X



司馬遼太郎 Part12
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:49:29.32
▽殺されるべき人物
大衆は政治について大久保のような生真面目な明晰者を好まないという恐るべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。
さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/25(日) 19:32:30.42
大久保は参議に就任することを受諾した夜、自分でランプの吊り紐を長くし、机上を明るくして遺言のようなものを書いている。
とくに米国に留学させてある伸顕については文中わざわざ指名し、
「外国にあって自分の変を聞くのはさぞ驚くべきことであろうが……」
と、書いている。変がおこることを大久保は予期という以上に確信していたことが、この一事でも察せられる。
0769翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/25(日) 19:59:25.43
第14章 秋の霜

〔二〕征韓派
日本橋小網町の西郷は、十月に入ってから不愉快な日がつづいている。
「いっちょん、廟議が開かれもさんな」
と問う者があると、最初のころは、
「諸公も忙しかとごわンそ」
といっていたが、日が過ぎてゆくにつれて、そういう質問があると、そっぽを向いて答えなかった。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/25(日) 20:05:52.93
★日本橋小網町

▽10月11日
西郷の督促に応じて、三条は10月11日に廟議を開くことを西郷に約束した。
しかし、大久保が準備の都合で時間が必要な旨を三条に申しやると、三条は廟議の日を10月14日に変更した。
その旨を三条が西郷に申し伝えたのが10月11日だった。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:29:00.34
★山県有朋

▽陸軍卿
明治5年、34歳で陸軍中将になる。
ロシアの南下政策に強い懸念を抱いている点では西郷と同じであるが、征韓論には批判的であった。
山県は明治6年1月の徴兵令の将来に期待をかけていた。つまり、時期尚早論。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:37:22.00
▽山城屋和助事件〔>>153-156
明治5年11月29日、山県への面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。
大河ドラマでは、芦名千草という千絵〔>>583〕の姉も登場していた。山城屋和助の愛人だった。
※芦名千草役は南條玲子
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/65/35/8e/65358e231449baca4ee9bf8c0847bc3c.gif
※山城屋和助役は藤堂新二
https://i.pinimg.com/236x/16/f6/f2/16f6f2638b3945c31ea279558f384170.jpg
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:46:07.89
▽近衛都督
明治5年2月に近衛条例が制定され、御親兵〔>>271〕が近衛と改称された。各地の鎮台が陸軍卿の権能内におかれた政府軍であるのと異なり、近衛の総指揮官である近衛都督(初代山県有朋、二代西郷隆盛)は天皇に直隷した。また近衛兵は壮兵つまり職業兵制をとることになった。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:51:11.11
近衛の薩摩系将校らは、上司である近衛都督山県有朋の辞職を要求した。
明治6年4月、山県有朋は陸軍大輔および近衛都督を辞任する。
西郷が第二代近衛都督になるのは、山県の辞職後である。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 08:04:01.55
▽三浦梧楼
弘化3年(1847年)- 大正15年
萩藩士の陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍する。
維新後は兵部省に出仕、明治7年には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山を陥落させた。明治11年に陸軍中将となり、西部監軍部長。
長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。
https://jpreki.com/wp-content/uploads/2015/08/miura-ro.jpg
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 08:12:09.45
三浦梧楼の山城屋和助事件への関与については、筆者は詳しく知らない。
鳥尾小弥太〔>>259-260〕は、深く関与している。当時の鳥尾と山縣の仲はまだ険悪ではなかった。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 08:21:46.10
桐野利秋ら薩摩系近衛士官は、長州系の高級将校の辞任をも追及した。
西郷は、この事件を契機に薩長間に激烈な闘争が生じることを怖れ、桐野らを抑えた。
山県は2ヶ月後に陸軍卿に昇格して復職した。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:06:34.76
▽徴兵令
前スレ〔859-863〕で詳述した。
明治6年1月10日(新暦)に施行された徴兵令で、士族および農民の明治新政府に対する不満が一挙にヴォルテージを上げた。
士族にしてみれば、明治5年の国民皆兵をうたう徴兵告諭でプライドを傷つけられ、翌明治6年には征韓中止で活躍の場を奪われた。
農民にしてみれば、江戸時代260年のあいだ兵士にとられることがなかったのに、維新によって若い労働力を鎮台に奪われることになった。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:10:00.08
▽鎮台
鎮台についても、前スレ〔638-639〕に述べた。
明治4年8月に、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された。
明治6年に名古屋鎮台と広島鎮台が増設された。同年の徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:12:41.13
鎮台の平時兵力ー3万1,680人
歩兵14個連隊
騎兵3個大隊
砲兵18個小隊
工兵10個小隊
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:17:31.13
▽師管
師管が設けられたのは、鎮台条例改定により6鎮台が設置された明治6年1月である。このとき鎮台の管轄が軍管、連隊の管轄が師管と定められた。6鎮台・14師管の体制。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:20:04.42
第1軍管:東京鎮台
  第1師管(東京) 第2師管(佐倉) 第3師管(新潟のち高崎)
第2軍管:仙台鎮台
  第4師管(仙台) 第5師管(青森)
第3軍管:名古屋鎮台
  第6師管(名古屋) 第7師管(金沢)
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:21:38.39
第4軍管:大阪鎮台
  第8師管(大阪) 第9師管(大津) 第10師管(姫路)
第5軍管:広島鎮台
  第11師管(広島) 第12師管(丸亀)
第6軍管:熊本鎮台
  第13師管(熊本) 第14師管(小倉)
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:27:52.65
▽陸軍戸山学校
明治6年6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、上下士官の訓練事務を始めた。翌明治7年2月、陸軍戸山学校と改称した。
歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行った。早稲田大学から5分ほど歩いた戸山公園は、都心で最も標高が高い。そこにはかつて陸軍戸山学校があった。
http://toyamaryuiaido.jp/images/toyamaryu/rikuguntoyama.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/noraneco711/imgs/3/1/316dc174.jpg
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:36:16.79
▽陸軍士官学校
日本陸軍の現役将校養成補充機関。前身は明治元年京都に設けられた兵学校で、これが兵学所、兵学寮を経て、明治7年に陸軍士官学校と改称され、東京の市ヶ谷に移転した。
司馬さんは、「士官学校を兵学寮の中に置く」と述べられているが、意味不明である。単純に兵学寮を改称して陸軍士官学校としたと覚えておけばよい。
http://blog-imgs-16.fc2.com/b/e/s/besankosyashin/20071125191053.jpg
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 11:17:09.62
▽兵部卿・陸軍卿
仁和寺宮嘉彰親王:明治2年7月 - 12月
欠:明治2年12月 - 明治3年4月
有栖川宮熾仁親王:明治3年4月 - 明治4年6月
欠:明治4年6月 - 明治6年6月……陸軍省設置は明治5年2月〔>>303
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 11:20:38.82
▽兵部大輔・陸軍大輔
大村益次郎:明治2年7月 - 11月(同年12月7日に死去)
前原一誠:明治2年12月 - 明治3年9月
欠:明治3年9月 - 明治4年7月
山縣有朋:明治4年7月 - 明治5年2月……山県は明治6年4月まで陸軍卿代理(陸軍大輔)
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 11:21:40.97
★日本橋小網町

▽出張の挨拶
山県は国内各地の鎮台を視察するため、東京を離れる。その挨拶のために、西郷を訪ねた。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 11:24:18.10
「もう一両年経てば兵制の基礎が立ちましょう。そうすれば兵を海外に出すことも出来ましょうが、いまならばよほど困難します」
0790翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/26(月) 11:31:24.44
第14章 秋の霜

〔三〕板垣退助
裏切った、という表現が成りたつとすれば、この場の板垣退助と副島種臣は、ごくあっさりと西郷を裏切ってしまったのである。
「海軍の兵備が整わぬとあれば仕方がありませんな」
と、板垣が言い、副島がうなずいた。
板垣などは、
「当日、西郷君を欠席させてはどうでしょう」
とまで言いだしたのである。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:22:45.37
★麹町区内幸町

▽10月13日
廟議の日の前日になって、三条と岩倉は、征韓派の板垣退助と副島種臣に翻意を促すことを思いたった。
二人は大久保の了承を得て、10月13日午後、板垣と副島を麹町区内幸町にある三条邸に呼んだ。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:34:35.26
▽“古池や買わず飛び込む御簾の内”
太政官の大官が無料で広大な旧大名屋敷を手に入れたことを皮肉った川柳。
当時の東京の庶民が三条家の門前に落首したと書かれているが、もしかすると司馬さんの創作かもしれない。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:41:28.40
▽勝海舟
文政6年〈1823年〉 - 明治32年
明治5年5月に海軍大輔に任じられ、明治6年3月には勅使として西四辻公業と共に鹿児島へ下向し、4月に島津久光を東京へ上京させた〔>>685〕。
明治六年政変で西郷らが下野した後の10月に海軍卿に任じられたが、翌7年の台湾出兵に反対して引き籠り、欠席したまま明治8年4月に元老院議官へ転属したが、11月に辞職して下野した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/Yoshiyasu_Katsu_in_Meiji.jpg
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:44:36.34
海軍には雄藩が献上した商船まがいの小軍艦と東艦があるぐらいで、朝鮮の沿岸砲を打ち砕いて陸兵を上陸せしめる戦力はないと、海軍大輔勝安芳は言った。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:49:30.32
 
  ∧_∧     ∧∧
 ( ´∀`)∬ ∬ (゚Д゚)  「勝先生がそうおっしゃるようなら、仕方がありません」
 (__   ⊃目 目⊂ ノ
  し__)┳━┳ (_っ
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:58:53.48
革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。
同時代にかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者もいたが、しかしそれらの人々が日常の常識的世界の安らかさの中で過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 13:04:21.71
この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治後である。交わりつつも、ついには交わりきれないものがあるのは、この連中の過去を動かしてきた志、あるいは精神の肉腫のようなものが邪魔をするのかもしれない。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 13:06:29.38
以上は、革命家としての履歴の浅い板垣と副島が、常識的世界の人間として、簡単に説得に応じたことへの感想として司馬さんが述べている。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 14:14:31.99
▽事実上の宰相
この時期になると、大久保利通は事実上の宰相であるという翳が濃くなる。
参議の地位についてまだ数日でしかないのに、上位の太政大臣三条実美と右大臣岩倉具視がいちいち大久保の意向をうかがうという、一見常識では信じがたい態度をとりはじめ、そのことが大久保利通という廟堂では最新参にすぎないこの参議を、就任早々事実上の宰相に仕立てあげた。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 14:24:12.00
★日本橋小網町

▽勝ち目
西郷は自分の上程案に勝ち目が薄くなっていることまで気付きはじめている。陸軍卿山県有朋が、「地方の鎮台を巡視しますので」といって暇乞いにきたことでもわかる。山県は一ヵ月以上東京を留守にするであろう。西郷が決死の覚悟で渡韓するという時期に、陸軍卿が不在というのは疎漏なことであった。
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 14:44:10.08
▽10月14日朝
三条実美からの使いがくる。
「欠席されたい」との文面であった。
西郷は、使いである三条家の老家令とともに、三条邸にむかった。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 14:50:00.49
★麹町区内幸町

▽朝七時すぎ
「拙者のみを除外なさるとは、公平を失した御沙汰ではござらんか」
西郷の勢いに怒りがこもっていて、三条は応答もしどろもどろになり、じつは板垣がそう言ったのだ、と、簡単に人名を出してしまった。
西郷は一瞬、息を小さくした。板垣も裏切ったか、と思った。この一事は西郷に悲痛の思いを持たせた。
0803翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/26(月) 16:08:11.31
第15章 激突

〔一〕十月十四日
「拙者の意見が行われぬとすれば、もはや已むをえませぬ。職を辞するのみでござる」
この発言がおこなわれたとき、一座が一瞬、凝然としたように空気が重くなった。西郷がその提案に死を賭しているらしいということは諸参議にとって周知のことなのだが、しかし西郷自身の口から進退についての決意を公言されたのは最初で、しかもこれは単におどし言葉ではない。
この会議では二人の公卿をのぞいてみな武士のあがりである。
この一言に天下瓦解という戦慄的な予感をもったのは、三条実美と岩倉具視であった。西郷が太政官を去るとなれば近衛将校団や国もとの薩摩人が黙っていないであろう。かれらが蜂起すれば、鬱勃として天下の乱を待っている日本中の不平士族がいっせいに立ち上がるに相違ない。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 16:32:38.47
★太政官代

▽太政官代
明治6年10月当時は、馬場先門内の旧教部省庁舎が仮の太政官庁舎。
明治5年3月に西の丸下に太政官庁舎を造営したが、明治6年5月5日に皇城火災に遭い、太政官庁舎は焼失していた。
即日、赤坂離宮が仮皇居と定められたが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に太政官代が設置された。
※太政官正院の庁舎があった馬場先門内の皇居外苑
http://www.sankei.com/images/news/160501/prm1605010020-p1.jpg
0805日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 16:43:04.75
明治10年8月、太政官を赤坂仮皇居〔>>67〕内に移転、翌11年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が仮皇居内に新築された。
内閣制度発足の明治18年12月までは太政官庁舎として、発足後明治22年1月まで内閣庁舎として使用された。
※明治21年の枢密院憲法会議が開かれたのは、赤坂仮御所内の別殿「ご会食所」であって、仮皇居内の太政官庁舎ではない〔>>68〕。
http://www.tanken.com/meijikyuden2.jpg
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 16:52:12.65
▽木戸孝允
参議の身分のままで外遊したのは、木戸孝允一人であった。帰国後も木戸は参議のままである。
この日の廟議には、欠席した。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 16:59:39.22
▼木戸孝允と大久保利通
〔1〕版籍奉還〔>>252-253
封建制の廃止と郡県制による中央集権の必要性を認識する木戸は、まだ戊辰戦争の最中である明治元年1868年2月、三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出した。しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しなかった。
同年9月、木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾した。さらに木戸は山内容堂と会談して土佐藩の同意を取り付け、大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、明治2年1月20日、薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出された。その後、大半の諸藩が同様に版籍奉還の上表を提出した。
この時点では、旧藩主がそのまま知藩事として任命された形となり、木戸の念願である郡県制の実現は廃藩置県を待たねばならなかった。また、当初の廟議案では知藩事は世襲とする旨の文案であったが〔>>633〕、木戸はこれに反対し、「世襲」の2字は削除された。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:03:09.94
〔2〕兵制論争
版籍奉還においては一致協力した木戸と大久保であったが、兵制改革においては対立した。
徴兵制による国民皆兵を唱える大村・木戸に対して、薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。結果的には、大村と木戸はこの論争に敗れ、薩長土三藩による御親兵が設置された。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:09:18.96
〔3〕官制改革
明治2年7月の官制改革により参議が任命された。副島種臣(肥前)、前原一誠(長州)、大久保利通(薩摩)、広沢真臣(長州)の4名。
当初、大久保は、木戸を自身と共に参議から外して、実権のない待詔院学士に祭り上げようとした。しかし、木戸・大隈ら木戸派の反発に遭い、また木戸と大久保が2人とも参議から外れる不自然さは「世論紛々、諸官解体」という混乱を呈し、結局は三条実美と岩倉が収拾に乗り出す形となった。
結局、大久保、木戸の盟友である広沢真臣、副島種臣の3人が改めて参議に任じられた。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:13:02.02
〔4〕参議内閣制
明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年6月、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視・三条実美から、木戸がただ1人の参議となるように求められる。
木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ」と応じ、薩長土肥1人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。しかしこの体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:20:14.68
大隈重信は長州閥に接近しており、大久保利通とは対立していた。
大隈を大久保の傀儡とする「翔ぶが如く」には、なじめないな。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:22:44.49
木戸さんが鬱病っぽくなったので、大隈は、木戸から大久保に乗りかえたんだろうよ。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:31:12.00
▽午後一時すぎ
三条実美(37歳)・岩倉具視(49歳)
西郷隆盛(48歳)・副島種臣(46歳)・大久保利通(44歳)・大木喬任(42歳)・江藤新平(40歳)
板垣退助・大隈重信・後藤象二郎(いずれも30代)
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:47:26.96
▽明治初年の樺太問題
前スレ〔801-804〕に詳述した。
ロシアは、明治2年に樺太を流刑地にした。つまり南樺太に暮らす日本人は、ロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていた。そのため、樺太の日本人は、悲惨な事件に遭遇し続けた。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、強盗殺人を働き、そして日本人女性を強姦するなどの事件が多発した。明治6年2月には、ロシア人多数が大泊(コルサコフ)の日本人の漁場と建物を焼き払うという事件も起きた。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:52:56.37
▽宮古島島民遭難事件
明治4年10月18日、琉球王府への納税を終えた宮古島の船1隻が、那覇からの帰途に強風に遭い、11月6日、台湾東南海岸に漂着した。漂着した69人のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件。54名は衣服を剥ぎ取られた上で、首を取られた。
※この川のほとりには、首の無い死体がごろごろしていた。
http://m-mikio.world.coocan.jp/5X1A46891.JPG
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:56:14.88
岩倉具視は、遣韓使節よりも、樺太問題を優先する外交問題とすべきであると説いた。
「それほど急務なら拙者を露都へやってもらいたい」というのが、西郷の返答であった。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:00:11.81
大久保は財政問題、とくに多額の外債を指摘し、戦争によってさらに外債が増えれば、日本政府は財政が破綻し、インドのように英国の植民地になってしまうとして、征韓論に反対した。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:05:19.92
大久保と西郷の議論は、「翔ぶが如く」序盤の最大のヤマ場なので内容の引用はしない。
同席した板垣退助の感想だけを記しておく。
「西郷と大久保の議論は、感情に馳せてややもすれば道理の外に出で、一座、呆然として喙を容るるに由なき光景であった」
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:10:38.39
西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありと思っていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。
というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしていた。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:16:39.40
しかしながら出来あがった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。
こういう新国家というものが、いかに将来国庫が満ち、軍器が精巧になろうとも、この地球において存在するだけの価値のある国家とはいえない、と西郷は思っている。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:28:07.28
外征することによって逆に攻められてもよい。国土が焦土に化すのも、あるいは可である。朝鮮を触ることによって逆にロシアや清国が日本に攻めてくることがあるとしても、それはむしろ歓迎すべきである。
百戦百敗するとも真の日本人は焦土のなかから誕生するに違いない。国家にとって必要なのは片々たる財政の収支表や、小ざかしい国際知識ではない。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:50:09.89
    人
   (_)
   (__)
   ( ・∀・)つ   土百姓ー♪
 (( (⊃  (⌒) ))
    (__ノ
     人
    (_)
    (__)    素町人ー♪
    (・∀・ )__ 
 (( ⊂⊂   _)
     (__ノ ̄ 彡
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:56:09.12
▽伊予牛の闘い
伊予の闘牛の起源については諸説あるが、起源はともかく享和年間 (1800年頃) には土俵を設け、本格的な闘牛が行われていた様子が、伊達家の藩政時代の古文書にも記されている。
現在は、JR駅前の小高い丘の上に建てられたドーム型の屋内闘牛場を会場に、年5回の定期大会と観光闘牛を開催している。地元では闘牛のことを「突きあい」と称する。
http://www.pikara.net/img/upload/image201304221813241.jpg
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/sccfe36b509eac439/image/i4a14460af7016373/version/1499737763/image.jpg
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:59:21.35
▽大木喬任……ほとんどうつむいたきり
▽大隈重信……たえずそわそわしていた
▽後藤象二郎……あるいは眠っているのかもしれない
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:31:45.86
西郷の征韓論は、革命の輸出であった。革命そのものの輸出というより、かれが高度なものとして懸命に評価したがっている明治維新の精神の朝鮮への輸出であった。この輸出が朝鮮において成功すれば清国に及ぼし、それでもって三国同盟を結び、欧米の進出を防ごうというのである。
が、これに対する大久保の応答は冷然としている。
「そりゃ貴公、正気の一言か?わが国の士族の颯爽とした士魂が、チョンやチャンコロに理解できるとお思いか?」
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:37:46.58
「朝鮮は経済が貧しい。出兵の経費を朝鮮において得ようとしても、そうは問屋が卸しませぬ」
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:40:06.23
>>826
会議終了後、三条が今日の議事を上奏するために席を外すと、弁当をとりながら冗談を言っているよ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:46:28.43
「条公に決断を求めるのは、比丘尼にフグリを求むるがごとし」というチャリ(冗談)は、西郷が言ったことになっているけど、この場で江藤新平に言わせた方が面白かったね。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:47:28.95
西郷は他の場所で江藤のチャリをパクったのよ。
よくあるでしょう、こういうの。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:09:14.88
★閉会後の隣室

▽板垣と副島
西郷が参議を辞職すれば、板垣と副島も袂を連ねて辞職すると西郷に告げた。
板垣にすれば西郷の辞職だけは思い止まらせたかった。西郷の辞職が天下の大乱を招くおそれがあることは、板垣も承知していた。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:10:28.80
▽西郷
「あすは拙者は出ません」
これ以上は、廟堂の採否に任せたい。
0834翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/27(火) 16:17:14.20
第15章 激突

〔二〕十月十五日
大久保ら反征韓派にとって信じがたいほどの逆転が、十五日の廟議の午後になって起こった。
廟議が、にわかに逆転した。征韓論に決定した。具体的にいえば西郷を大使として韓都ソウルに派遣するということであった。大久保は敗退した。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:20:39.32
日本人の集団の意思決定が、外国人からみて理解しにくいというのは、明治六年の政変に典型的に表れているな。
自分もこの小説を初読したとき、この逆転劇に大いに驚いた。
物語の流れからして、征韓論に決定するなど、思いもよらなかった。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:31:23.82
>>819-821
西郷の言わんとすることには大賛成なのだが、成果を数値化できない事柄は、成功したのか失敗したのかが客観的に把握できないんだよね。
政治の成果も、学業の成績も、結局、数値化が可能なもので判断せざるをえないんだよ。
そうしないと、とんでもない暴政が、主観的判断によって正当化されてしまう。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/01(木) 18:36:45.21
【UFO対応「検討せず」】 右翼は土下座しろ、山本太郎に非礼を詫びろ、宇宙人にビビッて改心しても遅い
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1519871824/l50


サヨクは放棄せよ!

天皇の首をはねよ!
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/02(金) 06:12:09.17
日本が敗戦していく様をニヤニヤしながらしながら見てたのって司馬遼太郎だっけ?
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:39:51.16
★太政官代

▽10月15日朝10時
欠席者は、木戸と西郷。木戸の欠席は、征韓論をめぐる論争が長州と薩摩の対立の図式に転換されることを避けるためであった。
議論は、西郷案に賛成する板垣・副島・江藤 vs 大久保の対立で進行した。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:42:34.40
廟議は、征韓論に決定した。
この時期、多数決の法則は確立していなかったが、たとえ多数決によったとしても、征韓・反征韓は同数であった。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:48:20.62
可否同数のときは、太政大臣と右大臣の二人で採否を決する他なかった。
あたかも日本国憲法第56条第2項後段と同じ扱いがなされた。
「両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる」
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:53:05.80
▽正午前
岩倉には、三条がなぜ表情をひきつらせて万策つきたと言ったかという意味がよくわかっていた。
征韓論はもはや回避しがたい。西郷の背後勢力が暴発すれば政府そのものが潰れてしまうのである。
(それよりも大久保を捨てよう)
と、三条の表情が、いまにも泣きだしそうな緊張でもって岩倉に語りかけているのである。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:55:58.12
      ry *‘ω‘ *ヽっ  西郷参議を韓都に派遣ということに相決まりましたゆえ、
      `!       i
      ゝ c_c_,.ノ  
         (
          )
     .∧ ∧.(
     (*‘ω‘ ∩   左様お心得くださるように
     o   ,ノ  
    O_ .ノ
      .(ノ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 00:25:49.78
★麹町区内幸町

▽三条実美ー37歳
みごとに大久保を裏切ったな。
大久保への自責の念を吐露した手紙を岩倉に認めている。
「自分は陸海軍総裁になろうと思う」
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 09:38:29.74
留保事項が附帯しているとはいえ、勅許まで得ているという点も見逃せないな。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 09:43:33.90
★岩倉邸

▽風呂
留守内閣時代に三条がまいた種であるので、三条よりは気分が楽であった。
風呂にはいって酒を飲み、三条の手紙を大久保へ回送した。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 09:54:56.32
▽伊藤博文の来訪
伊藤は、三条を外し、岩倉を主軸にして政局を回転させる企図を、岩倉に打ち明けた。
その上で、岩倉にも仮病をつかい、明日は登庁しないことを勧めた。
登庁すれば、西郷渡韓の準備をせざるをえないからである。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 12:49:05.30
▽招集さるべき関係諸卿
・外務卿……副島種臣
・陸軍卿……山県有朋〈無期出張中ー時期尚早論〉
・海軍大輔……勝海舟〈朝鮮へ出兵すれば辞職するー時期尚早論〉
・大蔵総裁……大隈重信
0852翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/03/04(日) 12:56:57.49
第16章 分裂

――奏上については、一日だけ猶予されよ。
と、太政大臣三条実美が、廟議の席で泣かんばかりに懇請したことに西郷がついに折れ、廟議は奏上を一日待つことになった。ということは、翌十八日に奏上されることになった。
ところがその運命的な十八日、それも早暁において三条は自宅で昏倒した。三条は太政大臣としての執務ができなくなった。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:03:39.35
★岩倉邸

▽10月16日
伊藤と大隈が、岩倉邸を訪れる。仮病で登庁しなかった岩倉を見舞うためであった。
征韓派の江藤新平について語り合う。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:08:11.94
★大久保邸

▽10月16日
黒田清隆と西郷従道が、大久保邸を訪ねている。
午後、大久保は外出し、伊地知正治のもとで囲碁を打っている。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:12:48.61
▽伊地知正治
文政11年(1828年)- 明治19年(1886年)
薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。安政6年(1859年)には精忠組に参加。
文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。伊地知は類稀な軍略家であり、禁門の変や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。
https://bakumatsu.org/img/00082_l.jpg
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:14:46.26
戊辰戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだが、中央の太政官政府と海軍予算拠出を巡って対立し、勝手に帰郷するなど騒動を起こしてもいる。廃藩置県後は薩閥の有力者として太政官政府に入った。
征韓論争では征韓側につく。板垣とともに派兵計画を立てるが、明治六年政変では下野しなかった。対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長の伊地知が代わって議長に就任したためである。
のちに参議を兼任し、修史館総裁、一等侍講、宮中顧問官などを歴任。西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力し、明治19年(1886年)に59歳で死去。
激烈な性格で頭脳は優れていたというが、奇人としての逸話も多い。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:19:16.89
▽10月17日
16日夜に岩倉へ、17日に三条へ手紙を書く。
手紙原文の清々しさからみて、16日から翌17日にかけての大久保の心境にはもはや寝技の政略を試みて頽勢を回復しようというような気持ちはなかったとみていい。
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:24:31.85
★麹町区内幸町

▽大久保の辞表
10月17日朝8時、大久保は三条邸を訪れ、辞表を三条に直接手渡した。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:25:51.95
▽岩倉の辞表
大久保の辞表が提出された10月17日、岩倉の辞表も三条邸に届いた。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:53:56.98
★太政官代

▽10月17日
西郷は朝早くから登庁した。やがて江藤、後藤、副島、板垣といった征韓派の諸参議が登庁してきた。
三条の登庁は、昼ちかくになってであった。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:56:22.07
▽岩倉は病欠
三条は岩倉の辞表については口外しなかった。
大久保の辞表については、三条は一同に報告した。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:02:20.42
▽勅裁
西郷は、15日の廟議決定事項について直ちに勅裁を得ることを要求する。
これに対して、三条は、勅裁は三職がそろっているときに参内し奏上してそれを仰ぐべきだと反論した。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:06:57.03
▽一日の猶予
三条は明日一日だけ岩倉右大臣の登庁を待っていただきたいと西郷に願うが、両者の意見はいたずらに並行した。
ここで後藤象二郎が余計な一言。
「たかが一日のことです。待っても不都合はござるまい」
西郷は承諾せざるをえなくなった。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:15:57.20
西郷の征韓論は、巨視的にいえば維新という革命の朝鮮への輸出であった。
その西郷の正義は、かならずしも現実性をともなっていない。ナポレオンの軍隊が強かったのは、徴兵による国民軍であったからだということはたれもが否定できないが、西郷はむしろ維新以前の士族軍の再編成に執着していた。
士族が、密集と没我を必要とする近代軍隊の兵に適しないことは、日本では長州人のみが幕末に経験しているところであった。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 17:32:06.68
10月18日早暁に>>852で述べたような事故が生ずるのであるが、次章では、三条の昏倒にいたる10月17日の詳しい事情が述べられている。時系列に従って述べた方が理解しやすいので、ここから次章に移して語る。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 17:37:06.29
三条は十七日、西郷らとの廟議が終わったあと、逃げるようにして太政官を出た。
三条の馬車は、味方をもとめて走った。岩倉のもとへであった。岩倉もすでに三条を見捨てていたのだが、三条としては岩倉の膝に這いあがって自分の窮状を訴えるしかない。
0869翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/03/04(日) 17:59:23.18
第17章 右大臣

岩倉はよく堪えた。
江藤の論鋒にも堪え、桐野利秋の弄剣のしぐさによる脅迫にも堪えた。桐野はむろんそこまでしなかったが、かれのやったことは大剣を引っこぬいて岩倉の頸筋に氷のような刃を当てつづけているのと効果は変わらない。
さらには板垣という維新の戦功における第一級の功労者や、副島というこの時代の気概と良心の代表者のような男も犇と岩倉をとりまいているのである。
こういう条件下ではふつうならどこかで妥協するはずであったが、岩倉はついに屈せず、その上この圧力に対してよほどの憤りがあったせいか、話が尽きたころ一座を睨みまわし、
「わしのこの両眼の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うても、そうはさせんぞ」
と、岩倉の生涯のなかでももっとも凄みのある一言を吐くにいたるのである。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 18:50:54.38
>>865
司馬さんと新選組の出会いについては、司馬遼太郎 Part10の「綱淵謙錠氏のこと」の中で書いている。
〔465-466〕を参照してみてくれたまえ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511343401/
465 自分返信:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 20:34:26.46
昭和37年頃、司馬遼太郎は新撰組について調べたことも考えたこともなかった。
その年の5月に「新選組血風録」、11月に「燃えよ剣」の連載を始めている。
したがって、第一ホテルで綱淵謙錠と会ったのは、昭和37年の1〜3月の頃だと思われる。
なお、綱淵謙錠は、子母澤寛の「新選組始末記」を読んで、歴史小説にのめり込んでいた時期である〔460〕。
466 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 20:41:50.86
綱淵さんは、中央公論編集部の次長として司馬さんに新選組について随筆を書いてくれと依頼した。
その結果が、「小説中央公論」に連載された『新選組血風録』である。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 19:26:59.17
★岩倉邸

▽10月17日午後
三条が飛び込むようにして岩倉の病室に入ってきた。
岩倉は三条にも仮病をつかえとは言わなかった。
反対に、西郷を説得せよ、と諭した。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 19:30:42.38
★麹町区内幸町

▽西郷の訪問
三条邸で国家財政を基礎とした反征韓論と再び論争するはめになった西郷。
しかし西郷も譲らなかった。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 19:34:15.84
▽人事不省
西郷が辞去したあと、三条の懊悩が深くなり、翌18日早暁、三条は人事不省に陥った。
意識回復後には、はげしい痙攣が起きた。婦人のヒステリー症状に酷似している。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 19:37:28.72
大久保にも岩倉にも見捨てられた三条。
自ら撒いた種とはいえ、孤立無援で西郷と相対する。
西郷には背景に近衛師団が控えている。そりゃ狂いますわ。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 19:56:07.29
幕末においては攘夷派公卿の筆頭とされた三条実美も、本物の攘夷家(征韓派参議)の前ではヒステリー症状に陥るしかないんですな。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 20:04:08.75
昭和の庶民は戦闘機の肚に爆弾を抱えて敵戦艦に特攻したというのに、公卿は糞だな。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 20:07:58.08
▽ヒステリー〈hysteria〉
ギリシア語で子宮を意味する言葉で,古代には婦人病と結びつけられていた。
マンコにからっ風が吹くと、怒りっぽくなる。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 20:17:51.11
▽ホフマン〈Theodor Eduard Hoffmann〉
10月18日午前9時、往診にくる。ホフマンは当時、大学東校〈とうこう〉の教授。
本来は明治3年に来日する予定であったが、普仏戦争の影響で遅れたため、大学東校では大阪医学校教師の任期を終えたボードウィン(オランダ)に講義を委嘱していた。
明治4年8月にミュルレルとホフマンが来任し、外科学と内科学の講義を行う。しかし、日本の医学教育制度構築の全権を託されたのはミュルレルで、ホフマンではなかった。残念。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 21:25:52.68
▽佐藤尚中
文政10年 (1827) - 明治15年
下総国小見川(現・千葉県香取市)出身。
蘭方医。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。本名は山口舜海。文久2 (1861) 年、長崎に行き J.L.C.ポンペに西洋医学を学ぶ。明治2 (69) 年、大学東校に出仕して大学大博士 (学長) となり、明治5年まで同校を主宰。また明治天皇の侍医をつとめる。
同年、日本橋に博愛社を開き、翌年、下谷練塀町に順天堂を開く。 75年にそれを御茶の水に移した。順天堂医院の初代院長。順天堂大学の創始者。
https://www.city.katori.lg.jp/culture_sport/bunkazai/isan/isan_vol001-010.images/b05_vol08_01.jpg
https://uub.jp/47/chiba/chiba_map1.png
0881日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 21:34:50.74
子供の頃は平気でカエルを殺せたのに、歳をとるとカエルが哀れで、解剖の画像すら見たくなくなる。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 21:48:05.75
三条が意識をやや鮮明にさせたのは、この日の午後10時ごろである。はじめて粥を一椀とり、そのあと眠った。この間、大事は去った。
三条が西郷の渡韓を奏上すべき日は、この日だったのである。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 21:55:28.44
★伊藤と大久保

▽10月18日
伊藤は、三条を外しての岩倉体制を考えていた。なにぶん三条はかつて八月の廟議で西郷案に賛同したという負い目があり、このため諸事西郷に対して弱腰にならざるを得なかった。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 21:59:25.51
▽大久保の出馬
伊藤は、大久保に腰をあげさせるために、木戸から説かせる方法をとった。これによって大久保は承知し、かるがると腰をあげた。
大久保にすれば長州派が参加するかどうかを見ていたのである。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:06:38.19
▽天皇の側近
王朝以来の日本の天皇家の習慣として、天皇の側近は女官でもってとり固めていたが、西郷は宮中の柔弱の風をきらい、むしろ逆にもっとも武士らしい武士をもって側近団を形成することを提案した(明治4年)。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:23:40.77
▽島義勇
文政5年(1822年)- 明治7年
肥前国佐賀城下の精小路(現・佐賀県佐賀市精町)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門。
安政3年〜4年(1856年〜1857年)に藩主・鍋島直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地と樺太を探検調査し、『入北記』という記録を残した。
慶応4年(1868年)3月、佐賀藩の海軍軍監、ついで東上し下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北征討に従う。
http://www.pref.saga.lg.jp/kids/kiji00318828/3_18828_5_pht03.jpg
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:28:41.16
明治2年6月、新政府において藩主・鍋島直正が蝦夷開拓督務になると、蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月、開拓使判官に就任した。場所請負制の廃止をめぐり岩村通俊と対立し、明治3年1月、島は志半ばで解任された。後任は岩村であった。
島は同年3月に帰京すると、4月に大学少監に昇任。さらに侍従を務め、明治5年1月に秋田県の初代権令(知事)となり八郎潟干拓施策を打ち出すが、同年6月に退官となった。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:29:24.90
明治7年(1874年)に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に斬罪梟首となった。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:36:07.17
▽高島鞆之助
弘化元年(1844年)- 大正5年
陸軍軍人。明治維新後、侍従番長・教導団長をつとめ、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征。その後熊本鎮台、大阪鎮台各司令長官を歴任し、明治24年、松方正義内閣の陸相となった。
その後第2次伊藤博文内閣の拓相、第2次松方内閣の拓相兼陸相となり薩閥の巨頭として活躍、明治26年予備役に入り枢密顧問官となった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fc/Takashima_Tomonosuke.jpg
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:45:23.07
▽吉井友実
文政11年(1828年)- 明治24年(1891年)。別名は幸輔。
前スレ〔247〕で登場済。
司馬さんは、西郷が吉井を宮内大丞にしたように述べられているが、明治4年に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任、宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かった。
https://bakumatsu.org/img/00081_m.jpg
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:53:23.03
吉井友実の叔父が無参禅師で〔>>645〕、最初に無参の下で禅を学んだのは、大久保利通の父の利世〔>>648〕。
吉井は下加治屋町郷中の出身だから西郷・大久保ともに親しいわけだが、禅のこと、西郷が島流しになっていた期間を考えると、壮年期は大久保とともに活動することが多かったかもね。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:57:36.68
司馬さんは、大久保と吉井が急速に接近するのは、西郷が征韓論を唱え始めて以降だと言われているね。
それはともかく、大久保は宮内大丞吉井友実を通じて、天皇を政局に引き出した。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 17:15:21.85
▽10月20日
天皇が三条実美を見舞う。
これにより三条の病気が容易ならざる重体という印象を世間に与え、三条は再び廟堂に立つ必要がなくなった。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 17:17:50.23
▽太政大臣代理
同日、天皇は岩倉邸をも訪問する。
供奉していた吉井友実による勅語朗読。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 18:03:34.82
★日本橋小網町

▽天皇の三条邸・岩倉邸訪問
10月20日の天皇による三条邸・岩倉邸訪問が、明治6年政変の天王山だった。
西郷が岩倉卿に太政大臣代理職の勅命がくだったという重要情報を知ったのは、翌21日、訪ねてきた副島から聞いてからだった。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 18:11:28.30
この事態の急変を、西郷が桐野・別府に知らせるというていたらく。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:29:44.93
★売茶亭

▽10月21日
大久保派の作戦会議。大久保利通、伊藤博文、西郷従道、黒田清隆、吉井友実の五人が来会する。
場所は、芝西久保の売茶亭。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:40:39.31
▽売茶亭
橋のかたわらに桟橋があり、そこから平清の玄関につうじていた。 平清といえば、山谷の八百善、芝の売茶亭とならぶ著名の料理茶屋である。――南原幹雄『付き馬屋おえん暗闇始末』
時代小説には頻出する「芝の売茶亭」であるが、実在を裏付ける史料は見つけられなかった。芝以外の場所にも「売茶亭」はあったようである。店名は“茶を売る店”であり、一般名詞に近いものがる。当時のポピュラーな店名なのかもしれない。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:44:43.24
▽芝西久保
西久保は東京都港区にあった地名。およそ現在の虎ノ門二〜五丁目に当たる。愛宕山西側にって窪地を形成する。
※桜田通りに面した芝西久保巴町の町並み=東京都港区芝西久保巴町(後の虎ノ門3丁目)で昭和37年4月7日、池田信さん撮影
http://showa.mainichi.jp/photos/ikeda1960/ik029200.jpg
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:49:37.75
岩倉の最期とベルツ博士による癌告知の話は、前にもこの小説に出てきた〔>>491〕。
伊藤博文に代わって井上馨が岩倉の遺言を聞いた話も、そこに書かれていたと思う。
この挿話に限らず、このあたりの数章には、重複する挿話が多い。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:12:59.51
▽伊藤案
この先廟議を開かず、岩倉卿の責任において決する。岩倉が参内し、両論の得失を奏上し、しかるのちに岩倉の意見を述べ、一挙に事を片付ける。形式だけを天皇親政に近づけ、実質は閣議決定を反故にする策略。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:58:51.58
>>901
物語が遅々として進まなかった頃の挿話は読みごたえがあったが、物語が時系列にしたがってテンポよく進行しはじめると、挿話は一度語られたものの繰り返しになっているな。
同じ小説の中で二度やられると、さすがに飽きる。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:04:58.53
ここから盛り上がるのよ。ここから征韓論争のクライマックス。
主役は岩倉具視。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:10:16.63
★岩倉邸

▽10月22日
副島、板垣、江藤に誘われて、西郷は岩倉邸に乗り込んだ。
廟議の再開を翌23日に控えて、岩倉が渡韓論から変心しないように釘を刺すためであった。
西郷は桐野少将を伴った。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:41:55.44
一団のうち、江藤新平が主として論じた。
江藤のいうところは、明治22年以後の立憲君主制の基礎的な思想に通うものであり、国事は君主に判断を委ねるべきものではないというものである。
※江藤新平:浜田晃
https://pbs.twimg.com/media/CkHBJJFVAAEUabK.jpg
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:49:53.40
「両説のいずれを主とされるか」
と、副島種臣が言った。
岩倉は即座に、
「わが説である」
と言い放った。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:59:12.30
▽代理
江藤司法卿は、代理行為の本質に関する本人行為説を採っている。
「代理である以上、渡韓問題について太政大臣三条実美が在来決めてきた事項や態度をすべて承継しなければならない」というのがそれである。
本人行為説は19世紀のドイツ普通法時代の学説で、ドイツ民法も日本民法も、代理人行為説を採っている。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:05:15.05
岩倉は通説である代理人行為説によって江藤に反論すれば楽であったはずだが、代理人行為説を採っていない。
むしろ本人行為説を前提にした上で、三条卿から代理権を授権されたのではなく、君主から授権されたから、代理といっても三条太政大臣の権能から独立した権能であると言っている。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:06:37.92
>>909-910
行政法上の代理の話なので、民法の本人行為説・代理人行為説に引き付けて考えない方がよいのでは……。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:08:04.76
結局、岩倉は、征韓論には賛成であるが時期尚早という論旨に逃げた。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:15:09.03
▽無言の脅威
次室で、桐野利秋に剣を弄させることによって、岩倉に対し、たえず無言の脅威を与え続けたということは、西郷の終生の失敗である。
ここは重要な指摘であるのだが、直後に西郷を弁護している。年少のころ関節を故障して剣術を学んでいないという理由と、幕末の頃から護衛者をつける習慣があったという理由を挙げている。
この弁護が長すぎるために、上記の指摘がぼやけてしまっている。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:17:42.18
この小説は全体に>>913のような感じなんだわな。
ある主張を書くと、直後に反論なり修正なりを入れるのだが、両者のバランスが悪いために、結局、何が言いたいの?という読者の感想になってしまう。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:38:25.30
>>913
司馬さんによると、「西郷にはあきらかに脅迫的意図があったのであろう」とされているな。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:42:14.71
▽油然〈ゆうぜん〉
盛んにわき起こるさま。また、心に浮かぶさま。
「油然と雲がわきたつ」「油然として詩情がわく」
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:48:02.92
油然として岩倉の肚の底から湧きあがってきたのは「愛国の感情」。
脅迫的意図のあった西郷に対して〔>>915〕、岩倉は「愛国の感情」に基づいて>>869の一言を発している。
この長い物語の4分の1を費やした征韓論争のオチは、主役は大久保でも西郷でもなく、岩倉さんでしたということですか?
0918翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/03/09(金) 19:06:30.24
第18章 挿話

西郷には、幕末において自殺の衝動がすくなくとも二度おこっている。
幕末の早い時期、井伊直弼の安政ノ大獄の進行に絶望し、かれが京都から保護してきた僧月照と薩摩潟に投身したことはよく知られている。
幕末のあとの段階で、西郷ぎらいの島津久光が西郷のやったことを非とし、西郷の活動を執拗に封じたとき、大久保でさえこの薩摩藩の特殊事情に絶望し、西郷と刺し違えて共に死のうとしたほどであった。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:10:34.71
後者については、大久保の自殺願望であって、西郷は大久保の自殺を押し止めたんだけどな。
「もし今にして、われら二人とも刺し違えて死せば、天下の大事去らん。かくまでに推し進み来れる例の画策は、誰がこれを継承すべき。男子忍耐、事に当るはこの時ならずや。吾人二人なくしては、皇室を如何んかすべき、国家を如何んかすべき。辱を忍び、事に耐えるは只この時なり。勉むべし、勉むべし」
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:12:38.42
読点の打ち方をみれば一目瞭然だけど、「翔ぶが如く」の推敲時間は短いよな。
司馬さん、いつもは、こんな読点の打ち方しないよな、というところがいっぱいある。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:13:34.23
>こんな読点の打ち方しないよな、というところがいっぱいある。

いつもの司馬なら、「こんな読点の打ち方しないよなというところがいっぱいある」となる。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:20:27.67
>>920
「翔ぶが如く」の連載は、週刊朝日の「街道をゆく」の連載開始とほぼ重なっているからな。
「街道をゆく」の取材旅行にゆけば、ドライブインで大好きなトンカツ定食が食べられるわけよ。
「翔ぶが如く」の推敲なんてほったらかしで、トンカツ定食を食べにいってたわけだな。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:19:15.80
司馬の竜馬像は本当に気持ち悪いよな
ただのチンピラだろ、無論チンピラにしては上等だったってだけで
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:39:46.85
ただのチンピラを長編小説にしてもつまらんだろ
むしろそれをあれだけの娯楽巨編にした創作性は称賛に値するだろ
それが気持ち悪いなら大衆小説なんて読むのやめて一次資料や学術論文だけ読みなされ
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:01:52.19
ええ?
最後の会議で大久保がキレるシーンなんての自分はのたうち回って笑ったけど
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:37:09.42
▽10月23日
「向島へ鉄砲を打ちにゆく。熊吉と新次郎、供せいや」
鉄砲を金槌で叩くため向島へ行くのかね。鉄砲は「撃つ」。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:40:02.57
下僕を全員集合させた。下僕は「五、六人でしかない」と書かれているが、少人数なんだから、きっちり五人か六人か明確に書けるだろうよ。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:47:58.36
第3章「鍛冶橋」の頃は、六人いた。
熊吉。薩摩伊集院出身の与助。薩摩谷山出身の市助。薩摩谷山出身の「若い下僕」竹内弥太郎。鹿児島城下出身の小牧新次郎。
江戸生まれの児玉勇次郎。
本章に登場する「田中」という下僕は、与助か市助のいずれかであろうか?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:51:31.12
どっちでもいい。
司馬は下僕や書生の名前を書かないで、「下僕」「書生」という普通名詞で書いていた。
「下僕」「書生」の固有名詞が出てきたのは、久しぶりだわ。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 23:33:52.92
★大久保邸

▽永遠の別れ
「今後の国事は、よろしゅう頼ンみやげ申す」
「それは吉之助どん、俺の知った事か。いっでんこいじゃ。いまはちゅう大事なときにお前さァ、逃げなさる。後始末は俺せなならん。もう知った事か」
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:24:10.22
大久保の参謀が伊藤博文ひとりのような感じなんだけど、実際には薩摩出身の官僚と謀議していたんじゃないのかね?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:31:13.22
▽酒井了恒〈のりつね〉
天保13年(1843年)- 明治9年
出羽庄内藩家老酒井了明の長男。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃を襲名した。
戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Sakai_Noritsune.jpg/1200px-Sakai_Noritsune.jpg
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:38:46.58
酒井玄蕃は、西郷が帰郷後に、西郷の言葉を記した人物として登場する。
酒井は鹿児島の西郷を訪ねただけで、西南戦争には従軍していない。
西郷の言葉は、「政治は天道」「公正無私」等々ありふれたもの。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:40:49.34
「政治は天道」「公正無私」の基準に照らすと、大隈重信などは、西郷の最も嫌う政治家であった。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:41:55.74
西郷は、次の言葉も残している。
「大隈に教育だけは任せてはならぬ」
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:49:48.97
▽東京専門学校
明治15年、大隈重信により東京府に設立された私立学校。
明治十四年の政変により下野した大隈重信は、河野敏鎌、小野梓らとともに立憲改進党を結党した。やがて樹立されるであろう立憲政治の指導的人材の養成を主たる目的として学校の設立を構想したものが、東京専門学校である。
明治35年9月に「早稲田大学」への改称が認可された。慶應義塾大学と共に大学令による大学となったのは、大正9年である。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:55:51.87
さらに西郷の政治観を示す言葉
「財政を井上馨に任せてはいけない」
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:00:20.68
西郷は、政治家の中では、大久保利通と岩倉具視を買っていた。
明治6年に下野した後も、この気持ちは変わらなかった。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:27:52.37
高度成長期以前の農業国家の時代は、親戚つきあいが濃厚だった。
近所に居住していることが多かったので、近所=親戚、友人=親戚の場合も多かった。
時代が遡るほど、この傾向が濃くなる。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:35:39.89
近世から近代にかけて人つきあいが全国に及ぶことになるが、人間関係の濃淡の差は、本文に書かれている大久保と板垣の例がわかりやすい。親戚の拡大としての同郷人と、成人してから付き合うようになった他国人とでは、親密の濃淡に違いがあるのは当然。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:38:16.16
公正の我々は、活字を通じて歴史上の人物を一挙に知る。
西郷と大久保が敵対し、西郷と板垣が同時に参議を辞職したという知識を得ると、西郷は板垣と親しく、大久保とは仲が悪いと誤解しがちであるが、そんなことはない。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:41:45.32
司馬さんは郷土主義という語彙を用いているが、それほど大げさなものではない。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:43:43.36
戦前は今よりも方言がどぎつかったろうから、他郷人の感触は、現代の我々の外国人への感触に近かったかもな。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:04:58.84
★岩倉邸

▽10月22日
物語は、副島、板垣、江藤に誘われて、西郷が岩倉邸に乗り込んだ後、岩倉邸を辞去した時にさかのぼる〔>>905〕。
板垣は爾後も西郷と手を組み、倶に政治活動をしてゆこうと誘う。
西郷の答えは、「私は君に扶けてもらいたいという希望はもっていない」であった。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:06:35.67
西郷の答えに対する板垣の感想は、「西郷の慢心、ついにここに至るか」であった。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:10:18.54
板垣、副島は、廟議の前日の10月13日に、三条と岩倉の説得に応じて、西郷を裏切っているからな〔>>790-791〕。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:15:25.13
反征韓派の薩摩人のなかでは、黒田清隆と西郷従道が、征韓策防止のために積極的に動き回ったと書かれているが、10月21日に売茶亭で作戦会議に集まった話しか出ていないんだよな。
ほぼすべて伊藤博文の手柄にされている。
0952翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/03/13(火) 10:34:29.19
第19章 退去

〔一〕黒田清隆
――故郷に帰られますか。
と黒田は問いたかったが、水面の魚をすかし見ることに熱中している西郷に問うことは、なにやら憚られるものがあった。維新第一等の功労者が、官職をすてて栄華の都府をあとにして故郷の山林に隠れようとしているのである。
黒田が何を問い、どう諫めようとも、自分の吐く息が生ぐさすぎるような気がして、物を言う気力も失せてしまったのである。
西郷はこのあと、何度か網を打った。黒田はそれを葦のあいだから眺めていただけで、結局はすべての思いを一礼に籠めて立ち去らざるを得なかった。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:35:54.20
西郷は「向島へ鉄砲を打ちにゆく」と言って出かけたのに、どうして投網を打っているんだろうな。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:41:37.74
>>951
天皇に三条の見舞いをさせたり、岩倉を太政大臣代理にすることは大久保の発案とされていたから、黒田と従道が征韓論つぶしのために何をしたのかが、いまいちよくわからい。
だから、黒田と従道が向島に西郷を訪ねた本章は、どうもピンとこないんだよね。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:47:49.56
黒田については、木戸孝允の帰国直後の章で、征韓論より樺太問題を優先すべきだと木戸に述べている叙述があったな。
樺太問題は、10月14日の廟議で、岩倉が力説していた。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:48:51.99
従道の場合、実弟でありながら反征韓論であったことそのものが、重要なんじゃない?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:59:11.94
>>932
西郷は、風土病のためにキン玉が頭と同じ大きさにまで腫れあがっていたんだ。
歩くのにも難渋すると思うぞ。
なにもかも嫌になって退隠願望をもつのも、やむをえないかなと同情するよ。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:06:11.32
★向島

▽10月23日
小網町の寓居を出たのは午前8時。西郷はすぐに向島に向かったのではなく、その前に大久保利通を訪ねている〔>>932〕。
その後、向島に向かった。肩には猟銃をかついでいた。投網ではない〔>>953〕。
越後屋の寮に着いたのは、午後の陽がすこし傾いてからである。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:13:46.05
▽小牧新次郎
辞職した西郷は、従者小牧新次郎と下僕熊吉を伴って日本橋の自宅を出、庄内藩用達の米問屋越後屋の別荘にしばらく身を寄せ、10月末、横浜を出帆し、11月初めに鹿児島の屋敷に着いた。
>>670に、大うそを書いていた。西郷が逗留した越後屋は、三井の越後屋ではなかった。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:15:00.77
三井は呉服屋として発足し、両替商を営んだ。米問屋ではない。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:15:54.79
三井に世話になりながら、「三井の番頭さん」と井上馨を揶揄しないよな。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 22:30:13.99
▽法界坊
歌舞伎狂言「隅田川続俤(ごにちのおもかげ)」の主人公。
歌舞伎のなかでは喜劇味の強い世話物の芝居で、主役法界坊の悪と滑稽さが喜ばれ、人気を博す。極悪人だがどこか憎めない法界坊の演技が眼目である。
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/images/flier/no10_hokaibo.jpg
西郷の頭髪が法界坊のようだと書かれている。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 22:53:39.65
▽黒田清隆
前スレ〔781-784〕で述べた。
明治2年8月、二官六省制が施行されたときは、黒田は寺島宗則外務大輔の下で外務大丞となった。
しかし、同年9月に大村益次郎暗殺事件ののち、黒田は外務省から兵部省に移籍した。黒田が兵部大輔の前原一誠と衝突したのは、明治3年4月である〔>>162〕。
大久保利通は辞表を提出した前原を慰留する一方、明治3年5月、黒田を開拓使に移籍させた。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 23:13:51.87
▽グラント大統領〈1822−1885〉
南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。
軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。岩倉使節団が渡米したときの米国大統領である〔>>485〕。
本章では黒田が渡米した際、グラントに直談判してケプロンを日本に連れてきたとある。
http://static.tvtropes.org/pmwiki/pub/images/70724-004-4CB8AA9B.jpg
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/15(木) 00:11:55.05
▽ホーレス・ケプロン〈1804−1885〉
南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった。明治4年、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。明治8年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、明治5年、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。
http://guzurabo.my.coocan.jp/m-dozo/hokudozo/kepron2868.jpg
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/15(木) 00:13:12.16
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名で重要なものを次に記載する。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、明治10年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:41:42.05
▽クラーク〈1826-1886〉
マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。
https://www.photock.jp/photo/middle/photo0000-0322.jpg
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:42:01.60
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。
晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。
諸君、「Boys, be ambitious like this old man」じゃよ。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:53:59.69
クラーク博士〔破産者〕が就けない職業・資格一覧

卸売業者、貸金業者、教育委員会委員、行政書士、警備員、警備業者、建築士事務所開設者、建設業、公証人、公認会計士
質屋、司法書士、社会保険労務士、商工会議者会員、人事官、生命保険募集人、税理士、損害保険代理店、宅地建物取扱主任者
宅地建物取扱業、中小企業診断士、通関士、土地家屋調査士、廃棄物処理業者、不動産鑑定士、弁護士、弁理士、旅行業務取扱主任者、旅行業者
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:55:56.21
        Boys, be ambitious!!           
     \\ Boys, be ambitious!!//
 +   + \\ うんこ ワッショイ!!/+
                 +    ブリブリ
   +     人      人      人     +
         (__)    (__)    (__)
  +    (__)   (__)   (__)     +   
.   +   ( __ )  ( __ )  ( __ )  +      
      ( ´∀`∩ (´∀`∩) ( ´∀`)          
 +  (( (つ   ノ (つ  丿 (つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ  ( ヽノ   ) ) )
       (_)し'  し(_)  (_)_)
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:59:29.70
          ____
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\    <「聖書によらざれば人間教育の完成なるものは望めない」
    /   ⌒(__人__)⌒ \
    |      |r┬-|    |
     \     `ー’´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ   <破産したけどよう〜www
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //       
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー’´      ヽ /    /
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:11:23.65
▽玄武丸
クラーク一行は、開拓使長官黒田清隆と共に開拓使御用船「玄武丸」に乗船して品川沖を出帆、一路北海道へ向かった。
この船、じつは「ゴロタマル」と渾名される小汽船であった。
後述するが、酒乱の黒田清隆が起こした大砲発砲事件は、このときの航海である。
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/g-tsuusetsu_02/t2-0832.jpg
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:34:40.63
▽札幌農学校
北海道大学の前身。明治5年(1872)東京芝増上寺内に開設された開拓使仮学校が、明治8年に札幌に移転、同9年に札幌農学校と改称した。米国人教頭クラークが邪宗門を広めたため、内村鑑三・新渡戸稲造ら多くの隠れキリシタンを産みおとした。
※旧札幌農学校演武場(札幌時計台)
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/tokeidai.jpg
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:48:11.08
クラークはわずか八ヵ月の滞日後に帰国しているから、新渡戸稲造、内村鑑三ら二期生とは入れ違いなんだよね。
新渡戸・内村の恩師は、二代目のホイーラー教頭。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:49:02.15
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員が邪宗門に入信していた。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:51:29.93
邪宗門に入信した新渡戸稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。天津神の祟りであることは、いうまでもない。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:54:12.24
『翔ぶが如く』から脱線しすぎだよ。
黒田清隆が有能な官僚であったことを論証するために、ケプロンとクラークが例に引かれているだけだろう。
そろそろ本筋にもどろうぜ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 23:35:45.17
▽アルコール性痴呆症
・料亭「紅葉館」では、黒田に水ましの酒を飲ませていた。
・三条実美・伊藤博文・井上馨は、罵倒されたり、ピストルで脅されていた。
・刀剣屋のもってきた刀で古株を斬り、飛んできた刀身が黒田の肩を傷つけ血まみれになった。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:07:59.43
▽黒田清〈せい〉
黒田は28歳で明治維新を迎え、翌明治2年に中山清〈14歳〉と結婚した。
旧旗本の娘。
結婚9年目のある日、黒田がしたたかに飲んで帰宅すると、妻から文句を言われた。黒田はカッとなって妻を斬殺した。
※黒田清ではありません。名無し御殿女中。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150911/09/fumiakityan/ec/f9/j/t01660304_0166030413421613275.jpg
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:17:09.56
黒田参議夫人斬殺事件が、明治11年3月。その2年前の明治9年7月31日に、黒田長官は玄武丸大砲発砲事件〔>>973〕を起こしている。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:30:24.84
▽黒田長官大砲事件
明治9年7月30日、祝津〈しゅくづ〉沖合を航行中の黒田清隆が乗った開拓使船「玄武丸」が、実弾の射撃試験を行った。
ところが、その標的である赤岩の岩頭を外れ、祝津村民・斎藤清之介氏の漁舎(現在の祝津3丁目178番地)を直撃し、この家の娘 「多津与」の両足に重傷を負わせ、ついに、死亡させてしまったという事件。発砲したのは、もちろん酒乱の黒田長官です。
※画像は戦艦武蔵の主砲46サンチ砲発砲の瞬間
http://ironna.jp/file/w480/h360/3220c67685d272c9ad41170f71b4c877.jpg
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:57:07.24
黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。
警視庁はすぐ「団々珍聞」を処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:57:15.11
伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。
川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:58:19.30
紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:00:59.69
黒田は、結果としては彼が師と仰いだ西郷と大久保をともに殺したということになる。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:08:28.28
明治14年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このときその官営事業に非常な安値を付けた。
しかし、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。
大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:11:00.91
醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年に第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年4月に第2代内閣総理大臣となった。
在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布であったが(明治22年)、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b8/cdccb674233176bb005de7c2483a65f1.jpg
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:18:32.09
▼開拓使官有物払下げ事件
北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。
明治十四年の政変〔>>938〕のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放した。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:21:15.19
払下げ官営事業に安値を付けるわ、冗談半分で大砲をぶっ放すわ、挙句の果てに嫁は殺すわ、黒田サイテー。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:23:14.32
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であった。
ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。
以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:30:23.14
第19章 退去 〔一〕黒田清隆 の全部は収まらなかったな。
次スレも、黒田清隆の話の続きだ。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:32:15.45
全集の各巻が、スレッド二つでは消化しきれなくなったな。
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 57日 17時間 31分 24秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況