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司馬遼太郎 Part12

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0771日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 07:29:00.34
★山県有朋

▽陸軍卿
明治5年、34歳で陸軍中将になる。
ロシアの南下政策に強い懸念を抱いている点では西郷と同じであるが、征韓論には批判的であった。
山県は明治6年1月の徴兵令の将来に期待をかけていた。つまり、時期尚早論。
0772日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 07:37:22.00
▽山城屋和助事件〔>>153-156
明治5年11月29日、山県への面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。
大河ドラマでは、芦名千草という千絵〔>>583〕の姉も登場していた。山城屋和助の愛人だった。
※芦名千草役は南條玲子
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/65/35/8e/65358e231449baca4ee9bf8c0847bc3c.gif
※山城屋和助役は藤堂新二
https://i.pinimg.com/236x/16/f6/f2/16f6f2638b3945c31ea279558f384170.jpg
0773日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 07:46:07.89
▽近衛都督
明治5年2月に近衛条例が制定され、御親兵〔>>271〕が近衛と改称された。各地の鎮台が陸軍卿の権能内におかれた政府軍であるのと異なり、近衛の総指揮官である近衛都督(初代山県有朋、二代西郷隆盛)は天皇に直隷した。また近衛兵は壮兵つまり職業兵制をとることになった。
0774日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 07:51:11.11
近衛の薩摩系将校らは、上司である近衛都督山県有朋の辞職を要求した。
明治6年4月、山県有朋は陸軍大輔および近衛都督を辞任する。
西郷が第二代近衛都督になるのは、山県の辞職後である。
0775日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 08:04:01.55
▽三浦梧楼
弘化3年(1847年)- 大正15年
萩藩士の陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍する。
維新後は兵部省に出仕、明治7年には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山を陥落させた。明治11年に陸軍中将となり、西部監軍部長。
長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。
https://jpreki.com/wp-content/uploads/2015/08/miura-ro.jpg
0776日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 08:12:09.45
三浦梧楼の山城屋和助事件への関与については、筆者は詳しく知らない。
鳥尾小弥太〔>>259-260〕は、深く関与している。当時の鳥尾と山縣の仲はまだ険悪ではなかった。
0777日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 08:21:46.10
桐野利秋ら薩摩系近衛士官は、長州系の高級将校の辞任をも追及した。
西郷は、この事件を契機に薩長間に激烈な闘争が生じることを怖れ、桐野らを抑えた。
山県は2ヶ月後に陸軍卿に昇格して復職した。
0778日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:06:34.76
▽徴兵令
前スレ〔859-863〕で詳述した。
明治6年1月10日(新暦)に施行された徴兵令で、士族および農民の明治新政府に対する不満が一挙にヴォルテージを上げた。
士族にしてみれば、明治5年の国民皆兵をうたう徴兵告諭でプライドを傷つけられ、翌明治6年には征韓中止で活躍の場を奪われた。
農民にしてみれば、江戸時代260年のあいだ兵士にとられることがなかったのに、維新によって若い労働力を鎮台に奪われることになった。
0779日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:10:00.08
▽鎮台
鎮台についても、前スレ〔638-639〕に述べた。
明治4年8月に、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された。
明治6年に名古屋鎮台と広島鎮台が増設された。同年の徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。
0780日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:12:41.13
鎮台の平時兵力ー3万1,680人
歩兵14個連隊
騎兵3個大隊
砲兵18個小隊
工兵10個小隊
0781日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:17:31.13
▽師管
師管が設けられたのは、鎮台条例改定により6鎮台が設置された明治6年1月である。このとき鎮台の管轄が軍管、連隊の管轄が師管と定められた。6鎮台・14師管の体制。
0782日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:20:04.42
第1軍管:東京鎮台
  第1師管(東京) 第2師管(佐倉) 第3師管(新潟のち高崎)
第2軍管:仙台鎮台
  第4師管(仙台) 第5師管(青森)
第3軍管:名古屋鎮台
  第6師管(名古屋) 第7師管(金沢)
0783日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:21:38.39
第4軍管:大阪鎮台
  第8師管(大阪) 第9師管(大津) 第10師管(姫路)
第5軍管:広島鎮台
  第11師管(広島) 第12師管(丸亀)
第6軍管:熊本鎮台
  第13師管(熊本) 第14師管(小倉)
0784日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:27:52.65
▽陸軍戸山学校
明治6年6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、上下士官の訓練事務を始めた。翌明治7年2月、陸軍戸山学校と改称した。
歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行った。早稲田大学から5分ほど歩いた戸山公園は、都心で最も標高が高い。そこにはかつて陸軍戸山学校があった。
http://toyamaryuiaido.jp/images/toyamaryu/rikuguntoyama.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/noraneco711/imgs/3/1/316dc174.jpg
0785日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 10:36:16.79
▽陸軍士官学校
日本陸軍の現役将校養成補充機関。前身は明治元年京都に設けられた兵学校で、これが兵学所、兵学寮を経て、明治7年に陸軍士官学校と改称され、東京の市ヶ谷に移転した。
司馬さんは、「士官学校を兵学寮の中に置く」と述べられているが、意味不明である。単純に兵学寮を改称して陸軍士官学校としたと覚えておけばよい。
http://blog-imgs-16.fc2.com/b/e/s/besankosyashin/20071125191053.jpg
0786日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:17:09.62
▽兵部卿・陸軍卿
仁和寺宮嘉彰親王:明治2年7月 - 12月
欠:明治2年12月 - 明治3年4月
有栖川宮熾仁親王:明治3年4月 - 明治4年6月
欠:明治4年6月 - 明治6年6月……陸軍省設置は明治5年2月〔>>303
0787日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:20:38.82
▽兵部大輔・陸軍大輔
大村益次郎:明治2年7月 - 11月(同年12月7日に死去)
前原一誠:明治2年12月 - 明治3年9月
欠:明治3年9月 - 明治4年7月
山縣有朋:明治4年7月 - 明治5年2月……山県は明治6年4月まで陸軍卿代理(陸軍大輔)
0788日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:21:40.97
★日本橋小網町

▽出張の挨拶
山県は国内各地の鎮台を視察するため、東京を離れる。その挨拶のために、西郷を訪ねた。
0789日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:24:18.10
「もう一両年経てば兵制の基礎が立ちましょう。そうすれば兵を海外に出すことも出来ましょうが、いまならばよほど困難します」
0790翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/26(月) 11:31:24.44
第14章 秋の霜

〔三〕板垣退助
裏切った、という表現が成りたつとすれば、この場の板垣退助と副島種臣は、ごくあっさりと西郷を裏切ってしまったのである。
「海軍の兵備が整わぬとあれば仕方がありませんな」
と、板垣が言い、副島がうなずいた。
板垣などは、
「当日、西郷君を欠席させてはどうでしょう」
とまで言いだしたのである。
0791日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:22:45.37
★麹町区内幸町

▽10月13日
廟議の日の前日になって、三条と岩倉は、征韓派の板垣退助と副島種臣に翻意を促すことを思いたった。
二人は大久保の了承を得て、10月13日午後、板垣と副島を麹町区内幸町にある三条邸に呼んだ。
0792日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:34:35.26
▽“古池や買わず飛び込む御簾の内”
太政官の大官が無料で広大な旧大名屋敷を手に入れたことを皮肉った川柳。
当時の東京の庶民が三条家の門前に落首したと書かれているが、もしかすると司馬さんの創作かもしれない。
0793日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:41:28.40
▽勝海舟
文政6年〈1823年〉 - 明治32年
明治5年5月に海軍大輔に任じられ、明治6年3月には勅使として西四辻公業と共に鹿児島へ下向し、4月に島津久光を東京へ上京させた〔>>685〕。
明治六年政変で西郷らが下野した後の10月に海軍卿に任じられたが、翌7年の台湾出兵に反対して引き籠り、欠席したまま明治8年4月に元老院議官へ転属したが、11月に辞職して下野した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/Yoshiyasu_Katsu_in_Meiji.jpg
0794日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:44:36.34
海軍には雄藩が献上した商船まがいの小軍艦と東艦があるぐらいで、朝鮮の沿岸砲を打ち砕いて陸兵を上陸せしめる戦力はないと、海軍大輔勝安芳は言った。
0795日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:49:30.32
 
  ∧_∧     ∧∧
 ( ´∀`)∬ ∬ (゚Д゚)  「勝先生がそうおっしゃるようなら、仕方がありません」
 (__   ⊃目 目⊂ ノ
  し__)┳━┳ (_っ
0796日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:58:53.48
革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。
同時代にかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者もいたが、しかしそれらの人々が日常の常識的世界の安らかさの中で過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。
0797日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 13:04:21.71
この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治後である。交わりつつも、ついには交わりきれないものがあるのは、この連中の過去を動かしてきた志、あるいは精神の肉腫のようなものが邪魔をするのかもしれない。
0798日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 13:06:29.38
以上は、革命家としての履歴の浅い板垣と副島が、常識的世界の人間として、簡単に説得に応じたことへの感想として司馬さんが述べている。
0799日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:14:31.99
▽事実上の宰相
この時期になると、大久保利通は事実上の宰相であるという翳が濃くなる。
参議の地位についてまだ数日でしかないのに、上位の太政大臣三条実美と右大臣岩倉具視がいちいち大久保の意向をうかがうという、一見常識では信じがたい態度をとりはじめ、そのことが大久保利通という廟堂では最新参にすぎないこの参議を、就任早々事実上の宰相に仕立てあげた。
0800日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:24:12.00
★日本橋小網町

▽勝ち目
西郷は自分の上程案に勝ち目が薄くなっていることまで気付きはじめている。陸軍卿山県有朋が、「地方の鎮台を巡視しますので」といって暇乞いにきたことでもわかる。山県は一ヵ月以上東京を留守にするであろう。西郷が決死の覚悟で渡韓するという時期に、陸軍卿が不在というのは疎漏なことであった。
0801日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:44:10.08
▽10月14日朝
三条実美からの使いがくる。
「欠席されたい」との文面であった。
西郷は、使いである三条家の老家令とともに、三条邸にむかった。
0802日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:50:00.49
★麹町区内幸町

▽朝七時すぎ
「拙者のみを除外なさるとは、公平を失した御沙汰ではござらんか」
西郷の勢いに怒りがこもっていて、三条は応答もしどろもどろになり、じつは板垣がそう言ったのだ、と、簡単に人名を出してしまった。
西郷は一瞬、息を小さくした。板垣も裏切ったか、と思った。この一事は西郷に悲痛の思いを持たせた。
0803翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/26(月) 16:08:11.31
第15章 激突

〔一〕十月十四日
「拙者の意見が行われぬとすれば、もはや已むをえませぬ。職を辞するのみでござる」
この発言がおこなわれたとき、一座が一瞬、凝然としたように空気が重くなった。西郷がその提案に死を賭しているらしいということは諸参議にとって周知のことなのだが、しかし西郷自身の口から進退についての決意を公言されたのは最初で、しかもこれは単におどし言葉ではない。
この会議では二人の公卿をのぞいてみな武士のあがりである。
この一言に天下瓦解という戦慄的な予感をもったのは、三条実美と岩倉具視であった。西郷が太政官を去るとなれば近衛将校団や国もとの薩摩人が黙っていないであろう。かれらが蜂起すれば、鬱勃として天下の乱を待っている日本中の不平士族がいっせいに立ち上がるに相違ない。
0804日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:32:38.47
★太政官代

▽太政官代
明治6年10月当時は、馬場先門内の旧教部省庁舎が仮の太政官庁舎。
明治5年3月に西の丸下に太政官庁舎を造営したが、明治6年5月5日に皇城火災に遭い、太政官庁舎は焼失していた。
即日、赤坂離宮が仮皇居と定められたが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に太政官代が設置された。
※太政官正院の庁舎があった馬場先門内の皇居外苑
http://www.sankei.com/images/news/160501/prm1605010020-p1.jpg
0805日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:43:04.75
明治10年8月、太政官を赤坂仮皇居〔>>67〕内に移転、翌11年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が仮皇居内に新築された。
内閣制度発足の明治18年12月までは太政官庁舎として、発足後明治22年1月まで内閣庁舎として使用された。
※明治21年の枢密院憲法会議が開かれたのは、赤坂仮御所内の別殿「ご会食所」であって、仮皇居内の太政官庁舎ではない〔>>68〕。
http://www.tanken.com/meijikyuden2.jpg
0806日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:52:12.65
▽木戸孝允
参議の身分のままで外遊したのは、木戸孝允一人であった。帰国後も木戸は参議のままである。
この日の廟議には、欠席した。
0807日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:59:39.22
▼木戸孝允と大久保利通
〔1〕版籍奉還〔>>252-253
封建制の廃止と郡県制による中央集権の必要性を認識する木戸は、まだ戊辰戦争の最中である明治元年1868年2月、三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出した。しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しなかった。
同年9月、木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾した。さらに木戸は山内容堂と会談して土佐藩の同意を取り付け、大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、明治2年1月20日、薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出された。その後、大半の諸藩が同様に版籍奉還の上表を提出した。
この時点では、旧藩主がそのまま知藩事として任命された形となり、木戸の念願である郡県制の実現は廃藩置県を待たねばならなかった。また、当初の廟議案では知藩事は世襲とする旨の文案であったが〔>>633〕、木戸はこれに反対し、「世襲」の2字は削除された。
0808日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 17:03:09.94
〔2〕兵制論争
版籍奉還においては一致協力した木戸と大久保であったが、兵制改革においては対立した。
徴兵制による国民皆兵を唱える大村・木戸に対して、薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。結果的には、大村と木戸はこの論争に敗れ、薩長土三藩による御親兵が設置された。
0809日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 17:09:18.96
〔3〕官制改革
明治2年7月の官制改革により参議が任命された。副島種臣(肥前)、前原一誠(長州)、大久保利通(薩摩)、広沢真臣(長州)の4名。
当初、大久保は、木戸を自身と共に参議から外して、実権のない待詔院学士に祭り上げようとした。しかし、木戸・大隈ら木戸派の反発に遭い、また木戸と大久保が2人とも参議から外れる不自然さは「世論紛々、諸官解体」という混乱を呈し、結局は三条実美と岩倉が収拾に乗り出す形となった。
結局、大久保、木戸の盟友である広沢真臣、副島種臣の3人が改めて参議に任じられた。
0810日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 17:13:02.02
〔4〕参議内閣制
明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年6月、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視・三条実美から、木戸がただ1人の参議となるように求められる。
木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ」と応じ、薩長土肥1人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。しかしこの体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。
0811日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 17:20:14.68
大隈重信は長州閥に接近しており、大久保利通とは対立していた。
大隈を大久保の傀儡とする「翔ぶが如く」には、なじめないな。
0812日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 17:22:44.49
木戸さんが鬱病っぽくなったので、大隈は、木戸から大久保に乗りかえたんだろうよ。
0813日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 13:31:12.00
▽午後一時すぎ
三条実美(37歳)・岩倉具視(49歳)
西郷隆盛(48歳)・副島種臣(46歳)・大久保利通(44歳)・大木喬任(42歳)・江藤新平(40歳)
板垣退助・大隈重信・後藤象二郎(いずれも30代)
0814日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 13:47:26.96
▽明治初年の樺太問題
前スレ〔801-804〕に詳述した。
ロシアは、明治2年に樺太を流刑地にした。つまり南樺太に暮らす日本人は、ロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていた。そのため、樺太の日本人は、悲惨な事件に遭遇し続けた。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、強盗殺人を働き、そして日本人女性を強姦するなどの事件が多発した。明治6年2月には、ロシア人多数が大泊(コルサコフ)の日本人の漁場と建物を焼き払うという事件も起きた。
0815日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 13:52:56.37
▽宮古島島民遭難事件
明治4年10月18日、琉球王府への納税を終えた宮古島の船1隻が、那覇からの帰途に強風に遭い、11月6日、台湾東南海岸に漂着した。漂着した69人のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件。54名は衣服を剥ぎ取られた上で、首を取られた。
※この川のほとりには、首の無い死体がごろごろしていた。
http://m-mikio.world.coocan.jp/5X1A46891.JPG
0816日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 13:56:14.88
岩倉具視は、遣韓使節よりも、樺太問題を優先する外交問題とすべきであると説いた。
「それほど急務なら拙者を露都へやってもらいたい」というのが、西郷の返答であった。
0817日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:00:11.81
大久保は財政問題、とくに多額の外債を指摘し、戦争によってさらに外債が増えれば、日本政府は財政が破綻し、インドのように英国の植民地になってしまうとして、征韓論に反対した。
0818日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:05:19.92
大久保と西郷の議論は、「翔ぶが如く」序盤の最大のヤマ場なので内容の引用はしない。
同席した板垣退助の感想だけを記しておく。
「西郷と大久保の議論は、感情に馳せてややもすれば道理の外に出で、一座、呆然として喙を容るるに由なき光景であった」
0819日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:10:38.39
西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありと思っていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。
というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしていた。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:16:39.40
しかしながら出来あがった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。
こういう新国家というものが、いかに将来国庫が満ち、軍器が精巧になろうとも、この地球において存在するだけの価値のある国家とはいえない、と西郷は思っている。
0821日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:28:07.28
外征することによって逆に攻められてもよい。国土が焦土に化すのも、あるいは可である。朝鮮を触ることによって逆にロシアや清国が日本に攻めてくることがあるとしても、それはむしろ歓迎すべきである。
百戦百敗するとも真の日本人は焦土のなかから誕生するに違いない。国家にとって必要なのは片々たる財政の収支表や、小ざかしい国際知識ではない。
0822日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:50:09.89
    人
   (_)
   (__)
   ( ・∀・)つ   土百姓ー♪
 (( (⊃  (⌒) ))
    (__ノ
     人
    (_)
    (__)    素町人ー♪
    (・∀・ )__ 
 (( ⊂⊂   _)
     (__ノ ̄ 彡
0823日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:56:09.12
▽伊予牛の闘い
伊予の闘牛の起源については諸説あるが、起源はともかく享和年間 (1800年頃) には土俵を設け、本格的な闘牛が行われていた様子が、伊達家の藩政時代の古文書にも記されている。
現在は、JR駅前の小高い丘の上に建てられたドーム型の屋内闘牛場を会場に、年5回の定期大会と観光闘牛を開催している。地元では闘牛のことを「突きあい」と称する。
http://www.pikara.net/img/upload/image201304221813241.jpg
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/sccfe36b509eac439/image/i4a14460af7016373/version/1499737763/image.jpg
0824日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 14:59:21.35
▽大木喬任……ほとんどうつむいたきり
▽大隈重信……たえずそわそわしていた
▽後藤象二郎……あるいは眠っているのかもしれない
0827日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 15:31:45.86
西郷の征韓論は、革命の輸出であった。革命そのものの輸出というより、かれが高度なものとして懸命に評価したがっている明治維新の精神の朝鮮への輸出であった。この輸出が朝鮮において成功すれば清国に及ぼし、それでもって三国同盟を結び、欧米の進出を防ごうというのである。
が、これに対する大久保の応答は冷然としている。
「そりゃ貴公、正気の一言か?わが国の士族の颯爽とした士魂が、チョンやチャンコロに理解できるとお思いか?」
0828日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 15:37:46.58
「朝鮮は経済が貧しい。出兵の経費を朝鮮において得ようとしても、そうは問屋が卸しませぬ」
0829日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 15:40:06.23
>>826
会議終了後、三条が今日の議事を上奏するために席を外すと、弁当をとりながら冗談を言っているよ。
0830日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 15:46:28.43
「条公に決断を求めるのは、比丘尼にフグリを求むるがごとし」というチャリ(冗談)は、西郷が言ったことになっているけど、この場で江藤新平に言わせた方が面白かったね。
0831日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 15:47:28.95
西郷は他の場所で江藤のチャリをパクったのよ。
よくあるでしょう、こういうの。
0832日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 16:09:14.88
★閉会後の隣室

▽板垣と副島
西郷が参議を辞職すれば、板垣と副島も袂を連ねて辞職すると西郷に告げた。
板垣にすれば西郷の辞職だけは思い止まらせたかった。西郷の辞職が天下の大乱を招くおそれがあることは、板垣も承知していた。
0833日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 16:10:28.80
▽西郷
「あすは拙者は出ません」
これ以上は、廟堂の採否に任せたい。
0834翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/27(火) 16:17:14.20
第15章 激突

〔二〕十月十五日
大久保ら反征韓派にとって信じがたいほどの逆転が、十五日の廟議の午後になって起こった。
廟議が、にわかに逆転した。征韓論に決定した。具体的にいえば西郷を大使として韓都ソウルに派遣するということであった。大久保は敗退した。
0835日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 16:20:39.32
日本人の集団の意思決定が、外国人からみて理解しにくいというのは、明治六年の政変に典型的に表れているな。
自分もこの小説を初読したとき、この逆転劇に大いに驚いた。
物語の流れからして、征韓論に決定するなど、思いもよらなかった。
0837日本@名無史さん
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2018/02/27(火) 16:31:23.82
>>819-821
西郷の言わんとすることには大賛成なのだが、成果を数値化できない事柄は、成功したのか失敗したのかが客観的に把握できないんだよね。
政治の成果も、学業の成績も、結局、数値化が可能なもので判断せざるをえないんだよ。
そうしないと、とんでもない暴政が、主観的判断によって正当化されてしまう。
0838日本@名無史さん
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2018/03/01(木) 18:36:45.21
【UFO対応「検討せず」】 右翼は土下座しろ、山本太郎に非礼を詫びろ、宇宙人にビビッて改心しても遅い
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1519871824/l50


サヨクは放棄せよ!

天皇の首をはねよ!
0839日本@名無史さん
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2018/03/02(金) 06:12:09.17
日本が敗戦していく様をニヤニヤしながらしながら見てたのって司馬遼太郎だっけ?
0841日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:39:51.16
★太政官代

▽10月15日朝10時
欠席者は、木戸と西郷。木戸の欠席は、征韓論をめぐる論争が長州と薩摩の対立の図式に転換されることを避けるためであった。
議論は、西郷案に賛成する板垣・副島・江藤 vs 大久保の対立で進行した。
0842日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:42:34.40
廟議は、征韓論に決定した。
この時期、多数決の法則は確立していなかったが、たとえ多数決によったとしても、征韓・反征韓は同数であった。
0843日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:48:20.62
可否同数のときは、太政大臣と右大臣の二人で採否を決する他なかった。
あたかも日本国憲法第56条第2項後段と同じ扱いがなされた。
「両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる」
0844日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:53:05.80
▽正午前
岩倉には、三条がなぜ表情をひきつらせて万策つきたと言ったかという意味がよくわかっていた。
征韓論はもはや回避しがたい。西郷の背後勢力が暴発すれば政府そのものが潰れてしまうのである。
(それよりも大久保を捨てよう)
と、三条の表情が、いまにも泣きだしそうな緊張でもって岩倉に語りかけているのである。
0845日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:55:58.12
      ry *‘ω‘ *ヽっ  西郷参議を韓都に派遣ということに相決まりましたゆえ、
      `!       i
      ゝ c_c_,.ノ  
         (
          )
     .∧ ∧.(
     (*‘ω‘ ∩   左様お心得くださるように
     o   ,ノ  
    O_ .ノ
      .(ノ
0846日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 00:25:49.78
★麹町区内幸町

▽三条実美ー37歳
みごとに大久保を裏切ったな。
大久保への自責の念を吐露した手紙を岩倉に認めている。
「自分は陸海軍総裁になろうと思う」
0847日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 09:38:29.74
留保事項が附帯しているとはいえ、勅許まで得ているという点も見逃せないな。
0848日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 09:43:33.90
★岩倉邸

▽風呂
留守内閣時代に三条がまいた種であるので、三条よりは気分が楽であった。
風呂にはいって酒を飲み、三条の手紙を大久保へ回送した。
0850日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 09:54:56.32
▽伊藤博文の来訪
伊藤は、三条を外し、岩倉を主軸にして政局を回転させる企図を、岩倉に打ち明けた。
その上で、岩倉にも仮病をつかい、明日は登庁しないことを勧めた。
登庁すれば、西郷渡韓の準備をせざるをえないからである。
0851日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 12:49:05.30
▽招集さるべき関係諸卿
・外務卿……副島種臣
・陸軍卿……山県有朋〈無期出張中ー時期尚早論〉
・海軍大輔……勝海舟〈朝鮮へ出兵すれば辞職するー時期尚早論〉
・大蔵総裁……大隈重信
0852翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/04(日) 12:56:57.49
第16章 分裂

――奏上については、一日だけ猶予されよ。
と、太政大臣三条実美が、廟議の席で泣かんばかりに懇請したことに西郷がついに折れ、廟議は奏上を一日待つことになった。ということは、翌十八日に奏上されることになった。
ところがその運命的な十八日、それも早暁において三条は自宅で昏倒した。三条は太政大臣としての執務ができなくなった。
0853日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:03:39.35
★岩倉邸

▽10月16日
伊藤と大隈が、岩倉邸を訪れる。仮病で登庁しなかった岩倉を見舞うためであった。
征韓派の江藤新平について語り合う。
0854日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:08:11.94
★大久保邸

▽10月16日
黒田清隆と西郷従道が、大久保邸を訪ねている。
午後、大久保は外出し、伊地知正治のもとで囲碁を打っている。
0855日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:12:48.61
▽伊地知正治
文政11年(1828年)- 明治19年(1886年)
薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。安政6年(1859年)には精忠組に参加。
文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。伊地知は類稀な軍略家であり、禁門の変や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。
https://bakumatsu.org/img/00082_l.jpg
0856日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:14:46.26
戊辰戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだが、中央の太政官政府と海軍予算拠出を巡って対立し、勝手に帰郷するなど騒動を起こしてもいる。廃藩置県後は薩閥の有力者として太政官政府に入った。
征韓論争では征韓側につく。板垣とともに派兵計画を立てるが、明治六年政変では下野しなかった。対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長の伊地知が代わって議長に就任したためである。
のちに参議を兼任し、修史館総裁、一等侍講、宮中顧問官などを歴任。西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力し、明治19年(1886年)に59歳で死去。
激烈な性格で頭脳は優れていたというが、奇人としての逸話も多い。
0857日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:19:16.89
▽10月17日
16日夜に岩倉へ、17日に三条へ手紙を書く。
手紙原文の清々しさからみて、16日から翌17日にかけての大久保の心境にはもはや寝技の政略を試みて頽勢を回復しようというような気持ちはなかったとみていい。
0858日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:24:31.85
★麹町区内幸町

▽大久保の辞表
10月17日朝8時、大久保は三条邸を訪れ、辞表を三条に直接手渡した。
0859日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:25:51.95
▽岩倉の辞表
大久保の辞表が提出された10月17日、岩倉の辞表も三条邸に届いた。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:53:56.98
★太政官代

▽10月17日
西郷は朝早くから登庁した。やがて江藤、後藤、副島、板垣といった征韓派の諸参議が登庁してきた。
三条の登庁は、昼ちかくになってであった。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:56:22.07
▽岩倉は病欠
三条は岩倉の辞表については口外しなかった。
大久保の辞表については、三条は一同に報告した。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:02:20.42
▽勅裁
西郷は、15日の廟議決定事項について直ちに勅裁を得ることを要求する。
これに対して、三条は、勅裁は三職がそろっているときに参内し奏上してそれを仰ぐべきだと反論した。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:06:57.03
▽一日の猶予
三条は明日一日だけ岩倉右大臣の登庁を待っていただきたいと西郷に願うが、両者の意見はいたずらに並行した。
ここで後藤象二郎が余計な一言。
「たかが一日のことです。待っても不都合はござるまい」
西郷は承諾せざるをえなくなった。
0864日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 14:15:57.20
西郷の征韓論は、巨視的にいえば維新という革命の朝鮮への輸出であった。
その西郷の正義は、かならずしも現実性をともなっていない。ナポレオンの軍隊が強かったのは、徴兵による国民軍であったからだということはたれもが否定できないが、西郷はむしろ維新以前の士族軍の再編成に執着していた。
士族が、密集と没我を必要とする近代軍隊の兵に適しないことは、日本では長州人のみが幕末に経験しているところであった。
0867日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 17:32:06.68
10月18日早暁に>>852で述べたような事故が生ずるのであるが、次章では、三条の昏倒にいたる10月17日の詳しい事情が述べられている。時系列に従って述べた方が理解しやすいので、ここから次章に移して語る。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 17:37:06.29
三条は十七日、西郷らとの廟議が終わったあと、逃げるようにして太政官を出た。
三条の馬車は、味方をもとめて走った。岩倉のもとへであった。岩倉もすでに三条を見捨てていたのだが、三条としては岩倉の膝に這いあがって自分の窮状を訴えるしかない。
0869翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/04(日) 17:59:23.18
第17章 右大臣

岩倉はよく堪えた。
江藤の論鋒にも堪え、桐野利秋の弄剣のしぐさによる脅迫にも堪えた。桐野はむろんそこまでしなかったが、かれのやったことは大剣を引っこぬいて岩倉の頸筋に氷のような刃を当てつづけているのと効果は変わらない。
さらには板垣という維新の戦功における第一級の功労者や、副島というこの時代の気概と良心の代表者のような男も犇と岩倉をとりまいているのである。
こういう条件下ではふつうならどこかで妥協するはずであったが、岩倉はついに屈せず、その上この圧力に対してよほどの憤りがあったせいか、話が尽きたころ一座を睨みまわし、
「わしのこの両眼の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うても、そうはさせんぞ」
と、岩倉の生涯のなかでももっとも凄みのある一言を吐くにいたるのである。
0870日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 18:50:54.38
>>865
司馬さんと新選組の出会いについては、司馬遼太郎 Part10の「綱淵謙錠氏のこと」の中で書いている。
〔465-466〕を参照してみてくれたまえ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511343401/
465 自分返信:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 20:34:26.46
昭和37年頃、司馬遼太郎は新撰組について調べたことも考えたこともなかった。
その年の5月に「新選組血風録」、11月に「燃えよ剣」の連載を始めている。
したがって、第一ホテルで綱淵謙錠と会ったのは、昭和37年の1〜3月の頃だと思われる。
なお、綱淵謙錠は、子母澤寛の「新選組始末記」を読んで、歴史小説にのめり込んでいた時期である〔460〕。
466 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 20:41:50.86
綱淵さんは、中央公論編集部の次長として司馬さんに新選組について随筆を書いてくれと依頼した。
その結果が、「小説中央公論」に連載された『新選組血風録』である。
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