司馬遼太郎 Part10
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司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。
ただいま「評論随筆集−第50巻−」が進行中です。
引き続き「北斗の人」の予定です。
前スレ
司馬遼太郎 Part9
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1507878222/ 【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
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【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。
■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1365866256/
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1331922006/ 頭が悪いから「沸騰する社会と諸思想」をpart9に収めきれなかったらしい。 毎日コツコツやればいいのに、画像君はちょういちょい休む。 前スレで「以下、無用のことながら」をやるとかどうとか言っていたけど、どうなったんだろう? 854 自分:歴史の舞台−文明のさまざま[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:17:00.66
「沸騰する社会と諸思想」
「『叛旗』と李自成のこと」
「古朝鮮の成立」
は、全集50巻。
「天山の麓の緑のなかで」
「イリ十日記―天山北路の諸民族たち」
は、全集46巻。
その他の作品は、全集54巻。
855 自分:古往今来[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:30:19.94
「啄木と『老将軍』」
「南方古俗と西郷の乱」
「土佐・檮原の千枚田」
「安田章生氏を悼む」
「人中の花」
「綱淵謙錠氏のこと」
「井上ひさし氏のユーモアについての管見」
は、全集50巻。
その他の作品は、全集68巻。
856 自分:歴史の世界から[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:35:26.27
「千石船」
「一つの錬金機構の潰え」
「八木一夫と黒陶」
「私の関東地図」
「『胡蝶の夢』の連載を終えて」
は、全集50巻。
その他の作品は、全集68巻。
857 自分:ある運命について[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:37:09.54
「昭和五年からの手紙」
は、全集50巻。
その他の作品は、全集68巻。
858 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:44:05.53
それから「霍去病の墓」は『余話として』に収載されているな。
859 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:46:14.71
「一台の荷車には一個だけ荷物を」は『司馬遼太郎が考えたこと 9』に収載だね。
860 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/11/18(土) 15:51:44.83
全集第50巻の評論随筆集が終れば、小説「北斗の人」をやる予定でいるが、
場合によっては、全集に収載されていない評論随筆を集めた「以下、無用のことながら」をやるかもしれない。 【5】秦
▽戦国七雄
春秋時代の中国には邑の連合体から成る数多くの国家が存在したが、弱小国は大国に次々と併呑されてゆき、領域国家へと成長を遂げた秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国に収斂した。この七国を戦国の七雄という。
春秋時代には周王の権威に挑戦して王を称したのは長江中流の楚と下流の呉と越の君主だけであり、主として黄河流域の華北の国々は天子である周王室の権威を尊重して王の臣下たる諸侯を称した。しかし、戦国時代に入ると華北の大国までもが次々と天子たる王を自称するようになった。
http://livedoor.blogimg.jp/chachachiako/imgs/e/f/ef918ae6.jpg ▽縦横家
中国古代の思想家たちで諸子百家の一つ。外交の策士として各国の間を行き来した人たちのことである。
巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする。そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱えた張儀が有名。蘇秦はその弁舌によって同時に六国の宰相を兼ねたとされている。 ▽秦
前778年 - 前206年。
前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。
前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。
https://www.sekainorekisi.com/wp-content/uploads/2016/04/6c71f7df232a8927ea3ee8ca4da66640.png ▽穆公
徳公(第6代)の子で成公(第8代)の弟。兄弟相続により秦公となる。
前651年に晋の献公が死ぬと、後継争いで晋国内は騒乱状態となった。晋の公子夷吾は晋公の座に着くために穆公に援助を要請した。穆公は夷吾の兄重耳の方を人格的に好んでいたが、出来の悪い夷吾を晋公に推せば何かと自分に有利になると踏んで、夷吾を晋に入れて恵公とした。この時に恵公は穆公に礼として領土の割譲を約束していた。しかし晋に入った恵公は約束を破り、晋国内で悪政を行った。 前647年、晋は不作になり食糧が不足したために秦へ援助を要請した。家臣たちは領土割譲の約束を破った恵公に何で食糧を送ってやる必要があるかと反対したが、穆公は「恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無い」と言い、晋に大量の食糧を送った。
その翌年に今度は秦が不作となった。穆公は晋へ援助を要請した。しかし恵公は食糧を送らず、逆に好機ととらえて秦に攻め込んできた。これにはさすがの穆公も激怒し、翌年に出兵して晋軍と韓原で激突し、大勝して恵公を捕虜とした。
凱旋して帰ってきた穆公は恵公を祭壇で生贄にしようと思っていたが、恵公の姉である妃に止められた。そこで恵公の太子圉を人質にして、恵公の帰国を許した。 『史記』の「藺相如」の件に“秦は穆公以来約束を守ったことのない国”と書かれているらしいが、
>>17-18を読むかぎり、約束を破られたのは秦の穆公の方である。 ▽藺相如〈りんしょうじょ〉
中国の戦国時代の末期に趙の恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる。 ▼完璧
「璧」は、輪の形をした平らな宝玉のこと。
中国の戦国時代、大国である秦の昭王から趙の恵文王に対し、「和氏(かし)の壁」と呼ばれる趙の国の名玉と十五の城を交換しようという強い申し出があった。
大国の秦により「和氏の壁」をだまし取られる可能性が高く困っていたが、家臣の藺相如が名乗り出て秦に出向き、交換条件の城が手に入らないことを知り、命をかけて「璧」を守り趙の国へ無事に持ち帰った。
この藺相如の「璧を完うして帰る」の故事が語源である。 ▼刎頸の交わり
「刎頚」とは、首をはねること。その友人のためなら首をはねられても悔いはないと思うほどの親しい交わりのこと。
趙の将軍廉頗は「璧を完うして帰る」の功績〔>>21〕により自分より上位になった名臣藺相如を恨んだ。しかし藺相如は二人が争いにより共倒れになることを懸念し、国のために争いを避けるつもりでいることを聞いた。それを聞いて廉頗は自分の考えを恥じて深く反省し、相如へわびに出かけて刎頸の交わりを結んだという故事による。 ロッキード事件で国会で証人喚問を受けた小佐野賢治が田中角栄との関係を問われた際に「刎頸の交わりだ」と答えたため、この故事成語が日本で広く知られることとなり、当時の流行語にもなったよね。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/30/c8380aa137f2fe89c1b1b1742c158d20.jpg ▽合従連衡
春秋戦国時代、戦国七雄のうち強大になりつつあった秦と、周辺六ヶ国(韓、魏、趙、燕、楚、斉)の外交政策として、いずれも縦横家によって考えられた。
当初、六国は相互に結び協力して秦の圧力を防ごうとした(合従策)。これに対し、秦は個別に同盟関係をもちかけて六国の協力関係を分断することによって合従策を封じた(連衡策)。こうして、最終的に合従策に参加した各国はすべて秦によって亡ぼされ、秦による天下統一が実現することとなった。 ▽合従策
戦国七雄のうち、巨大な秦以外の六国が縦(たて:従)に同盟し、共同戦線で秦に対抗しようというのが合従説である。
その最大規模のものが縦横家の蘇秦〔>>15〕によるもので、彼はまず燕の文候に各国をとりまとめて秦に対することを説き、承諾を得ると趙、韓、魏、斉、楚と各国を言葉巧みに説き伏せ、六国の合従を成立させたとされる。このとき蘇秦は同盟の総長となり、六国の宰相をも兼ねた。
http://stat.ameba.jp/user_images/20141023/12/worldhistory-univ/bb/e9/p/o0280037213106689978.png ▽連衡策
秦に対抗して合従する国に対し、秦と結んで隣国を攻める利を説いて、合従から離脱させたのが連衡である。
連衡の論者は往々にして秦の息のかかったものであり、六国の間を対立させ、特定国と結んで他国を攻撃し、あるいは結んだ国から同盟の代償に土地や城を供出させることを目指した。その代表的な論客は張儀である。
http://culture.people.com.cn/NMediaFile/2015/1218/MAIN201512180956000056082073115.jpg ▽関中
函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地の西安を中心とした一帯である。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。
http://kanso.cside.com/kanei_map1.gif ▽中原
中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。
狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。
http://www.allchinainfo.com/mtsdownload/Shang-print.jpg 殷社会の基本単位は邑と呼ばれる氏族ごとの集落で、数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。
また、宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。
しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が周辺諸氏族の恨みを買い、殷に対する反乱を招き殷を滅亡に導いたとする説もある。 ▽周
前1046年頃 - 前256年。
殷は東方の夷族を服属させて、周族のいた陝西省の関中平原へ進出。夏王朝の遺民である周人は北方へ逃げ、羌族の拠点である甘粛へ。2世代の後、再び南下して陝西省へ。ここに水源を見つけて農業を起こした。この部族が周という名を得る。
羌族は現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。
https://img.kaikai.ch/thumb_l/12058/6
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/img2011/cu_fe.png ▽非子
非子は犬丘というところで馬や畜を好んでよく養っていた。これを犬丘の人が周孝王に告げ、孝王は彼を召した。馬は大いに繁殖した。
大駱には申侯の娘が嫁ぎ、すでに嫡子成がいたが、孝王は非子を嫡子にしようとした。それを知って申侯は抗議した。
「昔、私の祖先の女が戎の妻となって中?を生み、周に帰順して西垂を保有してきました。私はまた大駱に妻を与え、嫡子成を生み、西戎はみな従っています。そこのところをよろしくお願いします」
孝王は答えた。
「昔柏翳は舜のために畜類を繁殖させ、土地と贏姓をもらった。今、その後裔がまた畜類を育ててくれている。土地を割いて我が附庸としよう」
こうして非子は秦の土地を得て贏氏(えい)の祭祀を継ぎ、成はそのまま西垂を保有した。 ▽関中台地
四方を険しい山で囲まれていて守備に適し、しかも渭水盆地の生産力は関中の人口を養うのに十分だった。
東の函谷関、西の隴関・大散関、北の蕭関、南の武関に囲まれている。
『史記』には関中を評した言葉として「関中は沃野千里」「王城の地」「秦(関中)は敵の百に対して一の兵力で対抗できる」という言葉がある。秦や漢が天下を統一できた要因の一つとして、関中の地の利が必ず挙げられる。 【6】法家
▽法家
中国の戦国時代の諸子百家の一つ。 徳治主義を説く儒家と異なり法治主義を説いた。
法家とは儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意に委ねられる統治ではなく、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。 秦の孝公に仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。 ▽孝公
前381年 - 前338年。
献公師隰の嫡子。即位するや、国中に布告を出して国政の立て直しをはかり、魏からやってきた商鞅を起用して抜本的な国政の改革を断行、穆公亡き後の衰退した秦を強力な中央集権国家として生まれ変わらせた。
都を櫟陽から咸陽に遷都。対外的にも魏を破るなど富国強兵に努めた中興の祖。
http://www.chuka-drama.com/testblog/images/extra/ex12_03.jpg 鋼はsteel。
スチール写真は、映画の一場面を普通の写真として焼きつけたもので映画の宣伝に使う。
静止画像という意味でスペルはstill。「スティル写真」の方がいいと思うけどな。 スチール写真は日本語文化の中に根付いておるので、表記を変えることはまかりならん。 ▽商鞅
前390年 - 前338年。
姓は姫、氏は公孫。名は鞅。また、衛の公族系のために衛鞅ともいう。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称である。
法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死した。
恵文王の厳命でその遺骸は黽地(めんち:現河南省?池県)で見せしめとして車裂の刑に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。 ▽恵王
前400年 - 前319年。中国戦国時代の魏の第3代君主(在位:紀元前369年 - 紀元前319年)。
魏は大陸の中央に位置し、当時最大の勢力を誇っていたが、周囲を強国に囲まれており、絶えない戦火が国政に重くのしかかりつつあった。
魏の宰相が臨終の間際に公孫鞅(商鞅)を推挙し、「私が亡くなった後に、食客の公孫鞅を宰相としてください。必ずや魏を強大国にしてくれましょう」と遺言したが、恵王は宰相が耄碌してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用しなかった。 ▽西戎
四夷の一つ。中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。
周の文王の太子である武王と盟約を結んで共に殷(商)を滅ぼした諸侯国の一つである羌、ほかには葷粥(くんいく)や?(てい)、密須(みつしゅ)などが含まれた。
http://www.a-jrc.jp/school/2009/miyawaki/image/1_photo_05.jpg
http://img.xiacheba.com/img/image.uczzd.cn/645844496789392510.jpg ▽什伍の制
秦の孝公が商鞅を登用して行った改革(商鞅の変法)の一つで、都市と農村の住民を支配するため十人組(什)と五人組(伍)を設け、相互に監視させ連帯責任を負わせた。さらにその上に行政区画として県と郡を設けたという。
法家の思想による統治強化策であり、後の北魏の三長制、明の里甲制、日本の江戸時代の五人組などの隣保制度の最初のものである。 頼むから腰斬刑の画像は貼らないでくれ(;´Д`)アウ... ▽腰斬刑
古代から中世において中国で行われていた死刑執行の方法である。文字通り、罪人の胴体を腰の部分で切断することで死に至らしめる。胴体を切断された罪人は即死することはなく、執行後数十分後に出血多量やショック状態で死に至る。その間の苦痛が絶大であるため、特に重罪人に対して執行される処刑法とされた。
商鞅は国事犯を匿った者やその近親者を腰斬に処すと明文化しただけで、司馬さんのように「商鞅の発明」とするのは言い過ぎである。
http://www.ehealthyrecipe.com/recipe-webapp/knack/vol11/img/p_main.jpg ▽仁
仁愛。とくに儒家によって強調されており、孔子がその中心にすえた倫理規定かつ人間関係の基本である。
主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつ。
孔子は君子は仁者であるべきと説いた。
孟子は惻隠の心が仁の端(はじめ)であると説いた(四端説)。惻隠の心とは同情心のことであり、赤ん坊が井戸に落ちようとしているとき、それを見た人が無意識に赤ん坊を助けようと思う心であると説いた。 ▽郡県制
郡と県の二段階で地域が区画され、中央から派遣された官吏によってその統治がおこなわれた。世襲制の封建制に代わる支配制度で、王朝の中央集権体制の強化に役立った。
秦では紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。 ▼郡国制
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては秦の制度を踏襲した。前148年に郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。前106年、武帝は全国を13州に分け、各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県の三段階の地方制度に改まった。 ▽国の語源
司馬さんは「郡」がクニの語源であるとする学説を紹介されている。
通説は以下のようである。
くに【国・邦】の語源について『日本国語大辞典』(小学館)に掲げられた語源説は15もある。しかし、「クニ」の「二」については「土」であるというのが多数意見である。「土」を「ナ・二」と読むのが、朝鮮・日本に共通する言語らしいこともよく知られている。
問題は「ク」であるが、『字訓』が「所(ク)、処(ク)、陸処(クガ)」のクであるとするのにしたがって良いと思う。 ▽大家族主義の否定
商鞅は大家族制度だった農家に分家を強制し、未開墾地に入植させ、耕地拡大と戸数増加を実現し、国庫収入を増やした。 ▽功
貴族であっても戦争で功のないものは爵位を剥奪され、逆に農民であっても戦争で功を挙げれば首の数によって爵位を授けられた。
秦は趙の兵士40万人を生き埋めにしたことがあったが、このときの40万という記録が誇張でも捏造でもなく本物なのは、秦のこの法律のためである。挙げた首級の数は厳格に記録され報告された。 秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。
「父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる」の法は野蛮な風習を改めるとともに、第一次変法の「一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる」で分家を推奨したのと同じく戸数を増やす意味があったと思われる。
二度の変法によって秦はますます強大になった。 ▽農本主義
「男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす」 ▽王族の反撥
「遠縁の宗室や貴族といえども、戦功の無い者はその爵位を降下する」 ▽車裂の刑
司馬さんは、商鞅自身が車裂の刑で処刑された例以外に、商鞅在世中に車裂の刑が執行された例は史実にないと述べられているが、誤りである。
商鞅は車裂の刑で処刑されていない。商鞅は戦死し、その遺骸が車裂の刑に処せられた〔>>42〕。
http://www.armystar.com/uploads/allimg/1511/151119/163311AM-0.jpg 秦王・政(後の始皇帝)の母親の愛人である??などがこの方法で処刑された。
秦による統一以降も陳勝の部下であった宋留がこの刑で処刑されている。
後漢末に黄巾党の頭目の馬元義も同様に車裂きで処刑されている。
三国時代の呉においては、暴君として名高い孫皓が、自身の死後の皇位継承者と目される孫奮に取り入ろうとした太守を車裂きに処している。 司馬さんは、車裂の刑も商鞅が考案したと述べられているが、大ウソもいいところ。
被処刑者の四肢を牛や馬などの動力源に結びつけ、それらを異なる方向に前進させることで肉体を引き裂き、死に至らしめる八つ裂きの刑は、古代ギリシャ以来ヨーロッパ各国で執行されている。
日本でも、美濃の斎藤政利、会津の蒲生秀行などが領内の罪人に牛裂き刑を科した。
江戸時代になっても、堺のキリシタンが牛裂き刑で処刑されている。
ポピュラーな死刑執行方法である。 司馬さんは、商鞅を偏執狂(paranoia)に仕立て上げようとされている。
間違いである。 司馬遼太郎の評論は、評論の体裁になってはいるが、小説であることをお忘れなく。 事実はつまんない。小説は面白い。
「事実は小説より奇なり」というのは、偶然に過去の小説家が書かなかった事実が発生したというだけ。
小説家は人間世界で生起しうる事実を網羅的に小説にしようと思って小説を書いているわけではない。
なお、「事実は小説より奇なり」は、イギリスの詩人バイロンの作品「ドン・ジュアン」中の一節から生まれた表現である。 ▽恵文王
太子時代に商鞅の法に触れて、その罰として傅役の公子虔と教育係の公孫賈がそれぞれ鼻削ぎと刺青の刑にされ、もう一人の太子侍従の祝懽が処刑された過去があった。太子はそのことを恨み、孝公の死後に商鞅に罪を被せて討ち取り、その死体を車裂きの刑に処した。しかし商鞅の新法はそのまま使用し、基本的に国政の方針は孝公時代より変えていない。 恵文公は謀略家である張儀を登用して、魏・斉・楚などを討ち、前324年に王号を唱えた。
秦を畏れた諸国は前318年に韓・趙・魏・燕・楚の五ヶ国で連合軍を作り秦に攻め込んできたが、恵文王は弟の樗里疾に命じてこれを破り、その兵士8万の首を切った。 また前316年には秦の領域である関中の後ろに大きく広がる巴蜀を併合する。
そして前312年、楚が張儀の策謀に嵌って秦に攻め込んで来た時には丹陽 (江蘇省丹陽) で返り討ちにし、逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置する。その後、楚が再び侵攻して来た際には、咸陽に近い藍田(陝西省藍田)の地で撃破して、楚衰亡の端緒を作り出す。 「沸騰する社会と諸思想」の短い叙述だけでは、秦の太子=恵文王はアホの子のように書かれているが、そうでもないな。
孝公・商鞅コンビが内政充実期とすれば、恵文王・張儀〔>>26〕コンビで秦の外征が開始されたといえる。 その後、武王→昭襄王→孝文王→荘襄王と続く。
始皇帝の曾祖父である昭襄王を除くと、いずれも在位期間は短い。
荘襄王が没すると、前246年、いよいよ秦王政(のちの始皇帝)が即位する。 司馬さんは、孝公〔>>37〕の後十代目で秦王政が登場したように述べられているが、>>67に書いてあるとおり、六代目の誤りである。 ▽李斯
楚の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)の人である。
初め郡の小役人となり、のち発奮して荀子に学び、秦に仕え、始皇帝の「逐客の令」 (外来者追放策) を諫止し、丞相となり法治主義をとった。秦の郡県制の施行、度量衡の統一、「焚書の令」などは彼の献策により、その内政外交は秦帝国確立の大きな基礎をつくった。
始皇帝の死後二世皇帝を擁立して実権をふるったが、宦者趙高の讒言によって処刑された。前208年に歿する。 ▽韓非
前280年 - 前233年。『韓非子』の著者。法家の代表的人物。
出自は韓の公子であり、後に秦の宰相となった李斯とともに荀子に学んだ。
韓非は生まれつき重度の吃音であり、幼少時代は王安や横陽君成も含む異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下され続けていたが、非常に文才に長け、書を認めることで、自分の考えを説明するようになった。 韓非の生涯で転機となったのは、隣国秦への使者となったことであった。秦で韓を郡県化すべしという議論が李斯の上奏によって起こり、韓非はその弁明のために韓から派遣されたのである。
以前に韓非の文章を読んで敬服するところのあった秦王は、このとき韓非を登用しようと考えたが、李斯は韓非の才能が自分の地位を脅かすことを恐れて王に讒言した。このため韓非は牢につながれ、獄中に李斯が毒薬を届けて自殺を促し、韓非はこれに従ったという。 秦の滅亡については『項羽と劉邦』で詳しくやるので、ここでは割愛する。 ▽漢帝国初期の政治原理
黄老思想。
蕭何と曹参が黄老の徒であった。 ▽董仲舒
前176年 - 前104年。前漢中期の代表的儒学者。広川の人。
公羊 (くよう) 春秋学を修め、景帝のとき博士となった。
次の武帝が儒教による教学の体制を整えようとしたとき、いわゆる賢良対策を献じて、制度革新・儒教一尊の学制・人材の採用などを説いて嘉納され、中国2000年の官学の方向を定めたとされている。
董仲舒の政術は、儒家の仁義・礼制の文化主義にのっとり、法刑や詐術による武断的制覇を排し、王覇の道を区別するものであった。 終ったのか?
うんこしてんのか?
早く次のをやれ。 第3章 霍去病の墓
私どもは北京では北京の全人口を収容するという防衛上の地下道を参観したが、そのとき、いずれ全中国の都市という都市に、地下道ができあがるという説明を、繁華街の下の地下道のなかで聞いた。
辺境の圧迫は、危急の場合、八億の中国人がすべて地下にもぐることによってそれに対抗することができるという思想である。
霍去病の墳墓がみごとに装いを整えて人々の参観の対象になっているのも、そういう空気と無縁ではなく、さらに無縁でないといえば、この墳墓は、中国が紀元前から抱きつづけてきた地政的な課題を、あざやかに象徴していると言えなくはない。 〔初出〕
「オール讀物」昭和50年9月号
司馬遼太郎『余話として』所収 ★西安
▽昭和50年5月
司馬さんが日中文化交流協会によって送り出された日本作家代表団の一員として1975年5月の3週間文革末期の中国を巡ったときの紀行文。
その全貌は『長安から北京へ』にまとめられている。「霍去病の墓」はその余滴。
井上靖を代表とする日本作家代表団として招待され、他に水上勉、床野潤三らが同行した。
http://www.chuko.co.jp/book/202639.jpg ▼日中国交正常化
昭和47年年9月に日中共同声明を発表して、日本国と中華人民共和国が国交を結んだことである。
これにより、中華人民共和国建国23年を経て両国間の懸案となっていた正式な国交がない状態を解消した。
http://dol.ismcdn.jp/mwimgs/6/0/670m/img_60ffdfaaed3c3989e6683b79f1c1228284452.jpg
この日中共同声明に基づき、日本は中華人民共和国と対立関係にあり、それまで国交のあった中華民国に断交を通告した。
10月28日、日中国交正常化を記念して中国からカンカンとランランが東京・上野動物園に贈られた。
http://co-smart.net/wp-content/uploads/adce5a66f93dced40d17ff4cd79ac509.jpg >>83
地図がないと、何を言っているのか理解できないよ。 ▽G君
日中文化交流協会の中国側の係員。満州の長春出身。あまり頑丈そうではない。
寒気をもよおした司馬さんを見て、「霍去病は、病身だったのでしょうか?」と問題提起した。 ▽霍去病
前140年 - 前117年。
前漢の武帝時代の武将。衛皇后および衛青の姉の子。
衛青の匈奴遠征に従って功を立て、冠軍侯に封じられた。次いで驃騎将軍として匈奴を討ち匈奴諸王や王子を殺し捕虜としたので,渾邪 (こんや) 王は一族を率いて漢にくだった。
前119年には大将軍衛青とともに匈奴の根拠地を討ち斬首7万に及んで、その権勢は衛青をしのいだがまもなく病死した。武帝はその功を表して墓を茂陵 (西安北西方) に造らせた。墓と胡人をふまえた石馬が現存する。
https://cdn2.ettoday.net/images/933/d933620.jpg >>84
長安の西郊は、漢代や唐代の古墳が多い。
麦畑の中の古墳が見えますでしょうか? ★茂陵
▽井上靖〔>>80〕
明治40年 - 平成3年。
北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家である。
昭和11年、京都帝大卒業。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。
日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。なお部下に山崎豊子がいた。
昭和25年、『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。 テレビのインタヴューのとき、女子アナが井上の隣に腰掛けた。
井上は「僕は美人が傍にいるとテンパっちゃうんです」と言って、洋酒を飲んで緊張をときほぐしながらインタビューに答えていた。
http://www.shinchosha.co.jp/images_v2/writer/858.jpg ▽易姓革命
孟子の五行思想などから王朝の交代を説明した理論。
天子は天命によってその地位を与えられて天下を治めるが、もし天命にそむくならば天はその地位を奪い他姓の有徳者を天子とするという思想。
後漢の劉氏から魏の曹氏のように、前王朝が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方。
革命とは天命を革めるという意味。 ▽茂陵
前漢の武帝の墓。長安 (現在の西安) の北西、渭水をへだてた丘陵上にある。
この付近には文帝・宣帝を除く前漢9帝の陵があり、茂陵はそのなかの最大の陵である。方台状をなし、方約250m、高さ36m。
漢代の陵はすべて生前に築く寿陵で、武帝も前139年に右扶風槐里県茂郷に戸1万6000を移して県とし陵を営んだ。
陪冢 (ばいちょう) として李夫人、衛青、霍去病らの墓があり、霍去病墓前の石獣はすぐれた石像として有名である。
http://www.otcxian.com/webadmin/Edit/uploadfile/2016032269142881.jpg ▽古墳群の管理責任者
「解放後、政府は武帝の茂陵と霍去病の墓を重視してきました」と言った人。 ▽則天武后
624年 - 705年。
唐の高宗の皇后であったが、664年に実権を握り、690年に国号を周に改め、中国史上唯一の女性の皇帝となる。
科挙官僚の登用など見るべき施策も多いが、一方で醜聞も多く、評価は二面的である。705年の死に伴い国号は唐に復されたが、次の中宗の時代には皇后の韋后が政治を乱し、則天武后と併せて「武韋の禍」ともいわれる。
https://blog-imgs-73.fc2.com/l/u/z/luzifer666/busoku.jpg
http://akj.u-bm.net/wp/wp-content/uploads/2017/02/sokutenbukou.jpg ▽尊法家史観
アカは偏屈で馬鹿だから、則天武后から“悪女”のレッテルを剥いでしまったそうな。 ▽武帝
前156年 - 前87年。
前漢の全盛期の皇帝。郡県制の実質的施行など帝国の支配を安定強化に成功し、盛んに外征を行って匈奴を討ち、帝国の支配領域を最大にした。
その反面国家財政は枯渇し、増収策をとらなければならなくなった。国家統治の理念として儒学を採用し国学とした。
http://www.allchinainfo.com/mtsdownload/Qian-han-print.jpg 尊法家史観からすると、儒学を採用し国学とした武帝は“悪玉”になるはずだが、そこはそれアカは偏屈で馬鹿だから、匈奴を奴隷制社会の代表と見做し、それを打ち破った武帝は、奴隷制社会を斃して封建制を創出した“善玉”ということになる。
児童向けの漫画より馬鹿。あほらしくて読んでいられない。掃き溜めのゴミ虫のような馬鹿。 >>98と>>100は新中国の見解であって、司馬さんの意見ではないので、お間違えなきように。
司馬さんは、やや呆れ気味に揶揄して書いている。 前漢帝国の最盛期というのは、近代までの中国文明史のなかで、ある意味では頂点だったように思える。
その後、中国は下り坂になって、>>98と>>100にみられるような馬鹿になりはてたのである。 司馬も、新中国の寝言なんぞを紹介するなよ。
人生の貴重な時間を、馬鹿と付き合うことで浪費したくないわ。 こんな馬鹿な中国共産党に批判された孔子が気の毒です。
孔子の爪の垢にノミの糞を混ぜたくらいの馬鹿が、おまえらよ。 ▽西域
対匈奴の積極策を模索し、前139年に張騫を大月氏国に派遣した。張騫の帰国は十数年後となるが、匈奴への攻勢を可能にし、西域の情報を多数もたらすこととなり、武帝は敦煌以下の郡を置いて支配領域を西域に広げた。
その他、ベトナムの南越を滅ぼして日南郡などを置き、朝鮮にも侵出して楽浪郡以下の四郡を置いて直轄領とした。
このように武帝時代には、その版図を中華以外の世界に拡大し、文字通り漢帝国を出現させた。 2.匈奴帝国
匈奴はいったん勢力が衰えたが、中国本土で項羽と劉邦が争っている間に勢力を盛り返し、冒頓単于のもとで強大な遊牧国家を形成し匈奴帝国を実現させた。前201〜200年、漢の高祖は匈奴帝国の冒頓単于と戦って敗れ、漢宗室の女性を公主(天子の娘)として単于の妻とし、毎年一定の贈り物とともに匈奴の王に贈るという屈辱的な和を結んでいる。それ以降漢と匈奴帝国は対等な外交関係をとることとなった。
https://www.sekainorekisi.com/wp-content/uploads/2016/11/0b563052a419747489b659e8923c66c2.png 3.漢の武帝の匈奴制圧
一転して武帝は対匈奴強攻策に出て、前129年以来、衛青、霍去病らの諸将軍に大軍をつけて討伐軍を送り、匈奴を圧迫し西域に進出した。また匈奴を挟撃する目的で張騫を大月氏国に派遣した。この武帝によるたび重なる討伐を受けたため匈奴は次第に衰退し、紀元後1世紀頃には東西に分裂する。 4.匈奴の崩壊
東匈奴は内モンゴルに残り、漢と同盟して西匈奴を滅ぼした。西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。東匈奴はさらに48年に南北に分裂する。
北匈奴はモンゴル高原に残ったが、後漢と結んだ南匈奴が、モンゴル高原東方にいた烏桓、鮮卑、南方の丁零などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し、87年には単于が鮮卑に殺害され、91年にはその本拠も奪われて、匈奴帝国は完全に姿を消した。
その一部がさらに西進し、ヨーロッパに現れてフン人となったという説が有力である。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/d2d/1621059/20140602_1164348.jpg 5.その後のモンゴル高原
匈奴帝国が崩壊した1世紀末以後のモンゴル高原には、東部を本拠とした鮮卑(トルコ系またはモンゴル系)が有力となり、後漢末の混乱で亡命してきた漢人を受け容れて漢化しながら、しばしば中国本土に侵攻するようになる。
一方、南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧すると、地域ごとに左・右・南・北・中の五部に分割して統治された。実際には奴隷として人身売買される境遇にあった。
3世紀末、晋の八王の乱に乗じて華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し同化していった。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/jurokkoku.jpg ▽中ソ国境紛争
1969年3月にアムール川(中国語名は黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(中国語名は珍宝島)の領有権を巡って大規模な軍事衝突が発生した。
同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に発展した。同じ共産党独裁国家でありながら、かつて蜜月を誇った中国とソ連の対立が表面化した事件でもあった。 中国では文化大革命の真っ只中に起きたこの軍事衝突を契機に、ソ連と中国の関係は決定的に悪化した。そのため、中国は水面下で、ソ連と対立していたアメリカに急接近を図った。一方のアメリカ側もベトナム戦争から手を引くために中国との接近を図り、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が急遽北京を訪問し毛沢東と会談し、友好関係を持つに至った。 ∧ ∧
(*‘ω‘ *) 珍宝島
( )
v v
ぼいんっ
川
( ( ) ) ▽古墳群の管理責任者〔>>94〕
「武帝の匈奴に対する戦争は、正義のたたかいでした」 ▽プロレタリア文化大革命
中華人民共和国で1966年から1976年まで続き1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。
文化上の反革命批判から始まり、紅衛兵などの大衆的運動が盛り上がり、資本主義に傾いた党幹部や守旧派が厳しく糾弾された。権力闘争の側面も強く、権力を握った毛沢東夫人江青ら四人組の極端な政策によって中国は大きく混乱し経済は停滞した。
文革の犠牲者は正確にはわからないが、死者1,000万人、被害者一億人、経済的損失は約5,000億元ともいわれるほどであった。
1976年の毛沢東の死去から収束に向かい、ケ小平による改革開放路線に転換したその後の中国では否定的にとらえられている。
なお、司馬さんは文革を評して「中国人のために幸いだったと思っている」と述べられている。
https://4.bp.blogspot.com/-ldtqjEjie2g/WUi8JIBK_hI/AAAAAAABCww/KGFHuyoo-CYcGjM12x3K5SVjubcg0-WcgCLcBGAs/s640/BN-NZ615_0512ch_J_20160512104519.jpg
https://1.bp.blogspot.com/-U8S-AoSAJjQ/WUi-AnWhkfI/AAAAAAABCxA/EQVTsQHUzjMXFzlYXq22dVJmby0_V9qAACLcBGAs/s1600/BN-NZ614_0512ch_J_20160512104519.jpg ▽批林批孔運動
中国では1973年夏から約3年間、人民大衆を広くまきこむ大規模な孔子批判の動きが勃発した。それは当時,文化大革命の裏切者と評された林彪と孔子とを合わせて批判しようとした批林批孔運動である。そこでは、孔子は変革と進歩に反対し復古と退歩に固執した〈頑迷な奴隷制擁護の思想家〉〈反革命のイデオローグ〉というレッテルが貼られた。
http://kccn.konan-u.ac.jp/keizai/china/04/img/photo04_01.jpg このあと中国共産党のたわ言が紹介されています。
人類の歴史を幼児の知能レベルで解析しております。
読むに堪えません。 ★霍去病
▽平陽公主
平陽侯とは曹時のこと。前漢第二代の相国である曹参の曾孫。
曹時は武帝の姉の平陽公主と結婚し、子の曹襄を授かった。
しかし不幸にも曹時は癩病(ハンセン病)に罹ってしまい、妻に離縁され国に帰らざるを得なかった。
妻であった平陽公主は後に衛青と再婚している。
https://i1.kknews.cc/SIG=eahke9/141n00006po327414n9o.jpg ▽鄭李(ていき)
平陽侯曹時に仕えていた色好みの小役人。
平陽公主に仕えていた婢である衛媼(えいおん)と通じ、衛君孺、衛子夫、衛子女、大将軍となった衛青らを生ませた。
衛子夫は非常な美女で、のちに劉徹(武帝)に見初められ皇后となる。 ▽衛皇后
前漢の武帝の皇后。母親は婢であった衛媼。弟に大将軍となった衛青がいる。
武帝の姉である平陽公主〔>>121〕に引き立てられ、武帝の寵姫となる。背景に陳皇后と平陽公主の対立があった。子の戻太子が皇太子に立てられた後、前128年に寵姫から皇后に昇格する。
巫蠱の乱で罪に問われ、自殺を強いられた上、皇后の位を廃された。
http://livedoor.blogimg.jp/c_drama/imgs/0/7/07c405da.jpg ▽衛青
前漢の武帝に仕えた武将。
身分は相当低かったものの、姉の衛子夫〔>>123〕が武帝の寵姫となったことや騎射の名手であったことなどから引き立てられる。
匈奴征伐に際して車騎将軍に任命され、連戦連勝して匈奴の首を数万討ち取り、匈奴の領土(現在の内モンゴル自治区のバヤンノール市)を奪い取るなど多大な功績を挙げる。その後、軍功により大司馬、大将軍にまで出世するが、政治にはあまり口出ししなかった。
大将軍に出世後、武帝の姉である平陽公主〔>>121〕を妻とした。彼女はかつて衛青を使用人として使っていた。
http://img.timetw.com/qls02/34549_201551104558393.jpg ▽衛少児
衛皇后〔>>123〕の姉。衛君孺〔>>122〕は岡田英弘「皇帝たちの中国」に出てくる衛皇后の姉であるが、衛少児と同一人物なのであろうか?
衛少児は霍仲孺の子を生む。霍去病〔>>88〕である。
漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の陳掌は衛少児と密通しており、霍去病の義父となった。 衛青とその甥の霍去病とは同時代に活躍し血縁でもあることからよく比較される。
衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士のことを考えていたといわれる。他方、霍去病は物心ついた時には既に一族は皇帝の外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。それゆえ叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くようなことをしていた。
しかし、宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。衛青はへりくだりの度が過ぎて媚を売るような所があったとされ、また、霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていた模様だった。武帝も積極果敢な霍去病をより好んでいた。 ▽侍中
侍中府の官職のひとつで、皇帝の側近で皇帝の質問に備え身辺に侍する役職。
中国においては秦代に始まり、丞相の属官として殿中の奏事を司り、漢代に入ると加官(本職の他の兼任専用の役職)となって皇帝の乗輿・服飾をも扱った。漢から魏にかけて荀ケが守尚書令に侍中を兼ね、続いて太尉司馬懿と大将軍曹爽が侍中を兼ねている。
霍去病の最初の従軍は18歳のとき侍中の身分のままで叔父の衛青の出征に従った。 ▽剽姚校尉
霍去病の二度目の従軍のときの身分。18歳か19歳のとき。
衛青に従って匈奴族を撃破した。このときの戦いで、霍去病は800騎の軽騎兵をひきつれて数百里を走破し、2,000余人の敵兵を殺し、功績によって冠軍侯の爵位を与えられる。 ▽驃騎将軍
前漢以降の官職名。軍を率いる将軍位のひとつ。
前漢の武帝元狩2年(前121年)に霍去病が就任したことに始まり、元狩4年(前119年)には大将軍と同等の秩禄とされた。
『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍に次ぎ、車騎将軍、衛将軍の上位に当たる。 前121年の春、霍去病(21歳)は驃騎将軍に任命され、一万の騎馬隊をひきつれて隴西に行き、匈奴族の支配地域に深く入ると、8千人の敵兵を殺し、渾邪王子を捕虜とした。
同年の夏、霍去病は軍隊をひきつれて再び匈奴族を撃ち、居延沢(内蒙古の額済納旗の東南)にまで進軍する。さらに祁連山まで追撃して大勝し、匈奴族の王室、貴族、将軍など100余人を捕虜とした。 前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。
このとき衛青と霍去病は、瀚海(バイカル湖)まで攻め込んでいる。
匈奴の衰退は、ここから始まる。
司馬さんは「翰海」としているが、サンズイを忘れている。
https://i0.wp.com/schoolwake.com/wp-content/uploads/2014/11/baikarr.gif ▽王夫人
武帝の寵愛は衛皇后から王夫人に移っていたという叙述があるが、王夫人は武帝の生母である。 悪役メイクにしているから陳皇后の顔はきつく見えるが、普段着のときは陳皇后がいちばん美人よ。 第4章 『叛旗』と李自成のこと
明末、延安府の荒涼とした山河にうまれた李自成(?〜1645)は、ようやく駅卒の職にありつき、次いでその職を失った。流民になり、やがて一団の首領から変転をへて相当な規模の流民軍をひきいる勢力の主になった。 〔初出〕
姚雪垠『叛旗−小説李自成』序文 / 昭和57年10月集英社刊
司馬遼太郎『歴史の舞台−文明のさまざま』所収 ★明末
▽易姓革命〔>>92〕
冒頭の叙述は、易姓革命の説明。 ▽延安府
『水滸伝』の王進が高キュウの仕返しを恐れて逃亡した先。真っ先に思い浮かんだのが、これ。
1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれ、この期間中に毛沢東の党内主導権が確立したことから、中国革命の聖地とされる。
本章では、李自成の故郷として語られている。
http://www.waseda.jp/bun-tousi/teachers/kondo/kondo-pekinkouen/yanan1.jpg ▽駅卒
日本の馬丁に同じ。馬の世話や口取りをする人。 ▽明末農民叛乱の首領たち
閻正虎
上天帝とは、上天竜のことだろうか?陳永福に敗れて殺された。
過天星 ▽闖王(ちんおう)
崇禎元年(1628年)頃の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などがいた。李自成は高迎祥配下の武将の一人にすぎなかったが、この時の作戦会議で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、さらに翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の後継者となり、高迎祥が名乗っていた闖王(ちんおう)の称号を名乗り、反乱軍の首魁となった。 ▽四川
李自成軍の勢力を軽視した官軍は、湖広(湖北省・湖南省)へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落とした。
この地で挙人の李巌と出会い、「均田」(耕地の平等な分配)と「免糧」(当面の間租税を免除する)の二つのスローガンを李巌から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がった。
しかし、李巌は今日では清初の小説で創作された架空の人物とされている。
また、牛金星ら知識人を陣営に取り込んでいくことになる。 ▽大順
1644年に明朝を倒した李自成が建国を宣言した王朝。
一時は現在の内地18省を実効支配し、満洲や新疆東部に羈縻機構を設置した。
建国宣言当初は西安を首都と定めていたが、李自成が北京を攻略後、皇帝を称するにあたり北京を改めて首都と定めた。 ▽崇禎帝
明朝第17代、最後の皇帝。
崇禎帝は李自成軍に次々と討伐軍を送るが、その討伐軍を組織するために増税を行ったことにより、窮迫した民衆が李自成軍に加わり逆効果であった。
崇禎17年(1644年)、李自成の大順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。前夜から、崇禎帝は息子たちを紫禁城から脱出させ、側室と娘たちを自ら手にかけて殺害し、周皇后の自害を見届けた。ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。享年34。
http://ayin.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_8f1/ayin/200752212337408.jpg ▽後金
清朝の建国当初の国号。満州語では金国をアイシン・グルンと称する。女直 (女真) の統一をほぼなしとげたヌルハチ (奴児哈赤) は、1616年に汗位についた。そのときに国号を金と定めたとされる。
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12世紀の女直人の国家である金朝を継ぐ意味で後金と称した。 ▽呉三桂
明末清初の軍人、周の初代皇帝。
遼東で清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。
平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。
https://pbs.twimg.com/profile_images/589710048852508673/o1i9HDfp.jpg ▽清の入関
李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した。 ▽ドルグン(多爾袞)
後金から清初の皇族。甥にあたる順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮し、大きな役割を果たした。
http://blog-imgs-26.fc2.com/r/e/i/reiazumi/20080722151205.jpg 昭和54年5月、司馬宅を訪れる。
司馬さんは、『李自成』全4巻を無料でゲット。 ▽陳圓圓
明代末期の美妓。明末清初に活躍した軍閥武将呉三桂の側室。叛将呉三桂の心を奪った傾国の美女といわれ、その生涯は多くの伝説で包まれている。康熙12年(1673年)呉三桂が広東の尚之信および福建の耿精忠とともに反乱を起こす(三藩の乱)と、陳円円は呉三桂の下を辞去して女道士となり、寂静と改名して余生を過ごしたという。
http://wonder4.co/wp-content/uploads/2016/03/Img240777669.jpg ▽蘇州画舫録
西渓山人著。岩城秀夫訳。
明代末・清代初頭に繁華をきわめ,やがてさびれた南京・秦淮と風光明媚な蘇州の遊里。“夢の時空”に遊ぶ文人・名士の風流生活と名妓たちのあでやかな姿を伝えて,過ぎ去った時代を追想する。
http://www.xaluan.com/images/news/Image/2014/11/08/6545dcf600d2b8.img.jpg ▽『華夷変態』
江戸時代の儒学者である林春勝(林鵞峰)と林信篤(林鳳岡)の父子が、1732年に編纂した書物。
この書は、長崎に来航する中国船がもたらした中国における見聞についての記述を日本人が書き留めた「唐船風説書」と総称される幕府への上書を整理して、年代順にまとめた書物のひとつである。
「華夷変態」という表現は、漢民族の王朝である明が、満州民族(女真族)が建てた清に打倒されたことを、中華が夷狄に打倒されて変貌を余儀なくされていると捉えたものである。
その内容には、明滅亡後の南明政権や三藩の乱に関する記述など明復興の試みへの言及も少なからず含まれている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri08/ri08_02559/ri08_02559_0002/ri08_02559_0002_p0001s.jpg ▽客至 / 杜甫
花徑不曾?客掃
蓬門今始爲君開
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/rs447.htm 第5章 南方古俗と西郷の乱
私学校は文明開化の学校でもなければ、あたらしい革命思想を教える学校でもなかった。革命思想などは内容にかけらもなかった。「オセンシの言うことをきけ」ということを組織化し、強制化するための組織だった。つまり、一旦緩急あるときは即日動員できるようにしただけの、人々を「兵員」として固定し、組織づけ、規律づけただけの組織だった。つまりは、士族若衆組であった。
古代、農山漁村で、隣村と大喧嘩がおこなわれる場合は、若衆組が出てゆくのであろう。その事前、若衆頭が、暴発しようとする若衆をいかにおさえても抑えきれない場合、そこで論理のヒューズが切れたような形で、若衆頭は若衆たちに身をさずけ、彼らを率いて出かけてゆく。
西郷は暴発に反対であった。
が、結局は「わしの体をやる」というかたちで、彼らに担がれた。 ★西郷隆盛
▽高士
1 志が高くりっぱな人格を備えた人物。人格高潔な人。……儒教的済民意識「高士世に容れられず」
2 世俗を離れて生活している高潔な人物。隠君子。……道教的退隠哲学 ▽寛仁な長者
司馬遷は劉邦を「寛仁の長者」と言った。
日本の政治的な精神風土は、有能でせせこましい人よりも、少々無能であっても寛仁な長者を欲する。
無私・清貧。 ▽アーネスト・サトウ
日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。植物学者の武田久吉は次男。
サトウは、西郷のことを「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていた」と表現した。おそらく当時の日本に滞在していた外国人のなかで最も西郷と親しい関係にあった人物といえるだろう。
西南戦争の時期には、再び日本に滞在していたサトウは、西郷の行動や戦争を冷静に見守ることになった。
http://www.the-noh.com/en/oversea/img/satow.jpg ▽ウィリアム・ウィリス
1862年、駐日英国公使館の外交官・医官として来日した。生麦事件に遭遇した際、誰よりも先に現場に向かい、その後、英国人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行った。
1863年、薩英戦争ではイギリス人負傷者の治療に当たった。
1870年、西郷隆盛や医師石神良策の招きに応え、イギリス外務省の副領事職を辞職して、鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部前身)の創始者となった。
1871年、鹿児島県士族江夏十郎の娘八重と結婚した。2年後に息子が誕生。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/120/images/2004_04_l.jpg ▽大久保利通
大久保が暗殺された後、遺族が遺産を整理したところ、驚くべき事実が明らかになりました。大久保は政府の中で専制的な支配力を築き上げた絶大な権力者でしたから、誰もが莫大な遺産を遺しているのだろうと思っていたのですが、実際には、僅か数百円の現金しか残しておらず、それどころか、借金が8,000円(現在の金額で約2.4億円)もあったのです。
しかもその借金はすべて不足した公金を賄うために大久保が自分名義で借りた借金でした。大久保は、政権中枢にいて巨万の富を得ることも不可能ではなかったのに、最期まで清廉を貫いた人だったのです。私はこのエピソードを知った時に、大久保という人物が好きになりました。
http://gallery.wox.cc/app/ohkubo-tm_/article/o/7.jpg ▽『春秋左氏伝』
孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書のひとつで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。
孔子と同時代人である左丘明が、孔子の『春秋』の正しい意味が失われることを恐れて『左伝』をつくり、また『国語』を著わしたと伝えられているが、実際は漢代の学者が『国語』その他の伝承史料により『春秋』の編年に合せて編集したものと考えられる。
『公羊伝』の政教主義を捨てて『春秋』の背景の史実を暢達な文章で記述し、これに義例を加えて倫理道徳の教えを展開している。
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shunjuu/contents/shunjuu_1.bmp ▽『司馬文正公集』
司馬光〈1019年 - 1086年〉
北宋代の儒学者、歴史家、政治家。諡は文正。温国公の爵位を贈られた。このため「司馬温公」「司馬文正公」と呼ばれることも多い。
1067年(治平4年)、神宗は王安石を用いて新法を断行する。当時、翰林学士の司馬光は、当初改革には賛成であった。
しかし、王安石が官僚の既得権を侵して政治の一新を図るやいなや、直ちに反対の立場に転じ、枢密院を根拠とした王安石反対派(いわゆる旧法派)と連係して強硬に新法の反対を主張した。
司馬光は王安石の譲歩にも拘らず新法の撤回を要求したため、遂に朝廷から退けられ、副都洛陽に事実上の隠居生活を送ることになった。
http://www.zwbk.org/edit/file/20100617054905707_52.jpg ▽頼山陽
『前兵児謡』
衣は骭に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば 人を斬り
馬触るれば 馬を切る
十八交を結ぶ 健児の社
北客能く来らば 何を以って酬いん
弾丸硝薬 是れ膳羞
客猶属えんせずんば
好し宝刀を以って渠が頭に加えん 薩摩の男子は、裾は脛までしかなく、袖も腕までしかない短い。
着物を着て身なりはまことに粗末だが、腰に差した刀は鉄さえ切り裂くことができ、襲ってくるものは人でも馬でも片っ端から斬る勢いだ。
18歳になると男子は健児社に入り、互いに鍛錬に励む。
もし肥後の敵軍が侵入してくるならば弾丸硝薬をご馳走し、それで満足しないなら宝刀をふるって素っ首刎ねて見せると意気込んでいる。 ▽若衆組
伝統的な地域社会において、一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える土俗的な教育組織である。
夜這いは近畿から九州にかけての南方系の習俗で、年頃の娘をもつ家庭は若衆が夜這いに来るのでうちに鍵をかけてはならず、台所には夜に来る若衆のためにおひつに一膳の飯を残しておかなければならない。お供物のようなものである。
昭和30年代くらいであらかた滅びてしまった。
http://blog-imgs-42.fc2.com/c/h/i/chikaraishiworld/img389.jpg ▽夜這い
婚前性交渉で妊娠することもある。もてる娘の場合は複数の若衆が通ってくるので父親がはっきりしないケースもあるわけだが、この場合父親の指名権は娘にあり、若衆には拒否権がない。本当に自分の子かどうかは問題とされない。ここらへんは我が国の性風俗が開放的といわれる所以である。 ▽ポン
タネが骨を作るという遊牧民の信仰とやらは、調べたけどわからなかった。
いずれにしても、司馬さんが若衆組の話をするときは、朝鮮=北方系、日本=南方系という図式になっている。 ということは、再婚した妻の連れ子を殺す義父というのは、チョンということですね? ▽可愛岳〈えのだけ〉
明治10年(1877年)2月、鹿児島を発した薩軍は、熊本城攻め、植木・田原坂の激戦に敗れて矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て、8月2日、延岡入りするも延岡は陥落、8月15日、西南戦争最後の激戦“和田越の決戦”において、西郷は初めて戦場に立つことになる。
その和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、西郷は解軍の令を出す。そして、可愛岳の包囲網を突破。これより、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで、半月近く続く。
http://blog-imgs-78.fc2.com/k/a/n/kanto2525ohta/2015050413313634c.jpg
http://tomahawk.fc2web.com/enodake/enodake.jpg ▽「ひえもんとり」
死刑囚の遺体に数人でかぶりつき、皮膚や肉を噛み千切って、一番早く胆嚢を取り出したものが勝ちとなる競技。薩摩武士としての胆力を練るための訓練の一環として行われた。
競争者は刃物を所持していないため頼れる利器は己の歯のみ。文字通り死体にかぶりつき、そのまま口中にふくんだり、傷口から手を突っ込んだりして取り出すことになる。
http://www.kieikai.ne.jp/laparoscopic_surgery/sils/images/sils1_gallbladder.jpg 司馬作品では薩摩武士=女好きということになっており、薩摩人を操るには女を与えてさえおけばよいといった風な叙述が頻繁に登場する。
しかし、現実の薩摩武士は男好き。
単に男色というだけでなく強姦・輪姦が日常的に行われていたという。
幕末まで薩摩では尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、郷中制度を中心に男色が盛んに称揚された。女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された。 明治期の鹿児島の中学の寄宿舎で、夜半、少年たちの「堪忍っしゃったもし」の声と悲鳴が長時間聞かれた。
私が一中にはいった年、尻突きの名で呼ばれる青年の射精法は禁止になり、中学生でこの嗜癖を実行したものは退学になることが決まった。
http://protosketch.co/wp-content/uploads/2017/01/b00041jp-13.jpg あまり知られていない鹿児島県人のヤバイ過去 / 子犬を殺して食べていた。
まず子犬を殺して腹を割き、内臓を取り出す。そこに、お米を詰め込みます。そして、子犬ごと丸焼きにし、腹の中で蒸された米を食べる。
薩摩では古くから犬を食用にしていたという記録があり、また家畜の腹に米などを詰め蒸し焼きにする手法については、ハワイ名物のカルア・ピッグ(祝祭に用いられる豚の丸焼き)など南太平洋の島々にも類似の料理があるため、こうした調理法が伝播したという可能性も指摘されている。
http://www.hawaiist.net/wp-content/uploads/2014/12/hula_21.jpg 北方謙三『三国志』では、張飛の野戦料理がカルア・ピッグに似ていたな。
張飛は南方系なんだ。 ▽妙円寺詣り
鹿児島市内から日置市伊集院町までの約20qの道のりを歩いて参拝する伝統行事。
関ヶ原合戦で敵中突破後帰還を果たした島津義弘公をしのび、鹿児島城下の武士たち(庶民は明治以降)は関ヶ原の合戦前夜の9月14日(旧暦)、往復40キロの道のりを鎧・兜に身を固め、夜を徹して義弘公の菩提寺である妙円寺に参拝し始めました。
廃仏毀釈で徳重神社に変わってからも参詣は続きました。やがて、鹿児島三大行事として受け継がれます。
http://www.kagoshima-kankou.com/common_cfc/image.php?w=410&p=..&f=/db_img/cl_img/51768/65EDCE7EA63E0ACAAD2DDB5BFFD9761B.jpg ▽曾我どんの傘焼き
1193年に相模国の曽我兄弟(十郎祐成と五郎時致)が父の仇討ちを遂げる際、たいまつの代わりに雨傘を燃やして夜討ちした故事に由来する伝統行事で、曽我兄弟の孝心をしのび「郷中教育」の一環としてはじめられたそうです。
はじまったのがいつかはっきりしませんが、江戸時代の1836年には、曽我祭りが行われたという記録が残っているそうです。
http://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/takarabako/traditional/images/53895-102566-604.jpg
http://www.ccn.aitai.ne.jp/~oken/img044.jpg ▽什(じゅう)
会津藩における藩士の子弟を教育する組織。同様の組織に薩摩藩の「郷中」がある。
町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けた。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて「什の掟」を訓示した。什の掟は7ヶ条からなる。
「戸外で物を食べてはなりませぬ」
「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」 ▽儒教的なモラル
韓国人の社会は、いまだに儒教的なモラルが強烈な社会なので、例えば「年上の人の前では煙草を吸わない」とか「父親の前では眼鏡をかけない」とか、年長者に対する礼儀にうるさい社会です。
そのため日本人から見ると少し理解できないようなタブーがあるみたいです。ですから年上の女性と結婚しないというのもあると思いますね。 ところが、韓国ドラマ「私の名前はキム・サムスン」で年下男性と年上女性の恋愛ドラマを描いたところ、大ヒットし、”歳上女性と付き合う”のが流行したそうです(笑) ▽南方の民俗
若衆組には、きわめて厳しい生活律が定められている。掟を破れば当然制裁をうける。
自律的な集団で、家長からは独立した若者の世界をもっており、かれらは家の仕事と村の仕事とを両立させ、若衆頭によって統率されていた。
仲間同士の階級秩序もきちんとしており、一致団結、天災人災に備えた。夜警、消防、難破船の救助活動、村祭り、祝儀不祝儀の手伝いなどがあり、また漁村の場合共同でする網漁には先頭に立って働いている。 司馬遼太郎の鹿児島県人像は、司馬の文壇デビューを支援してくれた恩人である海音寺潮五郎に対する遠慮が主成分となっているからな。 ▼しかつめらしい
「鹿爪らしい」は当て字。
まじめくさっていて堅苦しい。もっともらしい。
語源からの変化は、「しかりつべくあらし」→「しかつべらしい」→「しかつめらしい」 ★下鍛冶屋町
▽下鍛冶屋町
旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町。現在は鹿児島市鍛冶屋町。
江戸時代には下級武士の居住地であり、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛など江戸時代から明治時代にかけて活躍した多くの政治家・軍人などの著名人の出身地としても知られている。
http://tamrhyouka.hiho.jp/tiiki-kagosima-1tizu.jpg ▽宮内藤助
薩摩藩の下級武士。徳之島代官を勤めたことがある。 ▽大山綱昌
薩摩藩鹿児島城下士。通称は彦八。本姓佐々木源氏の大山家に養子入りする前は西郷小兵衛と称す。
西郷隆盛の父である西郷吉兵衛は実兄。つまり、隆盛の叔父。
司馬さんは大山巌を大山彦八の兄としているが、子の誤りである。
現在の鹿児島市加治屋町4番地の東に大山彦八宅地と宅地の添え地があった。宅地は186坪、添え地は182坪。 〔下鍛冶屋町地図〕
二本松馬場
番 柿
所 猫ノ恋小路 本
小 寺
路 山ノ口馬場 通 ▽小倉壮九郎
1841(天保12)−1877(明治10)。
東郷実友の三男。東郷平八郎の実兄。維新後、海軍に入り海軍大尉となる。
1873(明治6)年、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛に従って鹿児島に戻ったものと思われ、1877(明治10)年の西南戦争では薩軍三番大隊九番小隊長として出陣。熊本まで進出するものの、その後は敗戦を重ね、西郷とともに鹿児島へ戻って城山に立て籠もり、同年9月24日、城山総攻撃を仕掛けた政府軍と戦い、敗れて自害した。 日テレの『田原坂』、NHKの『 翔ぶが如く』のいずれにも小倉壮九郎は登場しているらしい。
気づかなかった。 ▽東郷平八郎
弘化4年(1848年) - 昭和9年。
明治4年(1871年)から同11年(1878年)までイギリスのポーツマスに官費留学する。
帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って西郷の死を悼んだという。
実際、東郷の実兄である小倉壮九郎〔>>205〕は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。
https://hobbytimes.jp/images/20170126e01.jpg 司馬さんは、小倉壮九郎を薩軍一番遊撃隊長としているが、薩軍三番大隊九番小隊長の誤りである。 ▽伊東猛右衛門
文化13年(1816年) - 慶応4年(1868年)。幕末の薩摩藩の武士。諱は祐之。
陽明学者。曾孫は文豪の埴谷雄高(はにや ゆたか)。
東郷実友〔>>205〕の近所(現・鹿児島市加治屋町)に住み、東郷実猗、東郷平八郎兄弟や海江田信義が師事したという。
嘉永3年〜4年頃、西郷吉之助・大久保一蔵の両名が猛右衛門の門弟となっていて、その教えに大きな影響を受けいた。師の深い人間性と思想の雄大さに心酔し感動冷め遣らぬ西郷・大久保は、次いで東郷平八郎、海江田信義、長沼嘉平など多くの藩士を勧誘して、その講義・授業を受けさせたのである。
http://www.ito-ke.server-shared.com/sukeyuki.jpg >>203
西郷吉兵衛の弟は、大山彦八綱昌。
まぎらわしいけど、大山彦八綱昌の長男が大山彦八成美で、これが大山巌の兄。
したがって、彦八・巌と西郷隆盛が従兄弟という叙述で、まちがいはないよ。 失礼いたしました。改めて……
▽大山彦八
天保6年(1835)〜明治9年。大山巌の実兄。
万延元年(1860)3月、桜田門外の変が起きたときは、京都伏見の薩摩屋敷詰で、幕府の嫌疑をうけて京都六角獄につながれた。
1年あまりで釈放され、ふたたび伏見屋敷詰に復した。
明治3年、京都府権大参事、ついで埼玉県大参事となったが、明治6年、征韓論に敗れた西郷隆盛に従って下野、明治7年、鹿児島に帰り、西南の役を1年後に控えて42歳で病没した。 ▽西郷吉二郎
天保4年(1833年)- 慶応4年(1868年)。
戊辰戦争では番兵二番隊監軍となり越後国に出兵するが、長岡城の戦いにおいて越後国五十嵐川付近(現在の新潟県三条市)での戦傷がもとで戦死
する。本文の曲淵村(現在は曲渕)も三条市にある地名なので間違いはない。
https://uub.jp/47/niigata/niigata_map1.png
※三条市にある西郷吉二郎の名を刻んだ碑文
http://livedoor.blogimg.jp/salmonidae/imgs/6/c/6ccf5eef.jpg ▽跼蹐
跼天蹐地の略。
「跼」は「背中を丸める」、「蹐」は「そーっと歩く」という意味。
肩身が狭いこと。世をはばかって、ひっそりと暮らすこと。 ▽オセンシ
元来は長老という意味の鹿児島弁である。鹿児島県に「おせんし倶楽部」という高齢者向けの賃貸住宅がある。
https://www.pref.kagoshima.jp/ah14/kurashi-kankyo/sumai/kariru/korei/images/27012-63060-604.jpg
ここでは、郷中制度の内部における身分を意味している。
小稚児(こちご:6-10歳)
長稚児(おせちご:11-15歳)
二才(にせ:15-25歳)
長老(おせんし:妻帯した先輩) 「おせ」は西日本で一般的に使われているよ。「大人」と同じ意味。
「おせらしゅうなった」=大人っぽくなった。 ▽方限〈ほうぎり〉
1.薩摩藩の門割制度。一村を数「方限」に分け「名主」が頭となり、方限はまたいくつかの「門」 (百姓の組) に分けて「名頭」(みようず)が数家部の名子らの頭となっている生産共同体。
2.薩摩の城下士の居住区を分けた単位のこと。各方限ごとに、先輩が若年者を指導する「郷中教育」という制度があった。 「中国儒教社会の読書人のようなものでもない。この間の消息や機微は一種、老荘的でさえある」
「オセンシもまた南方民俗的な社会意識の上に成立していた」
……オセンシという存在が南方民俗だと述べている。
……「オセンシの命令に絶対服従」が南方民俗だとは述べていないが、これもまた南方民俗なのだろうか? ▽西郷従道
天保14年(1843年)- 明治35年。
名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。
明治維新後、太政官に名前を登録する際、「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとしたところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ「従道」と記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで通した。
http://db.nichibun.ac.jp/region/d/GAI/info/GO016/item/005/image/thumb/0/thmb.001.jpeg 有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。
文久元年(1861年)に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。
文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受け、従道は帰藩謹慎処分となる。
文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると謹慎も解け西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも各地を転戦した。 ▽大山巌
天保13年(1842年)- 大正5年。渾名はガマ。
西郷信吾より1歳年長で、幕末期の履歴も、信吾とほぼ同じ。
会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、弾丸が右股を内側から貫き負傷し翌日後送されている。
このとき篭城側は主だった兵が殆ど出撃中で城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重と僅かな兵たちだった。そのため狙撃者は八重であるとも言われている。
なお、この時の会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していた。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201303/28/92/a0287992_1274.jpg ▽桐野利秋
天保9年(1838年)12月、鹿児島郡吉野村実方(現在の鹿児島市吉野町)で城下士の中村与右衛門の第三子として生まれる。初め中村半次郎と称した。別府晋介は母方の従弟。
慶応3年(1867年)9月3日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者・赤松小三郎を、幕府の密偵という理由で白昼暗殺した。小説の題名から「人斬り半次郎」と言われているが、実際に記録がある暗殺はこの1件だけである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/85/Kirino_Toshiaki.jpg ▽篠原国幹
天保7年(1837年)、鹿児島城下加治屋町で生まれる。
文久2年(1862年)、有馬新七らと挙兵討幕を企てたが島津久光の鎮圧にあって失敗した(寺田屋騒動)。
薩英戦争で砲台守備に出陣。
戊辰戦争のとき薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽・伏見の戦いに参戦し、その後、東征軍に従って江戸に上った。
上野の彰義隊を攻めたときは正面の黒門口攻めを担当し、その陣頭に立っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。
この後、奥羽へ転戦した。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/34/1a07f8e3adb5d524ebbed3bd4de62c62.jpg ▼19世紀の元号
享和(4)→文化(15)→文政(13)→天保(15)→弘化(5)→嘉永(7)→安政(7)→万延(2)→文久(4)→元治(2)→慶応(4) ★維新後の西郷
▽衒気
自分の才能・学識などを見せびらかし自慢したがる気持ち
※衒奇:奇をてらうこと。奇矯なわざとらしいふるまいをすること。
※衒い:衒気と同じ
※外連(けれん):歌舞伎や人形浄瑠璃で見た目本位の奇抜さをねらった演出。ごまかし。はったり。 ▽私学校
征韓論に敗れ鹿児島に帰った西郷隆盛が、明治7年6月設立した学校。銃隊学校と砲隊学校から成り、篠原国幹、村田新八がそれぞれ主宰した。
鹿児島県下に136の分校をもち、経費は旧藩から県庁に引継がれた積立金をあて、県令大山綱良の支持のもとに士族を基盤として成立した。
西南戦争の際にはその主勢力となった。
http://www.geocities.jp/seinan_eki/jpg/kagosima/sigakkouato-1.jpg ▽木戸孝允
明治6年9月、大久保利通により内務省が設立された際には、「あまりにも強大で強力な権限を持ちすぎる」として、内務省設立を主導した大久保を批判していた。
しかし、明治7年2月に勃発した佐賀の乱以降は、士族の反乱に対抗するには、太政官による警察力の強化と中央集権の徹底が必要として、内務省による積極的な士族反乱への対処と、さながら独立国化していた鹿児島県に、薩摩藩出身者以外からの県令を派遣することや、鹿児島県を太政官の方針に従わせることを要求するようになる。
なお、木戸のお膝元の山口県で、明治9年10月に勃発した萩の乱では、反乱の首謀者であり、かつて徴兵令を巡って木戸と対立した経緯のある前原一誠を、萩の臨時裁判所で審理させ、極刑に処している。
http://www.geocities.jp/str_homepage/rekishi/bakumatsu/jinbutsu/img/kido_t.GIF ▽丁丑公論〈ていちゅう〉
福澤諭吉の著書のひとつ。1877年(明治10年)の西南戦争の直後に脱稿され、1901年(明治34年)に時事新報紙上に掲載された。
本書の特徴は、西南戦争直後の西郷に対する批判に反論して、西郷を弁護しているところにある。
「西郷は偉大な人物である。国の法がいかに激しいものであっても一人の人物を受け入れる余地はなかったのか」と述べて、西郷の人物を惜しみ、いつかこの人物を起用する時もあったはずであると結んでいる。
http://iiif.lib.keio.ac.jp/iipsrv/FKZ/F7-A55/tif/F7-A55-01-001.tif/full/256,/0/default.jpg ▼菊池寛「大衆明治史」
なるほど形の上では西郷が廟議に敗れて鹿児島に引っ込んだのであるから西郷の負けのようであるが、西郷の持っている一世の輿望というものは九州の一角において文字通り西郷王国を築き上げているのである。
鹿児島県の官吏の任免でさえ、この一派の手の中にあったのであるから、まるで一種の独立地域である。アンチ大久保アンチ中央政府の欝然たる牙城となってしまったのだ。
いつかこの力のバランスは崩れ、互いに正面衝突をすべき運命にあったことは、誰の眼にも歴々として映じていたのである。
http://takatanaoki.com/wp/wp-content/uploads/2013/02/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8F%B2.jpg ▽卓犖〈たくらく〉
すぐれて他からぬきんでていること。
この上なく優れているさま。 ▽島津久光
文化14年(1817年)、鹿児島城において誕生する。生母は斉興の側室・お由羅の方。
玄孫に今上天皇明仁がいる。
http://jp.eastday.com/node2/home/xw/gj/images/00043418.jpg
明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため鹿児島に帰郷する。同年に左大臣となり、旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除される。
明治8年、左大臣の辞表を提出、明治9年4月、鹿児島に帰郷する。
明治20年12月6日に死去、享年71。国葬をもって送られたが、東京ではなく鹿児島での国葬となった。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000806.jpg 〔初出〕
「文藝春秋デラックス」昭和52年1月号
司馬遼太郎『古往今来』所収 第6章 『胡蝶の夢』の連載を終えて −時代が渇望した蘭学−
「蘭学」という一つの流れが歴史を切り裂いてゆくなにごとかを書きたかった。
江戸末期に、緒方洪庵が大坂に適塾をひらいて諸国からくる書生に主として蘭文の解読法を教えたことは、近代史の成立の上で小さくない。
当時、蘭学の二大淵叢の一つとして、関東に佐藤泰然の順天堂があった。洪庵塾が多分に語学校的であったのに対し、泰然塾は多分に蘭方医術塾の色が濃かった。 〔初出〕
「朝日新聞」昭和54年2月2日
司馬遼太郎『歴史の世界から』所収 ★蘭学の先駆
▽荻生徂徠〈おぎゅう〉
寛文6年(1666年) - 享保13年(1728年)。江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。
江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡〔>>167〕に学んだ。
元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて仕えた。
享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。 朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破して、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(古学)を確立した。
江戸的合理主義の代表人物ではあるが、「蘭学」の先駆者と言いきるには無理がある。 日テレ『忠臣蔵』(昭和60年)では、荻生徂徠役は西村晃。
林鳳岡〈ほうこう〉役の佐野浅夫と激論を交わしていた。
http://blog-imgs-73.fc2.com/g/a/r/garakutakan/joha01.jpg ▼西川如見
蘭学の先駆者としては、肥前国長崎生まれの天文学者である西川如見がおり、長崎で見聞したアジアなどの海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考』を著した。
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/50/thusho.jpg ▽三浦梅園
享保8年(1723年)- 寛政元年(1789年)。江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。
豊後国(大分県国東市安岐町富清)の出身。
梅園は故郷の大分県国東半島を離れることなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、その坦々とした生涯を終えた。複数の藩主から招聘の声もあったが、断ったという。
http://www.pref.oita.jp/uploaded/image/201599.jpg ▽安藤昌益
1703年(元禄16年)- 1762年(宝暦12年)。江戸時代中期の医師・思想家・哲学家。秋田藩出身。
陸奥国八戸の櫓横丁に居住し開業医となった。
近代の日本において、社会主義・共産主義にも通じる思想を持った人物として評価された。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/1e/f82113c3ba61d0df7c559fb6ae9680eb.jpg 荻生徂徠、三浦梅園、安藤昌益の三名は、蘭学の先駆者として紹介されているのではない。
江戸期にも合理主義は存在し、それは長崎からわずかに漏れてくる西欧風の現実直視の思考法が無自覚に反映されていたのではないかと述べられている。 ▽好事家〈こうずか〉
変わった物事に興味を抱く人。物好きな人。また、風流を好む人。
「相殺」を「そうさつ」と読み誤る人の場合と同じで、他人が「こうじか」と読み誤っても「間違っていますよ」と言いにくい日本語のひとつ。 ★適塾
▽緒方洪庵
文化7年(1810年)- 文久3年(1863年)。江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。
大坂に適塾を開き人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。
武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。
洪庵の功績としてもっとも有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。
※NHK『花神』では宇野重吉
http://cdn.mydramalist.info/images/people/2660.jpg >>244
これを書いた時期は、まだ、貨幣経済が合理主義を育てるという論法じゃないな。 ★順天堂
▽佐藤泰然
文化元年(1804年)- 明治5年。医師。順天堂大学の基礎を作った人物。
天保元年(1830年)、蘭方医を志し、足立長雋や高野長英に師事。
天保14年(1843年)、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設。また姓も父の佐藤を名乗る。
http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000020918/img/index/201410171r_l.jpg ▽佐藤尚中(舜海)
文政11年(1828)、下総国小見川(現・千葉県香取市)に生まれる。号を舜海。父は小見川藩の医師山口甫僊。
嘉永6年 (1853) 、佐藤泰然の養子になる。
万延元年 (1860) 長崎に留学。ポンペ・ファン・メーデルフォールトに医学を学ぶ。
慶応3年 (1867) 、佐倉藩に「佐倉養生所」開設。慶応4年 (1868) 、戊辰戦争のため閉鎖。
その後、明治政府の要請により大学東校(現・東京大学医学部)に勤め大博士となる。
明治6年 (1873) 、私立の「順天堂医院」開設。明治15年(1882)7月23日逝去。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024001481.jpg ▽松本良順
天保3年(1832年)- 明治40年。
父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然〔>>249〕。幕医の松本良甫の養子となる。外務大臣の林董は実弟。
戊辰戦争では歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。
明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。
明治23年(1890年) 貴族院議員に勅選される。
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/siryo-search/ecolle/igakushi/ryojun/matsumoto.jpg ▽シーボルト
1796年 - 1866年。
神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現バイエルン州北西部)に生まれる。シーボルト家は祖父および父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。
1823年8月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。
出島内において開業の後、1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。弟子に高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいる。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201304/03/48/b0181748_1464390.jpg ▽伊東玄朴
寛政12年(1801年)- 明治4年。幕末から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。
近代医学の祖で、官医界における蘭方の地位を確立した。
肥前国(現在の佐賀県神埼市神埼町的仁比山)にて仁比山神社に仕える武士・執行重助の子として誕生する。のちに佐賀藩士・伊東家の養子となる。
文久元年(1861年)より、西洋医学所の取締役を務めた。しかし、文久3年(1863年)、松本良順の弾劾により失脚、小普請入りとなる。
https://saga-museum.jp/sagaijinden/13/images/13.jpg ▽ポンペ・ファン・メーデルフォールト
1829年 - 1908年。オランダ海軍の二等軍医。
安政4年 (1857) 、江戸幕府が招いた最初の外人医学教官として長崎に到着。長崎海軍伝習所で医学を教え、安政5年に大流行したコレラの防疫にあたった。
文久元年 (1861) に創設された長崎養生所はポンペの建言によるもので、日本最初の近代的な西洋式病院である。
門下から松本良順〔>>251〕、佐藤尚中〔>>250〕、長与専斎、佐々木東洋、岩佐純ら明治医学界の指導者が輩出した。
http://naritas.jp/wp1/wp/wp-content/uploads/2016/12/277-242x300.jpg ▽ドイツ医学
戊辰戦争(1868年)で傷病兵の治療に活躍したイギリス人医師ウイリス〔>>174〕への恩義から、新政府内の西郷隆盛や山内容堂などは、将来イギリス医学を日本医学の規範にすることを決めていた。
しかし佐賀藩医・相良知安は、ドイツ医学こそ世界最高水準であり、日本のとるべきはドイツ医学と強く主張した。
明治2年、松平春獄が大学別当(長官職)に任命された。同時に相良知安と岩佐純は、大学東校(現在の東京大学医学部の前身)の管理者である大学権大丞に就任し、いよいよ活躍を始める。
なお、相良知安と岩佐純は、いずれも順天堂塾の出身者。
http://www1.saga-s.co.jp/var/rev1/0175/5533/SP2012101699000064.-.-.CI0002.jpg ▽関寛斎
文政13年(1830年)- 大正元年。
上総国東中(現在の千葉県東金市)の農家の子として生まれる。養父の儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時銚子で開業。
豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学、オランダ人医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトに最新の医学を学び、銚子を去って徳島藩の典医となる。
明治35年、72歳にして一念発起し、原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、大正元年、82歳にして服毒により自らの命を絶つ。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/f7/a570cf04ee54b28332a67b30b94e64c8.jpg ▽伊之助(司馬凌海)
天保10年(1840年1月2日)- 明治12年。
語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順、ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/rel/img/ryokai.jpg 第7章 一台の荷車には一個だけ荷物を − 私の文章作法 −
読み手は、一つのセンテンスを読むのに一つの意味しか理解ができないものだと思うべきです。
入学試験に出題される現代文のなかで、一つのセンテンスに複数の意味を載せている文章がよくありますが、ああいうものは悪文だと思い定めるべきです。
さらにいえばこのことを訓練することによって関係代名詞を持たない日本語の不自由さをどこかで解決する道が拓けるようにも思います。 〔初出〕
「潮」昭和53年5月号
司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 9』所収 ▽徳冨蘆花
明治元年 - 昭和2年。本名は徳富健次郎であるが、「徳冨」の表記にこだわった。
横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国葦北郡水俣村に生まれる。
熊本バンドの一人として同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒する。
本章では、司馬さんが少年時代に断簡零墨まで読んだ作家として蘆花の名を挙げている。
https://www.proud-web.jp/mansion/roka389/area/imgs/01/img-05.jpg
http://www.machi-ga.com/13_tokyo/rokakoenst/rokakoenst005.jpg ▽ステファン・ツヴァイク
1881年 - 1942年。オーストリアのユダヤ系作家・評論家。
歴史小説の評価が高く、『マリー・アントワネット』や『メアリー・スチュアート』が有名である。
司馬さんは、こういう叙述法もあるのかと感じ入ったことがある。
http://img01.pokebras.jp/usr/school/f7d789b2.jpg ▽漢文の素読
司馬さんは、言葉の響きを知る上で、多少の役に立っていると述べている。
漢文およびその読み下し文に近い戦前の文語体を読むことで、日本語のリズム感が体得できるのだと思う。
引き締まった日本語文を書くためには、漢文の素読は必須である。
戦後生まれの学者・小説家・ジャーナリストの文章が、だらだらした長文で、読みづらい上に、意味を理解しにくいのは、漢文の素読を基礎にした日本語のリズム感が体得できていないからである。 さらにいうと、頭の悪いやつに英語の勉強をさせると、英語も日本語も中途半端になって、代替しうる日本語の語彙があるにもかかわらず、英単語を日本語文の中に放り込んでくる。
馬鹿は英語の勉強をするな。 日本語には関係代名詞がないはずなのに、関係代名詞をワン・センテンスにいくつも含んだような日本語の文章は読みづらいな。 むかしはステファンだったのに、最近はどいつもこいつもシュテファンと言いよる。
気に食わん。 >>264
司馬遼太郎『春灯雑記』のなかに「仄かなスコットランド」という作品があって、メアリー・スチュアートについて詳しく書かれている。
ステファン・ツヴァイクの『メアリー・スチュアート』で読んだんだね。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51WXZZFP83L._SL160_.jpg 第8章 千石船
「高ァいの、なんの」
弥一郎氏は、その当時のこわさを思い出したように目をむかれた。
「垣の上から海へ跳びおりますと、水に撃たれてキンタマがはしります。そのくらいの高さでございます」
ふつう、汽船から海へ飛び降りるときは脚から飛び降りろ、と私などは中学生のころ、教師から教えられた。女は両乳をおさえ、男はふぐりを両掌でおさえて飛びこまねば、水面に撃たれて気絶するおそれがあるとその先生は教えてくれたのだが、浜ではこういう教養は常識だったのだろう。
「この電柱ほどでした」
といわれた。 〔初出〕
「小説新潮」昭和55年1月号
司馬遼太郎『歴史の世界から』所載 傷口などがヒリヒリ沁みて痛むことを、中国地方では「はしる」という。現在でも日常的に使う。
司馬さんは何の説明もなく「はしる」を使っているので、関西でも同様なのであろう。
東京にいたときは「走る(running)」と勘違いされて困惑した。 キンタマを強打すると鈍痛はあるが、あれを「はしる」というのは出雲だけじゃないか?
「はしる」は、典型的には傷口を薬品で消毒したときの痛み。 ▽水成岩(堆積岩)
現在は堆積岩と呼ばれる。
既存の岩石が風化・侵食されてできた礫・砂・泥、また火山灰や生物遺骸などの粒(堆積物)が、海底・湖底などの水底または地表に堆積し続成作用を受けてできた岩石。
かつては、火成岩に対し、水成岩(aqueous rock)とよばれていたこともある。
http://umit2011.pro.tok2.com/kouzan74.jpg ▽船虫
甲殻綱・等脚目・フナムシ科に分類される動物の総称。熱帯から温帯の海岸に広く分布する代表的な海岸動物である。
また、その代表種の1つで日本に生息する Ligia exotica の和名でもある。
動きはきわめて敏捷で、大きな動物が現れると一目散に岩石の陰に逃げ込むため捕獲はなかなか難しい。
また、通常は海に入ることはないが、誤って海に落ちた時は素早く体を波打たせて泳ぐこともできる。
ただし遠距離を泳ぐことはできず、水中に長い時間いると溺れてしまう。
http://natural-history.main.jp/Tree_of_life/Eukaryote/Opisthokonta/Funamushi/DSCF0529.JPG
https://t4.ftcdn.net/jpg/00/93/37/75/240_F_93377590_U59PDTOCP1DGeePDhOal6QwcRkjY6gHQ.jpg ▽カティーサーク
19世紀に建造されたイギリスの快速帆船である。
中国からイギリスまで紅茶を輸送する「ティークリッパー」として、いかに速く一番茶を届けるかを競った。
しかしながら、その建造時期はスエズ運河の完成直後であったため、ティークリッパーとして活躍した期間は短い。
http://atrium-en.hungry.jp/information/wp-content/uploads/2013/11/CIMG0916.jpg ▽阿川弘之
大正9年 - 平成27年。日本の小説家、評論家。
昭和17年9月、海軍予備学生として海軍に入隊する。
広島県名誉県民。文化勲章受章。代表作に『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた三部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』などがある。
タレント・エッセイストの阿川佐和子は長女。
http://www.sankei.com/images/news/160921/lif1609210017-p2.jpg ▽柳原良平
昭和6年 - 平成27年。日本のイラストレーター、漫画家、アニメーション作家、エッセイスト。
東京都出身。神奈川県横浜市中区在住。「アンクルトリス」の産みの親として、また無類の船好きとしても知られる。過去には「帆船日本丸記念財団」の理事も務めていた。
「洋酒天国」の創刊者のひとり(開高健、坂根進、柳原良平)。
https://iwano.biz/web/img/335x263/tiny/1440477662343.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/65/d892692f0488a64f035bfe0e149a4822.jpg ▽菱垣廻船
江戸時代に上方と江戸の消費地を結んだ廻船である。樽廻船と並び称される。菱垣とは、両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻に装飾として木製の菱組格子を組んだことに由来する。
1619年(元和5年)に和泉国堺の商人が紀州の富田浦の廻船を雇って江戸へ回航させたのが創始で、多種多様な日常の生活物資を運んだ。寛永期に大坂北浜の泉谷平右衛門が江戸積問屋を開き、菱垣廻船問屋が成立した。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/460/93/N000/000/001/137583462590713103975_371higaki01.jpg 1730年(享保15年)、菱垣廻船問屋に属していた酒問屋が菱垣廻船の使用を停止し、新たに酒を主な荷物とする樽廻船での輸送を開始した。
輸送時間で勝る樽廻船は、次第に酒以外の荷も運ぶようになり、菱垣廻船と樽廻船は競合した。
そのため1770年(明和7年)には積荷の内容による両者の分離が行われ、米・糠などの7品は菱垣廻船と樽廻船の両方、酒は樽廻船、他は菱垣廻船で運ぶという仕法が定められた。しかし樽廻船への積荷はやまず、菱垣廻船は次第に劣勢となっていった。
水野忠邦の天保の改革の一環である株仲間解散で、菱垣廻船は撤廃される。 明治時代の歴史学者が菱垣廻船の誤った理解を世に広めた。
藤田明の「江戸時代の海運事業」には「船に載せたところの物資が外に落ちない様に、荷物の両舷のところへ竹を交叉して、菱の様な形を造っている。その竹の編み出が恰も菱の様な形になっているので菱垣廻船と言った」と書かれている。
司馬さんも、この通説に依拠して叙述されている。 廻船問屋の塩屋は持ち船の数が少なく、荷主達に対しては船が不足した場合は摂州脇之浜の廻船が応援に来ると約束した。
脇之浜からの雇船は、他との区別のために目印として垣立の表に菱垣を取付けたとされる。
幾つかの記録から見て、菱垣は塩屋だけでなく他の廻船問屋も「トレードマーク」として採用したことが考えられる。 ▼「面舵」「取舵」の語源
十二支による方角表現が基礎になっている。
面舵:船首を右に振ること →右=東の方向 →東=卯 →うのかじ →おもかじ
取舵:船首を左に振ること →左=西の方向 →西=酉 →とりかじ
http://www.pot.co.jp/gotogi/img/170401.jpg ▽多檣多帆式の大型帆船
16世紀前半、東方との交易はイスラム商人が高い関税をかけていたため、直接、中国やインドなどから陶磁器、鉄製品、綿織物、香料、香辛料、絹などを入手するルートを開拓する必要があり、帆船には様々な改良が加えられた。
それまでの帆船は1本マストであったが、この頃から3本マストの帆船が現れる。キャラベル船の誕生はそれまでの西欧の貧弱な帆船と比べ活動範囲を大幅に拡大した。キャラベル船は3本のマストに三角帆(ラテン帆)を採用することで、逆風でも前進できることが特徴である。
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/jeddah-4/image057.jpg ▽遣唐使船
遣唐使船をはじめとする古式和船の第一の欠陥は、海水を完全に遮断できる気密甲板を備えもっていなかったことである。
甲板に完全な防水処理を施すだけの技術がなかったうえに、積荷の揚げ降ろしを効率よくおこなうことが優先されたから、現代の船のように船倉を気密度の高い甲板で覆うことなどはあまり考慮されていなかった。
https://www.kanamonoya.co.jp/monohp/ship/image/2200.jpg 古式和船の第二の欠陥は、船底部が竜骨をもたない平底の構造になっていたことである。
紀元前の昔から竜骨をそなえていたヨーロッパやアラビア地方の船は、船底部の断面が大きく開いたV字形をしていて浮かんだ時の重心が低く、起き上がり小法師と同じ原理で左右に傾いても復原する力が強かった。
また、支柱となる太い竜骨があるために船底部の強度が大きく、激浪に対する耐久性も高かった。 ▽ジャンク(戎克)
中国における船舶の様式のひとつ。古くから用いられてきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。
中国語の「船(チュアン)」が転訛したマライ語の「jong」、更にそれが転訛したスペイン語・ポルトガル語の「junco」に由来するとされる。
ガラクタを意味する英語のJunkが語源ではない。
http://www.y-history.net/gazo/0702/jank_sen.jpg 船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の梁と呼ばれる水密隔壁で区切られていることによって、喫水の浅い海での航行に便利で耐波性に優れ、速度も同時代のキャラック船・キャラベル船〔>>289〕・ガレオン船と比べ格段に優った。 ▽大船没収令
大船建造の禁令が制定されたのは、江戸幕府が創設されて間もない慶長14年(1609年)9月であり、将軍は第2代将軍・徳川秀忠である。ただし実質的に計画したのは大御所の地位にあった徳川家康。
この禁令は西国大名に向けられたものであり、500石積み以上の軍船と商船を没収し水軍力を制限した。ただし、対象は沿岸航行を基本とする和船についてであり、軍船に転用可能な商船も対象としていたが、500石以上の船格であっても外洋航行を前提とする朱印船は除外されている。 ▽大船建造禁止令
1635年(寛永12年)6月、武家諸法度が制定され、その第17条で500石積み以上の船が全国的に禁止された。
この制限には商船や航洋船は含まれなかったが、立法趣旨が細かく伝わらなかったため、間違って商船が制限されたケースもあった。 ▽刳舟(くりぶね)
丸太をくりぬいたり、木や竹などの骨組に獣皮や樹皮をはりつけた舟。
語源は、カリブ海のハイチ島の原住民の舟canoaに由来する。
http://www.pocketbooks-japan.com/images/products/xh0001-5000/xh1342.jpg ▽石井謙治(大正6年 - )
東京出身。逓信省航空試験所、水産庁をへて長崎総合科学大講師となる。
水産庁漁船研究室在勤中の昭和32年「日本の船」を出版。日本の造船技術史、航海史の研究で知られる。
日本海事史学会会長。平成7年吉川英治文化賞。
https://www.fesco.or.jp/image/winner/h13/winner_h13_19a.jpg ▽西宮神社
日本に約3500社あるえびす神社の総本社である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
当社の社伝では、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
司馬さんが訪れたのは、昭和54年夏の日本海事史学会の開催時である。
http://amrty.com/wp-content/uploads/2016/11/36055-728x374.jpg ▽北前船
江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した主に買積みの北国廻船の名称。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)。
買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。
https://n-story.jp/topic/35/img/1-3.jpg ▽神戸商船大学
兵庫県神戸市東灘区深江南町5-1-1に本部を置いていた日本の国立大学である。1952年に設置された。
2003年10月1日に神戸大学と統合して、神戸大学海事科学部を発足した(深江キャンパス)。
以後も神戸商船大学は在籍する学生のために存続していたが、2004年3月31日、国立大学が独立行政法人化し国立大学法人となるのにあわせて廃校した。在学生は同日付で神戸大学に転籍した。 ▽菅楯彦
鳥取市に菅大治郎(画号・盛南)の長男に生まれる。本名は藤太郎。
浪速の風俗を愛し「浪速御民(みたみ)」と標榜、はんなりとした情趣ある浪速風俗画で「最も大阪らしい画家」と呼ばれた。
昭和37年(1962年)に初代の大阪市名誉市民に選ばれるも、翌昭和38年(1963年)死去。85歳。
http://tagizou.com/main/yoronote/wp-content/uploads/2013/03/senzairo123-318x450.jpg
http://ouc.daishodai.ac.jp/museum/topics/img/sumiyoshionta.jpg ▽たつきの煙をあげる
「たつきを立てる」は「生計をたてる」の意味であることはよく知られている。
「たつきの煙をあげる」も同じ意味であろう。
「たつき」とは、煙が上がるカマドか何かだろうかと思って調べてみたけど、よくわからない。
http://img.horipro.co.jp/wp-content/uploads/sites/295/2014/09/koujutatsuki.jpg
※香寿たつき ▽船足
「船足が速い」というように船の速度を示すこともあるが、ここでは「船の吃水」を意味している。
吃水とは、浮んでいる船体の水中に沈んでいる深さのことである。
http://takaoka.zening.info/JSDF/JMSDF/Chihaya/photo/Dsc_9903_m.jpg
なお、昭和は「吃水線」に慣れているが、漢字変換すると「喫水線」しか出てこない。
ただちに「吃水」に変えろ。 ▽舷下(かきした)
舷(げん)とは、船の側面のこと。舷下を「かきした」と読ませるのが面白くて採録した。
海面下にあった舷には牡蠣が付着しているであろう。荷おろしして船が軽くなると、それが現れてくる。
それで舷下を「かきした」と呼んだのかもしれない。筆者の勝手な想像である。 明治の北海道開拓と大阪の関係については面白く読ませてもらった。
北海道の新築家屋の襖をかざる襖絵に関する菅楯彦氏のお話は、たいへん面白い。 「面白い」を連発するな。二行目は「興味深い」と表現しろ。 ▽松本哲
東大教養学部須藤利一教授を中心とした造船史研究会と神戸商船大教授を中心とする同様のグループが合体して日本造船史研究会が結成される。 当初メンバーは東京側が須藤利一、小佐田哲男、田中建、石井謙治〔>>298〕、関西側が南波松太郎、松本哲、田中巽の計7名であった。
「北前船はむしろ明治のほうがさかんでした」と教えてくれた神戸商船大学教授。 ▼「挿し絵でみる司馬作品」展
・『竜馬がゆく』『峠』『世に棲む日日』=岩田専太郎
・『十一番目の志士』=中尾進
・『坂の上の雲』=下高原健二
・『空海の風景』=須田剋太
・『花神』『項羽と劉邦』『菜の花の沖』『国盗り物語』=風間完
・『街道をゆく』=須田剋太、安野光雅、司馬遼太郎 ▽端山君
昭和62年2月3日の産経新聞大阪本社版夕刊で、薨去された高松宮殿下とご存命の三笠宮殿下のお写真を取り違える事件があった。
本章に登場する端山君とは、その事件当時の編集局次長で停職処分をうけた端山文昭である。 端山文昭はサンケイ新聞に連載された「菜の花の沖」の編集担当。
平成26年10月8日(水)に洲本市立五色中学校体育館で『高田屋嘉兵衛に学ぶ』という演題の講演をしている。
高田屋嘉兵衛顕彰会の主催で、入場は無料であった。 ▽杉谷正吉
大社町の郷土史家で、同町町議。
大社町とその付近の事項について不明な点が出るとすぐ調査し報告が寄せられる。さすが大社史話会のリーダーらしい熱心さがうかがえる。
なお、この稿の旅行の詳細に関しては、大社ご縁ネットワークHPがたくさんの画像とともに記事にされている。
http://taisha.jp/?ID=1133 ▽宝一丸
飯島権一翁が炊(かしき)として乗船していた300石船。
※同名の漁船の画像 - 本文とは無関係です。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kasumi-1/h_tairyo.jpg ▽立花浜
「集落から小山ひとつ隔てた小さな入江」だが、地図で見ると、右側の湾入部が立花浜であろう。 島根半島の北西端、日御碕の東に位置し、北は日本海に臨む。古代以来の良港として栄え、「出雲風土記」に出雲宇礼保浦とみえる。
中世には杵築大社(出雲大社)領十二郷七浦の一つで、宇料・得龍などとも記す。中世日本海海運の成立と発展に伴って本格的に成立した港を宇料津、宇龍津などと称した。
湊は門前町杵築に近く、松江藩の上せ米の積出港、あるいは北国米、そのほかの消費物資の移入港として諸国廻船の出入りで賑わった。番所と制札場があり重要な港であった。
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http://matinamimeguri.web.fc2.com/uryub3.jpg
http://www.kyoshu-komichi.com/uryu041.jpg
http://www.kyoshu-komichi.com/uryu061.jpg ▽木村弥一郎
明治34年生まれ。78歳。
円空の鉈彫りの仏像に顔が似ている。
千石船の垣立の上から海面に飛び降りてキンタマがはしった人。
http://www.enku.jp/img/image.jpg 本章で調べたことどもは、『菜の花の沖』でも出てくる。
けえでしまいじゃ。 第9章 土佐・檮原の千枚田
「千枚田」と通称される石塁の人工段丘が、ユスハラには幾ヵ所もある。耕シテ天ニ至ルというが、耕すなどというなまやさしいものではなく、景観そのものが、大構造物といっていいであろう。これだけの造営をしてなおこの地は一毛作なのである。
餓死よりも貧しさを選び、せめてもの「貧しさ」を手に入れるために、はかりしれぬ遠い過去から懸命の営為を遂げてきた一大記念構造物であるともいえる。土佐人のユスハラへの畏敬は、おそらくこの要素が大部分をなすのではないか。 〔初出〕
「サンケイ新聞」昭和50年11月2日
司馬遼太郎『古往今来』所載 ▽鬼国
「土佐の国は人の顔や風俗もちがっているばかりか、馬なども犬のように小さく、人のかわりに鬼が棲む」
表は荒涼とした太平洋、裏は険しい四国山脈に囲まれ、他国との交流もない土佐の国(高知県)は、他国の人々から鬼国と呼ばれ、近づくことさえ忌み嫌われていた。
王朝時代には遠流の地だった土佐の国、他国の人々は土佐の国へ流されると聞くと、大変な恐怖心を持ったに違いない。
https://uub.jp/47/kochi/kochi_map1.png ▽那須信吾
文政12年(1829年)- 文久3年(1863年)。
土佐藩の家老を務める浜田光章の三男として生まれる。幼くして父を失ったため、郷士・那須俊平の娘婿となる。田中光顕の叔父にあたる。
文久2年(1862年)、安岡嘉助や大石団蔵らとともに吉田東洋を暗殺した上で脱藩し長州藩に逃亡する。
文久3年(1863年)、天誅組の変に参加し、軍監を務めるが、鷲家村にて狙撃されて戦死した。享年35。
https://bakumatsu.org/img/00159_m.jpg ▽浮浪人
律令時代、公田から荘園へ逃げ出す農民を浮浪人と呼んだ。
中央の権威の届かない僻地へも浮浪人はやってきた。檮原へは隣国伊予の浮浪人が流入して田を開拓した。 >>305
goo辞書(出典:デジタル大辞泉(小学館))だと
>《「手 (た) 付 (つ) き」の意。「たつき」とも》
とか書いてあるけど実際はどうなんだろうね ▽津野経高
津野氏は藤原基経の後裔である藤原経高を始祖とする。経高は罪を得て延喜10年(910年)伊予に下り、浮穴郡川上庄山内谷を経て、同13年(913年)に土佐国に入り、高岡郡津野山を開拓し名字を津野に改めたと伝えられている。
なお、津野氏の中興の祖とされる津野之高は、伊予河野氏の出身とされる。
津野基高は、天文15年(1543年)一条房基に降伏してその家臣として存続を図る。基高の孫である勝興は天正6年(1578年)に没し、津野氏の正統は途絶える。 詳しくは『街道をゆく』の「檮原街道」でやります。
日本の棚田を見て感動しない人というのは、心に欠損があるよ。 文庫の『余話として』を買ってきました。霍去病の墓は、最後にありました。
これから読みます(・⊥・)/ 第10章 私の関東地図
兵隊の暮らしというのは、決して勇ましいものでなく、毎日が家政婦のしごとに似ていた。こまごまとした家事に追われていて、形而上的なものを考える能力が、頭蓋骨がその部分だけ陥没したようになくなっている。
やがて崖へ走るねずみの大群のように集団的な死の世界へゆきついてしまうのだが、そういうことの恐怖も個々にはたれも感じておらず、どの人もそれを感じる部品を錆びつかせている。それがその時代的集団の特徴だということを、それを経なかった人にどう説明しても伝わりにくい。 〔初出〕
「別冊文藝春秋」昭和54年150号
司馬遼太郎『歴史の世界から』所載 評論随筆集に収められていますが、「私の関東地図」は小説です。
しかも司馬作品にはめずらしい私小説です。文体がいつもの司馬氏とはまるで異なります。 内容は『歴史と視点―私の雑記帖―』の中の一篇「石鳥居の垢」と重なる部分があります。 ★新潟港
▽御弾〈おはじき〉
順番が回ってきたプレイヤーは、はじくためのおはじきと狙うおはじきを決め、その二つのおはじきの直線上の好きなところを小指で交差するように線を引きます。わずかに距離が離れていることを証明するためです。
問題なく小指で線が引けた場合、はじくためのおはじきで狙うおはじきをめがけてはじきます。
おはじきが命中した場合は、狙われたおはじきを取ることができます。
https://blog.japply.jp/blog/wp-content/uploads/2017/10/ohajiki.jpg
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http://www.geocities.jp/hotmilknokai/archive/image/B027_P008.jpg ▽新潟港
1616年、長岡城主・堀直寄によって港町としての基礎が構築された。
1671年、西廻り航路の寄港地として指定を受け、国内交易の上で重要な地位を確立した。
1843年、新潟港周辺が天領となり新潟奉行が新設された。1858年、日米修好通商条約で開港五港のひとつとなった。
実際の開港は水深不足や北越戊辰戦争などの影響で遅れ、1869年1月1日にようやく外国船に開港され貿易が開始された。
https://www.ehagaki.org/wp-content/uploads/2017/03/hn241-Niigata-Pier-%E6%96%B0%E6%BD%9F%E6%B8%AF%E5%9F%A0%E9%A0%AD-%E9%95%B7%E7%99%BD%E5%B1%B1%E4%B8%B8.jpg ▽アリューシャン列島
昭和18年に入ってから、アメリカ軍はアッツ島とキスカ島の奪回作戦を開始する。
司馬さんがアリューシャン列島にでも連れていかれるのかと考えたのは、そのためである。
しかし、アッツ島守備隊とキスカ島守備隊は、昭和18年5月中には玉砕ないし撤退しており、影も形もなかった。
http://www3.coara.or.jp/~nippon_f/chizu-7.jpg
http://www.geocities.jp/torikai016/attu/docu00002.jpg
http://www.geocities.jp/torikai016/attu/2491kiaka-landong.jpg ▽佐渡島
昭和20年春、司馬さんたち戦車第一連隊を乗せた「戦標型」は、雪景色の佐渡島の南を通過した。
司馬さんの当時の身分は、第5中隊第3小隊長福田定一少尉である。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201101/08/06/d0177606_21264297.jpg 司馬さんは雪景色の佐渡島を早春の暁闇のなかで見たために氷山と勘違いした。
ここはアリューシャン列島か千島列島に違いないと思ったそうだ。 |! i ||!┃ |!i |!!
! i|,ー´`ー、|i !
! / / | ヽ \|i
i"⌒Y⌒Y⌒Y⌒"|!
!|i∧_∧|ヘ_∧|! i
!|(´∀`)*'∀')|i これで、コウモリ傘がさせればいつ死んでもいい
| ( E) )| !
i! し(_) (_)J |i |! ▽前橋
古くは厩橋と書き、江戸時代に前橋に改められた。明治時代には製糸業で栄えた都市の一つとなった。
群馬県の県庁所在地と聞いて驚く読者も多いと思われるが、群馬のような田舎にも、いちおう県庁があり県知事もいるらしい。
群馬県に居住するのは猿ばかりではないのである。
※前橋市にはビルヂングもある。
http://www.alnethome.com/wp-content/themes/alnethome/img/town/maebashi/area_topimg4_sp.jpg ∧∧
/⌒丶) 前橋から西方の相馬ヶ原まで歩くんだとよ、やれやれ。
f三 ∪
○三 |
(/~∪
三三
三三
三三三 ▽責任者の老中尉
自称騎兵くずれで老けて見えるがまだ30歳。
『歴史と視点―私の雑記帖―』の中の一篇「戦車の壁の中で」にも登場していた中尉。 この点、筆者も変わらない。
友人がエロ本をネタにしてオナニーをする年齢になっても、ゴジラのポスターを部屋に貼っていた。
夏休みにテレビで怪獣映画を放送するときは、彼女とのデートの約束を断って、怪獣を観ていた。 >>357
中尉は京都生まれ。学校もすべて京都。
西陣で家業を継いでいた。 ▽萩原朔太郎
明治19年 - 昭和17年。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。
群馬県東群馬郡北曲輪町(現:前橋市千代田町)に、開業医の父の長子として生まれた。
名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから。
http://blog-imgs-36.fc2.com/b/i/g/bigakukenkyujo/2012022902282178c.jpg ▽嵐山保津峡
司馬さんが「上州の空は大きい」というと、老中尉は「京都の空も大きい」と反論した。
それに対して司馬さんは「嵐山保津峡の河原にいると、空が小さい」と理屈をこねた。
http://kyotomoyou.jp/sys/wp-content/uploads/2015/10/arashiyamakoen-kameyama-201510.jpg 老中尉は陸上競技の選手であった ε=ε=ε=(┌  ̄_)┘シュタシュタシュタ... ▽昭和16年:帝国陸軍の騎兵廃止
昭和期に入ると騎兵連隊に機関銃中隊を附属させるなど火力の充実を図る一方、機甲化が図られ騎兵連隊の多くは捜索連隊へと改組されたが、乗馬編成の騎兵連隊の新設がまったくなかったわけではない。「騎兵廃止」は言い過ぎである。 世界最後の本格的な騎兵戦闘は、昭和20年に行われた大東亜戦争下中国戦線の老河口作戦における騎兵第4旅団の戦闘であるといわれる。
同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃と占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った。
https://stat.ameba.jp/user_images/20140408/12/tank-2012/29/cc/j/t02200156_0450031912902110489.jpg >>285
うちの家内は幼少時に茅葺屋根の家屋に住んでいたのだが、茅(カヤ)とススキは別の植物だと力説している。 ★相馬ヶ原
▽箕輪
箕輪町は昭和30年に車郷村(くるまさと)と合併し箕郷町(みさとまち)となる。
箕郷町は平成18年に高崎市に編入された。したがって、かつて箕輪城のあった場所は、群馬県高崎市箕郷町東明屋になっている。
「箕輪」の地名は、残念ながら行政区分としては残っていない。
https://kojodan.com/pic/panorama/44.jpg
http://takasakilive.com/wp-content/uploads/%E5%90%89%E4%BA%95%E7%94%BA%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg ▽榛名山
群馬県にある上毛三山(赤城山・榛名山・妙義山)のひとつであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。
山頂にはカルデラ湖である榛名湖と中央火口丘の榛名富士溶岩ドーム(標高1,390.3 m)がある。
https://sp.jorudan.co.jp/leaf/images/spot/640/122603_1.jpg ▽箕輪城跡
永正9年(1512年)、当地を支配する長野業尚によって築かれた。
戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、相模の北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎が侵攻を繰り返す場であった。このようななかで長野業正は上杉氏の後ろ盾を得て長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代には武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。 永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして、9月下旬には遂に落城し長野業盛は自刃して果てた。こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種、内藤昌豊が城代に任じられる。
天正10年(1582年)2月、天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った。箕輪城代内藤昌月(昌豊の子)は近隣の領主と共にこれに従っている。
しかし、同年6月、信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻した。北条氏が神流川の戦いで滝川一益を破ると、内藤昌月はこれに降り、北条氏政の弟・氏邦が箕輪城に入城した。 ▽相馬ヶ原
群馬県中部にある榛名山の南東斜面の広大な裾野の一部。群馬県榛東村(しんとう)に属する。標高 350〜500m。
昭和16年8月、岩手県盛岡市から「陸軍予備士官学校」が当地に移設され、「前橋陸軍予備士官学校」が設立された。
昭和20年9月から同33年9月までの間、米軍が駐留した。
現在は、第12旅団司令部等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。群馬県北群馬郡榛東村大字新井。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hms_ulysses/20170408/20170408113949.jpg ▽高岡廠舎
明治40年に姫路に司令部を置く第10師団の高岡演習場となり廠舎が建設されたが、陸軍部隊が常駐するのは昭和15年に戦車第15連隊が駐屯してからとなる。
この間、第一次世界大戦中の大正4年9月には、演習場内にドイツ兵とオーストリア=ハンガリー兵を収容した「青野ヶ原俘虜収容所」が開設されている。
高岡廠舎というのは、青野ケ原の台地の広々とした演習場の一隅に何棟も寄りあうバラックの建物だった。 ▽関東ローム層
関東平野をおおっている火山灰層。普通赤土と呼ばれている。ロームという呼称は、1881年に D.ブラウンスにより名づけられた。
粘性質の高い土壌であり、シルトおよび粘土の含有割合が25〜40%程度のものをロームという。
日本では火山起源の関東ロームが著名だが、ローム定義は土壌中の粒径組成比率のみであり、火山起源物質であるかどうかは関係ない。
http://kjd.edu-ctr.pref.kanagawa.jp/tigaku/rotou/TPkarasawa.jpg ▽地隙(ちげき)
地表が割れて出現した隙間のこと。旧日本軍では一般的に用いられていた用語である。
中国では大規模な地隙が見られ、水のない渓谷をなしている。秦末の時代、項羽が降伏した秦の兵士を現在の河南省新安の巨大な地隙に生き埋めにした。
http://www.h-hagiya.com/es/hyoudo.jpg ★佐野
▽栃木県佐野市
「佐野」の地名が、記録上初めて登場するのは、平安時代の荘園名である「佐野庄」からです。「兵範記」という当時の記録には、左大臣藤原頼長に寄進されていた荘園が、保元の乱 (1157年) で勝利した後白河天皇の所有になったことが書かれています。
そして、佐野庄は後白河天皇の側に立った藤原秀郷の子孫と称する藤姓足利氏 (後の佐野氏) とその一族によって治められるようになりました。
https://uub.jp/47/tochigi/tochigi_map1.png 源頼朝が挙兵すると佐野氏は頼朝に味方し、鎌倉幕府から御家人として認められました。
室町時代になると、北朝方についた佐野氏は、関東地方北部を治めた古河公方に代々仕え、この地域を支配しましたが、やがて一族のなかから有力なものが戦国大名佐野氏に成長しました。しかし、慶長19年 (1614年) 、唐沢山城主佐野信吉は所領を没収され、佐野氏の支配は終わりを告げました。
佐野信吉の改易以後、佐野地方は幕府の直轄地となり、次いで元和2年 (1616年) 譜代大名本多正純の領地となりましたが、同8年正純が改易されると再び幕府直轄地となりました。 ▽佐野市立植野小学校
昭和20年の夏、福田定一(後の作家司馬遼太郎)氏は、軍人として植野小に駐屯していました。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/ac/37448a2393a01c433befd4ce6fbe8a85.jpg
佐野の町で司馬遼太郎文学碑が建立されたのは平成21年5月のこと。
場所は、司馬さんたちが駐屯していた植野国民学校の近くにある地区公民館の敷地内で、ここにはかつて中隊長が寄宿していた島田邸があった。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/32/e8a3b7b84e97229b61660d414aa16774.jpg ▽山田伝三郎
植野国民学校の40歳くらいの無口な住みこみ用務員。体のひ弱そうな人。
※旧植野小
http://tukada.jp/pic-labo/llimg/kyuuuenosyou.jpg なお、>>391を含め、「私の関東地図」に登場する匿名人物の実名を調査されたのは、早乙女務さん。
宇都宮大学教育学部を卒業し、佐野市内の小中学校で勤務した。春陽会に所属する版両家でもある。昭和8年生まれ。
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2017/06/26/20170626dde014040004000p/9.jpg?1 ▽用務員の子供
当時15歳だった山田武さんと12歳だった山田学さんの兄弟。「利発な小学生」が兄弟いずれかは不明であるが、おそらく兄の山田武さん。
「毎日来て新聞を読んでいました。戦争の話は一切しなかった。歴史の話はよくしてくれた。とにかく話し好きな人だった。品があり言葉遣いがいいので標準語ではなしていると思っていた。戦争が終わったら、大学で勉強するといっていた」と、終戦前の司馬の日常の暮らしぶりを明かしている。 ▽丸顔に丸メガネの男性教諭
▽胃病やみのようなどす黒い顔の男性教諭 ▽永倉智恵子教諭
昭和20年当時、植野国民学校には男性11名、女性26名の先生が在籍しており、該当する年齢の方が多い中、当時22歳の女性教員だった永倉智恵子さんが、昭和20年9月14日の日記で司馬らと雑談したことを書いていた。
「(司馬と)渡り廊下ですれ違ったとき、恥ずかしそうな顔をするので、なんで、とよく思いました。」と早乙女氏〔>>393〕に教えてくれた。 第11章 一つの錬金機構の潰え ―君子ハ為サザルアリ―
田中角栄という人は、「学歴」がないせいか、この錬金機構の中には参加できなかった。これほどの太いパイプに参加できなかったために、政治を金にするための新分野をひらかざるを得なかった。
太いパイプを握っている者もしくはそれに参加している者は、あるいは君子ハ為サザルアリ、ということで高みにいることができ、その余裕もありうるかもしれない。
しかし新分野は為サザルナキ精神でやらねばならず、小まめに小さないかがわしい行為を積みあげ積みあげして小いそがしく才覚し、小いそがしく働かねばならない。 〔初出〕
「中央公論」昭和51年9月号
司馬遼太郎『歴史の世界から』所載 ★信州佐久平
▽昭和51年7月27日
『街道をゆく』の「信州佐久平みち」の旅は、昭和51年7月25日〜27日。
田中角栄逮捕のニュースは、その旅の最終日である7月27日に飛び込んできた。
佐久平で療養している知人というのは、佐久総合病院へ入院していた西沢隆二のこと。
見舞いは、前日の7月26日である。 ★ロッキード疑獄
▽昭和51年2月
アメリカ合衆国の航空機メーカーであるロッキードの日本への航空機売り込みにからむ疑獄事件。
ロッキード社副会長アーチボルド.C.コーチャンが、航空機売り込みのため各国の政府高官に贈賄したことを暴露した。
日本についても30億円をこえる資金を投じ、全日空へは旅客機トライスターの売り込みに成功し、防衛庁に対しては次期対潜哨戒機P-3Cオライオンの採用を工作中と述べた。
この証言は日本の政界に衝撃を与え、全国民的な関心と憤激を呼び起こし、三木武夫首相は徹底究明を約束した。
捜査によって商社丸紅、全日空、政界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫を経由する三つのルートの存在が明らかとなり、同年7〜8月には元首相の田中角栄、元運輸大臣の橋本登美三郎、元運輸政務次官の佐藤孝行が逮捕された。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/images/20100727/dms1007271611015-p1.jpg ▽児玉誉士夫
明治44年 - 昭和59年。
出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。
7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、来日して墨田区向島の鉄工所に住み込んだ。
それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。
ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった」と調書で語っている。
http://livedoor.blogimg.jp/yamaguchi_tamotsu_2005/imgs/f/c/fca74071.jpg ▽大庭哲夫
本章に登場する退陣を決意させられた航空会社の社長。
全日空のエアバス導入をめぐり、すでにオプション契約までしていたダグラス社のDC−10を、ロッキード社のトライスターへと機種決定を変更させた逆転劇で、これに反対した。
大庭哲夫社長は、M資金融資詐欺にひっかかり、融資申込みの「念書」を書いた。児玉は、傘下の総会屋を使って「大庭社長がM資金関連の詐欺事件に巻き込まれた」という内容の怪文書を流し、昭和45年5月の株主総会で大庭を失脚させた。
※M資金とは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領下の日本で接収した財産などを基に現在も極秘に運用されていると噂される秘密資金である。Mとは、GHQ経済科学局の第2代局長であった少将ウィリアム・マーカットの頭文字である。 ★錬金機構
▽君子ハ為サザルアリ
もともと倫理の基本は、積極的に善をなすというより、むしろ消極的に悪をなさないというところにある。
逆に考えればいい。諸事にルーズで倫理的境界線をもたない人は、危険きわまりないのである。
「君子ハ為サザルアリ」ということばがある。
倫理的性格とは、“為サナイ”という項目が、お札のように数多く貼られた性格のことで、“為サナイ”ことで心の落ちつきを得ている。
むろん、そういう人は信頼できる。
…………司馬遼太郎『街道をゆく / オランダ紀行』(P301) 田中という人の凄味は、この種の余計な感覚を、おそらく青年期のある時期にかなぐり捨ててしまったところにある。
彼はたれが何を望んでいて、何を充足させてやればどうなり、どのようにして支配できるかということに驚異的な思考術をもち、自己の権力を構築するというただ一つの目的のために、そのことをいろいろ巨細となく実行した。 彼にとって残念なことに高級官僚の出ではなかったために、大企業を田中化することができず、できるだけそれ以外の落ちこぼれを組織化するしかなかった。 ★純粋防衛論
▽純粋防衛論
征韓論から三十年後、なお資本主義がいたって未熟の段階にありながら、朝鮮を侵略してこれを支配した。
旗としてかかげるところは、朝鮮ととらねばロシアの南下がふせげない、というにあり、ここには資本主義的な現実感覚はすこしも作動していない。
満州を独立させてその支配下においたのも資本主義の歴史的発達というようなものではなく、朝鮮の場合と同様、帝国主義の形跡だけを模倣したにすぎない。要するに生命線主義であり、現実とは無縁の純粋防衛論にすぎない。 一時はシベリアを生命線にすべく出兵して失敗し、満州に手を出し、華北に進出し、それがために世界中の資本主義現実を刺激して太平洋戦争という、現実感覚の皆無な戦争をおこさざるをえなくなり、敗戦によって純粋防衛論のすべてが虚構であったことを知った。
純粋防衛論によって他国に手を出し、その国の政治機構を腐敗させる場合、腐敗はかならず加害国にまわってきて同質の腐敗をもたらす。
謀略によって満州国をつくりあげ、さらに中国本部に及んだのは日本の陸軍参謀本部の機構と思想と機能だが、当時の中国の要人を傀儡化して謀略するうち、中国における固有社会の腐敗要素がそのまま日本の中枢を腐敗させたといえる。 ▽日韓併合
1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。
この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が米国に降伏するまで35年間続いた。
1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
http://www.sharp-insight.info/wp-content/uploads/2016/05/nikkan_heigo01.jpg ▽シベリア出兵
大正7年 - 大正11年。
連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争のひとつ。
http://chitonitose.com/lessons/jh/img/138/4.jpg 純粋防衛論に関する叙述が、ここに挟まれている理由がよくわかりません。
司馬さんは「当時の中国の要人を傀儡化して謀略するうち、中国における固有社会の腐敗要素がそのまま日本の中枢を腐敗させたといえる」と結論づけていますが、根拠不明です。 井上馨も山県有朋も、明治初年から賄賂を貰っとったがな(;´∀`)…痛いなぁ… ▽台湾ロビー
台湾から資金の提供を受け、台湾の国益実現のために日本やアメリカで活動するグループのことである。
台北政府は、日本やアメリカの政治家、マスコミ関係者、研究者などに豊富な活動資金を提供し、日本のこうした人物を台湾の利害と矛盾しない外交政策を展開するように誘導している。
ただし、米中国交正常化後の今日ではほとんど死語にひとしい。代表的人物は、岸信介。 ▽ロビー活動
平成20年の韓国通貨危機の際に、李明博韓国大統領から直接指示を受け権哲賢元駐日大使が、日本の政治家や政府高官などにロビー活動を展開し、スワップ協定を韓国に有利な形で締結させることに成功した旨が報道されたことがある。
なお、天下り先の利益代表として出身官公庁に出入りし、影響力を発揮する官公庁OBこそが、従来よりある日本式のロビイストだと指摘する向きもある。 ★田中角栄の功罪
▽田中角栄の功罪
司馬さんは、日中国交正常化は高く評価している。
土地を投機の対象にする習慣は、田中が日本社会にあたえたはかり知れない罪禍だと述べている。 これらの体質をすべて過去のものにするには当然ながら革命しかない。
革命という事業が困難だと思うむきがあるかもしれないが、この国の社会を構成するすべてが自分の手で自分自身を切開手術する勇気をもたない以上、どうにもならないことである。 他の論稿でも、日本には保守政党と革命政党のふたつがあれば足りると述べていたな。
司馬さんのいう革命政党とは、薩長なんだろうが。 第一次オイルショック(昭和48年)に続く狂乱物価(昭和49年)で、日本社会が暗かった時期に、田中金脈問題とロッキード事件が出てきたから、「ええかげんにせえよ」という感じだった。
ところが、生活は全般的に豊かになっていっていたために、若者は保守化していった。 この時期急速にポットン便所が少なくなり、浄化槽による水洗便所が普及していった。 田中角栄の功績は、日中国交正常化だけではなく、肥溜と肥桶をなくしたことだよ。 >>425
論理必然だけど、蝿がいなくなり、ハエ取り紙ないしハエ取りリボンが売れなくなった。 第12章 啄木と『老将軍』
ここでは詩は、影絵のナレーションであって、老将軍の人間を刻みこもうとはしていない。
だから、モデル詮索など無用というべきかと思える。 〔初出〕
「國文學」昭和50年12月号
司馬遼太郎『古往今来』所載 ▽石川啄木
明治19年 - 明治45年。
岩手県南岩手郡日戸村(盛岡市日戸 / ひのと)に、曹洞宗日照山常光寺住職の長男として生まれる。
啄木が生きた時代はロシアの文学・思想を深く受容していた。啄木の作品を読み解くために、その時代の日本とロシアの状況を作品の背景として理解しておかなければならない。
26歳で没す。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/681/12/N000/000/002/129427642285816310337_takuboku.jpg ▽藤澤全〈まとし〉(1937年 -)
日本の国文学者。専門は日本近現代文学・比較文学。
北海道生まれ。都留短期大学(現都留文科大学)卒業後、小学校教員を務める。
平成15年に日本大学を定年退職。
啄木の詩『老将軍』とはたれを指すと思われるや、と手紙で司馬さんに質問した人。
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/jp/content/uploads/2011/12/fujisawamatoshi1.jpg ▽石川啄木『マカロフ提督追悼の詩』
万軍の敵も味方も汝が矛地に伏せて、
今、大水の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪狂ふ、
弦月遠きかなたの旅順口。
※全文
http://d.hatena.ne.jp/gravity2/20061008/makarofuteitoku ▽ステパン・マカロフ
1849年、ロシア帝国の領土だったウクライナのヘルソン県ニコラーエフ(現在のムィコラーイウ)で海軍准士官の家庭に生まれる。
1904年、日露戦争が起こる。第四次旅順攻撃で日本海軍の奇襲を許し、その責任を追及されて解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフはロシア太平洋艦隊司令長官に就任した(3月8日)。
一方、第二回旅順口閉塞作戦に失敗した連合艦隊は、旅順口攻撃の一環として旅順の封鎖を機雷敷設によって行うようになる。
その際、座乗していた旗艦ペトロパブロフスクが日本軍の敷設した機雷に触雷し爆沈。マカロフは避難しようとしたが間に合わず、将兵500人とともに戦死した。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150615/10/tank-2012/71/d7/j/t02200325_0368054313337713858.jpg >>394
「利発な小学生」なのだから、12歳の弟・山田学君じゃないかな?
兄は15歳であるから、戦後の学制によると中学生。 ▽石川啄木『老将軍』
老将軍、骨逞ましき白龍馬 手綱ゆたかに歩ませて、
ただ一人、胡天の月に見めぐるは 沙河のこなたの夜の陣。
けふ聞けば、敵軍大擧南下して 奉天の營を出でしとか。
おもしろや、輸羸をここに決すべく 精兵十萬、将士足る。
銀髯を氷れる月に照らさせて、めぐる陣また陣いくつ、
わが児等の露營の夢を思ふては 三軍御する将軍涙あり。
發ひらいては、萬朶花咲く我が児等の 精氣、今凝る百錬の鐵。
大漠の深ふけ行く夜を警めて 一聲動く呼笛の音。
明けむ日の勝算胸にさだまりて、悠々馬首をめぐらすや、
莞爾たる将軍の帽の上へに 悲雁一連日に啼く。 明治38年(1905年)5月、石川啄木は処女詩集「あこがれ」を刊行しました。啄木19歳のことです。
「あこがれ」には、明治37年3月から翌38年3月までの作が収められています。
『老将軍』は、この処女詩集に収められています。
http://xn--9yrx3r72hipr.seesaa.net/article/113804264.html ▽沙河会戦〈さか〉
1904年10月9日 - 10月20日。
会戦の契機はロシアがグリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。
この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした。
10月9日にロシア軍の攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。日本陸軍はロシア軍の攻撃を察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。
それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。
日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受けて退いた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d4/Nichirojp.png 小説「坂の上の雲」を読み始めると、最初に出てくる人名は正岡子規である。例の十五万石の句が松山の紹介に使われている。
子規にはトップ・バッターの資格がある。彼がいなければ、この小説は書かれなかったはずだ。では二番目の名は誰のものか?
二番手は、石川啄木なのだ。ただし、子規の作風と対比するにあたって文学者としての名が挙がっているだけで、本人がストーリーに登場するわけではない。
しかも、この時のみならず、最後に至るまで日露戦争時代の人でありながら、啄木の名は出てこない。子規大好きの司馬遼太郎にとっては、あまり関心のない作家だったのかもしれない。 司馬さんは啄木研究者〔>>433〕に、「老将軍」をご存じか、誰がモデルだろうかと訊かれたそうだ。
司馬さんはマカロフは知っていたが、正直にも老将軍は知らなかったと書いている。早速読んだようで、漢詩の下手なマネッコに過ぎないというような感想が書かれている。
さらに、叙事詩的ではないという理由からだろうか、モデルの詮索は「無用」と片付けている。 日本人の場合、その人物が誰であろうと将軍の軍服を着てしまえば、もう定型としての将軍になってしまう。 >>441
>子規大好きの司馬遼太郎にとっては、あまり関心のない作家だったのかもしれない。
というか、「坂の上の雲」を書いたからといって、俺は日露戦争の百科事典じゃないぞ。
何でも質問するな、めんどくせー、というのが正直な感想だろう。
啄木と『老将軍』の行間に、そんな気持ちが滲み出ている。 啄木といえば「はたらけど はたらけど なお我が暮らし楽にならざり ぢっと手を見る」の詩が有名だが、啄木はニートで真面目に働いたことなどない。
働きぶりはいい加減で遅刻やズル休みは日常茶飯事。なにをやっても長続きしない。
また“たかり魔”としても有名で、友人や知人から頻繁に金をせびった。
「おごるから」と友人を飲みに誘い、逆におごってもらう。相手が帰ろうとしたら「今度こそ僕が」と別の店に行き、またおごらせる。さらに帰り際に金を借りて、その金で女を買う。そんなことを繰り返していた糞野郎だよ。
なにが「ぢっと手を見る」じゃ、ボケ! ▽野村胡堂
明治15年 - 昭和38年。
日本の小説家・音楽評論家。音楽評論家としての筆名は野村あらえびす。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。
岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれる。啄木とは 盛岡中学校の先輩・後輩。
本章では、日露戦争開戦の年、19歳でネトウヨだった石川啄木から手紙を受け取った挿話が出ている。
http://blog-imgs-54.fc2.com/k/a/n/kannoeizan/person_0062_1_nomura.jpg ▽「戦雲余録」
日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んだ。
岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日−19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の二つがあるのみだと言い切った。
「今の世には社会主義者などと云ふ非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある…」と書き、幸徳秋水らを批判した。 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。
日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると同時に、東洋や世界の平和のために必要であったと考え、ロシアを光明の中に復活させたいと熱望する自由と平和の義戦であると考えていた。 ▽クロパトキン
1848年 - 1925年。
日本軍の能力を高く評価していたクロパトキンは、日本軍との全面直接対決を極力避けた上で、シベリア鉄道の輸送力を活用し兵力と物資の蓄積を図りつつ、日本軍を北方に吊り上げて補給路が伸びきり疲労が激しくなった所を一挙に殲滅するという作戦を計画した。
しかし会戦においては敗北を繰り返し結果的に後退したのみだった。そして後退を繰り返した結果、兵士の士気低下を招き終始指揮系統が混乱した。またクロパトキン自身もその場しのぎの作戦指揮を展開したため、日露戦争においてロシア軍が敗北する結果に繋がった。
石川啄木との関係は、調べましたがわかりませんでした。
http://cpw.imagenavi.jp/preview/514/51461501_PW36.jpg >>417
自分も、よくわからなかった。
中国が汚職大国であることは知られているが、満州国や華北政権で中国人を取り込んで、中国人から汚職を学習したというのは、へんな論理だよね。 >>400
いきなり指示代名詞を使われても理解しにくいよ。
本稿でいう錬金術には【旧来型】と【新型】があって、田中角栄は「旧来型錬金機構」に参加できなかったから、自分で新型の錬金機構を開発したということだね。
「旧来型錬金機構」とは、>>420のいう「天下り先の利益代表として出身官公庁に出入りし、影響力を発揮する官公庁OBこそが、従来よりある日本式のロビイスト」だと思う。 >>422
「一つの錬金機構の潰え」が書かれた昭和51年ころは、評論のなかで「革命」という言葉を平然と言い放てたんだね。
現在だと、コッ恥ずかしくて言えないけどね。 昭和51年ころ高校生だった私の感想では、「革命」は当時既に恥ずかしいヴォキャブラリーだったな。
オイルショックが起きて高度経済成長が終わり、あさま山荘事件が起きて学生運動が急速に衰えると、一つの時代の終わった無力感と学生運動への失望を背景に「シラケ」という言葉が若者の間で流行し、「無気力・無関心・無責任」の三無主義の風潮が見られた。
何をしても言っても「しらける」「しらけた」を連発し、冷めており、政治的な議論には無関心だった。 「一つの錬金機構の潰え」を発売直後の中央公論で読んでいたら、司馬さんがドン・キホーテに見えていたと思う。 第13章 綱淵謙錠氏のこと
そのころ綱淵謙錠は雑誌「中央公論」編集部の次長で、年齢は私より一つ下である。互いに三十代の終りごろだったが、かれはすでに大学の在学当時からの研究主題であったT・S・エリオットについて世評の高い訳業を持っていた。
色が白く、体格がゆったりと大きく、ふと平安末期の奥州の山峡の館と、その館の土塁に植えられた桜の春を背景にして、沿海州産の仔犬でも足もとに纏わりつかせればこれほど似合う風韻のひともないのではないかと思った。 〔初出〕
中公文庫『苔(たい)』解説 / 昭和52年11月
司馬遼太郎『古往今来』所収 >>441
啄木ごときをノボさんと比べてはいかんぞな ★新橋第一ホテル
▽昭和37年
当時の第一ホテル
https://cdn.amanaimages.com/ed_thumb200/KDN/00153/KDN0015394916F.jpg
http://zexy.net/wedding/c_7770001895/blog/images/E9A4A8E58685.jpg?1451095384333
資金繰りに行き詰った株式会社第一ホテルは平成12年5月26日に会社更生法の適用を申請し事実上倒産した。負債総額は1,152億円。
更生会社となった第一ホテルのスポンサーとして創業者が同一の阪急電鉄が名乗りを上げ、平成13年7月31日に更生計画認可を受けた。 ▽綱淵謙錠
大正13年 - 平成8年。樺太出身の小説家。
山形県飽海郡遊佐町にて漁業を営んでいた父と、函館生まれの母の長男として移住後の樺太登富津に生まれる。
綱渕家は、かつて川の両岸に綱を渡し舟を往復させた渡し守であったが、金品を強奪するのに嫌気がさし神官になったとされる家柄。
綱淵の歴史小説への“のめり込み”は、30歳代前半に子母澤の「新選組始末記」との出会いにあったといわれ、長谷川伸や海音寺潮五郎の史伝的作品にも関心を寄せた。
昭和45年、築地本願寺で行われた三島由紀夫の葬儀の手伝いが編集者としての最後の仕事で、翌年3月中央公論社を退社する。
http://www.shinchosha.co.jp/images_v2/writer/3361.jpg ▽中央公論
創刊は明治20年。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。
http://www.ryukoku.ac.jp/alumni/images/what/img_what_06.jpg
※龍谷大学
1639年(寛永16年)、西本願寺が設立した学寮を起源とする大学である。 ▽T・S・エリオット
1888年 - 1965年。イギリスの詩人、劇作家で文芸批評家である。
誕生はアメリカ合衆国のミズーリ州セントルイス。1917年から1925年までロイズ銀行の渉外部門で働いた。
「四月は残酷きわまる月(April is the cruellest month)」で始まる長編詩『荒地』で第一次世界大戦後の不安を描きだした。
また、評論『伝統と個人の才能』(Tradition and the Individual Talent / 1919年)によって、保守主義の思想家としても知られている。
http://www.full-stop.net/wp-content/uploads/2013/01/books121709_04.jpeg 題名は忘れたが、T・S・エリオットの詩のなかで「おが屑をまいたレストランには牡蠣殻が散らばっていたり」と一節が印象に残っている。
今日、謎が解けた。
「おが屑」が撒いてあるのは、「ビール」や「酒類」、また「牡蠣」の水分などが床にこぼれても大丈夫なようにという工夫であろう。
ゆえに、「牡蠣料理を出す、おが屑の撒いてあるレストラン」と訳すのがベター。 昭和37年頃、司馬遼太郎は新撰組について調べたことも考えたこともなかった。
その年の5月に「新選組血風録」、11月に「燃えよ剣」の連載を始めている。
したがって、第一ホテルで綱淵謙錠と会ったのは、昭和37年の1〜3月の頃だと思われる。
なお、綱淵謙錠は、子母澤寛の「新選組始末記」を読んで、歴史小説にのめり込んでいた時期である〔>>460〕。 主語が「司馬さん」になっているよ。
綱淵謙錠の間違いだろ。 すまん。愛猫が老衰で死にそうなので、ハートブレイクしている。 ▽飯沢匡〈ただす〉
明治42年 - 平成6年。日本の劇作家、演出家、小説家。
和歌山市で生まれ、愛媛県松山市を経て東京小石川原町や巣鴨に育つ。昭和8年、東京朝日新聞社へ入社。
戦後『婦人朝日』『アサヒグラフ』編集長を務める。昭和29年、ゴジラが誕生した年に退社。
黒柳徹子との恋愛関係で噂になった。黒柳と24歳も歳が離れた末の弟は、飯沢匡の隠し子ではないかという噂もあった。
弟とされている黒柳貴之は、「覚せい剤」取締法違反で逮捕されたことがある。
http://goldfishbox.net/wp-content/uploads/9dc2a80dbc6a99e44f67329c00fa7471de90e29a.gif キーボードを替えたら、前のキーボードと大きさが若干違うため、隣りのキーに指がいってしまい、イラッとするというのも理由だ。 >>470
黒柳徹子は元NHKだ。責任を転嫁するな。 その手の余談は、司馬はしないぞ。
話を本筋に戻せ。 ★綱淵謙錠の小説
▽仄聞
(人づて等によって)うすうす聞くこと。 「ほのかに聞く」だから、辞書で調べなくてもわかるだろうw ▽『斬(ざん)』
昭和47年作品。第67回直木賞受賞。
最も人道的な斬首の方法とは、被刑者に何らの苦痛もあたえず、一瞬のうちに正確にその首を打ち落とすことである……。
“首斬り浅右衛門”の異名で恐れられ、七代250年に渡り世襲で罪人の首を切り続けた山田家の一族。その苦悩と末路とは?
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/17/490a2e287019eee44ed0a4c68a5f0ffe.jpg 司馬遼太郎(当時48歳)は、このときの直木賞選考委員。次のような評を書いている。
「作品以前の創作態度の重厚さが、作品のなかにまで露わなほどに出ていて、読後いい作品に接したよろこびよりも、いまの世にこういう大真面目な創作態度をもつひとがいたのかという感動のほうが大きかった。」 ▽井上ひさし「手鎖心中」
第67回直木賞受賞作は二作品あった。もう一作が、井上ひさしの「手鎖心中」。
司馬選考委員の評は、次のようであった。
「うそのあざやかさには目をみはるおもいがした。作品そのものには多少の瑕瑾を指摘できるし、『斬』のように残るものではないであろう。しかしこれを書いた才腕の前には、たれもが叩頭せざるをえないのではないか」 こちらは、本屋の宣伝コピー。
「暢気でお調子者の若旦那を主人公としたこの小説、江戸・寛政期の風俗と実在の戯作者たち、洒落や地口を綺羅星のごとくちりばめて、あまりのばかばかしさに読者が吹きださずにはいられない」 ▽『冤(えん)』
明治新政府の民意懐柔策「年貢半減」をスローガンに、官軍東征の先陣争いに加わった「赤報隊」こと相楽総三以下七名の梟首事件である。
見方によっては、新政府にいいように利用され、折からの政策変更で煙たくなったかれらを処断する術が「偽官軍」という罪状である。
戊辰戦争の発端となった江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件のからくりに一役買い、維新の魁を銘記したかれらの末路。
新政府のご都合主義に振り回され、血祭りに上げられた相楽総三と公私ともに親交の厚かった西郷隆盛の目にはどう映ったろう。 ▽溝壑〈こうがく〉
吉田松陰は、「志士は溝壑に在るを忘れず」、すなわち、志ある人は、その実現のためには、溝や谷に落ちて屍をさらしても構わないと常に覚悟しているという孔子の言葉で、志を遂げるためにはいかなる困難をも厭わない心構えを説きました。 ▽『朔(さく)』
北方樺太領有をめぐる大野藩とロシア官憲との交渉の顛末である。当時幕府は大野藩という北陸の小藩に歴史的に重大な交渉を任せた。
その経緯はさておき、アイヌ使用人トコンベの逃亡をきっかけとした引き渡し交渉に登場する大野藩北蝦夷詰頭・早川弥五左衛門と、ロシア官憲ヤチコフ。
漁業権を生かし樺太の領有を捨て置くか否か、日本とロシアの政府間交渉の象徴的事柄として、弱小藩に任された「トコンベ」事件の収拾の顛末に焦点があてられている。 ▽『苔(たい)』
維新以後に起こった数多の不平士族の反乱のなかで、決起の華々しさや散り際の潔さとは無縁の「思案橋事件」が取り上げられている。
旧会津藩士の有志による明治政府転覆計画である。前原一誠率いる萩の乱と呼応して千葉県庁襲撃を企んだとされる。
事件の主魁は、永岡久茂、井口慎次郎。下手人が旧会津藩士ということもあって、政府の追及は余燼を許さなかった。
そして、熾烈な措置。旧会津藩は東北地方辺境へ国替えという廃藩置県の合法処置になぞらえた過酷な方策で会津の人心を四散させていく。
決起に参加したなかで唯一逃亡に成功し、関係各所に潜伏していた中根米七を追って、中根の自刃を知る最後のくだりなど、怨みがましい感傷に溺れない静謐な筆致で苔むした余韻を漂わせている。 思案橋事件については、司馬さんも「翔ぶが如く」の中で詳しく書かれているよね。 >>474
実名を明かすことは避けていたが、黒柳徹子は司馬の紀行文に登場するよ。
たしか飛行機の中で遭遇している。 第14章 井上ひさしのユーモアについての管見
会津藩の話題が出たとき、氏は「ア」と小さく叫んで、
「会津は東北じゃないんです」
と、切り捨ててしまった。氏の文化意識のなかでの東北というものがどんなものかがこの一事でもわかるし、それに対して氏がいかにつよく自己同一化しているかもうかがえるし、同時に会津なんて上等なものはどこかへ婿として呉れてやるといった感じの語感から、白い夏雲が湧きあがるようなユーモアをも感じさせられるのである。 〔初出〕
「ユリイカ」昭和54年5月号
司馬遼太郎『古往今来』所載 この随筆は、なにが言いたいのか意味がわからなかったです。 「井上ひさしの暴力についての管見」なら、意味がわかったか? 井上ひさしの顔が生理的に好かん。
こいつの小説はひとつも読んだことがないので、俺はこいつについてとやかく言える筋合いじゃないんだよな。 ▽下町文化 - 自他のけじめ
江戸時代の御府内で、高台の地域を「山の手」と呼び、低地にある町を「下町」と呼称したという。
東京における下町の代表的な地域は、日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、本所、深川であるが、「山の手」のイメージで語られがちな旧小石川区や旧牛込区、旧芝区にも下町地域は存在する。
http://blog-imgs-24.fc2.com/s/e/e/seenfromtokyo/sitamatiofedo.jpg 大阪生まれの司馬遼太郎は下町文化の語り手として不適当 ▽井上ひさし
昭和9年 - 平成22年。
山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる。
昭和25年、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学。同級生に憲法学者の樋口陽一、上級生には俳優の菅原文太がいた。
浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。フランス座は渥美清を筆頭として谷幹一、関敬六、長門勇といった後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。
昭和35年に上智大学を卒業。山元護久とともに『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、昭和39年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/71PaVcQ-EjL._SL1023_.jpg ▽井上ひさし『汚点(しみ)』
『汚点』は、弟からの手紙で始まる。主人公は中学三年生の「僕」である。どちらも、大人や年配者からの理不尽な暴力や強要によって辛い日々を送っている。
弟からの手紙に付着した「汚点」は、そうした理不尽な暴力の象徴である。自分も年配者からの暴力を受けながらも強情に耐え抜き、弟を理不尽な大人から奪い返すまでの「僕」の戦いの物語である。 井上の実父は、井上が5歳のときに亡くなる。
母は旅回りの芸人と同居を始める。井上は義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症と吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。
不幸な歴史の持ち主は、不幸な歴史の後継者を作る。井上も妻にDVをはたらいていた。 ▽稟質〈ひんしつ〉
生まれつきの性質。
※稟議〈りんぎ〉
役所や会社などで導入したい事項に対して、その中身を説明する書類を回覧して承認を受けること。会社としての承認は必要ですが、会議を開くほどではない事柄について行われる承認方法。 ▽晦渋〈かいじゅう〉
言葉や文章などの意味がむずかしくて分かりにくいこと。 花脊には大悲山峰定寺がりますね。
「洛北諸道」では、大悲山峰定寺についても書いておられた。 ▽宮城県の孤児院
生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。
井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な体罰といじめが横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」という。
井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している。 歯茎が醜いだけではなく、性格も醜い。
慎ましい下町文化の担い手は、擬態であって、稟質ではないな。 リアル世界で「弟をかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていた」井上は、心中忸怩たる思いはあった。
バーチャルの『汚点(しみ)』を書くことで、弟に詫びているのだろう。 ▽酪漿
牛などの乳汁。
牛乳といえばいいだろう、バカヤロウ。 >>510
>「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」
ユーモアという高度な狡智で傷を癒し、一方では傷の深さと場所を自分に対して明らかにするという無意識に近い作業をしつづける。 ▽上京
昭和28年、孤児院の神父の推薦で上智大学文学部ドイツ文学科に入学し、代々木上原のラサール修道院から通う。
しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し、東北大学医学部と岩手医科大学を受験して失敗。
昭和31年、上智大学外国語学部フランス語科に復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした。
http://c59176.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_fdd/c59176/07E4B88AE699BAE5A4A7E5898D5007E58FB7-34862.jpg ▽泉鏡花
明治6年 - 昭和14年。
石川県金沢市下新町に生れる。父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れ。幼少期における故郷金沢や母親の思い出は、後年に至るまで鏡花の愛惜措くあたわざるものであり、折にふれて作品のなかに登場する。 明治22年4月、友人の下宿において尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
11月に紅葉の門下に入ることを志して上京。
明治24年10月、ついに牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されたので、その日から尾崎家での書生生活をはじめる。
http://meigen.keiziban-jp.com/wp-content/uploads/2015/12/izumik.jpg ▽夫人
この随筆が書かれた頃の井上の夫人は、西舘代志子。
旧姓名内山好子として東京市浅草区鳥越のかもじ職人の次女に生まれ、文学に親しんで育つ。大妻中学校・高等学校卒業後は電通に勤めていたが、1961年12月、井上ひさしと結婚。
こまつ座旗揚げ公演『頭痛肩こり樋口一葉』の台本が遅れたことから井上と不和になり、こまつ座舞台監督の西舘督夫と親しくなる。
1985年暮、井上家を出る。1986年6月、井上と離婚。離婚記者会見の際の発言「自分に正直に生きたい」は流行語となる。
この頃、『ペントハウス』からヌードモデルにならないかと誘われ断っている。
離婚後は正論などフジサンケイグループの著作物の寄稿常連となる。
http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/05/10/163.jpg
http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/05/10/133.jpg ▽キャンベラ大学
ロジャー・パルバースは、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の助監督も務めた才人。日本語が驚くほど堪能で、日本の文化や日本語の背景にも造詣が深いロジャーは、宮沢賢治や井上ひさしの戯曲を英語に翻訳もしている。
http://www.web-across.com/person/srnrj2000000bn1q-img/srnrj2000000bn7j.jpg
ロジャーがオーストラリア・キャンベラ国立大学で教鞭を取っていた時、井上ひさしを講師としてオーストラリア国立大学に客員教授として招致し、ロジャーが半年に渡って井上ひさしの家族ごと世話をした(1976年3月〜7月)。 ▽アボリジニ
前スレの『木曜島の夜会』で一度説明した。そこを読めと言いたいところだが、もう一度説明してやる。
ヨーロッパ人による植民地化以前からオーストラリア大陸や周辺諸島に居住していた先住民の子孫たちである。
西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。
しかし1920年には約7万人にまで減少した。人口減少の最大の要因はヨーロッパ人が旧大陸から持ち込んだ天然痘や梅毒、インフルエンザ、麻疹などの伝染病の流行によるものと考えられている。
また、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚は、スポーツ・ハンティングと称して多くのアボリジニを虐殺した。
http://www.cairnsguide.com/wp-content/uploads/2015/12/632.jpg
http://www.geocities.jp/tustation/kaijyuuouji3.jpg 「このひとの作品を一生読みつづけなければ、どれが擬態でどれが本態なのか、そのあやめがわからないのではないかと思ったりした」と司馬さんは結んでいる。
幼児期に虐待を受けた少年は、複雑な性格に育ってしまう。 筆者は幼稚園の頃から、井上ひさしの名前を知っていた。
『ひょっこりひょうたん島』のオープニングに原作者として井上がクレジットされていたからだ。
それを毎日テレビで観ていたから、名前だけは幼い頃に覚えた。
しかし、筆者は歯茎が剥き出ている人を差別しているので、自分の主義を枉げないためにも、井上ひさしの小説は読まないことにしている。 第15章 八木一夫と黒陶
八木の場合、記憶されていいのは、黒陶を創始したことであろう。八木の黒陶は中国の戦国時代のなにかがモトではないかという説があるが、しかし八木は、あれはコタツです、という。
むかしどの家にもあった土製のコタツを、陶芸家の子である八木は年少のころから不思議に感じていたらしい。その技術内容を割ってみたり、あるいはコタツの膚質を高度に工芸化することを試したりするうちに、不意に出来あがってしまったというのが、本当のように思われる。 〔初出〕
「芸術新潮」昭和52年8月号
司馬遼太郎『歴史の世界から』所載 ▽八木一夫
大正7年 - 昭和54年。日本の陶芸家。陶芸家・八木一艸の長男。
京都市東山区出身。1937年京都市立美術工芸学校彫刻科卒業。1947年日展で入選。
1971年京都市立芸術大学美術学部教授となる。1972年札幌オリンピックのメダルのデザインを担当した。
※右の人物
https://intojapanwaraku.com/wp-content/uploads/2017/10/yagikiyomizu_tomo_chirashi-620x611.jpg
※札幌オリンピックの金メダル:表が八木一夫、裏が田中一光のデザイン。
https://www.jpnsport.go.jp/muse/Portals/0/muse/shozou/image/sapporo_gold.jpg ▽五条坂
京都市内の通りの一つである五条通の東端部分の別名。
http://www.eonet.ne.jp/~gojozaka/image/map.gif
http://riders.cocolog-nifty.com/blog/images/2015/08/09/029.jpg
五条坂一帯に約400もの出店でにぎわう 五条坂『陶器まつり』。
約40万人のやきものファンが訪れる全国最大規模の陶器祭りで、京の代表的な夏の風物詩として、多くの人々に親しまれるようになりました。
https://cdn.my-fav.jp/event/4/4404/1/22.jpg ▽八木一艸(いっそう)
明治27年生まれ。八木一夫の父。大阪市出身で、大正初め京都市陶磁器試験所で陶磁を学んだ。
大正9年、楠部弥一らとともに「赤土社」を結成し、わが国近代陶芸の道を開いた。戦後は無所属を通し、特に中国宋風の青磁、均窯などに優れた作品を残した。端正な作風で知られ、ロクロ技術は名人芸といわれた。
昭和48年9月2日死去。79歳。大阪出身。本名は栄二。
https://wing-auctions.c.yimg.jp/sim?furl=auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0310/users/2/8/4/5/porni326-img1024x683-1508386398c2w0db16609.jpg&dc=1&sr.fs=20000 ▽韜晦
自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。
「何故貴女は自分をそれ程まで―して居られるのか」〈有島武郎・或る女〉 私(陶芸家河合徳夫)の幼いころはまだ東大路五条の共同窯があって、その周りにたくさんの職人さんが暮らしていらっしゃいました。よくリヤカーに焼き物をのせて運んでいる姿を見かけましたよ。
家の前の坂をもう少し下ったところには八木一夫先生のお宅があって、そこの息子の明さんは幼馴染でよく遊びに行っていました。 ▽用の場/用の美
柳宗悦〈やなぎ むねよし〉には、先ず自分の目に適った美しい物があり、その物の発生状況を述べたのが、「民藝」美の説明になっている。
しかし、いつの間にか論理が逆転し、ある種の発生状況から出た物は、全て美しい「民藝」作品にされてしまったとのこと。
確かに、このためか「民藝」というと、ある固定イメージがあります。それが飽きられた原因だと思われます。
http://www.shiga-kinbi.jp/wp-content/uploads/2013/08/poster2013-4b.jpg 兵隊から帰ってきた八木は、べつな空き地で土を動かしていたが、やがて出来あがったものは絶対自我としか言いようのないもので、「他人様の暮らしのために」(絶対他力道)という在来の陶芸とは、形態だけでなく、思想としても造形分野としても全く異なったものだった。
※「ザムザ氏の散歩」(1954年)
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171003002847_commL.jpg 「ザムザ氏の散歩」では、ご飯も盛れないし、お茶も飲めんなw ▽京都市美術学校
現在の京都市立芸術大学美術学部。八木一夫が在学した京都市立美術工芸学校〔>>528〕の全身。
美術学部は、明治13年創設の京都府画学校が起源。6月に太政大臣三条実美により「日本最初京都画学校」と命名された。
背景には、東京奠都によるパトロンの喪失・文明開化による伝統文化の冷遇などから、円山派・四条派といった京都画壇の諸派が危機に陥ったことにある。
美術を立て直すために市民の間から美術家養成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高まり、その熱意の結果創立されたものである。
これには同じく文明開化で低迷していた京都の主力産業である伝統工芸の近代化を支援するため、工芸と密接な関係にある美術界を盛んにする目的もあった。
https://meiji150.kyoto/wp-content/uploads/2017/10/1016_top.jpg >>536
カネにもならないのに画像君が司馬作品について毎日調べ上げているのも「ザムザ氏の散歩」のようなものさ。 こういうのを100円ショップで売ってくれれば高く評価してやってもいいが、役に立たないくせに値段だけは高額だから、「裸の王様」にしか思えないんだよな。 >>540
おまいの貧乏でひがみっぽい性格という自我を、文章で表現しているだけだぞw >>481
『斬(ざん)』は読んだことあるよ ( *‘∀‘ )ノ ▽蚯蚓走泥文
鈞窯器の特徴の一つである「蚯蚓走泥文」と呼ばれるチリメン皺のような細かい貫入が見られ、底は醤釉で塗られ、10個の目跡が残されている。
http://www.antiques-oota.com/photo/c04-seiji/201-300/259.jpg
「走泥」は八木一夫の造語ではなく、「蚯蚓走泥文」から引かれている。 筆者の少年時代(ビートルズ時代)には石綿の中央に豆炭を入れるタイプのコタツを使っていたので、土製のコタツの使用経験はない。
豆炭は団子状にした固形燃料として大正9年(1919)に発明された。
昭和35年に専用のケースが売り出され、行火(あんか)として使われるようになった。
http://www.kawagoe.com/kzs/shakaika/jpg/t131.jpg 筆者も司馬さんと同感です。
土製のコタツの想い出という「自分の自我をあずかってくれる」。この表現は秀逸だな。
自分の自我をあずかってくれた美術品に対して、「雨宿りの礼」というのも好い。
美術品を所有しようという意欲はないね。みんなで鑑賞して「雨宿りの礼」を言えば足りる。 司馬さん、音楽はからっきしダメですが(おそらく音痴)、美術評論はなかなかに優れています。 美術評論なんてものは、評論の対象になっている作品を、少なくとも写真で見なければチンプンカンプンな文章であった。
現在はネットで簡単に見ることができる。便利な世の中になった。 司馬さんの漢詩や和歌俳句に関する評価は容赦ないな
「下手」「まずい」と断言しちゃう
このあたり他の事柄に関する記述と比べると温度感が違う気がするがなんでだろう >>556
司馬さんの美術評論は、いわば素人のかくし芸。
これに対して、漢詩や和歌俳句に関する評価は、韻文と散文の違いはあれど、プロの物書きの視点で評価するので、採点が厳しくなるのではないでしょうか? >>535
暮らしの用を足すための陶器と前衛芸術としての陶器という対比をすると、絶対他力道 vs 絶対自我でよいのかもしれない。
しかし、前衛芸術が「自我の表現」かというと、そうでもないような気がする。
前衛芸術には超自我の表現という側面もあるのではなかろうか。
作者が自分以外の何者かになりたい、未来の自分になりたい、自分以外の生物・エイリアンになりたいというような願望が込められている気がする。 すいません。
筆者はサッカー・チームではディフェンダーをしているので、前衛のことはよくわかりません。 第16章 安田章生氏を悼む
氏は学究である以上に「古今」「新古今」の美への感受性を多量に持ちつづけられた。明治末期以後、「古今」「新古今」はかえりみられずに長い時間を経たし、氏はそのことをよく知っていた。
そういう美的感情がなまで外に露われることを文章の上では懸命に抑制しておられた。 〔初出〕
「朝日新聞」昭和54年2月17日夕刊
司馬遼太郎『古往今来』所載 明治末期以後、「古今」「新古今」がかえりみられなくなったのは、ノボさんの責任です。
ノボさんを主人公にした「坂の上の雲」を著した司馬さんは、共犯者です。 貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。
〔再び歌よみに与ふる書 / 正岡子規〕 ▽安田章生〈あやお〉
大正6年 - 昭和54年
尾上柴舟門下の歌人安田青風の長男として兵庫県に生まれる。東京帝国大学卒。
国文学者としては藤原定家、西行研究の大家であった。大阪樟蔭女子大学教授、1966年甲南大学教授。
「あきお」と読んでしまいそうになりますが「あやお」です。
※お父さんの安田青風氏の画像はあった。章生氏の画像はない。
http://www.town.hyogo-taishi.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/3/yasudaseihuu.jpg ▽三年前に播州に旅行
昭和51年3月22日〜23日、「街道をゆく / 播州揖保川・室津みち」の取材旅行に安田章生氏は同行している。
『播磨灘物語』の主人公・黒田官兵衛が一時居城としていた山崎を訪れたいと考えた司馬さんは、西播州の生まれで少年時代をこの地で過ごした歌人の安田章生氏とともに揖保川沿いに車を進める。
古代稲作民について思索を巡らせながら伊和神社の境内を歩き、安田氏の母校・山崎小学校で山崎城のわずかな名残を見る。
https://publications.asahi.com/kaidou/09/images/img_photo_01-01.jpg ▽藤原定家
応保2年(1162年)- 仁治2年(1241年)。鎌倉時代の歌人。
藤原俊成 (としなり) の子。母は美福門院加賀。
父の指導をうけ、後鳥羽院歌壇で活躍。「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の撰者となり、「小倉百人一首」も撰した。
「源氏物語」などの古典の書写、校訂にも大きな功績をのこす。
http://logo-imagecluster.img.mixi.jp/photo/comm/40/47/4644047_250.jpg ▽古今和歌集
平安時代前期の勅撰和歌集。
醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜5年(905年)に奏上された。撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人である。
明治21年(1888年)、正岡子規が『再び歌よみに与ふる書』のなかで「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と述べて以降『古今和歌集』の評価は著しく下がった。 ▽新古今和歌集
鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集。
撰者は、源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の六人が後鳥羽院の院宣により定められた。勅撰集を編纂するための部局「和歌所」が後鳥羽院の御所に置かれ、後鳥羽院自身も歌を親撰するなど深く関わった。
承元4年(1210年)から建保4年(1216年)の間に最終的に完成した。 ▽万葉集
日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。
『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、最終的に大伴家持の手によって二十巻にまとめられた。 折りにあえば散るもめでたし山桜
めずるは 花の盛りのみかは 〔佐久間象山 / 辞世の歌〕 万葉集……大伴家持
古今集……紀貫之
新古今……藤原定家 ▽北嶺で観をする僧
北嶺とは、南都北嶺の北嶺。すなわち比叡山延暦寺のこと。
観とは、観行のことで、観心の行法の略。
天台宗で重んじる行法で、自分の心の本性を観照する修行のこと。 ▼止観
天台宗の根本的な修行である瞑想法。
「止」とは精神を集中し心が寂静となった状態。「観」とは対象をありのままに観察することを意味し、止を観の準備段階とする。
この止と観とは持戒とともに仏教徒の重要な実践とされ、原始仏教経典をはじめ、諸経典に多く説かれている。 ▽知的抒情
「抒情」とは、感情を述べ表すことで、事実を述べ表す叙事の対義語とされる。
広義では、胸が締め付けられるような切なさを超えた深い感動を指す。 ▽在原業平
天長2年(825年)- 元慶4年(880年)
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。
血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原朝臣姓を名乗る。
歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している。
http://history-land.com/wp-content/uploads/2016/06/ad0c3b9b1997418a83e7f9f0d2bf4246.jpg ▽歌誌「白珠」
安田青風と安田章生が主宰した歌誌。 ▽岡部伊都子
大正12年 - 平成20年。日本の随筆家。
大阪府大阪市出身。相愛高等女学校を病気のため中退。婚約者が沖縄戦で戦死し、戦後すぐ結婚したが7年後に離婚。
同人誌『文学室』に参加、谷沢永一は岡部の才能を最初に認めたのは自分であると書いている。
歌誌「白珠」に出詠していた。
http://www.asahi.com/houryuji/story/images/22.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/45/3f459d766eb27903f94e0a97dba2c43e.jpg ▽田辺聖子(昭和3年〜)
大阪府大阪市に生まれる。父方は広島県福山市の出身で祖父の代から写真館を経営していた。
淀之水高等女学校を経て樟蔭女子専門学校(現大阪樟蔭女子大学)国文科卒〔>>567〕。
恋愛小説などを中心に活動し、第50回芥川龍之介賞など数多くの文学賞を授与されている。
歌誌「白珠」に出詠していた。
http://www.asahi.com/kansai/event/image/OSK200607010008.jpg 福田みどり氏が大阪樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)を卒業されている。
その関係で、安田章生氏や田辺聖子氏は、司馬作品に登場することが多い。 第17章 人中の花
港野喜代子さんは、最後にわれわれをびっくりさせてしまった。
彼女は死ぬとか生きるという生な次元の人では決してないという不思議な迷信が私を支配していたし、彼女を知るたれもがそうであったであろう。
生前、彼女は誰にも迷惑をかけず、しかもその死も、彼女らしく自分ひとりで完結するような死に方で死んだ。中央に聞こえること少なく大阪の街だけの詩人だったこの人の生涯は、まことに堂々としていて「無量寿経」でいう人中の花だったといっていい。 〔初出〕
「大阪読売新聞」昭和51年4月21日
司馬遼太郎『古往今来』所載 ▽港野喜代子〈みなとの〉
大正2年 - 昭和51年4月15日
詩人。兵庫県生。旧姓は坂本。大阪府立市岡高等女学校卒。
昭和9年、港野藤吉と結婚。戦時中、夫の郷里舞鶴に疎開中に詩作を始め、昭和23年「日本未来派」同人。
のち大阪文学学校講師をつとめながら詩・児童文学を発表。サークル活動や社会運動で活躍した。
詩集に『紙芝居』『草みち』『凍り絵』などがある。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bookface/20171018/20171018205430.jpg
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/bookface/20170719/20170719221140.jpg 秋はこうして幾度びも私を研ぐ
研がれても研がれても
粟の穂のように軽く重く
愚かな錆をこぼしている
黙々と粟の穂先きを刈り束ねつつ
片手に捧げた粟の一と房を見つめ
私は思う
ここに今、降る限りの秋を
私はきく
ここに今、野分けさえ含む風を
秋は幾度びも、こうして私を研ぎ
私はこうして幾度びも秋に眩む
『紙芝居』秋唄 ▽港野藤吉
昭和9年に坂本喜代子と結婚した機械設計技術者。
郷里は京都府舞鶴市。
https://uub.jp/47/kyoto/kyoto_map1.png >>590
現在は舞鶴市西神崎になっているけれど、港野喜代子が疎開した昭和20年4月頃は、京都府加佐郡神崎村だった。
舞鶴市の北西部、由良川の河口右岸にあたる。
喜代子は神崎村で5年間暮らす。ここで喜代子は詩作を始めた。
https://livecam.asia/wp-content/uploads/2016/09/SnapCrab_NoName_2016-9-5_9-27-57_No-00.png 何かで死ぬのは
全部のことで死ぬのだ
遠く遠くから
風が鳴りはじめると
私の心はさわぎはじめるのだ
あの風にのりさえすれば
雪の山が超えられる ▽野すみれ
世界のスミレの仲間は温帯に約400種、そのうち日本の仲間は約50種といわれます。
非常に交雑しやすく、自然交雑種や人工交配種、 さらに観賞用のスミレが野生化して交雑したものなど、日々新しい花が増え、分布地域による変種など個体差もあることから、分類するのは大変なようです。
http://blog-imgs-44.fc2.com/t/o/r/torasan47/IMG_0021A_20120229152624.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200704/20/26/d0092026_17454036.jpg 〈アスファルトの上で詩を書き 走るバスの中で詩を書き そして駅の階段をのぼり降りして〉、自分にも、この世にもショックを与えるために詩を書いた港野喜代子。
彼女は、昭和51年4月15日、自宅の庭にすみれの花の咲く頃、一人住まいの大阪市箕面の自宅風呂場でひとりぼっちで死んだ。脳溢血による心臓麻痺による死は、5日の間、誰にも発見されず、孤独の時間の中にあった。 >>594
最後に残した『私の詩のノート』の中の詩ですね。 ▽無量寿経〈むりょうじゅきょう〉
浄土三部経のひとつ。252年、魏の康僧鎧の訳と伝えられる。法蔵菩薩が四十八の大願を立ててついに阿弥陀仏となり、衆生を救うことを説く浄土教の根本聖典。大経。
※大乗仏教:自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行 ▽人中の花
無量寿経の中に「人中の花」という言葉は出てこない。
無量寿経には「もし念仏する者は、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」とある。
分陀利華とは、蓮の花である。インドでは蓮の華がもっとも気高く尊い華とされてきた。
阿弥陀仏の本願の教えを聞信する人は、蓮の華のように尊ばれるという意味である。
https://thegenealogyofstyle.files.wordpress.com/2015/04/download-4.jpg ▽市岡高女
大正3年、大阪府立江戸堀高等女学校は、西区市岡町の現在地に新校舎が竣工し移転した。移転直後に大阪府立市岡高等女学校へと改称している。
現在は大阪府立市岡高等学校。港野喜代子が卒業している。
https://www.reihyo.com/wp-content/uploads/editor/Image/jikyo/04history/002a.jpg
http://www-img.dclog.jp/m/EntryImage?bid=520132&eid=171159904&t=1268629035&sig=784a9caf96f83e32db25184497b2ea9d&rid=3.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0d4845c18d87cdd3bd38c992e32e840d) >>596
大原麗子は死後2週間経過して発見されたよね。 大原麗子も孤独死だったけれど、成城署が当初発表した死後2週間以上経過しているというのは誤報。
検死官の検分によると、大原さんの遺体に腐敗が進行した跡は見られず、きれいな状態だったという。
警視庁は「夏の暑い時期、2〜3日でも腐敗は進む。2週間というのは、弟さんが大原さんと連絡がつかなった時間」であると、死後2週間であったことを否定したよ。
http://dekitamon.net/wp-content/uploads/2015/12/ooharareiko.jpg 「山姥の家」というヘンなおばさんが主人公の小説があったけど、港野喜代子さんがモデルなのかな?
間違っていたら、ゴメンナサイ。 >>558
願望をもつ自分も「自我」だろう。
君は自分が主観的に自分の実在と考えているものを「自我」と定義していて、客観的に実在しない願望上の自分を「超自我」と区分しているようだけど、そのような区分は聞いたことがない。 第18章 昭和五年からの手紙 −長沖一とその世代環境−
明治から引き継いできた鎮台的な軍隊の最後か、もしくは十五年戦争が始まろうとしている最初というきわどい時期に、長沖一という若者が、その社会に嵌めこまれ、かつ書いた。書き上げたときには、十五年戦争の雰囲気が始まっていて、発表されなかった。
まことに不思議な思いがせざるをえない。昭和五年という、すでに可視的には溶闇の状態にちかい過去から、不意に郵便物が届き、披いてみると、当時のひとりの若者の肉声が聞こえたということであろうか。 〔初出〕
「中央公論」昭和56年10月号
司馬遼太郎『ある運命について』所載 【1】帝塚山
▽長沖一〈まこと〉
明治37年 - 昭和51年。日本の漫才作家、演出家、放送作家。
祖父は、加賀藩士で、明治維新後に大阪に出てきて商売を始める。
大阪府島之内出身。御津小学校、天王寺中学校、旧制大阪高校を経て、東京帝国大学文学部美術史学科卒。
大阪高校在学中に左翼運動を始める一方、1925年に武田麟太郎、秋田實、藤沢桓夫と共に文学同人誌『辻馬車』を創刊。大学在学中に新人会に参加。
昭和10年、吉本興業部のPR誌『ヨシモト』の編集者に迎えられ吉本興業部の文藝部に入る。昭和12年、文藝部長に就任し漫才、軽演劇の台本を多く手がける。 ▽電話交換台
日本でダイアル式(自動交換方式)が始まったのは1926年(昭和元年)である。
1950年代、市内電話はほとんどがダイヤル式になっていたが、大都市以外では市外電話は交換手呼び出しによる方式であった。
日本で交換手呼び出し方式が完全に廃止されたのは、昭和54年である。
http://www.appps.jp/wp-content/uploads/2015/05/20150522-mosimosi-yurai-002.jpg
https://koooohey37.files.wordpress.com/2015/06/vvvv.jpg 男性の電話交換手が一掃され、女性が電話交換手として配置されるようになると「申し上げます申し上げます」と呼びかけるようになり、それが転じて「もしもし」となった。 ____
/ \
/:::::::::::::::: \ _ 申し上げます 申し上げます
/:::::::::::::::: || | 熱が39度あるので今日はちょっと・・・
|:::::::::::::::::::::::: ∩! ,ヽ _ あいすみません・・・
\:::::::::::::::: | ー ノ
| ::::::::::::::: | i j  ̄ ̄ ̄|
| ::::::::::::: ゝ__/____i
| :::::::::: / /
(__(__ ヽ⌒⌒⌒ヽ
/ ,_/ ___ノ /
`ー' `ー' / ▽花菱アチャコ
明治30年 - 昭和49年。大正・昭和期の漫才師、俳優。
福井県勝山市の生まれ、生家は法沢寺というお寺であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。
1925年、吉本興業に入社し、1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとコンビを組む。
当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。
1934年、中耳炎にかかり入院、その間にエンタツは林正之助と相談で上でコンビを解消する。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151228001634_commL.jpg ▽『お父さんはお人好し』
NHK大阪放送局制作で、NHKラジオ第1で放送されていたラジオドラマ。全国各地で公開収録がされていた。
原作は長沖一。『アチャコ青春手帖』と並ぶ戦後の花菱アチャコと浪花千栄子の代表作。
※映画化された。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/5b/fa9ebe7aaa0bf401cd842af0c96df783.jpg ▽JOBK
NHK大阪放送局のコールサイン(識別信号)。
識別信号とは、電波を出す局を識別するために総務省が与えた文字列。
略称ではない。大阪馬場町のNHK本社ビルに(JOBK)と書かれているからといって、ジャパン・オオサカ・バンバチョウ・カド と読んではならない。
http://file.otobokebeaver.kyotolog.net/NEC_2288.JPG
ちなみに、NHKラジオ第1放送の識別信号はJOAK。 司馬さんは、NHKを「新略称」としているから、JOBKも略称だと勘違いしている。
ジャパン大阪馬場町角。 ▽帝塚山〈てづかやま〉
大阪市阿倍野区南西部から同市住吉区北西部にかけての地域の名称。
上町台地の西端に位置し、住吉大社に近く、古代から豪族が住んでいたといわれる。地域全域が住宅地となっている。地名は、この地にある帝塚山古墳に由来する。
かつて一帯は原野だったが、明治時代に開発され大正時代初頭から住吉第一耕地整理組合等による耕地の区画整理が行われ、そこが住宅地として次々転用されていった。
http://www.stepon.co.jp/premier/tezukayama/img/img_p03_01.jpg ▽帝塚山学院
地元の教育関係者や開発業者、地主らが資金を捻出して、東京の学習院をモデルに1917年(大正6年)、帝塚山学院小学部を開校。
以後、幼稚園、高等女学校なども開校し、教育環境は改善されていく。
帝塚山には学院設立の中心となった大阪船場の木綿商たちの邸宅が数多く存在した。
帝塚山学院の創立者は、庄野貞一。庄野英二・庄野潤三兄弟の父である。
※帝塚山学院高等学校 軽音楽部
http://www.sneakerages.jp/image/35/finalist_03b.jpg ▽庄野英二
大正4年 - 平成5年。日本の児童文学者。元帝塚山学院大学学長。
山口県萩市に生まれ、生後まもなく大阪に移る。昭和11年、関西学院専門部文学部哲学科卒業。在学中から創作をし、佐藤春夫、坪田譲治( びわの実学校)に師事する。
昭和12年入営、北満洲にいるとき日中戦争が起こる。昭和15年、負傷して帰還。昭和17年、ジャワ俘虜収容所に勤め武田麟太郎、佐藤春夫と交友が始まる。敗戦時はマレーにあって一時抑留、昭和21年帰国。
BC級戦犯容疑をかけられたが、佐藤春夫がマッカーサーに宛てて書状を送ったため釈放される。
http://www.sankei.com/images/news/141125/wst1411250036-n1.jpg ▽庄野潤三
大正10年 - 平成21年。日本の小説家。
大阪府東成郡住吉村(現大阪市)出身。帝塚山学院小学校・大阪府立住吉中学校を経て、昭和16年12月に大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)英語科を卒業。更に九州帝国大学法文学部で東洋史を専攻するが、戦時中の特例措置で繰り上げ卒業となる。
住吉中学時代の国語教師が詩人の伊東静雄で、九州帝大時代には1学年上に島尾敏雄がいた。また詩人で児童文学者の阪田寛夫とは小学校・中学校を通じての同級生で、その後朝日放送でも同僚となっており親交が長く続いた。
http://books.bunshun.jp/mwimgs/c/6/-/img_c6e82154846301fe5ee25edd5210cc6a70982.jpg ▽島之内
大阪市中央区の地域名。東を東横堀川、南を道頓堀川、西を西横堀川、北を長堀川に囲まれていた地域で、人工の堀川開削によってできた島の内側であることから島之内と呼ばれた。
http://www.tokensoft.co.jp/manpo2002/m0512616.jpg
長沖一は島之内で生まれ、帝塚山学院の近所の長屋に引越した。
昭和22年に吉本を退社後、長沖一は帝塚山学院大学の教授、帝塚山学院短期大学の学長をしながら、昭和27年には花菱アチャコと浪花千栄子の『アチャコ青春手帖』、昭和29年からは『お父さんはお人好し』の台本を手がける。 ▽昭和31年夏
産経新聞文化部の福田定一記者は、原稿料を持参して帝塚山の長沖一の長屋を訪れる。
風呂焚きのための薪割りをしている長沖一の厳父に出会う。
http://katalog-shikoku.jp/wp/wp-content/uploads/2016/12/161219_06.jpg 筆者は少年時代に風呂焚きをした経験がある。
「くべる」は日常用語であった。
「燻べる」という漢字を当てるのが、正しいのか間違っているのかは知らない。 燻製の燻だから、くすぶらせていたのでは、風呂の湯は沸かないだろうよw
間違いだよ。 「くべる」という言葉を久しぶりに聞いた。風呂の湯を電気・ガスで沸かすようになってから、「くべる」は死語になった。
「くべる」という言葉を聞くと、亡くなった家族の想い出がよみがえる。
「燻べる」でも許せるような気がしてきた。
http://www.my-kaigo.com/pub/carers/otasuke/jissen/images/kaiso_photo08.jpg >>623
自動詞と他動詞がごちゃごちゃになっているよ。
ゆとり? すでに死語だ。公衆電話なんかすっかり見かけなくなった。
これからの現代小説というものは、10年経つと死語のオンパレードになるよ。 【2】雑誌「辻馬車」
▽旧制大阪高等学校
改正高等学校令に基づき19番目の官立旧制高等学校として設立された。大正11年開校。文科(甲類・乙類)および理科(甲類・乙類・丙類)よりなる修業年限3年の高等科を設置した。特にフランス語を専修とする理科丙類を設置したのは、官立高校のうち大高以外では東京高校のみである。
生徒は大阪出身者が全体の2/3、市内の中学校6校の出身者だけで5割以上を占めた。卒業生には政治家・官僚は少なく、ジャーナリスト・学者が多い。
戦後の学制改革により府立浪速高校とともに新制大阪大学に包括され、大阪大学一般教養部南校の前身となった。
http://cogito.jp.net/tanaka/yakouun/daiko.jpg ▽藤澤桓夫〈たけお〉
明治37年 - 平成元年
大阪市生まれ。藤沢南岳の孫で藤沢黄坡の長男。旧制大阪高校在学中に武田麟太郎・長沖一・林広次・神崎清らとともに同人誌『辻馬車』を発刊、大正14年、同誌に発表した「首」でデビューし新感覚派と目された。
昭和2年、大阪高校を卒業し東京帝国大学に入学、在学中は新人会で活動しプロレタリア文学に転向した。昭和6年、文学部国文科を卒業したのち肺病で大阪に帰る。その後、大衆・流行作家として数多くの小説を書き、晩年まで関西文壇の長老として活動を続けた。
作家石浜恒夫の従兄(母方)にあたる。
http://www.city.osaka.lg.jp/sumiyoshi/cmsfiles/contents/0000298/298685/chirashi.jpg ▽藤沢東田亥〈とうがい〉
寛政6年(1795年)- 元治元年(1865年)。儒学者。
讃岐生まれ。中山城山に儒学を学び、25歳で長崎に遊学、文政7年(1824年)大坂に出て泊園書院を設立する。
『原聖志』『思問録』を出して名声があがり、在坂のまま高松藩に召し抱えられる。
長男が藤沢南岳で、南岳の子黄坡の長男が藤澤桓夫である。 ▽石濱純太郎
明治21年 - 昭和43年。日本の東洋史学者、関西大学名誉教授。
大阪府出身。東京帝国大学卒。東洋の古語と西域出土の仏典・古文献の研究者として活動した。
龍谷大学講師を務め、また関西大学では助教授、教授(昭和24年就任)を務めた。
子に作家・作詞家の石M恒夫がおり、姉の子に藤澤桓夫〔>>631〕がいる。
http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/person_1_4.jpg ▽秋田實〔>>608〕
明治38年 - 昭和52年。日本の漫才作家。本名は〔>>631〕に書いてある林広次。
大阪市玉造出身。戦前より漫才の台本製作や寄席番組の構成に関わり、現在の漫才の原型を作った上方漫才を代表する漫才作家である。「上方漫才の父」とも呼ばれる。
NHKの連続テレビ小説『心はいつもラムネ色』の主人公・文平は秋田がモデルとされている。
長沖一の大阪高校時代の同級生。
※左から横山エンタツ、秋田實、古川ロッパ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e7/Entatsu_and_Roppa_1935.JPG/300px-Entatsu_and_Roppa_1935.JPG 秋田實の祖父は、幕末大坂に駐屯した幕臣で、瓦解とともに大坂で暮らした。 ▽小野十三郎〈とおざぶろう〉
明治36年 - 平成8年。日本の詩人。
大阪市南区の裕福な家庭に生まれる。天王寺中学校卒業後、大正10年に上京し、東洋大学専門学部文化学科に入学するも、わずか8ヵ月ほどで中退し、親からの仕送りを受けながら詩作を続けた。
萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らの詩誌『赤と黒』を見て刺激を受けアナーキズム詩運動に入る。
吉本興業の文芸部に所属し、秋田實らと共に漫才台本を執筆していたこともある。
昭和10年に日本無政府共産党ギャング事件が起きた際には、日本無政府共産党のシンパとして大阪府警察阿倍野警察署に拘束されている(起訴猶予により釈放)。
長沖一とは、天王寺中学校時代の同級生。帝塚山学院大学教授。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-55-af/fifthjulyroad/folder/371829/71/7670871/img_0 ▽雑誌「辻馬車」
大正14年3月 - 昭和2年10月
雑誌「辻馬車」は、旧制大阪高校生によって創刊されたが、文学史的には第一次世界大戦時の前衛芸術の影響をうけた「文学の革命」の一翼をにない、「文芸時代」を中心とする新感覚派の文學運動を側面から援護する役をになっていたものとして評価される。
当初は新感覚派の作家である川端康成・横光利一などの影響を受けていたようだが、徐々に左傾化し、武田麟太郎・中野重治などが執筆者として名を連ねてゆく。
https://catalogue.books-yagi.co.jp/img/thumb200/a4840680205.jpg ▽雑誌「新思潮」
日本の文芸雑誌。
『帝国文学』に対抗して明治40年に小山内薫が創刊したが振るわず挫折。以後、帝大生により復活され、東京帝国大学系の同人誌として後に続いた。特に第3次〜第4次新思潮の同人菊池寛、芥川龍之介、久米正雄、松岡讓らを新思潮派といい、大正文学の一つの拠点になった。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/9fd/2460284/20120909_164339.jpg ▽小出楢重〈ならしげ〉
明治20年 - 昭和6年。大正から昭和初期の洋画家。
大阪市南区長堀橋筋一丁目(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。小学校から中学時代にかけて渡辺祥益に日本画の手ほどきを受ける。
雑誌「辻馬車」の表紙イラストを手掛ける。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-05-80/litteralite/folder/718747/56/6843956/img_0?1208674639
石浜純太郎〔>>633〕とは、市岡中学の同窓。 ▽新感覚派
戦前の日本文学の一流派。大正13年10月に創刊された同人誌『文藝時代』を母胎として登場した新進作家のグループ、文学思潮、文学形式を指す。横光利一、川端康成、今東光、藤沢桓夫、久野豊彦らを指すことが多い。
第一次世界大戦後のヨーロッパに興ったダダイスム、芸術の革命が目指されたアバンギャルド運動、ドイツ表現主義を意識した新感覚派の表現や手法の特徴としては、美術や音楽の感覚の働き方に近く、作風に新しい「ポエム――詩美」が漂う。
それは、伝統的な私小説リアリズムを超える言語表現の独立性を強調し、近代という状況・感覚・意識を基調として主観的に把握、知的に再構成した新現実を感覚的に置換・創造する作風、などを傾向としている。 『文藝時代』創刊号に掲載された横光利一の『頭ならびに腹』の冒頭文、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」の描写に見られるように、擬人法と比喩の手法を導入し、従来の日本語の文体に大きな影響を与えた。
※横光利一 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/155/15/N000/000/021/145145387607608059179_IMG_4135.JPG / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| >>605 ちょ、ちょーとまって!!! 今に>>558が『超自我と実存』を書くから静かにして!!
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ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
\ |___>< / ヽ ▽宇崎祥二
波屋書房〔>>639〕の店主であった宇崎祥二は、「大阪の竹久夢二」と呼ばれた画家宇崎純一の実弟。
祥二は、大阪を舞台とした小説を数多く残した藤沢桓夫〔>>631〕が中心となった同人雑誌「辻馬車」に発行資金の援助をしただけでなく、その発行元になるなど協力を惜しみませんでした。
この「辻馬車」をきっかけに藤沢は川端康成や横光利一に認められ、東京の文壇でも名前を知られていくようになります。
他にも吉本の漫才を近代化したと言われる秋田實〔>>634〕、アナキスト詩人の小野十三郎〔>>636〕なども「辻馬車」に投稿しており、今から考えても豪華な顔ぶれです。
宇崎祥二は残念ながら結核のため昭和5年に亡くなりますが、「波屋書房」は現在でも難波にあります。 ▽ディレッタント(dilettante)
仕事としてではなく自分自身のために芸術や学問を「楽しむ人」を意味する。語源はイタリア語の「dilettare(楽しませる、楽しむ)」。
日本語では「好事家」あるいは「芸術愛好家」などと訳されることが多い。 ▽武田麟太郎
明治37年 - 昭和21年。日本の小説家。
大阪市南区日本橋筋東一丁目(現在の浪速区日本橋東一丁目)に生まれる。
第三高等学校に学ぶ。三高在学中に土井逸雄・清水真澄らと同人誌『真昼』を発行し、身辺観察的な短い文章を寄稿する。
その後、東京帝国大学文学部仏文科に進学し、同人誌『辻馬車』に加わる(大正15年)。やがて労働運動に共感を覚え中退、1929年に『文藝春秋』に「暴力」を発表しプロレタリア作家としての地位を築く。
藤澤桓夫と旧制中学の同級生。
http://jinbutsukan.net/person/photo/p_takeda-rintarou.jpg 大正15年、長沖一も『辻馬車』の同人になっている。 昭和6年、藤澤桓夫は肺病を患い大阪に帰る。
『辻馬車』の主導権は武田麟太郎に移る。 ▽アナーキー
無権力ないし無支配を追求し人間個々が階級を持たず自由であるべきとの考えであるアナーキズムは、平等を追求するという意味では左翼思想と親和性はあるが、「運動という名の旗」も否定している点で、共産主義とは一線を画する。
群れるな、群れたらそこには必然的にくだらない階級が生まれてしまうという強烈な個人主義が根底にある。
プロレタリア作家・武田麟太郎は、アナキストを攻撃する文章を『辻馬車』に掲げた。 ▽新人会
戦前に存在した東京帝国大学を中心とする学生運動団体。大正7年(1918年)12月に結成され、昭和4年(1929年)11月に解散するまで、戦前の日本における学生運動の中核的存在であった。
新人会の創立者たちは吉野作造から思想的影響を受けた者が多く、当初は吉野流の民本主義を信奉し「黎明会」の姉妹団体としての性格が強かった。
しかし、1920年代になってロシア革命やマルクス主義の思想が日本に輸入されると、河上肇、ついで福本和夫の影響をより多く受けた学生たちが会の主流を占めるようになり、全体として左傾化が進んだ。
http://brief-comment.com/blog/wp-content/uploads/2014/07/toudaisinjinkai-400x258.jpg 司馬さんは、「吉野作造らの指導のもとに創設され」たと書かれているが、吉野自身は学生の政治実践への参加に否定的であったといわれる。
▽吉野作造(明治11年 - 昭和8年)
宮城県志田郡大柿村96番地(現・大崎市古川十日町)に木綿織物の原料を扱う糸綿商吉野屋に生まれた。
http://livedoor.blogimg.jp/hirohiko24-bokepuri/imgs/e/e/ee5fba7a.jpg 新人会の歴史的役割は、1920年代・1930年代における知識人層への社会主義・マルクス主義の浸透を媒介した点にある。
新人会以前の社会主義者は、自由民権運動以来の影響もあって、一般からは概ね「壮士」あるいは「アウトロー」というイメージでとらえられることが多かった。
しかし、国家官僚・エリートを養成する機関である東大法学部から新人会が生まれてきた事実は、社会主義者のステータスを一躍向上させることに貢献した。また「マルクスボーイ」が当時の流行語になるなど、知的流行の面でも一世を風靡した。 ▽「ヴ・ナロード」(人民の中へ)
新人会は、講演会・地方遊説などによる全国的オルグ(組織活動)を進めて各地の大学・専門学校の学生を新思想へと結集させた。
また「ヴ・ナロード」(人民の中へ)の旗印のもと、工場地帯や労働者街に生活して、労働者への啓蒙活動を精力的に進めた。
しかし、昭和3年、全国で多数の共産党員が一斉検挙される三・一五事件が起こると、これをきっかけに東大当局は新人会の解散を決議し、これ以後新人会は地下活動へ入っていくことになった。翌年11月22日、新人会は日本共産青年同盟への発展的解消を宣言して正式に解散した。 ▽亀井勝一郎
明治40年 - 昭和41年。昭和期の文芸評論家。
北海道函館区(現・函館市)元町で生まれる。旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)から旧制山形高等学校(現・山形大学)経て、大正15年に東京帝国大学文学部美学科に入学。
昭和2年には「新人会」会員となりマルクス・レーニンに傾倒した。共産主義青年同盟に加わり、翌昭和3年には退学する。
同年4月20日には治安維持法違反の疑いにより札幌で逮捕され、市ヶ谷刑務所と豊多摩刑務所に投獄され、昭和5年10月1日に転向上申書を提出し、10月7日に保釈される。
https://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/23007001103.jpg ▽福本イズム
福本和夫(明治27年 - 昭和58年)
戦前期の日本共産党の幹部となり、その理論的指導者として活躍した。
鳥取県久米郡下北条村(現東伯郡北栄町)に生まれる。旧制倉吉中学校、旧制第一高等学校を経て、大正9年東京帝国大学法学部を卒業。
福本は山川イズムを「経済運動と政治運動との相違を明確にしない“折衷主義”であり、“組合主義”である」と批判し、運動を政治闘争に発展させるためには、理論闘争によって、労働者の外部からマルクス主義意識を注入する先鋭な前衛党による理論闘争と政治闘争が必要であると説いた。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/029/83/N000/000/000/120031673521316401877.JPG ▽セツルメント活動(settlement)
原義は住居を定めて身を落ち着けること。定住。
転じて、インテリゲンチャや学生が、労働者街・スラムに定住して〔>>654〕、労働者・貧困者との人格的接触を通して援助を与え、自力による生活の向上、社会的活動への参加を行わせるための活動のことをいう。隣保事業ともいう。 ▽ノンシャラン(仏語:nonchalant)
無頓着でのんきなさま。なげやりなさま。「ノンシャランな性格」
ノンシャランにはどこか頽廃的なニュアンスも感じとれなくはない。しかし、頽廃を思わせる若者の心象は、その時代の政治や社会組織の頽廃の実像を映し出しているのではあるまいか。
その鏡の奥をいま少し仔細に覗きこんでみると、ノンシャランな若者の姿勢が、状況に対する抵抗者のそれとして浮かび上がってくるのである。 ▽徴兵
戦前の日本では、徴兵年齢は20歳である。
当初は体格が標準的である甲種の国民が抽選で選ばれた場合に、「現役兵」として徴兵されるにとどまっていた。具体的にはおおよそ10人に1人から4人に1人程度であった。
「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は、兵役の義務が免除されていた。
https://pbs.twimg.com/media/CMc2gTzVAAAuWqP.jpg ▽徴兵猶予の特典
大学生・高等専門学校の生徒には、26歳まで徴兵猶予の特典があった。
しかし、満州事変〜日中戦争で兵員の不足になやんでいた政府は、昭和16年10月以降、修学年限の短縮による繰り上げ卒業の措置で兵員をおぎなった。
そして、さらなる戦局悪化による兵力不足を補うため、昭和18年10月1日、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系学生を在学途中で徴兵し出征させた(学徒出陣)。司馬さんは、この学徒出陣で満州へ渡った。
http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2015/01/19/military.jpg 長沖一は、旧制高校3年の20歳のときに(大正13年)、大阪連隊区の徴兵検査を受けた。
入営は、徴兵猶予の特典により〔>>661〕、昭和5年、26歳のときである。 ▽甲種合格
徴兵検査は、ふんどし一枚で検診され、軍医による性病検査が行われた。
徴兵検査には学力検査はなく、身長が152cm以上で身体が強健、視力がおおむね良好ならば甲種合格とされた。
現在「甲種合格」が152cmと聞くと、ずいぶん小柄と思うが、これでも明治時代は合格率がかなり低く、10人に1人か2人が合格する程度だった。 ▽小野勇
「辻馬車」の同人。のちに関西大学教授(英文学)。
長沖一と同じ年に徴兵検査を受け、第二乙種で、兵隊にとられる心配がなくなった。 やがて「辻馬車」は左傾化し休刊する。
同人の一人だった小野勇の回想記「『辻馬車』のころ」によると. 「終刊号の扉に載った橋本スミという人(本人に確かめたことはなかったが武田麟太郎の筆名だと思う)の詩が、当時のアナーキストを誹謗したものとして、編集人の宇崎祥二氏〔>>645〕が襲われた」ことに起因するという。
休刊後の昭和3年、秋田實と長沖一は東京帝国大学文学部に入学、秋田實は入学と同時に東大新人会に入会している。
つまり、昭和3年にはすでに「辻馬車」は休刊していたのだから、昭和6年に藤澤桓夫が肺病を患い大阪に帰ったために『辻馬車』の主導権が武田麟太郎に移ったのではない。>>649は、間違い。 ▽徴兵逃れ
米国で醤油1リットルを一気飲みした19歳の少年が、ナトリウムの過剰摂取で一時昏睡状態となった。
醤油の一気飲みは、一時的に肝炎と同じ症状になる。これによって体調を悪化させて徴兵検査で不合格となる手段が存在していたとされるが、実際に行うことはほとんど不可能であった。
理由は、日本の徴兵制度においては、個人の特技や健康状態から思想までが各村役場の職員に把握されており、にわかな病気はすぐに見破られたからである。
https://stat.ameba.jp/user_images/4c/16/10110199260_s.jpg ▽『上方笑芸見聞録』(昭和53年刊行)
昭和51年、長沖一の死亡後に刊行された長沖一唯一の著書。
朝日放送のPR雑誌「放送朝日」に二年間連載された。
これに、庄野英二と長沖一の対談「わが有為転変」〔>>641〕を加えたもの。
https://www.natsume-books.com/i_item/2016/05/234182.jpg 遅くなりまして申し訳ございません。長沖一さんの画像を発見いたしました。
右は浪花千栄子さんどす。
https://pbs.twimg.com/media/CE9Btp_VEAAPZiC.jpg >>604
「山姥の家」は小説なんだけど、「私の関東地図」〔>>343〕と同じように、評論随筆集に収載されているんだよね。
教育ママを揶揄する内容で、けっこう面白い。初期のユーモア小説の名残がある珍しい司馬作品。 ▽幹部候補生
昭和2年12月に一年志願兵制度を改めて幹部候補生制度が定められた。
予備役編入ための幹部候補生試験に合格すれば、徴兵期間が短縮された。
一般に兵役期間は2ヵ年であるが、幹部候補生試験に合格すれば、8ヵ月〜1年に短縮された。 ▽中隊
歩兵中隊は、将校5名、下士10名、兵卒120名、看護手1名の136名からなっていた。
中隊長……大尉 本部の諸委員(兵器・経理など)を兼務することがある。
中隊附将校……中尉・少尉3〜4名 初年兵教育掛・古兵教育掛・本部勤務・諸委員など適宜分担
人事掛……特務曹長、のちに准尉 内務掛と称することもある。
経理掛ないし給養掛……曹長 庶務掛と称することもある。
兵器掛……軍曹
被服掛……軍曹
陣営具掛……軍曹ないし伍長
内務班長……軍曹 数名(平時定員が150名程度なので、1〜5班くらいと考えられる)
内務班附……伍長 1班につき1〜2名程度 徴兵を嫌悪する感情というのは、明治初年に徴兵令による鎮台制がとられて以来、表面にあらわれなくても、たえず底に流れているものであった。
筆者の太平洋戦争末期における経験でも「人ノイヤガル軍隊ニ志願デノコル馬鹿モアル」という古くからの軍隊内部の戯れ唄が生き残っていた。 ▽詮衡
人物の適不適・能力などを調べて選び出すこと。
予備役と違い、現役の下士官候補者は、中隊長がその職責として詮衡し志願させた。 長沖一は幹部候補生試験に合格してしまったが、昭和5年の暮に除隊して後、昭和16年まで召集されることはなかった。
それも古い教育をうけた老少尉(終戦のとき41歳)を第一線に出すことなどなく、内地の留守部隊勤務だった。 >>665
宇崎祥二が結核で死亡したのが昭和5年だから〔>>645〕、休刊の原因になった武田麟太郎によるアナーキスト誹謗事件との間に、すくなくとも2年以上の時間の隔たりがある。
宇崎祥二に対する暴行と結核による死亡との間に、因果関係を認めることは困難だな。 司馬さんは、「それが直接の原因であったかどうか」と思わせぶりをしているが、関係ないね。 長沖一は昭和4年の冬の初めに伊豆の湯ヶ島へやってきた。
それから入営の日の前日まで、藤澤桓夫の看病をした。
〔藤澤桓夫「私の履歴書」日本経済新聞〕 兵役を10ヵ月つとめあげて東京へ帰った長沖一は、初年兵と内務班のいわば動物的な状況を素材として「肉体交響楽」を書いた。
「中央公論」編集長の佐藤観次郎は、満州事変勃発直前の世相へ配慮して、「肉体交響楽」の雑誌掲載を丁重に断った。 ▽佐藤観次郎
明治34年 - 昭和45年
愛知県に生まれる。旧制海城中学校、早稲田大学政治経済学部を卒業する。愛称はサトカン。
昭和5年、中央公論社に入社。昭和8年には中央公論編集長となり、検閲が激しく厳しい時代であったが、昭和11年まで務めた。
太平洋戦争中には主計大尉としてフィリピンに進駐。
昭和22年の第23回衆議院議員総選挙に愛知県第3区から出馬し、初当選。日本社会党に所属した。 >>682によると、満州事変勃発直前の時点では、サトカンはまだ編集長ではないね。 長沖一は「肉体交響楽」の原稿は「どこへ行ったかわかりまへんわ」と庄野英二に答えた。
〔長沖一×庄野英二対談「わが有為転変」……帝塚山学院の校内雑誌に所載〕 「肉体交響楽」は長沖一の死後5年経ってから、ごみ入れのような袋の中で発見された。
昭和56年、すなわちこの稿が司馬さんによって書かれた年である。 ▽戦友殿
古年次兵のことを初年兵は戦友殿と呼んだ。
江戸期から続いていた農村の封建身分制は、終戦まで消えなかった(現在でも田舎の頭の悪い年寄のなかでは続いている)。
古年次兵は庄屋の手代だった。
伝馬町の獄の牢名主だった。 ▽内務班
軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位。 >>665
「辻馬車」の同人にも、小野十三郎というアナーキー詩人がいるんだよね〔>>636〕。
武田麟太郎と小野十三郎の関係って、どんな風だったのだろう? ▽歩兵第37連隊
日露戦争では第二軍に所属し、金州・南山攻略、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加。
太平洋戦争勃発後の昭和17年3月、第二次バターン半島攻略戦に参加するため上海を出港し、15日にフィリピン・ルソン島のリンガエン湾に上陸した。
バターン半島攻略後、コレヒドール島攻略命令が下される。
昭和18年11月にパレンバンに上陸し、約2年間インドネシア・スマトラ島西海岸地区の防衛を担当する。
昭和20年2月、タイ国への転進を命じられてマレー半島に上陸し、北上してバンコクに到着。4月、更に北上してタイ・ビルマ国境の警備と防衛にあたり、同地で終戦を迎えた。
http://www.geocities.jp/bane2161/DSC001061.jpg ▽特科兵
旧陸軍で歩兵科以外の兵科の称。騎兵・砲兵・工兵・航空兵・輜重兵・憲兵など。 歩兵第37連隊は、大阪の町の者から「三七(さんしち)」という略称で呼ばれていた。 ▽T氏
大正7年生まれ。東京の美術学校を卒業する。
昭和13年に歩兵第37連隊に入営する。
昭和31年ごろ、「肉体交響楽」に書いてある奇現象を体験されたことを、司馬さんに話す。 ▽山田清太郎
芦屋市在住。長沖一と同年の昭和5年に歩兵第37連隊に入営する。
「肉体交響楽」現象は、自分の属さない別の中隊ではあったと証言した。
市の広報誌に投稿するのがお好きなようである。
http://www.city.ashiya.lg.jp/kouhou/kensaku/s60/documents/19850501.pdf ▽歩兵第8連隊
大阪鎮台・第4師団の中核部隊であった〔>>686〕。
明治の陸軍草創期からある古参の歩兵連隊で、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争、日露戦争、第一次上海事変、第2次バターン半島攻略戦等で活躍する。 「またも負けたか八連隊、それでは勲章くれんたい(九連隊)」
しかし、実際に第8連隊は特段負け戦をしておらず、大阪鎮台時代の西南の役に連隊が従事した際には明治天皇より、「戦功ご嘉賞」の詔勅を日本軍で唯一賜るという偉業を達している。
編成地と所在地は大阪ではあるが、所属する隊員には、奈良県をはじめとした近畿の各府県や徳島県など四国出身者、仕事で大阪に出て大阪で徴兵検査を受けた大阪府外出身者も含まれていた。 先のような里謡が生まれたのは、大阪人が日本中から嫌われているだけで、特に歩兵第8連隊が弱いというわけではない。 ▽大岡昇平『俘虜記』
大岡昇平が昭和23年に発表した連作小説。
作者は昭和20年1月、フィリピンのミンドロ島でアメリカ軍の攻撃を受け、病兵としてひとり山中に取り残され、意識を失って捕虜となり約1年間収容所生活を送った。その体験の記録である。
冒頭の「捉まるまで」の、なぜ自分は米兵を殺さなかったかという感情の異常に平静かつ精密な分析と、続編の俘虜収容所を戦後における日本社会の縮図とみた文明批評からなる。
兵士および俘虜としての自己の行動と意識について厳密な考察が加えられると同時に、俘虜たちの生態と人間性とが活写され、収容所の生活が占領下の日本の社会を暗示するように描き出されている。
https://pbs.twimg.com/media/DCghKQhUMAAGH-n.jpg ▽野間宏『真空地帯』(昭和27年)
人間を非人間的な兵士に変えていく真空地帯、すなわち軍隊内務班を舞台に旧軍隊と戦争の本質に挑んだ反戦小説。
陸軍刑務所から内務班に戻った木谷一等兵は、自分を窃盗の罪に陥れた真犯人を追及していく。インテリである曽田一等兵は軍隊内秩序に反抗的な木谷に関心をもって見守る。木谷の探索の過程でやがて内務班の現実、軍事法廷、陸軍刑務所の実態が明らかになっていく。
司馬さんは、主人公の属する連隊は、歩兵第37連隊ではないかと述べられている。
http://www.asahi-net.or.jp/~hi2h-ikd/film/morisakidata/bookshinkuu.JPG ▽ヘミングウェイ『武器よさらば』(1929年発表)
第一次世界大戦中イタリア兵に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーだが、イタリア軍は理想とはかけ離れていた。
その戦場で看護婦キャサリン・バークレイと出会う。初めは遊びのつもりの恋であったが、しだいに二人は深く愛し合うようになった。やがてキャサリンの妊娠が分かり、二人はスイスへと逃亡する。
http://kineart.net/xps/uploads/webphoto/larges/m00995m4e294be30ebb6.jpg ▽堺連隊区〔>>686〕
大阪府・兵庫県・和歌山県の一部の徴兵・召集等の兵事事務を取り扱った。
歩兵第37連隊の連隊区。 ▽与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。 明治11年に与謝野晶子は堺・駿河屋の主人であった鳳宗七とつねの三女として誕生し、子供時代には店と手伝っていたといわれている。
http://www.kansai.gr.jp/ja/images/information/image_kn_id13485_v2012_n20120601_001.jpg
駿河屋は、室町時代中期(1461年)に、山城国伏見九郷の里舟戸の庄(現在の京都市伏見区)に、初代岡本善右衛門が「鶴屋」の屋号で、饅頭処を開いたのが始まりである。
五代目岡本善右衛門が、1589年(天正17年)に煉羊羹を作り豊臣秀吉に献上、聚楽第で秀吉が開いた大茶会で鶴屋のようかんが引き出物として配られて諸大名の賞賛を受けたと云われている。
これが「煉羊羹」の始まりとされている。
http://sanjo-surugaya.com/img/yokan/images/main.jpg ▽兵長
日本陸軍の兵長は、昭和15年9月に新設された。
二等兵は内地で教育中のことが多いので、戦地にある兵卒はそれまで上等兵と一等兵のみであるのが原則であった。
ところが、日中戦争の長期化に伴い、現役満期(通常の陸軍徴兵は当時2年)即日再召集される場合が増加し、古参一等兵や古参上等兵が増加し、人事運用上の不都合が生じるようになっていった。そこで、上等兵の上に兵長を設けることとなった。
https://pbs.twimg.com/media/C1eP428UoAE3G_b.jpg ▽伍長勤務上等兵
略称は「伍勤」。
兵でありながら下士官と同じ勤務に付いた。たとえば週番下士官や将校集会所当番長などである。
同じ兵の身分でありながら特別扱いをされる「伍勤」には同年兵からの嫉妬もあり、「生意気」と反発される事も多かったようである。
ナッチョラン節に「下士官のそば行きゃ メンコ(飯盒のふた部分)臭い 伍長勤務は生意気で 粋な上等兵にャ金が無い 可愛い新兵さんにゃ 暇が無い」と歌われている。 ▽下士官勤務兵長
昭和15年9月に兵長の階級〔>>708〕が新設されるに伴い、伍長勤務上等兵制度は廃止となった。
もっとも、下士官の不足は継続したので、伍長勤務上等兵に相当する下士官勤務兵長が後に設けられることとなる。
略称は「下士勤」。 明治初期の士族一般の感情としては、鎮台兵にとられて、土民とともに上等兵にこきしごかれるなどは、一つの屈辱であった。
この感情は、明治中期以後ようやく厚い層をなす知識人にひきつがれた。
http://livedoor.blogimg.jp/splash1801/imgs/6/2/62fc5951.jpg ▽溶闇〈ようあん〉
あまり使わない熟語だ。「溶暗〈ようあん〉」なら、たまに見かける。
舞台照明の用語。照明の照度を次第に絞っていって舞台を完全に暗闇にする操作。
http://ryuichiro-n.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/12/27/tensyu3.jpg −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
俺様用しおり
∧_∧
( ´∀`)< これで「評論随筆集−第50巻−」は終了です。
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Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 【昭和48年(1973年)】50歳
1月 『国盗り物語』をNHKで12月まで放映。
1月 『空海の風景』(中央公論)連載開始
2月 『街道をゆく(三)』刊行
4月 ベトナムへ取材旅行
4月 『人間の集団について』(サンケイ新聞)連載開始
5月 『播磨灘物語』(読売新聞)連載開始
8月 モンゴルへ取材旅行
10月 対談集『歴史を考える』刊行
10月 『覇王の家』刊行 筆者は昭和48年に初めて司馬作品を読んだ。『国盗り物語』である。
大河ドラマの放送の前か後かは忘れた。
時代劇もアニメヒーローも勧善懲悪が主流だったから、松波庄九郎のキャラは衝撃的だった。 1/27 ベトナム和平協定調印。
2/05 東京・渋谷のコインロッカーから嬰児の死体発見。類似の事件続出。
2/14 円の変動相場制移行。
7/20 カンフー映画のブルース・リー、香港で急死。
8/08 韓国前大統領候補・金大中、東京のホテルから強制連行、行方不明(13日ソウルで所在判明)。
10/23 江崎玲於奈、ノーベル物理学賞受賞。
10/25 オイルショック。国際石油資本5社、日本への原油供給約10%減を通知。
10/31 尼崎市でトイレットペーパー・パニック。以後各地で買い占め騒動。 トイレットペーパーに群がる大人を見て、大人というのは馬鹿だと悟った時期であった。 学生街の喫茶店 / ガロ
色づく街 / 南沙織
心の旅 / チューリップ
恋する夏の日 / 天地真理
赤い風船 / 浅田美代子
草原の輝き / アグネス・チャン
個人授業 / フィンガー5
赤とんぼの唄 / あのねのね
他人の関係 / 金井克子
そして、神戸 / 内山田洋とクールファイブ
情熱の嵐 / 西城秀樹
同棲時代 / 大信田礼子
おきざりにした悲しみは / よしだたくろう
紙風船 / 赤い鳥
絹の靴下 / 夏木マリ
狙いうち / 山本リンダ
街の灯り / 堺正章
たどりついたらいつも雨ふり / モップス 【昭和49年(1974年)】51歳
1月 『街道をゆく(四)』刊行
5月 『歴史の中の日本』刊行
10月 『歴史と視点』刊行
10月 『街道をゆく(五)』刊行 1/15 「軍艦島」が閉山。長崎県の三菱石炭鉱業高島鉱業所端島炭鉱が採炭を中止。
3/07 日本テレビ「ユリ・ゲラーの超能力」放映。反響の電話殺到し電話局の交換機パンク。
3/12 フィリピン・ルパング島で救出された元日本兵小野田寛郎、帰国。
5/15 東京・江東区にセブン・イレブン一号店開店。
8/30 束京・丸の内で三菱重工ビル爆破事件。8人死亡、376人負傷(一味の連続企業爆破は12件)。
10/14 巨人軍、長島茂雄引退。
10/22 立花隆「田中角栄研究−その金脈と人脈」(「文聾春秋」11月号)の田中金脈問題につき、田中首相、外人記者クラブで釈明。
11/26 田中首相、退陣表明。
12/09 三木武夫内閣成立。
12/18 岡山県水島コンビナートの三菱製油所から重油流失。沿岸漁民ら70億円の被害。 宇宙戦艦ヤマト(日本テレビ)に夢中になっていた時期。 〔追悼〕
7/25 花菱アチャコ 77歳 (漫才師) 【昭和50年(1975年)】52歳
5月 中国へ旅行。
5月 『街道をゆく(六)』刊行
10月 『余話として』刊行
12月 『鬼灯ー摂津守の叛乱』刊行
12月 『翔ぶが如く(一)』刊行 ……翌年12月の七巻で完結 3/10 山陽新幹線、博多まで開通。
4/30 南ベトナムのサイゴン政府降伏。ベトナム戦争終結。
6/28 日本リクルートセンター(現・リクルート)が「就職情報」創刊。
7/19 沖縄国際海洋博覧会開催(〜51/1.18)。
10/15 広島カープが巨人に4-0で勝ち、球団創設26年目にしてリーグ初優勝。 【昭和51年(1976年)】53歳
3月 『街道をゆく(七)』刊行
4月 オーストラリア旅行
8月 対談集『土地と日本人』刊行
9月 『木曜島の夜会』初出
10月 『長安から北京へ』
11月 『胡蝶の夢』(朝日新聞)連載開始 1/06 京都・平安神官の殿舎など全焼。
1/20 大和運輸(現・ヤマト運輸)が「宅急便」のサービスを開始。
1/31 鹿児島で日本初の五つ子誕生。
2/04 第12回冬季オリンピック・インスブルック大会。日本は65人参加。
2/06 米上院外交委多国籍企業小委公聴会、ロッキード社が航空機販売にからみ日本政府に巨額の工作資金を流したと暴露。
5/09 植村直己、1万2000キロの北極圏単独犬ゾリ横断を達成。 6/27 アントニオ猪木の、格闘技世界一決定戦と銘打ったプロボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメッド・アリへの挑戦は、TV視聴率も50%超える等人気は上々だったが、「今世紀最大の退屈試合」と評された。
7/17 第21回オリンピック・モントリオール大会。
7/27 田中角栄前首相逮捕(8.16起訴)。
8/25 ピンク・レディーが『ペッパー警部』でデビュー。
9/09 日本ビクター、VHSビデオを発売と発表。
12/24 福田越夫内閣成立。 【昭和52年(1977年)】54歳
1月 「漢の風 楚の雨」(小説新潮)連載開始……改題『項羽と劉邦』
3月 『街道をゆく(八)』刊行
4月 小田実対談『天下大乱を生きる』
11月 中国へ旅行
11月 『街道をゆく(九)』刊行 4/17 成田空港反対同盟の鉄塔撤去反対集会に2万3500人参加。
5/02 大学入試センター発足。
6/01 タバコの「マイルドセブン」発売。
7/17 キャンディーズ、普通の女の子にと引退宣言。
8/16 エルビス・プレスリー死去。四二歳。
9/03 王貞治選手(巨人)、通算756号ホームラン(世界最高記録)。
9/28 日本赤軍、日航機をハイジャック。ダッカ空港で同志の釈放と身代金要求。
11/22 プロ野球ドラフト会議でクラウンライターが江川卓を指名 【昭和53年(1978年)】55歳
3月 陳舜臣『対談 中国を考える』刊行
4月 山崎正和対談『日本人の内と外』刊行
8月 井上靖共著『西域をゆく』刊行
10月 対談集『日本語と日本人』刊行
11月 『街道をゆく(十)』刊行 1/19 「ザ・ベストテン」放送開始。司会は黒柳徹子と久米宏。
3/26 過激派学生、成田空港管制塔に乱入、機器破壊(開港延期に)。
4/05 東京・池袋の巣鴨刑務所跡地に新都市開発センターの「サンシャイン60」が完成。
5/20 新東京国際空港(成田)開港。
6/24 G・ルーカス監督の映画「スターウォーズ」封切(初めて一般入場料が1500円に)。
6/25 サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でデビュー。
7/19 栗栖統幕議長、「有事の際には超法規的措置をとる」と発言、問題化 (28日更迭)
9/00 東京・渋谷に「東急ハンズ」がオープン。
11/21 巨人、"空自の1日"に江川卓投手と突如契約。22日阪神、ドラフトで江川指名。
12/05 日米農産物交渉妥結(牛肉・オレンジの輸入枠拡大。米、自由化時期明示の要求は撤回)。
12/07 第一次大平正芳内閣成立。
12/28 俳優・田宮二郎が東京元麻布の自宅2階寝室で猟銃の引き金に足指をかけ発射自殺。 【昭和54年(1979年)】56歳
4月 中国へ旅行
4月 『菜の花の沖』(サンケイ新聞)連載開始
8月 『ひとびとの跫音』(中央公論)連載開始
9月 『街道をゆく(十一)』刊行
9月 『古往今来』刊行 1/04 米証券取引委、ダグラス社についでグラマン社の海外不正支払いの報告書公表。
1/13 国公立大で初の共通一次試験実施。
1/17 国際石油資本(メジャー)が対日原油供給の削減を通告、第2次オイルショックが起こる。
1/31 江川卓、阪神と入団契約、即日、巨人の小林繁とのトレード成立。
3/28 アメリカ・ペンシルベニア州のスリーマイル島で原発事故発生。 7/01 ソニー「ウォークマン」第1号を発売。発売以来1億6000万台という驚異的ベストセラーに。
7/11 東名高速日本坂トンネルで玉突き衝突。置き去りの車173台延焼、7人死亡。
10/26 朴正煕韓国大統領、側近に射殺される。
●世相 インベーダーゲーム大流行 【昭和55年(1980年)】57歳
7月 中国西域へ旅行
8月 対談集『日本人の顔』刊行
9月 『街道をゆく(十二)』刊行
11月 『歴史の世界から』刊行 1/16 ポール・マッカートニー、成田空港で大麻所持の現行犯逮捕
3/06 早大商学部の入試問題漏洩が判明(8日大学職員ら逮捕)。
3/06 ロッキード事件の公判で、小佐野の受領金が浜田幸一自民党代議士のラスベガス賭博の借金返済に使われたことを検察が指摘。
4/01 松田聖子『裸足の季節』でデビュー。
4/01 大塚製薬「ポカリスエット」発売。スポーツドリンクの先駆け。 5/01 犯罪被害者等給付金支給法公布。
5/24 JOC総会、採決でモスクワ・オリンピック不参加を決定。
6/12 大平首相死去。伊東官房長官、首相臨時代理に就任。
7/03 53年以来集団失跡の「イエスの方舟」26人、熱海で発見。
7/15 牛丼の吉野屋が倒産、負債総額122億円。 7/17 鈴木善幸内閣成立。
7/24 航空機疑惑判決、日商岩井・海部被告に有罪判決。
7/25 ハンガリーのルービック教授が教材用に考案した立体パズル「ルービックキューブ」が日本上陸
9/11 埼玉県所沢の芙蓉会富士見産婦人科の乱診・乱療が判明。
11/04 巨人軍の王貞治、現役引退を発表。
11/29 川崎市で予備校生・一柳展也、就寝中の両親を金属バットで撲殺。
12/08 ジョン・レノンがニューヨークの自宅前で射殺される。 【昭和56年(1981年)】58歳
4月 『街道をゆく(十三)』刊行
5月 中国へ旅行
5月 林屋辰三郎対談『歴史の夜咄』刊行
6月 『街道をゆく(十四)』刊行
7月 『街道をゆく(十五)』刊行
11月 『街道をゆく(十六)』刊行 1/20 ロナルド・レーガンが第40代米大統領に就任。
2/02 日本旅行業協会、「買春ツアー」を企画した日本エアー・ツーリストの除名を決定。
3/02 中国残留孤児47人、初の正式来日。
3/20 神戸ポートアイランド博覧会開幕(〜9.15)。
3/31 ピンク・レディー、解散公演。
6/15 パリ警視庁、日本人留学生をオランダ人女性留学生殺害容疑で逮捕(死体切断・肉片を食したとして話題に)。 6/17 東京・深川で通行人4人を刺殺、1人を人質に籠城の川俣軍司、7時間後に逮捕。
7/29 イギリスのチャールズ皇太子がダイアナ・スペンサー嬢と結婚。
8/22 台湾・達東航空の旅客機が台北の南西で墜落。作家の向田邦子ら日本人18人を含む乗客乗員110人が死亡。
9/05 三和銀行大阪茨木支店行員伊藤素子の1億3000万円詐取(3.25)判明
10/16 北炭夕張新鉱でガス突出事故。93人死亡。 10/28 ロッキード事件丸紅ルート公判で榎本三恵子、田中被告の五億円受領を裏づける証言(蜂の一刺し)。
11/18 ロサンゼルスで三浦和義の妻・一美が打たれ、現金強奪される。
12/01 バイオリニスト・海野義雄(東京芸大教授)、芸大の楽器納入をめぐる収賄容疑で逮捕。
●世相 ツッパリ子ネコ「なめネコ」大人気/ノーパン喫茶全盛/サントリー「ウーロン茶」発売 【昭和57年(1982年)】59歳
3月 『街道をゆく(十七)』刊行
6月 『箱根の坂』(読売新聞)連載開始
7月 『街道をゆく(十八)』刊行
9月 スペイン・ポルトガル旅行
10月 『街道をゆく(十九)』刊行 2/08 東京赤坂のホテル・ニュージャパンで火災。33人死亡。
2/09 日航機、羽田空港着陸直前海中に墜落。24人死亡。(28日警視庁、異常操縦による事故と断定。機長の精神鑑定を決定)。
4/01 500円硬貨発行。
6/16 厚生省が、コーラなどの清涼飲料水の容器にPET(ポリエチレン・テレフタレート)の使用を認可する。ペットボトル誕生。
6/23 東北新幹線(大宮〜盛岡間)開業。 6/26 新聞各紙、文部省の教科書検定結果を報告。「侵略」を「進出」にするなど問題に
8/31 国内電機メーカー9社がCDプレーヤーを一斉に発表。
10/18 岡田茂前三越社長を通じ商品納入独占の竹久みち、脱税容疑で逮捕
12/12 戸塚ヨットスクールで訓練中の中学生が死亡(15日、愛知県警が同校を捜索)。
12/23 電電公社、初のカード式公衆電話を設置。 【昭和58年(1983年)】60歳
1月 『街道をゆく(二十)』刊行
5月 『街道をゆく(二十一)』刊行
7月 山村雄一対談『人間について』刊行
10月 韓国へ旅行 4/02 「オールナイトフジ」放送開始。現役女子大生「オールナイターズ」が人気に。
4/04 NHK朝の連続テレビ小説で『おしん』が放送開始。
4/15 東京ディズニーランド開園。
6/13 訓練生の死亡・行方不明など、しごき訓練が問題となっていた戸塚ヨットスクールの校長・戸塚宏、傷害致死容疑で逮捕。
6/26 第13回参議院議員選挙。全国区は初の比例代表制。
9/01 大韓航空機、サハリン上陸で「領空侵犯」としてソ連戦闘機により撃墜(乗客乗員269人全員死亡)。 谷沢永一×司馬遼太郎『司馬文学の根底にあるもの』
★『街道をゆく』
初めのうちは旅行印象記といいますか、淡い日本画みたいなものだったんですが、次第に油絵になってゆき、アブストラクトやシュールじみてきたわけで、書き続けるうち、その土地ならその土地で、自分が感じている大テーマを書こうと、懐中電灯でいえば電池を入れなおした時期があり、これがおっしゃるところの最初のうねりになったんだと思います。 ▽ポール・ヴァレリー
1871年 - 1945年。フランスの作家、詩人、評論家。
多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。
1871年、地中海沿岸の港町セットに生まれる。母ファニーはトリエステ生まれのイタリア人。ちなみに同年の7月には『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストが生まれている。
「分析的精神を分析することは不可能である」
http://meigen.keiziban-jp.com/wp-content/uploads/2016/10/va.jpg 〔司馬〕インタビューで「どういったタイプの女性がお好きですか」というような質問をうけることがありまして、質問者の方は具体的な女優さんの名前を挙げて答えてほしいようなのですが、そうしますと、具体的に誰とセックスしたいですかと訊かれているような気がして、私などは赤面してしまうわけです。
当たり障りのないお答えをしようと思って「ミニスカートで自転車に乗って信号待ちをしているタイプですかな」と答えたりすると、「えっ?」っていう表情をされるんですな。それからはまるで変態扱いでして……。
〔谷沢〕日本語というのは、たいへんむつかしいものですね。
〔司馬〕そのとおりなんです。 ▽シュール
シュールレアリスム。超現実主義。
理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。
ダダイスムを継承しつつ、フロイトの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの「シュールレアリスム宣言」に始まる。
画家のダリ、キリコ、エルンスト、詩人のアラゴン、エリュアール、滝口修造らが有名。
*ダリ http://arthiro.net/wp-content/uploads/2016/11/dali02.jpg
*キリコ http://pds.exblog.jp/pds/1/200602/05/53/b0053453_16512229.gif
*エルンスト https://publicdomainreview.org/wp-content/uploads/2017/10/surreal.jpg ▼ダダイスム
1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことである。
第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する否定・攻撃・破壊といった思想を大きな特徴とする。
1924年にはダダから離脱したブルトン派によるシュールレアリスム宣言と前後してダダイスムは勢いを失った。
1945年頃、シュールレアリスムも終息した。
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91XqIVsPM-L._SX450_.jpg
https://e.snmc.io/lk/l/l/62345e2ebed1a918ce12c845c60489a7/2451222.jpg ★地理的条件の重要性
戦前までは、歴史学にかぎらず、過去を考えるときに、地理的な条件を軽視しておりましたですね。戦後になって京都大学系の人たちの手で、地理的条件を重くみて歴史的事件を解明しようという大きな変化のきざしが現れてきた。
これが『街道をゆく』に受け継がれて、ここで歴史と地理がみごとに融合されたといえる。 ★解明できない権力の構造
権力のもとで出世するにはどうしたらいいか、といった権力の描き方をした人はくさるほどいますが、権力とはこういうものなんだぞ、被害を受けるなよ、という発想で権力を書いた人は司馬さんが初めてなんです。 ★「神話」の裏にひそむもの
日露戦争以後、さまざまな軍部の腐敗に対して、乃木崇拝はそれを排除しようとするエネルギーにはなったのでしょうが、彼を持ち上げた人たちによって、軍人としての能力云々よりも、すべて人格論になってゆくんですね。これが昭和になると軍人崇拝につながってゆく。 三島由紀夫さんといえば、あのひとは私の思想が嫌いだったようです。
あるところで、「司馬さんの書く人物はおもしろいが、あの人の歴史の見方は嫌いだ」という意味のことを言っていましたが。 ★文学論は苦手
たしかに文学論アレルギーというか、文学青年ぎらいというのは十八、九からありましてね。学生時代から文学サークルには近づいたことがない。
あのサークルの雰囲気はなんというか、醋酸〈酢酸〉の漂うなかを、地面にガラスの破片を撒いて、裸足で歩くといったような……(笑)。 いわゆる文学青年は、どうしたら小説というものは書けるのか、小説とはどういう形のものか、という方法論から必ず入ってゆくのですね。そして何かの真似をする。既成のものをちょっとひねってみる。99%がそういう泥沼へ入っていってしまう。 ★無私でないと書けない
作品のなかで、日本の社会はこうすべきだというナマなテーゼは出されていないんですけれども、よく読んでいくと、なるほど日本はこういう方向へ行った方がいいんだな、という示唆を得るんですね。
しかも、読者が無意識のうちに自分でそれを考えついたかのような錯覚をもってしまう。これは作家として悪魔的ともいえるみごとな手腕といえるんじゃないでしょうか。 ★方法論からの出発は不毛
いわゆる純文学といわれているものは、むろん例外はあるにしても、生身の手で書いてないんですね。両手を切り落として、精巧な義手をつけ、その機械的力学によって書いているというか……。
描き方のパターンが重要であって、今度、こういう手を発見したから、これを読んでくれよ、といった調子なんです。 ▽ポール・セザンヌ
1839年 - 1906年。フランスの画家。
当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。
ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
http://mmms.me/wp/wp-content/uploads/2017/04/20f803bf0d40ccd6821714b45c93f171.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kokinora/imgs/e/3/e3d349c5-s.jpg ▽スポイル〈Spoil〉
台無しにすること。(人間を)だめにすること。
やる気が失せたりモチベーションが下がること、本来の能力が発揮できない場合などに、原因を他に求めて、「スポイルされた」 といった使い方をする場合もあります。「親の過保護が子供をスポイルする」 ▽自然主義文学
文学で、理想化を行わず、醜悪なものを避けず、現実をありのままに描写しようとする立場。
自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する。
19世紀後半、自然科学の影響のもとにフランスを中心に興ったもので、人間を社会環境や生理学的根拠に条件づけられるものとしてとらえたゾラなどが代表的。
日本では明治30年代にもたらされ、島崎藤村・田山花袋・徳田秋声・正宗白鳥らが代表。 権力とは何かとか社会とはいかなるものかなど、きまじめに考える人は、自然主義文学の世界ではバカだといわれるんです。 日本の文豪から歴史や社会や人生について教わったことはまったくない。 ▽横光利一『旅愁』
横光利一が1937年から敗戦直後まで書き継いで結局未完に終わった長編小説。
シベリア経由でヨーロッパから日本に戻った矢代耕一郎は、パリで一度は断念した心寄せる宇佐美千鶴子と再会をする。
日本の伝統を求めて歴史を遡り“古神道”に行き至った矢代は、カソリックの千鶴子との間の文化的断層に惑う。
主人公の矢代はとにかく受動的で、優柔不断な男である。しかも思索癖が強い。そのためか、千鶴子との恋愛も実にもどかしく、現代の読者にはやきもきさせられるところが実に多い。
司馬さんは、知性の敗北と切り捨てている。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/shinju-oonuki/20070301/20070301193311.jpg ▽横光利一『機械』
昭和5年、雑誌『改造』9月号に掲載された。
あるネームプレート製作所で働く「私」の心理を通して、そこで起った作業員同士の疑心暗鬼と諍いから重大な結末に至るまでの経過を独白する物語。段落や句読点のきわめて少ない独特のメカニックな文体で、機械のように連動する複雑な人間心理の絡み合いが精緻に描かれ、一つの抽象的な「詩的宇宙」が形成されている。
一人称の「私」以外の「四人称」の「私」の視点を用いて、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現しようと試みた実験小説である。
http://merlot.wul.waseda.ac.jp/sobun/y/yo005/yo005a04.jpg >>774
「知性の敗北」とは、古神道でいう幣帛(へいはく)が数学の集合論の概念に類似しているという件であろうか。
作家は本を読んだらだめという自然主義以来の行者の作法が、日本の文学界にはあった。 予告では引き続き「北斗の人」の予定であったが〈>>1〉、しばらく全集を離れて、全集に未収載の短篇小説を紙幅の許す限りやる。
まずは「一夜官女」。 薄田隼人正兼相が、五月六日早暁、軍兵四百をひきいて河内道明寺付近に進出した東軍の水野勝成、伊達政宗、松平忠明の諸隊とたたかい、鬼人のはたらきをしたあげく、水野勝成の馬廻りの士河村新八らに首を授けた、といううわさを小若が聞いたのは、ちょうど屋敷の庭の栃の花が、前夜の嵐ではげしく地に散り布いた朝のことであった。 〔初出〕
「講談倶楽部」昭和37年2月号
司馬遼太郎『一夜官女』(東方社 / 昭和37年3月刊)
中公文庫『一夜官女〔改版〕』(平成7年5月発行) 初期の司馬作品に登場する女は、男に一目惚れして、すぐにやらせてくれる女ばかりだ。 そうでないと、枚数の少ない短篇小説に収まらないからな。 人生は長いようで短いから、手間暇かけずにすぐにやらせてくれる方がいい。 【一】摂津野里村
▽中津川
その昔、中津川は北長柄付近で淀川と分かれ、曲折しながら大阪湾へと流れていました。吾君川 (あぎがわ) とも呼ばれた古い歴史をもつ川です。
北長柄村、本庄村あたりでは名柄川 (ながらがわ)、下って野里村では野里川とも呼ばれ、さらに下流域では正蓮寺川、六軒家川となって大阪湾へと注いでいました。
中津川はなぜなくなったのか。明治29年 (1896)、廃川が決定。新淀川開削のため、中津川のほとんどが埋めたてられました。現在の地図上には存在しない幻の川です。
http://blog-imgs-12.fc2.com/a/t/a/atamatote/1909.jpg 二行目で、海嘯〔>>696〕、すなわち満潮の際、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になり、砕けながら川上に進む現象の具体的描写が、司馬さんによってなされている。 適当な役名を思いつかないときは、とりあえず「小若」にするのが司馬史観。 小若は野里(大阪市西淀川区野里)から西の方に大坂城の天守閣を見ている。
残念ながら、大坂城は東にある。 ▽弥兵衛
姫路の医家下沢了庵の用人。以前は武家奉公をしていた。
小若の旅の供をする。 ▽油屋治郎八
野里村に一軒しかない旅籠。
中国街道の脇道として賑わいをみせた尼崎道。この道は中津川・神崎川・左門殿川を渡し舟で渡り尼崎城下に通じる近道でした。
「野里の渡し」は中津川の渡し場で、明治9年この地に「かしわの橋」が架けられるまで賑わいました。淀川の開削により中津川は埋め立てられ「かしわの橋」は、その使命を終えました。
http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/cmsfiles/contents/0000001/1002/pic09.jpg ▽野里の一夜官女……大阪府指定民俗文化財(昭和47年3月31日指定)江戸時代・元禄以前。
『摂津名所図会』に「この里の民家より十二、三ばかりの女子に女裳を改め神供を備ふ。これを野里の一夜官女といふ」とある。
風水害と悪疫で「泣き村」と呼ばれた野里は、毎年子女を1月20日丑三ツ時に唐櫃に入れて人身御供とした。
これを岩見重太郎が大きな「?々」を退治して救ったと伝え、村の災厄除けの祭りとして今に伝える。
明治40年(1907年)より2月20日に改められた。
https://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/02729000317.jpg
http://blog-imgs-86.fc2.com/k/n/t/kntryk/20160219132749cb0.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ByYnNuhCMAArvZ_.jpg >>798
「?々」になってしまったな。狒々(ヒヒ)だ。 神饌を入れる桶は元禄15年(1702年)に作成されたもの。
三善貞司は「大蛇退治から狒々に変わったのは、明治44年(1911年)刊の加藤玉秀『石見重太郎』(立川文庫)から」と指摘している。 >>791
「風神の門」の小若は、AV女優のようにやりまくっていたな。 〔司馬〕私たちが小説を書くときは、男性の射精の瞬間を「ピッ」とか「ドピュ」という擬音で表現することがあります。
〔谷沢〕「ピッ」と「ドピュ」は、よく見かけますね。
〔司馬〕しかし、現実をありのままに描写しようとする自然主義文学では、そのような擬音が使えないんですね。
〔谷沢〕自然主義文学の作家は、射精の瞬間をどのように表現するのでしょうか?
〔司馬〕無音です。 >>766
渋谷陽一も文学青年だな。
1時間の間に50回以上、方法論という言葉が出てくる。 ▽下沢閑庵
了庵の長子。小若の夫。
小若と結婚する前から、妾「ぶん」を囲っていた。
姫路城主池田輝政の典医となる。 ▽紀州橋本
小若の故郷。
伊勢街道と高野街道とが交差する交通の要衝で、霊峰高野山への参詣口のひとつとして発展してきた。
近世においては徳川氏によって街が拡張され、地方物産の集散地が形成された。
また、農業の副業としての養蚕や機織りが盛んとなり、後の繊維業の基盤となった。
https://uub.jp/47/wakayama/wakayama_map1.png ▽丹生喜左衛門
小若の父。紀州橋本在の郷士。もちろんオリキャラ。
橋本市には丹生の滝があり、近隣の伊都郡かつらぎ町には丹生都比売神社がある。
古代から辰砂・丹砂採掘に携わっていた氏族が丹生氏で、その一族が奉じる氏神と思われるのが丹生都比売神である。 『風の武士』に出てくる「丹生津姫草子」を連想する読者もおられると思う。
安羅井国は、おそらくこの辺りにある。 ちなみに、『風の武士』が執筆されたのは、「一夜官女」執筆の直前である昭和35年3月から昭和36年2月。 物語の始まりの年は、慶長19年夏の「二、三年前」という手掛かりしかない。
物語の始まりの月は旧暦の1月であるから、慶長19年夏の「二、三年前」という印象になるのは、慶長17年(1612)1月であろう。
物語の始まりを、慶長17年(1612)1月と決定する。 姫路城主の「池田侯」というのも、池田輝政か、子の利隆かで少し悩みました。
物語の始まりが慶長17年(1612)1月であれば、池田輝政で間違いないですね。
ありがとうございました。
ちなみに、池田輝政の死没は、慶長18年1月25日。 〔谷沢〕自然主義文学者は、理想化を行わず、醜悪なものを避けず、現実をありのままに描写しようとしますので、TSUTAYAで借りてきたAVビデオの主役女優がブスであっても、それで抜いてしまうのでしょうね?
〔司馬〕そうでしょうな。 浪漫派は、インラック・シナワトラ元首相の少し太めの下半身を若干細くするという微調整を行ってマスターベーションのネタにする。
その点で、自然主義文学よりも優れている。 司馬先生、愛猫のマイちゃんが、明日にも死んでしまいそうです。 ▽小若の乳母
小若が紀州から姫路に連れてきた。
婿の閑庵が妾を囲っていることを小若におしえた。 ▽大和田街道
弥兵衛のすすめで小若が実際にたどった脇街道。
大和田街道は、尼崎に入り中国街道に合流し西宮を経て山陽道(西国街道)として下関に達する幹線道路であり、大和田街道沿いの西淀川区内の人は、この旧街道を阪神街道とも呼んでいた。 ※上福島と大和田を結ぶ紫線が大和田街道C。その北方のオレンジ線Aが梅田街道。さらに北方の赤線@が中国街道〔>>818〕。
大和田街道が尼崎への最短ルートであることがよくわかる。
http://imazukko.桜.ne.jp/kaidou/mainmap/main02osaka.jpg
↑
桜をローマ字に変換してURLを完成させてください。地図がご覧になれます。 ▼「槲の橋」碑。(西淀川区野里1-20-4前)
槲はカシワと読み、本来のカシワの字義どおりの漢字であるが、日本では「柏」の漢字が広く使われるようになっている。
槲と柏は旧字新字の関係ではなく、別字。
野里の渡し説明板には「大阪と尼崎を結ぶ大和田街道に設けられた渡し」とあるのだが、難波橋北詰、福島、海老江から西成大橋(淀川大橋)を渡り稗島(姫島)、大和田を介し尼崎旧市街東端の辰巳橋に抜けるのが大和田街道である。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/79a/227750/20170823_2402967_t.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/79a/227750/20170823_2402968_t.jpg 以上は、小女子に関する大阪流正統派語法。ここからはヴァリエーション。
明石では親イカナゴ〔>>824〕のことを「フルセ」と呼ぶ。 勘違いしてもろうては困りますだあ。あっちが食ったのは「かますご」ですらあ。 【二】旅籠油屋
▽岩見重太郎 / 薄田兼相
前半生はほとんど不明。妹に堀田一継室がいる。
豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として3000石を領したとされる。慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っている。 ▽桜井忠大夫
大坂天満で天流の道場を開く。
その門人三名が岩見重太郎をつけ狙う。
野里住吉神社の伝承に出てくる岩見重太郎に殺された狒々の役回りは、どうやらこの三人のようだ〔>>798〕。 ▽天流
斎藤伝鬼房が開いた武術流派。剣術、槍術、薙刀術、鎖鎌術、棒術、手裏剣術、取手・小具足(柔術)などを含む流派。
開祖の斎藤伝鬼房は、常陸国真壁郡井手(現・茨城県桜川市)出身。
伝鬼房は、神道流の桜井霞之助を試合で殺したことを恨まれ、1587年(天正15年)、桜井の弟子達に謀殺された。 ▽小早川家牢人
薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。
それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。
その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て、天正18年(1590年)天橋立にてついに広瀬を討ち果たした。
その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされる。 ▽天ノ橋立の仇討
天正18年(1590年)9月20日。諸国武者修行でその名を馳せた噂の剣豪・岩見重太郎が、父の仇討ちをする。
丹後宮津城主・中村一氏は、重太郎の父の仇・広瀬軍蔵を剣術指南役として召し抱えていた。
重太郎は、父・重左衛門、兄・重蔵、妹・辻の恨みを晴らすべく、諸国をめぐりながら、軍蔵とその仲間である大川八右衛門、鳴尾大学の三名を探し続け、ここ宮津で見つけた。 ▽仇討の助太刀
司馬さんは、理由はわからないが、仇討の主役は岩見重太郎ではなく、重太郎は仇討の助太刀をしたことにされている。
また、父の仇も広瀬軍蔵ではなく、広瀬の仲間の大川八右衛門〔作中では大井八左衛門に変えている〕にしている。
なお、講談では、塙団右衛門直之と後藤又兵衛基次が重太郎の助太刀をしたことになっているが、これは大うそ。 【三】油屋の小若の部屋
▽雑魚屋十右衛門
野里村の村年寄。
村年寄とは、庄屋や名主を補佐する役人。
雑魚屋十右衛門の場合、野里住吉神社の宮座(西日本に分布する神社祭祀組織)の年寄を兼ねているかもしれない。 ▽五兵衛
船大工。野里住吉神社の当屋〈とうや〉。元来は頭屋と書いた。
頭屋とは、神社の祭祀や講において神事・行事を主宰したり世話したりする人。年ごとに輪番制で交替する。
宮座の仕組が確立された14世紀頃より頭人が所属する家のことを頭屋と称して、家単位で行事に関する職務・責任を負うことが行われるようになった。 ▽そのでん〈其の伝〉
そのやり方。その考え方。「また其の伝でいこう」
「伝」というのはもともとは「伝え聞いたこと(伝聞)」。
そこから転じて「(伝え聞いた)やり方」とか「方法」などという意味で使われる。 ▽宵宮〈よみや〉
祭りの前夜に行う簡単な祭り。
元来祭祀は真夜中に重要な祭儀が行われていたが、後世になると前夜祭または翌日の準備行事とみられる例が多くなった。
よいみや。宵祭り。 ▽宮座
司馬さんは宮座=氏子総代としているが、「座」は組織のことだと思う。
頭屋制を組織原理としており、構成員のなかから多くは 1年交代で祭りの神主役や中心的な所役を務める頭屋が選ばれる〔>>839〕。 ▽二十日の夜中
この当時は、宵宮=前夜祭ではなく、真夜中に重要な祭儀を行っていた〔>>841〕。
野里村の宵宮は、旧暦の1月20日に行われていた〔>>798〕。
明治40年からは2月20日である。 >>832
岩見重太郎役は、御法川法男さんに決定ですね。 ▽人身御供〈ごくう〉
人間を神への生贄とすること。
日本では河川が度々氾濫を起こしたが、これは河川のありようを司る水神が生贄を求めるのだと考えられた。
「白羽の矢が立つ」とは、元々人身御供となる人柱を指した。白羽の矢はいわゆる匿名による指名行為であるが、これらは霊的な存在が目印として矢を送ったのだとされ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないとされた。 兵庫県西宮市の岡太神社に「一時上臈」という習俗が残っていますよ。
その年に村に嫁いできた花嫁の衣装を男が着て、「一時上臈ああ、おかし」とかけ声をかけて喝采する。
一時……すなわち、この祭の時だけ「上臈」=女として神饌を供える。以前は女性がこの役をしていたのが、やがて男性中心の頭屋制度が祭の中心となってゆき、女性の犠牲(にえ)としての役目は消えていった。
その究極の姿が人形御供となる。紀州淡島神社の人形供養も、これと同じじゃないですか?
http://bbs.jinruisi.net/blog/wp-content/uploads/%E4%B8%80%E6%99%82%E4%B8%8A%E8%87%88-thumb.jpg ▽勢至菩薩
智慧の光で生あるものはすべて救済し菩提心の種を与えるという菩薩。
観音菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍として知られています。観音菩薩は阿弥陀仏の慈悲を、勢至菩薩は知恵を表します。
力が強く足を踏み下ろすと大地が揺れるという怪力の持ち主です。
観世音に似た姿を持ちますが、宝瓶を頭の上に持ち、水瓶があるのが特徴です。 船大工の五兵衛は、「勢至観世音のご化身のような」と小若の美貌を称えているが、美貌で知られるのは観世音菩薩ではなかろうか? そもそも勢至観世音ってなんやねん?
勢至菩薩と観音菩薩の合体か? ▽産土神〈うぶすながみ〉
産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
氏神と氏子の関係が血縁を基に成立するのに対し、産土神は地縁による信仰意識に基づく。従ってその意識が強く表れるのは都市である。 大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には、岩見重太郎に関する伝承が残されている。
この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた。悩んだ村民は占いによって「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置」することにした。
6年間そのようにして続けてきた。7年目に同様の準備をしている時に岩見重太郎が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った。
翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという。 ▽腰巻姿
戦国時代、それまで高級武家夫人の正装であった袿(うちぎ)が廃れた後、武家女性は威儀を正すためと防寒のために上から打掛を羽織るようになった。
しかし夏場は非常に暑かったため、腰の位置で打掛を紐で結び、上半身は脱ぐようになった。これが腰巻のはじまりである。
http://www.takata-courtrobe.co.jp/koshimakisugata1.jpg
※お市の方 http://inuiyouko.web.fc2.com/sirotae/j04/k41/kosimaki.jpg ▽上臈
仙洞御所や女院御所では上臈・中臈・下臈の区別が行われていたが、上臈は尚侍・典侍相当、中臈は掌侍相当、下臈は御下相当とみなされていた。
また、江戸時代の大奥の女中の役職名のひとつに、上臈御年寄がある。将軍や御台所への謁見が許される「御目見以上」の女中であり、大奥における最高位。 ▽鉄漿〈おはぐろ〉
明治時代以前の日本や中国南西部・東南アジアの風習で、主として既婚女性、まれに男性などの歯を黒く染める化粧法。
江戸時代以降は、悪臭や手間、そして老けた感じになることが、江戸時代の若い女性から敬遠されたこともあって、既婚女性、未婚でも18?20歳以上の女性及び遊女・芸妓の化粧として定着した。
農家においては祭り、結婚式、葬式、等特別な場合のみお歯黒を付けた。
明治3年2月5日、政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ(明治以降農村では一時的に普及したが)、大正時代にはほぼ完全に消えた。 ▽神饌(しんせん)
日本の神社や神棚に供える供物のこと。御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ばれる。 【五】野里住吉明神
そのとき、不意に部屋のすみで、人の動く気配がした。小若は、とび起きた。
「どなたでございます?」
「明神さ。当屋の五兵衛に銭は払っておる。脱げ。媾合う」 「私ね、覗き込んでハッとしましたよ。なにせね、大きな神棚みたいな場所に、一番上の姉さんが、白装束で立っていたのですから。その前にかしずくように鬼面の人らがいるわけなんですけどもね、そうこうしているうちに姉さんが、その装束を脱ぎ捨てて、裸になってしまったの。
するとね、鬼面たちが一斉に姉さんに群がって…私はね、まだ子供だったから、なんだか怖くなってしまって、石段を転がるようにして逃げたの。けどね、転んでしまって…そこからしばらくどうなってしまったか今でも思い出せないの」 ある郷土史家によると、かつてその集落の近くでは、不作や天候不順などが続くと、村の中から生娘をひとり選び、神の前で鬼とまぐわうという儀式が存在していたという。
仮にタエさんが見たナマハゲ風の鬼面をつけた男衆たちが「鬼」だとするならば、タエさんの姉は、もしかするとその儀式における生贄のような存在であった可能性も否定できない。 河川の叛乱や冷害で米の収穫のない年は、働き手である若者のストレスが溜まる。
神への犠牲(にえ)という名目で、生娘を差し出させ、若衆が乱交に及んでいた可能性はなくはないな。
弥兵衛老人の言うとおりだ。 司馬さんのオルガスムスの表現は、いつも「魂が離れて天上に飛び去っていたのだろう」みたいな感じです。
あまりエロ小説はお読みになっていないご様子です。 ▽当屋の十右衛門
野里住吉神社の当屋は船大工の五兵衛である〔>>839〕。
雑魚屋十右衛門は野里村の村年寄であって当屋ではない「>>838」。 こういう単なる勘違いは、校正の段階で手直ししてはダメなのか? 単純ミスというのは、作家が当該作品に割いたエネルギーを図るバロメーターになる。
物語のヤマ場を越えた直後に単純ミスがあると、読者の徒労感が噴出するな。 【六】薄田兼相
★油屋治郎八
▽尼崎街道〔>>822〕
大阪と尼崎を結ぶ最も海側の街道。
司馬さんは大和田街道〔>>819〕のことを尼崎街道と呼んでいる。 ▽そのあたりに田のある早出の百姓
桜井忠大夫門下三名の死体を発見した〔>>833〕。
彼らは岩見重太郎に返討にされた。 ★姫路
▽ぶん
小若が姫路に帰ると、夫の閑庵は妾ぶんを自宅に囲っていた。 小若と閑庵の結婚は、慶長15年(1610)のことである〔>>811〕。 ▽小早川秀秋
天正10年(1582年)、木下家定(高台院の兄)の五男として近江国の長浜に生まれる。
関ケ原戦後の論功行賞では、備前・美作・備中東半にまたがる旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。
関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日、秀詮(秀秋)は21歳で急死した。司馬さんは26歳としているが誤り。
酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が死因として最有力となっている。
秀詮の死後、小早川家は無嗣断絶により改易された。 ▽慶長19年(1614年)
大坂冬の陣のあった年。うまず女の小若は、閑庵から離縁される。 ★大坂上福島村
▽上福島村
大阪市福島区の町名。現行行政地名は福島一丁目から福島八丁目。かつては西成郡上福島村と下福島村に分かれていた。
中世初期まで淀川河口の地であったと考えられており、渡辺津の西に形成された島だった。鎌倉時代に福島荘とよばれる荘園が成立した。
戦国時代に入ると応仁の乱や大物崩れの戦場となり、1570年(元亀元年)には石山合戦の野田城・福島城の戦いが起こった。
安土桃山時代に入っても1614年(慶長19年)に大坂冬の陣の野田・福島の戦いが起こっている。 ▽天満川
かつての淀川本流であるが、淀川放水路が開削された1907年(明治40年)以降は旧川扱いとなっている。
当初「新淀川」「淀川」だった呼び分けは、次第に「淀川」「旧淀川」となったが、旧淀川は区間ごとの名称で呼ばれることが多い。
中之島より上流が大川または「天満川」、下流が安治川と呼ばれる。中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川と呼ばれる。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201104/11/63/b0113063_17481812.gif ▽土佐座
『大阪市史』 によると、豊臣期に周辺一帯に土佐藩の商人が群居した 「土佐座」 があったため、土佐堀川という名称がつけられた。 ★船場
▽丸屋源兵衛
船場本町橋東詰にある旅籠。
紀州橋本から小若を迎えに来た丹生喜左衛門〔>>807〕が宿泊していた。
偶然かもしれないが、丸屋源兵衛とは幕末〜明治時代の陶工で丸屋佐兵衛の弟である。
京都五条坂〔>>529〕に窯をきずき、佐賀の唐津焼の模作を得意とした。 ▽供の者
弥兵衛〔>>795〕は下沢了庵の用人なので、紀州橋本へは連れて帰れない。
ここでいう「供の者」は男性のようであるが、小若の乳母〔>>817〕は小若が紀州から姫路に連れてきた者であるのに、連れて帰らないのだろうか? 司馬さんは、薄田兼相は山城国の郷士の出であるとしている。 ▽薄田若狭守
1588年の聚楽第行幸時の秀吉の馬廻りメンバーのなかに、確かに薄田若狭守は存在している。 ▽御先手組
豊臣家の御先手組については、筆者にはわからない。ここでは、江戸幕府の軍制の一つとしての御先手組について説明する。
職制上は若年寄に属し、治安維持の役割を担った。
先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を務めた。平時は江戸城に配置されている各門の警備、将軍外出時の警護、江戸城下の治安維持等を務めた。
先手頭は、六位相当の布衣役で、役高1500石のほかに役扶持として60人扶持が支給された。 同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心も文官であった。
それとは対照的に御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという。
火付盗賊改方の長官は、先手頭1名が加役として兼務した。 本作品では、小若の父である丹生喜左衛門の遠い親戚に豊臣家の御先手組の者がいたため、その者を通じて小若は薄田兼相と会えることになった。 ★大坂城
▽大坂城二ノ丸
大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。
http://www.geocities.jp/qbpbd900/oosatizu1.jpg ▽玉造口
大阪城搦手口の一つで、玉造方面に向かって口を開いていることからこの名がある。
もともとは大手口、京橋口と同じく多聞櫓を備えた石塁による枡形構造で、一の門(城内側)は櫓門、二の門(城外側)は高麗門と、二つの門を備えていた。
戊辰戦争時の大火で一の門と多聞櫓は焼失し、枡形の石塁も大正年間に軍部によって大部分が撤去されている。
高麗門は戊辰戦争時には焼失を免れたが、太平洋戦争末期の空襲によって姿を消したらしい。
http://www.geocities.jp/tuatara_kazu/22/osaka-jo.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/sengokuaruko/imgs/9/c/9c7906f0.png ▽冬の陣の薄田兼相
冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯した。味方からは野田・福島の戦いで大敗した大野治胤と並び、「橙武者」との嘲りを受けた。橙(だいだい)は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。 ▽夏の陣の薄田兼相
夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。
そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。 ▼道明寺の戦い
幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、松平忠輝、伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。
5月6日午前0時、後藤基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。 午前4時、後藤は松倉重政および奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成および堀直寄が来援し、かろうじて助かった。
小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。
正午頃、約8時間の戦闘の末、後藤は戦死、後藤隊も壊滅した。 ▼誉田の戦い
このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。
薄田は自ら太刀を振るったが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退した。
そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。
伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Battle_of_Domyoji_2of2_ja.png 午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。
豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。 ▽松平忠明
天正11年(1583年)、徳川氏の重臣・奥平信昌の四男として生まれる。母は徳川家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。
慶長15年(1610年)に伊勢亀山藩5万石に加増移封された。
大坂冬の陣では美濃の諸大名を率いて河内口方面の大将となる。元々、美濃の諸将を率いるのは加納藩主の兄・忠政の役割であったが、出陣前に病没し、兵だけが忠明の指揮下に遣わされた。
大坂夏の陣では、道明寺の戦い、誉田の戦いに加わる。
戦後、大坂の陣での戦功が考慮され、家康の特命により摂津大坂藩10万石の藩主となり、戦災復興にあたった。 ▽河村新八
薄田兼相を道明寺の戦いで討ち取ったのは、この作品では水野勝成の家臣・河村重長となっている。
他に、伊達家の重臣・片倉重長の足軽である美濃部助左衛門という説もある。 >>783
短篇集『一夜官女』は、「一夜官女」「雨おんな」「女は遊べ物語」「京の刺客」「伊賀の四鬼」「侍大将の胸毛」の六作品で構成されている。
「一夜官女」以外の作品は、全集の該当箇所で取り上げる。 短篇集『一夜官女』のあとがき
家族や友人の言動は、ときに私を脅かすことがある。しかし史書のなかの人物たちは、私を感動させたり勇気づけたり哄笑させたりすることはあっても、私に危害を与えることはない。
ナマの人間ほど人間らしくないものはないと私は思っている。彼らはただ騒がしいだけで、人間のにおいが案外稀薄なものだ。ところが、史書という紙の上にだけ存在している人間のほうが、はるかに人間くさいのである。 続いて、光文社文庫『侍はこわい』のなかの「権平五千石」を取り上げる。
『侍はこわい』は、全集未収載の短篇ばかりを集めている。
全集をお持ちの読者の方には、おすすめの一冊である。 権平は三代将軍家光の寛永五年まで生き、七十歳で死んだ。五千石は、長男の権平長勝にぶじ世襲された。
この男が死ぬまでに、加藤嘉明家はその子の代になるや、幕府が待ちかねていたように口実をもうけ、領地没収。加藤清正、福島正則の家も、同然の目に遭ってつぶれ、もとも黙阿弥になった。
が、平野家は続いた。相変わらず五千石の据え置きのまま続き、幕末になって十何代目かの権平が、どういうわけか大和田原本で一万一石に加増され、徳川諸侯のうち、最も小禄の大名になった。 〔初出〕
「週刊新潮」昭和40年1月11日増大号
司馬遼太郎『侍はこわい』(光文社 / 平成17年1月刊) 【一】長浜
▽長浜
1573年(天正元年)に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。
天正3年に完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。
城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
http://livedoor.blogimg.jp/xinjie_recipe-rexi/imgs/6/f/6f70aaf1.jpg ▽平野長泰
永禄2年(1559年)- 寛永5年(1628年)
平野氏は、尾張国海東郡津島の住人となり、中島郡平野村を領したことから村名を姓とした。
父・平野長治は、元は船橋右京進と名乗り、長泰の外祖父平野萬久入道の婿養子となった人物で、長泰自身は父系としての北条氏の血筋ではなく、母系の系統に過ぎない。
※大河ドラマ『真田丸』:近藤芳正
http://blog-imgs-96.fc2.com/r/e/k/rekisiuntiku/sanadamaru1402.jpg 司馬さんの長泰は、『真田丸』の長泰とはずいぶんイメージが違いますよ。 ▽尾張津島奴野
平野権平の出身地。
鎌倉時代から木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ「津島湊」として発展した。また、全国天王信仰の中心地である「津島神社」の鳥居前町として、一時は尾張一豊かな町として知られた。その後、戦国時代に織田信定がこの地を押さえて、信長までの織田氏三代の経済的基盤が築かれた。
司馬さんは「奴原」を平野氏の領地としているが、奴野(ぬのや)の間違いではなかろうかと思う。
https://uub.jp/47/aichi/aichi_map1.png ▽加藤清正
永禄5年(1562年)、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。
母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。
羽柴秀吉の生母である大政所と母・伊都が従姉妹である関係から、天正元年(1573年)、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。
※大河ドラマ『真田丸』:新井浩文
https://storage.mantan-web.jp/images/2016/09/23/20160923dog00m200048000c/009_size6.jpg ▽福島正則
永禄4年(1561年)、桶屋を営んだ福島正信の長男として尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)で生まれる。
母が大政所の姉妹だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。禄高は200石であった。
※大河ドラマ『真田丸』:深水元基
https://storage.mantan-web.jp/images/2016/08/26/20160826dog00m200054000c/001_size6.jpg 司馬さんは、秀吉の血縁の従弟説は採用していないよ。
於市は星野成政の子で福島正信の養子になったという説だ。
秀吉の亡父・弥右衛門と市松の養父・福島正信(新左衛門)が異父同母の兄弟になるところから、義理の従弟説だね。 ▽加藤嘉明
永禄6年(1563年)、三河国幡豆郡永良郷で松平家康の家臣であった加藤教明の長男として生まれた。
生まれた年の三河一向一揆で、父が一向一揆勢に組して家康に背いて敗れて流浪の身となったため、嘉明も放浪した。
流転の後に近江国に至り、父は長浜城主・羽柴秀吉に仕えて300石を食み矢嶋郷に住んだ。 ▽城下のはやり唄
落成した長浜城に秀吉一行が入城する様子を伝えた滋賀県湖北地方に伝わる田植え唄もしくは雨乞い唄だそうで、司馬遼太郎の「新史・太閤記」にその記述があるということです。
殿の軍の 七重 八重
九重いずる御手柄 御手柄
いさみ進める 若武者の
紫あやの 母衣かけて 母衣かけて
御大将の お装束は
金糸赤地の 鎧召し 鎧召し
銀の兜の 赤紐締めさせ
朝日に輝き 海山も 海山も
御馬の先の 幟の山車は
黄金の瓢箪 ぴかぴかと ぴかぴかと
御馬の足音 高らかに
天晴れ大将 御大将 御大将 ▽平野長重
権平長泰のすぐ下の弟。権平が三男なので長重は四男。
司馬さんは長左衛門としているが、九左衛門が正しい。 ▽ひねこびる〈陳ねこびる〉
子供がませている。こましゃくれている。
元来は、「古びた様子である」という意味。 ▽娑婆っ気
俗世間の名声や利益に執着する心。この場合のシャバとは、私たちが生活しているごく普通のこの世の中を指している。
ところが、仏教語としての「娑婆」はそのような意味ではない。娑婆は「サハー」という原語の発音を漢字の音を借りて置き換えた音写語である。「サハー」には、その意味を表す「忍土」という意訳語もある。忍土とは、「苦しみを耐え忍ぶ場所」という意味である。
私たちが生活しているこの世の中は、本質的に苦しみを耐え忍ぶ場所であるというのが、仏教の世界観なのである。 【二】賤ヶ岳の七本槍
★山崎の戦い
▽中国征伐
天正5年(1577年)以降、織田信長が主として羽柴秀吉に命じておこなった毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦である。 天正5年(1577年)10月23日、秀吉は播磨国に出陣した。かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。
秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった黒田孝高より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。 天正7年(1579年)には、上月城をめぐる毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめる。しかし、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。
この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。
http://www.homenews.jp/bukouyowa/200705bukou-01.jpg 天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。
http://www14.plala.or.jp/niu_yamada/map/mikigassen.jpg
同年、再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊が籠る有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。 天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が山名豊国を追放した上で、毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い落城させた(鳥取城の戦い)。
同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。 天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。
このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙したため、信長に援軍を要請している。 ▽本能寺の変……天正10年(1582年)6月2日
▽山崎の戦い……天正10年(1582年)6月13日 >>895の章では、重太郎と小若は一回媾合っているだけですが、>>870の章では二回媾合っています。
ちゃんと二回分のエロ画像を貼っていただきたいと希望します。 ▽中川瀬兵衛
山崎の戦いの後の秀吉と中川瀬兵衛の挿話については、前スレ『歴史と視点―私の雑記帖―』「第9章 権力の神聖装飾」にも出てきた。
司馬作品の中に頻繁に登場する挿話である。 ★賤ヶ岳の戦い
▽柴田勝家
朝倉氏滅亡後、信長は朝倉旧臣・前波吉継を越前国の守護とした。しかし、同じく朝倉旧臣の富田長繁はそれに反発して土一揆を起こして前波を討ち取った。しかし、一揆勢は富田と手を切ることとし、加賀国の一向一揆の指導者である七里頼周を誘って、新たに一向一揆を起こし、動乱の中で富田は家臣に射殺され、越前は一揆持ちの国となった。
信長はこれに総軍を率いて出陣し、一向一揆を殲滅し平定した。9月、信長は勝家に越前国八郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えた。このとき簗田広正に加賀一国支配権が与えられる。しかし、信長が帰陣すると、一揆が蜂起し、小身の簗田は抑えられず尾張に戻される。 天正4年(1576年)、勝家は北陸方面軍司令官に任命され、前田利家・佐々成政・不破光治らの与力を付けられ、90年間一揆持ちだった加賀国の平定を任される。なお、従前の領地である近江国蒲生郡と居城長光寺城は収公され、蒲生賢秀、永田景弘らは与力から外されている。 天正5年(1577年)7月、越後国の上杉謙信が加賀国にまで進出してきた。この時、勝家は軍議で羽柴秀吉と衝突し、秀吉は信長の許可を得ることもなく戦線を離脱してしまい足並みが乱れる。
勝家は七尾城が陥落したため、周辺の拠点に放火しつつ退却した。退却中の9月23日、手取川で上杉軍の襲撃を受ける(手取川の戦い)。
天正6年(1578年)に謙信が死去すると、織田信忠軍の将・斎藤利治が越中中部から上杉軍を逐った。 天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた。勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進めた。
一向一揆を制圧して、天正8年(1580年)11月、ついに加賀を平定する。
さらにその勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たす。
また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置することになる。 天正10年(1582年)3月から上杉氏方の越中国の魚津城・松倉城(富山県魚津市)を攻囲していた。
本能寺の変があって信長が横死するが、これを知らぬまま6月3日に魚津城は陥落した(魚津城の戦い)。
6日の夜からただちに全軍撤退して北ノ庄城へ戻るが、上杉側が変を知り越中・能登の国衆を煽り、勝家は動けず、やっと18日に近江に出動するが、すでに中国大返しを行った秀吉の軍が光秀を討っていた。 ▼清洲会議
清洲会議で勝家は、信長の三男・織田信孝を推したが、秀吉が信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立したため、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなった。
信長の遺領配分においても、河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城を新たに得ただけで、勝家と秀吉の立場は逆転してしまった。 清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、信雄が尾張・伊賀・南伊勢、信孝が美濃を領有し、これを秀吉、勝家、丹羽長秀、池田恒興の四重臣が補佐する体制となった。 また、この会議で諸将の承諾を得て、勝家は信長の妹・お市の方と結婚している。従来は信孝の仲介とされて来たが、勝家の書状で「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とあり、勝家のお市への意向を汲んで、清洲会議の沙汰への勝家の不満の抑えもあり、秀吉が動いたと指摘されている。 清洲会議終了後、勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗する。だが秀吉は長浜城の勝家の養子の柴田勝豊を懐柔し味方に付けた。
次には岐阜の織田信孝を攻め囲んで屈服させる。
天正11年(1583年)正月、秀吉は滝川一益の北伊勢を7万の大軍で攻めるが、一益は3月まで対峙する。 ▽賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)3月12日、勝家は北近江に出兵し、北伊勢から戻った秀吉と対峙する。
4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が、伊勢の滝川一益と結び再び挙兵する。
近江、伊勢、美濃の三方面作戦を強いられることになった秀吉は、翌4月17日、美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。 秀吉の軍勢の多くが近江から離れたのを好機と見た勝家は、部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。
大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、清秀は討死。
続いて黒田孝高の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた。
盛政はさらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。
この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず何故か盛政はこれに従おうとせず、前線に軍勢を置きつづけた。
http://www.junk-word.com/img/shizugatakehaichizu2.jpg 4月20日、賤ヶ岳砦の守将・桑山重晴も撤退を開始する。盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。
しかし、その頃、船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、機は今を置いて他にないと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行したことで戦局は一変する。
長秀率いる2,000の軍勢は、撤退を開始していた桑山重晴の軍勢と合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し、間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。 ▽美濃大返し
さらに同日、大垣城にいた秀吉は、大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は、木ノ本までの丘陵地帯を含む52キロの距離をわずか5時間で移動した。
佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが奮闘。
盛政隊を直接には崩せないと判断した秀吉は、柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃対象を変更する。この勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となった。 ▼前田利家
ところが、この激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱した。
これにより後方の守りの陣形が崩れ、佐久間隊の兵の士気が下がり、柴田軍全体の士気も一気に下がった。
このため利家と対峙していた軍勢が、柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は、柴田勝家本隊に殺到した。
多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。 ▽賤ヶ岳の七本槍
脇坂安治(1554年 - 1626年)
片桐且元(1556年 - 1615年)
平野長泰(1559年 - 1628年)
福島正則(1561年 - 1624年)
加藤清正(1562年 - 1611年)
糟屋武則(1562年 - 不詳)
加藤嘉明(1563年 - 1631年) 実際に感状を得て数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。
7人というのは語呂合わせで、『一柳家記』には「先懸之衆」として七本槍以外にも石田三成や大谷吉継、一柳直盛も含めた羽柴家所属の14人の若手武将が最前線で武功を挙げたと記録されている。 福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられている。今日の研究では、清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる。
当時から「七本槍」は虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。 ▽杉原伯耆
杉原家次。享禄3年(1530年)- 天正12年(1584年)。
尾張国の生まれ。杉原家利の長男。秀吉の正室・寧々の母の兄で、伯父に当たる。
前歴は連雀商人であったというが、秀吉が長浜城主に立身出世するとその家老となった。この頃の『竹生島奉加帳』を見ると、寄進した10石というのは家臣内で家次が一番多く、すでに筆頭格であったことがわかる。 天正10年(1582年)の山崎の戦い後、秀吉によって明智光秀の丹波福知山城を与えられた。同年、甥の浅野長政(妹・七曲殿の養子)とともに京都奉行に任じられた。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後、近江国滋賀郡・高島郡などで合計3万2000石の知行を与えられ、坂本城の城主も兼ねるようになって、再び京都所司代に任じられた。 ところが、『多聞院日記』によると「坂本の城に居る杉原は筑州無並仁也、近日以之外に狂云々」とあり、天下人となった秀吉の宿老であった家次が発狂したとの風聞が広がっていたと云い、約1年後の天正12年(1584年)9月に病死した。 加藤虎之助が激怒したために、杉原家次は発狂したんだな。 権平は、天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いで、福島正則、片桐且元らとともに格別の働きをして一番槍の巧名を顕したと賞され、賤ヶ岳の七本槍と称えられた。その功績によって河内国で3,000石の知行を与えられた。 【三】権平五千石
★大坂城下
▽おあい
越中野々市1万石の大名・土方雄久の娘。
土方氏は雄久の父の代から織田氏の家臣であり、雄久は織田信長とその次男の信雄に仕えた。
天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱で功を挙げ、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、信雄の命令で家老の岡田重孝を殺害した。これらの功績から、信雄より尾張国犬山に4万5,000石の所領を与えられた。
小田原征伐後に織田信雄が改易された後は、豊臣秀吉の家臣として仕え、1万石の所領を与えられた(後に2万4,000石まで加増)。 ▽平野長知
司馬さんは、平野長重〔>>922〕の下の弟を平野右京長治としているが、長治は元は船橋右京進と名乗っていた長泰兄弟の父である〔>>911〕。
平野長重の下の弟は、平野弥次右衛門長知は細川越中守忠利に仕えて5,000石。 ▽十三年たち
おそらく権平とおあいの結婚から13年経ったという意味だろう。この年におあいの父土方雄久〈かつひさ〉は、2万4,000石に加増された。
調べてみたが、結婚の年も不明なら、土方雄久の年も不明である。
したがって、現在の年の手がかりはない。 慶長元年(1596年)に土方雄久の長男雄氏が、父の越中野々市〔布市藩〕とは別に、伊勢菰野で1万石を貰っている。
司馬さんは、父が加増されたとは書いてなくて、実家が加増されたと書かれている。
したがって、【三】は慶長元年(1596年)から始まると考えてよい。 まあ、そうだな。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、3,000石の知行取りになった。
嫁を貰える収入になったから、即結婚するだろうな。
それから13年ということだ。 司馬さんは、土方雄久を〈たけひさ〉と読まれているが、土方雄久は織田信雄〈のぶかつ〉の家臣であったのだから〈かつひさ〉でよい。 ▽加藤清正
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下・主計頭に叙任する。
天正14年(1586年)からは秀吉の九州平定に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5,000石を与えられ隈本城に入り、天正19年(1591年)頃よりこれに大規模な改修を加えて熊本城とした。 清正は、多くの戦において後備として秀吉の周囲を守るか後方支援にあたっていた。
例えば、小牧・長久手の戦いの時に作成されたとみられる陣立書に記された加藤虎介の動員兵力はわずか150名であった。
当時の清正が秀吉から期待されていたのは、豊臣政権の財務官僚としての役割であった。 ▽福島正則
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられた(他の6人は3,000石)。
天正15年(1587年)の九州平定の後、伊予国今治11万3千余石を与えられた。
文禄4年(1595年)、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。 ▽加藤嘉明
天正13年(1585年)の四国攻めでは小早川隆景の与力となり、伊予国の平定に参加。天正14年(1586年)、その行賞で、嘉明は淡路国の津名・三原郡1万5,000石に封じられて大名となり、志知城主となった。
文禄4年(1595年)には伊予国正木(愛媛県松前町)で増封され、併せて6万石となった。
物語のこの時点では、6万石である。 慶長3年(1598年)4月、明の大軍が接近すると聞いた小西行長ら諸将は順天城より撤退することを主張したが、嘉明が1人これに強く反対し、秀吉の裁可を仰ぐことになった。秀吉は嘉明を激賞して行長を叱責し、5月、嘉明に3万7,000石を加増して10万石取りの大名とした。 ▽脇坂安治
天文23年(1554年)- 寛永3年(1626年)。
脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。
はじめ浅井長政に仕えたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てる。 小牧・長久手の戦いでは、伊勢国・伊賀国方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津国能勢郡に1万石を与えられた。8月に大和国高取で2万石、10月には淡路洲本で3万石を与えられた。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍した。
慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。 ▽片桐且元
近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として、弘治2年(1556年)に生まれた。
信濃源氏の名族である片桐氏は、伊那在郷の鎌倉御家人だったが、本流が片桐郷に残る一方で、支流は承久年間以降に美濃国・近江に進出した。
戦国大名化した浅井氏に仕えるようになったのは直貞の代からという。 文禄4年(1595年)、播磨国内などに5,800石を加増され、本知の4,200石と併せて1万石となった。この所領は播磨、摂津、伊勢に点在していた。 ▽糟屋武則
糟屋氏は、播磨国加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家で、戦国時代には別所氏の家臣であった。
武則は永禄5年(1562年)に播磨の志村某の子として生まれた。母は小寺政職の妹で、この女性は初め糟屋朝貞へ嫁ぎ、朝正を産んだ後に離縁して、播磨国人の志村氏と再嫁して武則を産んだ。
その後、この夫・志村某とは死別したので、武則を長男の朝正に託した。糟屋氏の当主となっていた朝正は異父弟の武則を養弟として養育したという。この恩から武則は志村姓を捨てて、糟屋を名乗るようになった。 糟谷朝正は三木合戦で討死したので、天正8年(1580年)に武則が家督を相続した。
文禄4年(1595年)に豊臣秀次が失脚すると、秀次が高野山に出発するまでの間、伏見の武則の屋敷に秀次を軟禁したという。
秀次事件の直後の同年8月には、かつての賤ヶ岳での戦功を追賞するとの名目で、播磨国内にて6,000石の加増を受け、加古川城主1万2,000石の大名となった。 膝立ちで、あるいは膝立ちであるかのような様子で、じりじりと近づいていく。この動作を「にじり寄る」という。
もともと「にじり寄る」という言葉があった。
茶室の狭い出入り口は、膝から入らないと入れないことから「にじり口」と呼ばれるようになった。 ★関ケ原
▽加藤清正
関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。
慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。
しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。
帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。享年50。 三男・忠広が跡を継いだが、寛永9年(1632年)、加藤家は改易となり、忠広は堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。
新たに肥後熊本54万石の領主となった細川忠利は、清正の霊位を先頭にかざして肥後に入部し、熊本城に入る際「あなたの城地をお預かりします」と言って浄池廟の方角に向かって遥拝し、清正を敬う態度を示した。 ▽福島正則
関ヶ原の戦いでは、西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。
元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。
将軍・徳川秀忠の上使として牧野忠成と花房正成が江戸芝愛宕下の正則の屋敷に派遣され、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けることとなった。 元和6年(1620年)に嫡男・忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。
寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。 ▽加藤嘉明
関ケ原戦後、その功績により10万石の加増となった。加藤嘉明と藤堂高虎は、ともに伊予で20万石の大名となって並び立った。
慶長8年(1603年)、嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、これを機に地名を松山と改名した。
元和5年(1619年)、福島正則が除封改易となったので、嘉明は正則の身柄を預かるとともに、広島城の接収役も務めた。 寛永4年(1627年)、会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで嘉明が会津藩へ移封され、同時に43万5,500石に加増され、本拠を若松城に移した。
寛永8年(1631年)、病を発し、9月12日に江戸の桜田第で死去した。享年69。 嘉明の死後、家督は嫡男の明成が継いだが、明成が暗愚なために家老・堀主水ら一党が出奔してそれを追討するという事件が起こって、私闘を禁じた江戸幕府の介入を招き、減封ののち嗣子を立てて家名存続との裁定となった。
しかし明成が、正室をはばかって子息はないと頑固に主張したため改易され、庶子の明友が近江水口藩2万石に封じられることで名跡が保たれた。 徳川政権下における平野長泰の出世が遅れたのは、舅である土方雄久の前歴が影響しているのではないかね。 慶長4年(1599年)に家康の暗殺を企てたとして改易され、大野治長とともに、その身柄を常陸国の佐竹義宣に預けられていますからね。 ★大坂の陣
▽平野長泰
慶長20年(1615年)の大坂の陣では、一転して旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走し、家康に直訴したが、許されずに江戸留守居役を命じられた。 ▽平野長勝
慶長8年(1603年)- 寛文8年(1668年)
平野長泰の長男。大和交代寄合表御衆・田原本第二代領主。
明暦2年(1656年)12月8日、将軍徳川家綱の命で長政を養子とした。
寛文8年(1668年)に66歳で没し、養子の長政が跡を継いだ。 ▽丹波守長祥〈ながあき〉
平野長政かもしれない。寛永19年(1642年)- 元禄13年(1700年)。
大和交代寄合表御衆田原本第三代領主。七沢清宗の長男。
明暦2年(1656年)12月8日、家綱の命で平野長勝の養子となる。寛文9年(1669年)3月13日に遺領を相続する。法名は休祥。 平野長政の官位は従五位下で丹波守。諱が長政で、法名は休祥。
三つ合体させれば、丹波守長祥になりますな。 「北斗の人」は後回しにして、「翔ぶが如く」を先にやります。 そうです。
本当は海音寺潮五郎の「西郷隆盛」をやりたいのですが、ここは司馬スレなので「翔ぶが如く」です。 次スレを立てないと、「翔ぶが如く」をやりたくてもやれないぞ。 僕は「北斗の人」を読み始めていたのですが、やらないんですか、そうなんですか(´・ω・`) 一般図書板で「翔ぶが如く」は一度やったんじゃないか? このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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