★★ 邪馬台国は【葛城】である【4】 ★★
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邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。
10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。
これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015久住編年でもこれが最有力。
そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人ヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。
わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったからである。
つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。 >>750
規模が小さくて周りに何もないから、地方のハコモノ行政で建てた県庁止まりだな。 >>752
皇居の相当するのが唐古鍵ってか? 消滅してるぞ! どうすんねん? ん?
大物主の王居だよ
>>743
大型倉庫との間に代々の大物主の王墓があるじゃないか。
わかりやすい。 箸墓伝説
地元の人が大物主を馬鹿にした話。
能の三輪でも馬鹿にされている。
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。 >>751
皇居に当たるのは葛城
>>752がアホなこと言ってるが無視しろ >>732
>和泉(イズミ)はイズモと音韻(母音)が同じ。
発音は似てるが和泉の語源は水が湧き出る泉のようだな、残念。
>登美ヶ丘。(ダンスで有名な登美ヶ丘高校等)
登美丘ね。
古い地名でなく20世紀に出来た地名。 畿内登美なんて言ってる馬鹿は消えてくれ。
ましてやそんな所に王権はない。 葛城の鴨(=神=王)族には天日方奇日方命を初代とする登美家
(本家は出雲の東王家、富家。また、向(ムコウ)家とも)
、、、葛城の下鴨神社こと、鴨都波神社を氏神と仰ぎ、
併せて三輪山にも同じ祭神=氏神(八重波都身命=少彦(役職名としての出雲の副王)。故に、キキ編纂に当たり、それを改竄して都美羽八重事代主(生前の御名を反転した呪詛)とした。)
、神名を大物主神と仰いで初代の祭主には祭神の御子、葛城の登美家 初代、天日方奇日方の上の妹君の媛鞴踏五十鈴日女命(母親は摂津三島(高槻市島本町辺り)の生玉依媛命)が就かれた。
(以降、九州から侵攻、平定した物部王家(第2次侵攻。第1次侵攻はニギハヤヒやウマシマジに仮託された物部王家の別流。)の
崇神(実際には垂仁=イクメ大王)による祭祀の一旦停止迄、登美家の血筋の日女命が
歴代、三輪山の祭主/日女命(ヒルメの命/いわゆるヒミコ。なかんずく、数人に冠された大倭日女命の称号はまさしく偉大なる女王で大巫女で在られた証。))に就かれた。
その登美家を頼り、葛城の中南部に移住したのが
高彦/味耜高彦(出雲第9代少彦(副王)で西の王家、神門臣家の当主)の
御子の多岐津彦(祖母は宗像家の多岐津媛命)と出雲人ら。
多岐津彦は高賀茂家と号してその初代となり、
高賀茂神社に父親の高彦=味耜高彦を祀り一族の氏神、カモの大御神と仰ぎ(高賀茂神社)、また、叔母の下照媛命も氏神として祀った(中賀茂神社)という。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。 神武が実在したと考える人も、
実在しなかったと考える人も(ここにはあまりいないが)、
神武東征紀が異様に誇張された記述であるという考えでは同じだと思う。
ではなぜ誇張する必要があったのか。
神武の時代が魏志倭人伝の女王国であったからである。
神武の時代にヒミコが、少し後にトヨがいるのである。
この系図、わしが死ぬまで貼り付けてやるから覚悟しておけ。
事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 >>770
>ではなぜ誇張する必要があったのか。
のちに天皇家が台頭するから。 >>770
>神武東征紀が異様に誇張された記述であるという考えでは同じだと思う。
異様に誇張されたと思うのは、トンデモ説だから。
ちっとも誇張なんかされてはいない。 単なる倭国(阿波)国内での東征譚。 @阿波 天武が磐余系、神武の系譜なんだろうな。
問題は、天武と天智桓武が同じ系譜かということだな。 >>771
>>ではなぜ誇張する必要があったのか。
>のちに天皇家が台頭するから。
意味不明。
のちに天皇家が台頭するからという理由で、
何で神武を127歳にする必要があったのかな? >>772
>異様に誇張されたと思うのは、トンデモ説だから。
>ちっとも誇張なんかされてはいない。
意味不明。
何で神武を127歳にする必要があったのかな? 帯方郡(ソウル)から狗邪韓国まで七千里、帯方郡から邪馬台国まで1万二千余里
なので狗邪韓国までで半分以上の距離を使っている、その先で判っている里程は
狗邪韓国から末艪国までが3,000里、末艪国から伊都国、奴国
不弥国まで700里あるから残りは12,000-7,000-3,000-700=1,300里しか無い
僅か千三百里では不弥国から奈良の邪馬台国には到底届かない
邪馬台国は北部九州にあったと考えるのが正常な思考力。 福岡県発祥の神社
1.八幡神社・・・・・・飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮発祥
(築上町の金富神社説もある)
総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮
分社数約四万四千社〜二万五千社
関東では鶴岡八幡宮が有名
2.宗像神社・弁財天・・宗像市の宗像大社発祥、総本社も宗像大社
分社数約七千社 関東では藤沢市の江島神社が有名
3.住吉神社・・・・・・那珂川町の現人神社発祥、総本社は大阪市の住吉大社
分社数約二千三百社
4.海神社・綿津見神社・・福岡市東区の志賀海神社が発祥地、総本社は志賀海神社
神戸市の海神社や安曇野市の穂高神社が有名 >>775
>何で神武を127歳にする必要があったのかな?
稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞には、年齢は春秋歴を用いていたのだろう。 @阿波 >>777
>福岡県発祥の神社
>1.八幡神社
まず八幡神って誰なのか。
わしは、日本の神様とは、実在した人物が神格化された場合がほとんどではないかと考える。
葛城(高天原)にいた高天彦がタカミムスビに、
同じくシタテルヒメ(タカヒメ)がアマテラスに。
イザナギ・イザナミも瀬戸内の沼島に初めて住んだ夫婦が神格化されたのだろう。
では戦いの神・八幡神とは誰だろうと考えた。
どうも応神天皇と同一視されてるが、実は応神天皇は、お母さんの神功皇后と違ってあまり武勇伝がない。どうも結びつかない。
で、この人ではないかと思ってる。
羽田矢代https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%B0%E7%9F%A2%E4%BB%A3
『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、羽田矢代宿禰は紀角宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。
羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)
波多矢代 八多八代
八幡(やはた) 「矢」 「八」
いつしかこの武勇伝が応神天皇のものとされるようになったのではないか、と考えてる。 >>778
古田の言うように継体以前が倍歴だとしても、
神武が紀元前になり、当時の平均寿命や考古学的結果から大きく逸脱するので、
倍歴なんぞ到底無理。 >>779
八幡神は神功皇后が産んだ応神天皇となっている、父親は仲哀天皇かどうかは不明、
仲哀天皇と神功皇后は朝鮮出兵前に宇佐宮を詣でている、この時の宇佐宮の祭神は
比売大神だけだった訳でその後神功皇后と応神天皇を祀って八幡宮になっている。
比売大神が卑弥呼=天照大神説が強い >>780
それなら、稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞に間違いがあったのだろう。 なにも問題はない話。 @阿波 >>781
>比売大神が卑弥呼=天照大神説が強い
強いってどこで?w
君の脳内で強いかろうが関係ない。
宇佐の赤塚古墳は3世紀末、当地が大和の前方後円墳体制に組み込まれたというか、
大和から派遣された国造および防人さんの墓であろう。
その一族が神功皇后時代まで続いていただけで、
比売大神というのはその一族の中の姫様が祀られてただけ。
あるいは神功皇后そのものかもしれない。
どちらにしても応神天皇というのは武勇伝がない。
後世、八幡神にされたとみるべきだ。 >>782
考古学的に(あるいは半島の文献との比較でも)
15代応神が4世紀末から5世紀初頭、
10代崇神が4世紀初頭から前半。
この時点で倍歴説は崩壊。 >>784
>この時点で倍歴説は崩壊。
倍歴説が崩壊だろうが、有効だろうが、どうでもいいことなんですよ。
いずれにせよ、稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞に間違いがあったってこと。 なにも問題はない話。 @阿波 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>705
いや九州説の丹に関しては、倭人伝の内容を考察しての内容だが、畿内説の鉄鏃に関しては、支離滅裂
倭人伝には"宮室と楼観や城柵を厳しく設け、常に兵器を持った人々が守衛している"とあるからね 宇佐神宮の境内にある古墳を調べたら少しの糸口が見つかるかも知れんが
神社側の許可が下りんから全く調査は出来てない、奈良の重要古墳並の扱い >>780
二倍歴を何か勘違いしていないか?
年数が2倍になるんじゃなくて半分になるんだぞ >>789
だから1年を2年と数えるのだよね?
間違いだ。 明治以前の天皇が伊勢に参拝しなかったのは、
崇神が放逐したご神体の鏡が原因。
日本で一度だけクーデターがあった。
クーデターを起こしたのは現天皇家の祖先・崇神である。
クーデターを起されたのは出雲系・大物主である。
崇神は出雲から神宝を奪い(出雲振根事件)、出雲国造を置いた。
ヒミコやトヨはクーデターを起された出雲系・大物主の家柄である。
その証拠にヒミコの刀・中平銘鉄刀が出た和邇氏が和爾坐赤阪比古神社で今も祀っているのは、
最後の大物主・阿田賀田須である。
この阿田賀田須の妻がモモソ媛であろう。
伊勢神宮で、今も行き場がなく、20年に一度の式年遷宮という形で彷徨っているのは、
崇神が殺した阿田賀田須の血で染まった鏡(ご神体)である。
だから皇室が伊勢に参拝しなかったのであろう。 徳島県美馬市美馬町にある「玉振神社」。
主祭神は、玉振姫命・大己貴命で、美馬市美馬町宗重部落のほぼ中央にある。
すぐ東には四国最大級の巨石墳(円墳)の「段の塚穴古墳」があり、西には白鳳時代の寺院跡「郡里廃寺跡」がある。
この社はもと正部神社の祭神、清姫霊神の侍女、玉振姫霊神を祀っていたといわれている。
延宝五年(1677)に大己貴命を宗重部落の氏神として合祀し、鎮座したものだそうだ。
この美馬町は、吉野川中流域にあり「倭地」なのである。 美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、師木水垣宮を宮殿にしたと伝えられている。
この「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」は「崇神天皇」のことなのである。
この師木水垣宮の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。
これは、大国主命に近い埴夜須比賣命の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。
また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、
伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。
崇神天皇の謚号のとおり、崇神紀には天照大御神や倭大国魂神社の祭祀、天神地神、神地・神戸を定め、
供物の定義等のほか「玉振」として大田田根子や市磯長尾市が求められるなど、神祇制度の起源説話ととれる記事が集中している。
「玉振神社」は「玉振り」として求められた淳名城入姫命が祀られていたものと思われる。 @阿波 皇室が北朝のときには参拝しなかったんだよ
明治でインチキ南朝が復活したんで伊勢神宮参拝したんだよ
伊勢神宮は南朝、宇佐神宮は北朝 伊勢神宮は畿内ヤマト、百済、平氏、南朝
宇佐神宮は九州倭國政権、新羅、源氏、北朝(基本である、いいな 伊勢湾は鎮魂の場所。
倭国大乱の犠牲となった神々を祀る処。
荒魂は本来の場所と違うところに祀るのが原則。
伊勢湾は大阪湾のコピー。
阿波忌部は倭国大乱の罪を償うのが生業。
アワビを刻み倭国大乱の罪を噛み締め、熨斗アワビを作るのが役。
祝い事に熨斗アワビ。 新井白石
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」
本居宣長
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」
金印を偽造した江戸幕府
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」
金印を国宝にした満州事変(昭和6年)当時の軍部
「大和朝廷および古代天皇は中国に朝貢などしていない(本当はしていたが)」 >794
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。 神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう(基本である、いいな @阿波 >>794
宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)。
『国府町井戸 八幡神社』
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修....」 以下略
御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)
※大分の宇佐神宮の開基は725年。
※大分の宇佐神宮より遡ること、白鳳二年(674年)にこの『国府町井戸 八幡神社』 は「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
※よって、大分の宇佐神宮も『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたのである(基本である、いいな @阿波 五塚原古墳https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
また山代も河内も庄内土器で共通する。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
偽書と片付けてる人間は馬鹿である。 >>799
>被葬者は誰であろうか。
いずれにせよ、倭国(阿波)から進出した忌部一族のひとり。 @阿波 >>801
倭人伝にも「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」とある。
縄文時代晩期末より、主に倭国(阿波)の海人族の大人らが東は関東、西は九州まで全国を移動し、
子孫や一族らによる新地開拓や移住・婚姻によって、列島全域に勢力を伸ばした。
また同時に、石器、青銅器、鉄器、朱、農耕技術や軽量薄型土器、墳墓築造などの先進文化・技術を全国に広めていったのである。
これまで「忌部」の研究が不足していたため、歴史の中で有名なその他の氏族のみで仮説・ストーリーが立てられてきた側面がある。
今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。 @阿波 >>801
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
一方、今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波 >>801
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、
やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である
麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、
高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、
超絶した扱いとなっているのは、記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする
「神御衣」と見立てているからであり、それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、
新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しし、大神から、日嗣の認承を賜る「物実」(正当な皇位継承者であることを大神の御前で証明するための品)
と観念されたからである。 @阿波 サルタヒコの遺言。倭国大乱の犯人を教えてくれる。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立
国底立神、国常立神、天香山の山頂に祀られている神。
鬼門に封じ込まれた神。
&阿波咋。
阿波忌部の役は倭国大乱で犠牲となった神々の鎮魂。
責任をとり、代々鎮魂に励むのが役。 >>805
>阿波忌部の役は倭国大乱で犠牲となった神々の鎮魂。
倭国乱は倭国(阿波)の乱。 当然、倭国乱で犠牲となった神々の鎮魂をするのは当たり前。 @阿波 >>805
>倭国大乱の犯人を教えてくれる
ヒミコを擁立した王族のA集団ともう一つのB集団が争ってたのであろうね。
簡単。
ヒミコの時代に申食国政太夫(おすくにのまつりごともうすまえつきみ)が二人いる。
葛城にいた鴨の天日方奇日方と磯城にいた物部のウマシマジ。
4世紀には崇神を産んだ物部の勝利となるが対立はまだ続く。
葛城を出自とする蘇我との対立だ。
蘇我が丁未の乱(ていびのらん)で勝利して物部宗家滅亡。
ところが蘇我も後の乙巳の変で中臣にやられ、
ちゃっかり物部の石上麻呂が最高名誉職「太政官」になっているのだから、
乙巳の変は物部の復讐劇であろう。 延喜式(巻7、神祇7)[践祚大嘗祭式]の「由加物」条に記載された内容。
・由加物―大嘗祭に諸国から貢進される品物、即ち神に供える聖なる品のこと。 「雑贄」とも呼ばれた。
・由加物の貢進―阿波・淡路・紀伊の三国のみと定められた。
・聖なる由加物―これら阿波・淡路・紀伊の三国の由加物が通る国々の路地は道を掃き清められ、国司・郡領らがこれを送迎した。
由加物とは、清浄を期した聖なる産品。
阿波国から貢進される由加物のうち、海部(那賀郡に住む海女)が作るもの(県南部)
・鰒卌五編―加工したアワビ45編
・鰒鮨十五坩―アワビのスシ15壺
・細螺―シタタミ(小さな巻貝)
・棘甲臝、石花等併せて廿坩―ウニ、「セ」と呼ばれた節足動物のカメノテやフジツボの類を加工して土器に入れ献上していた。それは、現代風にいえば瓶詰めであったとされる。 >>807
>ヒミコを擁立した王族のA集団ともう一つのB集団が争ってたのであろうね。
倭国(阿波)乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱および旧吉野川流域南岸勢力内での争乱また、鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力)
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
こういう「邪馬台国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101
いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ
徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ
聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w
ホント学者は使えねえ >>810
>すべての証拠物がもう既に出土してる
なんでやねん。
正確に言うなら「卑弥呼の遺物の一部がすでに出土している」ということ。
それを卑弥呼のものではないとは誰も言えない。
その卑弥呼の遺物の一部とは東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀である。
発見者の金関さんが2017年3月の考古学雑誌で卑弥呼がもらった五尺刀ではないかとの見解を寄稿をされた。
2世紀末から4世紀にかけて刀を貰ったと記されてる人物は卑弥呼しかいないからだ。
おそらく誰も反論はできないであろう。 >>807
葛城の大鴨、登美家(出雲の東王家で宗家、富家から分家)の初代、天日方奇日方は紀元前2世紀の人。
(妹で三輪山の祭神の初代神主/祭主で在られ、後には初代大倭国大王の大后にトップ媛踏鞴五十鈴日女命(大倭国初代のヒミコ(各地にいた)/大日霊女)も2世紀の人)
、、、この家系が大倭国〜大和朝廷の歴史のフィクサー。事代主家、大物主家、大鴨王(きみ)家
ウマシマジ(第一次物部(ニギハヤヒ)侵攻で葛城の出雲神(かも)族らが担いでいた天村雲命(ホアカリ=ニギハヤヒの孫)を祖とする海部大王家(当時は孝霊天皇。やむを得なく大倭国を放棄して大吉備国を建てた(お伽噺の桃太郎の冒頭の元ネタ))を
逐って(葛城の出雲神(登美家、高賀茂家)族らが寝返り旧主を裏切ったのが勝因)一時期大倭国の大王家となった)は紀元一〜2世紀の人 >>812
>天日方奇日方は紀元前2世紀の人
なんでやねん、じゃ神武も紀元前2世紀かいな、アホ言え。
時系列が無茶苦茶な論者は来ないでくれ。 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
狂人のキナイコシが、焦ってインターネットで暴れるだけになってしまったね、、、、 >>817
>反論は具体的にしないと。
いや反論も何も、10代崇神が4世紀前半なのだから、
神武や天日方奇日方の時代が紀元前2世紀なら10代崇神から400年以上も古い事になる。
崇神から遡る事9世代であったら(まぁ、あり得ないが)、
400÷9=44.444…
1世代間44年はおかしいでしょ?
以上。 葛城はグスクの転訛、としたら奄んゆつうのに信憑性を感じる。 キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 岡上は最近になって身バレするから連続句点をやめたようだが
言ってることが同じだからバレバレなのは変わらない 五塚原古墳http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。
向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、
前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」
被葬者は誰であろうか。
候補者がいる。
先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。
崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。
同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。
被葬者は誰であろうか。
天孫本紀に交野連の祖と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)であろう。
伊香色雄命の子である。
また山代も河内も庄内土器で纏向と共通する。
このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。
先代旧事本紀を偽書と片付けてる人間は馬鹿である。
前方後円墳とは物部の墓制であり、卑弥呼は埋葬されていない。 http://www.kashikoken.jp/museum/yamatonoiseki/kofun/akandoyama-todaiji.html
中平年銘鉄刀
1961年、東大寺山古墳が天理参考館により発掘調査された。
前期後葉に築造された全長約140bの前方後円墳で、赤土山古墳よりも少し古く、この丘陵上に最初につくられた古墳である。
埋葬施設は長大な木棺を大量の粘土で包んだ粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる形式で、
この種の施設としてはもっとも古い部類に属する。すでに盗掘を受けていたが、
多種多量の石製品、玉類、おびただしい量の武器・武具類など、きわめて豊富な副葬品が出土した。
それらの中に「中平」の年号を記した鉄刀が含まれていたのである。
鉄刀は長さ103aの内反りの刀身で、柄頭(つかがしら)は日本製のものに取り替えられていたが、
正真正銘の中国からの舶載品である。
刀背に「中平□(年)、五月丙午」で始まる全部で24文字の銘文が金象嵌(ぞうがん)で刻まれていた。この「中平」は、後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年まで用いられた年号である。
『魏志倭人伝』は、倭國が歴年にわたって乱れた末に、女王卑弥呼を共立した、と記す。
その乱の時期を『後漢書』倭伝は「桓霊の間」とする。「霊」は霊帝のことであり、
中平年間はその治世の最後に該当する。つまり、両書の記述による限り、
この刀の製作時期は卑弥呼共立の前後に当たることになる。
紀年銘をもつ鉄刀が中国皇帝からの下賜品である蓋然(がいぜん)性が高いことを考え合わせると、
この刀の持つ意味は深長である。金関恕氏は、共立されて間もない卑弥呼が後漢に使いを遣わし、
この刀を下賜された可能性を指摘しておられる。
またその刀が、どのような経緯をたどって150年ほども後に築造された東大寺山古墳に副葬されたのか、
その点もさまざまに想像がかき立てられる。
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・総括学芸員 岡林孝作 『魏志倭人伝』は、倭國が歴年にわたって乱れた末に、女王卑弥呼を共立した、と記す。
その乱の時期を『後漢書』倭伝は「桓霊の間」とする。「霊」は霊帝のことであり、
中平年間はその治世の最後に該当する。つまり、両書の記述による限り、
この刀の製作時期は卑弥呼共立の前後に当たることになる。
紀年銘をもつ鉄刀が中国皇帝からの下賜品である蓋然(がいぜん)性が高いことを考え合わせると、
この刀の持つ意味は深長である。金関恕氏は、共立されて間もない卑弥呼が後漢に使いを遣わし、
この刀を下賜された可能性を指摘しておられる。
またその刀が、どのような経緯をたどって150年ほども後に築造された東大寺山古墳に副葬されたのか、
その点もさまざまに想像がかき立てられる。
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・総括学芸員 岡林孝作
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事代主
┣━━━━━━━┓
クシヒガタ(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 ヌナソコナカツ媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 このただ一つの邪馬台国畿内説スレッドにも、謎の優れた考古学者達が現れて、邪馬台国纏向説を、蠅を叩き潰すようにして、叩き潰してしまったようだね。。。
せっかくだから、鏃は武器であり、農具ではないことを、初心者にも説明すれば、良いのではないのかな。。。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1521001812/ 金関恕先生がお亡くなりになられました。
ちょうど金関恕先生にお手紙を書いている最中でした。
残念です。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
中平銘鉄刀の主・和邇氏と卑弥呼は繋がっていました。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、、、、 「卑弥呼の墓では」巨大な前方後円墳?謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル [福岡県]
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_chikuhou/article/402402/
もし古墳なら、6世紀後半に筑豊に流された片野田(物部守屋の子)だろう。 「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」(本居宣長)
江戸時代の国学者にとって最も大きな問題は、古代天皇および大和朝廷の朝貢。
そして「邪馬台国論争を定着させる事」、これが彼らが出した結論。
だから新井白石も本居宣長も意図的に九州を出してきた。
九州だ畿内だと論争してくれてるうちは、古代天皇の朝貢という重い史実を定着させなくて済む。
論者を引き付け、大いに論争させ、「永遠の引き分け」を狙ったのです。
引き分けは負けではありませんから。
金印もその流れで江戸幕府により偽造されたのでしょう。
金印が九州のどこから出たことにするか、それが一番悩んだ事でしょう。
選ばれたのが福岡の玄関口の志賀島(笑) ここも、頭悪い系のコピペ張り込みスレになってるなぁ
まあ、がんばれ 金印
wiki
発見の状態について
江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、
水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。
発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。
すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。
発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、
儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。
本居宣長
生年月日: 1730年6月21日
生まれ: 三重県 松阪市
死亡: 1801年11月5日, 三重県 松阪市
「日本の天皇が朝貢した歴史などあってはならない」
と言った本居の生存中に金印が見つかったようですね。
『後漢書』に記述のある金印だと言った亀井南冥という人物も怪しい。
国宝になったのは昭和6年満州事変の年。
軍部「日本の天皇が朝貢した歴史などあってはならない」 高天原(御所市高天)の水源に高天彦神社がある。
高天彦神社には土蜘蛛塚や蜘蛛窟がある。
出雲から来た鴨(神)族は水源を押さえるために、やむなく先住者を屈服させたのだろう。
107年、帥升ことスサノオが連れて行った生口160人も彼らであろう。
その生口の末裔は1800年後に、
高天原(御所市高天)のふもとで「人の世に熱あれ 人間に光あれ」と声を上げ、部落解放運動の震源地となるわけだ。
日本の歴史は葛城から始まるのだ。
悪いけど九州は黙っててくれ。
豚骨ラーメンだけ作っててくれ。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 金関先生の発見した国宝・中平銘鉄刀(東大寺山古墳出土)。
その鉄刀の主、和邇氏とヒミコは繋がるか。
繋がります。
和邇氏はトヨから始まります。
事代主
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天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
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彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
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伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
ヒミコとトヨが住んだのは葛城です。 全部、出雲と筑紫の末裔だろ。
畿内はただの入植地。
開拓の功労者は、鴨主の祖父である三島溝杭、摂津の鎮守だな。
京都の上賀茂と下鴨神社なども鴨一族の領土であり、京都、奈良、大阪はすべて筑紫から侵攻を受けている。
ちなみに、筑紫からの神武東征を助けたのも、この三島溝杭とされている。 >>843
>ちなみに、筑紫からの神武東征を助けたのも、この三島溝杭とされている。
いえ宮崎からだよ。
「三島溝杭とされている」って誰にされてるんだ? >>845
神武東征を未だに筑紫や宮崎からと信じてるんだね。 ある意味、すごいね。 @阿波 >>846
10代崇神は神武ゆかりの宮崎神宮の社殿を建てている。
崇神は神武から代数では9代だが世代では6世代後。
6世代前の神武の出身地を間違えるとは考えられない。
また崇神の後、景行天皇が南九州を征圧しに行く。
なぜ神武ゆかりの南九州を攻めたのか。
神武が残してきた子、キスミミの末裔を討ちに行ったのであろう。
神武の男系王朝が2つもいらないということが理由であろう。
日本書紀には熊襲の反乱などと書かれた。
大和朝廷側が一方的に攻めてきてながらこのように書かれた。
激怒した隼人が日本書紀上梓の年の養老4年(720年)に反乱を起こしたのもこういう理由であろう。 >悪いけど九州は黙っててくれ。
>豚骨ラーメンだけ作っててくれ。
悪いがモツナベも作るね 神武が来た時点ですでに大和には神も王もいた。
事代主神と鴨王だ。
それぞれ神武の義理父と義理兄だ。
神武はこの王朝の入り婿さんだ。
神武は、神を父に持ち王を兄に持つヒメと結婚した。
ヒミコだ。
ヒメのままなら誰にでもヒミコを連想させてしまう。
だから、やれ踏鞴だ五十鈴だイスケヨリだホトタタラだを加飾して、極力ヒミコの印象から遠ざけたのだ。 それは神武が卑弥呼と同年代という過程が証明されてからにしよう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています