ずっと阿波説に突っ込まれますよ。 @阿波 ヤマトを攻めた本体は伊勢尾張だから。
滋賀、三重、奈良の元伊勢。
兵站の足跡だろう。 宮内庁選定じゃなく、高槻のあたりにある「本当の継体天皇陵だろう」と言われる今城塚古墳からは、大量の埴輪が出土しているんだけど
その中に大王と近衛のほかに、何かをかざした巫女の1団らしい像が出てくるんだよね
太陽に向かって鏡をかざしている巫女達だろうと言われている
こういう像は他の古墳からも出土していて、古代の倭国の軍隊には兵の他にこういう巫女の一群が同行していた事が分かる
これが卑弥呼やアマテラスの原型だろうだよ >>306
>ヤマトを攻めた本体は伊勢尾張だから。
なぜ攻めないといけないの?
伊勢尾張の忌部一族が拓殖に入っただけですよ。 @阿波 >>303
あんた好きだよ、
時折 名古屋からカキコしてるが
名古屋は何国 >>309
魏使には想像もつかない
「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」の国でしょう。 @阿波 >>307
卑弥呼の方が、それらの埴輪より古いのだけれど。 吉備の兵站は簡単だな。
2世紀末までに播磨、淡路島を落としている。
記紀の記述では紀伊半島からヤマト入り。
阿波と紀伊を引き入れたんだろうね。どちらも後に忌部繋がりになるのは興味深い。 後はタケミナカタの勢力が何処にいたかだな。
古事記等では、建御雷神に信濃国の諏訪まで追い詰められたとある。
元々は信濃にいなかったが、信濃に逃げられる場所にいたことになる。
日本書紀では、伊吹山に荒ぶる神がいたとある。
伊吹山の麓の彦根。
鉄工房のあった稲部遺跡。在来系土器が中心の集落跡。
その南3kmにある斗西遺跡は、吉備など纒向とよく似た構成の土器が出土。
建御名方vs建御雷神の神話を思わせる。
検証が必要だが、若狭湾〜琵琶湖北部〜美濃に敵対勢力がいた可能性があるね。 >>310
阿波有難う
蝦夷も難しい
アイヌも難しい
寝支度する
有難う >>314
適当なことを根拠もなくペラペラと。
建御名方は出雲にいて、諏訪に逃げ込んだ。
もともと出雲が日本海交通の覇者であったことを考えれば、どこから上陸して長野に入ったかと言う程度の話。
ここの過去スレでは、新潟(上越市付近?)経由との意見だった。 各小国にはそれなりの集落が有るだろうが
それらを統べる首都が小国の集落と違う
要素ってわかるのかねえ? それよりもサカキバラ事件だよ、
何かの宣伝でもしているの? wiki
この辺りだけでも良いから読んでみて
【伊勢派と出雲派の対立】
>両派は真っ向から対立。果てには、
>「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」 各県から数基ずつは威信材の有る
墳墓があるからね
小国王墓でもそれなりには
副葬品がある。 >>1
5ちゃん(2ちゃん)の書き込みのほとんど99%は5ちゃん管理人によるものです
5ちゃん管理人は150〜400人くらいいるといわれていて、文系の才能のない売れないライターがバイトで5ちゃんに書き込んでいます
だから詳しい書き込みができるんです
5ちゃんは管理人がIDを変えながら書き込んでる掲示板です
5ちゃんは管理人はハッキング、ストーカーをしてきます
5ちゃんは管理人はユーザーのパソコンをハッキングして個人情報を覗き見しています
5ちゃん掲示板を見てるだけでもどこを見てるかリアルタイムで分かるようになっています
(管理人が監視してるスレを見ただけでハッキングされる恐れがあります)
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昔2ちゃんの薬物板が警察につぶされた後にプロキシーチャンネルという新たな薬物掲示板ができて、
そこで全国的に違法薬物(覚せい剤など)の販売が行われていたんです。
プロキシーチャンネルをいい意味で荒らしていたら、2ちゃん管理人にハッキングされて、パソコンをのぞき見されました。
だから2ちゃん管理人がプロキシーチャンネルに関わっていたんだと思います。
2ちゃん管理人の中に薬物売買に関わるような怪しい人がいたと思ってます。
プロキシーチャンネルは2ちゃんのような形で、板は1つしかないけどスレがたくさんある作りでした。
そこで神奈川県の薬物の売人がスレを30個以上作って自動的に24時間体制でスレを上げて目立つようにして違法薬物の宣伝を
してたんだけど、プロキシーチャンネルが突然閉鎖される1日か2日くらい前に神奈川の売人の自動スレ上げがストップしたんです。
神奈川の売人のスレが止まったと思ったらプロキシーチャンネルが突然閉鎖。
閉鎖された時期は薬物の売人がたくさん逮捕されてて、報道もされてて、その売人たちが使っていたサイトがプロキシーチャンネルだったから
閉鎖されたんだと思います。
2ちゃん管理人は荒らし認定したユーザーにハッキングだけじゃなく神奈川県でストーカーまでして個人を特定しようとしてきたので、
この神奈川県の薬物の売人(薬物組織)と同じ神奈川なので繋がりがあるのかも。
プロキシーチャンネルが突然閉鎖されたのはたしか2年前の9月です。 >>325
威信財は、漢からの冊封の証なので、田舎の村長は持てないのですよ。 >>326
それなりの副葬品ではなく、後漢鏡、璧などだよ。
漢が、これを倭王である証とするようにと渡したものだよ。 『木島事件』
こういうのも、
イメージを悪くしようという手法だよ
『木島 神社』
のイメージを悪くしようという、やり方 『木島 神社』
わかる人には、わかる話、すぐに、わかってしまう。
>神名帳では、
>山城国の木嶋社のほかにも大和国・摂津国・丹波国・播磨国・対馬国などに
>天照御魂神・天照神・天照玉神を祀る祠の存在が見られるが、
>これらは天照大神(皇祖神)とは別の神格の太陽神と考えられている 銅鏡って中国では役人の1月の給料くらいで買えたらしいからたいしたもんじゃない
壁ってあまり研究されてないよなあ >>334
一月分の給料で普通の人は買わないし、中国の役人なら高級取りなんじゃない?
璧は九州北部に多くてキナイセツに不利だから... 邪馬台国に鏡や金印を授けたのは
魏の王「曹芳」と考えてよいですか? 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた[1]。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
先代の明帝が景初3年に亡くなるようなので、二代に渡り卑弥呼に印綬を授けたことになる?
どうなんでしょう。 確か、璧が一番高級なんだろ。
金なんかよりも遥かに上。
要するに、璧は今で言うダイアモンドと同価。
璧>>>>>>>>>>>>>金 >>337
景初には詔書が出ただけ
翌月に帝が死んじゃったので1年間喪中
正始になって下賜 >>338
中国の皇帝は黄色の服着てたし金の方が圧倒的に上。
鏡はゴミ扱いでしょ。 というか、璧の分布を確認しようと思っても、なかなかいい資料にたどり着けないな。
確かに研究が進んでいないようだ。 永平七年作の内行花文鏡に「三百銭に値する」との銘文があり、定価が明示されている。
これは当時の穀物6コク(成人男子の2か月分の消費量)に該当するとのこと。
この頃の管理の給料は、県長が40〜45コク、郡県の中級官吏で16コク、下級官吏で11コク、
佐史で8コクなので、下級官吏の月報より安価である(岡村「鏡が語る古代史」)。 >>344
岡村は畿内厨っぽい発想だからなぁ。
なんか胡散臭いんだよね 岡村編年は胡散臭いけど、まあ鏡が高級品じゃなかったのは事実でしょ 九州の北の地方から南にしかいかないのだから、やはり邪馬台国は熊本城ではないのかな。 >>349
まず、間違いないだろうね。
考古学的に凄い証拠が出てしまったのだからね。 熊本の鉄は弥生時代後期に
玉名、山鹿、荒尾などの
肥後北部に集中し
4世紀くらいから、宇土半島や
熊本市周辺の鉄が増え始める。
弥生時代後期は唐津からのラインで
古墳時代に入ってから
長崎、天草を迂回した海路ラインが
定着したと考えている。 >>350
あれだね、まだ一般には発表されていない、あの凄い発見物のことでしょう、、 >>353
そうそう。
いま、優秀な若い考古学者達が分析しているそれのことだよ。 392年 百済は王を殺して倭王の遣使に謝罪し、遣使が立てた阿花王を即位させた。(『日本書紀』) うむ、邪馬台国の調査って事なら熊本に一点集中させ予算も人も出した方が良い。 重複スレはザラコク、ここは阿波厨、畿内説は完全に絶滅させられたな 405年 百済の王が死んだとき、倭国は王子を百済に帰して王位に即けた。(『日本書紀』、『三国史記』) 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。 >>369
「畿内説は何も説明することができない。」
無知蒙昧を自白してるんだからしょうがない
「それには卑弥呼も含まれる。」
論より証拠 よほどスレ立ての順番を先越されて頭にきたんだな。
しかしスレは個人の占有物ではないぞ。 >>364
百済=本家だと言っている人がいなかった? >>380
朝鮮人な
百済の歴史書でも太子を日本に人質として送ったと書いてあるのにw 百済の歴史書では
百済の太子が列島生まれの倭人系の産だって書くのにしのびないから
人質として送ったと書かざるを得なかったんだろ できちゃった婚?
どうせ平安時代まで妻問婚と三日夜餅の世界なんだろ。 瀬戸内海の生口島は魏へ献上した生口と関係はあるのだろうか? >>388
生口の名の由来には諸説ある。
・『魏志倭人伝』の生口から。邪馬台国が倭への朝貢である生口をこの地に留めていたとされる。
・以下略 女の所へ三日三晩通ったら結婚成立の招婿婚の事だね。
二日でヤリ逃げも可能だったろう。
三日続けて通ったら終生その女の面倒を看てやらねばいけない。 一夜限りのつもりでいたら子供ができて、他の男の子ではないかと言ったら周りの顰蹙を買って、千年以上経ってもいろいろ言われる王がいましたね。
伊都国の最初の王である邇邇芸という人物なんですけどね 邪馬台国は畿内にはない。
中国や朝鮮半島から近い北部九州が有力だ。 重複スレからの客が絶えないのでまともに議論できないな 400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。【広開土王碑】 よく奈良地方で邪馬台国と同時代の古墳が発見されただの、土器が出土したといって、やはりここが邪馬台国では?とニュースになってますが、そもそもヤマト王権と邪馬台国は時代的にほぼ同時期な
ので、その時代の古墳等が発見されたとしても、その地方が邪馬台国とは限らないのではないでしょうか?現在頻繁に発見されている銅鏡も魏から送られたものではなく、ほぼ国産品ですよね。 邪馬台国について
あるテレビ番組で、歴史学者?の方が『邪馬台国という国名は、日本の文献にはどこにも出ていなくて中国の魏志倭人伝にだけ記述が見られる』というコメントがありました。
@これは本当でしょうか?
A本当の場合、江戸時代の人は(新井白石とか)は魏志倭人伝の写しか何かを閲覧できたと言うことでしょうか。
Bまた邪馬台国は当時としては7万戸という大国だったはずなのですが、そんな大国が日本の史料には登場しないなんて事は他の例などと比較してもありえるのでしょうか。
回答よろしくお願いします。 卑弥呼とは別壹與の国????
--
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王
國中遂定 政等以檄告喩壹與
---
ここで言う国とは倭国としたら
壹與は邪馬台国と違う国の人間でも良いと思うが・・・・・・・・・ >>412
「宗女」の解釈は芬々してるが
「宗家」などはのの「宗」は、正統であること、嫡出であることを意味すると思う。
「宗女」は「嫡出である娘」ということになる。
卑弥呼は婚姻はしてないので従って娘はいない。
親族ということになると思う。なので卑弥呼の血族の娘と考えられ邪馬台国の人であると思うが。 邪馬<壹>國
<壹>與
よって壹與は邪馬台国の女王 同宗とは、
「同出於一個祖先。後也稱同族、同姓為「同宗」」 卑弥呼と台与の関係もわかっているのは宗女ですね。
梁書にはもっと先のことまで書かれているが。
「卑弥呼が死んで更に男王が立つ。国中不服。
更に相誅殺。また、卑弥呼の宗女・台与を立て王と為す。
その後、また男王が立つ。中国の爵命を並び受く」。
関係などは全くわからないのですが、台与と男王が並存していたのだろうか?
男王と女王が二人、同時に存在? >>417
俺も知りたいのは、記紀の誰に男の王をあてはめるの
もしくは狗奴國の王が卑弥呼が死んだ後に立った男王かな >>417
「その後」だから、並立なわけないだろ。 テレビ東京は26日、人気シリーズ「池の水ぜんぶ抜く」の第6弾を来年の正月特番で放送することを発表した。
タイトルは「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜きましておめでとう2018」で、シリーズ初の3時間スペシャル。
放送日時は「2018年正月」とし、注目は卑弥呼が眠るといわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)のお堀。
歴史的な大発見はあるのか? >>420
水を抜くだけだから
何も出ねーよ 水を抜いた後掘るのなら別だが
出てきてもゴッドハンドか後世で捨てられた物になっちまう >>417
普通に読み解くと幾つかの王族なるものの家系が存在しソノ中から王を立てていた、、、
そして台(壹)与は卑弥呼の家系グループの当主の娘(宗女)であった、、、
って事じゃないか? 壹與が卑弥呼の姪とかなんだろうね。
壹與が女王の間は壹與が当主であるわけだが。 >>423
>普通に読み解くと幾つかの王族なるものの家系が存在しソノ中から王を立てていた、、、
ついつい誇大妄想をしてしまい、その「幾つかの王族」を、記紀にあやかって付けた地名に惑わされて、 西日本全域で考えてしまう。
卑弥呼や壹與を共立した30国とは、倭国(阿波)国内の30国にすぎないのである。 これが現実的な見方。
吉野川中流域勢力(旧阿波郡・美馬郡・麻植郡) 対 吉野川下流域右岸(国府・石井) 対 吉野川下流域左岸(板野・鳴門) 対 県南勢力(阿南・小松島)
の勢力分布が考えられ、それらの中から卑弥呼や壹與が共立されたのだろう。 @阿波 >>421
掘っても近所の人が捨てた生活ゴミが出るくらいでしょうね。 364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】 まあ、築造時代のゴミが出てくるなら
それはそれで価値があるからね。 邪馬台国の場所がわかると日本の歴史が大きく変わるのでしょうか?
小学生に説明できる程度で教えて下さい。 日本という国ができる前に、九州に倭国という国があったことになります。 その九州にあったはずの倭国が大和へと結びつかないのが九州説というものです。 @阿波 346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】 有難うございました 勢力図、地図 なるほど・・
では
邪馬台国の場所が今年特定されるとしたら、
どこにあった場合が、一番経済効果が高いですか?
畿内はもうこれ以上無理と思いますが・・・ >>434
変わらない。
畿内だろうと阿波だろうと九州だろうと中国人から見て「倭人」と判別できた種族。
魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国の文化、風俗、、、倭全土あんな感じで大きな違いは無かったんでは?
邪馬台国の特定が難しいのもその為と思うw 水田の導入は、縄文末期〜弥生時代前期で九州が早いね。何らかの渡来人がいたんだろう。
倭人はまた別と思うけどね。
呉の末裔を自ら名乗っている。春秋時代。
大阪湾一帯の文化。弥生時代前期末に一変するからね。
淡路島でBC4世紀の銅鐸が出土。
銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが一斉に認めるようになる。
中国南部から倭人が東シナ海→黒潮ルートで、直接畿内に渡来したんじゃないかな。 漕がなくても海流に流されるからな。
黒潮なんて時速7km。1日150km。
海流のルートは大体決まっていて流れ着くポイントもほぼ一定。
昨今の北朝鮮の船を見たら、分かる。能登半島に引っかからなかったら東北。
黒潮は潮岬に接岸。 時速7kmだと手漕ぎでコントロール不能なんだよね
へたすると南米直行
対馬海流は時速2km、それでも北朝鮮はあのざま 潮の境目は海水の色や流れで分かる。黒潮の端に乗ればよい。目的地で黒潮から離れるだけ。
そうすればコントロール不能にはならない。 潮の境目は海水の色や流れで分かる。黒潮の端に乗ればよい。目的地で黒潮から離れるだけ。
そうすればコントロール不能にはならない。
そうやって、忌部一族は阿波→伊勢→東海→関東へと拓殖に出かけている。 @阿波 黒潮の幅は100km、手漕ぎでは2ノットを越えると制御不能と言われてる
黒潮は最大4ノット(7.4km)
端に乗ったつもりが。。。
まあ机上の空論というやつですね >>445
>海流のルートは大体決まっていて流れ着くポイントもほぼ一定。
年によって蛇行するし、古代人が太平洋の前の潮流を理解していたとは思えない。 海流に逆らうわけじゃないからな。
流されつつ、海流を横切るように進む分には流速は関係ない。
何でも朝鮮半島→九州北部経由にしたいようだが。 海流の方が速かったら無理だろ。
自分で漕いだことあるのか? ジャップが民族主義ひけらかして笑える
全ての文化を半島から貰い受けたくせに もらったと言うより、パクってたんだろ。
弥生人骨を見ても、生活土器を見ても、弥生人は沿海州人であって、半島人じゃないぞ。
沿海州から渡来定着して、それから50年以上経ってから、半島から稲作をはじめ、
色々パクってきたんだよ。 倭国大乱の時期、
近畿にはすでに天皇皇后がいらしたと思いますが、
天皇皇后がすでにいらした近畿で大乱、
というのは不自然な気がします。
倭国、倭国大乱、邪馬台国は九州、
が自然であるように感じます。
近畿には天皇家。
邪馬台国の卑弥呼と、近畿の神功皇后とは、
協力関係にあったように思います。
そして、卑弥呼、壱与(台与)と来て、
邪馬台国は近畿の天皇家(ヤマト)に、
吸収されていった。
いかがでしょう 創作なら創作関係のスレッドに行くか、
頭のビョーインにでも行け 漫画やアニメ関係のスレッド?
そういうところがあるから
病人が集まるようなスレもあると思う、
探してみると良い >>456
近畿は、天皇家の前身(葛城王朝?)がやっと勢力を伸ばしたころです。 >>449
倭国(阿波)から黒潮に乗って伊勢・東海・関東と進出している紛れもない事実がある。
現実から目を背けてはいけない。 @阿波 >>455
で、中国から稲作が伝わった事を証明する証拠遺跡と、
その証拠の中流種の出土イネと中国系農具は?
今すぐ言ってみろよブラックッ!ブラックッ!台湾ブタ広鼻ブラックッ! >>456
>吸収
と言うか合体と言うか融合したのではないか?と思う。
勢力図としては九州勢が上だったんじゃないの。
本当なら、ひと合戦、ふた合戦と大きな戦いが有ってしかるべき。
が、そんな事も起きず(畿内の)ヤマトが全国に号令を掛ける大きな存在となっている。
白村江の戦い以降、西日本各地に砦を築き沿岸部には防人(さきもり)を置き警戒態勢、、、
「倭人同士で争ってる場合ではない!」と畿内へ合流したんではないか? 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>464
>「倭人同士で争ってる場合ではない!」と畿内へ合流したんではないか?
畿内へ合流する直前に九州倭国?が在った根拠は? @阿波 宇宿貝塚史跡(奄美大島 )
カムィヤキ古窯跡群(徳之島)等
奄美群島を日本の文化圏とするか琉球の文化圏とするかは諸説芬々
石野遺跡(小笠原諸島)
黒潮のルートは古代からあるものと推察される >>455
で、中国から稲作が伝わった事を証明する証拠遺跡と、
その証拠遺物の中粒種の出土イネと中国系農具は?
さっさと言ってみろよ台湾 淡褐色ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇ブタチックプノンペチカ。 >>467
どれも漂流者の単発遺構で、子孫が残せず、単発で終わってるけどな。
今の琉球人は8000年前に九州縄文土器をもたらした九州縄文人の末裔。
そこから遺跡と土器が連続している。 九州年号の大化は、大和朝廷年号の
大宝の直前にあたり
大化の改新により九州政権から
畿内政権に変わったとすれば
シンプルに収まる >>469
圧倒的少数派の先祖を大多数の先祖のように見せかける書き方は卑怯 >>470
大化の改新により畿内政権に変わる直前の九州政権が在った痕跡は?
無ければ単なる妄想説ですよ。 @阿波 >>470
九州王朝説では年号の研究より700年までを九州王朝で、701年からがヤマト朝廷だと考えられていたが
別の研究で評から郡へ変わったのが同じ時期だと判明したんだよな
別々に研究さらたことが一致した珍しい例。 >>474
701年からヤマト朝廷に変わる直前の、700年の九州王朝が在った痕跡は?
無ければ単なる妄想説ですよ。 @阿波 ヤマト王朝は渡来人と、倭人が作った
飛鳥の常用語は百済語とも、言われ
大化改新は両者の権力争い
倭人の勝ち ヤマト王朝は、渡来人力が無ければ成立してない
渡来人色を無くす意味も、記紀にも隠されてい 筑紫や出雲から畿内に入植した人物たちの名前はわかっている。
饒速日(天孫)
三島溝杙(鴨主の祖)
事代主(三輪山大神)
磐余彦(神武)
何代にもわたって、文化的先進地である日本海沿岸から流入している。
ただ、戦後は記紀を軽視しすぎるあまり、畿内が植民地であったこと自体が忘れ去られようとしている。 >>479
俺もそう思う
畿内の勢力だけでは、ヤマト王朝はできない >>476
太宰府 は7世紀後半にやっと完成して、それからようやく役所としてスタートしたんですね。
その太宰府より早い7世紀中頃には倭国(阿波)では役人が木簡に習字をしています。
それは、7世紀末頃に阿波から奈良へ遷都(持統朝)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。 @阿波 いや〜渡来人により確立された王権なら中国側の正史にもソー書かれるハズ。
が、そんな記述は無いから。 >>438
>太宰府 は7世紀後半にやっと完成して、
>それからようやく役所としてスタートしたんですね。
そうだよ、いままで知らなかったの? 道真というのは左遷組と書いてない?
大体は親王が就いたとか でも捏造によると、
おかしなことが書いてない?
天孫 天神などの話 >>485
>そうだよ、いままで知らなかったの?
知ってましたけど? @阿波 これはwikiの話
菅原氏=天孫となっているでしょ
かなり前に見たときには違っていたよ 判官贔屓?
実際、そう(天孫)ではないんだけど・・・・みたいな話 >>484
中国側の記録としては、徐福や呉の太伯まで遡ってしまうが、それは弥生時代の前期にあたる。
それ以降は、断続的な流入はあっても、倭国内での大きな変化ではなかったように思うよ。 いじめられ〜天孫という事になったのかな
あまり良くない、
引きこもり(テラス)的な意味 天孫族??
出雲氏もイジメられていたのかな、
wikiによると、そうなっている 出雲はそうだよ、
日本人なら誰でも知っている話
盗まれてばかりだという話、
神話、物語・・・・その他 405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。三国史記 応神まで九州の勢力が畿内で主導権をとった考古学的証左はない。
ニギハヤヒが九州から来たなど捏造だな。
三島溝杙は摂津の豪族だろう。
神武のモデルは実在したと思うが、九州南部の投馬国から派遣され吉備軍にお供した程度だろうな。 >>498
>神武のモデルは実在したと思うが、九州南部の投馬国から派遣され吉備軍にお供した程度だろうな。
誇大妄想。 神武の時代に大軍を率いて西日本を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 >>498
そんなこと、ニセスレで反論しても意味がない >>498
>三島溝杙は摂津の豪族だろう。
摂津豪族だけれど、父親は博多の大山祇だろ。 >>498
都合の悪い史料は無視するのが畿内説の得意とするところ。 >>498
>三島溝杙は摂津の豪族だろう。
東京都神津島の「阿波命神社」
「伊豆三嶋大明神由緒」
御祭神が「積羽八重言代主大神」であり、その御后が「三島溝杭橛姫大神」「伊古奈比当ス」「活玉依毘売命」
さらに、その御子が「玉櫛媛」こと「媛蹈鞴五十鈴媛命」であり、後、神武天皇の王妃となる。
「事代主神事蹟考」の付録に三宅神(「事代主命」のこと)が当初、三宅島阿古に上陸し后八柱を娶り二十七柱の御子神を設けた、いわゆる「三宅島の事代主」の系図がある。
単純に「伊豆三嶋大明神由緒」、「三宅記」を並べて眺めれば「阿波神」「阿波命」つまり「大宜都比売命」が「三島溝杭橛姫大神」に見えてしまう。
東京都神津島村長浜山、阿波命 (アワノミコト) 神社
静岡県掛川市初馬、阿波々 (アワワ) 神社
阿波の事代主神社の社伝では、事代主命の后を阿波津媛命としている。
伊豆の三嶋大社では阿波神。
『阿波々神社』阿波比賣命(天津羽羽神) 天石戸別命の御子で八重事代主命の后神。 天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く) だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完) >>507
アンフィクチュオニーはあっちのスレだろ。
貼り間違えているよ。 朝鮮半島から稲作伝わったわけないんだよ。
一旦、寒冷地適応したものが、南下するわけないだろう。 まぁ畿内説を唱えるなら「もっと大きな遺跡を発掘して下さい」としか言いようがない。
ショボい遺跡しか出て来ない畿内が自力でドーやって倭の国を統一するんだよ。 11月は神無月
だけど、出雲は神在月
出雲に神を集めると誰が決めたんだろう
出雲が邪馬台国じゃないか 渡来人
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。三国史記 (新羅本紀) より 神無月は、本当は神奈月で、接続の助動詞らしいよ。
稲刈りが終わった後で、各地の頭領が出雲の大国主のもとに集まったのだろう。
ただ、1世紀頃に高天原が出雲を攻め滅して伊都国が成立してからは、廃れたのだろう。 >>517
その説まちがってるらしいよ
神無月のかんなはかんなびの略 >>520
神奈備????
出雲に年に一度隠れた?神の休養??慰労会?? >>520
語源としては同じだが、伊勢遺跡のように、実際に集まっていた痕跡が見つかるに及び、山上の神籬ではなく、配置に集まる場所が用意されていたことがわかる。 >>477
>ヤマト王朝は渡来人と、倭人が作った <
少し賛同 奈良は渡来系の名前
乃羅
平 : 万葉集、
平城 : 万葉集、続日本紀、日本後紀、日本霊異記、平安遺文
名良 : 万葉集、
奈良 : 万葉集、続日本紀、日本霊異記、正倉院文書、長屋王家木簡、平安遺文
奈羅 : 日本書紀、日本霊異記
常 : 万葉集
那良 : 古事記
那楽
那羅 : 日本書紀
楢 : 万葉集、
諾良 : 聖徳太子平氏伝雑勘文
諾楽 : 日本霊異記
寧
寧楽 : 万葉集
儺羅 : 日本書紀 結局、出雲の伝承にしても記紀神話全体についても、考古学と矛盾しないことがわかってきた。
出雲の国譲りと天孫降臨は特に大きなイベントで、政権交代により伊都国が成立し、倭国大乱を経て卑弥呼政権へとつながる。 >>522
>語源としては同じだが、伊勢遺跡のように、実際に集まっていた痕跡が見つかるに及び
どんな痕跡が見つかったの? >>523
[寧]
は奈良そのものじゃねーか
北海道を訪れることを「来道」、熊本は「来熊」、静岡は「来静」と、
概ねその地域の名の一部を取り入れていることが多いとが、「来寧」は特殊。
奈良の古称・雅称が「寧楽」。
今でも
海外から「来寧」と言ったら奈良に来ることだな
大和朝廷と邪馬台国は関係ないんじゃねーか >>626
気がつきませんでした
[寧]は倭人伝では出て来ない
畿内に邪馬台国は無かった手掛かり??? >>525
>どんな痕跡が見つかったの?
高床建物が円形に配置されていた。
倉庫なら丸くする必要はない。
複数の有力者が集まっていたのではないかと言われている。 >>530
詳しくは知らないが、周りには多数の遺跡があるらしい。
日本海が主要交易路だったから栄えていたのかもね。
海がない奈良盆地は都たり得ない。
500年後までに街道が整備されてようやく奈良は陽の目を見るんだよ。 ヤマトという地名があるのに、何故奈良という地名をつけたのか?
一番の謎だな。
記紀には、他にもヤマトの地の名付けのエピソードが幾つか散りばめられている。
ヤマトという言葉自体が当時の支配層にとって、都合が悪かったとしか考えられない。 ナラは韓国語です
日本語では国という意味になります
日本人は知らないのだと思うますが、韓国人はナラをウリナラという表現でよく利用してます ナラ が 韓国語であればますます渡来系ヤマト朝廷? >>535
名は何処から採ってきても可
例 岐阜
稲葉山井ノ口を岐阜と命名したのは信長と言われています
岐阜の由来は中国から
岐阜の岐は、「古代中国の周の文王は岐山の麓から起こり、中国の天下統一を成し遂げた」という故事から取り、
岐阜の阜は、孔子が生まれた「曲阜」という地名から一字を取ったという。
「周の文王が岐山より中国の天下統一を果たしたように、私もこの岐阜の地より日本の天下統一を果たす」
という信長の意気込みが感じられます。 ZIGGY『DON'T STOP BELIEVING』
ブルマに怯えてる毎日?
このような事を言っているし(空耳)、
ドラゴンボールの話なのかな、
王子の話 白村江の戦いの後に平城京が作られるので、多くの亡命百済人が奈良にいたでしょう。 蛇足
岐阜の「阜」は、岐阜以外に常用では使われていないと思う
以前、県名を漢字で書くというTVの小学生?クイズだったと思うが
岐阜が一番不正解が多かった 愛媛とか新潟が難しいと思いましたが岐阜でした
「阜」を「埠」と書いてる子もいました >>535
>ナラ が 韓国語であればますます渡来系ヤマト朝廷?
奈良藤原京の場所は元々、朝鮮半島から逃げ延びてきた人達などの居留地(半島人街)だった。
倭国(阿波)王権がそこに半島人を住まわせたもの。 その後、その上に奈良藤原京を造営。 @阿波 『松傾』調べると出てくる、
その画が駄目なのかもしれないよ
かなり後の時代(江戸、幕末、近代)?に
なってから書かれたものでしょ
そもそも親は山守と書いてあるし、山のカミ 後漢書、魏志倭人伝、宋書倭国伝、梁書倭伝、隋書倭国伝、旧唐書倭国伝などなど、中国の文献に倭国の記載が幾つもあります。
@これらは倭国の情報だと考えられますが、宋書以降、倭国はヤマト王権のことであるという読み替えがなされていると思います。その合理的な根拠はあるのですか?
・倭王武は、宋の時代から梁の時代まで朝貢していて、ヤマト王権の雄略天皇とは明らかに時代が合わない。しかし教科書的には宋書のみ記載して、雄略かな?とシレっと書いてます。
・隋書倭国伝でも、地理記載から(阿蘇山、東西5か月で海に至る)九州であることは明白です。(教科書は、隋書には触れていない。)
・旧唐書については、山川の教科書では、日本伝には触れるが倭国伝には触れていない。
A九州倭国の存在を明確に示すことは、難しいかも知れませんが、中国文献の倭国がヤマト王権であるとする方がもっと難しい(根拠がない)と思いませんか? >>545
>A九州倭国の存在を明確に示すことは、難しいかも知れませんが、中国文献の倭国がヤマト王権であるとする方がもっと難しい(根拠がない)と思いませんか?
同意します。
倭国を畿内日本のことであるとする根拠はありません。
後漢書や魏志、隋書など、中国側の史書の多くは倭国を対馬海峡から九州北部の国として描いています。
倭国女王卑弥呼の国も同じです。 >>547
>後漢書や魏志、隋書など、中国側の史書の多くは倭国を対馬海峡から九州北部の国として描いています。
違います、倭国を四国の阿波として描いています。 @阿波 >>546
>仏教は100年くらい前かと。
彼ら半島人は、蘇我氏の郷、阿波国石井(曽我氏神社古墳群・曽我氏神社鎮座)およびその近辺で、
飛鳥寺院をいくつも建立しています。 @阿波 閑話休題
「入田瓦窯跡」
徳島市入田町内ノ御田窯跡群の中のひとつであり、気延山南の東斜面にある。奈良時代に屋根瓦を焼いた窯跡で、外に須恵器も焼かれている。
18段の小さい段状の燃焼部と煙出し部分が確認されているが、燃料を燃やす焚き口部分は残っていない。全長10m、幅1.3m、勾配45度の瓦窯様式である。
軒丸瓦と軒平瓦が出土しており、阿波国分寺跡・阿波国分尼寺跡・石井廃寺跡などで見つかっていることから、瓦を供給されるために作られたことが分かる。
奈良時代から平安時代初頭と案内の看板には記されているが、石井廃寺跡出土瓦と同形式であるならば白鳳文化と呼ばれる頃と推測される。 @阿波
http://goutara.blogspot.jp/2011/06/blog-post_25.html 「石井廃寺跡」
石井廃寺は、南に緩く傾斜する段丘面上にある古代寺院である。
古くから瓦の出土などにより寺院の存在が推定されていた。
1957年(昭和32年)〜1959年(昭和34年)発掘調査が行われ、東に塔、西に金堂が並ぶ法起寺式の伽藍配置であることが分かった。
また、明瞭な遺構は確認されないものの、二つの伽藍の北に講堂、南に中門が存在したと推定されている。
出土遺物には瓦・土師器・須恵器の他に瓦塔などがある。
瓦の文様などから奈良時代前半に建立されたと考えられる。 @阿波
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C0%D0%B0%E6%C7%D1%BB%FB%C0%D7 >>547
だよね。
畿内から超デカイ遺跡(集落)でも発見されない限り無理。
しかも当時はその多くが湿地帯など不向きな要素に包まれてた、、、来たらね。 >>533
均(なら)すから来ていると聞いたことがあります いろいろとこじつけて半島との関係を隠そうとするのは、畿内説の常套手段。 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) 7世紀末に朝鮮半島も大きく地図が書き換えられ、奈良にも多くの人材が流入して律令制を支えた。
だから畿内に半島系の遺伝子が濃いのは当然なのだ。 >>558
>7世紀末に朝鮮半島も大きく地図が書き換えられ、奈良にも多くの人材が流入して律令制を支えた。
奈良藤原京の場所は元々、朝鮮半島から逃げ延びてきた人達などの居留地(半島人街)だった。
倭国(阿波)王権がそこに半島人を住まわせたもの。 その後、その上に奈良藤原京を造営。 @阿波 >>558
同意
畿内邪馬台国から続く、大陸との交流からヤマト朝廷の律令制が確立した。
九州説にせよ、阿波説にせよ都を移す必要性を感じない
米国のワシントンとニュヨークの関係やオーストラリアのキャンベラとシドニーの関係ででよかったはず。
都を移す必要性無し。邪馬台国は畿内 >>554
ならされた考古学的な証拠もあるそうです >>563
奈良は平城京あたりの地名です
山がちな地をならしてつくったそうです。 >>560
>都を移す必要性無し。邪馬台国は畿内
白村江の敗戦に決まってるでしょ。 @阿波 >>560の疑問はわかります
私も何故かわかりません
江戸時代、日本の首都は京都か江戸かどちらでしょうか。
1869年に明治天皇が京都から東京に移りました。これを「遷都」と言ったらそれまで首都は京都だったことになります。
オランダや南アフリカのように首都が一つにしぼりきれない国もありますが、どうでしょう。
>>565
白村江の敗戦の敗戦で首都を変える必要は? >>566
>白村江の敗戦の敗戦で首都を変える必要は?
王都が臨海部だと、唐水軍の直撃を受けるでしょ。
だから、忌部一族が拓殖した内陸の奈良盆地に避難遷都したんですよ。 @阿波 >>567
何故 阿波から阿倍 比羅夫?
阿倍 比羅夫じゃ無かったら
白村江の戦いは勝ってた?
彼は陸戦は強いが海戦は弱い >>568
>何故 阿波から阿倍 比羅夫?
正確には東讃岐(山背国)。
阿部引田臣比羅夫 (あべ“ひけた”のおみひらふ)
引田部赤猪子 (“ひきた”べのあかいこ)
香川県東かがわ市引田が阿部引田臣比羅夫の本拠地。
古来より、「引田」の地名は、全国で讃岐のみ。 >>566
>白村江の敗戦の敗戦で首都を変える必要は?
旧体制の勢力を削ぐという唐の意向があったのでは?
筑紫の君が唐に抑留されていたことは間違いないので、彼が筑紫倭国王であれば、倭国は国体がすでに維持できていなかったはず。
それでも、帰国後にまた反抗することを怖れて、遠い親族の王家から次の王を擁立したとはかんがえられませんか? >>571
>それでも、帰国後にまた反抗することを怖れて、遠い親族の王家から次の王を擁立したとはかんがえられませんか?
そのまえに、「白村江の敗戦当時」、筑紫倭国に都があった痕跡は? @阿波 幾内ヤマト国と九州倭国が並立していただけなんでしょ
九州倭国は消えて無くなっただけで、遷都したわけじゃない >>573
> 幾内ヤマト国と九州倭国が並立していただけなんでしょ
「白村江の敗戦当時」、畿内ヤマト国に都があった痕跡は? @阿波 三国遺事より
390年 第十七代、那密王即位三十六年に、
王は三男の美海を送った。
倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。 >>576
まさにそれが九州説の限界を表していますね。 @阿波 >>573
> 幾内ヤマト国と九州倭国が並立していただけなんでしょ
「白村江の敗戦当時」、畿内ヤマト国に都があった痕跡は? @阿波 九州倭國は消えてなくなってはいない
九州倭國は源氏なんですね 魏志倭人伝当時は、九州は倭国ではなかったんじゃないかな。 ここは通し番号が300から急に302に飛んでるから変だと思ったが
PartじゃなくてPprtだったのか(笑 なるほど、本スレが進んでるから
あせって、ズルして301を飛ばしたのか
ニセスレらしくて実にいい 『サカキバラ事件』〜『聖化 日神 日霊 津』
確実に繋がっているような気がするんだけど 『穢れ』
が何やらと言っていたりするでしょ
浄化 聖化 白村江敗戦後、天智天皇が九州や阿波から奈良へ遷都したなら
歴史がひっくり返る 不採用だよ >>588
1,白村江の戦い、壬申の乱を経て、九州倭国が滅亡しています。
その後天武天皇が、都を倭京(後の大宰府)から、藤原京に遷都しています。
2,伊勢神宮をつくったのも天武天皇であり、遷都に合わせて倭国王を祀るのも、
九州から近畿に移したのではないでしょうか? 記紀の再検証をすべきだと思ういます
皇国史観で記紀を読み解くべきではない
今天皇の退位をきっかけに
学者間で真剣に討議して欲しいものです >>590
九州倭国が遷都したんなら滅亡してないじゃない >>590
1について
どうでしょうね。4世紀は前方後円墳の時代であって、河内系の陵墓の大きさと数をみたらびっくりするよ
のべ何百万人が何十年かかってるのが一目瞭然だよ。
それだけの労働力を無駄な古墳づくりに投入できる余裕がある。ものすごく強大な王権があったのは間違いない。
3世紀以前とは状況がまったく違う
2について
歴代天皇は伊勢神宮を避けつづけている。明治天皇から参拝。
祟る神だとは思うが、ルーツは中京地区っぽい。熱田神宮とかも含めて。 >>592
倭国(邪馬台国から続く王権)と朝廷(天皇を中心とした王権)とは違うと考えています
倭国滅亡は言い過ぎでした 倭国崩壊。
遷都したのは天皇を中心とした勢力・・日向
矛盾があるかなあ????? >>588
>白村江敗戦後、天智天皇が九州や阿波から奈良へ遷都したなら
>歴史がひっくり返る 不採用だよ
間違った歴史はひっくり返さないと。
天智天皇や天武天皇、持統天皇は屋島の水城や大滝山上の高安城を築いて、唐軍の侵攻に備えたり、
奈良大和への遷都造営準備を藤原不比等たちに命じて進めたが、まだ倭国(阿波)に留まっていた。
実際に奈良大和で大和朝廷として発足したのは、文武天皇から。 @阿波 >>594です
補足
日向の勢力が都を倭京(後の大宰府)におく
其の後 藤原京に遷都 >>594
>遷都したのは天皇を中心とした勢力・・日向
白村江の敗戦当時、「天皇を中心とした勢力・・日向」 に都があった痕跡は? @阿波 >>594
北九州と日向に2王朝があったという説かな?
倭国が崩壊しただけで滅亡していないんならどうなったの? >>596
遷都した理由は?
それまで畿内には何も無かったの? >>596
>日向の勢力が都を倭京(後の大宰府)におく
まさにそれが九州説の限界を表していますね。 @阿波 大いに賛同
>>591
>記紀の再検証をすべきだと思ういます
皇国史観で記紀を読み解くべきではない <
>>595
>間違った歴史はひっくり返さないと。 < >>599
都を大陸との前線基地としたくなかったから
日本全土を見渡し奈良が中心的な地だったから
また当時は瀬戸内海航路も整備され、有事の際 最前線に人・軍備も投入できる環境の地と考えます >>602
>日本全土を見渡し奈良が中心的な地だったから
それはなにが根拠? @阿波 阿波さん そう虐めるなよ
仕事に行きます
また書き込みます 戦勝国である唐の政治体制を真似て律令制にしたからね。
敗戦しないと進歩できない国なんだよ。 渡来人
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、
百姓が安じて生活することができない。」新羅本紀 >>603
駒奴国の衰退、崩壊で畿内及び以東を支配下における 白村江の戦い以降、遷都はあり得ない
遣隋使、飛鳥時代をスルーできない >>609
>遣隋使、飛鳥時代をスルーできない
スルーしない @阿波 >>609
遣隋使、遣唐使を派遣させながら同時期に白村の江の戦いをやってるんだからな。
倭国に二つの勢力が有ったと言う事だろう。
右手で握手し左手で剣を振り翳す所行、、、
日本側はソレでも良いけど中国側としたら「もうオマエの所からの遣唐使船は受け入れない!」ってならないと
オカシイのにソーはなっていない。
中国も「倭には二つの勢力がある」と認識していたと言う事だろう。 >>612
>遣隋使、遣唐使を派遣させながら同時期に白村の江の戦いをやってるんだからな。
>倭国に二つの勢力が有ったと言う事だろう。
二つの勢力は必要ない話。 @阿波 邪馬台国→古墳時代→ヤマト王権
(→)の解明が非常に難しい >>616
古墳時代終焉の理由はなんだと思いますか?
古墳時代終焉後も勢力はあったわけで、弱体しているという理由は? 遣隋使で皇帝を怒らせて国交断絶し、唐と戦争して負けてから遣唐使を再開、みたいな流れではなかったかな? ・630〜659 4回の遣唐使
・663 白村江
・702 遣唐使再開
遣唐使は白村江で中断しただけ
遣唐使と戦争と同時にやってたわけではないね >>617
邪馬台国、佐賀、福岡→畿内ヤマトに侵略される、古墳時代(阿波。畿内)
→ヤマト王権の始まりは崇神天皇(285〜318 >>620
遣唐使船は665年、667年にも出てるだろ? 皆さん勉強に成ります
白村江の戦いってなんだっんだろう? >>618
大型古墳建設への投資による財政難・・・防衛の問題ある 畿内から戦闘用武器の出土が少ない
および、建設に狩りだされた民の疲弊 白村江の戦いとは筑紫倭國と同盟である唐、新羅と畿内ヤマトと同盟である百済
との戦いなんですね
新羅が勝ったことにより畿内ヤマトの支配権にあった北部九州は唐、新羅の協力
をえて壬申の乱で畿内ヤマトに勝利し、唐、新羅の天武政権が誕生します >>627
それも考えられるますが、
その場合 属国を敵に回す可能性があり
危機管理上 武器も必要
また
クーデターが起き弱体化の可能性もあります >>618
>古墳時代終焉の理由はなんだと思いますか?
神道(古墳)→仏教により、古墳時代の終焉。 @阿波 >>628subo
>邪馬台国の都は八女だろ
suboさん、「白村江の敗戦当時」、八女に邪馬台国の都があった痕跡は? @阿波 >>621
隋は阿蘇山がある島の多利思比孤だろ。
遣隋使は九州倭国。 倭国は畿内を中心とした倭人の国。
倭国大乱を経て、元々小国だった卑弥呼の本貫、伊勢尾張に飲み込まれたという話だろう。
卑弥呼の本貫を後に日本としたんだろう。
倭国の東の伊勢尾張、日の本にぴったりなネーミング。 >>633
>倭国の東の伊勢尾張、日の本にぴったりなネーミング。
伊勢は伊勢忌部、 尾張は尾張忌部のお陰。 @阿波 「板野命婦」
生年:生没年不詳
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。外従五位下。藤原房前の7男楓麻呂を出産。
阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え,写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し,
造東大寺司との連絡係などを務めた。出家し,尼となった。 <参考文献>『正倉院文書』,「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)
「板野命婦」も奈良遷都に伴い、阿波国板野郡から移住したのであろう。 @阿波 >>633
>倭国は畿内を中心とした倭人の国。
根拠なし。 >>635
「中臣氏(藤原氏)の本貫地 徳島県板野郡板野町」 「中臣氏(藤原氏)の本貫地 徳島県板野郡板野町」
長髄彦は、『古事記』では 「那賀」須泥毘古 また 「登美能那賀」須泥毘古 と表記されています。
『日本書紀』には、「ナカ」邑の地に、また「トビ」の地名が起こり、それが後に訛って「トミ」になったと書かれています。
これが、「那賀(ナカ)・鵄(トミ)」であり、中臣氏の本貫地と言われる徳島県板野郡板野町には「富ノ谷」「中富」の地名が残っています。 横からゴメン
神武東征って記紀から瀬戸内海航路なんだが
神武天皇っていつの時代の人なん
神話だろうが九州説では有力視する理由は >>640
>神武東征って記紀から瀬戸内海航路なんだが
記紀に「瀬戸内海航路」なんて関係していない。
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。 @阿波 神武東征について・・・・寺澤氏(纏向学研究センター所長)の見解。見解ゆえ反論、異論もありますが以下貼り付けます
神武東征の痕跡から探る実年代の推定
大和朝廷初代天皇である神武については王墓は不明ながら、それ以上に貴重な考古学的史料がある。それは、彼がヤマトに東征してきたことを暗示する纒向(まきむく)遺跡の発掘成果である。
その発掘調査に深くかかわった寺沢薫氏は、「3世紀の始め、奈良盆地の東南の、三輪(みわ)山と巻向(まきむく)山に挟まれたやや小高く広い扇状地に、纒向遺跡は突如として出現した。
それは従来のいかなる巨大弥生集落とも異質な政治的な都市の誕生であった」とされる。
さらに、「3世紀の日本列島でこれに匹敵する政治的、祭祀的な遺跡を他に探すことはできない。だからこの時期の『ヤマト』に権力の中枢をおく、
倭国の新しい政体が誕生したことはもはや動かしがたいのだ。
私はそれをヤマト王権(政権)と呼ぶ。つまりヒミコの共立によって新しく誕生した倭国の実体がこのヤマト王権であって、纒向遺跡はその王都(都宮)であり、かつ日本最古の都市だというのが私の主張である」
と高らかに宣言されている。
このように寺沢氏はヤマトに纒向遺跡が突然出現した謎を、ヒミコが倭国の女王に共立されたことにより倭国乱が終った結果もたらされたものと考え、その年代を210年頃と推定されている。 >>643
>このように寺沢氏はヤマトに纒向遺跡が突然出現した謎を、ヒミコが倭国の女王に共立されたことにより倭国乱が終った結果もたらされたものと考え、その年代を210年頃と推定されている。
この人、畿内限定の学者なの? @阿波 >>646
>考古学者じゃダメだよ
阿波の考古学者は活き活きしてるんだけど @阿波 >>644
寺澤氏が言うのは突如が東征という事です
長いので貼り付けられませんでした 伊勢尾張の影響を無視し過ぎ。
纒向の外来系土器で一番多いのは伊勢尾張系。ダントツ。 東遷は、王都が筑紫から移転したという立場。
東征は、王都は筑紫のままで勢力が拡大したという立場。
記紀は東征としている。
畿内説は都が畿内に移動しているから東遷。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 纒向は東海地方の傘下の辺境。
交易の主力であった海運が利用できない後進地域。 >>651
>纒向の外来系土器で一番多いのは伊勢尾張系。ダントツ。
纏向の開発には、倭国(阿波)からの直接入植よりも、特に伊勢忌部がメインだったのだろう。 @阿波 尾張にとっても、奈良盆地は植民地の一つに過ぎないだろ。
そもそも当時の呼び名すら不明の過疎地。 阿波は辺境の地だよ。流刑地の一つ。
畿内ですらない。
日本列島の歴史上、阿波が主役の時期はない。 >>658
>阿波は辺境の地だよ。流刑地の一つ。
阿波はあなたの遙かなるご先祖の地なんですよ。 敬わなきゃ。 @阿波 >>658
歴史は勝者のもの
大和朝廷により四国の歴史はデリートされた
代わりに作ったのが記紀
記紀は四国のことを書いている >>661
>歴史は勝者のもの
これに関しては、別に勝った負けたということじゃないんだけどw 遷都しただけ。 @阿波 歴史は勝者のもの
大和朝廷により九州の歴史はデリートされた
代わりに作ったのが記紀
記紀は九州のことを書いている 辺境の地ならなんで四国の山奥に皇室の出入り業者が居るんだってな
朝鮮→九州→四国→畿内という順番で移動していったんだろう >>664
超貴重な丹も採れるんだけど、阿波は。 @阿波 この丹のお陰で阿波は超超大国となりました。 @阿波 >>669
讃岐も淡路も阿波と一緒。 当時は今みたいな国の縛りはないから。 @阿波 邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
狗奴国(出雲)の「卑弥弓呼」が「卑弥呼」に対抗できた源泉は「丹山」なのです。
それが、記紀にいう、「出雲の国譲り」に繋がる訳です。 @阿波 高松は川が無いからね
古代は川の大きさ=都市の規模
吉野川が当時文明の中心だろう
ただ徳島だけでは七万戸は無理だから
香川も邪馬台国の範囲 >>638
中臣鎌足は隋からの亡命者だったんですね
根拠は隋隋ずっころばし(異論はないでしょう >>674
大伴・中臣・物部・忌部は神別(天孫降臨随伴臣) 「ずいずいずっころばし」の唄を左上から16×7文字で蛇行状に並べて右上から縦読みすると、
位置積み重れず屋根が突んだ
帥の公衙の見惚らめもよ たまには功田
移郷経つんでか支派 仍て よもばれし痴がい
悪て此ゆ木屋こと どう察知 つつ
ちと高津人 斎つ名で印籠 御知り
図師達 紆余は嫌けゆ維摩順ぬ打殿
という文章が現れる >>676
>大伴・中臣・物部・忌部は神別(天孫降臨随伴臣)
これら神別も結局、忌部一族の分類別け @阿波 >>677
茶壷は唐物茶壷、、唐
俵は倭國
おっとちゃん、おっかちゃんは百済、新羅
井戸の廻りはお宮の廻り
お茶碗は蘇我茶碗、蘇我氏
欠いたのは討ったの
乙巳の変
中臣鎌足 乙巳の変の三韓朝貢の高句麗がないという指摘があったが別に問題ないだろ 藤原氏
隋、、真髄、隋一、随喜、随所など
唐、、唐変木 邪馬台国(卑弥呼)と『東征説』は直接関係がない。
魏志倭人伝は東征に関して何も語っていない。
東征は東征、邪馬台国は邪馬台国である。 東征
東征記述が、実際に有ったことであれば、(多くの学者は東征はあったと考えている)
それは西暦230年代より以前であるか、以降であるかが大きな分かれ目となる。
すなわち、邪馬台国時代の前に行われたとすれば、邪馬台国は 東征後成立したことになり、
必然的に畿内説が有力となる。神武天皇が実在の人物とするなら東征は230年前であり、邪馬台国は畿内。 >>683
あなたは何説に賛同ですか
せっかく来たのだから、少し語っていきませんか これって信頼度は?
『卑弥呼は死の年にはかなり老齢になっていた。
箸墓という言葉をアイヌの言葉に直すと「老婆の墓」という意味になる
と言っている人もいる。
その人の考えでは、奈良県の箸墓古墳を卑弥呼の墓としている。』 あたなの説が間違いだらけの聞きかじりだとわかる投稿だから、歓迎 >>684
>東征記述が、実際に有ったことであれば、(多くの学者は東征はあったと考えている)
卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 >>684
>神武天皇が実在の人物とするなら東征は230年前であり、邪馬台国は畿内。
いきなり「邪馬台国は畿内」・・・ @阿波 >>686
アイヌ語はまったく知りませんが単なる語呂合わせだと思います
日本3民族語
アイヌ民族語
大和民族語
琉球民族語 下らない質問ですが
徐福が日本に来て邪馬台国を作ったと考えられませんか? ここの1は、他スレからランダムに拾いコピペして来て、自スレが賑わって見えるように小細工してるな
せこい 邪馬台国は大和朝廷に吸収合併されたとするのが自然の流れだな 日本は元小国なり
いにしえの倭国を併せたり
と書いてあるからね 邪馬台国」を初めて「やまたいこく」と読んだのは江戸時代の国学者・本居宣長だそうだ。
それまでは邪馬台国イコール大和朝廷だったのが、これ以降「やまたいこく」という違う国になっちまった。 >>696
>日本は元小国なり
「元小国の日本」とは、倭国(阿波)から遷都後の「奈良大和」
>いにしえの倭国を併せたり
「いにしえの倭国」とは、「奈良大和」へ遷都する前の「倭国(阿波)」 1世紀中頃には倭国は存在したからな。
倭国王、帥升。
その後倭国大乱。
卑弥呼の出身母体が倭国を併合したんだろう。
卑弥呼がいた邪馬台国、ヤマト国。
纒向で一番多い外来系土器は伊勢尾張系。
ヤマトの西、日の本。 >>701
>その後倭国大乱。
>卑弥呼の出身母体が倭国を併合したんだろう。
倭国(阿波)乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
「卑弥呼の出身母体」は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力) @阿波 「板野命婦」(いたののみょうぶ)
生年:生没年不詳
奈良時代の女官。粟凡直国造若子とも。外従五位下。藤原房前の7男楓麻呂を出産。
阿波国板野郡貢上の采女で,光明皇后の御所に仕え、写経事業のための経典貸借などの責任者として活躍し、
造東大寺司との連絡係などを務めた。出家し、尼となった。 <参考文献>『正倉院文書』、「板野命婦」(『角田文衛著作集』5巻)
「板野命婦」も奈良遷都に伴い、阿波国板野郡から移住したことが分かる。 @阿波 >>705
それは香川愛媛
高知徳島は水が多すぎて困ってる >>684
>すなわち、邪馬台国時代の前に行われたとすれば、邪馬台国は 東征後成立したことになり、
>必然的に畿内説が有力となる。神武天皇が実在の人物とするなら東征は230年前であり、邪馬台国は畿内。
九州説も神武が倭国大乱で筑紫を去った後に卑弥呼が即位したと考えている。
畿内勢力はあくまでも東の海の向こうにいる倭種。 >>709
>九州説も神武が倭国大乱で筑紫を去った後に卑弥呼が即位したと考えている。
卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 >>711
兵站の重要性を顧みずに壊滅した日本軍のような言い草だな。 にんきのある軍勢とゆうやつは
ふつうに移動していったら
ゆきだるま式にへいたいさんの数がどんどんふえていくんだよ にんきのあるから紀伊とか伊勢とかがごうりゅうしてるじゃき 阿波さん いつも忌部一族が出てきますが
読みは?意味は?
出自は?
何時の時代から文献に出てくる?
邪馬台国と忌部は大和朝廷と関係あると思いますが、邪馬台国との関連は?
阿波説は記紀から離れれば良いと思います。 地理的にも遺物的にもなるほどと思う事もあります
@それとも阿波さんは、記紀に基づく阿波説への反論を 敢えて記紀で迎え撃ってるのですか?
どうも@としか考えられないのですが >>716
私は@阿波で無いけど
彼は日本国の成り立ちを問うていると思う >>716
ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
畏れながら、天皇も忌部一族である。 >>717
成り立ちを問うている?
考古学的には北部九州から全てが立ち上がり
文献史学的には神武東征だろ
馬鹿じゃねーのw >>718
すーはー阿波になんの優位性があんのよw >>720
阿波に有って、九州に無い物 「丹山」 と 践祚大嘗祭で唯一神祇官扱いの「由加物(麁布)」 丹山は九州にもあるだろw
安価な中国朱が大量に入手できるから採掘なんてしてなかったみたいだけど
辺境の阿波では採掘せざるを得なかったのかな?
人件費と朱の値段 え?
まさかそれだけ?
@阿波って名前の荒らしが荒らしまくってる根拠が
まさかまさかまさか
たったのそれだけ? >土器についても阿波(東阿波型土器)
東阿波型土器が他地域にどう影響を与えているのか?
>墓制と朱についても阿波
どこにどう影響を与えているのか?
>鉄器も阿波
3世紀阿波の鉄器についての詳細は?
>中国朱も阿波
3世紀阿波の中国朱についての詳細は?
>九州にあるものは大概、阿波にも有る。 @阿波
九州にあるものが大概あるだけだと属国の証明になる
九州にあるものが九州以上にあって
その供給源についての詳細の証明は? ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
不快感の与えるようなカキコミは止めて下さい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自己の学ぶ環境、主従関係、義理、、個人的感情や、恨みつらみ、・・・・人間だからあるでしょう
そこは外に置かないと歴史の真なる謎は解けないと思います
邪馬台国論叢で心無い方は売り言葉に買い言葉で議論を進めます・・・かような著書もあるのが現実です
喜怒哀楽は良いと思いますが・・・・・是々非々(個人の判断で)書き込めば良いです
私はそう思います・・・・・間違ってるかも知れません、
未熟者とお笑いください 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>729
そこは皆 わきまえて書き込んでるよ
嵐は無視でいいんじゃねーー >>729
なんで自分が立ててもいないスレで>>1を名乗るのか? 邪馬台国に卑弥呼、、、
罷り間違っても「阿波」だけは絶対ぇ無い!から。
畿内にしろ九州にしろソレなりの根拠が有って挙げてる。
畿内は後のヤマト王権だし、九州は中国の正史に金印だ。
阿波に何の根拠が有ると言うんだ? ×回答できずに逃げまくる@阿波
〇回答できずにのたうち回る@阿波 >>732
@阿波は口から出まかせ言ってますから。 >>734
「他人に立ててもらった」という設定を忘れたから 阿波厨は、倭国という存在を阿波の地だけに押し込めて矮小化し、古代史の議論を妨害し古代史そのものを抹殺したいんだろうな。
忌部が先祖代々やってきたことと同じ。
神社でも歴史でも忌部あるところに隠蔽あり、と考えた方がよい。 横からスマン
邪馬台国と直接関係ないか有るか知らんけど
聖徳太子は実在したのか?飛鳥の地は大和朝廷の都と考えていいのか? すまん
飛鳥京って聞いたこと無い
藤原から京か
無学ですまん 殺されたり滅ぼされたりして初めて、神や聖人になれる。
聖徳太子の事績の元になった人か集団は、いたんじゃないかな。 聖徳太子というか
煬帝に喧嘩を売った倭人はいただろうな
相手の中国文献に残ってるし >>746
飛鳥時代は教科書でも抜くべきだという議論もあるのは事実です。
百済の色が濃いから百済の民の移住地と言う方もいます。(寺院、発掘物、遺跡)
聖徳太子は実在の人物かも最近わだいになってます
私の頭の中では、わけのわからない飛鳥時代です
だれか推察いただけないでしょうか? 飛鳥時代は、大阪時代の方が相応しいと思うけどね。
明日香ばかりに目を向けるから分かりにくくなる。 京って王の居処
政治・軍事力が集中してなくてもいいと思う 聖徳太子の本拠地は、物部氏を倒した後の上町台地と河内じゃないのかな。 >>752
性懲りもなく自演
キウスは死ぬまで治らない >>749
豊臣秀吉や徳川家康は自己顕示欲の塊。
千年は違うし、当時とはものの考え方が全然違う。 >>758
秀吉も家康も自分で神になったわけではないぞ 都って王の居処
政治・軍事力が集中してなくてもいいと思う 畿内説と言っても、実質的に奈良説や大和説になってしまうのがおかしい。 >>743
厩戸皇子(聖徳太子)も景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇) ・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)
も倭国(阿波)で実在した人。
厩戸皇子(聖徳太子)だけでなく、景行天皇・仲哀天皇・神功皇后・舒明天皇・斉明天皇(皇極天皇) ・中大兄皇子(後の天智天皇)
・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族方が病気療養のため四国の道後温泉に行幸、来湯している。
それは、道後温泉が四国に在り、湯治場として倭国(阿波)に近かったからに他ならない。 @阿波 >>735
なんで四国の山奥に天皇の着物を作ってる業者がいるのよ?
四国はプレ大和朝廷 四国から筑紫に献上しようとしたが、献上する相手がいなかったとさ。
おしまい 横からスイマセン
古墳時代の豪族というのは、弥生時代のクニの王の末裔という場合は多いのですか?
それとも、古墳時代までいくと不明ですか? 丹が三重や阿波で取れるのは解っているが
その周囲の集落や古墳で使っている例はほとんどなく
使用例は九州ばかりなんだな。
鉄の使用量も九州が圧倒的。
弥生時代に倭人が朝鮮半島まで
鉄を採りにきているとあるから、
九州から本州や四国にも
丹を採りに来ていたんじゃないかな。 >>770
>丹が三重や阿波で取れるのは解っているが
少なくとも、魏志の時代の採丹は阿波だけ。
>その周囲の集落や古墳で使っている例はほとんどなく
見え透いた嘘は遺憾。 @阿波 偽も本物もない。 別にどこでもいいけど、くだらないスレには行きたくないだけ。 @阿波 >>769
ほぼ北部九州系の支配者じゃないかねえ
ウマシマジみたく地元有力者が母系で残ったのはいただろう
前方後方墳エリアだと地元出身の男系が豪族として生き残ったかもしれん
だがその畿内旧支配層とか前方後方墳の王とかすらも元は北部九州系だったのかもしれん >>775
ウマシマジは、対馬海峡の天津国からやってきた饒速日(伊都国の邇邇芸の兄弟)の子であり、のちの筑紫倭国の分家だよ。 伊都国を含め九州北部は女王国の属領、属国。
ヤマトの地も女王国に征圧されたが、その後卑弥呼が拠点を構えて都としたんだな。
どちらも女王国に征圧されたことには変わりない。
畿内説も九州説も仲良くしないとダメだな。 >>779
卑弥呼はどこから来たというのだ。
それに魏志倭人伝には卑弥呼が討伐したなどとは書いてない。 >>781
違うって言ってるでしょ。 伊勢忌部が入植に入ったの! @阿波 徳島新聞 平成29年12月3日朝刊
阿南市長生町宮内の「八鉾神社」が所蔵する平安時代の書物「紙本墨書二品家政所下文附紺紙金泥法華経八巻」(国指定重要文化財)
の金泥文字に真鍮が含まれていることが、修繕に伴う科学調査で判明した。
平安時代の真鍮の使用が明らかになったのは国内3例目で、同時代の使用を裏付ける貴重な資料になりそうだ。
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。 @阿波 畿内説のパターン
・どうせ魏志倭人伝なんて解読出来ないから言いたい放題だぁ! と思って妄想しまくる
↓
・それが解読されちゃう
↓
・畿内説メッチャ困っちゃう
↓
・ジイさん疑似科学に走る ←イマココ 銅矛といえば北部九州(考古学データ
記紀にて矛といえば大国主
八鉾神社なるものが徳島にある
そういうことだね 三角縁神獣鏡は台湾が原産で
諸部族が伝世中との情報をキャッチ。 >>788
>記紀にて矛といえば大国主
>八鉾神社なるものが徳島にある
>そういうことだね
大国主といえば出雲の国
出雲の国といえば徳島県阿南市
徳島県阿南市といえば長国
長国といえば狗奴国
狗奴国といえば卑弥弓呼
卑弥弓呼といえば須佐能の命
建速須佐之男命といえば大己貴命
大己貴命といえば「八鉾神社」
そういうことだね @阿波 邪馬台国は畿内に在ったとする良い子の纒向遺跡の信者の皆さんは一口2千円の整備費に応募すんのかw >大国主といえば出雲の国
>狗奴国といえば卑弥弓呼
これは正解
>大己貴命といえば「八鉾神社」
正確には、大己貴命を祭るあまたの神社の一つに八鉾神社がある、
そして矛が出土しているのは北部九州を中心とする地域。
>出雲の国といえば徳島県阿南市
>長国といえば狗奴国
>卑弥弓呼といえば須佐能の命
>建速須佐之男命といえば大己貴命
根拠なし
>徳島県阿南市といえば長国
関係なし
@阿波の言うことは論理が無茶苦茶で証明になっていない。 >そして矛が出土しているのは北部九州を中心とする地域
伊都国だね >>785
その国宝て時代がかなり下ってつくられたものだね >>793
>正確には、大己貴命を祭るあまたの神社の一つに八鉾神社がある、
というよりも、「大己貴命を祭るあまたの神社」の勧請元が「八鉾神社」である可能性が高いってこと。
>そして矛が出土しているのは北部九州を中心とする地域。
銅矛ごときに縋らざるを得ない九州説ですか? 銅矛なんて倭国(阿波)にとってワンオブゼム。 >>793
>正確には、大己貴命を祭るあまたの神社の一つに八鉾神社がある、
というよりも、「大己貴命を祭るあまたの神社」の勧請元が「八鉾神社」である可能性が高いってこと。
>そして矛が出土しているのは北部九州を中心とする地域。
銅矛ごときに縋らざるを得ない九州説ですか? 銅矛なんて倭国(阿波)にとってワンオブゼム。 @阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
※木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く 「大己貴命を祭るあまたの神社」の勧請元は素直に考えれば出雲大社だろう
銅鐸銅剣銅矛の大量出土もある >>795
時代が古いとか新しいとか、邪馬台国の時代を避けるためにあの手この手で忙しいことだな。 >>798
「出雲大社」ではなく「杵築大社」ね。 @阿波 銅矛の出土なんて稀有に限りなく近いくせして強弁していいはり厨 陵墓の比定はでたらめでしょうか?
また、箸墓がなぜ女性の墓と比定できるのでしょうか(三輪山伝説なら、三輪山周辺の古墳はほとんどの該当すると思う)
下記 貼り付けます
古墳時代末のほぼ継体天皇陵で間違いないだろうという今城塚古墳が現在発掘中です。
これは宮内庁の指定が完全に誤っていたためで、天皇陵指定から外れていたのです。
幕末から明治にかけてかなり強引にでたらめな天皇陵比定をやっていたのが原因です。
中には神武天皇陵のように土木工事をしてでっち上げたものまでありますし、
天皇陵にふさわしいと考える形に適当な古墳を整形してしまった例もあります。
今の北朝鮮の檀君の墓を発見したという発表なみに乱暴なことを当時の日本はやっていたわけです。
宮内庁が発掘を嫌がるのは、こうした非常にいい加減な陵墓指定という公然の秘密が考古学的に実証されるのを嫌っているという側面が強いでしょう >>798
オオナムチの都だったところにそれを滅ぼした征服者が敗者を祭って邪馬壱建国したんやろなー(なんとなく(阿波に間違いない(最後棒読み >>802
モモソは神話の人物
墓まで作るんだから宮内庁は偉い >>805
モモソは倭国(阿波)で生まれた人物
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。
そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。
阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。
「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。
「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。 船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。
次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、これを「田村大神」と総称する。 す、素、何か接頭語として意味があるような気がするんだけどな。
素さのおう 素くなひこな 素つま 出雲は祭場
農民の中でいちばん有力なヤツが豪族になり、豪族の中でいちばん有力なヤツが大王になったんで、
言っちゃえば天皇というのは「農民の親玉」であり、だから「五穀豊穣」を祈るのが天皇の第一の仕事 >>1
>3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
違うって、弥生後期にはすでに後の白村江敗戦後のような九州〜瀬戸内に臨戦態勢が整ってるのだ。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
これはすでに畿内に九州(半島含む)から中部まで支配する王が存在したことを意味する。
だから、
>2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
は間違い。
纏向を卑弥呼の王都にしたいがための後付けの理屈。
まるで東遷説になってるじゃないか馬鹿がw
まぁ君はその程度の男だ。
卑弥呼が住んでたのは纏向ではない、葛城。
その一族(王族)は弥生中期から大和に存在する。
名柄遺跡、上牧銅鐸、大阪の神於山銅鐸、ことごとく弥生中期。
悔しいであろうが真実を知りたければ葛城トピに来てわしに教えを乞うように。 教科書には、有力農民も古墳をつくるようになったという書き方がされている >>811
>言っちゃえば天皇というのは「農民の親玉」であり、だから「五穀豊穣」を祈るのが天皇の第一の仕事
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 @阿波 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 @阿波 >>812
違う・・・・倭国の玄関口が九州だったと言うだけの事
(九州説は江戸期 長崎の出島が首都と言っているのと同じ)
・・・・防衛上および勢力拡大のための東遷は否定しない
九州説のようですが、九州説はわきが甘い >>812
>弥生時代の青銅器の分布
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
「銅剣・銅矛・銅戈」も「平形銅剣」も「銅鐸」も全て倭国(阿波)が中心に在る。
すべての青銅器分布が含まれているのは倭国(阿波)だけである。
これは、まさに王権が「倭国(阿波)」にあった証拠である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 阿波説もいいが
伊弉諾神宮(淡路市多賀・・淡路島北部)
国生み神話は淡路島・・・・近畿説でも成り立つ まだ偽書なんて信じてるのか?
と言っている人がいたけど
遺跡などを調べてみて >>820
>阿波説もいいが
阿波説しかないでしょ?
>伊弉諾神宮(淡路市多賀・・淡路島北部)
「淡路島北部」 位置的に不自然 中途半端な位置にある 鳴門よりなら納得するがw @阿波
>>823
国生みから
倭国の所都を徳島にする方が不自然だと思うよ >>824
「国生み」も阿波から。 阿波にしないほうが不自然。 @阿波 ひとつ確実に言えることは
ここは畿内説スレじゃない
w じゃ、次からスレタイ変更ね
「ゆるりと邪馬台国畿内説Pprt」は今回限り じゃ、次からスレタイ変更ね
「ゆるりと邪馬台国有力説Part」
Pprtは今回限り >>819
普通、重なっているところより、同心円に注目する >>828
テンプレ長くするのは反対
ここは畿内説のスレで良い
畿内説が勝者と言っていないから
投げかけ程度であとはテンプレの他説歓迎で良い
良スレかどうかが問題で、このスレは良いと思う >>833
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>831
>普通、重なっているところより、同心円に注目する
それぞれ個別の同心円では王権の中心とは言い難い。
「銅剣・銅矛・銅戈」も「平形銅剣」も「銅鐸」も全て倭国(阿波)が中心に在ることが重要。 @阿波 >>832
ここは畿内説とは縁もゆかりもないスレでしょ
嘘はよくない じゃ、次からスレタイ変更ね
「ゆるりと邪馬台国有力説Part」
Pprtは今回限り >>837 >>838
興味津々ですね
少し邪馬台国を語っていきますか? 「邪馬台国畿内説のスレです」とか
ウソをついてはいけない じゃ、次からスレタイ変更ね
「ゆるりと邪馬台国有力説Part」
Pprtは今回限り 卑弥呼は女性だろうか?
倭人伝では女王だが
魏使は謁見した証跡なし
男子1人のみ入り可能
妄想
卑弥呼=男子一人 魏使は金印を卑弥呼に渡してると思うよ
他人に渡しちゃうとそいつが倭王を僭称しちゃうおそれがあるからね >>843
なるほどね、面白い。
でもまぁヒミコはいただろうね。
ヒミコが誰なのかなんて簡単、天皇系図のイの一番にいるからね。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Emperor_family_tree1-10.png
約10年前に、よしヒミコを探そう!
そう思ったわしは1分で見つけたよ、トヨもね。 >>845
まあそれはないよ
魏使がわざわざ持ってくる意味が無い
ほかの下賜品は難升米らに託してるけど、詔書と印綬だけは魏使が持っていってるからね >>848
>淡路国と阿波国と混同してる
混同も何も、阿波と淡路と讃岐は倭国ですから。 @阿波 >>851
勝った、負けたってwww 銅矛がよほど好きなんですね。
銅矛ごときが阿波に無くてもどうってことないんですけど。 @阿波 扇谷遺跡、紀元前弥生時代中期で途絶える。
砂鉄から作られたと思われる鉄製品や鉄工房が見つかっている。
なぜ集落の営みが中断したのか?
ヤマタノオロチを思わせるが >>854
>なぜ集落の営みが中断したのか?
それ、弥生の大洪水が原因じゃないですか? @阿波 >>858
高地だけど、川に挟まれてなかった? @阿波 扇谷遺跡の時代は砂鉄からの製鉄はまだだろ。
朝鮮半島から鉄棒を運んできて加工していただけ。
砂鉄からの製鉄は早くても6世紀。
弥生中期にたたら製鉄してたら世界史すら書き変わるぞw
同じ丹後の遠所遺跡(奈良時代)と勘違いしていないか? >>847
>男子一人=神武天皇なんですよ
いや、むしろタギシミミじゃね?
神武が死後の話であろう。 >>857
>鉄があれば邪馬台国
>そんなバカな
やっぱり、丹でしょ。 丹が採れるところが邪馬台国。 @阿波 弥生時代の畿内では二箇所しか丹は出ていない。
北部九州では豊富に使用されている。
三重や阿波で採掘されていたとすれば
これらの丹は北部九州に運ばれていたと言って良いだろう。
さらに輸入丹も九州では豊富に使われていた。 北部九州は銅も鉄も豊富に使用されており
鉄は朝鮮半島から運ばれていた。
それを考えれば、丹を三重や阿波から運ぶのは
まったく問題はないだろう。 韓人と密接に関わっていたのは考古学でも文献でも明らかだろ >>867
こんなところでレイシズムを全開にする恥ずかしいヤツ >>867
韓人の国にしては魏志倭人伝に上代日本語が多すぎだわ オロチを退治して、隠岐島から白兎を追い出して、何処を目指していたんだろうね。 旧唐書
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
日本国と、倭国は併存したように思われるが
どのように理解すればよいのでしょうか? >>872
>日本国と、倭国は併存したように思われるが
>どのように理解すればよいのでしょうか?
だから何回も言ってるでしょ。
倭国は「阿波」 その倭国(阿波)から8世紀に遷都した 奈良大和が「日本国」だってね。 @阿波 倭国=連合体 その一員の大国で有った大和(邪馬台国)が
連合体から抜け日本となり、倭国は吸収されたなんちゃって 旧唐書「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名」
の後にこの日本がどういう国かという記述がある、
=======
其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國
=======
日本国の境目は、東西南北に各数千里、西のはずれと南のはずれは、いずれも大海であり、
東の方角には大きな山があり、その山の向こうは、毛人の国だという。
冒頭で、「倭国」は四方を海に囲まれた島国であり、四方の海には多数の小島がある、と書いている。
ところがこの段では、「日本国」は、西と南は大海に面しているけれど、東の方角には大きな山(富士山?)があって、
その向こう(富士山の東)は、毛人(アイヌのこと?)の国である、としている。
つまり、国の形状が「倭国」とは異なる。
倭国≠日本 >>877
大きな山って日本アルプスだと思ってたわ 倭国は海に囲まれてたのだから、
九州囲まれて四国? >>875
日本国(畿内)は大国ではなく、旧唐書ではもとは小国とのこと。
畿内勢力が兄弟だったなどという妄想は捨てろ。
筑紫に比べたら全て弱小。 >>883
すまん
海に囲まれているのは
四国と九州 旧唐書を神典の如く言ってる奴は明史日本伝見てみろよw
メチャクチャな事が書いてあって笑えるぞ
秀吉の若い頃の名は木下人とか、平秀吉は薩摩の奴隷出身とか滅茶苦茶。
本当に中国の史書が正確なのかね?
あと旧唐書の大食伝もおもろいよ
ムハンマドは獅子に案内されてほな穴の中の武器を発見してそれで天下取ったそうだ
コーランと全く違うぞww >>887
秀吉は、移動農民
家康は鑑真坊主
いずれも賎民
由緒あるのは信長のみ
歴史は勝てば官軍 いくらでも変えられる
その典型が記紀 陰謀論的主張は自分では立証できませんと敗北を認めた証 >>888
ムハンマドの話がコーランと違うのも
中国史書が正しいという事なのかね? >>890
自国の歴史を捏造することは多いが
他国のことはあまり捏造しないと思うが、聞いた話?
中国史書正しいかどうかは不明 >>888
>由緒あるのは信長のみ
忌部一族だから? @阿波 >>888
願人坊主ね
家康は山窩説もある
家康は自分の出自をする者を殺したとか何かで読んだ >>892
福井県に織田剣神社があります
織田一族発祥地です
そのルーツは阿波忌部です 家康は願人坊主ではないだろ
世良田からの系図が本物とは思えないが、少なくとも家康の数代前から三河の有力者だった事は間違いがない 阿波さんのおかげで、忌部も勉強しましたよ
忌部とか邪馬台国の関係はよくわからないですが
備前焼のことを、伊部焼(いんべやき)とも言うね
備前に忌部神社もあるので忌部=伊部だろうね
謎の一族?? >>887
秀吉の記述に関してはそこまで酷い間違いでもないと思うぞ >>895
真実は難しいですね
群馬の願人坊主とも
松平から徳川に改名したのも、清和源氏の得川からとったからとか 家康は先祖が時宗の坊主
本人は浄土宗や天台宗の信仰者で宗教的にはサンカのような異端ではなく当時としては正統派の中の超正統派
天子天台公家真言の時代だからね
サンカとは全く趣が違う 清和源氏→新田世良田氏→零落して時宗坊主→三河で松平氏に婿入り→徳川家康
系図偽造するならもっと綺麗な系図作るんじゃないか? 卑彌呼 事鬼道 能惑衆
ヒミコの鬼道は大和の神々とは結びつかないと思いますが
もし、邪馬台国は大和王権の前身なら矛盾が相当ある
卑弥呼の鬼道とは何なの?
卜骨による占いは庶民
其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆 もし 卑弥呼の鬼道が大陸の影響を受けていたなら、
倭人伝以前に邪馬台国と大陸と国交があった???? 大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 >>909
>大麻は阿波に限らない
麻が全国に広まったのは忌部一族のお陰。 @阿波 >>910
麻は忌部一族が登場の前に紀元前から日本で栽培されてる 縄 文後期の下宅部遺跡(約3700年前 現・東村山市)には、藍、栗、漆などとともに、麻が栽培されていたことがわかってき た。 >>911
>麻は忌部一族が登場の前に紀元前から日本で栽培されてる
「忌部一族が登場の前に」ってなんで分かるの?
紀元前に忌部一族がいなかったとは言えないでしょ? @阿波 『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、
農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 @阿波 縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県
にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。
この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
(1)石棒
今までになく、広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。
分布範囲は、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県にいたるまでの広域で認められている。
(2)柱状片刃石斧
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など)
・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。 鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
※石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 日本の全国統一は5世紀以降である。3世紀の邪馬台国時代の日本は、まだ地域分権国家であった
(北九州、南九州、出雲、吉備、畿内、東海など)。
この時代に、九州から畿内までの広大な地域を統治した、大和朝廷のような権力が存在したとは考えられない。
九州しかありえない
阿波は論外・・・・・・九州をなんと考えるか 卑弥呼は北九州時代の大和朝廷の女王であった。この国はおそらく狗奴国(熊襲)の襲撃を受け
3世紀末頃に大和へ東遷した。
その後、大和で勢力を蓄えた朝廷は、熊襲を倒し北九州を制圧した。(和辻哲郎氏) 旧唐書を神典の如く言ってる奴は明史日本伝見てみろよw
メチャクチャな事が書いてあって笑えるぞ
秀吉の若い頃の名は木下人とか、平秀吉は薩摩の奴隷出身とか滅茶苦茶。
本当に中国の史書が正確なのかね?
あと旧唐書の大食伝もおもろいよ
ムハンマドは獅子に案内されてほな穴の中の武器を発見してそれで天下取ったそうだ
コーランと全く違うぞww >>923
阿波から九州を常時、監視できるわけが無い
1、瀬戸内の国々が無い(畿内説にも言える)
2、生産力=経済力では阿波は九州を制圧できない
3、阿波で7万戸があれば筑紫ではその14万戸可能
筑紫平野面積は約1,200平方キロメートル
讃岐平野 約 692平方キロメートル >>922
>阿波は論外・・・・・・九州をなんと考えるか
倭国(阿波)の九州支店 悪しからず @阿波 >>927
>阿波から九州を常時、監視できるわけが無い
伊都国で監視している @阿波 @阿波 ・・うーーん ならば問う
有事の際 九州支店までどのような交通手段で阿波から伝達できるのか? >>916
阿波の人は辛い仕事をさせられてたんだなぁ。
石を切り出すのは危険を伴い、それを削り成型するのは辛い仕事だったんだろうね。
倭人にこき使われていたんじゃないかな。 >>932
しかり
阿波は鉱物等の産地で畿内の工業地帯 >>934
しかり
阿波は丹で巨万の富を得、超超大国になりました。 @阿波 今も昔も
都は消費するところ、そして政治を司る所ですね
九州も阿波は供給する所 >>936
良いこと言った 寝るけど
奈良も京都も東京も工業地帯じゃないな >>936
畿内からも九州からも秋波を送られて困ってしまう。 @阿波 >>935
世界のトヨタ自動車
しかし、愛知県は首都ではない 残念かな 阿波厨のおかげで阿波の役割が分かりました。
言葉は汚いですが、倭国の汚れ仕事をさせる後背地です。
早々に倭国から吉備に寝返った理由も分かりました。
纒向でも、吉備の陣頭指揮の元、古墳造りに励んだのでしょう。 普通は麻など作らず米を作ります。
麻作りなど、生きる糧にはなりません。
生きる糧にならないものを作るのを強要されていたのでしょう。 >>936
九州は貿易の拠点 長崎の出島的な位置づけでいいんでねーの >>934
阿波は纒向よりも筑紫と交易しているよ。
纒向は東海と細々と結びついているだけ。
畿内であって畿内ではない。
弥生時代には畿内という枠組みや経済的文化的まとまりそのものがなかった。 >>941
あなた何説を支持しますか
学を積んでるように思えますが >>939
177名無しさん@1周年2017/11/26(日) 21:35:53.23ID:cXHhlkRL0
>>153
トヨタって堅実なイメージと違って
昔から儲かることには抜け目がないことやってる
80年代の株バブル時代は本業よりも
株投資に重点を置いて抜け目無く大儲け
利益幅が小さい仕事は軽く見て相手にしてないし
利益幅が大きい住宅建築ハウス業にはちゃっかり参入して
虎視眈々と業界勢力図を変えようとしてるし
投資が小さく儲けが大きいマグロ養殖なんかにはちゃっかり参入してる事実
さすがトヨタw感心出来ないけどwww
453 : 名無しさん@1周年2017/11/27(月) 17:04:13.17 ID:zn3ymcbvO.net
>>177
トヨタが牛耳ってる愛知県豊田市が
2000年代に入ってから警察署別被雇用者自殺実態数でも
日本最大自殺名所の富士樹海がある吉田署を抜いて
愛知県豊田署が日本一の自殺者数を数えたこともあるし
目立たないように大儲けばかり追ってる気質だと
いつかは蓄積した行いが如実に表に明るみになるよな 153名無しさん@1周年2017/11/26(日) 21:08:54.31ID:UTX89vGr0
>>151
トヨタ 税金
で検索しろ 【企業】もう限界だ 東レがトヨタに異議あり! ナフサ連動、26年続く慣行!
1ばーど ★2017/11/27(月) 10:12:18.52ID:CAP_USER9
東レがトヨタ自動車などに異議を申し立てている。
自動車に使われる樹脂(プラスチック)など樹脂の納入価格を巡り
26年間続いてきた慣行の見直しを迫った。
電気自動車(EV)の時代、車体の軽量化につながる樹脂部品の存在感は高まるが
なぜ東レはここまでかたくななのか・・
■ナフサ連動、91年以来の慣行
※続く
配信2017/11/27 6:30
日本経済新聞 全文は会員登録をしてお読みいただけます
ttps://www.nikkei.com/article/DGXMZO23763080R21C17A1000000/ @阿波さん
阿波説は倭人伝で記されてる邪馬台国は阿波
阿波の邪馬台国が時代の進化とともにヤマト王権を築いたでいいですよね
畿内説に疑義有り、阿波説の亜流が畿内説????????????
阿波説は今後 注目されるかもしれませんが調査はすすんでるのでしょうか >>941
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、
縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 前期古墳に顕著な鏡・玉・剣を、天皇家の「三種の神器」と結びつけたり、
古代豪族の系統に天皇家の祖系をたどったり、その源流を弥生時代北九州の墳墓に求めようと言う動きなどは、意味がない
北九州を強引に邪馬台国とする手法はよろしくない 北九州を邪馬台国にしたがる連中は東日流外三郡誌やらムーやらが好きな輩多くてねぇ >>954
鏡、玉、剣を王が持っていたら、三種の神器だと思うだろ。
それが現代まで伝わっているだけ。
それでは聞くが、九州のそれはいつ終わり、天皇家のそれはいつ始まったんだ? >>954
>古代豪族の系統に天皇家の祖系をたどったり、
記紀の中身を解釈しているだけで、千年以上も我が国の歴史とされてきたことを勝手に根拠もなく否定するなよ。 そもそも豪族は古代の天皇家の分家や、渡来人がなったもの。
姓氏録にそう書いてあるだろ。 三種の神器の起源をさぐることを必死に止めようとする畿内説であった 前期前半の古墳で玉が顕著でないことは古墳時代研究者の常識 それは畿内の前期古墳が倭国の王の墓ではないからだよ。
そもそも王の墓だったら、あんなにたくさんないよ。
何代の王朝なんだよw 古墳なんて全国にあるんだから全員が三種の神器を持っていたらおかしいだろ。
大王のものとはっきりしている古墳での状況で検討しなくちゃ
しかも盗掘されてない古墳で >>965
畿内にそれがほとんどないんだよ。
つまり畿内説は根拠がない。 九州北部には前方後円墳も方墳もあるのに、方墳だけが三種の神器を副葬されている。 前方後円墳について魏志倭人伝に記述がないということは、魏の使いは畿内に行っていないし、畿内は邪馬台国とは関係ないということか。 >>967
>九州北部には前方後円墳も方墳もあるのに、方墳だけが三種の神器を副葬されている。
九州北部には円墳ないの? @阿波 あるけど三種の神器が副葬された王墓はいずれも方形周溝墓だろ。 >>972
>あるけど三種の神器が副葬された王墓はいずれも方形周溝墓だろ。
じゃ、卑弥呼の墓じゃないようだね。 @阿波 >>972
>三種の神器が副葬された王墓はいずれも方形周溝墓だろ。
そうだっけ? 方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳もあるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
※古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 淡路島と言うくらい阿波は道なんだから
いろんな勢力が通過するもんだ。
だからいろんな地方の遺物があるんだよ。 阿波は倭国の後背地。
阿波厨自らが証明した。命懸けの石の切り出し、辛い石の成形作業。
食料よりも、支配層の都合のための麻作り。
倭国の中心畿内の近くだが、海で隔絶された地。
阿波で無茶をして反乱が起こっても、倭国の中心には被害が及ばない都合のいい立地。
阿波に種々の神社があるのは、様々な人々が阿波の統治の為に派遣された為。 921代理2017/12/05(火) 22:23:16.24>>925
新スレ立てときました
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512480089/l50
できれば前スレを埋めてから書き込んでください。 東日流外三郡誌の古田センセー(笑)
ツボケ族ですよ(笑)
アソベ族ですよ(笑) BSーTBS
12月11日「邪馬台国はどこにあった」放送 >>979
だるまさんが転んでも、四国の阿波 @阿波 BSーTBS
12月11日「邪馬台国は九州のどこにあった」放送 >>991
俺もそう思う
NHKの時 畿内説論者のオンパレードだったな 阿波は、九州・畿内に比べこじんまりした地域なのになぜ邪馬台国?
九州や畿内より小規模な国が邪馬台国? 知恵の泉は酷かったな。
正に弥生時代は平和でしたみたいなプロパガンダ。
魏志倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東と書かれている。など意図的な嘘を混ぜたり。
NHKですら、糞だ。TBSも期待できないと思う。 >>993
>阿波は、九州・畿内に比べこじんまりした地域なのになぜ邪馬台国?
>九州や畿内より小規模な国が邪馬台国?
そりゃ、阿波一国と九州・畿内の全域との比較では当然規模は違うでしょ。
邪馬台国が広域、広大と思うことが誇大妄想。
そもそも、九州説とか畿内説とかがマヤカシ説。 @阿波 文献でも北部九州伊都
考古学でも北部九州伊都
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新しいスレッドを立ててください。
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