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司馬遼太郎 Part12
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0671日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:14:41.26
桐野の政治情報は粗雑なものであった。かれは征韓論つぶしの恐るべき破壊工作者は伊藤博文であるなどということは夢にも知らない。すべて大久保が元凶であるという予断があったため、情報もそういうぐあいに着色された。
大久保が、善玉の西郷にとって赤っ面の悪玉であるという薩摩人の神話ができあがるのは、この時期からであろう。
0672日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:22:58.02
▽樽俎折衝 〈そんそ〉
宴席のなごやかな談笑のうちに話し合いを進め、交渉を有利に展開させること。
「樽」は酒だる、「俎」は肉料理をのせる台。転じて、「樽俎」は宴会のごちそうのこと。
0673日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:26:36.68
板垣退助と西郷従道の挿話で、桐野利秋が同時代の政府高官から高く評価されていなかったことが述べられている。
0674日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:40:00.39
▽アイグン条約 〈1858年〉
1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。
太平天国の乱やアロー戦争による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ムラヴィヨフが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山に認めさせた。
http://net1010.net/kujoyama/wp-content/uploads/2015/03/p150312-7.png
0675日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:45:00.95
▼北京条約 〈1860年〉
太平洋側のウスリー川の東側の沿海洲をロシア領土に編入した〔>>626〕。
これにより日本海方面へ進出して1860年にウラジオストック港の建設を開始、さらにウラジオストックと首都を結ぶシベリア鉄道建設計画が生まれ、東アジアへの野心を強めた。
http://nekonote.jp/china/old/tr/aigun-pekin.jpg
0676日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:49:43.48
▽ムラヴィヨフ 〈1809年 - 1881年〉
1847年東シベリア総督に就任後、ロシアの極東政策に深く関わり、1858年のアイグン条約によるロシア領土の大幅な拡大を成し遂げた人物である。また日本と交渉し、樺太の国境線を確定させた。
http://photos.wikimapia.org/p/00/04/80/64/40_big.jpg
0677日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:52:47.84
アイグン条約が締結された安政5年(1858年)は、日米修好通商条約の締結された年でもある。
0678日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:59:08.08
▽彭城中平 〈さかき〉
明治時代の探検家。
天保3年(1832)生まれ。生家は長崎の唐通事。明治5年、池上四郎・武市熊吉らとともに満州に派遣され、翌年に帰国した〔>>311〕。その視察報告書「清国滞在中見聞事件」は当時有力な参考資料とされた。明治7年(1874)9月27日死去。43歳。
0679翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/21(水) 11:16:42.49
第13章 廟堂

〔四〕海老原穆
「海老原さァは、さしあたって何をなさる」
と桐野が訊いたとき、海老原は意外なことを言いだした。
「新聞を起こしたい」
と、いった。
「新聞?」
桐野は、外国語でも聞くような変な顔をした。
「去年の『日新真事誌』のような新聞を出す」
と、海老原は言った。政府からの弾圧や妨害を受けぬように島津久光を後ろ楯にしたい、と海老原は言うのである。
0680日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 16:46:38.49
★陸軍裁判所

▽陸軍裁判所
明治2年に兵部省の一局として糺問司を設け、軍法会議の事を行わせようとしたが、結局明治5年の陸軍裁判所の設置がその発端となった。日本の軍法会議制度はフランスの制度にならったもので、フランス語のコンセイユ・ド・ゲール conseil de guerre を軍法会議と訳したものである。
0681日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 16:53:22.93
▽海老原穆
天保元年(1830年)- 明治34年(1901年)
薩摩藩出身。父は島津家に仕える海老原宗之進。明治4年、西郷隆盛とともに上京し、陸軍大尉を拝命する。しかし、西郷が明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞する。
明治8年3月、集思社を設立。「評論新聞」を創刊し、大久保利通の太政官政府に対する痛烈な批判を展開した。これに対し、言論出版を取締る法令である讒謗律に違反するとして逮捕・収監される。
しばらくして保釈され、大久保から親友・西郷の墓誌、伝記を記すように命を受けた。横浜で没、享年73歳。
※大河ドラマ「翔ぶが如く」では草野大悟 https://www.nippon-kino.net/uploads/1/3/0/0/13009758/1352995413.jpg
0683日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:01:33.35
>>682
明治4年に上京し陸軍大尉を拝命したのはそのとおりであるが、すぐに官を辞している。
明治5年には愛知県官吏となったが、これもすぐに辞職。
その後は国許にいて、明治6年のこの時期に再び上京した。
0684日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:06:37.44
海老原穆の父宗之進は薩藩財政をたてなおした家老調所笑左衛門の部下としてはたらいた。そのため海老原家は尋常の士族などは遠く及ばない豪富をたくわえていたといわれた。
海老原穆は戊辰の役では奥羽に戦い、明治四年には桐野利秋の指揮下で親兵隊に属し、陸軍大尉となった。
明治五年八月には愛知県七等出仕となったが、明治六年の隆盛下野の際に官職を辞した。
0685日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:19:10.90
★島津久光

▽明治6年4月23日
明治6年3月に勅使・勝安芳および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて上京する。4月23日東京着。12月25日、内閣顧問に任じられる。明治7年2月、佐賀の乱の勃発を受けて、西郷を慰撫するため鹿児島に帰郷する。
0686日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:26:18.07
▽第一回勅使〔>>278
明治2年2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向する。
「翔ぶが如く」では、久光は仮病をつかって勅使に会わなかったことになっているが、実際には3月2日に京都に赴き、3月3日に参内、6日に従三位・参議兼左近衛権中将に叙任されている。
0687日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:31:02.33
▽柳原前光
嘉永3年生まれ。柳原愛子 (なるこ) の兄。柳原白蓮の父。戊辰戦争で東海道先鋒副総督として江戸開城にたちあう。
維新後は外務省にはいり、駐清公使となって、日清修好条規の予備交渉を行うなど初期の対清国問題で活躍した。
明治27年9月2日死去。45歳。
https://celeb-info.com/wp-content/uploads/2014/07/yanagihara_maemitsu_2_20140719.jpg
0688日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:32:44.27
▽第二回勅使〔>>279
明治3年12月、勅使・岩倉具視が大久保利通等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。西郷は上京に同意するが、久光は病を理由にその猶予を願う。
0689日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:36:53.08
司馬さんも、翌日の連載には「久光はかつて明治二年に上京したことがあり」と述べられている。
その上京とは、第一回勅使の柳原前光の要請に応じたものである〔>>686〕。
第二回勅使の岩倉のときは、上京の猶予を願った。
0690日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:34:01.85
▽鹿児島行幸
明治5年6月のこと。この行幸の前の明治4年に廃藩置県が行われた。
島津久光はこれに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる〔>>281〕。
久光の怒りを鎮め上京を促すための行幸であった。
0691日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:37:49.60
▽龍驤
日本海軍の軍艦で木造鉄帯の装甲コルベットに類別された。
熊本藩から明治新政府に献上され、装甲艦扶桑の就役まで日本海軍の旗艦としての役割を果たし、明治5年には明治天皇の座乗艦として西国巡幸に使われた。佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争に従軍した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Japanese_Ironclad_warship_Ryujo.jpg
0692日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:42:15.74
▽十四箇条の建白書
島津久光は衣冠束帯の姿を整えて天皇の行在所に赴き、徳大寺宮内卿を通じ天皇に「14箇条の建白書」を奉呈した。
その内容は、当時明治政府が進めつつあった各種の改革を強く非難するものであった。
改革を否定する「14箇条の建白書」は、当然のことながら政府首脳からは全く相手にされなかった。
0693日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:45:34.45
*天皇の衣装を洋服に改めた。
*西洋の暦(太陽暦)を導入した。
*皇室までも全て洋風に倣うようになった。
*各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている。
*学校の規則を洋風にしている。
*軍隊を洋式にしている。
*邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない。
*外国人との婚姻を許した。
*散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている。
0694日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:49:37.08
>>693
>西洋の暦(太陽暦)を導入した。

太陽暦の導入は、明治5年11月9日で、久光の「14箇条の建白書」はそれ以前の提出だよ。
0695日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:54:03.60
失礼いたしました。
「14箇条の建白書」の内容を記した資料がなかったので、おなじく島津久光が明治7年に提出した「20箇条の建白書」の内容を引用しました。
0696日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 14:05:49.52
▽太陽暦の採用
「明治5年12月3日を以って、明治6年1月1日とする」
明治政府は明治5年11月9日に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から一日24時間の定刻制に替えることを布達した。布告から施行までわずか23日というスピード実施であり、しかも12月(師走)がわずか2日で終わってしまった。
その背景には、翌年の明治6年は旧暦で閏月があり一年が13カ月になり、官吏の給料を13回支払わなければならず、その他の出費もかさむ、いっそ太陽暦を採用すればその心配もなくなり、その上明治5年の12月も2日しかなければ、12月の給料までもまるまる節約できると考えたのです。
0697日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 14:12:42.93
▽第三回勅使〔>>685
明治6年3月に勅使・勝安芳および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて久光は上京する。4月23日東京着。
新政府は、久光のために内幸町に屋敷を用意しておいた。
海老原が久光に謁したのは、この屋敷においてである。
0698日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:14:01.81
★大石弥太郎

▽大石圓
文政12年(1830)土佐国香美郡野市村横井(現・高知県香南市)に生まれる。土佐高知藩の郷士。坂本龍馬より6歳年長。
文久元年(1861年)洋学研究のため江戸で勝海舟の門にはいる。同年武市瑞山らと土佐勤王党を結成し、盟文を起草する。戊辰戦争では参謀、小目付として従軍した。
維新後、軍務局幹事、監察、小参事、軍務司権大属などを歴任し、明治4年1月に兵務司権大属となったが、同年の御親兵の編成にあたってこれに加わることを好まず、官を辞した。その後は一貫して在野の立場から行動することとなった。
大正5年10月30日死去。88歳。名は元敬。のちに圓(円)に改める。通称は弥太郎。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/a56/1651172/20100408_789404.jpg
0699日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:17:06.78
大石弥太郎は、明治6年当時、島津久光から世間からどのように見られ、どのように期待されていたかの具体例として叙述されている。
海老原穆について書くつもりで、島津久光に脱線し、さらに大石弥太郎まで脱線しているのが現状です。
0700日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:20:51.31
各地の国粋主義者たちは、西郷よりも久光に期待していた。
0702日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:39:18.18
▽藤森弘庵
寛政11年(1799年)- 文久2年(1862年)
幕末の儒者・勤王家。江戸生。字は淳風、名は大雅、通称を恭助、別号に天山。『海防論』『芻言』を著し、安政6年(1859年)人心を鼓動するという理由で追放刑となり下総国行徳に移る。文久2年(1862年)赦免され、江戸の次男光吉邸に移り、同年同地で死去した。64才。
大石弥太郎は、藤森弘庵が下総国行徳にいたころに、その門を叩いている。
0703日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:48:17.42
▽行徳
千葉県市川市の南部の江戸川放水路以南の地域名である。江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった。
https://uub.jp/47/chiba/chiba_map1.png
https://smtrc.jp/town-archives/city/ichikawa/images/original/05-02-01.jpg
東京都と境を接する千葉県の都市は、東京湾から北にむかって、浦安市→市川市→松戸市→流山市→野田市と続く。
市川市から東に船橋市→習志野市→千葉市→市原市(南というべきだが)
0704日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:55:24.16
大石弥太郎は、行徳の藤森弘庵の屋敷で、ふたりの長州人と懇意になる。
佐々木男也と木梨平之進である。
0705日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 18:03:40.19
▽佐々木男也
天保7年(1836年)- 明治26年(1893年)
長州藩遠近附士・佐々木五郎兵衛の子として、長門国萩で生まれる。文久2年(1862年)右筆となり、文久3年(1863年)学習院用掛となって以降、京都で国事に奔走する。
元治元年(1864年)の蛤御門の変では福原越後隊に所属して戦うが、敗戦とともに潜伏。桂小五郎とともに鳥取藩邸への援助を求めるも断られたために長州へ逃れた。同年の内に八重垣隊を結成し、間もなく南園隊と改称して自身はその総督となる。
維新後は山口藩国政方、施政司試補を歴任したのち、第百十国立銀行支配人、共同運輸会社支配人、日本郵船支配人を務めた。
0706日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 18:21:38.26
▽木梨平之進(信一)
天保11年(1840)− 明治33年(1900)
安政5年(1858)、松下村塾に入り、吉田松陰から「近来の勉強家」と評される。万延元年(1860)江戸へ出て桜田藩邸内の有備館の館長となる。四境戦争では津和野藩へ使者として派遣された。  
明治2年、権大参事となり、藩政中枢を担う。明治3年、財政研究のため渡米する伊藤博文に従い、米国財務省で国立銀行制度、租税紙幣、出納、造幣法などを学ぶ。翌年帰国し、山口県や政府に出仕した。
明治11年に依願退官し、士族授産事業の一環として計画された第百十国立銀行(現在の山口銀行)の創設に携わる。明治14年には同銀行取締役、明治23年に三代目頭取となった。明治25年、第2回衆議院議員選挙に当選した。
https://lh3.googleusercontent.com/-MoYrvL6UgEQ/Trh-oPoOtQI/AAAAAAAABJk/q-M3WUbKIM0/s472/%2525E6%25259C%2525A8%2525E6%2525A2%2525A8%2525E4%2525BF%2525A1%2525E4%2525B8%252580.jpg
0707日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 22:35:31.24
「世界基準の簡単な日本史だよ!」 

1492年のアメリカ大陸の発見の結果、 
スペインがアメリカ大陸の多くを植民地化し、 
多大な富を奪いヨーロッパで強国となりました。 
スペインだけが強くなるのは困るので 
他のヨーロッパ諸国も植民地の拡大に乗り出しました。 
当時ヨーロッパはオスマントルコには勝てなかったので、 
中東は避け、アフリカ大陸を南下しながら、 
アフリカ、インドに植民地を作っていきました。 
スペインも負けずと1521年フィリピンを植民地化します。 
列強の植民地化の動きは、この時点でジャップのすぐ近くまで来ていたのです。 
戦国時代にイエズス会が沢山ジャップに乗り込んできた理由は明白でしょう。 
そしてとうとう幕末には、その手がジャップまで伸び、 
ジャップも植民地化されました。 
ジャップではこれを「明治維新」と呼んでいます wwwWWW 馬鹿だね〜 w 
しかし宗主国は、ジャップには「明治維新で独立を保った」と 
嘘を教え、馬鹿なジャップ民はこれを信じ、 
今だに植民地化されたことに気づいていません w 
植民地化され急激にジャップも近代化しましたが、 
いままでアジアの3流国家に過ぎなかったジャップが 
急に他のアジアの国よりも近代化した現実を 
ジャップはどう理解したらいいのか分かりませんでした。?(^o^)? 
倭猿にも多少は思考力があったようです w 
そこでジャップの飼い主様はジャップに教えてあげました。 
「ジャップはすごいからだよ!自分たちのすごさにジャップも気づいていないんだよ!」 
土人ジャップはもちろん、このお世辞を喜んで信じました www 
それ以降ジャップのオナニーは止まることを知りません。馬鹿ですね。 
0708日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 22:36:00.55
さて植民地化されたにもかかわらず。 
猿ジャップは、人間以下のケダモノの分際で、 
覇権国家になろうと、世界にケンカをうり、コテンパンに負けました。 
しかしアジア各地で狂気に満ちた悪行の限りを尽くし、 
にもかかわらず、謝罪どころか事実の認定さえしないので、 
今だに周辺国からは悪魔のように憎悪されています。 
さらにアメリカに噛み付いたために、 
米軍に国土特に首都圏を占拠され、 
独立国家としての資格を最終的にほぼ全て失ってしまいました。 
ここでジャップの歴史はおしまいw 
その後、売国奴の王・岸信介(ハーフかクオーター)が、 
微かに残っていたジャップの主権を完全にアメリカに売り渡しました(安保改定)。 
今はその孫らしい下痢晋三が、なんと長期政権を担っており、 
最終的にジャップをどこまで地獄に落としてくれるのか、楽しみですね! wwwWWWW
0709日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 10:34:13.43
幕末の反幕運動の世界に土佐郷士がむらがって出てくるが、土佐のような僻遠の地から大量にそういう運動者を出したことについては、端緒をなす者に有力な男が存在しなければならなかった。大石がそうであった。
江戸では、すでに武市の到着する前に、同志の大石弥太郎が、長藩の佐々木男也、時山直八、木梨平之進などと往来していた。
0710日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 10:37:52.40
▽樺山三円
>>82〕で紹介済み。ここでは、大石弥太郎が勝海舟の私塾で知己になった薩摩人の一人として紹介されている。
0711日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 10:51:43.30
▽町田直五郎
白石正一郎日記にもその名が記されている幕末の志士であるが、白石正一郎日記と大石弥太郎関係の文書以外では存在が確認できない。
小松帯刀の女婿で維新後東京国立博物館の初代館長となる町田久成は、幼名を五郎太郎というのだが、同一人物かというと、違うような気がする。
0712日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 10:54:32.63
町田氏は島津氏庶流。幕末もおしつまった頃に名前が出てくるならわかるが、安政の頃に尊王だ攘夷だと叫んでいる下級武士や郷士と交際があるとは思えない。家柄が違う。
0713日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 10:55:46.86
治安維持法により地下に潜伏していた時期の共産党のシンパには、金持ちが多かったぞ。
0714日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 10:57:05.67
その手の金持ちは明治後に成り上がった金持ちの子弟が多い。元は貧乏人。
鎌倉以来の名家の子弟ではない。
0715日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 11:01:40.40
>>711
町田といえば一聴して薩摩人だとわかるから、薩摩の志士の誰かが使った変名かもしれないな。
0716日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 11:05:41.17
幕末をゆるがした反幕運動者の思想は個々にみればまちまちで、反幕という目的では一致し、それが一大エネルギーになった。
が、維新成立と同時に、「こういう政権をつくるために働いたのではない」という不満が思想家ごとにおこった。大石の場合はかつての洋楽志向者から国粋家に変わっていた。
0717日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 11:15:25.26
明治六年政変以後、高知においても不平士族らによる政治活動が盛んとなるが、大石は郷士層を中心に勤王党の流れを汲む「古勤王党派」の中心人物として活動した。大石は萩の乱を起こした前原一誠と親交があったほか、立志社とも挙兵の協議を行っており、西南戦争など一連の士族反乱に呼応する動きがあるとして政府より警戒されていた。
大石が上京して久光と面談したのは、この時期であろう。
0718日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 11:18:09.57
明治11年、山口で脱隊騒動を起こし逃亡中の富永有隣を隠避したかどで逮捕され、2月に松山監獄に投獄された。しかし9月には証拠不十分により釈放され、帰郷後には家督を長男に譲って隠棲した。
ちなみに、富永有隣は明治33年まで生きながらえている。
http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/wp-content/uploads/sites/2/2013/10/db-photo-tominagayurin.jpg
http://img01.dosugoi.net/usr/i/e/k/iekou/IMGP2459.JPG
0719日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 11:21:53.82
司馬さんが島津久光と大石円の話に脱線していたら、荒らしまで来てしまった〔>>707-708〕。
ここから、やっと海老原穆の話に戻ります。
0720日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:19:23.43
★陸軍裁判所

▽太尉
中国古代の軍事長官。秦はこれを三公の一つとし、漢もその制を踏襲したが常置の官ではなかった。前漢の武帝のとき大司馬と改めたが、後漢ではまた太尉と称した。隋・唐以後も三公の一つとして設置されたが、実権はなくなった。
海老原穆は、明治4年、西郷隆盛とともに上京し、陸軍大尉を拝命する。海老原は、これを中国古代の「太尉」と勘違いして喜んだ。あとで尉官の上に佐官と将官があることを知り、「人を虚仮にするにも程がある」といって、官を捨てて国に帰ってしまった。
0721日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:26:25.98
▽調所笑左衛門
安永5年(1776年)- 嘉永元年(1849年)
城下士・川崎基明の子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用される。
天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。
※竜雷太(『西郷どん』:2018年・NHK大河ドラマ)
https://taigatv.net/wp-content/uploads/2018/01/d84bd15e2217426a6b659e82913cd67e.jpg
0722日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:31:23.68
当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して笑左衛門は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易、大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。
0723日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:34:13.62
やがて、斉興の後継を巡る争いがお家騒動に発展すると、笑左衛門は斉興・久光派に与する。これは、重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであるといわれている。
斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興および調所の失脚を図る。
嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺ともいわれる。死後、笑左衛門の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。
0724日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:45:12.80
司馬さんは、調所広郷の遺産を海老原家が相続したと書かれているが、意味不明。
なお、調所広郷の三男・調所広丈は、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている。
0725日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:46:32.90
海老原穆の父宗之進は薩藩財政をたてなおした家老調所笑左衛門の部下としてはたらいた。そのため海老原家は尋常の士族などは遠く及ばない豪富をたくわえていたといわれた〔>>684〕。
0726日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 17:54:03.65
▽民権運動
民権運動は国会開設運動をふくめてこの明治六年秋の段階ではまだ思想として日本に入っているとはいえない。
0727日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 18:04:19.76
▽古沢滋
弘化4年 (1847) - 明治44年
土佐藩士・古沢南洋の二男として生まれる。上洛し尊王攘夷運動に加わるが、帰郷時に投獄された。
明治2年、石巻県に出仕。明治3年2月、大蔵省に転じ十等出仕となる。同年7月、イギリスへ留学のため派遣され政治経済学を学ぶ。明治6年12月に帰国する。
翌明治7年正月に板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書の起草に携わる。本章にいう「建白書」とは、受験日本史頻出の民撰議院設立建白書のことである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/Furusawa_Uro.jpg/220px-Furusawa_Uro.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/ca1/736978/20080624_255983.png
0728日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 18:58:15.30
▽中江兆民
弘化4年(1847年)- 明治34年
高知城下の山田町(現・高知市はりまや町三丁目)に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。
明治4年11月に横浜を出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリとリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。
明治7年6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/490/98/N000/000/000/129219411008116305507_p_nakae-cyoumin.jpg
https://image.middle-edge.jp/medium/6fd47484e1043253d428ffa1f4a43592.png
0729日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:10:35.33
「江戸封建制を復活せよ」
という島津久光が、反政府主義者にとっての光芒であった。
0730日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:15:04.61
▽新聞
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊された。明治元年に小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の『中外新聞』、『江湖新聞』が、明治3年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。
明治5年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、『郵便報知新聞』などがそれぞれ創刊された。明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取った。
0731日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:19:09.34
▽大観堂
日本橋の本屋。各種新聞を取り揃えて、一時間の閲覧料を一銭で客に読ませていた。
ウソか本当かは知らない。
0732日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:27:01.95
▽日新真事誌
イギリス人 J.R.ブラックが明治5年3月に東京で創刊した日本語の新聞。初めは左院の議事・議案、建白書を掲載する「左院御用」の新聞であったが、治外法権をもつ外人経営だったところから次第に政府批判の色を濃くした。
明治6年5月には井上馨・渋沢栄一の財政意見書を、また明治7年1月には板垣退助らの民撰議院設立建白書をいちはやく掲載し、その頃から民権派の新聞の代表格になった。
政府は、明治8年1月に新聞経営の放棄を条件にしてブラックを左院に雇い、6月に新聞紙条例を公布して外人による新聞経営を禁止したうえで、その直後にブラックを解雇した。ブラックが手をひいたのちの『日新真事誌』はたちまち勢力を失い、明治8年末に265号で廃刊した。
0733日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:33:21.49
司馬さんは勘違いしておられるのか、小説のために敢えて史実を枉げられたのかは知らないが、政府が『日新真事誌』を目の敵にしはじめたのは、明治8年からである。
『日新真事誌』が「左院御用」であるために精彩を欠いたのではなく、「日新真事誌」はそもそも「左院御用」として出発し、その後、民権派の新聞に変貌した(明治7年)。
したがって、海老原穆にわざわざ「去年の『日新真事誌』のような新聞を出す」と言わせる必要はなかった。海老原は現在の『日新真事誌』のような新聞を出せば政府批判ができるのである。
0734日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:36:20.70
良いところに目を付けるが、肝心なところで間違えてしまうのが司馬史観(・∀・)ニヤニヤ
0735日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:41:17.74
「よか女はおらんどかい?」
と、海老原はいった。
美人で気の利いた女がおれば情報収集に案外な役に立つかもしれない、というのである。
「くノ一でごわすな」
桐野はわざと眠そうな顔になった。
0736日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:42:32.26
ここで前章で登場した元旗本の娘・千絵が桐野の脳裏に浮かぶ。
史実とフィクションが上手く繋がりました。
0737日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:44:50.23
史実に縛られて小説が思うように書けなくなった司馬さんの悲鳴が聞こえてきそうな叙述になっているな。
0738日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 20:33:36.51
▽東学党
1860年に両班出身で没落した崔済愚が創始した宗教。儒教・仏教・道教を融合させ、西学(カトリック教)に対抗する意味で東学と名付けられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符をを飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。
大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し死刑にした。
http://last-sword-legend.up.seesaa.net/image/9BC18DCF8BF01.jpg
0739日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 20:34:37.33
1880年代には、外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学は再び活発となり、第二代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、日本と西洋諸国の排斥を激しく求めるようになった。
1894年、東学の地方幹部が農民の蜂起を指導し、甲午農民戦争(東学党の乱)を起こし、それが導火線となって日清戦争が起こった。
https://www.worldwide-transition.info/img/nissin1001.jpg
0740日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 20:55:32.43
島津久光の建白書より〔>>692
「貴賤ノ分ヲ明ラカニシ、四民ノ別ヲ厳明ニスベキナリ」
士農工商の間の無階級通婚を許すことは、淫乱である。
若い娘を新聞編集の社中に入れることは、淫乱である。
0741翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/23(金) 21:49:00.43
第14章 秋の霜 

〔一〕反征韓派
大久保は十月八日から十日すぎまでの間に、反征韓論についての自分の考えを、あらためて踏みかためている。
西郷のいう理由も、大久保にはよくわかっていた。西郷の征韓論の巨視的展望には、朝鮮そのものに最終目標はなかった。それはロシアにあった。ロシアの南下策のすさまじさを見ていて、早晩、これが日本の独立を脅かすことを西郷は予見していた。
大久保もこの恐怖については西郷と同量にもっていた。しかし西郷がそれを純戦略的に観察し、ロシアの南下による被害を未然に防ぐためにいちはやく足場を韓国に設けようという西郷の戦略構想に対し、大久保はそれを不可能とした。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 21:56:53.12
★麹町区内幸町

▽伊藤博文
10月4日の夜、伊藤は雨滴を髪から頬にしたたらせて、麹町区内幸町にある三条実美の屋敷を訪ねた。
「あなたは、慶喜ですら怖れなかったお方ではありませんか。西郷ごときが何でありましょう」
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:06:42.60
▽10月5日
三条は岩倉に、征韓論を弾劾する手紙を書いた。その内容は、遣韓使節の目的が不明確というものであった。
1.朝鮮の頑陋を除き、旧交を再開せしめ、善隣の誼を結ばしめようとする目的
2.朝鮮を日本の属国にしてしまう目的
3.国内の政情不安を、外征によって他に逸らし、国内の人心統一の実を図ろうとする目的
以上のいずれであるかを、西郷参議より文書で提出させるべきである。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:08:37.66
と、遣韓使節の件について勅許まで得た条公が申しております(゚Д゚)ゴルァ!!
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:18:37.83
▽赤誠
偽りや飾りのない心。まごころ。
「赤」という文字には、色彩の赤のほかに、次のような意味があります。
「まじりけがなく熱っぽい」「はだかの」「なにもないむき出しの」
これらの意味から生まれた言葉には、「赤裸々」「赤心」「赤誠」などがあります。
「赤子(せきし)」もその一つで、生まれて間もない子のことです。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:23:20.01
▽征韓論の政策案としての弱点
西郷の渡韓目的の内容は曖昧である。
1.戦争を期せざるのか …… 朝鮮の頑陋を除き、旧交を再開せしめ、善隣の誼を結ばしめようとする目的
2.戦争を期するのか …… 朝鮮を日本の属国にしてしまう目的
3.戦争を期せざるも已むを得ざるときは戦争を開くのか …… 国内の政情不安を、外征によって他に逸らし、国内の人心統一の実を図ろうとする目的
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:26:44.15
三条は、第一回の征韓論廟議を「あいまいな決定」と規定し、再度くわしく議論すべきであると、手紙の中で述べている。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:27:10.48
と、遣韓使節の件について勅許まで得た条公が申しております(゚Д゚)ゴルァ!!
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:34:55.53
★大久保邸

▽参議
大久保は明治2年7月に参議に就任している。しかし、明治4年6月に大蔵省と民部省が再度統合されると、大久保は参議より格下の大蔵卿に就任した。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:38:43.72
司馬さんは、大蔵省が明治4年に制度化されたと述べられているが、慶応4年1月に設置された金穀出納所は、何度か名称を変更された後、明治2年8月、二官六省制になったのを機に、大蔵省と改名されている。
同年9月に民部省と合併し、過去に例のない大型官庁となった。初代大蔵卿には松平慶永が就任した。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:44:44.73
この合併は、徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する長州閥の官吏が強く推進した結果である。
一方、大久保利通・広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の四参議が地方官の支持を受けて再分離を求めた。その結果、明治3年7月に大久保が主導して両省の再分離が決定された。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:49:37.80
再分離は、大蔵省の所管事項があまりにも広くなりすぎて、杜撰な地方行政が行われることを危惧した勢力(主として地方官)に乗った大久保が、長州閥による権力の独占を排除した結果である。
しかし、徴税については一括して大蔵省が担当することになったために、統合派と分離派の対立が続いた。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:53:24.74
その後、明治3年閏10月に工部省が民部省から分離され、民部省の権限を縮小した後に、明治4年7月、改めて民部省は大蔵省に合併されて廃止された。このときの大蔵卿が大久保利通である〔>>750〕。
0755日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 22:53:38.47
だが、「巨大官庁・大蔵省」誕生に対する政府内の反発は収まらず、明治6年11月に徴税以外の国内行政部門は再度分離されて、新しく内務省が創設されることとなった。初代内務卿は、大久保利通である。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 18:55:22.78
>>746
中国では生まれて間もない子を交換して食用にしていたからな。
皮膚を剥いだ赤ん坊の赤い肉のイメージから、赤子と呼んだのだろうな。
0757日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 18:59:38.31
>>751-754
司馬さんは、木戸孝允と大久保利通の仲の悪さを、性格の違いに帰しているけど、大蔵省と民部省の統廃合をめぐる長州閥と薩摩閥の権力闘争が背景にあるよね。ここはスルーしている。大蔵大輔・井上馨がスルーされているのも、この関係からだろうね。
0758日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 19:01:39.37
▽大久保の決断
10月5日から7日にかけて、大久保は熟慮を重ねた上、参議になり廟堂で西郷と対決することを決意した。
0759日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 19:14:25.11
▽薩摩系近衛士官によるクーデターの危惧
「賊」の烙印を押されることを避ける方法を、大久保は二通り考えていた。
1.警視庁の兵力をもって宮門を死守し、薩摩系近衛士官の手に帝が奪われることを阻止する方法
2.三条・岩倉が変節しないように証文をとっておく方法
0760日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 20:04:39.03
★岩倉邸

▽10月8日朝
三条・岩倉・大久保の三人会議。大久保は三条・岩倉から、反征韓論の意見を変節しないという証文をとった。
0761日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 20:18:04.87
★新参議

▽副島種臣
前スレ〔684-686〕で述べた。
副島は、明治2年に参議、同4年に外務卿となった。大久保が大蔵卿になった際に参議からはずれたのと同じように、副島も外務卿に専務するため参議からはずれていた。
明治6年2月には、明治4年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。
0762日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 20:36:09.16
副島は西郷よりも早い時期から征韓論者であった。征韓論といっても、西郷と同じく遣韓論であった。
「翔ぶが如く」で繰り返し述べられているように、廟議において居留民保護を理由に派兵を主張したのは、板垣退助である。
西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
中国から帰国した副島種臣は、西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴くと主張した。
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁であることが定着した。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:13:32.20
「翔ぶが如く」によると、副島の参議再就任は、伊藤博文の発案で、大久保・西郷ともに賛成した。
0764日本@名無史さん
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2018/02/24(土) 21:32:51.74
▽伊藤博文案
三条実美は、伊藤博文の参議就任を考えた。しかし、これは大久保に一蹴された。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:48:56.62
★大久保邸

▽反征韓論 ー 大衆感覚の欠如
征韓論は愚である。日本は生産性が低いうえに政府費用は莫大で、しかも外債が五百万円以上もあり、それを返済するめどもない。この状態のなかで戦争という途方もない濫費をすれば、ついに国家を破るにいたる。
さらに日本は安政不平等条約によって関税の自主権がなく、国内に治外法権があるという半独立国の状態にありながら、それを解決せずに朝鮮の蒙昧を責めるというのは滑稽以外の何ものでもない。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:49:29.32
▽殺されるべき人物
大衆は政治について大久保のような生真面目な明晰者を好まないという恐るべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。
さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった。
0767日本@名無史さん
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2018/02/25(日) 19:32:30.42
大久保は参議に就任することを受諾した夜、自分でランプの吊り紐を長くし、机上を明るくして遺言のようなものを書いている。
とくに米国に留学させてある伸顕については文中わざわざ指名し、
「外国にあって自分の変を聞くのはさぞ驚くべきことであろうが……」
と、書いている。変がおこることを大久保は予期という以上に確信していたことが、この一事でも察せられる。
0769翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/25(日) 19:59:25.43
第14章 秋の霜

〔二〕征韓派
日本橋小網町の西郷は、十月に入ってから不愉快な日がつづいている。
「いっちょん、廟議が開かれもさんな」
と問う者があると、最初のころは、
「諸公も忙しかとごわンそ」
といっていたが、日が過ぎてゆくにつれて、そういう質問があると、そっぽを向いて答えなかった。
0770日本@名無史さん
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2018/02/25(日) 20:05:52.93
★日本橋小網町

▽10月11日
西郷の督促に応じて、三条は10月11日に廟議を開くことを西郷に約束した。
しかし、大久保が準備の都合で時間が必要な旨を三条に申しやると、三条は廟議の日を10月14日に変更した。
その旨を三条が西郷に申し伝えたのが10月11日だった。
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