司馬遼太郎 Part12
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前スレ
司馬遼太郎 Part11
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1513665828/ >>380
>死骸を暴き出し、あらためて磔刑にした
ここまでして両派が憎しみ合うというのは、現代人の我々には理解できないところだな。 憎しみというよりは、反対派への見せしめの意義が大きいんじゃないかな。 >>379
物語の現在が、明治6年8月〜9月だから、明治5年1月に渡欧して明治6年7月に帰国していれば、高崎は日本にいるんじゃないかな。1年7か月でも「2年近く」といってよいのではないかな? 明治5年1月に渡欧したというのがそもそも仮定にすぎないし、7か月は1年よりも半年に近い。
高崎は日本にいない。 死んでいるはずの山内容堂が登場するんだから、外国にいるはずの高崎が東京にいても驚いてはいけない。 ★下谷竜泉寺町
▽川路の自宅〔>>11〕
過労が積もるせいか、週に一度はかならず軽い熱が出る。そんな日は彼は役所へ出ず、縁側で終日寝そべった。写生をした。 高崎正風の現在の身分は、税法課出仕であると司馬さんは書かれている。
なお、高崎正風は明治6年9月7日に帰国して東京にいるよ。
司馬遼太郎の史料踏査能力を侮ってはいけないよ。 ウソつきなので>>376、>>379、>>388および>>389の四名に遠島を申し付ける。
明治五年任申正月十九日 為理事官欧米各国ヘ被差遺族旨被仰付置候処被免候事 左院 各国視察被仰付候事
十月八日 職制更定 廃官
十月八日 任三等議官
明治六年九月七日 帰朝 >>391
しかし、高崎左太郎の税法課出仕は明治6年10月3日からだから、これは少し先走っているな。
十月三日 税法課被仰付仰事 事務総裁 >>388
明治5年1月19日に渡欧を仰せ付かっているよ〔>>392〕。 山内容堂の死亡日は間違っていないんだろうな。
なんちゃらペディアで調べたから不安になってきた。 「高崎は明治五年から一年間欧米各国を巡視してこのほど帰ってきたのである」と『翔ぶが如く』にちゃんと書いてあるだろう。 容堂公の命日の話をしてんのよ( ゚д゚)ポカーン 容堂公の命日は明治5年6月21日で間違いない。
『翔ぶが如く』で木戸孝允の帰国後(明治6年)、深川の「平清」に木戸を招待して酒を酌み交わしたのは、容堂公の幽霊。
前スレ〔708-709〕参照。 ▽明治5年1月26日
積雪が横浜の町を白くしている日に、高崎左太郎はフランス汽船に乗船し、欧州へむかった。
シンガポールで乗客が増えると、高崎らは一等船室から二等船室に移された。
そういう時期に、高崎は浴衣で上甲板にのぼり、浴衣のすそをあげ手足の運動をした。
その背後に英国人の乗客が近づき、高崎の肛門に勃起したペニスを挿入しようとした。
高崎は激怒して、生麦事件の再現をしようとしたが、手許に刀がなかったために、拳でその英国人を殴り倒した。 ▽八月十八日の政変
文久3年8月18日(1863年)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した事件である。
天誅組の変:政変の前日、土佐浪士の吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵するも、政変による情勢の一変を受け、9月末に壊滅した。 生野の変:また、10月には平野国臣や河上弥一らが七卿落ちの公家の一人澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵したが、諸藩に包囲され澤らは逃亡、河上らは集めた農兵に逆に殺害されるなど無残な敗北に至った。
10月、島津久光が大兵を率いて入京、松平慶永・山内豊信ら公武合体派大名がこれに続き、翌文久4年1月にかけて久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立した。このころ朝廷内においては鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕的な二条斉敬がこれに代わった。 ▽ラテン民族
ロマンス民族ともいう。印欧語族ロマンス語派の言語を母語とする民族の総称。ヨーロッパにおいてはイタリア人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人、ルーマニア人などが含まれる。また中南米においてスペイン語、ポルトガル語を母語とする民族を含む。 >>392
文中に日付がしきりに出てくるときは、日記・公文書等の史料が基礎にあるからな。
こいつら四名は甘いよ。 >>387
「2年近く」はなんちゃらペディアが勝手に言っていること。裏を取るまでなんちゃらペディアは信用してはならん。
検索するといつもトップにあるから、つい見てしまうのだろうが。 >>383
物語のなかの悲惨な境遇の人物には、たっぷりな同情を注ぐのにな。
現実世界の悲惨な境遇の人物に対しては、なるべく俺の目の届かないところにいてくれと思っている。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
IY391 第10章 風雨
〔一〕大久保利通
大久保は、なお遊歴の旅にある。
――いま東京へ帰れば、西郷とその徒党の火焔のなかに飛び込むようなものだ。
という気持ちがあった。
この日本史上稀代ともいうべき政治的天才は、政治現象というものは時間という触媒によって化学変化をおこすものだということをよく知っていた。
(待つことだ)
と、みずからに言いきかせている。 大久保の旅行は、明治6年8月16日から9月21日まで。
箱根、富士登山、近江、大和、紀伊、有馬など。 ★堺県
▽堺県
和泉国の旧幕府領・旗本領を管轄するために設置された県。明治元年6月22日に大阪府から堺役所を分割して堺県が発足した。
のちに和泉国、河内国、大和国のそれぞれ全域を管轄した。しかし、明治14年に堺県は大阪府へ編入されて廃止となった。
第2代知事には税所篤が就任し、明治4年に堺県令となった。
http://www.maru21.com/gifani/sakaisi/sakaiken.gif ▽税所篤
文政10年(1827年)- 明治43年(1910)
薩摩藩士・税所篤倫の次男として生まれる。精忠組の創設メンバーとして、西郷隆盛や大久保利通らと行動を共にする。幕府が長崎海軍伝習所をつくると、斉彬は薩摩藩から十数名の藩士を選抜して派遣しているが、税所もその内の一人に選ばれている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/Saisho_Atsushi.jpg/200px-Saisho_Atsushi.jpg 安政5年(1858年)11月、西郷隆盛が僧月照と共に鹿児島湾に入水した際、蘇生した西郷が意識を取り戻すまで、枕頭にて看病を行う。蛤御門の変では3発の銃弾を浴びる重傷を負いながらも、長州藩の国司信濃の部隊を退却させるなど武功をあげた。
第一次長州征伐、鳥羽伏見の戦いにおいても、西郷の片腕として活躍している。 かつて大阪では最も身近な海水浴場だった。今もその名残は十分に残っているのだが、昭和30年代に埋立て人工島が造成され、白砂青松の海岸はコンクリート護岸になると同時に、浜寺水路を挟んで対岸の人工島にコンビナートが横たわる光景となった。
http://osaka-salon.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/06/09/007.jpg ▽士族授産
明治新政府が旧武士層の生活救済のために行なった施策。
明治4年の廃藩置県以後、新政府では士族の俸禄を永続的に支給できないため、明治9年に秩禄処分が行われたが、政府はその経済的没落を黙視することができず、農業あるいは商業の道につかせようと種々の保護を与えた。
明治6年の官林荒蕪地払下規則をはじめ、屯田兵の奨励、起業公債発行条例などがその例である。 高師の浜は、官林荒蕪地払下規則によって士族に払い下げられたのだろう。
士族たちは松を薪にして売って糊口をしのいだ。
「明治維新というのは、千年の名勝を荒らすだけのことなのか」
と、大久保を暗然たる気分にさせた。 ▽桂園派
江戸時代後期から明治にかけての和歌の一流派。香川景樹とその門流をいう。「調べの説」を主張し、古今風の歌風を尊重した。
明治になって、八田知紀が後進の高崎正風〔>>376〕とともに御歌所に用いられたことから、一時は歌壇の主流となった。
>>418の大久保の和歌も、桂園派らしい典雅な調べである。 ▽税所本然
税所篤の父・税所篤倫の号。大久保利通の父・大久保次右衛門利世(号は子老)は、禅を通じて税所本然と親友であった。
税所本然は国学に熱中し、鹿児島城下で国学先生とあだ名されていた。その影響は、大久保父子、息子の税所篤にも及んでいる。 ▽陸軍特別大演習
第一回の陸軍大演習は、清国との戦争を想定したもので、明治25年に宇都宮を中心とした地域で実施された。
第二回目の大演習は、明治31年に大阪地方で行われた。三回目は明治34年、仙台地方で実施された。それ以降は、日露両国間の軍事的緊張を背景に、毎年実施されるようになった。大正から昭和11年までは一年も欠かすことなく実施された。 ▽八田知紀
寛政11年(1799)- 明治6年
幕末・維新の鹿児島藩士・歌人。幼名は彦太郎、通称は喜左衛門、号は桃岡 (とうこう)。
島津貞姫入輿に従って近衛家に仕え、京都詰めの間に香川景樹にまなび、桂園派の有力者となる〔>>419〕。維新後、宮内省にはいり、歌道御用掛をつとめた。明治6年9月2日死去。75歳。
http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/wp-content/themes/honkan/img/shiryo/059/3.jpg ★大久保邸
▽島津久光
明治6年3月、勅使・勝安芳および西四辻公業が鹿児島に下向し、その要請に応じて上京する。4月23日東京着。
明治7年2月、佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷する(2月14日東京発、20日鹿児島着)。4月、勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京する(4月15日鹿児島発、21日東京着)。
同月27日に左大臣となり、5月23日には旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除される。 久光は大名行列そのままの行装で東京の街路を練り歩いた。
守旧派も、ここまでやるとみっともない。 第10章 風雨
〔二〕伊藤博文
情報収集者である川路利良は、この時期、重大な人物を見おとしていた。
その人物が、いま激化しつつある征韓派と非征韓派の対立のなかにあって後者を支持し、芝居でいえば奈落で舞台をまわす陰の力業をしようとは。
「これがために西郷を没落せしめるのもやむをえない」
と、その人物は大隈重信とひそかに語らって策を練り、岩倉・木戸・大久保といった要人のあいだを奔走して彼らの力を一つにさせて征韓派に対抗しようとしていたのである。
長州人伊藤博文であった。 ▽伊藤博文
天保12年(1841年)- 明治42年。
幼名は利助、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。
周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵の長男として生まれる。弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母と共に母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。 ▽来原良蔵
文政12年(1829年)- 文久2年(1862年)
長門国阿武郡で、福原光茂の子として生まれる。天保12年(1841年)に藩校である明倫館に入った。翌年末に母方の伯父である大組・来原良左衛門盛郷の養子となった。
安政3年(1856年)10月には、桂小五郎の妹ハルを妻とした。つまり来原は木戸の義弟にあたる。この関係で、木戸は伊藤を来原の手付にした。 安政5年(1858年)12月には長崎海軍伝習に加わり、翌年6月に戻った。
安政6年(1859年)9月、明倫館助教兼兵学科総督に就任する。山田亦介らと旧態依然とした長州藩の軍制改革を行い、軍制規則制定、教練の実行等、長州藩兵の近代化と強化に非常に大きな功績を挙げる。 母方の従兄弟で「航海遠略策」を唱える開国派の重臣長井雅楽時庸を除くため久坂玄瑞らと奔走した。この長井雅楽暗殺未遂事件の際に責任を取って自害をしたいと申し出たが、それを拒否されている。
死地を求めた良蔵は文久2年(1862年)8月に江戸へ上り、横浜の外国公使館襲撃を企てるも失敗、毛利定弘に諌められ、長州藩江戸藩邸にて自害した。 ▽手付
手付御雇は、武家の従者。
「翔ぶが如く」では、伊藤俊輔は来原良蔵の手付とされているが、他の司馬作品では桂小五郎の「育み」とされていることもある。
面倒なので、調べない。 ▼育み
育み (はぐくみ) は、家柄などに関係なく、他家の優秀な子などを自分の養子にすることで、立身出世への道を拓く長州藩独特の制度。
幕末には時局対応の目的から、優秀な人材登用策としても用いられた。 足軽中間の身分だった伊藤利助が、 大組士・米原良蔵の「育み」となり、歴史の表舞台で活躍した例が有名である。 長州藩が接待に使う豆腐代の多額なことに驚いていた利助が……、と木戸さんのいつもの愚痴が続きます。 「竜馬がゆく」の溌溂とした木戸さんは、どこへ行っちゃったんでしょうね? ▽工部大輔
明治3年閏10月、太政官は工部省の設置を決定したが、その部局組織化には10ヶ月を要した。明治4年8月になり、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台、製作、工学、勧工、土木の10寮と測量の1司が配置され、造家、工学、測量を除くと、他は民部省からの移管であった。
この設立には伊藤博文が尽力し、彼が実質的初代工部卿を勤めた。明治6年当時、工部卿は空席で、伊藤博文は工部大輔。 ▽工部卿
(当初空席)
伊藤博文(1873年 - 1878年)
井上馨(1878年 - 1879年)
山田顕義(1879年 - 1880年)
山尾庸三(1880年 - 1881年)
佐々木高行(1881年 - 1885年) ▽工部大輔
後藤象二郎(1871年)
伊藤博文(1871年 - 1873年)←今ここ
山尾庸三(1872年 - 1880年)
吉井友実(1880年 - 1882年)
井上勝(1882年 - 1886年) ▽牧野伸顕
文久元年 - 昭和24年
鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の次男として生れた。幼名は伸熊。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
明治4年、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年に帰国し開成学校に入学する。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/16/92/a0287992_1445516.jpg ちなみに、>>439の麻生和子は、麻生太郎のおふくろさん。
もう少し詳しく書いておくか。
牧野伸顕の妻は、三島通庸〔>>158・>>240・>>242〕の娘・峰子。その長女が牧野雪子で、この人が吉田茂夫人。
吉田茂と雪子の娘が和子で、この人が麻生太賀吉夫人。麻生太賀吉と和子の子が元総理大臣麻生太郎。 、z=ニ三三ニヽ、
,,{{彡ニ三ニ三ニミヽ
}仆ソ'`´''ーー'''""`ヾミi
lミ{ ニ == 二 lミ|
. {ミ| , =、、 ,.=-、 ljハ
{t! ィ・= r・=, !3l
`!、 , イ_ _ヘ l‐'
Y { r=、__ ` j ハ─ わかったか?
r‐、 /)へ、`ニニ´ .イ /ヽ
} i/ //) `ー‐´‐rく |ヽ
l / / /〉、_\_ト、」ヽ!
/| ' /) | \ | \ 牧野伸顕が岩倉遣欧使節団とともに渡米したときは10歳で、このとき横浜港で伊藤博文を見た印象が、
――なんと貧相な人物か。
でありました。 伊藤の帰国は、明治6年9月13日。
伊藤は即座に征韓論つぶしの活動を始めた。 ★築地
▽築地本願寺
江戸の本願寺は、1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町に建立されていた。「浜町御坊」と呼ばれていた。
しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。
そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、1679年に再建された。「築地御坊」と呼ばれる。なお、この埋め立て工事が地名「築地」の由来である。 >>445の築地御坊が、この物語に登場する築地本願寺である。
http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/images/d2_1304390_SIP.jpg
この本願寺は、関東大震災では地震による倒壊は免れた。しかし、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失する。
現在の本堂は昭和9年の竣工である。あまりにグロテスクな建物なので、画像は貼りたくない。 ▽戸川安宅〈やすいえ〉
安政2年(1855年)、江戸の旗本早島戸川家第12代・戸川安行の子として牛込原町に生まれた。慶応元年(1865年)2月の長州征伐は、病気がちであった兄安道の名代で出陣した。
慶応4年(1868年)、5月、彰義隊に参加。同年6月、一族と共に領地の備中国早島(現在の岡山県早島町)に移り住んだ。8月、兄の養子となり家督相続。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/ac/b4d96bdd9c281aad9b6cf8d8b6dca03e.jpg 安宅が家督を相続したのは、領地の早島に移住した後なので、正確には父親の戸川安行という大旗本の屋敷と書くべきである。
もっともここで安宅の名が出てきたのは、安宅が文学者、プロテスタント系の日本基督教会の牧師として著名な存在だからである。 戸川安宅が屋敷を「口の大きな書生(大隈重信)に売った」というのは、大ウソである。
明治2年6月の版籍奉還により、戸川安宅は借金地獄からは解放された。しかし、所領を失ったため、明治3年2月に江戸へ戻ったが、すでに江戸屋敷は接収されて大隈重信の屋敷となっていた。以後は新政府から与えられた代替屋敷に居住した。 ▽大蔵大輔
物語のこの当時の大蔵大輔は大隈重信である。その前は、井上馨。このあたりを少し詳しく勉強してみよう。
井上が36歳の若さで大蔵大輔に就任したのは、明治4年7月28日のことである。折から遣外使節の議がおこり、岩倉が大使、大久保は大蔵卿のまま副使に任ぜられ11月11日に米欧回覧の壮途にのぼった。したがって、井上は大久保の留守中大輔のまま実質的には卿の実権をその手におさめたわけである。 これよりさき7月26日に民部省が廃され、その担当業務はすべて大蔵省へ移管されたから、大蔵省は財政、民政および司法に亘る広範な業務を所管することになり、井上の掌握した権限は断然他を圧する強大なものとなった。 明治5年2月28日に兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置された。陸軍卿は人材難で欠員のまま派閥バランス人事で山県有朋が陸軍大輔に、西郷従道が陸軍少輔に任ぜられた。
文部省は明治4年7月18日に設置され、文部卿大木喬任である。
司法省も文部省と相前後して設置されるが、司法改革の動きが活発化するのは、井上の推挙で江藤新平が明治5年4月25日に左院副議長から司法卿へ転じてから後のことである。 井上は緊縮財政の方針と予算制度確立を図った。そして、大木喬任の文部省が学制頒布、江藤新平の司法省が司法改革などで高い定額を要求すると、これを拒絶して予算を削った。
これが江藤らの怒りを買い、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され、明治6年5月3日に井上は辞職した。
その後の大蔵大輔が大隈重信である。 ▽築地梁山泊
戸川安宅の屋敷に住み始めた大隈重信は、伊藤博文と井上馨に「近所に来ないか」と誘った。前スレ〔464〕。
大隈重信は、維新早々の時期は、大久保とは距離を置いていた。大隈の近所には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで大久保利通ら薩摩閥を牽制していた。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。 ▽井上馨
天保6年(1836年)- 大正4年(1915年)
留守政府時代の井上については、すでに>>451-454に書いてしまった。繰り返しになるが、明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、主に財政に力を入れた。
明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席、同月に大蔵大輔に昇進、大蔵卿・大久保利通が岩倉使節団に加わると、外遊中は大蔵省を預かり、「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。 明治6年5月3日に井上は辞職して下野したため、征韓論争のこの時期、井上は政府内にいない。
政界から引いた後、三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと太政官に復帰した。
そして、参議を辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年の大阪会議を実現させた。
http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_R/210_6-To591b2-t/s0018r.jpg このあたりは江藤新平を主人公にした『歳月』で詳しくやる。 築地梁山泊の話は、岩倉使節団の外遊前の話である。明治6年のこの時期は、大隈・伊藤は、大久保の与党といってよい。
この作品の叙述は、井上馨の存在とその辞任事件が司馬さんの脳裏からすっかり抜けているため(あるいは意図的に抜いたため)、若干わかりにくくなっている。 司馬作品は同じ時代を別の主人公で叙述することが多いので、内容的に重複する部分は、ことさらにオミットしてしまう。
この作品で江藤新平と佐賀の乱が目立たないのは、『歳月』があるためだが、必要なことは書くべきである。
留守政府時代を江藤と井上抜きで語ることは難しい。 それそれ。『新史太閤記』と『覇王の家』なんて凄まじい。
『国盗り物語』『関ケ原』『城塞』の部分がすっぽり抜け落ちて、最終章は唐突に臨終場面。 ▽明治6年9月14日
前日に横浜に着くや〔>>443〕、翌日には木戸松菊を訪ね、渡欧中のわだかまりを解消し和解している。
「伊藤春畝来訪。欧州一別巳来の事情を了承し、また本邦の近情を話す」 鬱から躁への変わり身の早さが、木戸さんの良いところ( ^∀^) 「やはり伊藤はいい」
と、十四日、伊藤が帰ったあと、木戸は息を大きく吸い込むようにして思った。
松子は、木戸の体臭のする懐紙を拾い上げ、
「そんなに伊藤さんは、よござんしたか」
と、夫に尋ねた。
「やはり伊藤はいい」 翌9月15日、木戸松菊は伊藤春畝に長い手紙を認めている。
恋文であることは、言うまでもない。 十六日に木戸は朝七時に家を出て福沢諭吉を訪ねたあと、午後伊藤の家まで足をのばして訪問している。
この二人の長州人の交情の濃やかさは尋常ではない。
ただし伊藤は不在だった。
「春畝……」 ところが、木戸は発病した。
伊藤を訪ねて不在だった九月十六日の夕刻のことである。
あきらかにエイズであった。 ▽福澤諭吉
天保5年(1835年)- 明治34年(1901年)
明治6年9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり。」の声があった。
「木戸は福沢に頼ることが多く」と司馬さんは書かれているが、明治6年に初めて会談したようである。 ▽勝海舟
福沢諭吉は、勝海舟の批判者であり続けました。
勝海舟も福沢を嫌っていて、「危ないときは隠れていた。それでいて、後になっていろいろ言うのさ」「相場とか金儲けの好きな男だよ」「大家になってからは挨拶にも来ません」とか無茶苦茶にこきおろしています。
ただ、福沢が亡くなる前年、勝海舟や榎本武揚を批判した『?我慢の記』を刊行する前に、「内容に誤りがあっては失礼なので、原稿をお読みになって何かあったらご指摘ください」と依頼した福沢に、勝は「自分はおのれのやったことに確信があります。批判は自由。それで自分の考えを変えることはありません。しかし、あなたのような高名な学者に批評されるのは、むしろ私の名誉かもしれません」と答えました。 ▽山尾庸三
天保8年(1837年)- 大正6年(1917年)
長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。
文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/yamao/yamao.jpg 文久3年(1863年)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、長州五傑と呼ばれた。ロンドンにおいて基礎科学を学んだ後、グラスゴーにおいて造船を中心とした実務訓練を受けた。
明治元年(1868年)に帰国。明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となり、鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて明治3年(1870年)工部省の設立に携わる〔>>436・>>437〕。
明治31年(1898年)退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ。
https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/petpedia/upload_by_admin/goldfish_pets_8.jpg ▽森有礼
弘化4年(1847年)- 明治22年(1889年)
鹿児島城下春日小路町(現・鹿児島市春日町)で薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。兄に横山安武がいる。
慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリスに密航留学し(薩摩藩第一次英国留学生)、ロンドンで長州五傑と会う。
明治維新後に帰国すると福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと共に明六社を結成する。
明治8年、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。明治18年、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任した。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000824.jpg 躁になった木戸さんは、三田に福沢諭吉を訪ね、同日、山尾庸三、森有礼、岩倉具視を訪ねた。
その日の夜に激烈な頭痛をおぼえた。 ▽長与専斎
天保9年(1838年)- 明治35年(1902年)
肥前国大村藩(長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。福澤諭吉の後任であった。のち大村藩の侍医となった。
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/rel/img/nagayo.jpg
https://uub.jp/47/nagasaki/nagasaki_map1.png 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。
本章では、木戸さんは専斎の往診をうけた(9月18日)。 ▽廃刀令
すでに明治2年頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年3月に公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。
「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため他の公議人は反対し、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。
明治3年には帯刀を一般に禁止し、明治4年8月9日には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、明治9年3月28日、廃刀令を発布した。 明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、森有礼〔>>473・>>477〕は、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。 ▽加藤弘之
1836年(天保7年)- 1916年(大正5年)
但馬国出石藩(兵庫県豊岡市)藩士として、同藩家老をも務めた加藤正照の長男として生まれる。
1860年(万延元年)、蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。1864年(元治元年)、旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
明治2年に新政府へ出仕し、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出した。
明治23年、東京帝国大学の第二代総長となる。
http://www.city.toyooka.lg.jp/www/contents/1333521065822/simple/120404154116_0.gif ▽明六雑誌
明六社の機関誌。明治7年4月2日創刊、明治8年11月14日停刊。全43号。近代日本における学術総合雑誌、学会誌の先駆けとなり、文明開化時期の日本に大きな影響を与えた刊行物である。
明六社は、明治初期にアメリカ帰りの森有礼〔>>478〕が西村茂樹に相談して設立した結社。
http://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/meirokuzassi/016/jpg/mrzs016-001.jpg 同人には森、西村に誘われて津田真道、西周、中村正直、加藤弘之〔>>479〕、箕作秋坪、福澤諭吉〔>>469〕、杉亨二、箕作麟祥など、当時を代表する錚々たる知識人たちが参加した。かれらには幾つかの共通点がある。
まず西村以外は下級武士あるいは庶民といった下層出身者であったこと、次いで明治となる以前から洋学者として頭角を現し、幕府の開成所などに召し抱えられていたことである。
これと関連して、その多くが幕末明治期かいずれかに洋行の経験があって、尊皇攘夷思想に染まった経験がなかった。また福澤を除けば、明治以後は官吏として維新政府に仕えていたことも特徴といえる。 ▽ホフマン教授〈Theodor Eduard Hoffmann〉
前スレ〔453〕で登場した西郷隆盛の主治医。この小説では木戸孝允をも診察したことになっている。
内科も精神科も何でもやれるんでしょう、きっと。
ホフマン教授の診断によると、木戸さんはノイローゼ。 第10章 風雨
〔三〕岩倉具視
三条実美が岩倉の賜暇願いの願書に接したのは九月十八日の午後である。自宅に届けられた。岩倉の自筆である。
「五十日の賜暇。……」
三条実美は目がくらむような思いがした。三条は折れに折れて「では一週間」ということにし、正式の辞令を出した。
ともあれ、岩倉は七日という政治的休幕を演出することができた。岩倉がかせぎ出した七日間が、近代日本の重大な運命を決定したといえるであろう。 ▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
前スレ〔628-630〕参照。この年、48歳。
岩倉は明治4年8月に断髪令が出た後も、髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。
9月13日、岩倉使節団、横浜に入り帰国。岩倉具視と伊藤博文、東京に入り参内、明治天皇に帰国の挨拶をする。 ▼岩倉使節団
明治4年11月12日:横浜を「アメリカ号」で出港 →12月6日:サンフランシスコ上陸 →12月25日:ソルトレーク
明治5年1月18日:シカゴ →1月21日:ワシントン〔グラント大統領〕
7月3日:ボストンより英国汽船「オリンパス号」に乗船 →7月14日:リバプール着 →翌日:ロンドン〔ヴィクトリア女王〕
11月16日:パリ〔ティエール大統領〕 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています