邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part11
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水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 日本列島の中で早くより大陸と交流のあった九州北部は高い文化を持っていた。
新天地を求めて東に向かう一団もあり、その一団は開拓を進めながら畿内周辺までたどり着いた。
その行程で土盛り墳墓から、開拓土砂を利用した古墳文化も育った。
時は進み、大陸の脅威を警戒して九州勢力も東を目指した。
道中ではいざこざがあったが、鉄の武器など高い文化を持った九州勢が武力又は平和的に吸収。
それが、銅剣が大量に出土したなどにつながる。
武器を捨て従えば悪くしないよと平和的に。
畿内とも摩擦はあった。
しかし正当な血筋に国を治めてもらおうとの合意に至り大和政権の土台となった。
この流れに殆どが無理なくおさまるから好き。
今は専門家も趣味人もどうせ真実にはたどり着けないのだから、それぞれ好きな説を楽しめばいいよ。
専門家は必死でやれ。
うちが生きてるうちにどっちでもいいから、絶対にこれだって結論出してくれ。
死ぬまでに見たいもの。
邪馬台国論争の誰もが納得する結論。
中国の崩壊。
朝鮮半島の崩壊。 >>900
>>開拓土砂を利用した古墳文化も育った。
ねーよ。掘をつくって、その土を利用して
内側に盛り上げる。これは古墳および、
日本の城郭のお掘り(水掘、空掘)もこのやり方だ。
掘った土をすぐそばに盛り上げれば、工期の短縮になるし、
城郭の場合は、土盛りと掘り底からの合計した高さを
高くとれるので合理的だからだ。
開拓の土砂を遠くから持ってきたりしない。 >>901
古墳の周辺に水田とかザラにあるよね。
その言い分は成り立たないよ。
堀が同年代に作られたわけではなく後になって、古墳を守るために作られた可能性もある。
どちらにしても断定できないよ。
現時点では断定こそ妄想。 >>901
間違った。断定こそ盲信。
歴史を研究するにしても趣味としてたのしむとして、盲信は視野を狭めていいことなしよ。 >>902
古墳の堀を水田の用水に利用してたんだよな。 >>902
古い古墳にいちいち堀を追加したりしないよ。
のぼうの城を見ていたら、古墳を改造して城攻めの拠点に利用しちゃっていたな。
あと、あれを見て思ったのだが、人数を動員すれば前方後円墳は意外と短い日数で作れるんじゃないか?
利根川などの堤防の方が、ずっと土砂の量とか多いだろう。 >>905
張政は卑弥呼の古墳ができあがるまで居たと
魏志倭人伝から伺えるので(伝聞も可能性もあるが。)
径100歩の古墳は1年以内で作ってしまったみたいだよ >>905
追加する理由があったのかもよ?
盗掘とか定番だけど。 堀を掘ったくらいでは盗掘は防げないよ。
やはり本体と同時だろう。 >>895
直訳じゃないよ
>>896
壱岐、対馬、松浦とかだな。 >>908
知らんよ。
水田開拓 残土で古墳、ため池もつくっちゃった。てへ。
って流れかもね。 女王國を構成する国々 4ヶ国
奴國・・・・帯方郡からの距離が12000餘里
不彌國・・・帯方郡からの行程が12000餘里
投馬國・・・不彌國の南側
邪馬壹國・・不彌國の南側、女王の居所がある
参考:伊都國・・・帯方郡からの行程が11900餘里
女王國以北の倭の国々
伊都国・末蘆國・一大國・對海國・狗邪韓國・其餘傍國21ヶ國・・計26ヶ国 >>912
また変なことを主張するのかと思ったが
内容はまともなのでほっとした。 >>912
不彌國・・・帯方郡からの行程が12000餘里???
不彌國は帯方郡から一万里末羅港から500里の伊都国1万500里 から東100里でしょ?
で、伊都国の東の不彌國〜邪馬台国の
南水行30日と陸行1月は南北で1500里w
これが、中国皇帝による正史が示す定義である。 地理的に比定すると伊都国の東の不彌國って、内陸だよね。 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) そうだな
ガチ確定の北部九州邪馬台国説にまともに反論できない
サギが騒いでいるだけだな
有効な反論すらできずにw >>920
有効かどうかは俺様が理由なしで断定する
って、アホかと
w 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) 南=東 説な。 知ってる。
伊都国の東=南だともっと内陸だしw
まあ、内陸に南東500里向かって東に百里だよ。
何言ってんだ俺? 畿内説の方位は考えたくないな。
そんな間違いの有る中国皇帝の正史は無い。
畿内説によるなら
内陸の不彌國から南水行30日と陸行1月は南北で1500里以内と中国皇帝は定義した。
頓珍漢だろw あんな敗残説を今頃持ち出したら恥ずかしいよなw
何も説明できずに罵るだけのw >>914
>不彌國は帯方郡から一万里末羅港から500里の伊都国1万500里 から東100里でしょ?
不彌國は、帯方郡から末羅港11400里、末羅港から500里の伊都国1万1900里、伊都国から東行100里です。
@半島循海岸水行が7000里
A渡海3回が3000里
B対馬方可400里を循海岸水行が800里
C壱岐方可300里を循海岸水行が600里
合計、帯方郡から末羅港まで11400里 一万二千里で邪馬台国の墓探し用なら反論する気も無いけど
A渡海3回が3000里 だけでいいよ。
海峡三等分できる航路って意味
対馬って方可400里って、無いし。
400はほぼ横断面で見てると思うけど
地図上で対馬の循海岸水行だと南北で千里位有る。
壱岐は方可って言っても南北一辺で通貨でそ。 >>930
対馬の面積
方可400里=400里×400里=160000方里
=(東西)200里×(南北)800里(対馬及び其の周辺島の実際の海域)
壱岐の面積
方可300里=300里×300里=90000方里
=(東西)300里×(南北)300里(壱岐及び其の周辺島の実際の海域)
対馬循海岸水行距離
方可400里=400里+400里=800里
壱岐循海岸水行距離
方可300里=300里+300里=600里 対馬と壱岐
対馬島と壱岐島
對海島と一大島
ではなくて
對海國と一大國
だから
島そのものの大きさじゃなくて
海域だったわけだな
對海國の人々や一大國の人々が日常で漁などを行う生活域が
方可四百余里や方可三百里だったということだ 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) A 洛陽
南路東水行 or 北路東陸行
B 山東半島
東渡黄海横断
C 京畿湾(徳積島) 帯方郡
@C 從郡(京畿湾徳積島)至倭
乍南 循海岸南水行四千餘里(320km) 南部半島西海岸 水行4日
韓西海岸 韓在帯方之南東西以海為限 方可四千里
倭西海岸 南與倭接 歴韓國
A 珍島西南海域
乍東 循海岸東水行三千餘里(230km) 半島南海岸 歴韓國 水行3日
B 其北岸狗邪韓國(巨斉島南岸海域) ※7000余里 水行7日
C (東 渡海千餘里) ※8000余里 水行1日
D 対海國(対馬)(方可四百餘里) ※8800余里
G (南渡海千餘里) ※9800余里 水行1日
F 一大國(壱岐)(方可三百里) ※10400余里
G (南 渡海千餘里) ※11400余里 水行1日
H 末盧國(陸行程 五百里)伊都國 ※11900余里
I 伊都國(陸行程 百里)不彌國(吉野ヶ里)女王國 ※12000余里
I 伊都國(距離 百里)奴國(佐賀城)女王國 ※12000余里 >>936
だよな
鉄器ゼロ住居ゼロ遺跡が首都と詐欺ってみたり
洛陽から学術出土ゼロ銅鏡が中国産と詐欺ってみたり
ひどすぎる・・・ 畿内が遺物ゼロということはない
極めて少ないだけだ >>940
鉄の普及していなかった弩田舎だったってことだな。 ここの考えでは、畿内は九州勢の一部が移住して栄えて大和となったでいいのかな? (500年くらい)後に奈良に都が置かれたのは事実だからね。
その勢力がどこから来たのかといえば、九州しかない。
騎馬民族説というのもあるが、根拠があるとは思えない。 >>946
>その勢力がどこから来たのかといえば、九州しかない。
九州にそんな力はない。 奈良に都を置いたのは倭国(阿波)。 @阿波 うちとしては、日本で最も文明が高かったか争いも多かった九州が女王と信仰の力でまとまったが、大陸の脅威に対策が必要となり、距離を置くために機内と移り日本を1つにまとめ力を得ようとした。
という流れにロマンをかんじてる。 >>948
妄想を楽しむだけにしときなさい。 @阿波 >>949
妄想を楽しむだけにしときなさい。 @阿波 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) 「漢委奴国王印」 江戸時代の作の可能性が高そう。 NHKニュース 「漢委奴国王印」 2000年前漢代の作の可能性が高そう。 NHKニュース 倭人伝の邪馬台国は九州北部の26国で九州島の3分の一に満たない小国。
同時期に銅鐸時代が終わって関西関東東海北陸山陰瀬戸内海勢力が統合して
古墳時代に入った事が明らかなんだから、畿内と九州邪馬台国勢力が並立してるのは当然だろ。
日本の考古学や歴史学は時系列無しでご都合主義の日本史創ってるのかよのかよ?
学者が先導して妄想で遊ぶのもいい加減にしろ。 並立しとらん
北部九州倭国は鉄器強国
畿内は無鉄器で征服された うちも九州勢が畿内に移り住みヤマトとなったと考える者ですが、何年ごろに国の中枢が畿内に移ったと考えますか?
600年に九州から独自に隋へ使者を送っていることが引っかかってるけど、そんな遅かったら、記紀編纂の時、もっと詳しいことが書けたのではとも思い分かりません。 畿内へ移る動機を考えたらいい
一つは、海外からの脅威
これは白村江で負けるまで皆無だな
逆に九州から攻めまくりで九州が中枢のほうが便利
もう一つは、東方への領土拡大
つまり台与の代で狗奴国が滅亡して南が安全になって、
九州を中枢にして北へ攻めるか
畿内に中枢を映して東へ攻めるか >>956
真贋論争のシンポジウム開催→江戸時代の作の可能性高そう
…脳内変換とは恐ろしいものだ >>961
最終的な政権交代は、白村江で筑紫倭国が滅亡した7世紀後半だよ。 >>962
>逆に九州から攻めまくりで九州が中枢のほうが便利
倭国は4年に一回程度の割合で朝鮮半島に攻め込んでいたからね。
博多から攻め込む方が有利。
畿内からいちいち出かけていたら国内移動の方がはるかに長くなってしまう。 ありがとうございます。
かなり納得ですよ。
では畿内が九州勢力の統治になったのは、いつと考えますか?
鉄の増加が影響力の増加と重なっていると見ていいでしょうか? >>967
畿〇チェツの人たちがありがたがってる
鉄剣鉄刀だらけの将軍墓から 九州政権の統治下にはいるのと別にして
そもそも畿内の方形周溝墓集落の支配者あるいは集落民全部かもしれんがの
出自が筑紫だからな
出身地の王の支配下には入っていなかったものの >>962
>畿内に中枢を映して東へ攻めるか
西日本各地のなかで、敢えて湿地帯の畿内に中枢を映す理由は? 答えられないだろうが聞いてみる。 @阿波 弥生時代前期に九州が発展した事実は否定しないが
九州は邪馬台国時代まで統一国家を形成できてないのも事実。
弥生人は邪馬台国時代までに九州人であるのは間違いない事実であって
吉備、出雲、阿波、関西に向かった九州の弥生人が大和朝廷の起源であっても良い。
記紀の統一に係る時系列的なデタラメも、
日本人形成の意味でなら完全なデタラメじゃない憶測は可能。
ただし倭人伝によって、邪馬台国に九州統一や
瀬戸内海諸国、出雲、能登、畿内に進展できる軍事力が無いのは明らか。
邪馬台国時代には、銅鐸時代を経て並立してこれらの地域に王権が成立。
軍事国家による統一王権を象徴する、古墳、前方後円墳が出来始めている。
平原の卑弥呼の墓は普通に支石墓のでかい塚、盛り土だろ。 壱岐対馬ルートによって弥生時代の朝鮮半島からの鉄器入手を完全支配する
北部九州邪馬台国
平原遺跡に超巨大内行花文鏡と
魏から贈られた倭人伝そのままの副葬品
それにケチをつけるなら
無鉄器の畿内なんざ
サヨナラバイバイwww 帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)
(渡海千里) ※8000
対馬
馬(方可四百余里) ※8800余
(渡海千里) ※9800余
壱岐
岐(方可三百里) ※10400余
(渡海千里) ※11400余
末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日) 交通の便が悪かったから、分家を増やしても、なかなか意思疎通は難しかったんだろね。
磐余彦と饒速日が同じ筑紫の天神の子どうしで戦って五瀬が戦死したくらいだからね。 >>969
なるほど。
そうなると、畿内に至るまでの鉄の文化エリアは皆、九州北部から旅立った人たちが作り上げた文化圏と見て良いでしょうか?
あと宇佐神宮のポジションが昔から気になります。
神社としては古代は関係ないと見えますが、本殿の下に石棺があると言うレアケースで、記紀でもその後の世でもど田舎なのに大切にされています。
古代で一体どう言う場所だったのでしょうか?
畿内と九州北部を結ぶ交通の要所ではあったと思いますが。 もう一つ連続質問ですみません。
やよい末期から古墳時代初期、鉄器の出土が阿蘇山ぐらいのところで九州を横に切ったように偏ってます。
と言うことはそのラインより下は敵国。
だけとそのラインより遥かに南ら神武が登場しています。
そこに何か意味があるのでしょうか? 古墳の上に神社というのは、全国的にはよくあること。
筑紫倭国ではしばしば王統が交代するが、最後の交代が仲哀の暗殺から応神の即位までの間。
すなわち天皇家の直接の皇祖が応神。
新しい天皇が即位すると、勅使を立てて宇佐の祖先の宗廟に報告するのが伝統だった。 >>976
熊本が狗奴国、宮崎が投馬国。
ここまでが魏志倭人伝で確認できる倭人の土地の南限。
ちなみに後漢の頃は福岡の倭奴国が南限と書いてあるので、これでもずいぶん拡大している。
畿内はまだまだ未開の地。 委奴(ヰト)
↓
倭奴(ヰト)
↓
倭都(ヰト)
↓
伊都(イト) 旧倭都の意 現倭都は卑弥呼の居所 女王國(14万千戸)・・・筑紫平野 女王國構成国(奴國・不彌國・投馬國・邪馬壹國)
狗奴國・・・・熊本平野菊池盆地(菊池川流域が中心地)
狗奴國と女王國の境界線・・・矢部川南岸
狗奴國に隣接する国・・投馬國に東接南接・邪馬壹國に南接 >>962
>畿内に中枢を映して東へ攻めるか
西日本各地のなかで、敢えて湿地帯の畿内に中枢を映す理由は? 答えられないだろうが聞いてみる。 @阿波 >>982
ある程度湿地の方が、開拓して水田にしやすいだろ。
むしろ好都合な環境だったかもしれないぞ。
そもそも大きな都市にするときは大量の水がないと困るぞ。
関東平野が広大な湿地だったのに世界一の密集都市江戸が出来たようにな。 開拓には道具が必要。
纒向には建築土木に必要な鉄器が絶対的に不足している。 >>983
>ある程度湿地の方が、開拓して水田にしやすいだろ。
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 >>985
ところで阿波説ってネタなの?
たまに出てくるけど。 >>986
>ところで阿波説ってネタなの?
そんなにとぼけなくてもいいのに!
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 >>988
洪水はのりこえたのでしょ。
洪水あったからすべて成り立たないような発想はおかしい。
筑紫平野も大規模な洪水がある土地だが日本最大の古代都市。 >>989
>洪水はのりこえたのでしょ。
弥生時代の終わり頃にね。
>筑紫平野も大規模な洪水がある土地だが日本最大の古代都市。
「日本最大の古代都市」の痕跡がないのが痛々しい。 @阿波 博多の街は弥生時代から現在まで連続してるそうだから
洪水とか大した事なかったんでしょうね。 >>990
博多の地下に「日本最大の古代都市」の痕跡がある。 >>991
>博多の街は弥生時代から現在まで連続してるそうだから
倭国(阿波)から進出した、筑紫忌部の雑穀(アワ・キビ・ヒエなど)栽培技術によって、生き永らえたんですよ。 倭国(阿波)に向かって礼拝! @阿波 >>991
つい最近周辺で大洪水。
現在の治水であれだけの洪水。
過去もし右辺で繰り返してきたと考える。 博多遺跡や那珂遺跡なんか
弥生中期から平安時代まで積層して
ものすごいことになってる。 >>996
トロイアみたいな状態ってことじゃないかな。 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。