邪馬台国はどこにあったか初心者に説明するスレ3
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
前スレとは別の初心者です
もういらっしゃらないようなので立てました
当方、魏志倭人伝の現代語訳だけは読んだレベル也。
日本書紀は読んでない也。
お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)
投稿が分割するほど長いなら名前欄を使ってくれ。
できれば初心者がググらないでいいようにしてくれ。 (できればでいいです(前スレはググりながら読んでいました))
初心者が口を挟むとベテランの方同士が喧嘩になるようなので読むだけにします
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1484705598/ それよりもサルタヒコというスレだよ、
そのスレでも
「九州の話はしていません」と言ってる人がいたり >>862
>>>859
>つまり伊都国王は女王の配下だと書いてあるわけだが
そりゃ女王の都なんだから配下だろw >>863
>>>859
>行程を書いた引用文じゃないんだから
>行程は言い尽くされてることにならない
それは屁理屈 >>870
魏志倭人伝でも終着地は伊都国。
奴国と不弥国はおまけ。 >>878-879
罵っても反論にはならないよ
結論を言い張るだけなのは「論」じゃない
理由がないとね >>877
伊都国王が女王の配下なのに
どうして伊都国が女王の都なの?
伊都国が女王の都だという理由は? >>877
伊都国が壱岐や対馬の国と同様に
女王国の傘下であることをお忘れなく >>855
あのさ、文字の「成立ちや原義」と、その文字の「意味」は別だって理解できてるか?
ドヤ顔で出してきたのが、漢典の説文解字ってどうよ?
例えば、「伏」っていう字をここで調べると「司也。司者、臣司事於外者也。」って出てくるけど、伏せるという意味とは関係ないだろ?
そして、都という字の意味を中国語で調べると
副詞では、「すべて,いずれも,完全に.」
名詞では、「都,首都,都会,都市」
先王の廟がどうたらこうたらとか、「意味には関係ない」だろ
権威主義的に「えらい辞書にはこう書いてある(ドヤァ)」っていうのはほとんど解釈には意味がないぞ
実際、間違った方向に誤解してるし >>883
漢字の意味は各時代で変遷があるわけだね
説文解字には使用例もちゃんと出てるだろ
当時はそういう意味だったと言うことだよ >>883
たとえば、「都」を康熙字典でみると、さらに意味が増えてるのがわかるね 古代史“捏造のドン”井上光貞に全面降伏した“保守”なき日本 ──「津田左右吉+江上波夫+水野祐」+スターリン32年テーゼ=“古代史捏造のドン”井上光貞
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/11/151152
筑波大学名誉教授 中 川 八 洋
“狂人”水野祐のスーパー迷妄書『古代王朝史論序説』は、1952年の私家版として自費出版された(100部、謄写版)。
これを贈呈された井上光貞は「感激した」との礼状を返信している。
水野祐のスーパー狂気の嘘歴史は、次の三つからなる。
第一は、神武天皇から推古天皇までの33代のうち、実在したのは16代に過ぎない。初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの9代は津田左右吉に従い不在。
第11代・垂仁/第12代・景行天皇も不在。安康/清寧/顕宗/仁賢/武烈/宣化天皇の6代も不在。よって、
「33代−9代−2代−6代=16代」が実在した天皇だという。読者は嗤わずに、水野のさらに続く狂説に耳を傾けよ。
狂人の話を熟考・精査せずして、狂人を殲滅できない。
水野の第二。「仲哀天皇は、九州島に遠征の途次、戦死。これによって大和朝廷は瓦解。代わりに九州に「九州国家」が誕生。
これこそが、『魏志倭人伝』に言う(卑弥呼「邪馬台国」が苦戦を強いられた)「狗奴国」である。
そして、「狗奴国」とは、北方系騎馬狩猟民族の血を引く(高句麗の北に跋扈した)扶余と同族。
そして、この「狗奴国」すなわち「九州国」の首長こそが“外国人・仁徳天皇”で、首都を九州から摂津国の難波に遷都した。仁徳陵は、その名残である。
第三。上記の歴史は、天皇の諡号を分析するだけで充分に明らかである。
つまり、前代未聞の荒唐無稽な上記歴史を裏付け証明する文献史料や遺跡なんか何一つ要らない。天皇の諡号を解読すれば、
暗号を解読する如くに、上記の妄想歴史は“あら不思議や”白日の下に史実となる。
「“外国の侵略者”仁徳天皇の難波侵攻に摂津/河内/和泉/大和の古代の日本人は何一つ抵抗せず、
諸手を上げて歓迎した」ことは、言わずもながの自明の歴史だ!・・・・・。
これほどまでに精神病院に収監されるべき重患者・水野の狂説は、要するに、
「血統の連続が無い、統治機構の連続もない、戦争や侵略による二度の断絶&新支配からなる三王朝交替」説と言える。 >>884
>当時はそういう意味だったと言うことだよ
「当時」っていつだよww
象形文字的なものを、鹿の骨に書いていた時代のことを言ってもしょうがないだろうが
>説文解字には使用例もちゃんと出てるだろ
『說文解字注』は、注釈であって使用例とは違うだろ?
そこに書いてある漢文、ちゃんと読めてるのか? >>879
>魏志倭人伝でも終着地は伊都国。
>奴国と不弥国はおまけ。
牽強付会もここまで行くとすげぇな
魏志倭人伝では
奴国 有二萬餘戸
伊都国 有千餘戸
頼りにならない魏略でも
伊都国 戸万餘
どう見ても、北部九州の中心地は奴国だろう
その後、奴国の領域には筑紫国造が居るが、伊都国造はいない
末廬国にも末羅国造がいるのに、伊都国の国造はいない
伊都国の「都」の字にすがり過ぎ
「伊都国に卑弥呼がいた」説だと、「倭国の中の「伊都国の中に「邪馬台国」」」があることになる
これがおかしいと感じられないなら、魏志倭人伝を読んでもしょうがないと思うよ >>889
都をどう解釈しても平原遺跡が卑弥呼の墓となる不思議。 >>890
>どう見ても、北部九州の中心地は奴国だろう
経済的にはそうだよ。
だけどニューヨークとワシントンD.C.を見ればわかるように、首都かどうかは別問題。
律令制の時代には当然、伊都はただの田舎になっていただろうね。 >>890
>「伊都国に卑弥呼がいた」説だと、「倭国の中の「伊都国の中に「邪馬台国」」」があることになる
倭の訓読みがヤマトなんだよ。
だから倭人は倭のことをヤマト(九州北部のこと)と呼んでいた。
陳寿は倭と邪馬台(ヤマト)の関係を十分に理解することなく、とりあえずすべての情報を盛り込んで魏志を書いた。 >>889
>それで、邪馬台国はどこにあったのか?
漢典の読み方から、なんだか脈略がないけど、>>888でいいなら私が答えるが、
普通に考えて、邪馬台国=ヤマト国だろ?
後漢書にも其大倭王居邪馬臺國【案、今名邪摩堆、音之訛也】と書いてあるし、邪摩堆もヤマトと読める
何も問題ないじゃないか? 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 後漢書のヤマトは、楽浪帯方から一万二千里、狗邪韓国から五千里の倭奴国が中心だね。 倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。
3世紀の倭王は卑弥呼であった。
これですべて矛盾なくなる。 >>894
>経済的にはそうだよ。
>だけどニューヨークとワシントンD.C.を見ればわかるように、首都かどうかは別問題。
時代背景は無視ですか?
ワシントンDCとか、ブラジリアとか、キャンベラとか、経済首都と別の政治の都と作るなんていうのは、近代国家になってからだしそれもごく一部だよ
王権が発達していく過程で、王のいる王都以外が栄えている例があるなら教えてくれ
基本的に王の居るところに人が集まるから、そこが当然に経済的にも栄えるし、もし王の居ないところで栄えているところがあったら、王がそこを占領して居座るだろう
ワシントンDCの例が不適当だというのは分かってもらえたかな? >>900
>倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。
>3世紀の倭王は卑弥呼であった。
投馬国 五萬餘戸
邪馬壹國 七萬餘戸 はどう考えるの?
伊都国 千餘戸 と、どう考えても矛盾するだろうに >>888
困ったちゃんだねえw
説文解字は後漢成立の辞書なの
陳寿も使ってたのよ、たぶんな 後漢書の注記の部分、正しくは
其大倭王居邪馬臺國。[一]案:今名邪摩(惟)〔堆〕,音之訛也。
邪摩(惟)では音の訛にならないから、さらに邪摩〔堆〕に修正が入っているんだよ >>897
なぜ「その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」の部分は無視するの?
九州説に都合が悪いから? >>897
>倭奴国は倭国の極南界である。
これに関しては、後漢書が魏志倭人伝より成立があとなので、魏志倭人伝の
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、(中略)次有烏奴國、次有「奴國、此女王境界所盡」。
の最後の「奴国」と「後漢に朝貢した奴国=倭奴国」を混同して、しかも其戸數道里以下を、邪馬台国から順に南に次々に追っていったと考えて、最後の国=極南界とした、という説が説得力がある
これをもって、九州北部の奴国より南にはないというのは、誤読
さらに言えば、餘旁國最後の「奴国」は、他に多くの「○奴国」が多い(彌奴國、姐奴國、蘇奴國、華奴蘇奴國、鬼奴國、烏奴國)ことから、一文字脱字があるのではないかと想定する人も多い >>900
>倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。
倭(ヤマト)は「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座まします四国の「阿波」であった。
九州北部に倭(ヤマト)と名の付く物は一切存在しない。 @阿波 >>903
>説文解字は後漢成立の辞書なの
まあ、私も「漢字自体」について詳しい訳ではないから、ちょっとウィキペディアさんの文章を借りるけど、
「また「自」については「鼻也。象鼻形。」とのみあり、「自」の通常の意味である「自分・自然・……から」などの意味は全く載っていない。しかし文字の起源を考える上では重要な情報をもたらしてくれることもある。」
これが>>883で私が言ったことそのままだろ?
この「説文解字」という字典で分かることは、「文字の起源を考える上での重要な情報」であって、「通常の意味は全く載っていない」場合もあるんだから、この辞書に載っているから「都の意味はこうなんだー」って言ってたらおかしなことになるよってこと
実際、おかしなこと(伊都国の「都」は先王の墓がある場所)になってるでしょ? >>833
日本ではもともとヤマト国とは連合国の意味で使われていたと認識しているが、違うのか?
素直にそれの当て字が邪馬台国でいいのでは? >>895
>倭の訓読みがヤマトなんだよ。
記紀では、というか古事記ではそうなっているけど(日本書紀では日本をヤマトと読ませている)、大陸の史書を読む限り、倭国とヤマトの紛れはないと思うよ
どの史書を見ても、「倭王の都」をヤマト(邪馬臺、邪摩堆など)としていて、倭(国)をヤマトとしているところはない
訓読みという、日本国内の事情は、大陸史書の編纂には関係ないんじゃないかな >>901
>基本的に王の居るところに人が集まるから、そこが当然に経済的にも栄えるし、もし王の居ないところで栄えているところがあったら、王がそこを占領して居座るだろう
もともと奴国の側に王がいたけれど、混みすぎたんだろう。
そこである時、人心の一新のために王都はすぐ近くの伊都国側に移動したんだよ。
よくある話だよね。 >>909
>日本ではもともとヤマト国とは連合国の意味で使われていたと認識している
連合国の意味で使われていることを端的に示す例を、挙げてくれるかな?
私は、本来的には大和朝廷の「本拠地の地名」がヤマトであって、より広い意味で使うこともある、くらいだと思うが? >>902
投馬国(宮崎)は邪馬台国(福岡)と併記してあるから、邪馬台国の人口には含まないよ。
そして、伊都国は邪馬台国(福岡)の一部だよ。
陳寿がどこまで理解していたかはわからないが、我々日本人なら理解できる。 >>905
畿内説の方がもっと都合が悪いんじゃない? >>900
>倭(ヤマト)は倭奴国(伊都国)を都とする九州北部の国であった。
倭(ヤマト)は「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座まします四国の「阿波」であった。
九州北部に倭(ヤマト)と名の付く物は一切存在しない。 @阿波 >>911
>もともと奴国の側に王がいたけれど、混みすぎたんだろう。
>そこである時、人心の一新のために王都はすぐ近くの伊都国側に移動したんだよ。
>よくある話だよね。
よくある話ではないね
人心一新の必要性もないし
ある時っていつ?
何をもって、「混みすぎた」とか判断しているのかな?
すべて「根拠」なく、>>911の頭の中で考えたことだろ?
そういうのは「妄想」っていうんだよ 再掲
大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる
その状態で、九州に邪馬台国を持ってくるには
1.古墳時代の開始を4世紀と言い張って、邪馬台国が畿内に移動したと主張する(東遷説)
2.あくまで九州政権と畿内政権は別だと主張する(九州王朝説)
の二つしかない
ということで、九州説の人は以下の問いに答えてくれるとうれしい
・東遷説を採るのか採らないのか?
・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
・九州王朝の存在を主張するのか?
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか? どうやらここには、倭の五王の時代にも存続している九州王朝説の人がいるみたいだけど、他の人はどう考えているのかな? >>906
>これをもって、九州北部の奴国より南にはないというのは、誤読
それはあなたの勝手な推測。
おそらく、後漢の頃は博多湾までだった倭国が、倭国大乱を経て筑後、肥前まで含むようになったのだろう。 >>908
>実際、おかしなこと(伊都国の「都」は先王の墓がある場所)になってるでしょ?
先王の墓、三雲南小路遺跡などがあるのも事実なので、あながち否定できない。 >>917
>大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、
大和朝廷は8世紀の持統朝から。 古墳時代の日本の中心は倭国(阿波)。
>古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる
その邪馬台国は、倭国(阿波)の一部。 @阿波 >>833
投馬国は連合国ではなく、単一の大きな国みたい。 >>916
>ある時っていつ?
>何をもって、「混みすぎた」とか判断しているのかな?
福岡平野に2万戸はかなり手狭だろう。
ある時とは、奴国に王墓が作られなくなり、伊都国に王墓が作られるようになった、1世紀くらいかな。 >>917
>・東遷説を採るのか採らないのか?
取らない。
>・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
神武は東遷ではなく東征。
>・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
邪馬台国は福岡、神武は福岡から奈良に東征した。
>・九州王朝の存在を主張するのか?
旧唐書にあるとおり、白村江の頃までは倭とあれば福岡。
>・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?
もともと大和王朝の王だという証拠がない。 >>924
>旧唐書にあるとおり、白村江の頃までは倭とあれば福岡。
倭(ヤマト)は「倭大國魂神社」が日本で唯一鎮座まします四国の「阿波」であった。
九州北部に倭(ヤマト)と名の付く物は一切存在しない。 @阿波 >>919
>それはあなたの勝手な推測。
>おそらく、後漢の頃は博多湾までだった倭国が、倭国大乱を経て筑後、肥前まで含むようになったのだろう。
その前に魏志倭人伝の「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」を全無視しないと九州説は成り立たないのですがそれは?
これを全行程と見るというのは、中国語としてありえないし、大陸史書の地理・旅程記事にも途中から全行程を示す例はないよ
総距離が示されている新唐書の例を挙げておくと
安南經交趾太平,百餘里至峯州。
又經南田,百三十里至恩樓縣,乃水行四十里至忠城州。
又二百里至多利州,又三百里至朱貴州,又四百里至丹棠州,皆生獠也。
又四百五十里至古湧步,水路距安南凡千五百五十里。
紛れはないでしょ?
魏志倭人伝の「南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」は普通に連続的に逐次行程が書いてあるだけでしょ? >>908
>実際、おかしなこと(伊都国の「都」は先王の墓がある場所)になってるでしょ?
何がおかしいの?
卑弥呼の生まれ故郷が邪馬台国なんでしょ
邪馬台国王だった卑弥呼が共立されて倭王となった。
倭王となってからは先進地伊都国に駐在していた。
何もおかしくないわな >>926
>通常の意味って何だよという話
普通に、辞書を引けば出てくるだろ?
https://cjjc.weblio.jp/content/%E9%83%BD
都
ピンインdū ⇒ [異読音] dōu
1付属形態素 都,首都.⇒建都 jiàn//dū ,首都 shǒudū .
2付属形態素 都会,都市.
3((清末から中華人民共和国成立以前のいわゆる旧社会の言葉)) 名詞 県と郷の中間に設けた行政機関.
4((音訳語))
用例
都柏林 Dūbólín=ダブリン.
5( Dū )((姓に用いる)) >>922
そうかな?
考古学で3世紀前半に奴国の2倍以上もある集落なんてなさそうなんだよなぁ
勝手な推測だけど、投馬国は、中国側で倭国内の大国と認識している地域=中国や半島と昔から多少なりと行き来がある国と思われるので、日本海側の出雲を中心とした勢力と考えている
投馬国に関しては情報が少ないからどうしようもないが、不和ではなさそうだ >>928
>何がおかしいの?
いろいろと、>>928の書き込みだけでもおかしい
>卑弥呼の生まれ故郷が邪馬台国なんでしょ
これは否定できないな 断定も難しいけど
>邪馬台国王だった卑弥呼が共立されて倭王となった。
邪馬台国王だったとは書いてないが、共立されて倭王となったのは事実だろう
邪馬台国は「女王の都するところ」
>倭王となってからは先進地伊都国に駐在していた。
駐在はおかしい 倭王になってからは侍女千人の宮殿奥深く人にもほとんど合わずにすごしていると書かれている
駐在というなら、生地の邪馬台国を離れていることになるがいいのか?
以前の書き込みでは「先王の廟があるところが都」であって先進地ではないだろ?
それに、奴国が手狭になって経済首都を捨てて移ったって言ってなかったか?
魏志倭人伝に従うなら千余戸しかない
卑弥呼の侍女だけで千人いるのに(これは誇張だろうけれど)
>何もおかしくないわな
いろいろおかしいだろ? >>931
さらに言えば、伊都国=邪馬台国という主張じゃなかったのか?
その上で、「邪馬台国王だった卑弥呼」が「倭王になったから」、「伊都国(=邪馬台国)に駐在」って?
もう、ほとんどポルナレフ状態だわ >>922
>投馬国は連合国ではなく、単一の大きな国みたい。
それはそれとして、投馬国は九州説ではどこに比定するの? >>927
>魏志倭人伝の「南至投馬國水行二十日 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」は普通に連続的に逐次行程が書いてあるだけでしょ?
その前でいったん切れているじゃないか。 >>928
生まれはわからないけれど、都のじぎからは葬ったところが邪馬台国かな? >>931
なんだか
伊都国は千余戸
卑弥呼の侍女だけで千人
この記述は関係がありそうだ、と感じるのは自分だけかな? >>924
返答ありがとう
>>924はがちがちの九州王朝説なんだね?
では、その九州王朝は、古墳時代をどう過ごしたの?
最終的に、その九州王朝はどうなったの?
>もともと大和王朝の王だという証拠がない。
傍証はいくらでもあるよ
そして、九州王朝があったという「証拠がない」
ということで、
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?
これには真摯に答えてね
これに答えられないなら、論証できないただの妄想にしかならないよ >>930
>考古学で3世紀前半に奴国の2倍以上もある集落なんてなさそうなんだよなぁ
邪馬台国が福岡県全体なら、それと併記されている投馬国が宮崎県全体でいいのでは?
この二つは単一の集落ではないのだろう。 >>931
> 以前の書き込みでは「先王の廟があるところが都」であって先進地ではないだろ?
> それに、奴国が手狭になって経済首都を捨てて移ったって言ってなかったか?
伊都国には歴代の王墓があるから問題ない。
> 魏志倭人伝に従うなら千余戸しかない
> 卑弥呼の侍女だけで千人いるのに(これは誇張だろうけれど)
ぴったり。
伊都国に住んでいたのは王宮の関係者だけ。
セキュリティ的には理想的。 >>932
>その上で、「邪馬台国王だった卑弥呼」が「倭王になったから」、「伊都国(=邪馬台国)に駐在」って?
いろんな人の発言をつなぐなよ。
私は、肥国から共立により筑紫倭国の女王に共立されたと思う。 >>937
九州説を相手にしても無駄ですよ。 もっとも、相手に出来るのは妄想同レベルの九州説何でしょうが。 @阿波 >>933
投馬国は宮崎県都万。
5万戸を養える。 >>937
>最終的に、その九州王朝はどうなったの?
白村江で負けて滅んだ。
>そして、九州王朝があったという「証拠がない」
旧唐書までの全ての大陸側の史書が証拠。
考古学的にも、古墳時代を通じて彩色古墳や沖ノ島の祭祀など独自の文化を維持していた。
>・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?
そもそも倭の五王が、大和と、関係することが証明されていない。
反証としては、畿内説側の主張と系図が一致しない。 >>934
>その前でいったん切れているじゃないか。
始度一海 千餘里 至對海國
又南渡一海 千餘里(名曰瀚海) 至一大國
又渡一海 千餘里 至末盧國
東南陸行 五百里 到伊都國
東南 至奴國 百里
東行 至不彌國 百里
南 至投馬國 水行二十日
南 至邪馬壹國(女王之所都) 水行十日陸行一月
こうやって並べてみると、いろいろと変化を付けながら、逐次式に書いているのがよく分かるよね
特に切れ目はないだろ? >>938
宮崎でも悪かないが、弥生時代の考古学的に勢力としてはちょっと弱いと感じる >>944
う〜ん、
奴国から表現が変わってるし、投馬国からは急に日程記述になってるよ?
後、投馬国から戸数が「有」から「可」にも変わってるね
"変化"には何らかの理由があるはずです >>929
現代中国語の辞書を引いてもしょうがない
せめて康熙字典を引こうよ >>949
で、その辞書引いたら、邪馬台国はどこになる? >>931
何がおかしいの?
邪馬台国=(邪馬台国の)先王の廟があるところ
伊都国=首都
でしょ >>943
>白村江で負けて滅んだ。
白村江の戦いで捕虜にされた薩夜麻が九州倭国の天子だったと主張するのですか?
>旧唐書までの全ての大陸側の史書が証拠。
隋書の時点で、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて
遣隋使とその答礼使の裴世清も隋書にあり、日本書紀の舒明紀とも対応が取れているのですが、それは?
成立年は 隋書が656年、旧唐書が945年で、300年近い差があるんですが?
>考古学的にも、古墳時代を通じて彩色古墳や沖ノ島の祭祀など独自の文化を維持していた。
彩色古墳は九州独自の文化ですが、古墳そのものが全国で定型化され築造されているものです
その意味で、他地域から独立した勢力というのは無理があります
そして、全国で定型化された古墳秩序の中では、どの時代でも最大の古墳は畿内に造営されており、九州では岩戸山古墳、男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳くらいしか、大古墳はありません
まあ、国造レベルはそれなりに自立性がありますが、独自王朝と呼べるほどの独立性はないでしょう
沖ノ島の祭祀は、その供献された遺物に古墳の副葬品との共通性が見られ、三角縁神獣鏡などの銅鏡も見つかっています
三角縁神獣鏡は、代表的な大和朝廷の勢力圏を示す遺物であり、沖ノ島祭祀も大和朝廷の影響下にあったことは確実視されています
>そもそも倭の五王が、大和と、関係することが証明されていない。
古代史に「完璧な証明」は無理ですよ タイムマシンでもない限りは
証明できていないこと=ないことにはなりません
そして、傍証としては「倭王武=雄略天皇」が鉄板の定説になるくらいてんこ盛りですし、記紀の記述から五王の遣使を読み取れると考察している人もたくさんいます
>反証としては、畿内説側の主張と系図が一致しない。
これも以前に書きましたが、履中天皇が朝貢をしていないと考えれば、特に問題はありません
後半の済=允恭天皇、興=安康天皇or木梨軽皇子、武=雄略天皇の部分は完全に一致していますし、何も問題はありません
邪馬台国九州説で九州王朝説をとると、結局、倭国王薩夜麻までいかないと整合性が取れないし、そうなると遣隋使などがどうやっても説明できなくなります
つまり、九州王朝説は無理だし、九州王朝説に依拠した邪馬台国九州説も無理なんですよ >>947
帯方郡から水行20日ですから投馬國は朝鮮半島の南岸でしょ。
>>948
「有」は確定した数字で、「可」は推測した数字だな。
投馬國や邪馬壹國の戸数は実数ではなく推測値ですね。 >>940
>私は、肥国から共立により筑紫倭国の女王に共立されたと思う。
肥国といっても広いんですが、どこから共立されたんですか?
肥国に邪馬台国があるんですか?
それとも筑紫倭国に邪馬台国があるんですか?
肥国に7万戸の都に当たる遺跡はありますか?
筑紫倭国のどこを7万戸の都に当てるんですか? >>953
九州説を相手にしても無駄ですよ。 もっとも、相手に出来るのは妄想同レベルの九州説何でしょうが。 @阿波 >>943
>白村江で負けて滅んだ
白村江以後も九州王朝は700年までは存続していた。
>>953
日本書紀には遣唐使の記録はあるが遣隋使の記録はない
遣隋使は九州王朝が送ったものだよ。 >>905
>なぜ「その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」の部分は無視するの?
「会稽東治」「朱崖」「儋耳」は何処にあると思っているの?
「会稽東治」:浙江省 寧波市・舟山群島
会稽の東部にある治政地
「朱崖」:福建省 寧徳市 霞浦県 赤岸村・古嶺下村
空海が上陸した海岸
「儋耳」:福建省 寧徳市 霞浦県 東沖半島
古閩(ビン)南語の地域(福建省沿岸部・海南島・中国南岸部にあった古言語地域) >>949
>現代中国語の辞書を引いてもしょうがない
>せめて康熙字典を引こうよ
いや、ものすごく上から目線というかドヤ顔で書いてくれてるけどさ、書いてる内容を見ると本当にこの人分かってるんだろうかと思うんだけど
康熙字典って、>>855(同じ人だろ)の教えてくれたhttp://www.zdic.net/z/26/sw/90FD.htmですぐに見られるから、こっちも確認はしてるけど、
考證:〔《左傳·隱元年》大都不過參國之一。《註》凡邑有先君之廟曰都,無曰邑。〕 謹按所引註是莊二十八年左傳,非隱元年註,今照左傳原文改莊二十八年凡邑,有宗廟先君之主曰都。
と、同じことが書いてあるだけだよ
そして、「考證:〔《左傳·隱元年》」と書いてあるところから、まさに私が最初に>>848で「「曰う」が付いているところを見ると、どこかの註記か何かじゃないかな? 」と書いた通りじゃないか
「邑有先君之廟曰都」って言うのは、「左傳(春秋左氏伝)という注釈書にはそう書いてあった」ってだけだよ
春秋(四書五経の一つ)のある場所での「都」は、「邑有先君之廟曰都」という意味である、と「左傳(春秋左氏伝)という注釈書にはそう書いてあった」って、「康熙字典」にも「説文解字」にも書いてあるだけ
今問題にしているのは「春秋」じゃないんだから、「邑有先君之廟曰都」にこだわるのは無意味!!
QED >>953
>白村江の戦いで捕虜にされた薩夜麻が九州倭国の天子だったと主張するのですか?
筑紫の君が倭国の代表でしょうね。
>隋書の時点で、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて
>成立年は 隋書が656年、旧唐書が945年で、300年近い差があるんですが?
隋書の時点ではまだ筑紫をヤマトと呼んでいたのでしょう。
畿内の律令制が整うのは701年ですから。
>まあ、国造レベルはそれなりに自立性がありますが、独自王朝と呼べるほどの独立性はないでしょう
まったく別の国というわけではありませんからね。
朝鮮半島が南方統一されたら、どちらかの国は歴史的に無かったことにされるでしょうね。
>三角縁神獣鏡は、代表的な大和朝廷の勢力圏を示す遺物であり、沖ノ島祭祀も大和朝廷の影響下にあったことは確実視されています
畿内政権もアマテラスの子孫だから、祖先の祭祀には参加したでしょうね。
>これも以前に書きましたが、履中天皇が朝貢をしていないと考えれば、特に問題はありません
そもそも代替わりごとに宗主国の承認を得ることが通例です。
仮に一代飛ばしても、親子関係が変わるわけはない。 >>874
無布帛 以草為衣 盖 伊耶國
訳
布綿無く、革を以て衣と為す。けだし伊耶國
草ではイミフになる。革の誤字だろうと
するのが通説。
また伊耶國、伊那國、伊邪國の3通りにも字が違っているが
どれも同じ伊邪国だろう。 >>958
>肥国といっても広いんですが、どこから共立されたんですか?
これは不明。
現在の筑後かもしれないし。
(本来の筑紫は筑前だけ)
>肥国に邪馬台国があるんですか?
邪馬台国は筑紫の方。
肥国は後から邪馬台国(倭国)に含まれた。
後漢書との比較からは、おそらく倭国大乱で。
逆に、倭国大乱の首謀者の一部が肥国だった可能性もある。
>それとも筑紫倭国に邪馬台国があるんですか?
>筑紫倭国のどこを7万戸の都に当てるんですか?
倭の訓読みがヤマト。
7万戸は奴国を含む倭全体。
ただし投馬国はヤマトに含まれない。 >>849
ごもっともである。>>849の意見に同意 >>967
>草ではイミフになる。革の誤字だろうと
>するのが通説。
通説は疑え。
ロクなものがない。
牛馬がいないのに、どんな革で服を作るのか。
藁蓑でも来ていたんだろう。 >>960
>日本書紀には遣唐使の記録はあるが遣隋使の記録はない
>遣隋使は九州王朝が送ったものだよ。
日本書紀の遣隋使の記録
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世C・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世C等。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。
於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」
於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。
時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。
大唐と書いてあるけれど、これは遣隋使のこと
隋書の「明年,上遣文林郎裴清 使於倭國。」の文林郎「裴清」と、日本書紀の「大唐客裴世C」の「裴世C」が同じ人物だって確認できるだろ?
九州王朝説を唱えた九州説の旗頭の一人、古田武彦氏は最初は>>960と同じように「九州王朝の遣隋使」を主張していたけれど、最後は諦めて九州王朝説を否定したよ
その結果、古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている >>971
>その結果、古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている
じゃああなたは古田派になればいい。 >>971
>大唐と書いてあるけれど、これは遣隋使のこと
何で隋と書かずに唐なんて書いたんだw
この記事自体が他所の文献からの盗用なんだよ。
>古田武彦氏と古田史学の会は喧嘩別れしている
何処からの情報だよwww >>966
>隋書の時点ではまだ筑紫をヤマトと呼んでいたのでしょう。
隋書には、裴世Cの倭国訪問記録があります
明年,上遣文林郎裴清 使於倭國。度百濟,行至竹島,南望𨈭羅國,經都斯麻國,迥在大海中。
又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以為夷洲,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。
自竹斯國以東,皆附庸於倭。倭王遣小コ阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。
「自竹斯國以東,皆附庸於倭。」竹斯國より以東は、皆な倭に附庸す。
筑紫=竹斯と倭(大和朝廷)は、区別されていますね?
そして倭王の遣わした「小コ」は日本書紀に記されている冠位十二階の一つです
「九州王朝の遣隋使」は、どうあがいても無理なんですよ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。